三角みづ紀さんの日記より 2009/02/09


重美さんとはアピアの溶鉱炉で競演させていただき
一緒に観ていた、普段は朗読には興味のないひとが
「すごい・・・」
と、それ以降、声を失っていて
わたしはそのステージを観てガン泣きして

よのなかのあらゆる腐敗したものを直視した上で
「信じる」ことができる

と思います


伊津野重美さんの歌集「紙ピアノ」の


わたしにはなんにもなくてわたしにはこわいくらいになんにもなくて



病み果ててなお許さずに父母が小さき私をがつがつ喰らう



思い出が残照である坂道を抱いてゆきます 腕をください


わたしが文章とか書きはじめるまえに重美さんの短歌を読んでいたら
そらおそろしくて文章なんて書けなくなっていただろうなとおもう

ほんとうの痛さや困難をしっているひとはほんとうに優しい


文章書く方やステージに立つ方は
ぜったいに一度は重美さんの発することばに触れて
挫けなければならないとおもうのでした





◇ 福岡市文学館朗読イベント「短歌の祈り/詩の言葉」
2007/11/17



 
                                     yoshikazu iwahashi

◆ しずえさんの私信より 2008/05/31


いつのえみさま。

こんにちは。
初めてメールを書かせていただきます。。
昨年秋、福岡市文学館で開かれた、「短歌の祈り/詩の言葉」を観覧させていただいた者です。

あの日、初めて体験した世界に腰が砕けてしまい、何だかぼんやりとした心地のまま、家路を辿りました。
アンケートに記入する余裕もないままでしたので、いつか感想をお伝えすることができれば。。
と願いつつも、うまく伝える自信も無く、結局、気がつけば5月になっていました。

いつのさんの朗読を拝見して、表現するという作業は、「覚悟」を伴うものなのだ。。と改めて感じました。
キレイな風景だけを見ているわけにはいかない。
いつも清らかな水を飲んでいるわけにはいかない。
そんな不自由さを全部呑み込んだ上での表現なのだと、いつのさんの朗読を目の当たりにして、強く思いました。

あの日、文学館での非日常的な空間を今でも鮮やかに憶えています。
窓から差し込む淡い秋の光。
文学館の古びた匂い。
ときどき轟く飛行機の音。
その音に違和感無く重なる、いつのさんの祈り、叫び。
苦しいくらいに濃厚で、それでいて、誰かを赦したくなるような空気。

そこに、たしかに、いつのさんがいた。
たしかに、私がいた。
もう、オルゴールの中に大切にしまっておきたいような風景です。
ほんとうにありがとうございました。
もっと上手に感想をお伝えできればいいのですが、その文才を持ち合わせていない自分がもどかしいです。

最後になりますが、5月にお生まれになったということ。。

お誕生日おめでとうございます。

実は私も5月に福岡で生まれたということもあり、とても嬉しいです。

長くなりましたが、これからもお体を大切に、お過ごしください。
またいつか、いつのさんのお姿を拝見できる日を夢見て、がんばります。

ありがとうございました。



◆ あいさんからの私信より

伊津野重美さん、はじめまして。
あいと申します。


伊津野さんの短歌に出会ったのは、
およそ二年前になります。
出版されたばかりの「紙ピアノ」を、
書店で見つけたのがはじまりです。

ユモレスク高らかに弾く 草上の遂げ得ぬ思いに紙ピアノ鳴れ

という、帯の一首が、いきなり視界に飛び込んできて、
連れが驚くほどの勢いで、本を手に掴み取っていました。
表紙の数首と、冒頭の二、三ページで、
「これは買わなくてはならない」
という、激しい衝動に駆られ、そのままレジへ走りました。
文字どおり、走りました。
家へ帰って、包装を解く手ももどかしく、
一心不乱に、一気に読み終えました。
ページを繰る手がどんどん、どんどん早くなり、
気がついた時には、ぼろぼろ涙を流して泣いていました。

私のことが書いてある、と、最初に思いました。
どうして、私の心を知っているんだろう、と不思議に感じました。
あとがきの、
願わくばこの本や私の声が、
辛い時苦しい場所にいる悲しい人に届いてくれることを。
という言葉を読んで、また泣きました。
泣きながら、「届いた、届いたよ」と、
無意識のうちに呟いていました。

ちょうどそのころ、私は心の病の最中にありました。
今も、完治はしていません。
さまざまな要因が絡み合っての発症でしたが、
この本に出会う約一年前、死のうと思ったことがあります。
ちょうど旅先で不調がピークに達し、
私は、新幹線のホームにいたのです。
ここに飛び込めば楽になる、とぼんやり思いました。
通過列車を知らせるアナウンスが、やけに美しく聞こえました。
一歩を踏みだしかけた時、
まだ生きている大切な人のことが不意に頭をよぎり、
私の足はそこで止まってしまいました。
耳をつんざく轟音を立て、新幹線が目の前を通過していきました。

私にとって、伊津野さんの言葉は、
あの時、死の世界から誘ってきたアナウンス、
現実に視界を遮って通り過ぎた列車の轟音、
その間(あわい)から聴こえてくる音楽のように感じられます。
ふたつの衝動の狭間で引き裂かれていた、
あの瞬間を忘れて生きることはできない、と思い知らされるのです。
同時に、生きることはつまり、そういうことなのだ、
という、静かな祈りにも辿り着かせてくれます。


このメールを書くに至るまで、随分と迷いました。
きっかけは、先日行われた、「短歌の祈り 詩の言葉」です。
山口県在住の私にとって、伊津野さんの活動拠点は遠く、
このイベントを知った時は、願ってもない機会だと思いました。
新幹線に飛び乗って、開始時刻よりも相当早く着き、
これ幸いと最前列に陣取りました。
ちょうどマイクのあたり、伊津野さんからご覧になって右側の、
赤いニットを着ていた女性は目に留まったでしょうか?
イベントに集中なさっていたので、これは、見えていないだろうな…
と思いながら、私も聴く者として集中させていただきました。

よるべない子供のように、辛酸を舐めてきた老婆のように、
多様な声に驚きました。
伊津野さんの細い体のどこに、このエネルギーが眠っているのか、
不思議になる程の存在感でした。

生と死の間から、魂を切り売りするものとして発された言葉。
紙に並んだ文字も、体から発される声も、
印象はまったく変わりませんでした。
伊津野さんがいる、伊津野さんの言葉がここにはある、と思いました。

歌人の穂村弘さんが、「伊津野さんの朗読にはあたる」と仰ったのは、
少しわかるような気がしました。
伊津野さんがまったく手加減なさらずぶつかってこられるので、
受け止める側の人間も、生半可でない覚悟を要するのです。
ある種の人生経験を積んでいない人間にとって、
それは少し、きついことかもしれません。
私も、聴き終えて数週間、伊津野さんの声が、
体の奥底で響き続けているように感じました。
そして、その声は今も、私に訴えてきます。
私はまだ生きている、という実感を呼び覚ますのです。

ただ、トークセッションでは、文学というものの閉塞を思いました。
見知りあった人々が、共通言語を語っている感が否めませんでした。
私が新幹線に飛び乗った動機のひとつに、
あの泣きながら思った「届いたよ」という言葉を、
できれば自分自身の口から伝えたいという気持ちがあったので、
一般の参加者に発言権がまったくないのは、淋しい思いがしました。
それだけが、不満の残るところだったので、
とうとう決心して、このメールを書くに至ったというわけです。

伊津野さんの言葉は、技法やそういった観点を超えて、
今、苦しんで生きている人に訴えかける力を持っていると思います。
少なくとも、その可能性を、私は感じています。
お見受けしたところ、怖いほど純粋な方だという印象を受けました。
そんな伊津野さんが活動していくにあたって、
理解者の方々の間で守られることが必要なのはよくわかります。
それでも、閉じられた空間に踏みとどまらないでほしい。
その声を、もっと多くの人々のもとへ届けてほしい。
私のように、「届いたよ」と呟きながら、
泣きながら生きている人間が、他にも必ず、いる筈だから。

これからもご活躍をお祈りしています。
くれぐれもお体を大切にお過ごしください。


◆ 歌崎功恵さんの日記より部分

そしていよいよ真打伊津野重美さんのソロ。
公式HPに掲載されている「紙ピアノ」の詩を朗読された時点で、私はもうノックアウト。なぜだか涙があふれてくる。なんなんだろう。。。幼いころの記憶が深いところから呼び起されるような感覚なのだ。

歌集「紙ピアノ」からの朗読が続く。伊津野重美さんの朗読の魅力は、童女のような無邪気な声、そしてつぶやくようなかそけき(かすかな)声も素晴らしいけど、やはり重低音がほんとに素晴らしい。人間の根源的な苦しみ、原罪のようなものを、この重低音が見事に表現する。DVDで何度も聞いていたはずなのに、圧倒的な迫力。重美さんは、2年前の「花は自ずから紅なり」のイベントのときから何倍も進化されているのだ!!

ここからはクロツグミ領 ヒトはなぜ醜い舌をもって生まれる

クレーンの腕(アーム)が空に突き刺さり正しいことは行われない

呻き声 神呪う声 満ちる夜 暴力はいつも人のかたちで

暴力にもがれたる脚 人間の為したることは目を逸らさずに

膿すすぐ手のやわらかき 人間の成し得ることを眼を逸らさずに

その朗読の瞬間、重美さんは一人の人間を解き放たれ、周りを抱き込んで、潮流になる。ありとあらゆる人間の思念が空間に入り込んでくるような感覚。

普段の、素の重美さんの小さな、はかない、穏やかさを知っているだけに、別人。巨大な男性にさえ勝っているように見える。。。



先人のテキストの朗読も素晴らしかった。

特に十八番の、早坂類さんの詩。宮沢賢治の「永訣の朝」明石海人の「白描」は素晴らしい。

らい病を病んでいた明石海人。

自らが燃えなければどこにも光はない。いったいどうやったら、その深い言葉を発することができるのだろうか。。。もし私が地獄に落ちたら、そこで苦しむ人たちに手を貸すことができるのだろうか。究極の良心を明石海人は問いかけているような気がする。



今回のリアルの朗読を聞くまで、なぜ伊津野重美さんが短歌にこだわられるのか、私はほんとの意味ではわかっていなかった気がした。早坂類さんが、重美さんのために書き下ろされた詩も、その朗読も素晴らしいだけに余計にだった。しかし、むしろ短歌であらねばならなかった。渡辺玄英さんは、現代詩は歌殺しの歴史だとも言われた。詩の世界はもはや、小さな我に閉じ込められている。短歌も厳密にいえばそうかもしれない。しかし伊津野重美さんの短歌は、そして朗読は、短詩形の一つの新しい突破口を示してくれている気がした。もっとも古代の祈りに近くありながら、これからわれわれ人間が、その方向性に行かなければ、滅びの道へ向かうのだという。「自我からの解放」をさししめしていた。


◆ イベントスタッフ 和泉僚子さんの日記より部分 

「短歌の祈り/詩の言葉」感想にかえて


11月17日、福岡市文学館の伊津野重美さんの朗読会で
私はそのセンサー、いや、「たが」と呼んだがふさわしいだろうか。それが飛んでしまった。
朗読のT部では怖くておろおろ泣き、U部では骨まできりきりと絞り上げられるような痛い感情に泣いた。
私のセンサーには、対象に対して「哀しみ」とか「喜び」とか言葉を振り分けて着地させるような副機能も着いている。言語化することで着地させ、そこから理解してきたような気がする。
しかし伊津野さんの朗読は、私の拙いセンサーなんか軽く吹き飛ばしてしまった。
彼女の放つ言葉は私の既成概念を軽く吹き飛ばし、理解という名で言葉を捕獲しようとする行為すら愚かに思えた。
あの朗読に私はものの見事に木っ端みじんとなったのであり、今でも文学館2階の隅には
私を構成していた部品がいくつか落っこちているはずである。

外的世界のことを言語化して認識するということは、なんて安心できる行為だったんだろう。
その機能が一瞬にして吹き飛び、私は自分の存在に自信が持てなくなり
不安で寂しくておろおろ泣いた。
おろおろとは愚かのおろか?
センサーは壊れっぱなしだったので、この2週間はよく泣いた。
生まれ故郷の天草の海をみて涙ぐんだ。イルカウォッチングで船酔いし、しまりなく涙が出た。かつていろいろ言われたことや読んだ本を思い出し、とうとうと泣いた。好きな人のことを思いしくしくと泣いた。不安でたまらないので友人にたくさんメールし、暖かい返事にはらはらと泣いた。 (中 略)

自分の認識をはるかに超えたものに出くわした時、とりあえず浮かんくる感情は「怖い」ではなかろうか? N・シャマラン監督の「ヴィレッヂ」で冒頭からすぐ、思いっきり出し惜しみせず「森の赤い生き物」が表れたとき、私は相当に怖かった。作りは稚拙なのにとても怖いのだ。それがなんだかまったく分からないから。
(そりゃあプレデターだって怖かったけど、「ヴィレッヂ」の方が怖かった。プレデターだとエイリアンに近く、あのメタリックでセンサーなんか搭載している宇宙人とかいう設定が、私の中にインプンティングされていたからか?かたや「ヴィレッヂ」のそれって子供が竹箒で作ったお化けみたいで、ほんに稚拙なんだけど怖いのだ、私には)

恐怖の話から始めてしまった。
あの日、伊津野さんの瞬間にマックスとなる重低音を拾いきれず、マイクのアンプは情けない音を立て続けていた。私を客席から隔てる衝立が倒れそうでもあり(あくまでも心象イメージなのだが)、なにかそれは荒れ狂う吹雪の中、押しつぶされそうな山小屋で震えている錯覚に襲われた。怖かった。板東真砂子の小説にこのような場面はなかっただろうか。
そして、なんというか、たぶん巨神兵が暴れたらこんなのかもと、ぼんやり思った。
吼えているのは、あれは人間ではありません。あれは・・・・・・。


それでも徐々に巨神兵の咆吼に慣れて、彼女の放つ言葉が見えだすと、
またそこで私は新たな体験をすることとなる。
朗読のU部は白秋や藤村など、近代詩歌の名作が読まれた。
なじみのある作品だから引き込まれやすかったのだろう。
朗読とは機械的に分かりやすく読めばよいというものではなく
発する人間の解釈を通して再現されるものである。
伊津野さんはよく「巫女的」と称されるだろうが、私はその言葉が
彼女の個性を軽んじているようで、実はあまり好きではない。
だが彼女が再生する言葉は繊細でありながらも、神の怒りとでもいえそうな
何か人智を超えた大きな力に満ちているので、これは到底個人の力ではなく
何か背後の大きなものを媒体となりおろしているのだ、と思えてしまう。
そう思ったが楽だからなのですが。


