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少年Aの散歩
⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。 文 日記 mail bbs chat 詩 mixi 絵 ⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。 ※メールマガジン「( ・∀・)ノ<たまにはメールくれよ」配信希望の方は↑の「mail」から「メルマガくれ」と送信してください。メアドお忘れなく。 2009/11/08 化粧というのは僕にとって永遠のテーマの一つなので懲りなくまた考える。 出発点として「僕はすっぴんが好きである」があって、僕の思考はそこから出発し再びそこへ戻ってくるように働いていく。前提と結論がまず最初にあって、その間を埋めるために思考があるという、ひたすらに恣意的な考え方である。要は「好きなものを好きだと言うための正当性をどうにかして確保したい」であって、島本和彦先生ふうに言うならば「こじつけでもつじつまがあえばそれにこしたことはない」(『逆境ナイン』)。つまり好きなものを好きだと胸を張って言うために僕はこじつけを積み重ねていくのだ。そんな卑怯なやり口を「思考」などという大仰な言葉で表し、「僕は正しい」ということを必死になって言おうとしているのだから、僕が化粧について語るときあらかた全ての女の子が嫌そうな顔をするのは当然のことだと言っていいだろう。好みの押しつけでしかないのだから。そういうことを一応踏まえた上であえて言うと僕は化粧が基本的に嫌いである。 現代日本の女性の多くが日常的にしている化粧は、大正期以降に広まったらしい西洋的な化粧である。「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」である。わりと僕は日本人らしい顔が好きなので、そういった化粧は好きではない。日本人が「化粧した白人の顔」に近づこうとする理由がまったくわからない。(そんなに白人が好きだったら白粉でも塗ってりゃいい。) 日本的な化粧と言えば白粉とかお歯黒とかになるようだが、僕はそういった姿に性的な興味を持たないので、これは却下である。 そういうわけで消去法的に「何もしない」がいいと思うのである。 もうちょっとマジメな話をするか。 白粉やお歯黒というのは、完全に平等な化粧である。誰がしても同じ顔になるのである。現代で言えばガングロとか、キャバ嬢系(age嬢系)の化粧も同じように平等色が強い。だから彼女たちは革新的のように見えて実は復古的なのかもしれない。顔の均整が取れていない、または白人的でない顔立ちをしている人がそういった平等的な化粧をする人の中には多いように感じる。「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」は、ある程度均整が取れていて「頑張れば化粧した白人の顔に近づけなくもない」人が好んでする傾向にあるのではなかろうか(と勝手に思う)。ただ平等的な化粧(白粉とかガングロとか)というのは現代の個人主義的社会ではとても目立つし、かといってすっぴんも逆に目立つ場合があるから、「目立ちたくないな」と思っている人はどちらかといえば「化粧した白人の顔に近づけるための化粧」の類を無難に施すのであろう。面白いことに、個人主義的な化粧がむしろ没個性で、平等的な化粧のほうがより個性的であるという逆転が現代日本では起こっているらしいのである。これはどれだけ日本がアメリカ的なものに侵されているかという証明であろう。 近世まで、いや近代の初めまでどうやら日本の女性たちは化粧といえば平等的な化粧をしていたらしい。この「平等」は「みんな違ってみんないい」ではない。まったく逆である。日本人は、「人間に個性を一切認めていない」のだ。それは古代から化粧や髪や衣服に現れていた。「平安人は髪が長いのが美人の必要条件だった」とか「着物や匂いなどが美しさの基準だった」なんてよく言われるが、これは日本の美が人間の中にはなく、自然の中にあるものだと考えられていたからだ。「人間の顔」などという個人的なものの中には美も醜もない。髪や着物や匂いという、人間の外側にあるものにこそ美しさがあると考えられていたのだ。だから、顔に個性なんて必要ない。白粉を塗りお歯黒をして眉を抜いて髪を伸ばし、画一的な顔になればこそ、着物や薫物が引き立ったのである。 それはもちろん「八百万の神」なんて考え方にも繋がっている。繋がっているというか、おそらくはそこからきている。日本人の考え方は「人間は自然の一部」であり、「森羅万象すべてに神が宿っている」なのであって、「人間の顔」などというものに神秘性も美しさもない。だからみんな同じ顔をしていても平気だったのだ。浮世絵までの日本画の顔に個性なんつうもんが一切見られないのはそういうことである。 「日本は共産主義だ」という言葉は、そういうところまで考えないと間違った理解を生む。日本はけっしてソ連的な共産主義に侵されてしまった国ではないし、アメリカ的な意味での平等を尊重しているわけでもない。まったく別の「平等」観念をそもそも持っている国なのである。つまり、「すべての人間の個性は尊重されるべきだ」ではなく、まったくその逆で、「人間に個性など一切ない」なのである。 もしかしたら、今白粉やお歯黒を復活させたらば日本人はもっと自然に対して敬虔になれるかもしれない。かつてそうであったように、自己の内面ばかりに目を向けるのではなく、自分の外側にある花や鳥や風や月を愛で、自らをとりまく環境なるものをより大切に思うことができるようになるかもしれない。 日本の化粧は、「個性を完全に殺す」ものだったのだと僕は思う。それによって人間の外にあるものが引き立っていたのだと。西洋的な化粧は、「個性を伸ばす」または「個性を捏造する」ものである。こういう考え方、つまり「自分たちが美醜を左右することができる」というおごり高ぶった意識は、「人間が自然の頂点に立っている」と考えるキリスト教、いやもっと広く「すべての頂点に神がいる」と考える一神教の世界観に特有のものなんじゃないか。日本人はいつから、「人間が美醜を左右できる」なんて偉そうなことを考えるようになったんだろうね? 人間は自然の力を借りなくては美しくなれない、というのが古代からの日本人の考え方だと思うんだけど。 で、僕の最終的な結論は何かって言うと、べつに白粉やお歯黒を復活させるべきだという主張ではない。僕は、日本人的な「人間は自然の一部である」という意識に則って、こう思う。「人間だって自然の一部なんだから、花や鳥や風や月と同じように、それはそのままで美しいはずだ」である。もちろん、自然にだって枯れた花や醜い鳥がいるように、人間にだってそのような差はあるだろうが、しかし枯れた花や醜い鳥が「美しくない」というわけではない……まあ綺麗事を言うならばそういうこと。自然の一部として、美しかったり醜かったりする人間は、「自然である」というただそれだけで美しい。言葉の上では矛盾しているようだが、べつに矛盾してないと僕は思う。だから、すっぴんでいいんじゃねーの? っていうことです。 「だって美しくいたいよ」「醜い部分は隠したいよ」「アトピー痕あるし……」という気持ちを僕は知らないわけじゃないんだけど、理想だけを語るならば、このようになるんだよねえ。実際はそんなに単純なものじゃないから、現実と理想とでうまく折り合いをつけて、ちょうどいい感じにしていけばいいと思うんだな。つまり、「なんで会社くるのに化粧してこないの?」っていうような空気は、僕は断固撲滅したいが、しかし「なんで化粧なんかしてんの?」っていうような空気も、ないならばないほうがいいと思う。人にはいろいろ事情があるのだから。ただ「美しくありたい」という想いが単に「自分の理想とする顔に近づきたい」でしかない場合は、僕は唾棄したい。美しくあるためにすることが「化粧した白人の顔(あるいは雑誌のモデルの顔でもなんでもいい)に近づくための化粧」でしかないような人って、非常に貧しいって思うもんなあ。それって本当は「美しくありたい」じゃなくて、「モテたい」ってことでしかないんでしょ? 2009/11/04 お花を摘んで少女はメイド服に着替えた。 夕暮れを待ってお色直し。 深くて暗い紅色の衣裳。 今までの君は間違いじゃないと佐野元春歌う。 サザンオールスターズの『マンピーのG☆スポット』という曲に、「悲しい男と女が今日も暗闇で綱渡り」という歌詞があって、高校生の時に僕は「なんてエロい歌詞なのか」と思った。「綱渡り」というのは男女が連結している状態の比喩なんだと今でも思い込んでいる。 トキワ荘のほうへ行ってきた。松葉でラーメンを食べた。 駐車場の「P」の表示を見て、 「わっ。パーマンのマークだ! キャー」とかってはしゃいだ。 パーマンのパーってのはクルクルパーのパーだと思うんだけど最近はクルクルパーという言葉は全然使われないらしい。