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| 長者ヶ原遺跡 (07/02/28撮影) |
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長者ヶ原遺跡は糸魚川市役所の裏にあり、姫川の河口から約3Kメートル離れ、標高90メートルの小高い山の頂上にある。
この小高い山を管理人の学生の頃は「美山」と呼んでいた。
その頂上付近に古代の遺跡が発掘され、それと同時にフォッサマグナミュージアム(石の博物館)を造って、一大観光地にしようと市で力を入れている。 |
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| 住居 (07/02/28撮影) |
住居 (07/02/28撮影) |
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奴奈川の郷と云われる所に近年多くの遺跡が発掘されその代表的な「寺地遺跡」や「田伏笛吹田遺跡」等から数多くの翡翠にからむ資料が出土されている。
そしてその多くの遺跡はほとんど海または川の近くであるのに比べ、ここ長者ヶ原遺跡は山の頂上である。
低いとはいえ、山の頂上で生活する縄文人の生活はどの様なものでしょう。
生活用水や翡翠(原石)の調達に河口まで3キロの道程と、標高90メートルの山の上まで運搬することを考えたとき、縄文人とはいえ生活の場としては首をひねりたくなる。
古来、糸魚川は「厭う川」と呼ばれ、奴奈川姫は「姫川」を渡るのを嫌ったと云う。
理由は「姫川」は当時年に何回か氾濫する「暴れ川」の異名を持つ河で、整備された現在でも時々大暴れしている河である。
このような場所に奴奈川郷の拠点を置くことは考えられない。
この美山台は立地的にみて、東に田伏玉造遺跡、西に大角地遺跡と橋立ひすい峡、南に小滝ひすい峡があり、奴奈川郷の三大主要拠点を守る為の見張り処とすれば、その程度の縄文人が居たかもしれない。
平安初期、弘仁五年(814)の『新撰姓氏録』には、「大和諸藩 糸井造 新羅人 天日桙命 之後也」と糸井造は大和の諸藩であったとあり、その糸井造が平安後期ころ沼川に進出。
一族の庄司の館が美山台地(後のドゥシャバ・ドゥシャハバと称する地)に造られた。当然道も整備され、生活物資の搬入がスムースに行けるよう現場は開拓されたと思われる。
彼らによって開田された一帯(かっては姫川のはんらん原であった現在の糸魚川市内)を一望できた。付近にはそのころの土師器や須恵器などが散乱していてこれを証している。
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| -にいがた歴史散歩- |
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このようなことから美山(長者ヶ原)には糸井造一族の庄治の館が造られて生活の場となり、土師器や須恵器などが出土していることを考えると遺跡は平安頃の物ではないかという疑問もでてくる。それに混じって縄文遺跡も出土したものと推測される。
当時の糸魚川は広大な氾濫原であったことを考えると、奴奈川郷の拠点などと考えるのは大きな間違いではないだろうか。 |
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| ◆ 次回はいよいよ”奴奈川の郷”に入り伝説に従って「八千矛神」が妻問(求婚)に訪れた「福来口」鍾乳洞や、万葉集にも歌われている”淳名河(ぬながわ)、そして奴奈川の郷に残る縄文遺跡・翡翠、などを紹介してゆきます。 |