◇ これまでの云 い た い 放 題 ………◇ これまでの云 い た い 放 題 ………◇ これまでの云 い た い 放 題 ………
【2001/04/01】



◇第3回◇
終戦から引揚げまでの10ヶ月(北朝鮮引揚者の体験)

(第3部)

 我々は 夜明け前、まだ暗いうちに全員貨車から降りて歩くことになった。
この先、どれ位( 或いは、何日間位 )歩かねばならないのか、少年の私には見当もつかなかった。

 総勢200人前後の集団だったと思う。
ほとんど畦道状の小道や平原を歩き、大きな道路らしい道を歩いた記憶はない。これは恐らく その方が安全だとリーダーが 判断したためだろう。
みすぼらしい格好で、それぞれ大きな荷物を背負って歩いている姿は、まさに乞食の集団移動である。

 昼間歩き、夜は野宿である。特に父は、大きなリュックの上に幼い妹( 当時4歳 )を載せたりしたので相当重かったと思う。
夕方になると野宿場所をさがし、適当な石でかまどを作り、雑木林から枯れ枝を集め、夕食の準備にかかる。今で言えばキャンプのようなもので、子供にとっては結構楽しかったような気もする。
 しかし、食べ物は僅かな米、大豆、こうりゃん等を飯盒(はんごう)で炊いたが、まずくて量も少なく、ようやく飢えをしのぐ程度である。
夜は、夜露を避けるため、できるだけ木陰の平らな地面に ござや大風呂敷様のものを敷いて寝るのだが、夜露を避けることはできず 辛かった。

 途中で雨が降れば最寄の部落に急ぎ、農家の軒先を借りて雨宿りをする。
雨がやまず、そのまま軒先で一夜を過ごしたこともあった。軒先では横になることもできず、一睡もできなかった。( なぜ家の中に入れて貰えなかったのか、それは僅か数軒しかない部落で、こちらは200人前後の集団だから、物理的にも不可能だったのである )

 こんな事もあった。
小雨の中、野宿もできず、雨宿りの場所も見つからなかったため、已むなく雨に濡れながら、夜を徹して歩いたことがあった。
或るお母さんが背中におんぶしている赤ちゃんが、えらく重くなったなと感じながら歩いていたところ、朝になって、赤ちゃんが死んでいたのに気付いた。
その辺の草むらに、穴を掘って埋めて行くしかなかった。

 大きな部落を通る時は止められ、所持品検査をされた。リュックサックの中身を全部出して調べられる。
そこでは、持ち帰ることができないとされたお金や貴重品は、全て取り上げられる。
 或る人は、紙幣を骨箱の底に 遺骨と一緒に入れていたが、連中( 多分保安隊と称する人 )は 骨箱をひっくり返し、お金を取りあげた。
子供心にも、何も骨箱までひっくり返さなくてよいのに、ひどいことをするものだと思った。
 とにかく、所持品検査と称して 欲しいものは何でも略奪できるような状況にあったので、今度は何を取られるのかと、我々は戦々恐々としていた。
所持品検査が終わった時は ほっとした。

 こんなことを繰り返しながら 何日間歩いただろうか、女、子供連れの集団だから早くは歩けない、定かな記憶はないが、10日以上は歩いたような気がする。
 そうしてようやく38度線に辿り着いた。( 1946年の6月10日過ぎ頃だったと思う )
目の前に川が流れている。それほど大きな川ではない、 川幅は せいぜい150メートル位のものだったと思う。
 対岸に、米軍のジープが数台見えた。
この川を渡れば、もう大丈夫だ。
 この時の安堵と感激は今でも覚えている。(2001.04.01)

 (以下第4部につづく)