藤子マンガだとパーとかクルクルパーってのは基本的に規制されてしまっている。小山ゆうの『がんばれ元気』にも一巻くらいでクルクルパーって言葉が出て来たはずだけどどうなっているんだろう。 とか思ってたらAKB48の曲で『くるくるぱー』というのがあるのですね。 AKBならオッケーで、藤子マンガだと自粛しちゃうっていうのはどういうことなのでしょうか。小学館はそういうところにうるさいというか、気にしすぎなのかもしれません。 現代では、クルクルパーに相当する言葉って何があるんでしょう。キチガイも近しい言葉だと思うんですが、これも自粛されている場合が多い。結局「バカ」とか「アホ」とかになるんですよね。「ノータリン」ってまずいんですか? ミスチルも歌ってるしドラえもんの「ないしょペン」の話でも出てくるから大丈夫かな。よしこれからはノータリンという言葉を使っていこう。 あまりにも内容のない日記でびっくりだ。今僕が何か書くと鬱々としたものかお花畑見た様なもののどちらかにしかならなくてそれを避けようとするとどうしても空疎になるよ。 昨日の日記についてですが、やはり「想像力に勝る現実はない」(友人すんたんの名言)ということで、結局は杞憂だったっぽいです。つまり「人智を超えた何か」が作用したとみられるのですが、そこがどうにも不明です。人智を超えているので何がなんだかわからないのです。昨日の内容に即したたとえで言うと、不倫相手は「電話した覚えはないが、夫にバレている様子もない」とのことで、グレーで、モヤモヤしてます。夫は全てを知っていて黙っているのか、あるいは不倫相手が夢遊病か何かで寝ぼけてて覚えてないのか、それとも人智を超えた何かが本当に作用しているのか……真相は闇です。 2009/11/03 論理的に考えたら 論理的に考えたら人生終了する状況です。 たとえばですが、僕が不倫をしていて その不倫相手の携帯から電話がかかってきたから、それを取るとする。 しかし不倫相手は何も言わない。無言である。 この場合、論理的に考えたら、「不倫相手の夫が電話をかけてきた」しか考えられなくないですか? 要するに不倫がバレているのです。 「不倫相手から無言電話がかかってきたら、その不倫はバレている」と言って、おそらく差し支えはないでしょう。 果たしてこういうのを「論理的」と言っていいのかどうかは置くとして、どう考えてもそうなるんじゃないかと僕は思います。 それにしても気になるのは「なぜ不倫相手の夫は何も言わないか?」です。 怖すぎます。 「どうしてやろうかなあ……」とか考えているんです、きっと。 あるいは、「てめえか、俺の女に手を出してんのは」とか言えるようなタマじゃないのかもしれません。気が弱いのかもしれません。ほかにもいろいろ理由は考えられると思いますが、どれも「なぜ不倫相手が無言電話をかけてきたのか?」の理由を考えるよりは簡単です。 そう、もしも無言電話の主が「不倫相手の夫」ではなく「不倫相手その人」だったとしたら、整合性のとれる理由が見つからないのです。どうして「不倫相手その人」は、不倫相手である僕に、無言電話をかけてくるのか? この理由が見つからないから、「きっと不倫相手の夫がかけてきたのだろう」となるわけです。論理的必然。 でも人間の行動というのは、論理とか整合性とかいうものだけで決まるものではないので、「なんだかよくわからないけれども無言電話をかけてしまった」ということはありえます。何か人智の及ばない不思議な理由があったのかもしれません。単なる悪戯心とか、その人がキチガイだったとか。そうすると僕が「この無言電話の主はきっと不倫相手の夫だろう」と考えたのは杞憂であり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言った風情で、「自分は不倫しているのだ」という負い目から、そのような恐ろしい想像が働いてしまったということでしょう。 人は、恐ろしい想像をしてしまうとき、だいたい論理的に考えているものです。そしてそのような想像が外れたときは、だいたい「論理の及ばない何か」が作用しているのです。「論理的に考えたらこのような恐ろしい状況になりうる」で、人は恐怖します。理知的であるほどに、そうなります。 僕は実のところもう大人なので、オバケよりも論理を怖がってしまいます。それで僕は今とても恐ろしい想像に襲われて、負けそうになっています。一刻も早くここにオバケのような超常の存在が現れて、凝り固まった論理なるものを吹き飛ばしてくれることを祈ります。そうでなければ、僕の前には破滅しかないのです。 2009/11/02 とよ田みのる『友達100人できるかな』と藤子・F・不二雄『流血鬼』 アフタヌーン12月号を今読んでいる。とよ田みのるの『友達100人できるかな』まで読んで止まった。 毎月『友達100人できるかな』と『謎の彼女X』(植芝理一、同じくアフタヌーン連載)を読むたびに生きててよかったと思う、僕はなんとも安い男だ。ほんの一時間前までは停止し続けることしか考えていない虫の死骸のような状態であったというのに。これとほとんど同じ内容のことを毎月どこかしらに書いているというのも、自分の単純さの証明である。毎月毎月同じことを思うのだが、『友達100人できるかな』は素晴らしい作品だ。 『友達100人できるかな』(以下アフタヌーン誌の方針に従って『友100』と略すが、この略称を実際に使っている人を見たことがない)は、小学校教諭の直行が、自分の子ども時代に戻って100人友達を作ったら世界が救われる、という設定の漫画。よくわからないと思うのでもう一度言い直すと「世界を救うために子ども時代に戻って友達を100人作る」という過程を描く漫画。子ども時代とはこの場合、1980年の世界。YMOがバリバリ活躍しているくらいの時代ですな。 ある日、直行のもとに異星人がやってきて、こういう意味のことを言う。「地球を侵略しようとやってきた。でもこの星にもしも“愛”が存在しているのなら、私たちは侵略できない。“愛”の存在を立証してみせろ」と。“愛”の証明とは何かというと、「友達100人つくること」。直行には妻がいて、子どもももうじき産まれるのに、そのことは“愛”の存在を立証することにはならない、というのが面白い。この異星人にとって最も揺るぎない形での“愛”とは、“恋愛”や“家族愛”ではなく、“友達(友情)”であるということらしい。ここがミソ。 ふつう“愛”というものを描くなら、“恋愛”や“家族愛”を描く。それが一番わかりやすく、かつ描きやすいからだ。“友達”なんて曖昧な言葉を真っ正面から描こうとするだけでも、挑戦的である。 友達を作るのに最も適した年代は「小学生」であるらしく、直行は小学三年生になって友達を作る。一人また一人と友達が増えていく過程を『友100』は描いていく。気の遠くなるような果てしない仕事だが、今月、第10話にして出来た友達がなんと12人(第9話で現代に戻って友達になった少年をカウントしないなら11人)。このペースでいくと完結まであと7〜8年はかかる。アフタヌーンでは10年続く連載も少なくはないので、本当にそうなってしまいそうだ。それまでこの質が保たれれば良いと思うのだが、とよ田先生ならきっとやってくれるだろう。『ラブロマ』や『FLIP-FLAP』、そしてこの『友100』は、そう信じさせてくれるほどの素晴らしい作品である。 最新12月号の第10話は、同級生岡野の弟、小学一年生の新二郎が新しい“友達”のターゲット。一年生の新二郎は、子どもらしく残酷で、ザリガニやカエルやトンボなどを次々と惨殺していく。直行はそれを見てドン引きしてしまい、なかなか“友達”になれない。“友達”が成立するためには“お互いの好意”が満量にならなければいけないのだが、直行は残酷な新二郎に真っ直ぐな好意を向けることができないのだ。直行は新二郎に「痛み」や「命の大切さ」を教えようと奮闘するが、うまくいかない。 ある時直行が新二郎に「お墓を作ること」を教えると、新二郎はすぐに大量のお墓を作って直行に見せた。直行はそれを「お墓を作るためにわざわざ生き物を殺した」と思い、新二郎を叱ってしまう。しかし実際は、新二郎は森で死んでいた生き物たちを集めてお墓を作っていたのである。それを知った直行は深く反省する。「自分は新二郎に、自らの価値観を押しつけようとしていただけではなかったか」と。 つまり直行は、「生き物を殺してはいけない」という、凝り固まった「結論」だけを教えようとしていたわけだ。「生き物を殺してはいけない」から逆算した理屈、すなわち「可哀想」だとか「みんな同じ命なんだから」とか、そういった下らない、小難しいことばかりを言葉で語って、「生き物を殺してはいけない」という“大人の価値観”に辿り着く以前の“子どもの価値観”というものをすっかり忘れていたのだ。 そのことに気付いて、直行はハッとする。そして新二郎の行動をもう一度つぶさに観察してみると、新二郎はただ残酷なわけではなかった。