新潟中越大震災−震災地レポート |
![]() |
| いざ川口町へ |
2004年11月7日僕は新潟県川口町に向かった。 川口町は今回の中越地震で最も揺れの大きかった所で震度6から7だった。そして、僕の住んでいる狛江市とは友好都市で小学生が稲をもらったり手紙のやり取りをしている。 交通手段は関越道で小千谷までバスで行き、そこから高速バスを乗り継いで越後川口インターまで行き、そこからは徒歩で30分だ。ボランティアで来る人は、だいたい自分たちの車で来る人が多く、ボランティア本部に問い合わせても道路情報までは把握できていない状況だった。高速道路も復旧作業中で少々遅れたがなんとか無事越後川口インターまで着けた。 インターから川口町へと歩き出す。 一面に広がる田んぼを見ながら所々波打った道路を歩く。15分ほど歩いたところで驚愕する景色が待っていた。道路が幅5メートル長さ10メートルほど崖側に落ち、下まで15メートルはあろうかという景色が広がっていた。(下の写真参照) まさに、テレビで見た映像が今目の前にひらけているのである。 そして、ここから川口町ボランティアセンター本部までの間に、倒壊している建物をいくつも目にした。 信濃川(川幅約100メートル)に架かっている橋も真ん中でつながれているジョイント部がずれており、車はゆっくりと通っている。 町の中はどうなってしまっているのだろう? 想像以上の光景に、このあと目にするものを考えられなかった。 |
![]() |
![]() |
| 被災者の避難所へ |
ボランティアセンターに着くと僕はまず寝床の確保を急いだ。肩に食い込んでいる60リットルのバックパック、左腕に抱えられたボストンバッグを置かなくては活動ができない。たずねるとボランティアセンターの裏に設置されたテントへと案内された。テントは4人用だが僕のとこは誰もいなかった。 荷物を置き、センター入り口にて参加の登録をする。 ここでは、毎日ボランティア活動に参加するにあたって登録をし、胸に名前を貼ってから活動を開始する。 準備ができたら本部スタッフの人が募集をするのを待つ。待つ場所では常時20人ほどのボランティア参加者が仕事を待っている。(写真参照)みんな全国各地から駆けつけており、南は宮崎から北は青森までいた。 5,10分待っていると「はい!力仕事10名!」 「車お持ちの方で救援物資を運んでくれる方!」 など募集がかかる。やりたいと思った人は手を挙げ、スタッフの指示に従いグループで派遣される。一人で活動することは禁止されている。どの活動をするにも班に1人リーダーを置き、チームで動く。でないと、禁止事項を破る輩がいるからだ。それは、取り返しのつかないトラブルを呼ぶことになりかねない。 禁止事項には、被災地での写真撮影の禁止。や、ゴミ捨ての禁止などだ。ボランティア活動が始まって間もない頃、被災者の避難所等で写真を撮る人が多かった。そのため、被災者の中にはボランティアが観光客気分で来ているのだと思う人も少なくないようだ。 実は、僕もここでみんなに、むこうの実情を伝えたくてデジカメ持参で参加したのだが、初めに釘をさされ残念に思っていた。 しかし、被災者の避難所は想像を絶する雰囲気に包まれていた。 僕は、この日12時過ぎに着いたので朝からいなくては参加できない活動には加われなかった。子供と遊ぶ「のびのび隊」という活動があり、これに参加したくて東京から紙粘土や絵の具やらたくさん用意してきたのだが、とりあえず明日以降ということになってしまった。ということで、この日は避難所にポータブルトイレを届ける仕事をした。この時は、まだ、避難所がどのような所か分からなかった。体育館などで共同生活をしているのかな?と思っていた。 車にポータブルトイレを、1っ箇所につき2個。2箇所行くので4個乗せ現場に向かった。 初めの場所は生涯学習センターだった。しかし、川口町はまだ避難勧告が解けておらず、建物での生活は制限されており、ほとんどの人は学習センターの横に止めた車の中かテントで生活していた。駐車場には車が20台ほど止めてあり、中で生活しているのが伺える雰囲気だった。 そこで、トイレを降ろし避難所の人に声をかけた。 「すみません。