ゲリー・カーライルと現代スペースオペラ観
伊吹秀明
スペースオペラの殿堂入りを選出する楽しい作業が課せられたとしたら、貴方はいったい何を選ぶだろうか?
《スカイラーク》《レンズマン》《キャプテン・フューチャー》の三本柱は当選確実。でも、《ジェイムスン教授》や《ノースウェスト・スミス》も捨てがたいな、といった具合にいろいろ悩まれることだろう。私の場合は、悩む前にとっとと『惑星間の狩人』を入れてしまう。
『惑星間の狩人』の作者アーサー・ケルヴィン・バーンズは、一九一一年、ワシントン州生まれ。UCLA卒業。ロスアンジェルスを拠点にフリーランス作家として活躍。戦後はほとんど作品を書くことなく、一九六九年に没している。
その時代のパルプマガジン作家の多くがそうであったように、バーンズも探偵、ホラー、冒険、スポーツ、SFといった各ジャンルを手がけている。SFとしての最初の作品は一九三一年に「ワンダー・ストーリーズ」誌に発表した“Lord of the Lightning”である。
二〇年代から四〇年代にかけてのアメリカはパルプマガジンの全盛期で、それは様ざまなジャンルの大衆小説の発表舞台であった。SFもそうした中の一ジャンルで、とくに幅を効かせていたのは大宇宙活劇ことスペースオペラである。ブームの中で、金ピカのコスチュームを身につけ、右手に光線銃、左手に半裸の美女を抱いたステロタイプの宇宙英雄が何百人、何千人登場したことか。
その中でも異彩を放ったのが《ゲリー・カーライル》シリーズだ。
従来のスペースオペラでは、けばけばしい極彩色の表紙の中では自己主張していても、物語の中ではヒーローから三歩下がった存在でしかなかった女性が主役の座に躍りでたのである。しかも、
「金糸のような髪、知性にかがやく黒い目、唇の曲線と、鼻孔の線にうかがわれる、情熱と冷静さの影。要するに、女なのだ」(本書一七頁)
という美女ハンターが太陽系を股にかけ、奇怪なベムや男のライバルたちと渡りあうのだから当時の読者たちは熱狂した。
その記念すべきシリーズ第一作が発表されたのは、「スリリング・ワンダー・ストーリーズ」誌の一九三七年十月号。以下、発表順に原題をしるす。
1 The Hothouse Planet 1937
2 The Dual World 1938
3 Satellite Five 1938
4 The Energy Eaters 1939
5 The Seven Sleepers 1940
6 Trouble on Titan 1941
7 Siren Satellite 1946
これらのうち、2と4を除いた五作がまとめられて、一九五六年にノーム・プレス社から刊行されたのが本書「惑星間の狩人」(Interplanetary Hunter)である。
発表時の原題と本書の各章は、1が金星、3が木星、5がアルマッセン彗星、6が土星、7が海王星というように合致する。もっとも評価の高い5の原題は「白雪姫と七人の小人たち」のもじりと思われる。眠っているのが白雪姫ではなく七人のプロテアンで、起こしにいくのが王子ではなくて美女(ゲリー)というわけだ。
九惑星映画会社がからんでくる4(未収録)と5は、ヘンリー・カットナーとの共作である。同社社長フォン・ツォーンやプロデューサーのトニー・クェイドは、カットナーの《月世界ハリウッド》シリーズの登場人物。お互いにやりこめようと、生け捕りカーライルと丁丁発止のやりとりが見もの。合作ではないが、3や7にもフォン・ツォーンの名は登場する。すっかりレギュラーだ。
《月世界ハリウッド》シリーズ自体は そのうちの一篇「大作〈破滅の惑星〉撮影始末記」が『太陽系無宿』(ハヤカワ文庫SF)というアンソロジーに収録されている。また、カットナーはウマが合ったらしく、《ピート・マンクス》シリーズというタイム・トラベル・コメディの共作があることもつけ加えておく。
さて、『惑星間の狩人』を含んだスペースオペラの世界だが、私見を交えて幾つか述べさせていただきたい。