クモの巣に光る露、花の蜜を吸うカナブン、石の下に潜んでいる無数の虫たちなどを、次から次へと発見し、観察して楽しみ、ある時はアリの巣を小一時間も見続けていたりする。 新二郎の目を追うと彼はあらゆるものに興味を持っていた 直行は気付く。新二郎を「残酷」だと思っていたのは、自分の“大人の価値観”によるものだったのだと。新二郎のような子どもにとって、「残酷」も「優しさ」も等価であり、「目に入るすべてのもの」が……虫も花も風も音も光も、すべてが等しく映っている。そして、「僕もかつては このくくりの無い世界の住人だったのだ」と、直行は気付く。「残酷」も「優しさ」もない。子どもの世界には、すべてのものがただただ等しく、興味の対象として、自分を包んで迎えてくれる世界の一部分として映っている。ただそれだけのことだった。そういう「一緒くたの世界」の中で“経験”を積み上げて、いつか良いことと悪いこと、美しいものとそうでないものはより分けられていくのだ。 新二郎にはこの花の良さ 分からないだろう 第10話のラストは、1ページまるまる使って、子供達の住んでいる輝く世界を描写している。太陽も、地面も、空も雲も花々も、草も、塀も家も電柱も散歩する犬も、その犬を引く飼い主も、そのスカートも、子供達自身も、すべてがキラキラと輝いている。なんの変哲もない道端を、何の変哲もない子供達が歩いているその周りに、キラキラと光る「漫画記号」が散りばめられている。その上に、「子供達(かれら)には世界が等しく輝いているのだ」というネームが乗っかっている。 我田引水のようで恐縮だが、小沢健二さんがエッセイ(無色の混沌)でこれと同じようなことを言っている。 「人は分ける。上と下。右と左。陰と陽。善と悪。とにかく分けたがる。自分自身さえも分けてしまう。不良か優等生か。運動神経がいいか悪いか。人間嫌いか社交家か。完全にどちらかである人なんて絶対にいなくて、僕らは混然とした存在なのに、混然を受け入れるのってのは難しいから、めんどくさがりの脳は、あるいは機能は、それ自体をあるがままに受け入れないで、白黒つけてゆく。そうすると物事は、すごく簡単になるから。ボケとツッコミ。」 こういう価値観は、『友100』でいえば「大人=直行」のものだ。そうではなくて、 「光は全ての色を含んで未分化。無色の混沌。それはそれのみとして、分けられずにあるもの。切り分けられていない、混然とした、美しく大きな力。それが人の心の中にある。」 これが「子供=新二郎」である。 きっとどちらが良い、悪いというものというよりは、ただそういうものなのであるが、しかし、子供の持っている「混然とした、美しく大きな力」なるものを忘れてしまうのは、とても淋しいことだと思う。このことを無視してしまったら、世の中は生彩を欠き、だんだん醜くなっていく、と思う。 さてここから第二の本題。『友100』の設定を見て、「なんだか藤子・F・不二雄のSF短編(『ひとりぼっちの宇宙戦争』など)にありそうだな」と感じた人もいたかもしれない(僕もその一人)が、この第10話の最終ページは、F先生の傑作短編『流血鬼』のラストを強く思わせる。 『流血鬼』は、「吸血鬼になってしまう」という奇病が世界中に蔓延した世界を描いた短編だ。もちろん日本も例外ではなく、もはや吸血鬼でないのは主人公の男の子を含むわずかの人々を残すのみとなる。吸血鬼たちは「新人類」を自称し、「旧人類」を捕獲しては新人類=吸血鬼へと覚醒させていった。なんとか吸血鬼にさせられるのを逃れた主人公たちはレジスタンスとなって、夜な夜な吸血鬼たちの心臓に杭を打ち込んでは食料を奪って生き延びるという生活を送っていた。そんな主人公を、吸血鬼となった幼なじみの女の子は「私たちが吸血鬼なら、あなたたちは流血鬼よ」と言い放ち、「吸血鬼になるのなんていやだ」とどうしても聞き分けのない主人公をかみ殺す。そして眼をさますと、主人公は身も心も吸血鬼になっている。 「今から考えると、おれ、ばかみたいだよ。どうしてあんなに新人類になるのをいやがったのか。気がつかなかった。赤い目や青白い肌の美しさに! 気がつかなかった。夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」 これが『流血鬼』のあらましだが、原作はもうちょっと複雑で面白いので、興味のある人は是非読んでみてほしい。個人的にはF短編の最高傑作の一つだと思う。 「夜がこんなに明るく優しい光に満ちていたなんて!」というラストシーンは、ネームも衝撃的だが、それ以上に絵がすごい。時刻は夜なのに、背景が白いのである。そればかりではなく、キラキラと雪のような光りで満たされているのだ。新人類の目には、夜の暗闇も光溢れるまばゆさに満ちているということである。「完全に異なる価値観を持った生物の視点」などという途方もないものを、たった一コマの漫画表現で表してしまっているF先生は本当にすごい。 長々と『流血鬼』の話をしてみたのは、このラストの一コマが、『友100』第10話のラストページに酷似している、ということが言いたかったのである。「旧人類」を「大人」、「新人類」を「子供」と置き換えてみれば、これらはまったく同じシーンなのだ。直行という一人の大人が、子供という「完全に異なる価値観を持った生物の視点」を獲得したことを表すのに、『流血鬼』とほとんど同じ漫画表現を用いたのは、これはまったく必然である。構図まで似ているというのは、これはとよ田先生のF先生へのリスペクトなのか、それとも同じことを描こうとしているがゆえなのか。 10月は休んでしまったので今月はけっこういろいろ書くと思います。 全国30人のEzファンの皆さまどうぞお見捨てなきようお願いいたします。 .:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*: ┏☆┓ ┣╋┫ お誕生日おめでとうございます ┗┻┛ 〜バースデーカード&プレゼントをお送りします〜 From @niftyスタッフ一同 .:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*:._.:*~*: ○崎 ○○ 様 いつも@niftyをご利用いただきありがとうございます。 今日は ○崎 ○○ 様 のお誕生日ですね! おめでとうございます。 ★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。. 日ごろの感謝をこめて、スタッフ一同より ○崎 ○○ 様 への バースデーカード&プレゼントをご用意しました。 http://www.nifty.com/happy_birthday/ *プレゼントの内容は、上記アドレスをクリックして、バースデーカードが表 示されるとご覧いただけます。 ★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。★。・゜・.:・゜'★,。. ---------------------------------------------------------------------- ・ご入会時に登録いただいた生年月日を元に送信しています。 ・お誕生日メールの配信停止をご希望の場合は、お手数をおかけいたしますが 次のホームページよりお手続きをお願いいたします。 < お誕生日のお祝いメール配信停止 > https://www.nifty.com/cgi-bin/DMref_fmdsp.cgi?svkey=NIFBIRTH ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ○ご登録いただいている情報にお変わりはございませんか? 以下のページでお客様情報の変更方法をご案内しております。 < @niftyへの登録内容を確認したい > http://faq.nifty.com/nft5795/web2210/faq/search_direct01Detail.asp?id=4085 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ○バースデープレゼントについてのQ&Aは以下でご案内しております。 < バースデープレゼントについてのQ&A > http://www.nifty.com/happy_birthday/faq.htm 本メールは送信専用アドレスから送信されています。誠に恐れ入りますが、 お問い合わせがございましたら、以下のホームページよりお問い合わせ フォームをご利用ください。 < メールでのお問い合わせ窓口 > http://support.nifty.com/support/madoguchi/mail/index.htm ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ ニフティ株式会社 2009/10/24 10月は眠りすぎている。秋の夜長は、いたずらに睡眠時間が長くなる。先日オリオン座流星群を見た。