失礼します。私たちボランティアセンターから来たものなのですが、ポータブルトイレをお持ちしたので、是非お使いください。」 5人ほどいた人は、顔を合わせて(どうする?)といった表情である。そのうち一人の方が「そこの隅に置いといてください」と入り口を入った玄関の隅を指差した。僕はこのとき、なにかしっくり来ない感じがしたのを、なぜなのかまだ分からなかった。 そして、ボランティアセンターの方から、足りないものがあれば聞いてきてください。と頼まれていた。 「なにか、不足しているものはございませんか?」 これにも、みんな顔を合わせ「特にないです」の一言だった。僕らは次の場所へと向かった。 次の場所は初め見た時、僕は自衛隊の駐屯地かと思った。緑の軍物テントが規則正しく一面に40近く張られていた。縦4メートル、幅2メートルほどのテントだ。僕らはトイレを持ち敷地に入っていくと、そこはまるで精気がなかった。人は誰も外に出ておらず静まりかえっていた。 一人の老人が出てきた。 僕らに気付くとすごい剣幕で歩み寄ってきた。 「あのぉ、すみません。ボランティアセンターのほうからポータブルトイレをお持ちしたのですが。」 「あぁ??」老人の見る目は敵意に満ちている。 丁重に事情を説明するがなかなか分かってもらえない。「そんなものは、あっても邪魔だから持って帰れ」「いや、でも、これからもし、体調を崩される方がいらっしゃるかもしれませんから」となんとか置かせてもらえた。事情を聞くと、ここに避難している人たちは、信濃川の河川敷でテント生活をしていたのだが、ダムの決壊を恐れた自衛隊の指示でここに移動してきたらしいのだ。ただでさえ疲れる避難所生活なのにその上移動までさせられ、ここの人たちは疲れきっていた。 そして、ほんとにポータブルトイレが必要だったのは地震直後で「なんで今さら?」といった感じなのだ。 この時ようやく、さっきの学習センターでの腑に落ちないことを理解した。 ボランティアなど、どこの馬の骨とも分からない者が勝手にやってきて、必要のないことをしている。と捉えられているのだ。 この時、僕はテレビの映像からは想像もできなかった「被災者の心の傷つき」を学んだ。 |
![]() |
![]() |
| お風呂にて |
その夜に僕は、信濃川の河川敷に自衛隊が設置したお風呂に行った。基本的に被災者の方専用なのだが、ボランティアも入っても良かった。 風呂の前に着くと風呂とは別にテントが2つありその中で待たされた。自衛隊の人が「次、3名どうぞ」と案内していく。このテントの中で隣に座った40代のお父さんと話すことができた。こっちにきて初めての会話らしい会話だ。今日の昼間のことなどを話すとお父さんはこう言った。 「こっちの人は、自分のことは自分でなんとかするっていう考え方なんだよ。農家も兼業が多く、自給自足している。雪が積もれば隣の家にも行けず、家族だけで暮らしていく。だから、人の手は借りたくないのさ。そして、行政の対応の遅さ。みんな、今さらって思っているよ。最低限のものはそろっている。あと欲しいものは、家に帰りたい!っていう思いだけなんだよ。」 このお父さんは老人、子供にはつら過ぎる。と淡々と語っていたが、一家を支える父として、先の見えないこれからのことを考えると、老人や子供にはないプレッシャーや疲労があるに違いなかった。 そして、テント生活についてたずねると。 「僕は、今晩死ぬ覚悟で家に戻って家から明日は仕事に行くんだ。テントは6人定員で今は3人家族2つが一緒に暮らしている。僕の仕事は朝早いから、僕が出て行くときにガサガサ音を立ててみんなに迷惑をかけるのが嫌なんだ。」と言われた。 このときの、「死ぬ覚悟」というのをこの時はまだ、理解できていなかったが、僕はこの晩身をもって知った。テントで眠りにつきしばらく経ってからだ。 枕を下からハンマーで突き上げられた。 僕は、飛び起きた。 余震だった。こんな経験は初めてだった。 東京に住んでいる僕は、幼い頃から頻繁に経験している地震で、別に地震が起きても「あっ、地震だ。」という程度だった。今まで何度も寝ていて気付かなかったことがあった。 しかし、今回のは違った。 いわゆる「縦揺れ」というやつだ。