◇第158回◇
安倍首相訪印と二人の人物
安倍首相は、去る8月19〜25日にかけて インドネシア、インド、マレーシアの3カ国を訪問、首脳外交を展開した。
特にインドでは、23日に コルカタ(カルカッタ)を訪問して、ラダ・ビノード・パール氏(1886〜1967)の長男と面談したこと、スバス・チャンドラ・ボース氏(1897〜1945)の記念館を訪れたことが 私の興味を惹いた。
パール氏は、極東軍事裁判(東京裁判 1946-1948)で 戦犯被告全員の無罪を主張した唯一人の判事として有名である。
パール判事の論旨は、概ね次のようなものである。
東京裁判で適用せんとする極東国際軍事裁判所憲章「平和に対する罪」「人道に対する罪」は事後法であり、国際法上、これをもって日本を有罪とする根拠には なし得ないというものである。 (ある行為を罰するため、あとで法を作り 処罰する事は許されないということ)
言い換えると、東京裁判は、刑法の基本原則である罪刑法定主義(何人も 法に定められた犯罪、刑罰に触れない限り 裁かれることはないという大原則)を完全に否定したもので、近代法治社会では到底認められないことだ。
パール氏は、判決の方向が 予め決められており、この裁判は茶番劇であるとまで述べている。
また、この裁判が 最初から日本を侵略国と決めつけていることに疑義を示し、裁判自体が連合国側の政治目的を達成するために設置されたものと断じている。侵略行為に関しては、かつて欧米諸国が アジア諸国に対して行った行為(植民地化)こそ、まさに侵略そのものであるとも述べている。
パール判事は、戦争に於ける各国(含日本)の残虐行為を痛烈に批判する等 絶対的な平和思想の持ち主だったと言われている。
トルーマン米大統領による広島・長崎への原爆投下は、非戦闘員に対する大量殺戮だと述べ、これこそ ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)に比肩すべき残虐行為であり、人道の名において裁かれるべきだと言っている。
パール判事は、次のようなことも語っている。
「戦争は片方だけでは出来ない。東条英機を裁くのだったら、スターリンやルーズベルトも一緒に裁くべきだ」
「世界の歴史の中で 勝った国が負けた国を一方的に裁いたことはない」「ナポレオンですら島流しだけで殺されなかった。勝った方が一方的に負けた国の責任者を死刑にすることは 正しくない」
「戦争そのものが犯罪であるとしても、その戦争の原因は 両方にあるはずだ」…etc
 [ パール判事 ]
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パール氏は、中立、公正を旨とし、優れた法学者としての理念を貫いた立派な人物だと思う。
彼は法律家としての国際的な評価も高い。
例えば、1952年 国連国際法委員会委員、1957年 国連常設仲裁裁判所判事に就任。
1960年には インド最高の栄誉であるPADHMA-RRI勲章を受章、1966年来日の際には、昭和天皇から勳一等瑞宝章を授与されている。
1952年 広島平和記念公園を訪れたパール氏が、慰霊碑に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」という碑文を見て、「“過ちは”の主語はアメリカ人であるべき、原爆を落としたのは日本人ではない。落としたアメリカ人の手は、まだ清められていない」と発言した逸話が残っている。私も全く同感だ。
この発言に対し、碑文を書いた広島大学の某教授は、パール氏に抗議文を送ったというが、実に愚かなことだ。独りよがりの平和主義、平和ボケもいいところだ。
今時、チャンドラ・ボースと言っても、その名を知っている人は ほとんど居ないだろう。
チャンドラ・ボース氏は、インド反英独立運動の指導者・革命家である。
戦時中、チャンドラ・ボース氏が来日した時(昭和18年)、日本政府や国民から大歓迎を受けている様子が ニュース映画で上映されていたのを 今でもよく覚えている。