本書の訳者である中村能三氏は、旧装版のあとがきにて「(二〇〜四〇年代アメリカのSF雑誌の)作品の特徴は質の善し悪しにかかわらず、宇宙活劇プラス、エロとグロの傾向が顕著である」としるしてある。
エロ、グロときたらあとはナンセンスである。同時代の日本では探偵小説の世界で猟奇物、エロ、グロ、ナンセンスが「良識」ある人々から眉をひそめられながらも大流行していたというのは面白い一致だ。
スペースオペラのどこがエロ、グロ、ナンセンスなのか、という疑問もあるだろう。たしかに現在の視点から見れば、ごく単純な娯楽作品でしかないが、当時の読者たちには充分に刺激的だったはずだ。「性」には保守的なアメリカ(SFだけではない。戦後になってもコムストック法によって多くの図書が発禁となった)において、昆虫やらナメクジやらトカゲやらが合わさったような奇怪なベムに襲われる半裸の美女の表紙はエロ、グロ以外の何ものでもないし、科学性を無視し、御都合主義に満ちあふれたストーリーはナンセンスと評するにふさわしい。
それでも日本の探偵物が密室性なり陰湿性なりを帯びていたのに対して、アメリカのスペースオペラは解放的、明朗である。同じエロ、グロ、ナンセンスを根底にもったとしても、浮き上がってきたものはまったくの別物になってしまった。国民性の違いという一言で片づけられるものかどうかは、さらに考慮を要する。
じつは、そうしたスペースオペラの持つエロ、グロ、ナンセンスの「低俗な」部分をアメリカから日本に持ちこむ際にバッサリと切ってしまった人物がいる。
そう、日本におけるスペースオペラの第一人者であり、宇宙大元帥を自称する野田昌宏氏である。
戦後日本SFの黎明期、出版界には「SFと西部劇に手を出すところは潰れる」という暗黙のジンクスがあった。
スペースオペラは、ホースオペラ(安手の西部劇)から転化した言葉だ。つまりスペースオペラは、最初からSFと西部劇の二重苦を課せられていたことになる。
そんな日本出版界にスペースオペラを根づかせようとした野田氏の努力は大変なものがあったに違いない。その成果の具体的なもののひとつは〈SFマガジン〉誌上にて一九六三年九月号から六五年五月号にかけて連載されたコラムであり、のちに加筆のうえ単行本にまとめられた『SF英雄群像』(ハヤカワ文庫JA)である。
同書に取り上げられた《火星》シリーズ(E・R・バローズ)、《スカイラーク》《レンズマン》(ともにE・E・スミス)、《ゲリー・カーライル》(以上、創元SF文庫)、《アーコット・モーリー・アンド・ウェード》(J・W・キャンベル・ジュニア)、《ジェイムスン教授》(ニール・R・ジョーンズ)、《ノースウェスト・スミス》(C・L・ムーア)、《キャプテン・フューチャー》(エドモント・ハミルトン)(以上、ハヤカワ文庫SF)、《鷹のカース》(アンソニイ・ギルモア)、《バック・ロジャース》(フィリップ・ノウラン)といった作品群が、日本のSFファンのスペースオペラ観を作りあげたのは確かだ。
さらに野田氏は《キャプテン・フューチャー》《ジェイムスン教授》《スターウルフ》(ハミルトン/ハヤカワ文庫SF)といったシリーズを翻訳し、自ら和製スペースオペラ《銀河乞食軍団》を執筆。さらにテレビ・プロデューサーとして、NASAの宇宙開発を紹介するなど八面六辟の大活躍ぶりである。日本人初のスペースシャトル乗組員、毛利衛氏が〈キャプテン・フューチャー〉の愛読者だったという事実は、野田氏の業績を物語る重要なエピソードといえるだろう。
しかし、こちらもSFファンとなっていろいろと内外の情報を仕入れていくと、とある違和感を覚えるようになった。野田さんの紹介によって作られたスペースオペラ像と、アメリカにおけるスペースオペラ像のギャップだった。つまり、後者はスペースオペラとは「蔑称」に近いものであり荒唐無稽のクズを指す、と。アメリカ人のSFファンに向かってスペースオペラのことを聞くと奇異の目で見られますよ、という忠告まで聞いたこともある。
このギャップが何故生じたのか?