それは唐突に読まれた。
宮沢賢治の「永訣の朝」。
「じゅんさい」「アイスクリーム」というよく知った詩の中の言葉が飛んでくるが、
降ってきたそばから単語の意味は消えていく。
消えていくというのか、私が今まで知っていた意味なんか瞬時に消えてしまうような、
清新な重厚な意味が襲ってきたのだ。
言葉の飛び去った後に残ったのは、作品の愚直なまでのまっすぐさ、
あまりに無力すぎて強さにまで反転しそうな、愚直さのトレースである。いや、トレースですらなく、残骸だったかもしれない。
はたしてそれは賢治が書こうとしたものであろうか。伊津野さんが朗読をとおし、私たちに見せた光景かもしれないのだ。そんなことを思いつつも、私は「永訣の朝」に
(ああ、ほんたうにどこまでもでどこまでも僕といっしょに行くひとはないだろうか)と震え、
(あのさそりのやうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまはない)とつぶやくジョバンニの、いかにまっすぐで無防備であることかを思いだし、そこに重ねて見ていた。
繰り返すけど、それは賢治が作品に書こうと意図したものでないかもしれない。
伊津野さんの読みであり、読みでないかもしれない。
言葉そのものが持っていた世界がそこに抽出されて展開されたものかも、
あるいは私の頭のなかでだけ起こった化学反応かもしれない。
その複合物すべてが、彼女の朗読でまきおこされたものだった。



そして「れいこ」。
あの日はこの作品が伊津野さんの詩であるとは知りませんでした。
ここからは作者である伊津野さんに向かって感想のようなものを
書いてみます。





この世の最後の深呼吸が、どうか哀しいものではありませんように。というあの詩。
「永訣の朝」が感情の乱気流の中にいたのだとすると、
「れいこ」は仄白い、静かな湖の底にいるようでした。
静かで少し明るいそこにたどり着くまでに、あなたはどんな経験をしたのだろう。

痛みや哀しみ。苦しみ。
人間の暗部を書けば良い作品になるのかとは、単純に思いたくありません。
ただこんなにも悲しいものが、濾過され、
静かに優しくあたたかなものへ変化した様を私はあの日、目撃しました。
経験したことに対する自己憐憫なんか微塵もなかった。
自らを読みながら、あの「れいこ」は、ひたすらに人へ向けられた、
人を愛そうとした詩でありましたね。
世の中にはこんな思いがあるのだということを体験して
私は泣くことしかできませんでした。


あの体験を一言でいうならば、私には「脱皮」でした。
自分のペースで脱ぎかかっていたものを無理矢理剥がされたようでもあり
未だにひりひりと痛み、思い出しては涙が出そうになります。
しかしそれは素晴らしい体験でした。

今度お会いするときには、もう少し落ち着いて体感したいと思っています。
けれどまた木っ端微塵に吹っ飛ばされるのも快感かと、
性懲りもなく思えるくらいに快復しました。

寒くなります。お体ご自愛ください。
またお会いできる日を楽しみにしております。







◆ 料理研究家 井口和泉さんの日記より 凄い生き物がいる、という感じでした。

いつまでもきちんと感想を言語化できないでいるままに、
なぜか打ち上げの席に呼んでいただきました。(遅刻して。わああ。)

イベントの企画段階から、何人もの知人友人が関わっていて、
なんかとにかくすごいらしい、必ず観た方がいい、と言われていた
イベントです。皆様、ほんとうにおつかれさまでした。

短歌の祈り/詩の言葉

何かを感じたならば、なにはなくとも考えを言語化するべきだと思っています。
言語化した考えが正しいとすれば、こうなるのではないか?
と、言葉に置き換えて初めて仮説を築けるようになるから、
というのは青木淳の言葉ですが、私にも必要な作業です。

瞬時に理解できなくとも、とりあえず今は丸呑みして後で分解して再構築しようと思います。わからない、と、手放した時点で、なにも出来なくなるのはあまりにも惜しいし、はっきりと言えば愚かです。(経験で予測できるなら、選ばなくてもそれはそれでもちろんよろしい。えらそう。でも本当。)私はわりに鈍いので、わからない、ということがわからずに、気がつけば手を出していたり丸呑みしてみたりすることが多いです。怪我することも多いけれど、それはそれでよくも悪くも得るものがあります。経験を積んで予測できる危険は避けるけれど、それでも理屈でなく体で覚える衝撃というのは、どんなに大人になってもある経験です。
伊津野さんの朗読とは、そんな風に出会いました。

なにこれ?なんだこれ??おなじ生き物??このものすごい才能が、おなじ生き物????とても乱雑で簡単で申し訳ないのですが、「びっくり」しました。ぽかん、て、口が開いてたかもしれません。休憩時間になって、隣りの友達にはじめに話した言葉も「びっくりした」でした。おなじいきもの?ほんとに???

なんだかよくわからないけど、すごい。
と、思ったものに出会うと、頭の中に、まだ観たことが無くて作ったことのないお菓子の映像が浮かびます。こういう時に浮かぶのは、料理ではなく、お菓子。色も香りも舌触りも、まだ作ったことのない、私の知らないお菓子のイメージです。いくつもいくつも浮かび上がって、情報を処理するのが追いつかない。耳は朗読を聴きながら、目は伊津野さんを追いながら、ノートにいくつもイメージを描きとめました。白。クリーム。メレンゲ。ソーテルヌ。コニャック。アルマニャックかも。シナモン。ジャスミン。ミント。オレンジフラワー。バニラ。アニス、アニスとコケモモのスペインのお酒。クロッカン。透明。ジュレ。ゼラチン、じゃなくて、アガー。蜂蜜。カソナード。黒い黒い奄美の黒砂糖。まだなにかある、まだなにか私の知らない香りの素材が伊津野さんにあてはまる深い深い素材があるはず、あるはずだけど、わからない、けど、まだなにか、ある。わからないけど、あることだけはわかるから、それがもどかしく、もどかしいから今頭に浮かんだイメージだけは逃がさないように描き留める。映像で浮かぶ、ということは、言葉にできないからなんだろうと思う。言語を司る脳の部分は比較的新しい領域なので、追いつかない分、先に視聴覚で丸呑みしているんだろう。とか今なら思うけど、聴いてる最中はヒューズが飛んだように、目から耳から、そして内側からイメージの氾濫に呑まれっぱなしです。

伊津野さんの朗読は、短歌作品としての質の高さ、ソリッドさ以上に、目の前で彼女の声で歌われる言葉以上の何かが頭の中のどこかに、圧倒的な質量で浸透してくる衝撃でした。息をする間もなく、浸食されて触発される。声は、けして荒々しくはなく、柔らかくか細く優しい声と韻謡です。なにがどうして、こうも頭に響くのかはわかりません。才能、とひとことで言えば終わるけど、ただの才能ではないのだ、ということをどうにもうまく言語化できません。
一番近い比喩は「祈り」だと思います。

西行が「栂尾明恵上人伝」の中で、「歌の心は」と問われて、「和歌は如来の真の形態であり、歌を詠むことは仏像を造り、秘密の真言を唱えるにひとしい」と答える有名なくだりがあります。仏を造るように、祈るように、命を歌う。伊津野さんの歌は、弱い優しい心を持ったまま、峻険な道を一人で行くような、心に刺さる苦しく哀しいものが多く、その歌を生み出した凄まじい心の質量に圧倒されます。それでも、胸苦しいばかりでなく、哀しさに寄り添うように、最後に手のひらの中に灯すろうそくのような、優しい温かい柔らかさがほの見えるから、彼女の言葉に惹かれる人も多いのではないのか。

イベントが終わり、日が経ち、友達が何人も、
感想を言語化していくのを読みながら、

なにがなんだかわからなかった。けど、なにかものすごいものを観た。

という感想から、いまだに進んでいません。
進んでいないけれど、それでも自分の内側で動いたなにかを持っています。
さざ波のように広がって治まってまた泡立つような、なにか、です。
なにかがなんなのかはわからないので、まだ名前は付けずにいようと思う。

友達が感じたように、怖い、とは、思いませんでした。
それは私が鈍いから、だとも言えるし、こわい、以外の別な部分を
もっと触られたからかもしれません。

聴きながら、観ながら、描きながら、いくつもいくつもいろいろな自分の中にある未処理の、未処理、でないならば、とうに片付けた、と思っていたような感情や出来事や情報がいくつもいくつも浮き上がります。言葉にできないままでも、もしかしたらそれらは私が何かを作る力になるんだと思う。この感覚や感情に、馴れないうちに、なにかをつくろう。つかめなくてもどかしいと思ったイメージを何度もトレースして、レシピを描いて、試作して、形にしていこう。

人を、押す、動かす。
才能というのは、そう言うものなんだろう、と思う。
私が今でもくらくらしているのも、伊津野さんの才能にふれた「しるし」なのでしょう。


また、聴きたいし読みたいです。今度、また機会があるのなら、
あの人、あの人に、あの人にも、聴いてほしいな、と、思います。
聴けて、識ることができて、本当に良かったと思います。



◆ 出演者 浦歌無子さんの私信より


17日の福岡のイベントでご一緒させていただきました浦歌無子と申します。

先日は本当にありがとうございました。

渡辺玄英さんが「度肝を抜かれる」という言葉を使っておられましたが、

私にとっても心臓を鷲づかみにされる本当に貴重な体験をさせていただきました。

美しく力強く、ひりひりしてそれでいてやわらかく包みこまれるような伊津野さんの朗読…。

なんだか上手に伝えられなくてごめんなさい。

本当に素晴らしかったです。今思い出すだけでも鳥肌が立ってしまいます。。

観客としてあの場にいられたこと、また創り手として同じ舞台に立たせていただけたこと、

とても光栄に思っております。

またいつの日か「伊津野さん体験」をさせていただければ大変嬉しく思います。

そしてそして伊津野さんのお人柄にも惚れてしまいました。(ぽぉぉ)


これからのますますのご活躍をお祈りしております。



  yoshikazu iwahashi



「フォルテピアニシモ vol.1 〜魂を迫り上げるように〜」 2007/07/22



◆ひろたえみさんの日記より


夏・フォルテピアニシモ



日曜日、吉祥寺STARPINE`Sのこと


歌人・伊津野重美さんのソロライブ
『フォルテピアニシモvol.1』




どうしてくれる、と思った人々もいたでしょう

このようなもの目撃してしまって
そのあと

外(日常)に放り出されてしまっては
途方にくれるひともいるのでは

とみょうな心配をしてしまうほど

それくらい冒頭から
圧倒的な感じ


壁面の青がうつくしかった 
照明機材は多いけれどとても選ばれたあかりの使い方、
マイクの前に立ついつのさんを包む光の内円の微妙な変化、

そのように舞台全体が研ぎ澄まされて

つよい



はじめての試みとしての

ドラマー東郷生志氏とのセッションもすごく面白くて
興奮した、思わず靴を脱いで聞いてしまった

残響をほとんどカットして
言葉の重さや鋭さにぴったりと応えている

すごいことやってんなあ、と思った なんて怖ろしいんだ
これはすこしでもずれるととんでもなくみっともないことになる

それも、かなりながい詩のメドレーのなかで
一瞬の弛みもなくやってのけている



共演の穂村弘さん、アフタートークのヤリタミサコさんも
はりつめがちになってしまう空間に

いつのさんにやさしい理の色をあたえていて
ほぐれる



企画・制作の赤刎千久子さんの客観的な視線が
さえていた

スタッフのみなさん
ほんとうにお疲れさまでした


まだvol.1なんだね、くらくらする
背筋が伸びます


この夏にひらかれた途は特別だと思う



                            田中 流



◆瑞紀さんの日記より
囁くように呟くように叫ぶように絞りだすような声に、どこかまったく別の空間に連れて行かれてしまった。

 7月22日、歌人・伊津野重美(いつのえみ)さんの朗読ライブに行ってきた。
初朗読ライブ。朗読っていうと、NHKラジオなどでアナウンサーが本を朗読する、なんていうのくらいしか思い浮かばない。
そんな朗読観がひっくり返ってしまった。

 暗闇から始まったのは、静かな、聴く者を惹きつける声だった。
 事前に伊津野さんの歌集を読んでいたのだけれど、文字で歌を読むのと声で歌を聴くのとはこんなにも違うのかと、驚く。
 
 また、自作を交互に読んでいく穂村さんとの朗読では、歌は呼び合い響き合う。たとえば、こんなふうに。

 終バスにふたりは眠る紫の <降りますランプ>に取り囲まれて (穂村弘)
 わたしたち何処へ向かうのこのバスも闇に浮かんだ昏き方舟  (伊津野重美)

 呼び合った歌は新しい世界を構築し始める。どこまでも冷静で己を失わない穂村さんと寄り坐しのような伊津野さん
(アフタートークで穂村さんは「伊津野さんは自意識の壁ををかるがると飛び越えてしまう」と言っていた)の声が響きあってゆく世界は、
不思議だけれどどこか心地よい。

 第二部のドラムとのセッションは朔太郎の「竹」から異様なエネルギーを持って始まった。
文字だけでは感じられないちからがある。恐ろしいほどに強い「生」はやがて懐かしいような「死」へ向かう。
ドラムと合わせた「祇園精舎の鐘の声」はこれまでに聞いたことがなく、強く「滅び」を感じさせた。
 途中―どのテキストかは不明だが―「水」に関する部分があり、わたしはG.コルベールの『ashes and snow』のフィルムを思い出していた。
思い出していた、というよりも映像が、ステージ上の伊津野さんに重なって、見えていた。
 他のテキストでも脳裏にすさまじいくらい鮮明に甦った光景があり、泣きそうになった。
 歌に、詩に、声に、まるで細胞から揺さぶられたようだった。これは忘れられない。

ふと、思う。『フォルテピアニシモ』は伊津野さんの祈り、なんだ。

http://mizukiuta.exblog.jp/d2007-07-31


◆山崎怠雅さんの日記より http://blog.livedoor.jp/lenoir/archives/2007-07.html#20070726

伊津野重美さんの初のソロライヴ「フォルテピアニシモ vol.1魂を迫り上げるように」を鑑賞。
いつになく静謐な雰囲気の店内。なぜか目白のカテドラル大聖堂を思い出す。
そして開演。暗い照明の中で伊津野さんの消え入るようなウィスパーが響く。
ヴァシュティ・バニヤンみたいだ。そしてだんだんと熱を帯びて行く朗読。
しだいに硬質になって行く声のトーン。それはまるでクールなフリージャズを
聴く時のような気持ちで身を任せる事のできる時間だった。
放たれた声ト言葉のイメージが次に放たれるそれらと干渉しあい、モアレのように広がって行く。
 休憩を挟んで今度は僕の10年来の戦友のドラマーである東郷生志氏が参戦。
言葉一つ一つに細かくフレーズを割り当てて行く。朔太郎の詩が印象に残る。
個人的にはもっと荒っぽく「セッション」をした方が、より面白い絡み方になるのでは、と考える。
そしてトータルで90分ほどで公演終了。
しっかりとした感触を頂いたのでもっと長いかともっていたが
(それは決して退屈だった訳では断じてない)意外とコンパクトな時間だった。
 伊津野さんは僕が競演している恋川嬢と同様に、そして全く違った形で、
声を発する事で聴き手に副次的なイメージを与える事のできる数少ない朗読者である。
直接お話するとふにゃんとして可愛らしい女性です。