厚着をして近所のスイミングスクールの駐車場に転がって、八年前のしし座流星群のことを思い出しながら見た。午前三時、八年前にあのしし座流星群を一緒に見た女の子と電話して、あれはすごかったねえと言い合った。自分たちはもうすぐ出会って10年になるのだという……。 昨日も10月のように眠りこけていた。 2009/10/01 半年ほど前から、一度も読んだことないくせに「なななんきりこはケータイ小説」という論を展開していた僕も、ついに読みました。『南瓜とマヨネーズ』という作品。かつてとある女子から「これを読んで女心を勉強しなさい」と言われて貸し付けられたのだが、まったく読む気がせず多年に渡り放置。ついには「もういい、私は新しいの買う。それはあげるからちゃんと読んでおきなさい」と言われて一年近くが経過し、ようやく開いてみたのであった。 読んでみたら、なんてことはない、「女子の不誠実を正当化するための本」なのね、これは。違うの? ここに描かれているのは徹底した不誠実でしょう。それを「女心」と「叙情性」の衣で隠して、なんだかオシャレかつ「アート」な感じに仕上げている、っていう、そういうふうに見えたよ。 なななんきりこは漫画うまいなあ、とは思ったけど、これを好んで読む人たちがやっぱり僕には理解できないというか、その、やっぱりケータイ小説の受容層にかなり近しいものを感じる。自意識はより過剰だと思うけど。 ケータイ小説、浜崎あゆみ、なななんきりこに共通する「リアル」という概念については、またまとめなければならない。怪談とかも近いんじゃないかなー。 2009/09/25 ↓の記事、四割くらい嘘です。毎日疲れ続けています。もう若くないのです。 好きなものを「あー好きだなあ」と思ったあと、どうしますか? 僕は必ず「なんで好きなんだろう」を考えます。じゃないと他人にすすめられないじゃないですか。僕は自分の好みや思想を他人に押しつけることが大好きなのです。 2009/09/21 僕が疲れない理由 そもそも僕は小学四年生のときに人格改造的なことをして、暗く地味で気性ばかり激しかった自分の上に、ひょうきんで軽薄で活動的な自分を貼りつけて、それでうまいことその後の人生を渡ってきた。基本的にはそのまんま今に至っている。だからたぶん、太宰治の『人間失格』に僕が共感できた時期がもしあったとしたら、たぶんこの頃だろう。幸いなことに僕は二十歳を過ぎるまであの作品を読まなかったのだが、二十歳を過ぎてから読んだ『人間失格』は味気なく、つまらなかった。こんなもんかと思った。そして僕は『人間失格』という作品を憎んだ。太宰治の、ほかのどの作品よりもくだらないと思った。それは今でも変わっていない。なにが嫌いかって、太宰治ほどの天才が、あんな作品で代表されてしまっているという事実が、本当に歯がゆい。 ま、そんなことはどうでもいいんです。 要は僕は小四くらいから、太宰のいう「道化」として暮らしてきた。ずーっと自分を偽っていた。それは単純に保身のために。「面白いやつは、いじめられない」ということを、僕はいつか学んでいたのだ。面白いやつになる素養はもともとあったらしく、小学校を卒業するころには、学校でいちばん有名な人になっていたと思う。下級生の教室の前を歩いたらワーッと後輩たちが群がってくるような。そのころから僕はモテるようにもなったし、身体能力も信じられないほど上がっていった。僕は自分のことを極度な運動音痴だと思っていたが、小手先の器用さや協調性を要求されるもの以外、つまり単純に「敏捷性」や「柔軟性」や「体力」などに関しては、むしろ優れていた。……この内容を書くのはもう、何度目なのだろう。 僕が「自分を作り上げる」ということを覚えたのはだから、小四のときだった。高校生くらいになるとそれはいよいよ激しさを増して、「ジャッキー」というあだ名をもらい、「ホームページ」という武器を手にしてからはそれはもう、恐ろしいほどに僕は「ジャッキー」という人格を作っていった。そんなことはよくある話だとみんな笑うかもしれないけれど、僕は、自分で言うのも妙だが、その人工の人格を「作品」という域にまで高めていたのである。いや、本当に。 それを一番最初に、的確に見抜いたのがたぶん、今でも大親友の、「すんたん」だな。初めて言葉を交わした日に、彼がメモライズの日記に書いた文章は、もうネット上からは消えてしまったけれども、僕の心の中には残っている。「自分を完成した作品としてプロデュースする能力が半端ない」というような意味のことを、たしか彼は書いていた。僕が高校二年生のとき。たぶんこれ以上に当時の僕をうまく形容している言葉はない。 後輩の女の子からは「ジャッキー先輩って何か、芸術作品みたいで恐れ多くて近寄れません」というようなことを言われた。表向きが芸術作品であるがためか、実際に近寄ってきてくれた人に対してはあまりにも酷い「裏面」を突きつけていたような気もする。「近寄れません」と言った彼女の直感はだからたぶん正しかった。 僕が「疲れない」ということを決めたのは、そういう時期のことだった。 僕はもともと「授業中に寝る」ということをロクサンサンの十二年間一度もしなかった人間である。理由は「なんかみっともないから」で、たとえ前日が徹夜で死ぬほど眠たくても、「寝るもんか」と頑なに起きてる。どんなつまんない授業でも何とかして覚醒を保つ。寝てる人を見ては「なんで寝るんだ?」といぶかしみ、「気が知れないな」と思っていた。大学に入ってから「いっぺん寝てみよう」と思い立ち、マクラのようなものを持ち込んで睡眠を取ってみたら、これが死ぬほど気持ち良くて、「ああ、授業中に寝る人の気持ちがわかった。こんな快感を一度知ってしまったらそりゃ、やめられないよなあ」と妙に納得したのであった。 今思えば、僕が授業中に寝なかったのは、「弱さ」を見せたくなかったというだけのことだろうと思う。「隙」と言ってもいい。僕は常に「ジャッキー」という顔でいなくてはならなくて、「ジャッキー」に「弱さ」も「隙」もあってはいけないのである。僕が弱さや隙を見せるのはネット上と、女の子と二人きりになったときだけだった。もちろんその「ギャップ」が人心をくすぐるということを知っていたのである。そういう直感的なプロデュース力にかけて当時、僕は天才だったと思う。「いつも明るくて、やんちゃでひょうきんなジャッキーさんが、実は深い闇を持っている。しかも本当は図抜けてかしこい」みたいなのは、いいじゃないですか。モテますよね、そういうのが好きな人たちには。だってなんか、漫画に出てきそうなキャラ。だから「作品」なのです。 そんななので、かりに僕が学校で「疲れて」いたとすると、必ずこのように言われた。「どうしたの?」「ジャッキーらしくないよ」……誰だって疲れるようなことはあるだろうと思うのだが、どうも当時の僕は疲れていてはいけなかったらしい。「ジャッキーらしい」というのは、「常に元気でいる」ということだったようだ。僕は「元気でいりゃいいんだろう」と開き直って、実際そのように生きていた。それもこの「ホームページ」で、膿を全部吐き出していたからこそできたのだろうと思う。あるいは女の子にそれをぶつけていたかもしれない。本当に酷い男であった。 決定打となったのは、部活の後輩に言われた「ジャッキーが疲れてるところなんて見たくない」という言葉だった。「見たくない」とは、完全に直接的な「要望」である。「なんかジャッキーって、サイボーグみたいで、疲れてるところなんて想像もできない」だそうであった。遠回しに「ずっとサイボーグでいろ」と要求されたような僕は、「まあ、それが望まれているのであればそのようにいようかな、別につらくもないし」と思って、本当にそのように生きてきて、そのような生き方に慣れに慣れきって、それで現在まで至っているのである。 最近よく、「体力あるね」とか「ホント疲れをしらないねー」とかいうことを言われるので、これらのことを思い出した。僕が女性に対してよく甘えたがったり、依存しがちな傾向にあるのは、僕が「疲れる」ことができるのはそういう時だけだからだ。さすがに女の子に対してまで「硬派」を気取ることはできない。そんなことしたら僕は本当に孤独になってしまう。 実際、毎日20キロも30キロも自転車を漕いだりしているから体力はあるし、何よりも根性というか、精神力というか、プライドのようなものが人一倍強いという自負はあるので、多少の無理はきくのである。徹夜で遊んでいても、絶対に最後まで「眠たさ」を見せないのが僕である。「眠い眠い」と言いながら、あんまり眠そうじゃないのが僕なのである。眠たくて目をとろーんとさせているジャッキーさんなんか、誰も見たくないんである。自意識過剰のようであるが、高校時代には直接的にそのことを告げられていた僕にとって、これはちっとも「過剰」なんかじゃないのだ。 このような経緯があって、僕は疲れない。要約すれば、僕はいつでも虚勢を張っている。強がっている。誰であれ多少はそうなのだから、いっそのことみんなだって僕のように強がっていればいいのにと思うんだが、他の人は「弱さ」や「隙」を堂々と見せる。