こんなのが、一晩に何回かある。お父さんの「死ぬ覚悟」というのを、僕はこのとき初めて理解する。 話は戻り、テント生活だが、あの狭いテント(縦4メートル、横2メートル)に6人も暮らしているとは想像もつかなかった。「荷物は置けているのですか?」 「いやぁ、家族3人寝たらいっぱいさ。荷物は家に置いて取りに帰っているよ。」 「でも、まだ避難勧告解けてないから、家には入れないんですよね?」 「うん、でもそんなこと言ってたら生活できないんだよ」お父さんはあきれた口調だった。 僕は、いたたまれない気持ちになった。 被災者の人のこんな気持ちも考えず、被災地での写真を撮りたい。などと考えていたのだ。 しかしここで、お父さんから意外な話を聞けた。 「僕らはまだマシさ。体育館で共同生活をしている人に比べたら自由なこともある。むこうじゃ、大人も酒を飲むわけに行かないだろうし、それに、改めて気付いたことがあるんだ。それは、家族の絆かな。家じゃ家族で話せる時間が限られていたけど、今じゃ嫌でも一緒なわけだから、いろんな話をするよ。子供との絆も前より固くなった。僕らは、この経験からなにかを学ばなければ復興は実現できないだろう」 思わず、ほろっ。っときてしまいそうな安心感のある大きな話だった。 そうこうしているうちに、お風呂の順番が来た。 お風呂はまるでサーカス小屋だった。 高さ2メートルほどで、幅3メートル、奥行き8メートルほどの緑の軍用テントだ。脱衣所で服を脱ぎ中に入ると、湯気の中に人が見えた。2メートル4方の布でできた箱型の浴槽が2つ並んでおり、その周りに人が座って身体を洗っていた。お湯は外のボイラーで沸かし太いホースで絶えず足していた。 ここでひとつ気になったことがある。 ここで、流している水はどこに行っているのだろうか? 見る限りでは、垂れ流しでスノコの下に見えている砂地に浸み込んでいる。じゃあ、自衛隊の置いているシャンプー、ボディーソープは自然に影響を与えない特殊なものなのだろうか?アジエンス?全く市販のものである。これは、次の日に地元の人から聞いたのだが、この辺一帯は、みなさんお馴染みの「魚沼産コシヒカリ」を育てている田んぼが一面に広がっており(写真参照)水と土壌に対する思い入れは、半端ではない。 こちらでは、北魚沼郡、中魚沼郡、南魚沼郡によって米の値段も違ってくる。そのため、農家の人は、より良い土壌をトラックで買ってきて、田んぼに混ぜたりして毎年試行錯誤しているのだ。 それなのに垂れ流し? 目先のことと復興後のこと。2つを同時に考えるのは難しいのだろうか?それとも、そこまでは、考えが回らないのであろうか? こっちに来てから、複雑な思いばかりが募る。 |
![]() |
![]() |
| 物資について |
これらの物資は日本全国から集まったものだ。(写真参照)水、衣類、子供の遊び道具。実にたくさんの物資が届いている。避難所には定期的に必要なものを届けているが、ここボランティアセンターの物資置き場に来て好きなものを持って帰っていただいている。ここで物資救援の問題点がいくつかある。 先にも述べたように、ここの人たちは土地柄、他人の手を借りたくない。というのがあるため、なかなかボランティアセンターに欲しいものを取りに来るようなことはしない。そのため、物をいっぱい持っている人と、持っていない人の差が激しいのだ。 そして、この差が人々の心に摩擦を作っている。 とりあえず、じぶんのところから。という考えが家族ごとの助け合いを削いでしまい、援助がプラスにはたらいていないのだ。 援助の弊害は他にもある。 要求がどんどん過剰になっていき、化粧品やゲームのソフトなどとなってしまっている。道は開通しており隣町まで買いにいけるのに、こちらにそういう要求が来てしまう。たしかに、今まではあったものだろうが、センターとしても、なんでもかんでも応えるわけにはいかない。そして、ショックだったのが、避難所の子供が有り余る物資のために、ものの価値観が崩壊してしまったのか、飲みかけのお茶をそこらに流し捨て、少しも経たないうちに次の物を開けているのである。 このへん、センターはどこに物資が偏っているかを正確に把握する必要がある。そして、避難勧告が解けこれから被災者が家に戻る時に、なにが必要になってくるか?を前もって予測し用意しておかなくてはならない。 救援という形の着陸地点をうまく定めなくては、本当の復興には結びつかないのだ。 |