◆イシダユーリさんの日記より http://d.hatena.ne.jp/cream08/20070727

7月22日は、吉祥寺に伊津野重美さんのライブへ。

一番前の席で見て、いろいろなことを思い出した。
伊津野さんの朗読はもう何度も見ているけれど、見るたびに思い出すことがある。
遠くから見える立ち上る煙のようなのに、近くにあるかすかなあかりでもある。
なんだってそうだが、立ち上るものがみえるとき、わたしは緊張しながらも、ほっとする。
ほっとするということの意味をまた思い出した。
ただ、すごい、と言ってしまえるだけじゃ、いつもなかったということ。
わたしも、伊津野さんの朗読を聞きはじめるたびに、
どこかを歩いているような感覚になるのだけれど、わたしがどんな風に歩き、
どんな風な気持ちでいようとも、立ち上るものがみえ、目をつぶると、あかりがみえるので、
ああ、よかったな、と思う。そして、いつも、信じられるものだと思う。

ドラムとのセッションは、隙間をどちらかが埋めるのではなくて、
声を音が突き上げるような感覚ですすんでいく、初めて聞いたものだった。
こんなこともできるんだ、とまた、新しい驚きもあり。
けれど、今回は、なんだか、なによりも、宮沢賢治がとても記憶につきささるように残っていて、
まるい青いあかりのなかで、聞いたそれは、なんだか、宮沢賢治のやさしさ、
そして、伊津野さんのやさしさ、みたいなものを思わせた。
それはきっと、かたくななものだろうけれど、それでいいんだと思う。
なんだかわからないのだけれど、それをすごく、すごくうれしく感じた。


◆キキさんの日記より http://www.enpitu.ne.jp/usr6/67736/diary.html

いつのさんの朗読をマラリーで初めて見たときに、強い印象を受けると同時に、
噂に聞いていたこの人はこういうタイプの朗読の人なんだなと思ったのを覚えている。
けれど、彼女の朗読を聴く(見る)たびに、広く、深くなっていき、
伊津野重美とは、朗読とは、詩とは、「こういうもの」と思いこんでい
るわたし自身の固定観念を壊されるので、わたしは何だか勇気付けられてしまう。


ギリギリに会場に入ったら、一番前がちょうど3人分空いていてほっとして腰を下ろす。
みんなこの席は怖いんだろう(笑)。緊張した〜。

穂村さんとのセッションでは、いつも飄々としている穂村さんの気持ちが
いつのさんの方へ寄っていっているように見えて、面白いなあと思う。
で、彼の表情が一瞬うるっとして、あっいかんいかん、と揺り戻したり
しているように見えて(勝手にアテレコ)、心のこもった暖かい時間だった。

ドラムとのセッションでは、ドラマーの東郷さんがアイコンタクトではなく、
下を向いて、いつのさんの呼吸を読んでいるのが見えた。
いつのさんの声にかぶせていくやり方、言葉をそのまま太鼓の音に変換したような、
なんて書くと簡単だけど、痺れました。これはもうすごかった。。

それから賢治。ぽわっと下の方から青緑の照明がついた瞬間に、賢治だ〜と思う。
彼の詩は難しすぎて、文字で読んでもわたしには意味不明なのだけど、
不思議と色合いが残るそんな詩で、いつのさんの朗読からも同じ色合いを受け取る。
冷たさと暖かさと、雪明りのような。

逆に朔太郎の「竹」は、わたしの持っているイメージと全然違っていて、
天から剣が降ってきているみたい(笑)。


純粋に楽しかった。いつのさんの朗読には色々な感情をかき立てられるのだけど、
最後には不思議とシンプルな気持ちだけが残る。今回はそれに加えて、
いつのさん自身が持つ世界感と、作品や競演者の持つ世界感と、
それぞれにいろんな色に混じり合っているのを堪能できて、楽しかった。



◆岡田 すみれこさんの日記より

鋭く研げるナイフを、、、。


伊津野重美さんの朗読ライヴに行って来ました。

以前、早坂類さんの詩「花は自ら紅なり」を中心に朗読されたのは
二年ほど前だったでしょうか・・。

詩を書くわたしと、短歌の長女と、
今年も二人で行きました。

今回は穂村弘さん(歌人)、ヤリタミサコさん(詩人)という
詩や短歌が好きな人にはかなり嬉しいゲスト出演もあり、
わたしたちは地元の吉祥寺なので早く着き、
カフェ地下の一番前に座りました。
舞台までの距離は1メートルもないくらい。

重美さんは、わたしや娘と同じように心身の不調を抱えながら
それでも、精力的に活動の場を広げていかれて、
まずその姿勢に打たれます。
「すごいなー」と思い、見惚れてしまいます。

囁くような詩歌の朗読、呟きにさえ聞こえるような声から、
激しく力のこもった朗読まで、
それは「フォルテピアニシモ〜魂を迫り上げるように〜」と
というライヴのタイトルそのままの熱気ある美しさでした。

本人の作品だけではなく、もちろん穂村さんとのやりとりや、
有名な詩人を選んで朗読したものもありました。
作品紹介のパンフは帰りにくれるので、
聞く側は「あ、あの詩だ!」とか「何だっけこのタイトル」
と思いながら耳を傾けています。

重美さんの「そばに」「れいこ」「腕をください」等など
心に残る作品も多くあったし、
好きな萩原朔太郎「公園の椅子」を読まれた時は「あっ」と
思いました。


「われは指に鋭く研げるナイフをもち
 葉櫻のころ さびしき椅子に
 『復讐』の字を刻みたり」


いつも素足で舞台に立たれるたおやかな雰囲気の重美さんが
この詩を読むと、朔太郎の寂寥感と激しさが、
真っ直ぐに伝わってくるようでした。

エネルギーを貰って帰りました。



◆まきこさんの日記より 『空への手紙』

昨日『一人歩き』の記事にてご紹介させていただいた伊津野重美さん
(サイト『dawn chorus』)のライブへ行ってきた
過去のライブのDVDを拝見していたので
自分が伊津野さんの世界に引きずられる予想はしていたのだけど
思ったとおり素晴らしいライブだった。本当に本当に行ってよかった。 

 伊津野さんの短歌は早坂類さんと温度が近いと書いたけれど、
以前はもっともっと時間に余裕のある生活だったから
その分早坂さんの作品は自分のコンプレックスや悩みが生まれたときに
気持ちをリセットさせてくれる手段であった。
 ところが最近の私といえば、気持ちの部分で言葉に触れることなく
仕事とそして帰宅すると写真のことで頭がいっぱいだった。
フリッカーも写真もおおいに楽しい。
 だけれども、いつのさんの世界感とすこし遠いところで生きていた時間だった
時間のない生活の中で趣味に費やすことのできる時間を少しでも増やすために
合理性を追求する生活にならざるを得ない生活っていうか。

 ライブに行く前に、いつのさんの作品や頂いたメールを読み返してみた
ふと思い出したように手にとってみたそれらは、気持ちの奥底に沈んでいる部分
(過去の傷跡であったり)を露呈させられ、自分自身のちっぽけさと
向きあうことになってしまったが 
久しぶりに独りになった感じを持てた

 いつのさんの朗読は、
突き上げるような激しさやむせび泣きを声色や体全体で表している感じ。
叱ってくれているようでもあり、
大切にしているものを失う怖さを切々と訴えているようでもあり
同時にパラドックスだけど、ひとはみな独りだよといってくれているようでもあり
とにかく私は大切なものを思い出させてもらったのだ
 
 そして私にとって古めかしく難解というイメージから好きといえる作品もかなり数少ない
純文学や古文のジャンルでも、かの、中原中也さんの「汚れつちまつた悲しみに」や
『平家物語』「祇園精舎」物語の冒頭もひとたびいつのさんの魂の入った朗読で聴くと
なぜにこんなに自然にはいってゆけることができるのだろう。と驚いた。
ドラムとのセッション、歌人・穂村 弘さんとの短歌のコラボ朗読?
(一首ずつ交替でお二人が短歌を朗読するというもの)の
お二人の声のトーンのあまりの"交わらなさ”も素晴らしかった!

 チケットを2枚予約しておいたが最後の最後までひとりで行くか迷った。
が、結局、落ちている私を見せることができ、許してくれる、
そしてプロの短歌や詩の世界にまったく精通のない友人を誘ってみた
 10代のころ日記を毎日つけていたという彼女が、すごかったね、入り込んじゃったねって
ライブが終わってから言ってくれたのがなぜだかとても誇らしげに思えた

 そしてわたしは伊津野さんのライブのリピーターになるだろうと確信した。



◆なんの菅野さんの日記より <FONT size="2" face="MS 明朝">http://geocities.yahoo.co.jp/dr/view?member=nannokanno575</FONT>

「朗読するドラム」 7月24日

・・・・・

僕が向かった先は、STAR PINES'S CAFE というライブハウス。
久しぶりに短歌の朗読を聞きに行った。
「フォルテピアニシモ」という伊津野重美(いつのえみ)さんの
初めてのソロライブ。

「ここから観るのもなかなかよさそうですね」
「そうですね。でも、リハーサルを観た感じでは
 下のほうが迫力がありそうですよ」
「それじゃあ、下で観ることにします。
 穂村さんも朗読されるんでしょう?」
「僕は少しだけですけど……」
「じゃあ、楽しみにしてます」

そんな会話をステージのある「地下2階から見上げれば
2階席」である、「地上から見下ろせば地下1階」(ややこしいですね)で
準備中の穂村弘さん(歌人)と交わす。

構成は大きく分けると
@伊津野さんの単独朗読
A穂村さんとの交差(?)朗読
B東郷生志(とうごういくし)さん(ドラマー)とのコラボレーション

@とAについては、またそのうち書きますが(書かないかもしれませんが)
今回は、Bが僕にはとても新鮮で印象に残りました。

伊津野さんの朗読(短歌・詩)からパワーを受けて
東郷さんの手と足が動き、ドラムが演奏される。
弱く、強く、強く、弱く……。
あんなに「生きている」ドラムを聴いたのは初めてだ。
伊津野さんの魂がドラムに乗り移ったような……。
ドラムが朗読しているような……。

確かに、穂村さんが言っていたようにこれはここ1階で
観ていて(目撃して?)本当によかった。

ここにも自分の道を着実に歩み続ける人がいる。
「独りであること」をじっと見つめながら……。
「独りではないこと」を抱きしめながら……。


                    


◆きんぐさんの日記より http://blog.livedoor.jp/anjiking/archives/2007-07.html#20070722

そして本日は詩人の伊津野重美さんの朗読公演を拝見しに吉祥寺STAR PINE'S CAFEまで。
ゲストとして格闘老人のドラマー・ガンジーさんがセッションすると言うので、これは勉強しに行かねばと。
命を慈しむような、消え入りそうな、囁くような、声。
呼吸をするのさえ憚られるような、枕元で物語を聞いているような。
ステージが一転、張った声のリズムにピタリと寄るガンジーさんのドラム。
発現した声を殺さぬように、崩さぬように。そんな印象でありました。


 撮影 田中 流


◆キクチアヤコさんの日記より

伊津野重美という「炎」。

歌人・伊津野重美ソロ朗読ライヴ「フォルテピアニシモ vol.1 〜魂を迫り上げるように〜」、
無事終了しました。ご来場のお客様、有難うございました。
ゲストの皆様、スタッフの皆様、そしてえみさん。本当にお疲れ様でした。
今回のライヴはもともと観客として行くつもりだったのですが、ご本人自ら声をかけて頂き、
スタッフとして参加しました。が、演目中は完全に観客モードでした(謝)

前半の自作詩・短歌では、持ち前の強さと儚さを発揮。
ゲスト・穂村弘さんとの朗読では、花畑でぱたぱた飛んでいる蜜蜂のような軽やかな姿を見せる。
近代詩では、詩に憑かれてる!と思わせる迫力でこちらに迫ってきて、終盤では小さく、
けれども強く燃え上がる炎となり、自らの言葉で静かにステージを燃やし尽くした。

一番印象に残ったのは、詩「ちいさな炎」。
この詩を聞いていて、えみさんと私の距離について思い起こされた。
えみさんと私は、頻繁に遊んだり連絡を取り合ったり、という間柄ではない。
でも、私の中で何かあった時・・・大抵、ネガティブな方向に行ってしまった時、
ふいに彼女の存在が、私の中で「灯る」のだ。歌であったり、朗読する姿であったり。
例えるなら、マッチの火。お香を焚く時、花火をする時、その一瞬の為に、燃えてくれる炎。
大きさは問題ではない。以前、彼女の日記で「純度」の話が出てきたけれど、
その事も思い出された。http://pigeonblood7.blog55.fc2.com/blog-entry-251.html
今の私が精神的に安定を欠いている故、少しだけ染みる・・・傷に消毒液をつけた時のような・・・
言葉もあり、えみさんの純度の高さを思い知らされた。そんな彼女のそばにいることが
少し怖くなったけど(自分のドス黒さが反射して見えるから・・・苦笑)、改めて嬉しくなった。

夏に灯った小さな炎。それはこれからさらに赤く、強く燃え続けるだろう。


◆やまさんの日記より

いつのえみさんの 初ソロライブ

「表現者」がステキなのは
日常という現実をいっきに異次元へと開放してくれるからだ


いつのさんがステージに立った瞬間
そこには異空間が生まれ、たった独りで生をうけた喜びと
Music for Airport のBGMから一気になだれ込むいたたまれない孤独感


秋の夕暮れ モノトーンに 沈む街並 もたれた電信柱の 冷たさよ  


電球だけがオレンジ色でさ
わずかなぬくもりだけを残していた
生きてる瞬間はいつも刹那


そうしていつしか激しいドラムの心音が
激しく燃えさかる 炎へ


輪廻・・ 生まれ変わりの痛み・・
海から生まれ 海に 帰っていく ・・ 


◆石原 文朗さんの日記より


地下2階のホールは天井も高く、舞台も奥行きがあって、mandala2よりも広々としています。
舞台中央にマイクスタンド、左手奥にはドラムセット、背面の壁の向こうにもう一つ部屋があるようで、
何かの機器や人が行き来しているのが見えます。
会場に流れていた音楽が聞き覚えのある合唱曲になったとき、朗読会は既に始まっていたことに気付きました。

照明が落とされて暗闇の中で朗読が始まった、と思うのですが、はっきりとは思い出せません。
前半は白っぽいピンク系の衣装で後半は茶色系だったとか、アフタートークの後半に再登場してきたとき
靴を履いていたのを珍しく感じたのは覚えています。
たいていはテキストを手にして朗読しているのですが、そのときの声の出所というか、
発声されてくる過程というか、実際の身体的・精神的過程ということではなくて、
なにかある間接的な仕方でそれを表現するようななにかを感じ取ろうとしていたような記憶もあります。
ドラムとの共演では、音を出す前と後の東郷さんの集中している様子が印象に残りました。
今回の穂村さん、ポエケットでのヤリタミサコさんとの共演もありましたが、
アフタートークで共演についての話が出ていたのにも興味をひかれました。
いろいろな人との共演が成り立っている、それによって伊津野さんのいろいろな面が引き出されてもきている、
というような話だったでしょうか。