それは僕が信頼されているということなのか、彼らが誰のことでも信頼してしまうということなのか知らないが、僕なんかは「そんなに気を抜いちゃって大丈夫?」と思ってしまうのだ。プライドが高すぎるため、そのように思う。僕が「気を抜いてる」ところを見たことがあるのならば、たぶんその人は僕にかなり信頼されている人であるはずだ。そうでなかったら、まあ本当に辛いときなんだろうな。最近でいうとすっごい辛いラーメンを頑張って食べたときなんかは、珍しく憔悴していた(らしい)。 ともあれ、僕はあんまり人前で疲れない。だから、人前で疲れている人の気持ちなんかわからない。一緒に遊んでいて、「もう眠いから帰る」なんてことを眠そうに言う人を見ると、「日本は平和だなあ」などと思う。 なんて言っているが、たぶん僕だってたまには気を抜いて疲れていると思う。でもそれはさすがに「あんまりよく知らない人」の前じゃないと思う。まあそこは、プライドというか、緊張感というか。僕が基本的に他人を信用していないということなんだろうな。信用、信頼できる相手の前で、それが許される状況であれば、僕だって疲れていたい。気を抜いていたい。高校生くらいのころは、それが全然できなかったし、大学のころもほとんどできなかった。今でもちょっと難しい。でもだんだん柔らかくなってきていることは確かだ。このままぐんにゃりと、タコのように骨の抜けた姿を人前にさらしてしまえるようになれたらいいのだがな。 2009/09/20 僕は今でも世の中を憎んでいる 大まじめに言うのだが、『あまいぞ!男吾』や『宇宙船サジタリウス』が売れないような世界に生きていることが苦痛で仕方ない。 「どうしてこんなに世の中はおかしいのに、みんな平気な顔をしているのか?」と言った僕より十も若い女の子がいて、こんなに幼い子にこんな言葉を言わせてしまうような世界を僕は心から憎んでいる。それも、同じようなことを言う子が一人や二人ではない。わかってしまう子にはわかってしまうのである。そして大人としてその言葉に向き合ったとき、自分の無力さに直面して、ちょいと凹む。僕には「憎む」などという負な行為しかできないのであろうか? 大人の義務として、何かその「おかしさ」を是正、中和するために何かせねばならんと思っているのだが、今はまだその模索過程。僕にできるのは今のところ、いかに『あまいぞ!男吾』が素晴らしいかを語り、それを布教していくことくらいであろう。あー、微力すぎてもう、ごめんなさいだ。 義務という言葉に関して。「年上にはおごる権利があり、年下にはおごられる義務がある」というのはどうだろうか。年上にはおごる義務などないし、年下にはおごられる権利などないのであるが、義務と権利とを反転させればこれは成立するのである。たぶん。 さて、今日は九月二十日である。僕の人生で何かあるといったら、九月の下旬にあることが多い。けっこう「いいこと」に数えられるようなことが、この時期にはある。いやなことは一月〜二月に起こって、女の子にふられるとしたらだいたいこのあたりである。なんなんでしょうかね? 本日は突発的に東京電気大学(TDU)付属中高の文化祭に行った。どうして漫画やイラスト系の部活や、文芸部的なところでは、何か全国的な打ち合わせをしたわけでもないのに、ほとんどまったく同じことが起こっているのであろうか。不思議でならない。 それと思ったのは、全体のクォリティに関して。「偏差値の高さと文化祭の質は比例する」というのは僕の持論である。だから我が母校である天下の向陽高校の文化祭はそこそこ面白かったと思う。東海高校や旭丘高校なんか、たぶんその数倍も面白かったはずである。TDUの偏差値はよく知らないが、非常に良い意味で低クォリティであって、とても楽しめた。特に小麦粉ワッショイ。あと電気系の学校だからか、鐵道研究会の群を抜いたハイクォリティさには脱帽。入り口でオリジナルの切符がもらえて、鋏まで入れてくれた。素敵である。 2009/09/19 PIERROTというバンドについていろいろ書こうと思っているんだけど、どうも時間がありません。すみません。結論からいうとピエロは、「自分の頭でものを考える」ということだけをテーマにしていたようなバンドだったと思うんですよ。そのことが『思考回路』という、キリト(ヴォーカル)のエッセイにそのまんま書いてあって、「あーやっぱり」と思って、それを踏まえて歌詞の解釈やら何やらをやろうかと。まとまった時間が取れたらやります。 夜になって、日記に何か書こうと思って、何も書くことが浮かばない時、というのがやっぱ、あります。僕は日記にあまり具体的なことは書きたくなくて、できれば「拙くともそれなりにまとまった論のようなもの」を書きたいのですが、それが何も浮かばないということは、「今日一日何も考えていなかった」というようなことであるので、ちょっと自分にがっかりするのです。そんな日がこの一週間以上続いてて、それで日記を更新できませんでした、と言っておきます。 こっから先はフィクションなのですが、明日デートに行ってきます。「デートだ!」と思うだけでウキウキするというのは、なにやら新鮮です。僕もまだ若いんじゃねーか、なんて思いますが、これって不倫するおっさんの心理状態ですよね。 僕も若いころは、周りから見ればけっこう恥ずかしいようなものが好きだったりして、でもその「好きだった」という事実にある種の誇りを抱いているし、かつ今や理論的にそのものの「良さ、悪さ」を語ることさえできるので、自分より年下の人がなにを「好きだ」と言っていても、なにも言えなかったりするのであります。 たとえば、村上龍とかかなあ。 2009/09/13 ねみー。つかれた。ここ数日とても忙しく、こういう感じが明後日くらいまでは続く予定なのだが、僕はふだんが暇すぎるため、「とても忙しい」という状態にあまり慣れない。かつては一日十三時間以上の労働を週に六日続けていた時も(ほんの二、三ヶ月ほど)あったが、ここんとこはかなりのほほんとしている。この一週間は、仕事(本職)も、趣味(イベント作り)も、趣味のような仕事(原稿書き)も、仕事のような趣味(バーの店長)も盛りだくさんで、めちゃくちゃ忙しいなりに、ある種の人に言わせれば「充実した」一週間なのであろうが、僕は全然充実してると思えない。一年にそう何度もこんなに忙しい週があってはかなわないと思うくらいだ、この程度で。 僕は忙しくて充実してるよりは暇で充実していたほうがいいと思っているし、忙しいという字は心を亡くすと書くのだという理屈を深く信じているから、暇であればあるだけ嬉しいし、暇であることを充実していると感じることすらある。こんなに忙しい、あわただしい日々は、とても嫌である。 そういうことを確信した一週間(まだその半ばだが)なわけだけど、それでも楽しいことは楽しい。僕はサイボーグのように疲れを知らない人間だから厳しいスケジュールでも笑いながらこなすが、辛いことは辛い。あー、明日の夕方くらいになれば、寝れるかなー。 うまい棒大感謝祭については明日元気あったら書くよ。 2009/09/12 元PIERROTのキリトさんが書いた本を読んでいる。『思考回路』。 高校中退して、元ヤンキーで、これだけの文章を書けるのはなぜなんだろう。半分くらい読み進んでも、読書に関する記述が全くないというのは、ひょっとしてこの人、本なんか読んだことないんじゃないのか? でもどこかで活字に触れなければ彼の歌詞のあの語彙は身に付かないはずだと思うので、そのへんのルーツが気になる。本の後半に書いてあるのだろうか。 早稲田大学に行って、とある集団(サークルではない)の会議に出席してきたのだが、いやはや。十数人の参加者がいて、平均年齢が確実に23歳を超えているという状況は本当にひどい。大学なのに、本来大学にいないはずの年齢の人ばかりが揃っていて、大学四年生がルーキー扱いされる。その中で唯一現役の一年生というのがいて、そいつが真性のキチガイ。「OBの出席率が一番高いっていうのは、高校の部活として問題よねー」というようなせりふが『究極超人あ〜る』の第一話あたりに出てきたと思うが、我々の集まりはまさにリアル光画部と言ってもいい。そこら中見渡してもたわば先輩と鳥坂先輩しかいないという。さしづめ一年生のキチガイはR・田中一郎か。 そんな一癖も二癖もある連中に囲まれて、明日はイベントです。がんばってきます。 2009/09/11 東海大豪雨から9年 僕にとっての「911」ってのは2000年の東海大豪雨。 名古屋市内でも、ひどいところで1メートルくらいまで浸水したらしい。僕の家の近くでも腰くらいまでは来ていた。増水し始めたころ僕は学校にいて、下校した時でもすでに相当水が溜まっていた。自転車だったので、まるで川の中を漕いでいるような感覚で、とても楽しかった覚えがある。 その日のリアルタイムな報告はこちらにあるんで、暇な人はどうぞ。 あの頃は毎日の出来事や思ったことを逐一、まめに記録していたなあ。ほとんど虚飾を交えずに、ほとんどそのまま。それらは今、僕にとって相当な財産になっている。