〈パラドックス〉というファンジンのスペースオペラ特集号(一九九〇年)のインタビューにて、野田氏はこう語っている。
「アメリカ人ってのは、SFを刹那的なものとして考えているフシがある。ビブリオグラフィックな資料とかほとんどなくて、一九二六年からの歴史の流れとしてSFをとらえたのは、マジに世界でおれが最初じゃないかって思うんですよ(笑)」
「スペースオペラという言葉の概念規定自体がものすごく混乱してて、アメリカなんかでいうとスペースオペラはクズみたいなものの総称であるのに、そいつを大マジメに『SF英雄群像』あたりで取り上げたものだから、日本で独自のジャンルが形成されてしまったような部分もあるわけですよ」
「スペースオペラという言葉は、一九四〇年代までにあった荒唐無稽な娯楽本位のものだと概念規定をはっきりさせたほうがいいんじゃないかな。わたしなんか自分でスペースオペラとうそぶいているけど、実は大きな矛盾があるわけで、冒険性の強いSFというふうにね、言い直す必要があるんじゃないかと……。それこそスペース・アドベンチャー・ロマンみたいな新しい言葉を作りたいという気がするんだけど」
というわけである。
どうやら野田氏はアメリカSFの事情を知ったうえで、日本にスペースオペラを導入する「戦略」を練ったようだ。
スペースオペラがいくらクズの集まりだとはいえ、その中には鑑賞に耐えうる良質のエンターテインメントが含まれている。野田氏は、そうしたものを丁寧にすくい出し、氏一流の語り口で「スペースオペラってのは面白いんだぜ」とやったのである。
野田氏はクズの存在も教えてくれてはいるが、人間はやはり面白いものに目がいくというもの。「面白いんだぜ」のアピールに、コロリとひっかかった人のいかに多いことか。先述のファンジンの編集者も「はめられた!」と編集後記でしるしているし、『宇宙英雄物語』『星方武侠アウトロースター』(集英社)で知られるスペースオペラ大好き漫画家、伊東岳彦氏も「いまさらスペース・アドベンチャー・ロマンなんて言われても……」といった感想をもらしている。
つまり結果的には、野田氏の戦略は成功をおさめていたということだろう。
スペースオペラという言葉を広めたもうひとりの人物がいる。翻訳と紹介で筆をふるった厚木淳氏である。氏は、A・E・ヴァン・ヴォークトの『宇宙船ビーグル号の冒険』、I・アシモフの《銀河帝国の興亡》(ともに創元SF文庫)にもスペースオペラのレッテルを貼ったが、これは明らかに野田氏よりもスタンスが広く、やはり日本独自のスペースオペラ観に影響を与えたといえるだろう。
一方、「スペースオペラ=クズ」という図式だったアメリカSF界でも、一九六〇年代からそれに変化が生じている。《レンズマン》《キャプテン・フューチャー》といった作品がリプリントされるに際して、スペースオペラといった売り文句が肯定的に使われたという。
そのあとは、正確な科学知識を取り入れ、スマートなストーリーをひっさげて登場したラリー・ニーヴンの《ノウン・スペース》シリーズ(ハヤカワ文庫SF/創元SF文庫)にもモダン・スペースオペラやソフィスティケイテッド(洗練された)スペースオペラといった呼び方がなされた。言葉は生き物で、概念さえも変わっていく。サミュエル・R・ディレイニーの『バベル17』『ノヴァ』(ともにハヤカワ文庫SF)、『エンパイア・スター』(サンリオSF文庫・絶版)、ジェイムズ・H・シュミッツの『カレスの魔女』(創元SF文庫)、フレッド・セイバーヘーゲンの《バーサーカー》シリーズ(ハヤカワ文庫SF)もモダン・スペースオペラの流れにある作品群である。
日本に目を向けても、《銀河乞食軍団》以外に、高千穂遥の《クラッシャージョウ》シリーズ(ソノラマ文庫)、《ダーティペア》シリーズ(ハヤカワ文庫SF)、神林長平の《敵は海賊》シリーズ(ハヤカワ文庫SF)、田中芳樹の《銀河英雄伝説》(徳間書店)など多様な発展がある。あまり広げすぎると概念規定の意味そのものがなくなるが、これらの作品は日本という独自の土壌で野田氏がまいた種の成果なのだ。野田氏自身がスペースオペラではないといったところで、それは間違いない。言葉はすでに一人歩きしている。
ふたたび『惑星間の狩人』に話をもどす。
ただ一作、あるいはひとつのシリーズ物のみでSF史にその名を残す作家はいるものだが、アーサー・K・バーンズもまたそのうちのひとりだ。ワン・アンド・オンリーとは、もちろん本書のことである。
『惑星間の狩人』のベム・ハンティングの場面、ゲリーとライバルとの競争は充分に楽しめるものだ。抄訳であるジュヴナイル版(『惑星ハンター』小尾芙佐訳 あかね書房 少年少女世界SF文学全集11/一九七二年)を読んでみると、話の骨格部分がしっかりしているのがよく分かる。
しかし、作劇上の手腕は他の作品にも発揮されているはずである。バーンズの作品で『惑星間の狩人』だけが、数えきれないくらいのスペースオペラのクズの山の中に埋もれないで済んだのは、繰り返しになるが、美女と野獣ならぬ「美女ハンターとベム」という設定の妙にあるはずだ。