![]() |
![]() |
| すばらしき出逢い! |
さて、ここで今回のすばらしき出逢いを紹介したい。 今回川口町に来て2日目から「のびのび隊」という、こっちの子供と遊ぶ専門のチームに参加できた。 のびのび隊では4人1チームになり、子供の集まってくる広場や避難所を午前午後に分けて2箇所回る。 この日、僕の班のリーダーの加々見さんは自分で自然学校を営んでいる、遊びのプロだ!そして、一緒に活動した、エリとナオ!エリは学生だが休学している。いろんな思いがあってここに来たのだろう。ナオは保育士さんである。心強いことこの上ないメンバーだ。僕は3日目の明日からリーダーとなり、今日から行くところへ行くことになるので、今日中にすべてを把握しなくてはならなかった。 初めに行く場所は「関さんの家前広場」である。佐賀県の歌のバス停のような名前だ。 そこは、本当にすばらしい広場だった。 芝生が1面に広がり、サッカーゴールが向き合い、バスケットゴールもあった。水田に囲まれ奥には高さ30メートルにも及ぶ杉の木が伸びていた。そこに、近所の子供が、3歳から中学生まで遊びに来る。 このあたりは、比較的災害のダメージが少なくみんな家で生活していた。そのため、子供も明るかった。 幼児の撤兵はここに来る途中に、家の前で遊んでいるのを見かけ声をかけた。「広場で遊ぼうよ」すると、ものすごい勢いで自転車をこいで車を追いかけてくる。しかも、満面の笑みだ!僕らはみんな涙が出そうだった。 そして、こどもと思いっきり遊んだ。僕は子供とサッカー、バドミントン、田んぼのあぜみちで追いかけっこ、とにかく走り回っていた。エリとナオは、お絵かきをしたり、折り紙をしていた。加々見さんは、自分の車からなにやら板を降ろし企んでいる様子。なんと、子供と一緒に広場のテーブルを作ろうというのだ。そのうち、一人の中学生が手伝い始めた。復興を予感させる良い絵である。すべてが、丸く動いていた矢先だった。 「きゃーーーーっ!!」 子供の声が響く。みんなしゃがんだ。 余震だった。震度5だった。 それを境にエリにずっと抱きついて離れない子供もいた。やはり、今必要なのは心のケアなんだと感じた。 そして、子供がみんな甘えたくなっているのは、余震のせいだけではなかった。 子供たちのお母さんは、家事と老人の面倒などで手一杯になっており子供と遊んであげられる時間がないのだ。子供たちは、愛情に飢えていた。 午後からは避難生活を続けている精米所に行った。 行くとすでに、子供たちがドッヂボールをしていた。 ここでも、幼児から中学生までが一緒に遊んでいた。 やわらかいゴムマリを使って大人対子供で対決! 子供の圧勝である。ここの、広場は女の子がしきっていた。じゃりんこチエみたいのがいっぱいいる。 そうすると、不思議と男の子たちは静かなものである。ボールを取っても横取りされ投げるのは女の子。 良い村は女が元気だ!という言葉をどっかで聞いたことがあるが、まさにその通りである。 そしてその夜、加々見さんやエリたちと一緒に晩飯を食べた。ここに、エリと一緒に来た小林さんと藤井さん、地元の安部さんが加わった!安部さんはこの日採れたてのシメジを持って来てくれた。1メートル先からでも匂ってくるシメジである。それをオリーブオイルでゆっくりと火を通し、粗塩をかけて食べ、日本酒を舐める。まさに、至福の時である。この日の熱い語らいは終わることを知らず、気付くと明かりの点いてるテントはうちだけだった。(写真参照) 次の日は、いよいよ僕がリーダーだ。気合いを入れて準備した。うちのグループは東日本国際大学の職員をされている安さんと、そこの学生のケンと、石川から日帰りで参加していた、望だ。午前中は幼児二人だけだったが、紙粘土に絵の具で絵を塗ったり、サッカーしたり大人が多くて細かくサポートできて、すごく良かった。午後からは一気に人数が増えた。というのも、今日から小学校が始まり、午前の授業を終えてみんな遊びに来たからである。