大学に入ったあたりからそのようにしなくなったのは、やはり一日一日の価値というか、大きさのようなものが年を経る毎に薄まってきているからなのだろうか。藤子・F・不二雄先生の『光陰』を思い出す。 F先生といえば、名短編『未来ドロボウ』にこんなせりふがある。 「若いということは想像以上にすばらしい、すばらしすぎるんだ!! 世界中の富をもってきてもつりあわないだろう」 若い人はこんな言葉をいちいち噛みしめなくたって、かけがえのない時間を大切に生きていってくれるだろうと僕は信じているが、若くして「若い」ということを失ってしまっている人については、その限りでないから、そういう人にはぜひこの『未来ドロボウ』を読んでもらいたい。 ということは、僕だって、もう若くはないけれども、「若い」ということを失わずにいられるはずであるとも思うのである。そういうわけでこのサイトではもっと若さを強調した文章を書いていこうと思う、んだが、やっぱりあれなんだよね、プライベートなこととかを、具体的に書けないんだな。 昨日の無銘喫茶(僕が木曜日に店長を勤めているゴールデン街のバー)、すっごい楽しかったんだけど、それを書いてもいいもんか、とかね。「いい」としても、あんまり書く気にならない。書いたとしたらそれは将来きっと財産になるのだけども。じゃあ非公開で書けばいい、というのはあるのだが、それはなんだか食指が動かないというか、やる気にならない。一日に書ける文章の量なんかは限りがあるし……。 暗号化して書くってのもいいんだけど、それが楽しいかどうかってのはわからん。2005年ごろは確か、小説ふうに三人称で日記を書く、ということをしていたのだが、ああいう感じもいいかもしれない。いろいろやってみよう。 2009/09/10 いいわけロンリーだ 上のほうに明記してあるとおり、「⇒この作品はフィクションです。実在の人物・団体・事件などとは、いっさい無関係です。」なのです。高校時代の日記「ひごろのおこない」はノンフィクションを基本とするものでしたが、今書いている「少年Aの散歩」なる作品は、ノンフィクションの可能性を秘めたフィクションなのです。ここに書いてあることの文責はもちろん僕にありますが、だからといって、僕が本当にここに書いてある行動や、思考をしているかどうかというのは別の問題です。いやまあ、思考はしているんですけどね、当然。それが本心であるかどうかってのは、わかんないわけですよ。 そもそも僕は昔から、日常の中でネットの話をすることがあまり好きではないのです。特にこのサイトの話は。もちろん、誰かと二人きりであったりとか、その場にこのサイトの存在や内容を知っている人しかいないような状況であったら、いくらでもしてもらって構わないのですが、僕の中では基本的にインターネットってのは十年前と同じように「秘め事」のまんまなので、やっぱり日常的にネット上の話をするのには違和感があるわけです、若干。 理由はいろいろありますが、たとえば「ネットをやってない人に疎外感を与える(内輪ネタになってしまう)」ということや、「ネットと日常とは別のもんだという考え方が根強く僕の中にある」ということです。 僕はネットと日常とはぜんぜん別世界にあるもんだと、基本的には思っています。だからこのサイトを読んで感じてくれたこととかを、日常生活においてポンと言われたりすると、ドキッとします。もちろん上に書いたように、一対一で話しているときなんかだったら大丈夫なんですけど、第三者がいるときなんかだと「なぜその話をこんなときにするんだろう」と思ってしまいます。一対一でいるときでさえ、なんだか照れてしまうような妙な気分になりますし、瞬間、自分が自分であって自分でないような不思議な感覚にとらわれることすらあります。 だから、このサイトの感想なんかをメールや、掲示板に書いてくださる方々には本当に感謝しています。ネットで起こったことはネットで処理、というのが基本的な信条なので、そちらのほうが安心します。日常で「こないだの日記さあ」なんて言われると……まあ、そうおっしゃってくださる方も最近はほとんどいないのですが。(ずっと更新してなかったから、仕方ない。) で、こんな話題からどんな言い訳に繋げたいのかというとですね、最近きゅうに僕が文章やら何やらをたくさん書くようになって、それもなんか妙な雰囲気のあるもんばっかりだから、「むむ?」っと思ったような方が複数人、いらっしゃったようなので、それについて何か言わなければならないなあと。 結論から申しまして、別に彼女ができたわけでも、生活に変化があったわけでもございません。せいぜい「夏休みが終わった」というくらいのことでしょうか。「夏が終わった」と言ってもいいです。もう秋です。それだけです。 最近やけにいろんなところで恋愛の話ばっかり書くのは恋愛にはまっているからです。特に思春期の恋愛にはまっています。それ以上の理由はありません。なんで思春期の恋愛にはまっているのかといえば、思春期の恋愛にはまっている友達に影響されたということと、最近昔の日記を読みかえしているということと、職業柄モノホンの思春期の恋愛に触れる機会が多いからということです。まあそんなところです。それでいろいろとイマジネーション膨らませて、「こういうことはあり得るだろう」なんてことを思いながら、書いているわけですね。詩とか。 高校からの友人にけっこう鋭いのがいて、「お前の日記の雰囲気が変わるときは、だいたい女にはまってるときだ」と言われたことが、かつてあって、それはそれで間違いないのですが、日記の雰囲気が変わる原因は女「だけ」じゃないんで、いろいろとややこしいのです。面白いマンガに出会っただけで変わったりします。 というような言い訳をしておいてあえて申しますと、まあこの言い訳自体もフィクションなのです。予想できたと思いますがそういうオチです。 本気と取るも、冗談と取るも自由、ということで。 そういうつかみ所のない文章がこの「少年Aの散歩」なる作品なんで、もやもやするのです。 18 昨日僕は圭子と寝た と昨日僕は日記に書いた それが嘘か本当かは 僕にだってよく分からないのです そう書いてみることが 僕の散歩の意味だというだけ (谷川俊太郎『メランコリーの川下り』より) 2009/09/09 スーパースター 船乗りの腕に刻まれた薔薇の刺青みたいに 私は貴方のもの もう二度と離れられない (Pizzicato Five『スーパースター』) こんな歌詞が僕は高校生のころに大好きだったなあと思い出す。 最近、自分の精神はそのくらいの歳のころまで戻っているような気がする。 昔の日記を読みかえしているせいだ。 自分の腕に、好きな子の名前を、本人から書いてもらう。 そのような凄まじい行為の存在に僕は二十数年間気がつかなかった。 そのことを恥じる。 だって名前というものはすごい。 ということを語っているヒマが今はないので、とりあえずゴダイゴの『ビューティフルネーム』を挙げてその代わりとしておきます。 2009/09/08 選挙前に宣言していたことremix 僕は民主党には入れない。 なぜかというと民主党の方針の中に少なくとも一つ、絶対に僕には受け入れられないものがあるから。 かといって自民党に入れる理由にはならない。自民党の方針の中にも、絶対に僕には受け入れられないものが最低でも一つはある。 公明党、幸福実現党、共産党、社民党など思想的に偏りすぎている党に入れる気にもならない。 そのほかの党および無所属の候補者については、よく知らないので決められない。知りたいとも思わないし、知ろうとしても、おそらく僕が満足できるだけ「知る」ことは、どの政党についてもどの候補者についても、できないだろう。 僕は何も決められない。 政策で判断するにしたって、100の政策があって、1を取れば同時に99をも取ってしまうような在り方の中で、どう判断したらいいのか? 有権者は、何かを決めているようで何も決められない。 仮にですけども、10の政党があって、それぞれが100の政策を掲げていたとして 、そのうちの90がすべての党において共通していて、残りの10だけがそれぞれに相異したりあるいは共通したりしているという状況があって、どの政党が与党になったとしても、すべての党に共通する90の政策だけが問題にされ、残りの10はいずれにしても捨て去られてしまうのだとしたら。そういうものが政治だとしたら、どうだろうか。 きっと根本的にはそういうことだと僕は思う。 こういうふうに制限された権利を、「できるだけ妥当なところを自分なりに考えて投票する」という形で行使して、「ああ政治に参加した」「国民の義務を果たした」などと満足するようなのは嫌だ。 「面倒くさいから選挙なんか行きたくない」って面ももちろんある。 でもかなり本気で、本音として、「政治も選挙もよくわからないのに投票するってのはどういうことなんだろうか?」とも思う。 みんなどうせ政治も選挙もわかってないんでしょう。 所詮「政策」ごときで選んでるんでしょう。 政治はわからない。選挙もわからない。