 *

一向に思うような感想も書けませんが、これを一つの体験として数理歌学のモデルと考えることはできます
(数理歌学は至るところに発生するから)。そしてその限りで、別のモデルで考えても同値になるというのが、
数理歌学というものを考えるご利益でもあるわけです。
兎小舎での朗読千夜一夜第3夜で初めて伊津野さんの朗読を聞いてから足かけ5年になりますが、
今ようやく、その一つのモデルに、心置きなく向かい合える気がしてきています。 ・・・・・



◆小夜さんの日記より  http://members.at.infoseek.co.jp/fukidamarist/

そして、日曜日は、伊津野重美さんのソロライブのお手伝いにいきました。
本当に、素晴らしいステージでした。
二階席から観ていたのですが、お客さんがそれぞれに伊津野さんを見つめていて、
その伊津野さんには光が降り注いで、それが跳ね返る形で、
また光が客席へと溶け出していてそうで。
私はお客さんのどの方とも、決して直接向き合うわけではないのですが、
皆が伊津野さんと真剣に対峙することで、そこにひとつの交流がうまれて、
それが客席全体に、私と他のお客さんとの間の空間にひたひたと満ちていって、
なんて温かい空間なんだろうと思いました。
本当に、素晴らしかったです。
お手伝いできて、良かった。
いらしてくださった皆様、ありがとうございました。スタッフとして、感謝申し上げます。
そして、伊津野さん、本当におつかれさまでした。



◆アンケート「フォルテピアニシモ vol.1 〜魂を迫り上げるように〜」◆より


■女性 50代

前半は自分に余裕があったのですが、後半で完全に気持ちを持って行かれました。
鳥肌が立ちました。言霊と言うものが良くわかりました。
意味ではなく感覚として、自分の中のものを呼びおこされた感じです。
シャーマンと感じました。
最後に希望が見えたのも良かった。


■女性

明るくない色でも、濁っても地から湧いても、
勿論明るくても、澄んでいても、天から振っても、
光はすべて光で、そういうものを見た気がしました。


■男性 30代

息をのむような、呼吸をするのもはばかられるような
素晴らしい集中力にイメージでした!


■女性

いつのさんの魂がいつのさんの全身に憑依して、凄絶とも言える朗読でした。
心の奥底が揺さぶられるおもいがしました。
途中で倒れてしまいそうに見えて、心配もしました。
すごかったです。


■女性 40代

伊津野さんがパワーアップされたと思いました。
ドラムと合わせた特に朔太郎の詩がとても良かったです。
穂村さんとのかけ合いは、ほっとするような楽しさも漂っていて、
多彩さが出ていたと思います。
会場の雰囲気もふさわしく感じました。


■女性 20代

司会の人が「竹の詩を笑いそうになった」という感想に興味を持ちました。面白い。
イツノさんの変容は刺激的で、新たなセカイで、救いです。
ホムラさんの「なぜ自意識を越えられるか」同じ問いをもちます。


■女性 50代

詩、詞、音、空気、光、
一つのメロディーのようでした。




初めて詩の朗読というものを体験しました。
詩というものが、こんなにもナマモノのようだとは思いませんでした。
ドラムとのセッションが特に印象的でした。
また観たいです。




生かされている人類の姿が、美しく激しく、はかなくて、
人間宣言のように感じた。
雷雨のあとの祈りのような風景が印象的。
水素よりももっと透明、みどりのー
照明も効果的にでありました。


■男性

今回は広い会場で音響もすばらしく
ホムラさんとのコラボもすばらしかったです。
アフタートークでは司会のあかばねさんとゲストのトークが
すばらしく、おかしかったです。


■女性 30代

いつのさん、この度は初めていつのさんのライブを生でみさせて頂いて、
本当に感激でした。途中からみていて固まってしまいました。


■女性 30代

少女性って始末に負えんな、という思いと、でも、羨ましいな畜生…という思いと、
普通に文字だけで歌を読んでみたいな、という思いが錯そうしております。
ひとまず著書を買おうと思いました。


■男性 20代

今回、すごく鋭い声がよくて、後半の詩にもらい泣きしてしまいました。


■女性

とても素晴らしかったです。
声、ことば、音、心がふるえた。
ほむらさんがかっこよかった。


■女性 40代

舞台がふんいきがあって、とてもよかった。
下の階の席をもう少し増やしてほしい。




ほむらさんとのかけあいはとくにとてもすばらしかった。


■男性
 



           




TOKYOポエケット◇ 
2007/07/01

◆ 松岡 宮さんの日記から部分
 http://ekiin.blog.shinobi.jp/Date/20070702/

伊津野さんの朗読には、まるで母性のかたまりのような、 アンパンマンのような、
与えるサガ、のようなものを感じて、 先に愛を与える朗読だったあ〜とか、
ご本人を前に感想を伝えました。

臆病もののわたしは、他人に対して、先になにかを与える、 ということが苦手です。
でも、物書きや舞台をやっていると、他者から愛をいただくという経験もすることがあります。
わたしはただ受けるばかりで、だけどそんなふうに他者に 受け入れてもらう経験が自分の勇気になります。
そして、 わたしも少しずつでいいから、他者にたとえ拒絶されても、
いや、拒絶されるとかそんなことも考えないで、無償のものを 与えるひとになりたいなあと思いました。


「ユメ乃隠レ家 vol.2」 2006 ・11・05


◆ キキさん  http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/day?id=67736&pg=20061111

トップバッターは伊津野重美さん。
久しぶりに「花は自ずから紅なり」の映像や早坂さんの詩が入り、
やっぱり時間がたっぷりあると色々観れていいなあと思いました。
マイクの調子はいつも以上に悪かったけれど、思わぬ効果もあって、
時には詩のイメージぴったりにゴーストを背負っているような
不思議なハモリが入って、これは面白かった。
その詩、郵便配達夫の出てくる早坂さんのテキスト「未着の手紙」を
朗読したものが今回は一番よかったです。
前回の雨虹のイベントでよんだ「ねむるいき」は
いつのさんにとって、ひとつ何かを得たのではないでしょうか。
ことばのリズムに磨きがかかっていて、何度も繰り返される「火は」
この発音ひとつとっても、アクセントは逆転していたりはしないのに、
何か別のいきものの名前のように聴こえました。
火は火だけど火じゃない火だっていうのがよくわかった(…すみません)

小さな声で読む歌、もしかしたらこれもマイクなしでもいいかもしれないと思いました。
反響の少ない場所で、声を吸ってしまうかなとも思うのだけど、
いつのさんの声ならささやき声もちゃんと聴こえるような気もしました。
ちょっとマイクの音が悪すぎましたね。。基本的にはマイクなしの方が好み。
ただ、最近はマイクを通した声が(いつのさんの場合は声が変わりますね)
合うなと思うテキストも増えてきて一概にはいえないのですけど。
そうやっていろいろ試していたものが、ここ最近一気に表出してきたような気がする。
何回も聴いているのに、前回と今回の朗読は改めてすごく新鮮でした。


◆ 松永天馬さん 出演者  http://yaplog.jp/shinkiba/daily/200611/06/

 伊津野重美さんはヴィデオアート的な映像を導入に、自らの肉体を鏡にして、
目に飛び込んでくる言葉を奔放に乱反射させていました。
憑依型の朗読というのは確かにあるわけで、女性の凄み、血の凄みと言ってもいいけれど、
そういったものを孕んで、孕んだはいいけれど、なかなか産んでしまうまいとしていた。
言葉につまりながらも発語しなければならない切迫感は詩を「恥部」ととらえる上で大事な要素です。


◆ キクチアヤコさん 主催 http://blog.livedoor.jp/yume_uta2525/archives/50923673.html

伊津野さんの朗読からは、たまらなく「肉体」を感じる。
言葉が、まさに肉を帯びて、迫ってくる。
囁き声は、じんわりと胸に刻まれる。のっけから飲まれそうになる。



「雨の匂い 虹の匂い」 2006・10・22     


◆ 白井明大さん

いつのえみさんのことは、1年前からきいていた。
友人の詩人ふたりが、彼女のリーディングは鳥肌ものだと、そうぼくに教えてくれた。

その鳥肌もののリーディングを、聴きたい。それが、ここへ足を運んだ、理由だった。

彼女は巫女だ。巫女的資質で、じぶんを器にして、歌こころや詩こころにかぎらず、
ふれたものことを変換して、音/こえという空気のふるえにしてかえす者だ。

リーディングを聴いていて、そう感じた。

じぶんの短歌を読むときには、まだ地上に立っているが、他の歌人の歌、詩人の詩を読んだとき、
じぶんを消していくようだった。かわりに、こえだけの者となろうとする。ぼくには、そのように映った。

なぜだろうか? 彼女の歌こころの源泉も、その理由と近い場所にあるかもしれない。

いつのえみは、もしかすると、日本語がまだ文字を獲得するまえの、
歌い手としての資質をつよく持っているのではないか。
文字として書く歌ではなく、こえとして放つ歌に、より近しい存在なのではないか。
いまこの文章を書いていて、ふとそう思った。

彼女がじぶんの短歌にだけは、地上につなぎとめられたままでいるように映ったのは、
彼女の歌こころが、地上に生きることの悲しみによって生まれたものだからであろうか。
その歌をうたうときだけは、生身に返る、というようなことなのだろうか。叙情にすぎるほど叙情という、
われをわれにとどめない、なりふりのない叙情の奔流があるのではないか。

(ここは簡単にふれるだけに留めたいことだが、もしかすると、いつのえみの短歌のありようは、
散文的かもしれない。短歌をあまり読んだことのないじぶんがはっきりと言えるべくもないから、
かるくふれるにとどまるが、飯田さんの歌が音数という点で超えようとしたように、いつのさんの歌は
短歌と散文の端境を往来するものでは、と思ったのだ。

これは持論にすぎないけれど、詩というものは、ジャンルの枠からこぼれようとするとき、あたらしい
ものとして生まれると思っている。いつのさんの短歌が、散文との境で行き来するようであるとしたら、
それはどんな歌を輝かせることだろう。そんな空想がふとよぎったので、記しておく。)

その、じぶんの歌、という地上の縛りがない、他の人のことばを読むとき、彼女はおそらく、
書かれた文字にとらわれないのだ。否、書かれたことばと、彼女は出会わないで、それらは音となって、
いつのえみと出会うのだ。そういうことではないだろうか。

彼女は「うつろう」存在であり、己の身体に存在する以上に、周囲の空気か何かの一部としてあろうとすることを、
じぶんの存在のありようとするかのような詩性が、いつのえみのものなのではないだろうか。それだから、
あのようなリーディングをするのではないだろうか。

ただ、この夜の彼女には、もうひとつ地上に縛られるものがあった。主催者・企画者などとしての立場だ。
今夜の朗読で、彼女は自らの集中力を最高までに保ち続けるための事前の準備時間を、
おそらく十分には持てなかっただろう。
主催者とはそういうものだし、しかも今回のイベントは、きわめて運営自体にエネルギーを
費やさねばならない種類のものだったであろうからだ。
(このイベントを成功させたこともまた、尊敬に値することだ。
ここもまた、強調しておかなくてはならない。本当に、こういうのは大変なことなのだ)。

あくまでこれはぼく個人の印象だけれども、いつのえみさんのリーディングは、
おそらく彼女のベストパフォーマンスではなかったのではないだろうか。

そう思ったのは、ある一瞬、ある一瞬に、感じるものがあったからだ。
いつのえみのリーディングには、確かに深淵が内包されていることが予感された。

たとえば、安田倫子の詩を読んでいるときの彼女がそうだった。日本語はアクセントが本来自在である。
それを彼女は実践した。ひっくり返したように、いわゆる標準語のアクセントから、
するっと身をひるがえして、舞うようにことばを発声していく。
安田倫子の詩のリズム、けして一定ではなく、注意深く読むとそこに安田だけの法則があるあのリズムを、
いつのえみのこえは、創造的になぞらえていった。

それは、もし1年前に話を聴いていなかったなら、驚嘆しただろうものだった。
いきなり、なんのまえぶれもなしにそれが起こっていたら。
だが、ぼくは彼女のリーディングがいかに高いものか知っていた。
また、上野ポエトリカンジャムのビデオを、わずかな時間だったがみてもいた。

ピナ・バウシュの舞台を観るように、矢野顕子のピアノナイトリーを聴きに行くように、
いつのえみの舞台は、観客を惹き込む。ここは強調しておきたい。
また聴きたい、と思わされる強烈なものを、こちらから欲したくなるようなこえを、彼女はたたえている。

去年の夏から、沖縄の古い歌や方言、母、祖母祖父おじおばたちの島として、
じぶんの血肉にまじってきたものを、詩にしはじめているが、「君の舞う」「月の舞う」などがそれにあたるが、
じぶんでは決してこれらの詩を満足にリーディングすることはできない。かつて沖縄は巫女の島だった。
それはいまでも少なからずそうだ。

おもろさうしがあり、いまの沖縄がある、その時空の幅をどれだけじぶんが書けるものか、
はなはだ怪しい。が、彼女のリーディングにふれたとき、そこに感じたのは、
そうした時空の幅を超える可能性を、このひとは持っているんだ、とそういうことだった。

島の浜で、もしこの人がリーディングをしたなら、どれほどの世界がひろがるだろう。
そんなことさえ想像したくなる。
ぞっとするほど、彼女のこえは、日本の古く古くからある深淵を、いまなお記憶しつづけている。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=251349335&owner_id=440518


◆ ヤリタミサコさん アンケートに加筆

伊津野重美さんには、もう何もいえないくらい、圧倒されましたね。
あれこれ言いません。
「もう死んだっていいんだきっと」のカミソリのような切っ先で
すーっと透明に切り裂かれました。


◆ かわえひふみさん  日記より  http://d.hatena.ne.jp/kawae123/20061023

一番素晴らしかったのは、リーディング・パフォーマンスではなく、
出から、はけ方、すべてに神経を行き届かせて、1個のりっぱな舞台にしていたことである。

可淡ドールの化身、そして一人天井桟敷(いや朗読の感じが^_^;)、伊津野重美すばらし。


◆ キキさん 日記より 雨の匂い 虹の匂い(長いあとがき)

しずかに雨は降りはじめ、今も続いている。天気につられ、わたしは泣いたりしていました。

イベントにご来場くださったみなさま、(見ているかわからないけれど)ありがとうございました。
あの場にあったすべてのものは、あそこにいたすべてのひとが等しく共有すべきものだと思います。
わたしの友達にも言ったことだけど、発する側と受け取る側にへだたりなどなくて、
詩や歌は共有してはじめて力が生まれるのだと思いました。

