NGO in KENYA |
ここでは、僕のケニアでのNGO活動を伝えていきます!
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| ケニアに決めた理由。 |
まず、初めにNGOへの参加動機だが、これは僕が世界を一人旅で周っているうちに、だんだんと強くなってきたのである。 旅をしていて嫌な思い出は、ほとんどない。 強盗にパスポートと有り金全部取られたときも、赤痢でトイレまで行くことすらできず部屋のゴミ箱で用を足していた時も、その国の状況と文化を感じた。 すべての出逢いと経験が今の僕を形成していて、僕はそのうち、 「旅で色々周るよりも一箇所に腰を据えて、現地の人の役に立つ経験がしたい。」 と思うようになった。そして、もうひとつは、旅ではその場所に住む人の考え方や文化を本当に吸収するのは時間的にも、関わりあい方的にも難しいと考えたからだ。この経験はこれからの僕のすべてに大きな影響を与えてくれるものになる!という確信があった。 では、どうしてケニアにしたのか? 僕は、世界を一人旅してきたのも、すべては高校で生きた地理を教えるためであった。一つでも多くの国を見て、感じて、ありのままを生徒に伝えたかった。だから、限られた時間の中で、周れるだけ周ってきたし、2度は訪れることはない。と決めて周っていた。 僕は、2度訪れることはないと言いながら、実は行きたい国がいくつかある。 その中の一つがカンボジアだ! 「いままででどこの国が一番良かった?」 よく聞かれるのだが僕の答えはカンボジアだ。なにが良かったのか?「人」である。どこの国も良かったのだが、なぜかカンボジアには深い思い入れがあるのである。なので、僕はNGO活動をするならカンボジアの人の役に立ちたいと思っていた。 しかし、ケニアに興味がものすごく湧いたのは、やはりアフリカという子供のころからの憧れがそうさせたのだ。象がいる。キリンがいる。果てしない草原と澄み切った空。 僕は、アフリカ大陸はエジプトしか行った事がなかった。動物の楽園ケニアが想像通りかどうか確かめたくて仕方なかった。 そして、ケニアで活動しているいくつかのNGO団体にメールを送った。僕は建築がやりたくて、それをポイントに団体を探した。 なぜ建築にこだわったかというと、今回の目的である 「現地の人の役に立つ!」 ということと、 「より深く文化と考え方を学んでくる!」 の2つを手に入れるには僕は建築が一番良いと判断したからだ。言葉も通じない者同士がどうしたら思いを通じ合わせることができるのか? 僕はなにかを一緒に創り上げること!だと考えた。そして僕が参加する半年の間に建築をする予定がある。というのが団体を決める条件だった。幸いその中の一つの団体から、ちょうど僕が行く2002年の6,7月頃から病院建築を始める予定で、ぜひ参加して下さい!と暖かい声をかけてもらい団体はミコノインターナショナルに決まったのである。 |
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| 建築スタート! |
僕たちの活動の拠点となるガリッサという町は首都ナイロビから車で6時間のところにある砂漠の町だ。 雨季もあるので、完全な砂漠ではないが、乾季は砂漠である。 強い日差しが示すものと言えば、ガリッサにはプロソフィスというトゲのある木が多い。サボテンなどもそうだが日差しの強さは植物を変形させる。サッカーボールはすぐにパンクするし、夜に明かりもなしに風呂(バケツに汲んだ水を浴びるだけだが)へ行く途中、サンダルで踏んだ時には、あまりの痛さに漫画のようには飛び上がれない。 そして子供たちは毎日何キロもはなれた給水所まで20リットルもの容器を持って汲みに行かなくてはならない。容器は樽の様に丸いので足で蹴って転がしてくるのだが、下が砂で凹凸が激しく、なかなかうまく転がってくれない。なかには、赤ん坊を背負って転がしている子供もいる。 しかし、子供の表情は明るく、手を振れば無邪気に振り返してくれる。