◇第4回◇
終戦から引揚げまでの10ヶ月(北朝鮮引揚者の体験)
(第4部)
いよいよ川を渡ることになった。舟で渡るのだが、一度にせいぜい15〜6人位しか乗れない 小さな手漕ぎの渡し舟が1艘あるだけで、何回も往復した。
この頃までは、まだ舟賃さへ払えば自由に川(即ち38度線)を往来できたようだ。
舟から降りると、そこは もう米軍管轄の南朝鮮であり、すでに米軍が待機していた。
我々はDDT(殺虫剤)を頭から振りかけられた。
そこから最寄の駅まで歩き 汽車に乗るのだが、そのまま日本へ帰れる訳ではなく、或る地点 (議政府…京城〈ソウル〉と38度線の中間位に位置する 【 朝鮮地図 】参照 ) で、伝染病の潜伏期間(約1週間)待機させられることになる。
 朝鮮の「チゲ」(背負子) |
しかし、もうここまで来れば米軍が保護してくれるのだから、不安はなかった。
駅までは若干距離があったが、老人や病人は米軍がジープで運んでくれた。
現地朝鮮人のポーター( 背中に物を載せる朝鮮独特の器具を背負っている。「チゲ」と呼んでいた⇒右挿絵参照 )も居て、お金を払えば重い荷物も運んでくれた。
とにかく38度線を越えれば…、と思って来たのだが 期待通りだった。
北と南では様相が一変した。
先ず、略奪等を欲しいままにしたソ連兵と我々を保護してくれる米軍の違いである。
また、駐留軍の違いが現地朝鮮人に大きな影響を与えていることであった。北は治安も悪く、前述したように、保安隊の所持品検査と称して朝鮮人から略奪されることも多かったが、南では治安は保たれていたし、同じ人間として接してくれるし、お金を払えば、それなりのことはしてくれる。中にはやさしい言葉のひとつも掛けてくれる人も居た。
駅から汽車に乗って議政府に向かったが、今度は貨車ではなくて客車だった。やっと人間として取り扱ってもらえたのである。
議政府の駅からしばらく歩き、米軍が用意したキャンプ地に着いたら、そこには既に軍用テントがいくつも準備されていた。
ここで しばらくテント生活を送ることになる。
その日は間もなく日も暮れてきたし、疲れてもいたので 取り敢えず米軍から支給された缶詰を食べて、テントにもぐり込んだ。
翌日は 皆それぞれが 生活し易いように 身の回りの整理や環境整備を行った。
まず 困ったのがトイレが無いことである。
早速大人達が、米兵からスコップ等を借りて便所作りを始めた。
便所といっても幅30センチ、長さ10メートル位の溝を2〜3本堀り、一度に何人も用を足せる仕組みを作るのだが、しゃがんだ姿を人から見られるのは、なんとしても恥ずかしかった。
食事は全て米軍が缶詰を支給してくれた。副食物としては肉や魚等立派なものが多いが、困ったのは主食が無いことである。
最初のうちは珍しさも手伝っておいしく食べたが、毎日缶詰ばかりには 辟易した。結局、グリンピースの缶詰を主食代わりにした。
雨が降った時は テントの中の敷物に水が沁みこんできて、特に夜は居心地が悪かった。
このように テント生活は決して楽なものではなかったが、皆には笑顔が戻っていた。
私は 好奇心も手伝って、敷地内を歩き廻ったり、米兵を観察したりして毎日を過ごしたが、大人達はテントの中で横になったり起きたりで、さぞ退屈だったと思う。
先に、ソ連兵は服装も粗末だと言ったが、対照的にアメリカ兵は、ズボンの折り目もきちんとついて 大変清潔にみえたし、何よりもおおらかだった。
大人達が二世の兵隊達と世間話をしている風景も見られた。「私は○○県出身の二世ですが、あなたは?」等と流暢な日本語で話しているのは、子供心にも微笑ましく思えたし、また米軍の豊かさを見て、日本は こいつらと戦ったのか等とも思った。
長く感じられたキャンプ生活約一週間もやっと終わりを迎えることになり、最後の日は外泊が許された。
私達一家は、議政府の町に出て小さな旅館を見つけ、1泊することにした。
久し振りに家の中で寝ることができた。( 食事は出なかったように思う。やはり米軍支給の缶詰を食べた記憶しかない ) 翌朝、母が衣類の縫い目をほどいて、隠していたお金を取り出し、旅館の主人に払っていたような気がする。
いよいよ、日本へ帰る日がきた。私達は足どりも軽く旅館から議政府駅まで歩き、汽車で仁川(【 朝鮮地図 】参照 )に向かった。
仁川駅から仁川港まで歩いたが、途中何とも言えないパンの匂いがしてきた。米軍のパン工場からのものだった。パンの香りがこんなに美味しいものと思ったことはない。( もっとも、こちらは、まともな物は食べていないのだから無理もない )
仁川港に着いた。船尾に日章旗を掲げた船が停泊している。
久し振りに見る日の丸だ。涙が出た。皆そうだったに違いない。これは体験した者でないと分からない。
とにかく、あの船に乗りさえすれば、もう日本である。日本の主権が及ぶ、日本の法律が適用される。( 勿論当時少年である私に、そんな難しいことは分からないにしても、そのように感じたのは事実 )
船は出港し、朝鮮半島西岸沿いに順調に博多港に向かった。
途中死亡者が出た。栄養失調で病気になり、故国を目前にして亡くなった本人は、さぞ無念だったろう。
船内で ささやかな葬儀が行われた。遺体は 日の丸の旗に包まれ、錘が付けられ、船尾から海に投下されて海中深く沈んでいった。その周りを、船が汽笛を鳴らしながら一周するのである。