若い女の子ふたりの、表現したいという純粋な欲求がキラキラしていてとてもまぶしかった。
それさえあればいいのかも、とさえ思えました。それだけが、ひとの心を動かすのだとも。
それから年長組(ごめんなさい)のしなやかな強さに打たれ、おろおろとした気分になりつつも、
自分のこの半端さのなかには、わたしにしかないものも含んでいることに気づかされたりしました。
わたしはわたしでしかないことが、情けなくもうれしい。

1週間前にも詩人と歌人の混在するイベントがあり、そこでわたしは歌人の方たちの短歌へ傾ける
愛情の深さに勇気づけられ、一緒にいた友人、今回一緒に舞台に立った出演者でもありますが、
彼女たちの顔つきと姿勢ががらりと変わってゆくのを見ました。わたしもたぶん同じ顔をしていたと思う。

わたしにとって、詩を書くことは楽しい遊びであり、自分の存在を確かめるためのものでもあり、
また救いでもありました。でも朗読はまた別物で、人前で声と身体だけで表現するということが
今でもとても怖い。以前、なのに何でやるの?と聞かれたことがあったっけ。なんて答えたかな。

自分を縛っているものは自分自身でしかなくて、わたしはひとつ朗読をするたびに、
少しずつ解放されていく感じがしています。怖いからこそ。


◆ 小夜さん 日記より 雨の匂い 虹の匂い

「雨の匂い 虹の匂い」無事、終了しました。
たくさんの方がきていただいて嬉しかったです。本当にありがとうございました。
また、会場はかなり暑かったのではないかと思います、その中で最後まで見てくださったことに、感謝いたします。


今回のイベントで、わたしはうつくしいものにたくさん触れました。うつくしい姿や、想いや、声や、言葉や、たくさんのたくさんのものに。
主催者の伊津野重美さんの志の高さや姿勢、出演者に向けられた思い遣りや尊重の心配りには、
いつもいつも目を覚まされる思いがしました。
また、出演者の、本当に、寄りかかりあうのではなく、みんなひとりひとり立ちながら
手をつないでこのイベントに取り組んでいこうという姿に、何度も励まされ、私自身の立つ力になりました。
幸運なことに、誰かの作品を読む、という機会に私は恵まれたのですが、そのときにも読むことを快諾してくれ、
解釈や読み方を委ねてくれ、そこに流れる信頼と広さのようなものに打たれました。
また、誰かとひとつの作品を読むときにも、常にお互いの意向をきいて朗読をつくっていくことができて、幸せでした。

そして、もう何度も朗読をきいていて、その人の朗読が私にとっては「いいもの」であることを知り尽くしている方たちが、
今回のイベントでは、今までで一番力強いパフォーマンスをしていたように感じ、感動しました。
たぶん皆が本当に、真剣に取り組んで、そして、あの場に立てることの喜びをかみしめていたのだと思います。

それから、今回、あの場で読んでみて、私は、私の中に何があるのかを、何をしたいのかを、まだまだ知れていないのだと思いました。
自分がどう立ちたいのかという確固たるものが欠けていて、それを良しとするか悪しとするかは別として、ただ、それに気づけたのは、
私が、わからないならわからないなりに自分を外に開こうとした、そういう朗読があったからなのだと思いました。
それは、ぎざぎざとして聞き苦しいものだったかもしれないと、今は思います。けれど、そういうわがままな開放が可能だったのは、
あのイベントが、あそこにいた人たちが、あの劇場と外でしとしと降り始めていた雨が、それを許してくれたからなのだと、
改めて実感して、それに本当に感謝したいです。


うつくしいものの破片が目にたくさんたくさん残っていて、だから、日常の生活をするのがちょっと痛くてまぶしいです。
開いてしまったドアがちゃんと閉まってないのかもしれません。でも、このイベントに出られたことを糧として、
もっともっと、行きたいほうへ、歩いていこうと思います。

伊津野さんをはじめ、出演者、スタッフの皆さん、おつかれさまでした。
そして、ご来場くださった方、これを最後まで読んでくださった方、本当に本当にありがとうございました。


◆ 雪舟えまさん  出演者   Gパンで月をゆく

えみちゃんの朗読は 祈りで歌で踊りで 呼吸で脈拍で手のひらに
熱い血の流れを感じるような かんたんには理解したなんていえない
遠くで 強く明滅してわたしにするどいものをつきつけてくるよ。
こういうかたちにひとがいるということを そこからは逃げられない
ということを壁際からみつめていました。


◆ 安田倫子さん  出演者  出演者全員宛私信より

本当に本当におつかれさまでした。
呆れるほどの働きっぷりに脱帽です。(笑
何がそこまで伊津野重美を鞭うつのか・・・
知っているようでまだまだ知らない奥行きに戸惑いすら感じました。
でも、出演者皆がえみちゃんの細い体から想像もつかない
強靭な精神を軸に、絆に、強く結束できたことに感謝します。
伊津野重美の短歌・朗読・立ち位置には、本当に勇気づけられます。
そして、「あるものをもってるものを力の限り全部出し尽くしなさい」
という啓示を感じます。もちろん、脅迫的なものではなく、
戒めのように「自分を奮い立たせることを怠ってはならない」
というような強くてやさしい啓示です。
今回、あわてて姿勢を正す方が私以外にもいたのではないでしょうか?


◆ 小夜さん  出演者  出演者全員宛私信より

今回、伊津野さんのイベントに取り組むときの姿勢に、何度も何度も目を覚まされる
想いがしました。いつだって、誰にだって、何より大切なことは、誠実さであり、着実に
ひとつひとつ積み重ねていく努力や、それを引き受ける覚悟だということを感じました。
いろんなことを学び、いろんな希望や目標が生まれました。感謝しています。
「すず」をいっしょに読めたこと、幸せでした。私の意向を丁寧に聞いてくれて、
だからこそ私も、真剣に、どう読みたいのかを考えて、それに正直になることができました。
詩を自分で書いて読む以上は、やりたいようにやるのだということ、
でも、その、やりたいようにやる、ということが一番パワーを使うし、リスクも伴うし、
でも、だからこそ一番尊くて取り組む価値のあることだと気づかされました。
伊津野さんの朗読を聴きながら、地面へ沈んでいく重力と、空へと飛び立つ浮力の両方を
感じていました。
伊津野さんの短歌を朗読したとき、言葉が体の内側に入ってきて、歩いていく力を与えて
もらえたような気がしました。いつも歌集で読んでいた歌を、自分で、舞台の上で
読む機会をもらえたことに、感謝しています。


◆ イシダユーリさん  出演者  出演者全員宛私信より

いまになって、改めて、本当に素晴らしいイベントだったと思います。
そして、それが、出演者だから、とか、身内だから、とか、
そういうことではないと、確信できます。
ほんとうに、いいイベントでした、出演できたことを誇りに思いますし、
伊津野さんには感謝の気持ちでいっぱいです。
わたしは、伊津野さんの短歌を読むことができなかったけれど、
自分の出番が終わって、ずっと舞台を見ていて、印象にのこったのは、
伊津野さんの歌がそれぞれの出演者の方に読まれることで、手をつなぎあって
ひとつのイベントになっていくのがまざまざと感じられたことでした。
それぞれの詩も短歌も別々の場所で別々の時間で別々のひとから、まったく違う風に
かかれてでてきたものなのに、こんなにも、つながっていくものなのかと思ったんです。
もちろん、日本語で、言葉で、そして、詩で、だからつながっていって
あたりまえなのかもしれないですが、
普段は、そんなことをすっかり覆すぐらい、ばらばらになっている感じばかりして、
それはそれで面白いことではあるのですが、
けれど、わたしたちはだれかに手を振ったり、声をかけたり、そのために
詩をかいている側面というのが絶対にあるはずなんですよね。
そのことを実感しました。
今回のイベントは、ひとくちに朗読といっても本当にいろいろなアプローチがあるんだ、
すごい、ということと、
こんなにも、つながっていけるんだ、すごい、ということが、
一緒に感じられた、ちょっとそうそうはない、ことだったと思います。本当に。
伊津野さんの朗読は、いつ聞いても、鳥肌がたちます。
何度聞いても。
しかも、今回は伊津野さんが安田さんの詩を読んだとき、ほんとうに驚きました。
こんなふうに、ひろがっていけるんだと。


だいじなことは、あそこ(上の方を指差して)ではなくて、ここ(胸をたたいて)に
あるんですよね(笑)。
くりかえしになりますが、またご一緒できる機会がありますように、そして
そのときはもっと楽しいことができますように、精進します。
ほんとうに、ありがとうございました。


◆ キキさん  出演者  出演者全員宛私信より

ぼわっとしたオレンジのライトが綺麗だった。
その光の感じがそのままいつのさんの朗読の印象かもしれません。
遠いような近いような、そして暗さが温かい。
それでいつも思うことなのだけど、
違う世界の入り口を開けてつないでくれている、そんな感じでした。

りるりる、わたしとぜんぜん違ってたー!
歌は入り口でしょうか。わたしたちを繋ぐどこでもドアーかも。

いつのさんが人と決定的に違うのは、
身体的な強さがあるところだと思う。
歌と声と存在感のほかに、身体がそこにある感じが
生きている重たさとして、みんな感じ取っているのかもしれません。



◇「ひるの黄金夜」◇ 06/10/04  


◆ 玲はる名さん
 http://reiharu.cocolog-nifty.com/nikki/2006/10/post_2d8f.html

伊津野重美さんは
朗読の中ではカリスマ的な存在になっている人ですん。
でも、普段はふにゃふにゃしていて、
かわいい女の人です。
ここ数年ほんとに凛として、
それ以上に朗読のパワーが増していて、
遠くで聴いていても、
彼女の声の情念が伝わってきます。
彼女の中にあるその凛の硬さが
他人の時間を占拠し、
声や情念を伝えることに対して力を発揮しているのです。
どの人の心も開いて侵食する力が
彼女の朗読にはある。
それは本人の美しい外見や声だけでは成しえないもの。
初めて聴いたときから
すばらしいと思ったけれど、
昨日のはなにか素で立っている気がして、
そのなにか達観した部分にもののすごさを感じた。
うまく表現できんが。



◇「フォルテピアニシモ vol.0 〜涯の歌〜 ver.釧路湿原」◇ 06・09・16


◆ 錦見映理子さん
 http://blog.drecom.jp/umiyuri38/archive/539

初めて湿原を歩きました。
見渡すかぎりの野原。

小さな花や蒲の穂をみました。

ここで美しいひとが、天上からくだされたような声と姿で、たった四人の観客の前に立った。

風と光。

ちょうど夕日が沈んで、終わって風を浴びて走っていく姿まで美しく、なんという人だろうと思った。

このひとはこの日に友達のために四つ葉のクローバーをふたつも見つけました。
二度ともとなりで歩いてたからびっくりして、どうして見つけられるのかしつこく聞いて笑われた。

この日この人が友達のためにしたことのすべてを忘れないと思う。


◆ 菊池典子さん 日記より

釧路湿原生ライブ。
あたりをはらう声。湿原がしんとなった。
さっきまで啼いていた鳥の声も一切。
みじろぎもできない。ただ目となり、感覚の器官となった。

どうしてのえみの朗読を聴くと水が出るんだろうね。
どこかに隠れていたかたまりがどんどんとかされて。
湿原から吸い上げられた何かが天へと吹き上がる。
ベールにつつまれたのえみに雲間からのひかりがあたり、きらきらふるえた。
のえみがみんなを包んだままどうどうと中空へと導く風になる。
声もからだもかみさまの縦笛となって吹かれている。
ただただ美しい時間の中でわたしたちは目を見開いていたよ。
のえみの声が終わったちょうどそのとき日が落ちた。

ひとはここまで開いて感受したものを伝えることができるんだね。


◆ 村上きわみさん CHIMERA=BBSから

湿原での朗読
あの ことばにならないすばらしさ

湿原という場所のかかえているエネルギーを
足裏から吸い上げて 額のあたりから放出しているようだった
いつのえみという肉体を通過して出てくるものの
うつくしくやわらかく強くにごりないひかりの粒が
聴いているわたしたちみんなのなかに降り積もって

のえみちんに出逢えたこと
みんなに出逢えたこと
誇りのように祈りのように思います

わすれられない九月になりました
どんなにかありがとう



紙ピアノの鳴る夕べ ー pieces of voices ー」◇ 05/10/22


◆ minaさん

「紙ピアノの鳴る夕べ ーpieces of voicesー」に夜行く。
ちゃんとした短歌の朗読を聞きに行くのははじめて。
穂村弘さん目当てだったけど、伊津野重美さんに、びっくりする。
恐いて、否定な意味でなく思う。
神が降りているみたい。ぞくぞくする朗読の仕方。本能の一番深いところを撫でる、魂の音程。
短歌をたんたんと読むステージを予想してたけど、全然違う。
演劇に近いな。知らない世界がまだまだたくさんあるんだな。

何か、一番繊細なところに時空が繋がってるきがした。
もう過ぎて蓋をした、19歳くらいの孤独で光を求めて闇のなか、必死に自己を守ろうともがいていた頃の。
一生懸命で愛おしくも苦しくもある、本当の震え。
私はどこにいきたいのだろう。何を伝えて、どんな居場所をえたいのだろう。

うん。発信は大事だてことはわかっている。声は魔法をもっているから。


                        


◆ あまがみさん ブログより

今日は、いつのさんの朗読会
「紙ピアノの鳴る夕べ ー pieces of voices ー」
に行ってきました。
 
楽しみにしていた歌集はまだということでしたが、
ことごとく見逃していた朗読会のダイジェスト版が見られて、
本当に本当に
あたしが見なくて誰が見るってゆうくらいのダイジェストっぷりでした。
 
(角度のおかしな主張)
 
初めと終わりに、
いつのさんのお話がすこしずつあったのですが、
いつのさんの選ぶ言葉には本当に嘘がなくて、
すうっと聞き入ってしまいます。
 
ふるえる声 ゆれる体
それはとてもかけがえのないものでした
 
個人的には、
 
飯田有子さんの壁面にうつるシルエットと
横を通り過ぎた時のひろえみさんの熱い体温と
ほむらさんと並んで白いワンピースを着ていたいつのさんの朗読にすごく打たれました
 
中身の濃い2時間

つみあげてきた時間がこんなにあったんだなぁって
思い知らされた2時間でした

                                
                                                                        左 穂村 弘さん


◆ 赤刎千久子さん   ごーふる掲示板より

いつのさんの声を出す様はうつくしく、
ずっと覚えておこうと思いました。



◆ こばやしまきこさん  ごーふる掲示板より

再演だって分かっていたにも関わらず
佐藤りえちゃんと飯田さんとのえみちゃんが3人ステージに立った瞬間
今と2004年の6月がぴたっと重なり合うような感じになって
文字どおり、しびれました。

のえみちゃんの朗読は
間違いなくのえみちゃんの体を通って出てくるものなのに
純粋なテキストとして吐き出されるところが本当にすごいと思う。
(分かりづらかったらごめんなさい)