僕が、初めてガリッサに着いた日に、宿舎へと戻る途中で見た光景が今でも忘れられない。 ある子供の兄弟がおでこをくっつけたまま夕方の西日と風を受けながら楽しそうに会話しているのだ。西日の色と暖かい風とその兄弟とが優しく僕を迎え入れてくれてるようだったのだ。僕は、着いてすぐにガリッサを好きになっていた。 それから数日してすぐに建築は始まった。 何を建てるのかと言うと、診療所の医者や看護婦の泊まれるスタッフハウスだ。今回これを建てるにあたって資金援助をしてくださった「国際協力支援の会チームガリッサ」のみなさんが今までにメディナ診療所と検査室を建てた。今回は、その診療所を充実強化させるためにスタッフハウスを建てるのだ。今は、医者と看護婦が宿直できない関係で診療は午前中のみなのである。 しかし、患者にとって病気はそんなに都合よく待ってはくれない。当然緊急事態が起きてくる。それに備えようと言うのが今回スタッフハウスを建てる目的だ。 うちの団体では、現地の人間を3人雇っている。1人は副所長でワルサメといい、彼は、元教育長のお偉いさんでうちが学校建築などをするときには、うまく地元のお偉いさんとのパイプ役になってくれる。 2人目はサイディといい、ミコノが開設している自動車整備工のワークショップにて地元の若者に整備の技術指導をしている。 3人目はジュマといい、なんでも屋だ。彼は主に建築があるときなどは、職人との間に立ち言わば親方的な存在なのだが、車の運転が好きだ!UDと呼ばれる長さ10メートル近い車を運転している時の彼は、まるでライオン様のお通りだ!!状態である。 そしてジュマの人脈はすごかった。それは、男にも女にもだが、彼に任せておけば人手に苦労することはなかった。 彼はカンバ族の人間だ。 ガリッサの9割はソマリア系のソマリ族である。残り1割には、マラコテ族やポコモ族、そしてカンバ族がいた。ソマリ族は遊牧民族でヤギなどの家畜を生業にしている。体系もひょろりとしていて、背も高い。そのため力仕事にはむかず昼間は木陰で寝そべっているものが多い。 一方カンバ族は農耕民族であり畑を耕して生きてきた。そのため背は大きくないもののがっしりとしており力仕事を得意としている。僕が建築で一緒に仕事をしたのはカンバ族の人間だ。彼らはいつもガリッサにいるわけではなく、ナイロビとガリッサのちょうど中間にあるムインギという村から来ている。つまり出稼ぎである。ガリッサで建築がある間だけこっちの仲間の家に転がり込んだりしているのである。 さて、長い前置きはこのへんにしてそろそろ建築を始めるとしよう! 工事ができる期間は今日7月の1日から9月の半ばくらいまでである。というのも、今回支援してくださった「国際協力支援の会チームガリッサ」のみなさんが出来上がったスタッフハウスをガリッサメディナ地区の皆さんに受け渡すプレゼントセレモニーにやってくるのが9月13日だからである。その時までに完成させなければならない。 だが、そんな心配はなにも考えず建築は始まった。まずは、ミコノの所長、土方さんと、埼玉から参加していた仙ちゃんとジュマと僕の4人で現場へ行き測量を行った。ここはメディナと呼ばれる地域であり、ミコノが1997年にヤスリップ小学校を建てたすぐ隣である。隣と言っても数百メートル離れていてその間には何もないため隣と表現した。 ガリッサの人々は遊牧民である。そのため、メディナに学校と病院ができてからはどこからともなく人々がやってきて、ここは私の土地だとおのおのが家を建て始めあっという間に集落が形成されたのである。家と言っても木の枝を重ねてドーム状にしただけのマニアッタと呼ばれる本当に間に合わせで作ったような家である。これを作るのは専ら女性の仕事で、とにかくソマリ族の男は働かないのである。これがそのまま、女は家のことだけやってればいいんだ!という差別に結びつきガリッサの女の子の就学率を下げているのである。 このような、メディナの人口増加も伴い診療所は早急に診療時間の延長を必要とされた。 測量が終わりある程度どこを掘ってどこに壁が立ってどんな大きさの建物になるかが決まった。