とたんに、にぎやかになり子供のはしゃぎ声で溢れる。近所の人も、「やっぱり子供の声っていいですね!」と言ってくれる。うんうん、やっぱりいいものである。 午後の精米所では、やはり今日もドッヂボール。 今日も大人は惨敗である。どうしても、子供ルールに勝てなかった。「当てたら5千万円だからね!!」子供はずるい。 この日の夕方から僕は、ある人を探していた。 僕の住んでいる狛江市のボランティアセンターから来ている須崎さんと武藤さんである。お二人のことはここに来る前から情報としては知っていたがお会いするのは初めてだった。こっちで、活動してればいつか会えるだろうと思っていたらもう、帰る前日になってしまい慌てて探したのだが、誰に聞いても見つからない。そんな時、夕べ加々見さんが言っていたことを思い出した。「そういえば、狛江市のテントってうちのすぐ裏だよ」「じゃあ明日行ってみます」ほろ酔い気分でこんな会話をしたのを思い出した。 たずねてみるとたしかにあった! 中を覗いて見ると一人男性がいた。 「すみません。私。狛江から来たのですが」と言うと 「いやあ、それはそれは!まあ中へどうぞ」と招き入れてくれた。話をしていくとこっちの役場の方にいらしたらしく、ボランティアセンターでいくら探しても見つからないわけだ。「これは、あったまりますよ」とウイスキーのお湯割りを作って下さった。須崎さんはうちのバアちゃんとも仕事をしたことがあるらしく話はトントン拍子に弾んだ。気さくな良い方だ。そのうち、もう一人の武藤さんも帰ってきた。武藤さんは僕より少し上の方で、これまた、すごく良い方だった。武藤さんも子供のことを一生懸命考えてらっしゃる方で、「近々、是非一緒に仕事ができるといいですね!」とおっしゃってくれた。再会を約束しこの日は、足早に帰ってきた。お二人はもう、何日も前からいらしており疲労も伺えたからだ。 この日は、感無量で寝床に着いた。 いよいよ最終日、僕は10時半には越後川口インターに向けて歩き始めなくてはならないため、広場に30分ほどしか居られなかった。しかし、この日も出逢いはあった。いままで、のびのび隊を取りまとめていたホールアース自然学校の遠藤さんと小林さんである。お二人とも毎日話してはいるのだが、今日はリーダーの引継ぎが無事終わり東京に帰るということを伝えに行くと、普段のライフスタイルも含めた話ができたのだ。僕が見てきた限り、のびのび隊の活動においてこの二人の活躍は大きい。いろんなリーダーやのびのび隊の話を聞き、報告書を参考により良い支援を目指している。いろんなものを、この二人から学んだ気がする。 そして、僕の抜ける今日からうちのチームに入ってくれた人たち!とくに、東京で工作や生きる術を子供に教えている、通称、博士からは、いろんな遊びやこれからの生き方に参考になる話を聞かせてもらった。 本当に良い出逢いがたくさんあった。 そして、朝から夜まで「お疲れ様」「ありがとう」「ご苦労様」の声が絶えることのなかったこの、ボランティアセンターに携わっていた全ての人に感謝したい。本当にありがとう。共通の思いのために共に頑張れることの喜びを改めて教わりました。 そして、最後に新潟中越地震で被害に遭われた方の復興を心から祈っています。 |
![]() |
![]() |
リンク集 |
次の「最新ニュース」へ |
こちらか下のNEXTをクリックしてください! |
ホールアース自然学校 |
こちらは、遠藤さんが勤める自然学校です。 |
狛江ボランティアセンター |
こちらは、須崎さん、武藤さんの勤める狛江市のボランティアセンターです。 |
ケープレス(k−press) |
こちらは、狛江市と川崎市に関する情報を発信している。インターネット新聞です。狛江市と友好都市の新潟県川口町に関しても色々と載せております。僕が狛江7小で震災地報告会をした時の模様、また僕が書いた震災地レポートが載っております。 |
暁ボランティアネットワーク |
こちらは、新潟中越大震災ボランティアで共に活動した、尼子エリさんが開設する、新潟中越大震災のボランティアネットワークです。 |
NPO法人 自然と遊びの会 |
こちらは、加々見さんの開いている自然学校です。 |
![]() |
|