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小説


1章 手紙 2章 日記 3章 配達 4章 再会 5章 紫煙
6章 告発 7章 紹介 8章 不安 9章 白い花 10章 返信
11章 断崖の花 12章 酩酊 13章 苦学 14章 表裏 15章 郵送
16章 約束 17章 独立 18章 黒鞄 19章 愛憎 20章 議論
21章 孤独 22章 競争 23章 省察 24章 分割 25章 憤慨
26章 猶予 27章 掲示 28章 燃焼 29章 再編 30章 真情
31章 生死 32章 会議 最終章 月光

遺書─青春の記憶  
1章 手紙

ここに一通の手紙がある。
友人柿沼が私宛てに残したものである。

 M君、しばらく会わずに突然このような手紙を送るのを許してほしい。彼女のことは、もう諦めた。未練がないといえば嘘になるが、それも仕方のないことだろう。君には心配をかけてしまい、本当に申し訳ないと思っている。
 人の心は推し量ることができないのだろうか。知ろうとすればすれほど、様々な迷いが出てきて本当のところが分からなくなる。すべてを白紙に戻して、やり直すことができるならどれほど楽だろう。もつれた糸に自分自身が絡まって身動きが取れなく、出口の見つからないトンネルの中で足掻いているような気がする。
 人の一生は100年にも満たないのに、背負う課題はあまりにも重い。瞬時にも満たない人生には深い悲哀を感じる。
 生きることに苦しむこの命はどこから来るのだろう。自分が消滅するというのは苦しみの消滅なのだろうか。この世は、この世限りのものなのか。消滅した生命は、何処にも存在しないのだろうか。生きている限り、苦しみが尽きないとすれば、何のために生きて苦しみ続けなければならないのだろう。今は判断できなくなってしまった。
 このまま生きて苦しみ続けるのか、死して苦しみから抜け出すのか、いや、死もまた苦しみの道かも知れない。ここに判断が停止して、どう進むべきかに迷う。旅に出て自分を見極めたいと決心した。連絡が取れないと思うが、心中を察してくれたまえ。              柿沼 良一

   ○○月○○日


                                           手紙に妙な胸騒ぎを覚えて、急いで目を走らせた。
ひょっとして柿沼は死ぬ気なのではないか。私は、彼の携帯に電話したが、通じなかった。何かの手がかりがあるかもしれないと、手紙を胸の内ポケットにしまいアパートを訪ねることにした。
 山の手から京浜東北に乗り換え、急いだ。駅から5分も歩くと彼の住んでいる部屋まで、声が届く距離だ。階段を上って二階を目指す。
 「柿沼、俺だ。いるか?」
 鍵がかかり、応答はない。少し離れた所に住む大家を尋ねると、既に荷物を引き上げて3日経っていた。大家の話では、ここ2月ほど彼は元気がなかったようだという。彼から連絡があったら、知らせてくれるよう私の住所と電話番号をメモして渡した。

 柿沼の話では、彼には父母がいないといっていた。それが死別なのか、生き別れなのかは、ついぞ聞きそびれて今日に至ったことを後悔した。
 ふだんは気が向くとひょっこりやってくる柿沼であったが、こんな時に限って手がかりを何も残して置かないことが何時になく腹立たしく思われる。万一に備え、明朝まで待って警察に捜索願いを出すことにした。
 女のことで大分悩んでいるようだった。君は純情一途だからな、余り思い詰めるなよ、この間彼と別れしなに言ったことを思い出す。濃い眉を曇らせ、一点を凝視していた。早まるんじゃないぞ、道は開かれているはずだ。君の苦しみを知ることはできないかもしれないが、話をとことん聞くことだけはできる。
 ただ一つ残された手紙に再び目を落とし、彼の行動を推測するしかない。1行1行に目をやり、1文字1文字に含まれる意味を考えめぐらした。