次の日からいよいよ建物の土台となる基礎部の堀が始まった。 建物の基礎になる部分を掘ってそこにコンクリートを流し込み頑丈な基礎部を造るのである。 次の日から現場に行く日本人は主に僕だけになり、朝ジュマと2人で事務所を出発する。途中、職人たちが集合している所に寄り、車の荷台にみんなを乗せて現場まで行く。今日は人数もグッと増えて10人近くいた。 僕は、朝、現場に着いてから、1人1人にあいさつと握手をして回った。これは、建築が終わるまで毎日続けたことだが、朝、仕事前のコミュニケーションというものを大切にしたかったからだ。 さっそく、きのう測量して決めた基礎の部分を掘る。深さ90センチ、幅60センチの溝を掘っていく。スタッフハウスの土台となる4隅を結んだ4角形と、部屋を仕切る壁がくるところを掘る。スタッフハウスは幅15メートル奥行き4メートルほどの長屋のような1階建てを建てる。10人ほどの職人はここからここまでが自分の掘るところだ。と場所を分担し作業にかかった。 いつのまにか、しっかり僕のポジションも設けられていた。日本だったら「まあまあ監督さん。休んでてください。あっしらがやりやすから!」ってなものだが、ケニアでそれは通用しなかった。まあ、やるなと言われてもやってしまう僕である。ケニアの土を掘るために日本から来たのだ!喜んで汗を流した。 この日の職人の賃金は、掘った土の量で決まる。30センチ4方の箱状あたり8シリング(日本円で約16円)である。始めた頃の作業は一日いくらというより、これをやったらいくら!という感じだった。 基礎掘りが終わった次の日に、これから使う砂利を掘りに行った。セメントと砂利を混ぜ合わせてコンクリートにして基礎部に流し込んでいくのだ。 砂利はガリッサの中心部から車で20分ほどのところに掘りに行く。ガリッサは砂地が多く砂利の採れるところは限られている。 この日はUD(長さ10メートルほどのトラック)に職人を3人ほど乗せてジュマの運転で行った。 たぶん誰のものでもないような場所なのだが、一応「ここは俺の土地だ」と言い張る番人がいた。UDに山積みにして2800シリング(約5500円)だ。そして、今日の職人はここの砂利が採れる場所からUDの荷台に砂利を積み、メディナの現場に砂利を降ろすために雇っていた。積んで降ろして1回800シリング(約1600円)だ。これを3人で割るから1回約530円だ。降ろすのはまだいいにしろ、この積みは半端じゃないきつさだった。 砂ならまだ良いが、砂利はスコップが刺さりずらい。 しかも、UDの荷台は高さ1メートル以上あり積みあがっていくと、もう上に放る感じである。そして僕を入れて4人でやっても積むだけで1時間近くかかる。 掘ってー乗せてー!掘ってー乗せてー!延々繰り返される。腰は痛いわ、腕はぱんぱんだわ! しかし、しばらくするとすこしコツを掴んだ。 ほかの職人はある一定のリズムで積んでいた。 けして早くなく、そして遅くなく。農作業のようなリズムだ。そして農作業といえば歌がつきもの! 彼らもなにやら大声で独り言のように歌い始める。 一人が歌い終わりしばらくすると、他の誰かが歌い始める。けして一緒に歌わない。言葉は、スワヒリ語でなくカンバ語だった。彼らはもともと農耕民族である。このとき、日本と共通するものを感じた。 この日は、4回積み降ろしをやった。終わる頃には砂利にまみれ埃だらけになっていた。 しかし、1日同じ目的で作業をしただけでもう友情が芽生えていた。 人間というのは、すごく単純なものだとつくづく感じた。 |
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| マラリアと闘いながら |