この設定はじつは古典的でありながら、新しくもある。それがどういうことか、現代的な視点(正確には私の好み)から『惑星間の狩人』を再構成してみよう。
他の恒星系ではなく、太陽系内の惑星や衛星を舞台としている点はさすがに古くさい。知的生命体はおろかベム(Bug-Eyed Monster)が棲んでいないことは子供だって知っている。かえりみれば、ロジャー・ゼラズニィが「伝道の書に捧げる薔薇」(一九六三年)で火星に、「その顔はあまたの扉、その口はあまたの灯」(一九六五年/ともにハヤカワ文庫SF『伝道の書に捧げる薔薇』所収)で金星にオマージュを捧げた時点で、スペースオペラ的な惑星/世界像は終わったものと思う。いま手がけるとなれば、現実的で過酷な環境の惑星像か未来のテクノロジーでテラ・フォーミングされた世界にならざるをえないだろうか。
もっとも、リアルさだけがSFではない。むかしの人間が空想した未来像、レトロ・フューチャーを楽しむ自由だってある。火星の砂漠や金星の海(あるいは霧の世界)を積極的に楽しむことだってできる。
女主人公――ゲリー・カーライルは、スペースオペラ界において画期的なヒロイン像ではあったが、これもまた現代から見ると古典的である。金髪美女のルックスに、男の世界で精いっぱい背伸びしている内面をもった、というステロタイプだ。これは三〇年代にスクリーンをにぎわしたカラミティ・ジェーンやアニー・オークレーといった西部劇ヒロインの影響だろう。現代作家が描く場合は、もっと深い陰影が与えられるはずだ。
先述したエロ、グロの部分も再浮上する。抑圧されてはいたが(それゆえにこそ)、スペースオペラにとっては重要な部分だった。カーライルそのものとは少しずれるが、ヒロインたちの半透明なスペースファッションは、一九四〇年代のガーリーマガジンなり、五〇年代のアンダーグラウンドのボンデージ・ピンナップなりへとつながっていく。コミックから映画化された「バーバレラ」(一九六八年)のファッションはいま見ても古びていない、セクシーなものだ。
写真家ロバート・メイプルソープ以降は、同性愛なりSMなり、それまでタブーだったものがアートとして表に登場した時代である。そうした要素を踏まえた宇宙ヒロインのコスチューム・デザイン考なり、キャラクター考があってもいい。そのあたりの興味をインスパイアさせてくれる本には『ピンナップ・エイジ』(伊藤俊治&伴田良輔/リブロポート)などがある。
『惑星間の狩人』のもう一方の主役はベムたちであり、それらはある意味ではゲリー・カーライルよりも深い味付けがなされている。ノーム・プレス版でイラストを担当したエムシュウィラーの功績が大きいといえるだろう(本書のイラストはこれを転載したもの)。想像を絶する化け物はいないが、それがかえってリアリティを与えている。冒頭で登場する鉄砲玉カブトムシなどは、現在の嫌煙大国アメリカでは歓迎される生物ではなかろうか(喫煙大国の日本では危険生物として徹底した駆除の対象となる?)。
たとえベムだろうと、新種の生物を作中に登場させることは、作家に造物主なり探検家/動物学者の楽しみを与えてくれる。一九二〇〜三〇年代の作家たちは、前世紀まであった博物学的な関心をもてたのではないだろうか。「そんなものがいてたまるか」と思われていた動物たちが発見されていく過程は『世界動物発見史』(ヘルベルト・ヴェント 小原秀雄他訳 平凡社)でも楽しく追想できる。
また、ありえない生命を真剣に論じるのがSFの醍醐味のひとつならば、『鼻行類』(ハラルト・シュテュンプケ/日高敏隆他訳/思索社)、『平行植物』(レオ・レオーニ/宮本淳訳/工作舎)、『秘密の動物誌』(ジョアン・フォンクベルタ&ペレ・フォルミゲーラ/菅啓次郎訳)といった成果も見落とせない。ゲリー・カーライルの成果が一望できるロンドンの惑星間動物園のガイドブックがあってもいい(日本ではファン出版物がある)。
現代的な視点でみるというなら、J・H・シュミッツの『悪鬼の種族』(ハヤカワ文庫SF)のように生態系そのものを作りだしたり、異星の環境問題まで踏みこむこともできるだろう。ハンティングならぬウォッチングをテーマとした作品もありえるわけだ。
以上、本書を読み返しながら、いろいろなことを連想してしまった。何というとりとめのなさ、なんという荒唐無稽さ、という声も聞こえてきそうだが、それこそスペースオペラのごった煮的魅力であり、二十一世紀も近い現在に本書を復刊する意味だと思うのだ。むかしむかし、こういったスペースオペラの古典がありました、という歴史的お勉強だけではつまらないではないか。日米両国の先駆者たちの意識がどうであれ、彼らの産物は時代とともに変貌をとげていくのである。
余談だが、私はゲリー・カーライルの孫娘が活躍する話を考えている。書き出せば、きっとこれもまた荒唐無稽なものになりそうだが、さて……。
一九九五年八月/いぶき・ひであき(作家)
◆『惑星間の狩人』アーサー・K・バーンズ著の文庫解説(創元SF文庫/東京創元社 1995年10月の同文庫復刊フェア)
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