でも政策ならわかる。 それでみんなは政策ばっかり見てる。 で、それぞれの利害と経験と信念から導き出した結論をもとに票を投じる。 それらをもとに多数決で、何かが決められていく。 現代人は理屈で考えるよりも多数決を重んじる妙な生き物だ。 神さまよりも多数決を重んじ、過去や未来よりも多数決を重んずる。 そういうことが妙だって、どうして全ての人が思わないのか僕は不思議だ。 要は、考えたり話し合ったって真理になんかたどり着けやしないから、仕方ないので多数決でいきましょうってことなんでしょうが、そんなもんはただの手抜きです。 考えることを放棄して、「決まらないから多数決で」ってやる。膠着した状況をとりあえず打開するのにはそれは悪くないのかもしれないが、膠着を打開して新たな膠着を作り出すだけなのであれば無意味だと思う。 『鈴木先生』というマンガにあった、「新世代に流行する悪しき風潮の多くは前時代の悪しき風潮の安易な克服である」という言葉を思い出す。 「安易な克服」というのは、Aという悪しき風潮に対して、「では非Aで。非Aならなんでもいい」というふうに、ろくな検討もなしに「非Aである悪しき風潮B」を採用してしまう、というような意味だろう。 日本人は、というか人は、「Aはだめなのか。じゃあAじゃなければいいんだな」という短絡思考に陥りやすい。それがいろんなことをだめにしている気がする。そしてその根っこにあるものは、「AかBか」という決断を迫る近代的な合理的な二元的な思考法であろう……この話はまあいいや。 僕はどうやら現代日本の「政治」と呼ばれる仕組みにどうやら文句があるらしい。それは自分でもわかるのだが、わかるのはそこまでで、「代案を示せ」などと言われても、まともな答えは出ない。突飛なことならいくらでも思いつくんだけど、突飛なことしか思いつかない。だから困っている。そもそもこんなもん、個人の思いつきでどうにかなるようなもんじゃないはずだもんな。 明日(8/30)の選挙、僕はどうするべきなんだろうか。 前日(いや当日か)になってこんなことを考えているのだから、ふだん僕はまったく選挙だの政治だのについて考えていないんだろうか? 自分で言うのもなんだけど実際は、考えていないのではなくて、いつでも考えてはいるが考えても考えても答えなんか出ない、ということなんだろう、たぶん。考えているといったって、自民党だの民主党だの、そういうことはまったく、考えてなくて、もうちょっと漠然と、だけども。自民党や民主党のことなんて僕はよく知らないから、考えようがない。「よく知ってる」という人がいたら僕にわかるように説明していただきたいものだ。僕がふだんやってるのは、もうちょっと根本的なことをぼんやり考えることと、『たかじんのそこまで言って委員会』とか見て「ふーん」とか思ってるくらいのことだ。 選挙や政治について、あまり具体的なことは考えないが、しかし僕はなにを考えていても、最終的には「どうしたら日本が(僕にとって)住みよい国となるのか。」なんてことを思案している。でも現時点ではどうやら、僕にとって住みよい国というのが、「多数決によって決められる住みよい国の在り方」とはズレているようで、だから僕が自分の理想に則って何か言っても、あまり意味がない。 そういうわけで選挙のたびに虚無感、無力感にさいなまれるのだが、それでも「清き一票」という考え方に賛同しないではない。ただ、「清いけれどもたったの一票」を、選挙という「いざ」というときに「だけ」使うよりも、ふだんから清い言葉を発し続けて、清き一票が清き何十票や何百票にも広がっていくようにしたいね。 選挙について考えて、選挙について発言したがる人で、選挙のときにだけ、選挙のことだけについてしか考えないし、発言もしないような人は、たいていバカに見える。日本シリーズやWBCのときにだけ野球を語りたがり、ワールドカップのときにだけサッカーを語りたがる人たちと同じで。 選挙が日本人の意識の中で「数年に一度のイベント」でしかない以上は、上に書いたような状況は変わらないだろうなと思う。 2009/09/07 自分の過剰さが憎い 何が過剰かって、「伝えたいことが多すぎる」んですよ。それって要するにストーカー的な男が便箋百枚くらいのラブレター書いて持ってくるようなもんじゃないっすか。できないできないできない。 キャッチボールでさー、相手がまだ自分の投げたボール持ってるうちにこっちからまた違うボール投げまくってたらさー、大変なことになるじゃない。過剰ってのはそういうことでもあるんですよ。曲芸師じゃないんだから一度に複数のボール渡されたらもう、てんやわんやですよ。 とよ田みのる先生の『ラブロマ』で、高校生の星野くんが同級生の彼女である根岸さんにめっちゃ分厚いラブレターを渡す場面があるんだけど、ちょうどあんな感じだなあ。星野くんは自分の行動の重たさに無自覚だし、だから根岸さんも星野くんのその行動を受け入れてあげられるのだが、僕の場合は……。 そういうわけで僕もそろそろ「引き算」を覚えなくてはなりません。と見せかけて、実は引き算なんかする気は、毛頭ありません。 篠房六郎先生の日記があまりにも面白かったがゆえに↑こんなことに。 そして再読中の『鈴木先生』がやっぱり面白すぎる。いろんな要素がタイムリーに響いて、初読時とは違った味わいが。 そういえばKannivalism復活おめでとう。 2009/09/06 一目惚れについて 僕は髪型にも服装にもほとんど気を遣わないし、顔もまあ並である。他人に不快感を与えるようなもんではないと思うが、自分の外見が客観的に見て素敵だとは一切思わない。しかし僕は自分の外見がかなり好きである。なぜかといえば僕の外見は僕の思想をそのまんま反映したものであり、僕は自分の思想を愛しているからだ。 思想だなどと大袈裟な言葉を使ったが、要はまあ「考え方」とか、「性格」とか、そういう内面的な事情を全部ひっくるめてここでは「思想」と言っているのね。 そういうわけなんで僕に一目惚れする人がもしいたとしたら、それは僕の外見に惚れるのと同時に、僕の思想にも惚れているのかもしれない、ということになる。極端に、あえて言ってしまえば、僕の外見が好きな人は僕の思想も好きなはずなのである。 僕に対して「もっとこぎれいな服を着ればいいじゃない」とか思う人は、おそらく僕の思想は好きではないのである。そういう人とはもし付き合ったとしてもたぶん長続きしないのである。いや、たぶん。 僕がいつものテキトーな服を着て、二十数年間ほとんど変わらない髪型をして歩いてても、「まあステキ」なんて思えてしまうような末期的症状の人は、どう考えても僕の思想も好きであるはずなのである。そんな人、たぶん、いないんだが。 なんにせよ、外見ってのは思想がにじみ出ますよな。僕が太らないのは、たぶん「やせているほうが自分に合っていると思ってるから」で、それも思想なるものの一部といえば一部。太りたくて太っているわけではない人がほとんどだとは思うけど、たとえば「いっぱい食べちゃうから太ってる」という人は、たぶん「いっぱい食べたい」という思想なわけで。「いっぱい食べたい」という思想が、「本当は太りたくない」という思想に勝っているという状態なのでしょう。 あるいは、生やしたくもない無精ひげが生えてしまっている人はおそらく、「こぎれいにしているべきだ」という思想よりも「面倒くさいんだよなあ」という思想のほうが勝っているのである。 顔なんて、思想どころか人生がモロに出てしまう。ズーッと笑って生きてきたような人は、ブサイクでも「愛嬌がある」になれる。 そういうささやかな思想の無数の積み重ねによって「外見」というものは形成されているわけで、「僕の外見が好きな人は僕の思想も好きなはずである」というのは、そういった意味なのだ。 「人を外見で好きになるなんてよくない」という考え方があるが、そうとばかりは言えないわけであるよ。人間にはたいがい、外見に見合った中身が詰まっているものであるから。 そういうわけで僕に一目惚れしてくれた人たちも心配しないでいいのです。あなたがたは直感的に、僕の思想に一目惚れしていたということなのですから、きっと僕のすべてを好きになるのです、そのうち。そのはずです。まあそういう人がもしいたらの話ですけども。 2009/09/06 人間の意志について、総量について 男っちゅうのは「ずっとあなたが好きでした」に弱い。だから女の子は、男の子に告白するなら、「初めて会ったときからずっと好きで……」とか言ったほうがいい。本当はほんの数日前から好きになったんだとしても、とりあえず「実は、二年間ずっと好きで……」って言ったほうがいい。それでもし一度はふられたとしても、絶望的に可能性が見込めない場合を除いて、定期的に「好きです」を言ったほうがいいし、数年ぶりに「やっぱり好きだ!」になって再び告白するときでも、「あれから一日もあなたを忘れたことはない」とくらい言うべきだ。嘘でもいいから言うべきだ。なに、女の子は「自分の嘘を本当だと思い込む」ことが平気でできるから、簡単でしょう。