建築が始まって3週間。だいぶ流れが分かってきて順調に進んでいた。 しかし一つ気になることが出てきた!作業もだいぶ決まってきて職人への日当も1日当たりいくらという払い方になってきた。 基本的には親方が約600円。子分は400円である。お金は毎日事務所に帰ってきてから直接支払った。この時、職人は決まってなんかかんか言い訳をつけて日当の値上げを図る。 「今日はコンクリこねるの大変だったからもう100円多くくれ!」 などと言い出す。所長に相談すると、お金の管理も任せると言うことで、僕の判断に委ねられた。僕は、こういった要望を一度許すとどんどんエスカレートしていくのを感じた。建築はまだまだ先が長い。こんなところで、甘やかしてはダメだ!と強気で対応しても、むこうも引き下がらない。結局お互いの言う金額の半分くらいで話がついた。さっきまで、現場で仲良く共に作業していたのに、夕方の別れ際にこのようなことになってしまう。なんとかならないものかと、ものすごく悩んだ。 次の日僕は事務所から大きな鍋と紅茶を持って現場に向かった。作業は9時から12時までと14時から17時までである。彼らはその間に休憩を取る。ケニアではチャイといって煮詰めた紅茶にたっぷりの牛乳を入れて飲む習慣があり一日に5,6杯は飲む。現場は町の中心から30分ほど離れており気軽にチャイタイムが取れない。そこで、僕は現場で火を起こしてチャイを作ることにした。 現場に職人を降ろし、町に材料を仕入れに来た時に、市場に寄りやすーいマグカップを15個、牛乳を1,5リットルほど仕入れて現場に戻った。そこらに落ちている木を集めて火を起こし岩でかまどを作ってチャイを淹れた。 現場のみんなが、「なんだなんだ!」と寄ってくる。一人一人に淹れてあげみんなで輪になってチャイをすする。自然と笑顔がこぼれる。僕は、特別な建築の知識を持っているわけじゃない。できることは、すこしでもみんなに楽しんで仕事をしてもらうこと。そして良い雰囲気の現場にすること。を目標にした。 飲み終わってみんなが仕事に戻り一人で鍋を洗っていると、ピタがやってきて一緒に洗ってくれた。「俊、それじゃ汚れ落ちないよ!」と言うと地面の砂を鷲づかみにし鍋やカップをこすりだした。するとみるみる輝きを取り戻した。人間の生活など物がなくてもいくらでも代用できるのだと感じた。 日を改め、今度はおじやを作ってあげた。職人は昼に煮た豆を食べるだけだったので、ここでひとつ日本食を味わってもらおう!とやってみた。結果はダメ!!! やはり醤油とダシがダメなのか、みんなの表情は優れず、僕に見えないように捨てている奴もいた。しかし、一生懸命作ってたのを見ていたジュマだけは、「これ、うまいだー」と数少ない日本語で言い、何杯もおかわりしてくれた。こういった優しさが女にモテる秘訣なんだろう。この時ばかりは、女の子の気持ちになってしまった。 さて、こんな毎日を過ごしているある日、急に身体がだるくなった。あきらかにおかしい。熱中症のような感じだ。 「ついに来たか」 僕はつぶやいた。 仕事を終え、帰りに医者に血液をチェックしてもらった。結果は陽性。マラリアである。 しかし、原因が分かってしまえば体調不良も納得できる。ついに来たか、という思いが妙に僕のテンションを上げ、帰り道を一人飛ばし車を走らせていた。なぜか、大声で「リンダリンダ」を熱唱していた! その日熱はまだ37.8度だった。マラリアはコテキシンという薬を1週間かけて飲み、治す。この日は晩飯を食べ薬を飲み早々と寝た。 夜中に急激な寒さと震えで目が覚めた。僕は日本から持ってきたあらゆる衣類を着込み布団もかけたが、まるで効かない。その夜は寝床の上で体育座りをし眠れず朝を迎えた。 朝になると少し落ち着いた。この日は幸い日曜で仕事は休みだ。しかしここで、大切なことを思い出した。 昨日は基礎になる壁のブロックを積んだのだ。この時、セメントを使ってブロックを固める。ケニアは日差しが強いためセメントを使った仕事の後は2,3日毎日水をかけてやらないと、ひび割れしてしまう。 しかし、今日は日曜で誰も現場に行かない。ここで、水かけを怠ると、いつか壁がくずれ大惨事を招きかねない。ぼくは、濡れタオルを額に巻き車に乗った。 この時、一緒に暮らしていた仲間は僕を必死に止めたが僕も現場監督という責任感から止まるわけにはいかなかった。ボーっとする頭で道無き砂漠を飛ばす。現場につくころ額のタオルは蒸しあがっていた。 