チャンドラ・ボース氏は、カルカッタ市長等を歴任していたが、第二次大戦勃発とともに インド独立を目指して密かに出国、ソ連に向かったが協力を得られず、ドイツに行った(昭和16年)。英国植民地からの独立を目指す彼は、ドイツの対英戦争を支持し、インド人から成るインド旅団(兵力3個大隊、約2,000人)を結成し、反英独立の立場から ドイツに協力した。当時のチャンドラ・ボース氏のベルリンからの反英ラジオ放送は有名である。
しかし、ドイツでは、彼の目的が達せられないため、日本へ協力を求めてきた。日本政府は ドイツに 彼の日本への移送を要請して、独日両潜水艦を乗り継いで日本への入国を果たした(昭和18年)。
東京では、以前から日本を拠点に活動していたインド独立運動家達と合流し、当時日本の統治下にあったシンガポール(当時は昭南島と称した)で 「自由インド仮政府」を樹立、首班に就任した。
また、インド国民軍の最高司令官にも就任していた。このインド国民軍は 日本軍のインパール作戦(昭和19年)にも参加している。
チャンドラ・ボース氏は、日本政府主催の大東亜会議にも出席している。(大東亜会議⇒昭和18年11月、東京で 当時日本の影響下にあったアジア諸国の国政最高責任者を招請して行われた会議。ここで大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜宣言が採択された)
当時の首相 東條英機氏は チャンドラ・ボース氏を高く評価し、彼とは度々会談していたという。日本が提唱する大東亜共栄圏構想には チャンドラ・ボース氏の東亜解放思想が不可欠と考えていたからだと言われている。
 [ 杉並区蓮光寺の ボースの胸像 ] |
日本敗戦直後の昭和20年8月、チャンドラ・ボース氏は、台湾経由でソ連への潜入を試み、サイゴンを飛び立ったが、台湾の松山飛行場で 大連に向け 離陸直後の飛行機事故により 死亡している。
彼の遺骨は、東京杉並区の蓮光寺に安置されており、胸像も建立されている(左写真)。インドのプラサド大統領、ネール首相、ガンジー首相も この寺を訪問しているという。
 [ 国民軍の兵士を 閲兵する チャンドラ・ボースの記念切手 ]
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インドの国会議事堂の正面にチャンドラ・ボースの肖像画が掲げられており、右側にはインド独立の父と言われるマハトマ・ガンジーの肖像画が、左側にはインド初代首相ジャワハルラール・ネールの肖像画が掲げられているという。
チャンドラ・ボース氏は、独立運動に一生を捧げた不屈の闘士として、インドでは 今なお非常に高い評価を受けている。右は、1993年に発行されたインド国民軍50年の記念切手で、国民軍兵士を閲兵するチャンドラ・ボースが描かれている。
日本の総理大臣が、インドのコルカタを訪れ、我が国と 深い関わりがあったインドの二人の偉人のルーツを訪ねたことは、意義深いことだと思う。奇しくも 今年は インド独立60年目に当たる。
(2007.09.15)
次回は(第159回)
「わずか1年で終わった安倍首相の評価」(2007.10.01)
【出来事】
- 9月3日 遠藤武彦農水相が辞任(自らが組合長を務めていた農業共済組合の補助金不正受給問題で引責辞任) 後任農水相には若林正俊氏が就任
- 同 上 坂本由紀子外務政務官が辞任(自らが支部長を務める自民党支部の政治活動費多重計上問題で引責辞任)
- 9月5〜6日 APEC(アジア太平洋経済協力会議)閣僚会議 於オーストラリア・シドニー(甘利経済産業相 町村外相が出席)
- 9月5〜6日 日朝の国交正常化作業部会 於モンゴル ウランバートル
- 9月7日未明 台風9号が神奈川県小田原市付近に上陸 関東 東北地方を縦断
- 9月8〜9日 APEC首脳会議 於オーストラリア・シドニー
- 9月9日 大相撲秋場所初日(両国国技館)
- 9月10日 第168臨時国会召集(会期11月10日までの62日間)
- 9月12日 安倍首相が辞任を表明
- 9月13日 安倍首相 慶応大学病院に入院
- 9月14日 月探査衛星「かぐや(セレーネ)」をH2Aロケット13号機で打上げ成功 於種子島宇宙センター(三菱重工業)
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