◇第1回◇
終戦から引揚げまでの10ヶ月(北朝鮮引揚者の体験)
(第1部)
私は北朝鮮生まれで北朝鮮育ちである。
1945年(昭和20年)8月、私は北朝鮮の東部 (日本海側 ) の咸興というところ(咸鏡南道の
道庁所在地 【 朝鮮地図 】参照 )で終戦を迎えた。
当時小学校( 当時は国民学校と言った )5年生だった。家族は両親と小学2年生の弟、3歳の妹の5人家族である。父が役人をしていたので官舎に住んでいた。
8月15日正午、家で 終戦の玉音放送を聞いたが、雑音が多くてよく聞き取れなかった。仮に聞き取れたとしても難解な文語調の詔勅は理解できなかっただろう。しかし、日本が戦争に負けたことだけは分った。
◆[参照]⇒「終戦の詔勅(玉音放送)」(クリック)
2〜3日すると街の公会堂に、日の丸に変わって韓国の旗がひるがえった。(北朝鮮の旗ではない。現在の韓国の国旗である。韓国国旗の由来は知らないが、日本併合以前からあったものである)
8月20日過ぎには、ソ連軍が進駐してきた。私の家に隣接して 日本軍の憲兵隊駐屯地があったが、変って今度は、そこがソ連軍の施設となった。このためソ連兵(我々はロスケと呼んだ)が2〜3人、塀を乗り越えて土足で我が家に侵入して来るのである。
彼等は手首を指差して腕時計を出せ
という。また書く真似をするので、父が英語が分かるのかも知れないとペンとインクを差し出すと、
首を振り、胸ポケットを指差す、これは万年筆のことだった。
結局我が家の腕時計、万年筆は全部取られてしまった。
当時ソ連では、腕時計等は相当な貴重品だったことがうかがえる。
日本軍の服装もあまり清潔とはいえなかったが、ソ連の兵士はそれ以下だった。失礼な言い方だが、不潔な感じさえした。
家の中に、もう欲しい物が無くなると庭の畑のトマトを盗んだりしていた。
ある日、例の如くソ連兵が上がりこんで来て箪笥の中を物色していて、赤十字章を見つけ出した。(丁度勲章のような形をしている。赤十字社に寄付した時に もらったものだと父は言っていた) これを見てソ連兵は血相を変えて出て行った。
日本の高官と思い違いをしたらしい、あとで問題になると思ったのかもしれない。
それまで毎日のように来ていたのが、これを契機に来なくなったのである。
慌てたのは私達である。
ここに居ては危ない、ということで、とにかく知り合いの日本人の雑貨屋の一室を借りて引っ越すことになった。狭い女中部屋のようなところに、一家5人が雑魚寝した。8月末か9月初め頃だったと思う。
その頃になると公会堂等の公共施設にはスターリンの大きな肖像画が掲げられた。丁度映画館の宣伝看板のようなものだが、その前をソ連兵達が敬礼をしながら通るのをよく見かけた。
偶像崇拝もいいところだ。
この頃からロスケ達の悪さが始まった。いわゆる略奪、強姦のたぐいである。
日本人の姉妹がロスケに襲われ、逃げるところを 後ろから自動小銃で射殺された等というような話は、日常茶飯事であった。
女性達は断髪し、男装して難を逃れようとしたが、胸のふくらみはどうしようもなかったようである。
街角では、現地朝鮮人がロスケ達に、日本人女性と朝鮮人との見分け方を教えている風景もみられた。やるなら、あんな女をやれと指差しているのである。ロスケの「マダム ダワイ」(女を出せの意味)と
いう言葉は今でも覚えている。
当時、最も悲惨だったのは、終戦直前に参戦したソ連軍の戦火を逃れて来たもっと北の方( 清津方面あたり )からの日本人難民達であり、本当に哀れだった。
戦前、役所や会社で要職にあった朝鮮人達は、隠れるようにしてひっそりと暮らしていたに違いない。
戦後間もなく現地朝鮮人の中に保安隊なる組織ができた。
警察に代わる組織だが 治安維持には全く無力だった。特に日本人に対しては。
日本共産党人民委員会なるものができたが、そこへ駆け込んでも何の役にも立たなかった。
私達は少しでもいい住環境を求めて、数回 家を転々とした。
衣類等を朝鮮人に売ったりして何とか食いつないでいった。
お金は、まだ戦前のもの( 日本銀行券、朝鮮銀行券 )が通用していたが、その外にソ連軍が発行した軍票が大量に出回っていた。
少し寒くなると発疹チフスがはやった。
我が家でも父を除いて全員がチフスにかかったが、医者はいない。高熱が出たが、大事には至らなかった。
街では、足取りもおぼつかない日本人が、担架で死体を運んでいる情景も何度か見た。
多分、栄養失調か伝染病で死んでいったのだろうが、一体どこに葬ろうというのだろうか。
ある日、保安隊(前述)から、日本人成年男子は某所に集まれという指示がでた。
当時日本人男性は全員去勢されるとか、女性はソ連軍に連れていかれる等というデマが飛んでいたので、私達は父が無事に帰れるだろうかと心配した。
本人達も トラックで辺ぴなところへ運ばれる途中は、事情が分からないので、殺されるのではないかと心配したそうである。
しかし、父は 当日 夜遅くなって帰ってきた。
聞いてみると墓堀りをさせられたとのこと。プール位の穴を掘る仕事で、凍りついた土地であるため、
大変な作業だったそうだ。
行き倒れになった日本人を埋葬するためのものと思われる。
父はソ連軍に使役(今の言葉で言えばアルバイト)に行ったこともあった。
報酬は一日働いて
一抱えの凍りついたじゃが芋である。凍ったじゃが芋ほどおいしくないものはないが、当時は貴重な
食料だった。
こんなことも書いておこう。
教会で修道女の姿をしたドイツ人女性達が診療所を開いていた。
ドイツも敗戦国だが、日本人に対するほど風当たりは強くなかった。日本人が かかれる唯一の医療機関であり、患者の大半が日本人だった。
私も背中に腫瘍(単なるおでき)ができたので、数回寒い雪道を通ったことがある。
献身的な姿が今でも思い出される。
彼女達はその後無事に故国( 西ドイツor 東ドイツ? )に帰れただろうか。
とにかく我々は一刻も早く内地(日本本国のことを そう言っていた)に帰りたかったが、その手段が
なかった。
ある時、闇船があるというので、あり金をはたいてそれを利用することになった。
集合場所になっている漁民の家に行くと日本人が約30人位集まっている。
漁船の中では、( これは密航だから )海岸を離れるまで全員船底に隠れるように指示された。
ところが20分も経たないうちに、保安隊(前述)に見つかったので引き返すということになった。彼等の初めからの策略に まんまとひっかかり、大金を騙し取られてしまったのである。
住家を引き払っていたので、住む場所も探さねばならなかった。ようやく、かっての或る会社の独身寮の一室を確保することができた。
しかし、六畳一間に親子5人が寝起きするには、あまりにも狭く、厳しい寒さの中で不自由な生活をしながら帰国の機会を待つことになった。(2001.03.05)
(以下第2部へつづく)