(参考文献は芥川龍之介『藪の中』、この作品についてはそのうち『高瀬舟』と絡めて論考を書きたい。) 「何年間も一人の人を想い続ける」というのは並大抵のエネルギーではないから、言われたほうはズキューンとなる。キュンキュンのギュンギュンになる。誰だって「ずっと好きでした」を言われて嫌な気分になどならない。どんなに好みでない相手でも、必ずどっかで喜んでる。「俺のために、そんな膨大なエネルギーを……ってことは俺ってそんくらいのエネルギーに見合うだけの男なんだなっ」と。 人間の心を動かすのは、人間の心の力。運命なるものを動かしていくものが、もしもあるとしたらそれも、心の力。正確にいえば、心の力に突き動かされたその人の行動。この、行動の伴った心のことを、ここでは「意志」とでも呼ぼう。僕は精神世界の話をしているわけじゃないから、心で念じているだけじゃ何も起こらないということはちゃんと強調したい。人の心が人の心を動かすといっても、心で思っているだけじゃ仕方ない。その心を思いっきり伝えていくことが大切なのだ。それが「意志」。だから「ずっと好きでした」を言葉にすることが、重要になる。言葉でなくてもいいが、とにかく伝えなければ。運命だって、それを左右させるには心で思っているだけではなく、そのために動いていかなくてはならない。 たとえば僕は、どうしようもなく好きであるものに向かって、ただ「好き」だけを言い続けていたら、いつのまにか好きなものに驚くほど近づいてしまっていた、という経験がちゃんとある。「努力すれば夢は叶う」なんていけ好かない言葉があるが、あれはあながち間違いじゃない。能力とか財産とか、そういうどうしようもないものが必要であるような「夢」は努力したって叶わないことも多いだろうが、叶うもんはちゃんと叶う。 たとえば「黒柳徹子と友達になりたい」だったら、きっと叶う。亡くなってしまったら別だけど。徹子さんが好きなら、徹子さんにラブコールしたらいいんだよ。熱く、長く。誰が相手だってそう。長渕剛だって、小倉優子だって。愛して愛して、相手のことを深く理解すれば、相手が振り向いてくれるような「アプローチの仕方」だって、見えてくるはずだ。小倉優子さんに対して「好きだ」を羅列したファンレターを何億通送ったって、彼女には決して近づけないだろう。でもそうでない方法でなら、可能性はある。僕は小倉優子さんのことをあまり深くは知らないのでわからないけど、きっと何かあるはずだ。 もちろんね、「小倉優子と結婚したい」くらいの望みになったら、ちょっと難しいかもしれない。彼女の好みとか、事情とか、どうしようもない要素がけっこうあるから。でも「友達になりたい」くらいなんだったら、いけるっしょ。僕はそのように信じている。「好き」という意志の力がちゃんと強ければ。それが「セックスしたい」なんつう邪なだけのものでなく、小倉優子という人間そのものを心から愛することができるのならば。 んじゃあ、その邪な、たとえば「性欲」なんかは、人間の意志の力ではないのか、そのエネルギーは成就されないのか、というのは、難しいのだが、たぶん、「性欲」の果てに叶えられる夢は、せいぜいが「強姦」だろうね。心や、意志の質によって、その結果の質も変わってくるのは当然のことだから。 顔や身体だけが好きだ、ってんじゃなく、本当に小倉優子という人が好きだったら、彼女の価値観がわかるはずだし、そもそもその価値観に共感して好きになったはずなんだから、気が合わないなんてことないんだもんな。友達にくらい、なれるでしょう、きっと。 最近、もの凄い「意志」の力を目の当たりにして、というか、一年以上もかけてじわじわと見せつけられて、がしっと心を動かされてしまった。人間の意志の力ってのはすげーなあと、改めて思った。僕自身、意志の力だけで生き抜いてきて、幼いころから漠然と抱いていた「夢」のようなもののほとんどを、この二年間でだいたい叶えてしまって、もう残りの人生は何をやっていいのかわからないくらいになっている。いわゆる「自己実現」なんてのは本当にもう、僕にはどうでもいい。「自分」に関する望みはもう達成されてしまったのだから、これからは自分の外側にあるものへ目を向けていきたい。「夢」なるものの延長線上でそれができるのであれば、それにこしたことはないから、そういうふうにやっていけばいいのかななんて思っている。今ここ。 そんなような話を、すっげー仲良くなった女の子についついメールで送ってしまったら、そっから返信が途絶えた。べつに偶然だと思うんだが、なんだか反省した。「あー、また僕はなにやら膨大なエネルギーを他人に投げつけてしまった」と。「こんな重たいもんを受けとめてくれる女の子なんて、いるわけないよなー」と。とりあえずそんな自分の状態に「僕は贅沢に孤独である」などといったキャッチコピーつけてその日は寝た。 こっからハイパーセルフ褒め殺しタイムに入りますが、僕という人間は持っている情報やエネルギーの量が半端ないのですよ。質は知らんけど、とにかく量だけは相当なもんで。「知識がある」とか「行動力がある」とかそういうことじゃなくて(そういうのも若干はあるんだろうけど)、なんか、よくわからんけど「絶対値」みたいなものが、少なくとも日本人の平均くらいは余裕で超えているんじゃないかと。僕を知っている人なら「あーそうかもねえ」と思いつつ「こいつは本当に自分が好きだな……」なんて呆れてくれると思うんだけども。 でー、おそらくそれが故に、僕は本当にわけのわからん人間に見える。誰かに(特に女子に)僕のことを把握してほしいといつも願っているのだけども、なかなかそういう人はいない。まあ、誰だって「あ、自分いま把握されてる」なんて思う瞬間はあんまりないのだろうけれども、僕も人並みにそうで、「把握されたーい、でも把握されなーい」なんていう思春期じみたことを、未だに思っている。 僕がネットにこうやってウワーっといろいろ書くのは、把握してほしいから。内蔵している情報とエネルギーをこうやって吐き出して、「把握してよ!」って言ってるのが、このサイト。だってこんな膨大なものを、個人に対して投げつけるわけにはいかないじゃない。好き合ってる女の子がいたとして、その子に向かって、僕が全精力を注いで、「僕はねえ!」なんて熱く自分語りをしたところで、ポカーンとされるだけだから。相手を困らせるだけで終わる。いくら好き合ってたって、意外と相手のことなんかそんなに知りたくもなかったりするのよ。僕は、「僕はこうだ」っていう答えを言わないから、相手は「ああ、こうなのね」と納得することができなくて、「で、どういうことなの?」になって、わけわかんなくて、それで悩んで、もしくは考えることをやめてしまって、やがて静かに「好き」という状態から離れていく。 そうならないで、食らいついてきてくれる子も、たぶんいて、その子たちはたぶんこの文章もきっと読んでいてくれるのであります。多謝であります。というのは妄想であるにしても、全国30人(もうそんなにいないだろうけど)の当サイトの読者さんたちは、「またなんか言ってるな……」とか半ば呆れつつも、こういうどうでもいい文章を性懲りもなく読みに来てくださっているのです。ああ、本当に感謝。 僕でなくとも、一人の人間が持っている情報とエネルギーは相当に膨大なもんで、それを誰か一人の人間にぶつけてしまうなんていうことは、ほとんど犯罪に等しい。でも、だからそれをしてはいけないということではなくて、だからこそそれは尊いことなんだと思う。もしもその「情報とエネルギーのぶつけ合い」がうまくいって、その人たちが幸せになれたならば、それほど美しいことはない。 僕がネット上で、無差別に、爆弾を配り歩くようにものを書くのは、だから「友達募集」みたいなもんです。ドッヂボールのように心のぶつけ合える相手を探しているのです。すると幸いにして、ときおりメールくれたり、mixiで声をかけてくださる方もいたりする。上のほうでは女の子の話をしていたけれども、実は性別なんてあんまり関係のない話で、「さみしいなー、気の合う人はいないかなー」っていうだけのことなのです。無人島から流す、ビンに入った手紙のような役割をこのサイトがしてくれたら、いいなと思っておるのです。贅沢に孤独であるような僕は、いつもそういうことばっかり考えて暮らしています。 なわけでよろしく。 2009/09/05 Jungle Smile『おなじ星』 動けなくなる… 何度抱きしめ合っても 胸が“キュン”ってなるよ “恋してる”とか“好き”とか そんな気持ちじゃ済まされないんだ この“キュン”が何度聴いても“ギュン”としか聞こえない。 そんなことを思い出した。 この曲はなんと言っても 「たとえあなたが女に生まれてきたとしても」 っていう部分、すごい。 ふつうこんなこと歌わないよ。 「直情的な歌詞」ってのはこういう曲のことを言うのだな。 僕がいちばん好きなのは『夏の情景』という曲です。 こっちが本当の名曲。 作詞者が↑とは違うんですけども、いい歌詞ですよ。 歌詞付きなのでぜひ。音質はこっちのほうがいいかも。 |