バケツに水を汲み昨日積んだブロックに水をかける。「シオシオシオシオッ」と水が浸み込む。 あまりの浸み込み具合にうれしくなる。しかし、このうれしさの代償は大きかった。 家に戻ると熱が40度を超えていた。ふくらはぎ、アキレス腱が締め付けられるように痛み、胸も圧迫感のある痛みが走っていた。 これは、まずいということでナイロビの所長の奥さん(栄子さん)と連絡をとる。栄子さんは元看護婦さんだ。バファリンを飲んで下がらないようだったら最悪ヘリコプターでナイロビに運ぶしかない。と言われた。意識が朦朧とする中、計ってみると体温計には42度の表示。そんな表示を僕は初めて見た。 あまりのことで、笑ってしまった。 「こりゃーやべーなー」と思わず口に出た。 翌朝になると、バファリンが効いたのか38,8度まで下がっていた。この隙に食べれるだけ食べる。マラリアとの闘いのコツはここなのだ。熱が下がった隙をついて栄養補給をし、また上がるのに備える。そんな日を4,5日しのげば回復に向かうのである。この時は、熱が下がってからもしばらく頭痛が続き10日程で全快した。 |
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| 完成が近づくにつれて。。。 |
9月に入った。あと2週間ほどで完成だ。 がむしゃらになってやってきたけど、ついに終わりが見えてきた。このメンバーで仕事できるのもあと少しなんだな。と考えると、やりきれない切なさがこみ上げてくる。でも、まだ完成していない。こんなことを考えていてはダメだと気持ちを切り替えた。 今日は、セメントを練る時に使う砂をUDで採りに行く。といっても砂漠の村だ。そこらじゅう砂地なのだが、それでもよりきめ細かいものとなると、場所にもこだわらなくてはならなかった。現場から5分ほどのところにすばらしい砂地があった。そこにUDを停め荷台に砂を積み上げる。この時事件が起きた。 ここのそばに住んでいる人が「ここは俺の土地だから金を払え」と言ってきたのだ。 この人だって、どこからか流れてきて誰の断りも無く勝手にここに住んでるだけなのだ。もちろん土地の境界もなく砂地が広がっているだけである。 ここで問題が解決しない理由の一つが、僕が一緒に仕事している職人とここに住んでいる人の部族が違うことだ。 ここの人は、ガリッサの9割を占めるソマリ族で、うちの職人はカンバ族だ。特別仲が悪いわけではないのだが、ソマリはイスラム教徒で、カンバはキリスト教徒だ。考え方や文化も違うし、なによりソマリはよそ者を嫌う。 スワヒリ語で激しく言い合いをしていたが会話は分からない。しかし、突然うちの職人が持っていたスコップを振り上げた!その場に緊張が走った。あんなもので殴っては確実に相手は死んでしまう。しかし、収まりがつかないくらい職人も興奮してしまっている。僕は瞬間的に間に入った。 「ここの砂を、どうかお願いだからメディナ診療所のために使わせてくれ。病院がより良くなればあなたたちもきっと助かるはずだ。毎日来てくれてもいい!」と必死に通じてるか分からないスワヒリ語で頼んだ。必死さが通じたのか、職人はスコップを下ろし、住民も立ち去ってくれた。部族間の争いは些細な事から、あっという間に取り返しのつかないことへと発展してしまうんだな。と感じた。 9月10日、ついに、このメンバーで仕事をするのが今日で最後となった。まだ、完成はしていないが、あとは仕上げということで、大工以外は今日で終わりなのである。この日、寂しさはありながらも、最後の時間を楽しんで過ごし作業は終わりに近づいていた。 僕はここで1回現場を離れた。どうしてもやりたいことを前から考えていたからだ。それは、完成したらみんなで現場で乾杯したい。という思いだった。 僕は、ビールとジュースをケースごと買いに行きトラックの荷台に乗せた。もちろん自腹だ。高くついてもいい、どうしてもやりたかった。現場に戻るとみんな待っていてくれた。荷台に乗っているものを見ると、みんなにやにやしていた。「シュポッ!!」いい音を立てて栓が飛んだ。