東さんとの朗読では最後、声の光と影みたいで
闇の中、声だけで広田さんの気配を感じ取っているときは
ぞくぞくした。
ほむらさんの「ハ」の声の高さと質感は
月の光みたいなのえみちゃんにとても似合っていて
恋人の恋人の・・・のところでは泣きそうになりました。
最後、えんじゅさんとのえみちゃんの朗読では
かっこいい、かっこいい、とずっと興奮してました。
少しずつ自分を変えながら
共演者とのアンサンブルを作り出してるのえみちゃんは
とてもすてきだった。

朗読ごとにマイクの位置を変える係の女の子が
決してライトにあたらないというのに
とてもうつくしい動きで、
暗闇の中、わたしはずっと目で追ってました。

あの会すべてがひとつの詩であるっていう
のえみちゃんの思いが伝わってくる
うつくしくてやさしい朗読会でした。



◆ キキさん
 スタッフ http://www.enpitu.ne.jp/usr6/bin/month?id=67736&pg=200510

彼女の今までの軌跡をたどることができて、思い出深いイベントとなりました。
進行はゲストが多いので足早に、という感じでしたが、いつのさんの、
ここまで来たという確かな手ごたえのようなものが感じられました。
わたしは最後の舞台挨拶でとても感激していて、でもそれを書いてしまうのは
もったいないので自分の中に留めて置こうと思います。。


                                

◆ 小夜さん スタッフ  私信より

いつのさんの会をつくりあげることに
参加できたことがうれしい。
その世界を一緒に編み上げることができたなら幸せです。

穂村さんといつのさんの朗読ははじめてきいたけれど、
とても不思議な調和があって、感動しました。
わたしも泣きそうになりました。

いつのさんの声や言葉と穂村さんの声や言葉は
けっして似ているわけではないのだけれど、
その似ていないものがハーモニーを生むということ、
べつべつだから化学反応がうまれるということ、
とてもあたりまえなのかもしれないけれど
ひととかかわるというのはこういうことだなあと思いました。
特に男の人と女の人の関係というのは。
そのことに、なんだか不思議とすくわれたような気持ちになりました。
いつのさんの声が月のようだというの、わたしも同意します。
しんしんとして、あわいけれど確かな光を放って、本当に月の光みたいです。

あの舞台には、信頼していいひとばかりが立っている、
この舞台をつくっているのはみんな信じていい人ばかりだ、って
そういうふうに感じられたことが、とてもうれしくて、
これからもわたしを支えてくれると思います。
その中心にいつのさんがいて、
本当にそのことをあらためて、実感したのでした。

ありがとう。おつかれさまでした。


              撮影 田中 流



「ウエノポエトリカン・ジャム 3」 2005・09・04


◆ ヤリタミサコさん  POECA! 

伊津野重美さんのシャーマン的な世界が印象に残りました。



「花は自から紅なり」 2005・07・17


    OKADA Atushi


◆ 田中槐さん 槐の備忘録 2005/07/16部分

待ちに待った伊津野さんの単独朗読会だったので、期待しないわけはない。
最初から最後まで鳥肌たちっぱなしって感じ。音楽の使い方も、映像の使い方も、
テキストの案配も最高だったんではないかしら。たぶん伊津野さんのある意味頂点の朗読を聴かせてもらった。
あえて休憩を挟まず、非常に魅力的な映像を使った間の取り方にとてもとても感動しました。
たき火の映像のなかに伊津野さんが映り込んで行くさまなど、この世のものとは思えないほど美しかった。
早坂さんの美意識というか、ああ、そんな陳腐な言葉では表せないものが全面にみなぎっていて、
テキストも(伊津野さんには冒険なものもあっただろうけど)、時に荒々しく、時にはささやくように読まれて、
ぐぐぐぐぐぐっと引き込まれたまんまの1時間あまり。


◆ 佐藤りえさん 2005/07/16

「花は自から紅なり」を見た。朗読者は伊津野重美、テキストは早坂類の書き下ろし。
舞台後方の大きなスクリーンに映し出される映像と、音楽と、時には伊津野自身の
声と、朗読者とがさまざまに混じり合いながら共存する、不思議な空間だった。
上記のような要素が注意深く配合された構成だが、観覧しての印象はとてもシンプルな、
というものだった。闇から現れ闇に紛れていく朗読者。素足で立ち、両足で舞台を
踏みしめて発せられる声が、その空間のすみずみまで満ちて行くのを肌で感じた。
これまでの多くの朗読コラボレーションで伊津野重美が演じてきた、というか、
体を動かしてきたことを思い出し、今日は「違う」と感じた。動き、移動を封じ込めたような、
「ここから発する」という重心の低い、どっしりしたイメージを全身が発していた。読みに入る
までの数秒の沈黙から声が発せられる瞬間への官能的な転換を、見逃すまいと必死になって見た。
これはある意味ではどんな演技より生々しい、声の生まれる瀬戸際を見せられたのかもしれない。

BankArt1929でも読まれた「AMORE!」がやはり私は好きなのだけれど、光の宮殿のような
彼の地で読まれた時と、深海のような今回とではやはりだいぶ印象が違い、それをまた楽しんだ。
紙を撒き散らし去って行った伊津野が、今回は水面を目指し泳ぎさる海鳥のようだった。もともと、
彼女は闇と強い親和性があるように思えていた。そしてそれは船の碇のように、必然的なものだ
とも思っていた。しかし今回、プログラム最後の場面でスクリーンの前に立ち、映像に身をさらす
伊津野を見ながら、言葉も声も、明るみにでてきたのではないか、といよいよ強く思った。
「明るくなった」ということではなく。公演の傍題どおり、「辿り着くために深い迷路に入ることがある」
のなら、そこからもうじき出られるのではないか、光の方角を、すでに彼女は知っているのではないか。

早坂類のテキストはまさに深海を思わせるようなものでありつつ、耳に残る「ことば」は軽やかですらある。
アルビノの女の狂った舞いやメイルマンと燃え続ける手紙達の聞いた列車の音が、
ありありと迫ってきたのは幻だったのだろうか。

朗読とテキストのこのような関係を、自分のなかでも実はまだうまく消化しきれないでいる。
芝居でいえば「あて書き」のような、今回のような試みを詩歌とどのように結びつけて考えるべきか、だ。
あるいは直線的に結びつけるべきではないのか。なにか語るにふさわしい角度があり、
それをまだ自分が見つけきれていないのではないか。

なんにせよ、伊津野・早坂の両者が、躊躇なく迷路に入っていくことのできる、数少ないひとびとであることに
私は敬意を感じるし、その後向かう光の射す方がどんな場所なのか、やはり見てみたいと思う。




                         


◆ 高田祥さん 

優秀なスタッフ陣を揃えているとはいえ、舞台に立つのは伊津野重美さんだけなわけで。
いくら伊津野さんでもたったひとりで70分の舞台を持たせるのは大変なことである。

が、そんな心配は全くの徒労。伊津野重美さんが深々とお辞儀をしたときには
「あれ?休憩ってあったっけ??」と思ったほど、あっという間に時間は過ぎていった。

早坂類さんのテキストはやはり素晴らしい。万華鏡のように次々とイメージを生成し、
かつ深く実存に届いている。表層的な共感レベルを遥かに超えている詩だと思う。映像も美しい。
タルコフスキーの影響を受けたsylvianのソロPV(red guitar〜silver moon)を思い出させるような。
途中、伊津野さんが白い服で再登場すると、伊津野さん自身にも映像が投影されている。
このアイディアも面白い。焚火の場面など、伊津野重美さんが焼かれているような、ぞくっと
させられる効果を生んでいた。音楽はbrian enoが多用されていた。欲を言えば、場面によっては
eno以外にもっと合うものがあったかもしれない。が、全体の仕上がりから言えば瑣末なことである。

70分の舞台を支えているのは、「場の転換」を促すアイディアの数々であるが、中心にあるのは
言うまでもなく伊津野重美さんの圧倒的な存在感である。何も言わず何もせずただ立っているだけでも
会場全体をそのオーラで攫っていってしまう。花は自から紅、であった。


◆ ひろたえみさん  しゃぼん暮らし 2005/07/16

消えていった言葉
舞台にいたのはいつのさんひとり

声がつれてくるものたち

まだあそこにいたい


前半
とても抑えた感じで読まれていて
いつのさんの冴えた声のつめたさに、光や匂いがすうっとかさなって
配達夫の、

道が、

見えてしまう



「ブレス、ブレス」

というときの
なんだろうこの苦しさと切なさ、この熱は、


これなに、


いつのさんが生きてるひとにも死んでるひとにも見える
そしてその両方にも見えない



背中がぞわぞわした

早坂さんの言葉がどれもすごくて
なにか詩とか短歌、とかいう感じじゃないほど
からだを持たないような
すごさ

(うう、うまく言えない)

ここだけの


言葉


燃えて消えてわたしたちのたいないに流れてゆく言葉

背景にさまざまに流れてゆく映像たち

ドライブ感のかかる後半からも
ひたすらこわいほどの

うつくしさ

でも

なにををかいても
逃げてゆくのです



まだあのなかに漂っていたいよう

                                          
DVD「花は自から紅なり」


◆ 羽澄祐さん 2005/07/01部分

伊津野重美さんの朗読会「花は自から紅なり」を聴きに表参道のLAPIN ET HALOTへ行った。
伊津野さんのために書き下ろした早坂さんのテキスト。
どんな遠くからでも見に行きたいと思った。

記憶に残るキーワードは「死」。
炎の中の家族。
轢死する郵便配達夫。
恋人。
死を題材にした作品の多さに軽い衝撃を受けた。
伊津野さんの朗読のモチーフのためにそれを選んだのか
早坂さんの興味が今そこにあるのか。
後者のような気がしてならなかった。

忘れられないのは
郵便配達夫のものがたり。

「コロサレルヨ」

BGMはそれではないはずなのに、汽車の蒸気の音に聴こえた。
怖かった。
轢死した男の幽霊を連れてきてしまった感覚が数日離れなかった。

声はのびやかに出ていた。
自作ほど情念を入れ込んでいない朗読が心地よい。
エネルギーを放出させようとする短めの物語と
渦になっている会場のエネルギーを引き込み、細い糸につむぐような長めの物語を
つぎつぎに作り出してゆく表情が、なんて美しいのだろう。

衣装にいつも目が行く。
最初の衣装は黒。
蝙蝠みたいだ。中庸的に闇に溶けようとする。
次は赤。
このスカートが早坂さんの手作りなのだろうか。
衣装の基本的デザインを押さえることで舞台がまとまり
多くの色を使わないことで映像がいっそう際立った。

最後の白の衣装をつけた伊津野さんのからだのうえに
炎の映像が重なるのがとても美しかった。
映像効果と言ったらよいのか、投影されたフィルムの「動き」が
奥行きを出し、迫ってくるものがあった。


◆ 高田美苗さん  http://www002.upp.so-net.ne.jp/minae/

「花は自ずから紅なり」という、詩の朗読会に伺いました。詩は、詩人の早坂類さんが、
いつのえみさんの朗読をイメージして書き下ろしたものです。地下の小さな会場でしたが、
ほぼ満席状態でした。
 事前に、「いつのさんの朗読は、囁くようで、神憑り的」という事を伺っていましたが、
本当に不思議な空間と時間でした。なんだか言葉に酔ったようで、いつまでも聴いていたい気持ちでした。
70分という上演時間が、長いような短いような、不思議な感覚に陥りました。
 言葉を使ったり、操ったりする事が苦手な私。2つの、私から最も遠いところにある才能を、見た思いです。                                                                  



◆ 4070 さん http://ameblo.jp/4070/day-20050720.html

「花は自ずから紅なり」というタイトルの詩の朗読会で、作者は早坂類という歌人?らしい。
朗読するのは伊津野重美というこれまたボクにとってはまったくの?なヒトで、全然期待してなかった。
のだけれど、始まるや否や「こりゃ凄っげぇや!」という思いが、次から次へとこみ上げてきて、
気が狂ってると思われてもいいくらい、声に出して「こりゃ凄っげぇ、やばいよ」と言ってみたくなるくらい、
凄かった。ニンゲンは詩に限らず、というより詩なんていうのは、まったくもってマイナーな存在で(朗読も)、
音楽とか文章とか映画とかその他様々な表現を披露するけど、ニンゲンのあらゆる表現行為に対して、
これほどまでに打ちのめされた経験は思い出せない。

伊津野重美って何者なんだろう。体ごとゆるりと流れ込んでいくように言葉を発して、力を込めた声のであっても、
こちらは脱力させられてしまう。声が発せられるやいなら、言葉が次々に消え入っていくような感覚なのだ。
ちょっとだけ見ようによっては病的な感じがしないでもないが、70分間聞き続けても、聞き手を疲れさせたり
飽きさせたりしないのだ。


◆ 東直子さん とうすみ日記

朗読に音楽と映像と照明とが絶妙にからみあった、とても完成度の高い朗読でした。
テキストのテイストを十二分に発揮する、伊津野さんの声の力を感じたのです。


◆ 夏瀬佐知子さん

祈りの祝祭

という言葉が浮かんだ

熾火(の映像)が身体を燃やしている

水が身体を流れる

空と雲が身体を通り抜けて行く

そして

祈る人のシルエットが

等身大に

黒く

黒く



◆ 小夜さん スタッフ  私信より

「花は」
とてもすばらしい舞台だったと思います。

早坂さんのテキストは、どの作品もそれぞれに胸に響きましたし、
いつのさんの朗読も映像も、体の中にしみいってきました。
炎や空の映像が、スクリーンの前に立ついつのさんの体のうえにも映って、
ぞっとするほどきれいでした。

ほんとにおつかれさまでした。
わたしは私の体とことばと呼吸を信じて、
感じて、また生きていこうって思える朗読でした。
ありがとうございました。



「 f f 〜二人の歌人による韻律の共鳴空間〜」◇ 200411・28


   


◆ 飯田有子さん 

第1部は響き、第2部は意味にひかれて聴いておりました。

「アモーレ!」といつのさんがさけんで走り去り「バタン!」と閉じたドアの音まで美しかった。

2部は交互に読まれる家族詠が、重なりながららせんを描くようにせまってきて、
これはこの2人でしかできないことだなあと思いながら。


◆ 田中庸介さん

朗読会、ゴージャスな会場でよかったです。

前半、大きく開いた窓から荘厳に暮れて行く横浜の空を眺めながら、
早坂さんの稲光りのような詩が読み上げられました。
夕空に花火がはじけるみたいなくるくるした感じがよかった。
後半、一転して窓に覆いが降りて来て、夜の雰囲気の中で、
切実な家族ドラマの歌が読まれていくのを心地よく聴きました。

萩原朔太郎の詩が2篇読み上げられたけど、いつのえみさんの持っているこだわりのようなものは、
朔太郎の詩のもつ「マゾヒズムと無頼」(岡庭昇)に本当によくマッチしていますね。
リズミカルな竹の詩も良かったけれど、本日は特に、
群馬総社の村から前橋にかかる橋の上に立って本を投げ捨てるという知識人の屈折の詩が、
会場の大正ロマンの爛熟に映えてすばらしかった。
さらに『宿命』とか『氷島』とか、ぜひじっくり聴かせてほしいなあ、と思って帰りました。