いわゆる水葬である。間近かで見ると何とも言いようのない気持になるものだ。
船内では、船員達が慰安会を催してくれた。船員が歌ってくれた「サーカスの歌」は今でも心に残っている。
船はいよいよ日本に近づく。壱岐対馬をはじめ、島々は緑に覆われ、日本は何ときれいな国だろうと再認識した。
博多港に入港し、簡単な検疫を済ませて上陸した。
博多では学生援護会という腕章をつけた大学生達が世話をしてくれていた。今で言えば、ボランテイアというところだろう。
その日の夜、やっと福岡県O市の実家に帰り着くことが出来た。1946年(昭和21年)6月22日のことだった。
(あとがき)
終戦当時11歳の少年が、半世紀以上経過した今日、曖昧な記憶だけを頼りに書いたため、当時の状況が十分描写できたとは思っていない。例えば、引き揚げてくる途中、どんな食事をしていたか等は 全く覚えていない。
私は 親の庇護のもとにあったのだが、当時の大人達は もっともっと苦労を味わったに違いない。
一家揃って帰れた私達は、幸運だったのかもしれない。
私達
の知人で、父親はソ連に抑留され、その間に母親は病死し、子供たち姉妹2人だけで帰り、父親は2年後に帰ってきた、このような気の毒なケースは沢山ある。
戦争で戦闘員が死傷するのは仕方がないとしても、それに巻き込まれる民間人(特に婦女子)は まことに悲惨である。
それにもかかわらず、その後も朝鮮戦争、ベトナム戦争と同じことが繰り返され、東西冷戦が終わっても、今度は湾岸戦争や民族紛争等々で、その都度難民が発生している。
私はこれら難民の苦渋は痛いほどよく分かる。人類が如何に愚かであるかを証明しているようなものだ。
私はこの体験を通して、国というものを考えることができた。
治安が悪く、半ば無政府状態の中に
置かれた時の状況、特に仁川港で日本の船が掲げていた日章旗を見た時の感激、これは体験した者でないと分からない。
日本国の主権が及んでこそ 我々の生命財産が守られるのである。
いまだに、日の丸の国旗や国歌に異論を唱える人が居るのは、どうしても理解できない。
日本は島国で外国から侵略を受けたり、異民族に支配されたことはないが、諸外国では、アメリカあたりは別として、多かれ少なかれ侵略、支配、被支配の歴史をもっている。
今、日本人ほど 国に対する帰属意識が薄い民族は少ないのではないか。
次に当時のアメリカとソ連に関してである。
終戦当時のソ連兵の状況については既に述べた通りである。一説によると坊主頭の兵隊は、囚人を動員したものだとのことだが、そう言えば坊主頭の兵隊が多かったので、これをもって ソ連兵全体を評価する訳にはいかないのかもしれない。
しかし、当時、ソ連はドイツとの戦いで相当疲弊していたことは事実であり、それがモラルの低下に繋がっていたと思われる。
それに比べてアメリカは、大変豊かな国だという印象をうけた。
我々が 議政府でのキャンプ生活で アメリカ兵と接した時のことは、すでに述べた通りだが、更に付け加えるならば、大変人道的な国だという感じを受けた。それだけの国力があったから できるのかもしれないが、それにしても やはりロシア人とは、国民性が かなり違うように感じた。(おわり)(2001.04.15)
(追記)
これを書いている時、朝日新聞(4月10日夕刊)に次のような記事が掲載された。
見出しは、『
記憶たどる同窓会 敗戦とともに消えた北朝鮮の「母校」(日本人学校「咸興小」) 56年ぶり熊本で再会、教え子捜し、努力実る』 というものである。
内容は、当時の咸興公立国民学校の教師をしていた村上清さん(85歳-神奈川県松田町)が、同校の年次別名簿作成にとりかかったのが契機となり、1945年(昭和20年)卒業生約250人のうち、40人が、10日熊本市で同窓会を開くというもの。
村上さんの名簿作成の動機は「母校の名も書類も残っていない。そこに こんな子らが いたという事実を、記録にとどめるべきだと思った」と言う。
更に記事の一部を引用すると 「北朝鮮からの引き揚げ体験は、当時12、13才の子供には重すぎた。
8月15日をはさんで朝鮮人と立場が逆転。収容生活 (私には収容生活の記憶はない) では、寒さとチフスで多数が死んだ。正式な引き揚げ事業がないまま、多くの人が、翌春 ソ連の警備兵に隠れて、徒歩で38度線を南へ越えるか、やみ船で脱出。その悲惨な記憶を、戦後、封じ込めてきた…」
同窓会のまとめ役の熊本市の温(旧姓福田)容子さん(68才)は「亡くなった人を集めて材木のように山に捨てていた。あの咸興から、級友が それぞれどうやって生きて帰ったのか、語り明かしたい」という。
( 更に記事は続く ) 切ない再会でもある。1学級に数人は現地で命を落としたとみられる。
引き揚げ途上でついて行けず、残留した人は消息が知れない。日本で居所が判明しても、「そっとしておいて」と連絡を拒む人もいた…云々。
この記事は、私の体験とほぼ一致するが、この記事を読むと、私のホームページの体験記より、実際には もっと悲惨だったのかもしれない。(おわり)(2001.04.15)
次回は〔第5回〕
「老人は経済的弱者か」(2001.05.01)