みんな飲みたいものを手に取った。「さーていよいよ乾杯だな」とつぶやいているとフライングして飲み始めてるやつらがいる。 そっか、こっちじゃみんなそろって乾杯なんかしないのか。ちょっとがっくり来そうだったが、こんなとこで日本の文化を押し付けてもしょうがない。ひとりずつに乾杯してまわった。そうこうするうちに、職人が肉を食いたいと言い出した。 「俊、肉食いに行こうぜ!」 「そんなこと言ったってもう金ないよ」 「何言ってんだよ、俺たちがおごるよ!」 ってなことになり、タナ川というガリッサを流れる川沿いの店に行った。 さっそく「ニャマチョマ」と呼ばれる牛の焼肉を頼んだ。しかしこれは焼きあがるまで結構待たされるのである。その間ビールを片手に語り合う。この日は、 「俊にはひとり1本ずつビールおごるからな!!」 と言ってくれ、たらふく飲んだ。500ミリで1本なのだ。ほぼ、一気状態である。しかし、涙が出るほど嬉しかった。ビールは約100円し、職人の日当の4分の1もするのだ。なけなしの金で俺に今までのお礼だとおごってくれている。プレゼントセレモニーを前にして俺の中では今日が最高の打ち上げとなっていた。 帰りはジュマに運転してもらい僕も職人と一緒に荷台に乗って歌を歌いながら帰った。ひとりひとり家の側の道でトラックから飛び降りて帰っていく。それを、握手と最高の笑顔で見送っていく。またいつでも会えるのだが、この時間は2度とないとはっきり分かるほど惜しまれる別れだった。 最後にジュマとゾモが残った。二人とも同じとこで降りていく。ゾモはセメント職人の親方でいつもこの場所まで来るので、最後に別れる職人だった。いつも「ケショ!!」と言って手を振り別れていた。ケショとは「また明日」という意味だ。でも、今日は言えない。とたんに込み上げる寂しさを押さえ、「今日までありがとう」とかたい握手で伝えた。ジュマは明日からもずっと事務所に来るのだが、やっぱり今日までの感謝の気持ちを伝えたかった。 「今まで助けてくれてありがとう。ジュマなしじゃここまでできなかった」 と言うと、あいつはただ 「いいんだ、いいんだ。」 と言うだけだった。別れは引き際が肝心!僕はトラックに乗り勢い良く家へと向かった。 この時、改めて運転しながら見る右ミラーを見続けた。ここにはいつもピタが写っていた。現場から帰ってくる時、職人が降りそうなポイントが近づくと僕はスピードを落とす。職人は荷台から飛び降りて帰っていく。この時後ろから飛び降りたかどうか分からない僕にピタは右ミラーに写る様に合図をくれた。 いつも、無事職人が飛び降りると「トゥエンデ!!」と叫びミラーで合図した。トゥエンデとは、レッツゴー!である。もう、このミラーにピタはいない。そんな寂しさを紛らわすため僕はスピードをあげた。 次の朝、事務所に行くと副所長のワルサメにこう言われた。「俊、昨日の夜にこのトラックがすごい勢いで走っていたけどどうしたんだ?まるでライオンのようだったぞ!!」 僕は思いっきり笑った! |
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| 地元の人へ!! |
今日はいよいよ地元の人に完成したスタッフハウスを贈呈するプレゼントセレモニーだ。僕はこの日のために用意したものがあった。職人たちと打ち上げをした日に、全員のサインを一枚のTシャツにしてもらったのだ。 職人たちは、出稼ぎのものも多く今日のセレモニーを前に自分の村に帰ってしまったものがほとんどだ。僕は、みんなの思いと一緒に今日のセレモニーに参加したかったのである。 そして、この日のために日本から「国際協力支援の会チームガリッサ」のみなさんも駆けつけてくれた。きのうは、チームガリッサのみなさんが最後の仕上げをしてくれた。トイレとスタッフハウスのペンキ塗り、そしてソーラーパネルの設置だ。みなさん本当に忙しい中駆けつけてくれ、そして少しでも手伝いたい!との申し入れをいただき、僕としてもみんなで建てたんだという思いが込み上げてきた。 今日の、準備は朝から大忙しだった。