           Yukiko Hino




◆ 早坂類さん

伊津野さんと槐さんの「ff」行ってきました。

まず、会場の創りが美しく、ギリシャ建築風のエンタシス・・・柱がやや視界を遮り気味でしたが、
裸足で登場した伊津野さんと、槐さんの立ち姿は、美しかった。

昔、夢で見なかったか?こんな風な会場と、こんな風な朗読、と、微妙な既視感にさいなまれつつ、
みていました。

室生犀星、中原中也、萩原朔太郎、小夜、の、あとにつづいた私の詩「AMORE!」は、
作者の想いよりも思いがけずパワーが増幅されており、嬉しかった。

「はじめてひととつなぐ手のこと」という槐さんの短歌の腕相撲の短歌が妙に帰りによみがえり、
それから「母」と「父」と「家族」の短歌は、しずかに、わたしの中に響きました。

きょうは、父が亡くなって四十九日目で、実家の下関では母や弟や親戚達が集まっているはずで、
わたしは横浜で、「母」と「父」と「家族」のことを考えていました。

ごあいさつしに来てくださった数人の方、すこし浮かない顔をしていたかもしれません、ごめんなさい。

うつくしい時間をありがとうと、お二人に・・・。


   右 田中 槐さん


◆ 佐藤りえさん 2004/11/28

横浜、BankArt1929・1929ホールで朗読会「ff」を見る。
会場は第一銀行跡地ということで、高い天井とシックなシャンデリア、天井に迫る高い窓と
存在感ある支柱が室内をひとつの空気にまとめあげている、かなりナイスな空間。
これはまさに、田中槐・伊津野重美のおふたりにぴったりな場所ではないか、とまず感歎する。

客席は中央を向けて平行に向かい合わせに配置されている。
会場奥にある扉と、手前にある扉からそれぞれひとりずつ出演者があらわれるという趣向。
平家物語を諳んじながら近寄りあうふたり。
客席と演者のいる場所にはなんのへだたりも段差もないが、此岸と彼岸というか、
そことここには違う空気が流れている、と思う。しかし「舞台」と「客席」という明確な線がないため、
すぐにもそちら側に行けてしまうような、それはこわさといっていいのかわからないが、
微妙な危うさのようなものがある。梁塵秘抄、藤村の詩につづいてそれぞれソロパートに移る。
田中槐さんが読んだ梁乗鈞の詩は、食べ物のことながらエロティックかつ禁欲的で、楽しんだ。
食物に対するマニアックな語り口がねちねちしていていいのである。
伊津野さんは近代詩を読み(朔太郎はやはり絶品である)、最後に早坂類「AMORE!」に
自作短歌を織り交ぜながら読んだ内圧の強い伊津野さんの朗読のなかで、
これはどこか開放的なものを思わせる、明るい力を感じるものだった。
アモーレ!と叫んで紙を撒き散らし走り去った彼女の後姿が残像として、かぎりなく明るく残ったのだ。

後半は短歌朗読、それも互いの連作を読みあったり、自作をつむいだりの濃密な構成。
こちらはいままでにも聞いたことのあるテキストがいくつかあったが、
それだけに構成の違いがもたらす印象の差を楽しむことができた。
特に「Merry-Go-Round」は後半の白眉だった。背中合わせに立ち、一首ずつを交互に、
スピーディに読みあげていくのは、互いの姿が見えないので技術的にも難しい。
するするとその流れに飲み込まれていくと、中盤「かえし」がついたように順序が入れ替わり、
一首が二首に、また戻りして、連作のなかに流れる時間の往還や主体の逡巡が音そのものからも感じ取れるようなのだ。
「ふたりで読む」ってこういうことか、とは終ってからの感想。
最中はひたすらその渦に巻き込まれていた。ひとつの短歌朗読の理想形を見た気がした。

今回の会場は建物の構造上、音の反響や残響があって演者は苦戦を強いられていたようだが、
空間全体を使った構成がじゅうぶん活きていたと思う。
演者(供給側)/観客(享受側)という図式から少しすすめて、
残響や残像も含めた空間をそこに居合わせたひとびとが共有することができたのではないだろうか。
いわゆる「観客参加型」でなく、こういう見せ方、ひらき方もあるのだなあと思った。

                                     
 

                          


◆ 羽澄祐さん
 2004/11/28

ふたつの声

白い背景に描く
窓は背高のっぽ
高い天井に残る声を追いかけるように眼を瞑って聴いた
まだ懐かしいと言えるほど離れていない言語(ことば)たち
古い叫びの歌からはじまって

指の力をぬく
いとしい人たちの口から発せられる
ひとつひとつの“記号”
(と言えばいいのか、うまく表現出来ない)を
聞き漏らさない様にそれだけに集中する


ふたつの黒
「アモーレ」
投げ出されたテキストの白
窓の外の水に誰かが墨を混ぜた

ここにあふれる言葉たちを
遠くから追い求めて来たことの意味を
わたしとあの人のことをなぞるように
愛して



地下鉄の長い通路をひとりで歩きながら
なぜ恋人と逢うより胸が高鳴ったのか
その答えを教えてください
ふたつの声と
ふたつのfと



ロールスクリーンが降りても
風が作られても
灯りが点けられても
階段を駆け降りる素足は
音を立てない

大地に根をおろす樹木のような赤
はじめて聴く甘いクリーム色の声
色を変えて
からみあって
ひとつの花になる、歌
韻律の美しいユニゾン


ありがとう
たましいの帰る場所がここにあるのだと思った


◆ 田中槐さん 出演者 ごーふる掲示板

いつのさんの読んだ早坂さんの「アモーレ」は、本当に素晴らしかったです。
久しぶりに、頭のうしろがぞわわってしました。




「マラソンリーディング 2004」


◆ 玲はる名さん  POECA!
2004/09/27

最初、照明が暗く、そこで数分の間唱えられる言葉の繰り返しが会場の意識を舞台に集中させていった。
少しだけ、彼女の影が見え、みんなの視線はそこへ集中する。ないしは目を閉じたままその声の方へ
意識は向けられていたはずだ。
 そして、照明が点る。そこには彼女が確かに立っていた。美しかった。しかし、それは朗読をする肉体が
そこにあるだけであり、実際にわたしたちの意識は完全に声や、詩から離れることはなかった。
 先ほど、風貌は多くのことを伝えてくれると書いた。確かにそうなのだ。彼女の風貌も、詩の内容の多くを
補足しただろう。しかし、彼女の朗読舞台の構成は、照明の点灯前に、声と調子によって、
(その美しい風貌さえも解き放つほど)会場を飲み込んでしまっていたのだ。なにせ、すごかったのだ。
 本人にもそのことを伝えることができて嬉しかった。


 菅野耕平さん http://www.geocities.jp/nannokanno575/geodiary.html 2004/10/02

この人の朗読はいつも「あっち」と「こっち」を行き来するような「凄み」が
あるのだが僕は今回は特に「光」とか「立ち上がり」のようなものを感じた。
スポットライトを落とした暗がりでのゆっくりしたリフレインも良かったし
バグパイプ演奏(アメイジンググレイス?)をバックにして
マイクから離れて肉声での「やはらかいものを信じたいのです……」以降のところで
僕は不覚にも涙を流しそうになってしまった。
声は「身体」から出ていることを教えてもらった。

もっと聞きたかった。


◆ 早坂類さん  ブログより

「毎年恒例となったマラソンリーディングへ。

歌人が中心になってはじめた朗読会。
去年と同じ、新宿文化センターにて。
今年は高橋源一郎さんも出演する。

ただ、この会はたいへん長丁場で、
体調もいまひとつ良くないので、
今年は全部を見るのをあきらめて、
伊津野重美さんの朗読だけを目的に、行く。

第2回目のマラソンリーディングではじめて彼女が、
「生きるのつらい
 死ぬのはこわい」
と、自作短歌を朗読する姿を見て、以来、
彼女が出演するイベントには、
なるべく、行く。

彼女の朗読会が11月にある。

朗読に全く興味のない方にも、お薦めできる。


                                                  
「fragile -ワタシタチハナンンテ遠クヘキタノダロウ -」 2004.06.13


◆ 高田祥さん 

「朗読」として感銘を受けたのは伊津野重美さん。
歌に込めた感情を、音声の強弱とスピードの緩急を自在に操りながら
観客に届ける力量はすごいと思った。
いや、テクニックというより、感情の発露の具合によって
自然にそうなっているのだろう。


                        Yukiko Hino


◆ 羽澄祐さん 2004/06/20

  「大渡橋」「公園の椅子」 ※萩原朔太郎詩集より

今日の伊津野さんは出だしがいつもと違っていた。
立ち位置を探していた。
会場のちょっとしたざわめきがなくなり、「入る」瞬間を探していた。
ピアニストがソロ演奏で演奏開始に見せる動作や、サーブの間合いを取るスポーツ選手に似ていると思った。
呼吸を整えながら足が細かく動いていた。
不思議に思っていたところへ

一瞬で
一息で、はじまった。
革命だった、萩原朔太郎。
誰が予想していただろう。
新しい風がこっそりと吹いた瞬間を目撃できたことがうれしかった。
コラボなどを経て、子供向けアニメ的表現で言うところの、"変身ではなく進化”した朗読。
音楽的には、今までの伊津野さんがブルースの名手だとしたら今夜のいつのさんはロックを絶唱していた。

「竹」
ますぐなるもの、光る地面に、を続けて読んだのか記憶はあやふやだが、
現在「地面の底の病気の顔」を読んでも、あの日の朗読で読める。
強い印象は人間の持つ記憶をこうやって曖昧にするのか。

「遺伝」
朗読に選ぶテキストとしては難度が高いと思う。
フランス語を思わせる「のをあある とをあある やわあ」に高い表現能力が求められるからだ。
母子の台詞の部分は囁くようなピアニシモで、他は力強いシャウトのようでいて繊細さを残している。
目をつぶって朗む「のをあある とをあある やわあ」はビブラートが小刻みで、
一語一語を噛み砕いているようだった。

「大渡橋」「公園の椅子」
詩集で読み返すと、どうしてこのテキストを選んだのだろうと思う。
不勉強ながらも朔太郎の作品の中では詩性が他の作品群とは異なる気がする。
短歌への導入だったのだろうか。
故郷を離れたくて、離れられなかった朔太郎のことを思う。

詩の後に朗読された伊津野さんの自作の短歌
「たった一人の母を許せずたった一人の母を憎めず堕ちてゆく 闇」
が心に残っている。

「フラジイル」
伊津野さんの声は不思議だ。
存在感は声から来ているのか。
蝉の命が短いことで象徴しようとしている悲しみが揺さぶるのか。
など考えずにこころを無にしてただ聴き入っていた。

 「Ringerの瓶かたかたと倒さぬように これがわたしのいまの仕事です」

わたしの持つ病棟での記憶が、白い廊下の残像とともに甦るような歌だった。



「サ*ナ*エ*ミ」 200402・24   


   西岡千晶 


◆ 死紺亭柳竹さん POECA! 部分

サ*ナ*エ*ミ  [ 死紺亭柳竹 ]
投稿日:2004年02月26日(木) 18時29分

「サ*ナ*エ*ミ」は、結果的に、現在ポエトリー・リーディング・シーンが抱えている
過渡期的問題点を浮き彫りにしたステージになったと思う。

まず、筆者が戸惑ったのは、「このステージは作品に対して、”演劇的”アプローチをしたいのか?
 ”ライブ的”アプローチをしたいのか?」というポイントである。

場内に入ると、舞台上には、美術の大井理代やセット製作の阪上梨恵による、
斜めの断層が印象的な椅子などの家具や、切り出されたゆりかごのようにも見えるベッドが効果的に配置されている。
観客としては、「なるほど、このステージはシアトリカルに展開されるわけだ。」と事前に納得する訳だ。
しかし、完全暗転後に舞台上に2本のマイクスタンドが平然と並べられたのを観る時に、
筆者のようなヤサグレ者は憮然とするわけだ。
あたりまえだが、演劇的効果においては、舞台上に意味のないものなどは一切ない。
もしも、マイクスタンドを配置するならば、そのスタンドが舞台全般に意味を及ぼすようにあらなければならない。
もしもキャストの大下さなえ・伊津野重美の両名の声量不足を補うのが目的ならば
(それ自体”演劇的”には不可だが)、ピンマイクなど観客の眼に晒されない補足の方法はいくらでもあるはずだ。
マイクスタンドが、演劇的文脈を持たずに、堂々とあっていい場所のひとつは、
もちろんライブハウスである(と、しておこう)。

最初の演目である「陶製のレジスターまたは養母の肖像」で、どうしても筆者は乗り切れなかった。
この演目においては、要するに演出・音響・照明・キャストの全パートが、
”良いところ”を見せようとしすぎなのである。
全員が前に出て、どうする。それでは”演劇的”であろうが、
”ライブ的”であろうが、チームプレイの意味がないではないか。
音響の藤井一広(mol)の「レジスター」を表現するための詩的なノイズは確かに素晴らしい。
照明の高木伸博の幾つもの微細なテクニカル・ポイントを巧みに逃さず、濃淡をつけて、
セットの影を絶えず操るライティングも素晴らしい。大下さなえのアイロニーに満ちたテクストも素晴らしい。
その他者のテクストを咀嚼し、自分の身体で表現できている伊津野重美
(特に、例えば「もつれてゆく」などの7音や5音に対する歌人ならではの鋭敏さ)は素晴らしい。
これだけの貪欲なアイディアを表現しようとした演出の秋月祐一は素晴らしい。

しかし、である。実は、舞台の上は、プラスの札だけ集められると全体が大きなマイナスに転じるものである。
事実、これだけ”素晴らしい”要素だけ、これもこれもと見せつけられると、
逆に何処に集中していいか判らない。
そして観客の心理としては、マイナスの要素を探そうとするものである。
交通整理員のいない渋滞している交差点のようなものである。

正直、舞台が伊津野重美のソロパートである「ちいさな炎」「雨の街に」「消えない祈り」の
連作朗読になった時は、ほっとした。何に集中すればいいかが舞台上でクリアになったからである。
この連作の最初のほうに発語される「マッチ」(「燐寸」と表記したほうが、現場の雰囲気に即しているだろうか?)
という単語が、ただならぬ詩情で舞台を支配する。
また、マイクスタンドから離れた瞬間に、確かに伊津野の眼は光った。
”一眼二声三姿”というが、その要素を伊津野は揃えている。顎を引く独特の発声法、
天上に向けられている両手など彼女独自の魅力になっている。
但し、これは彼女自身の選曲だと思われるムーディーなBGMが途中流れるのだが、これは効果をあげるどころか、
まったく正反対の結果になってしまっていた。曲想が邪魔になって、せっかくの伊津野のパフォーマンスに
水を差すかたちになっていると思う。

