◇ これまでの云 い た い 放 題 ………◇ これまでの云 い た い 放 題 ………◇ これまでの云 い た い 放 題 ………
【2001/03/20】



◇第2回◇
終戦から引揚げまでの10ヶ月(北朝鮮引揚者の体験)
参照 ⇒ 【 朝鮮地図 】
(第2部)

 5月下旬頃、ようやく待ちに待った引き揚げ列車が出ることになった。
 私達は大きなリュックサックにできるだけ多くの物を詰めた。
リュックサックは、母がこの日のために手縫いで準備していたもので、およそリュックとは言えないくらい大きくて頑丈な代物だった。
 リュックサックの中身は、主に大量の食料と衣類である。食料は米、こうりゃん ( 当時満州で大量に栽培されていたきびの一種 ) それに炒り米 ( 非常食用に米を炒ったもの ) 等である。衣類は、あとで物々交換に役立つことになる。
 妹を除いて4人が、夫々リュックを背負った。大きくて重かった印象が今でも残っているが、特に父のリュックには、食料を詰めたので非常に重いものになった。
 現金や写真のたぐいは、一切 持ち帰ることを禁じられた。したがって、私は昔の写真はほとんど持っていない、僅かに戦前に内地の実家に送っていたものが何枚かあるだけだ。
しかし、お金がなくては道中どうにもならないので、紙幣を衣類に縫いつける等工夫して 隠し持ち帰るようにした。

 列車といっても貨車であり、ござ等を敷いて座ったり横になったりした。列車は発車したが、順調に走ったわけではない。スピードは遅いし、各駅に止り 停車時間が長いのである。

 やっと元山という駅に着いた。(元山⇒【朝鮮地図】参照
ところがまた、例によって列車は止ってしまい、とうとう引込み線に入ってしまった。いつ動くか分からないという。

 元山は、かって父が勤務したことがある土地で、知合いも多い。両親は知人に会うため「すぐに戻ってくるから」と言って、私達子供3人を残して出かけた。
 ところがものの30分も経たないうちに、列車が出発するという。
このままでは、私達は両親に はぐれてしまう。今までの長い人生の中でこれほど困ったことはない。
このまま子供たち3人だけで帰るか、しかし帰ることができるだろうか、それとも ここで降りて 両親と共に この地に留まることにするか。
迷った末、私は一大決心をして、荷物をまとめて幼い弟妹を連れて列車から降りることにした。
私達は親が帰って来るであろう道に向かって歩いた。 あまり歩き廻るとお互いにはぐれるので、列車から2〜300メートル離れた道路の分岐点付近で待つことにした。
どれ位待っただろうか、その時は 早く早くという気持ちが先に立って今でも思い出せない。( 5分か多分30分は経っていない )
見えた! 両親がこちらに向かって歩いて来るのが。泣きながら「もう汽車が出るよ、早く 早く」と 叫びながら親に駆け寄った。
聞いてみると 訪ねる相手は居なかったそうで、子供たちが心配なので急いで帰ってきたということだった。
 辛うじて発車時刻に間に合い、事なきを得たが、今でも思い出すと ″ぞっとする出来事″だった。まかり間違えば、中国残留孤児ならぬ北朝鮮残留孤児になりかねないところだったのだから…。

 しかしその後も、列車は遅々として進まなかった。各駅での停車時間が、更に長くなってきたのである。
発車の条件として、我々に何か要求をつきつけ、我々の代表が話しをつけながら なんとか切りぬけてきたようである。
ある時、こんな話を聞いたことがある。女を出さないと発車させない…と。玄人の女が犠牲になったという話を聞いた。(勿論、当時少年である私に、玄人の女の意味は分からなかった)
 こんな事を繰り返しながら、ある所で、とうとう列車は動かなくなってしまった。

 この後、全員 貨車から降りて、38度線に向かって集団で歩いて南下することになる。
 この場所が朝鮮半島のどの辺に当たるのか、少年の私には見当もつかなかった。(2001.03.20)

(以下第3部につづく)