物置からうちのガレージで整備の勉強をしてる若者10人と一緒にテントを運び、セレモニー用の会場造りをした。 この日は、メディナ地区の長老から保険庁のお偉いさんまでいろんな人が来てくれる。こちらとしても、迎え入れるのに必死だった。お偉いさんがジープ車で続々と現れた。それに伴いこのあたりの住んでいる人が2,3百人集まりだした。わいわい!がやがや!と会場を埋め尽くす。会場と言っても見渡す限りの砂漠の中に立った診療所の敷地である。敷地と言っても壁など無く平気でヤギやロバが通っていく。 新聞記者も来たところでセレモニーは始まった。 まずは、メディナ地区の長老から感謝の挨拶を頂いた。スワヒリ語なのでうちのボスが日本語に訳しみんなに伝えた。次に保険庁のお偉いさんなのだが、こいつが「俺は英語しか話せない。」などと言い出した。どう見ても、ケニア人なのにそんなことあるかよ!!ということで、僕が英語を訳してみんなに伝えるのだが、僕はケニア人の英語に参っていた。 僕はこれまで世界あちこち行って、いろんな人種の英語を聞いてきたが、ケニア人の英語が一番理解不能なのである。妙なイントネーションで完全にケニア語である。こっちの子供にも 「俊は英語話せないんじゃん」 と言われ 「俺が話せねーんじゃねーよ!お前らの発音がわかんねーんだよ!!」 と激怒したことがある。確かに彼らの言う「英語」は話せない。 そんなで、まわってきた通訳の仕事。案の定ほとんど分からない。 だいたい、スワヒリ語が話せない。というのが、みえみえの嘘なのだ。 「俺は他のやつと違って英語しか話せないんだよ!育ちが違うんだよ!」 ということが言いたいだけなのである。これを見かねてボスが話すと、そいつはスワヒリ語をたどたどしく使い始めた。「ほーら。嘘じゃん」。 そのあと、チームガリッサのみなさんから診療所に薬品の寄付があり、お偉いさんとガッシリと硬い握手をし、セレモニーは終わりへと向かった。 最後にセレモニーに集まった子供が歌のプレゼントをしてくれた。僕は子供と一緒に「アブラハムには7人の子」を歌った。彼らはスワヒリ語、僕は日本語。聞きなれない合唱に子供たちも大喜びだ。 僕はこの3ヶ月間毎日仲間に支えられ、ありがとう。を言って過ごし、今は地元のみんなから感謝の気持ちを受けている。今日のこの形を目標に毎日がんばってきても、この形にはならなかったと思う。その日その日を一生懸命楽しく過ごしてきた集大成が今日のこの形に結びついたのだと思う。今まで、分かっているつもりで、分かりきれていなかった、「ありがとう」という気持ちが自分の中で花開いた活動だった。 何度言っても言い足りない気持ちを、もう一度。 ありがとう。 |
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リンク集 |
NGO団体 mikono international (ミコノインターナショナル) |
僕が参加していたケニアのNGO団体です! |
NPO法人 国際協力支援の会(チームガリッサ) |
今までにガリッサに、メディナ診療所、検査室を建て、今回のスタッフハウスの全援助をしてくださった。 |
ごはん屋 でんでん虫 |
チームガリッサのみなさんと飲みに訪れる、大阪は布施にある、沖縄料理も充実している居酒屋さんです。特に泡盛の品揃えはピカイチ!料理もお酒も雰囲気も美味しいお店です!是非ご覧ください。 |
在ケニア共和国日本大使館 |
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在日本ケニア共和国大使館 |
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kiss 100 FM |
このラジオ番組は、ケニアの首都ナイロビのラジオ局のもので、英語に混じってスワヒリ語が聞けます。アフリカンな選曲と共に、アフリカの気分を味わってみてください! |
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