続いては、大下さなえのソロパートの連作朗読「世界がジェットコースターに轢かれてゆく」「汽笛」
(「汽笛」はmolと大下さなえのコラボレーションアルバムCD『ゆめのあみ』に収録)。
「世界がジェットコースターに轢かれてゆく」で大下はハンドマイクでベッドのうえに立ち、
可愛い色気を感じさせるレインコートで、おだやかなマシンガントークのように朗読をする。
ハンドマイク自体がそのような文脈を与えているのだが、なにかの王国の独裁者の
誰も聴いていない演説という印象を与え、図らずも詩情が発露している感じがあった。
(ちなみに、ライブ・マターでリーディングする場合、スタンドで行くかハンドで行くかを選択した段階で、
ステージングの9割以上は決定していると言っても過言ではない。)
但し、「汽笛」の朗読で、はじめて大下はマイクを離すのだが、ここで地声の弱さが露わになってしまった
。BGMのmolのトラックとのコラボレーションの相性自体はとても良いのだが、
いかんせん音量で大下を食ったかたちになってしまっている。
また、その不安が大下の表情に反映されて、観客にも影響を当然及ぼす。
大下の視線の定まらない演者としての弱さが出てしまった。
このとき、バックではふたりの黒子の女優により場面転換が行われている。
ひとりは舞台監督の広田栄美であろうが、実はこの瞬間にフロントの大下さなえが
演技の側面においても食われているのだ。
広田の屈む、セットを動かす、視線を定めるというしぐさはどれも綺麗である。
広田がハイナー・ミュラー演劇祭に参加した女優であるという事前情報が観客になくても、
彼女が舞台人であるということが伝わる身のこなしである。
しかし、これは決して広田が大下を食ったのではなく、フロントの大下が”演劇的”に弱いというだけのことである。

最後に、大下さなえと伊津野重美による「夏草」(テクスト構成は大下)の朗読に入る。
紙であれ、書物であれ、「モノ」を持って朗読をする意義を考えさせられた。
「モノ」を持っていても基本的に伊津野は体が客席に開いているのに対照的に、
大下は体が閉じてしまっている。
舞台の構図としては、大下の背後に伊津野が回り込んだ状態がいちばん安心感がある。
そこで伊津野の眼が活きているからだ。
大井理代による映像が、この終盤部で挿入されるが、唐突な感じは否めなかった。
フレームのカッティングがいまひとつ舞台に食い込めていない。
だが、川辺の草や水面を淡々と描写する感覚は黒色の幕といい相性を醸しだしていたと思う。
しかし、たとえば朗読のなかで「鈴」という単語が出た瞬間にBGMで風鈴の音がしてしまうあたりは、
かなり白けてしまった。
舞台最後の完全暗転の直前に、伊津野が「水のきらめき」と発語し、それがまだ耳に残っている。
彼女は観客への訴求力のある朗読者だと思う。

さて、ここまで書いて、しかし、この舞台がここまで問題点を孕んでいるというのは、
矢張り”ポエトリー・リーディング”という表現方法が大きな過渡期を迎えた証左に他ならない。
あたりまえだが、”ポエトリー”(または”ポエジー”)を表現する(できる)方法は
”リーディング”だけな訳は絶対にない。
また、”リーディング”と一口に言っても、この拙文を一読頂ければ判るように、さまざまな方法がある。
また”自作詩”を”本人”だけが発表し得る、というのも陥りやすい思い込みである。
”他人”が朗読をすることによって表現できる”作品”の領域は必ず、ある。
だからと言って、なんでも”他人”を要請するのも、感心はしないが。
また、この拙文では、便宜上”演劇的”と”ライブ的”と分けてみたが、
果たしてその両者は、どうやって峻別できるのか?
 作り手が方法を選択しなければならないのは自明だが、しかしすべてはあまりに混沌としすぎている。

ただ、「サ*ナ*エ*ミ」がこれだけの問題を提起しうる舞台作品であったことは確かだ。
ここに記しきれなかったスタッフのみなさまを含めて、この作品を創り上げた労力と熱意に敬意を表したい。


                                       


◆ あまがみさん ブログより

すねちゃんの朗読会だった。

「ちいさな炎」
あたしのだいすきな詩だ。
なんてすねちゃんの言葉になっているんだろう。
そこから始まる一連の短歌。
今までとも違う。
あたしの聞きたかったような思いのする言葉、声、あれは光りだ。
あれは光り、あれは祈り、あれは灯火、あたたかいもの。
予期していないほどの清らかさがあふれていて、
あたしの目からは涙、鼻からは鼻水が止まりませんでした。


                Yukiko Hino


◆ 雪舟えまさん  

あたしの知ってるえみちゃんの朗読の印象は、ひととおりではなくて

闇と光 影のような声や とても求めている感じ 混沌
せいせいどうどう
どうなってもいいというすごみ 血 ガーゼ 抱擁
鳥、とくにナイチンゲール 
( ほんとうに? ほんとうに? )ざわざわする心
静止とスピード 素足 骨
いちずさ 愛 少女のおもかげ あこがれ 
大好きな人についてゆく感じ

                             




「マラソンリーディング 2003」  2003/06/28

◆ 田中庸介さん  なかはらさんに一言ください掲示板

いつのさんの朗読、すごーくよかったですよ。
特に、体調が十分でなかったとおっしゃる、
第3部の客席の中の光の川のところが。

気がつくと、

夏草のはげしく茂る谷ですね

と感想ペーパーにノートしていましたが、
癒されるような、何かそんなパワーのようなものを
兎小屋のときも今回もすねこぶさんの朗読から受け取りました。

体調は十分でなくてもよかったのかもしれない。

いつのさんが退場してすぐ、にしきみが席を立って追い掛けるようにして
後に走っていくのも作品の一部かと思われたほど、
何か感動的な、一日の白眉でしたね。


◆ 早坂類さん

マラソンリーディングへ。
この世の中に本当に好きになれるものや人は少ない。
それで私は、一旦好きになった相手には、しぶとく、図々しく、甚だしく率直になる。
けれど、私がしぶとく率直になれる相手は、ほんとうに少ない。
その数少ない人の中のひとり、伊津野重美さんの朗読が今回も素晴らしかった。
彼女の声や体が動くと、動き自体が切迫した問いになって、空間が何か深い告白をはじめる。
見ているとなにやらふわっと涙が出てくる。伊津野重美 さん、ワンマンショー希望。
私にわんさと資金があれば伊津野重美さん主演の映画を撮りたい、撮るだろう。(や、これはもう、愛だな)


◆ なかはられいこさん    なかはらさんに一言ください掲示板

あんなに具合が悪かったのに舞台は完璧だったね。
ナマで観たかったよ。
のえみの朗読はなんであんなにたましいに響くんだろう。
のえみの朗読を観るたびに泣いちゃうのはどうしてなんだろう。
なんか世界をまるごと抱きしめてるみたいで、
私もその中でいっしょに抱きしめられてるみたいで、
それで泣けるんだよね。


「朗読千夜一夜 〜第三夜〜」 2003 4 


◆ 藤原龍一郎さん  電脳日記・夢みる頃を過ぎても 03.04.05部分

トリをとった沼谷香澄さんと伊津野重美さんの「紅炎」という朗読は、
動きもきちんと演出されていてみごとなものだった。
吉原幸子の詩と二人の短歌をコラボレーションしたもので、
衣装も沼谷の赤と伊津野の白というくっきりした対比。
こういうかたちを突き詰めると小劇団のパフォーマンスとの違いがどこにあるのか
、ということになりがちだが、この差異は要は演者が何を伝えたいか
ということにかかっている。今回はテキストの短歌の重さが、朗読であることを保証していた。
沼谷香澄さんはもともとボイストレーニングができているのではないかと思うのだが、
発声という点ではいつも抜群のものがある。何より聞きやすい。
伊津野さんの強味は、囁きが届く声質という(たぶん天性の)能力。
これは一部の伊津野さんの朗読の時にも思ったのだが、
オフマイクでも聞こえる声というのは特異なポイントだと思う。
ふだんの会話は、むしろ力弱い感じの声なので、いっそうその対比に驚かされる。
あと、発声しながらの軟体的な身体のうごめき。


◆ 田中槐さん 槐の備忘録 2003/04/15

一部の最後は伊津野さんのソロ「深海魚」と「雨の街に」。
最初伊津野さんは客席にいて、マイクなしで朗読を始める。
(中略)
しかし伊津野さんにはいつもびっくりさせられる。どう考えたって通りのいい声ではない。
むしろ囁くような擦れるような声なのに、マイクなしでもちゃんと聞こえるのだ。
カヒミ・カリィという、異常なくらい声の小さな歌手を思ったりもする。
声が小さいことが欠点にならないという希有な朗読者なのだ。
そして舞台の伊津野さんもまたすごい。歌を「読む」のではなくて
「表現する」朗読というのはこういうのを言うのだ。
ゆっくり静かに、伊津野さんの言葉の糸にからめとられて、
わたしたちはうっとりと蜘蛛の餌食のようになってしまう。
途中からわたしは泣けて泣けてしようがなくなってしまい、彼女の朗読が終わって会場が明るくなり、
休憩のアナウンスをしなくてはならないのが本当に苦痛だった。


◆ 菊池典子さん  ひかりの方舟

伊津野重美で目がさめた。「深海魚」と「雨の街に」は良かった。
最初のテキストを彼女は会場の席で語りはじめた。そのときすでに通路にも観客が座り込むほどで、
薄暗がりは奇妙に濃密な雰囲気だった。薄闇はテキストのイメージを想像させやすくしてくれる。
その後、伊津野重美は立ち上がり、ステージに上った。ほの暗いステージに伊津野重美の立ち姿が
浮かび上がる。彼女の腕の動きに見とれていた。それは水底に沈んだ女が光る水面を仰いでいるようでもあり、
祈るようでもあり、乞うようでも、またここにいないものを恋うようでもあった。
兎小舎は定員五十名のところ六十名のひとで満たされていた。その場が彼女のささやきに満たされる。
静かなかなしみ。もはやそこには怒りの影もなく、ただ彼岸の辺縁に佇んでささやく姿を見るようで、
それでいて、抑制と静けさはひとを内省に誘うのだ。自然に涙が流れてきた。



「第六回地下サロン実験公演〜開放アスベスト館 未知なる後継者達へ〜」 2002・12・29
                               

◆ 池野浩之さん 「そこにいたよ」

強い衝撃を感じた。

この「実験公演」のほかの出演者によるプログラム(舞踏あり、音楽あり、と多彩)もそうだったが、

「深海魚」というタイトルからも読み取れるように、

このアスベスト館という空間が作り出す<暗闇>が生かされるよう、構想されたのではないか。

始まりは、深海そのもののように、真っ暗闇。

声が聞こえ始める。かすかに白い衣装の人。

ささやくような声と張りのある声が行き交っている。

声は音から、やがて言葉の輪郭を帯びてくる(「ゆうれい」、「かわいそう」とか)。      ※

灯りがつき、演劇的な朗読。

二人の声が小気味よく、鋭く、響いてくる。



中盤、明石海人の短歌の朗読。

伊津野重美による歌い上げと(立ち姿はマグダラのマリアを思い起こさせるような、美しい)、

広田栄美の動き(舞踏?演技?なんと表現すべきものかわからないが)。

激しくのたうっていた。

酷い現実に置かれながらも「生きたい」という、海人の思いを、強烈に表現しているようだ。

続くパフォーマンス。

広田栄美は蜘蛛のような何かとなり、獲物(伊津野重美)を捕らえて。。。。

現実世界の酷い側面を表現するような。

あるいは一種の愛の表現のような。

「深海」の暗闇は人間の心の中の比喩でもあるようだ。

そしてその暗闇の中でもなお、進んでゆこうという意思を表現しているようだ。

衝撃を受けつつ、ポジティブなエネルギーを感じていた。


       *      *      *


後日、伊津野さんの短歌を読みあさってみた。「深海魚」でみた世界があった。心を打った。

 膿すすぐ手のやわらかき 人間の為し得ることを眼を逸らさずに     (伊津野重美「眼を逸らさずに」)                                                    


       *      *      *

・・マグダラのマリア、と書いたので、マグダラのマリアについても引用

    見よ 傷つきたる心と血を流す眼の相呼応するさまを

   かの女は燃える噴水か はてまた涙する炎か

(リチャード・クラショウ「涙する人」前書き、(河村錠一郎訳)『マニエリスムとバロック』)



「*さふらん*ポエトリー・リーディング」 2002 6・19


◆ 藤原龍一郎さん

他人の作品を読む時は、自分の声質や発声法にあった作品を選ぶべし。
今回は伊津野重美さんが選んだ、明石海人の『白描』が巧く選んだと感心した。
彼女の声の質と読み方が、テキストを生かしていた。
「みずからが燃えなければ、どこにも光はない」という海人の言葉が強く耳の底に残った。


◆ 田中槐さん 槐の備忘録2002/06/19より部分 

さふらん三人娘(東直子、伊津野重美、佐藤弓生)の三人の輪唱のような詩の朗読から始まる。
美しい。三人の声の質がそれぞれに違うのだけれど、それが絡まりあうように朗読されていく様は実に美しかった。

全体は三部構成で、一部は三人それぞれの思い入れのある他者の作品の朗読。
これは伊津野さんの「明石海人」の圧倒的な存在感に打たれる。



◆ 田中庸介さん

内輪感を排除したいつのさんの演出がりっぱでしたね。


◆ なかはられいこさん  日記より

伊津野重美さんは客席に斜め後ろの角度で椅子に座り、
ハンセン病に冒されながら歌を詠み続けた歌人、明石海人の歌を朗読し始める。
長い髪に隠れて表情は見えない。
声だけを信じて明石海人とつながろうとする気迫のようなものを感じた。


                                NAKUI Naoko 


◆ なかはられいこさん CHIMERA=BBS 2004/01/18

このまえナウシカを観ながら(ここでもそれかい 笑)思ったんだんだけど、
腐海ってさ、人体に有害な気体を発すると同時に、
地下ではきれいな空気ときれいな水も作り出すんだよね。

わたしね、のえみの朗読ってそんなものと近いような気がするの。
うまく言えないんだけどね、
腐海の毒のことにだけとらわれて
地下のきれいな水や空気のことを知らないひとたちに
なにかを教えてくれるんだよね、きみのは。


◆ 村上きわみさん CHIMERA=BBS 2004/01/18

もっと大事なものがあると思うんだよね。
もちろん声のコントロールとか、滑舌とか、いろいろあるんだろうけど、
わたしはそういうことよりもっと、なんかこう、
その人がそこに立って声を出していることが、
事件のように、刷新のように感じられることのほうが大事。自分にとってはね。
のえみちんの朗読聴いたの、生では一度きりだけど、空気がかわったのおぼえてる。
あんなに生身で、あんなに静謐な祈りのかたち、はじめてだった。
たくさんのひとにそれを届けてほしいよ。
ほんとに。
                                            

reading
このページは伊津野重美の朗読に、いただいた感想などを集めたものです。
ご協力くださいましたみなさま、ほんとうにありがとうございました。            

    

2009/11/22 更新

田中 流

「フォルテピアニシモ vol.4 〜笹井宏之に捧ぐ〜」 2009.11.1