 彼女のことは諦めたのだろうか。言葉で言うほど簡単に諦められるはずはない。それは問うまい。彼は恋の煩悶に人の心も推し量れなくなっているのだろうか。恋の妄執が深く彼を捉えて離さないのだろう。
 打ち消そうと足掻けば足掻くほど纏わりつくのが情念の恐ろしいところだ。これを留めるのは何かによって情念の息の根を止めるか、あるいは恋のほむらに身を焼き尽くしてしまうかだ。彼はいずれを選ぶか迫られている。
 人の一生は100年にも満たない、とはその通りだ。律儀な彼にとって、真っ正面から受けるには荷が重いかも知れない。瞬時の命であるからこそ、悲哀を突き抜けて生きなければならないのだ。見事に重荷を背負い切って見せなければ悲哀は人を奈落の底に引きずり込む。
 君の苦しみを分かち合えないとすれば、それこそ我が苦しみでもある。友よ、悲嘆に陥るな。君は今、生きることの最奥の命に触れたのだ。私もまた、同じ道を生き抜こうと決めている。遥かなる旅ではあっても、それを見極めずして何の人生であろう。早まるなよ、連絡を待っている。

 このように思案して夜が明けた。どこか旅の空のもとで、彼は朝の光を受けているに違いないと思う他なかった。彼の身寄りの思い浮かばぬ私は、ひとまず警察に捜索願いを出すことにした。事情を説明すると、その手紙の文面を求められた。私信であるので他人に見せることが躊躇われたが、結局、見せることになった。
 一読すると、これは哲学青年の失恋による旅ではないか、と冷ややかな受け止め方であった。それでは万一の時には、警察は責任を取ってくれるのかと言い募ると、中年の刑事が眼鏡を直しながら気のなさそうな顔で書類を取り出した。それを受け取って記入事項に書き込み、申請人の欄に署名捺印してくれぐれもよろしくと渡して署を出た。春の光が高く射し昼に近いことを思わせた。


2章 日記

 2日経っても警察からは何の音沙汰もなかった。糸の切れそうな不安と追い立てられる焦燥を感じながら、落ち着け落ち着けと自らに言い聞かせた。
 柿沼の手紙は、私にも重い問いを投げかけ、無視することが出来なくなっていた。考えたからとてどうにかなるわけではなかった。しかし、この不安の依って来るものが何であるのか、得体の知れぬ不安が足元を揺るがす。白紙ばかりの目立つ日記を広げ、心の波立ちを書き留めることにした。

 柿沼は、自分とは異なり、几帳面で妥協しないところがある。時に融通のなさが人間関係を酷く重いものにしてしまう。S子とのことも、彼の気持ちを正直に伝えようとすればするほど、言葉の狭い小路に入りこんでしまったのだろう。もう少しざっくばらん、いい加減でさえあれば行き詰まることなどなかったに違いない。
 私の推察ではS子は柿沼を嫌ってはいなかった。男と女の心はすれ違う。言葉は、言葉を使うものさえ裏切る。よほど慎重に言葉の性格を飲み込み、その時のご機嫌を察知しなければ使うことなどできはしない。案外、言葉を使っているようで言葉の奴隷になっていることが多いのに気づかされる。
 彼はもつれた糸と言っているが、あれは彼女との人間関係というより、彼自身の言葉が彼に復讐しているのかもしれない。言葉は現実を細かに分析して見せるに過ぎないのだ。言葉が人と人を遠ざけることさえある。
 彼に必要だったのは言葉でなく、行動だった。彼女を押し倒してその思いを形に表すべきだった。彼の妥協を許さぬ倫理が、言葉の一貫性を自らに課し、それを貫徹することでしか行動へと移れなかったのだろう。まことに僅かばかりの教養というようなものが悲劇を生む。青春の悲劇の多くはここにあるのではなかろうか。
 人は教養を身につけるに従って、苦悩を増す。無教養であることは楽しく、生きることも力強い。生半可な知識は判断に迷いを生じ、行動を躊躇させる。知ることがそのまま行動に結びつくことは少ない。知ることに何の価値があるのだろう。万巻の書を読もうとも、一人の女の気持ちすら掴めないなら人生は大いなる喜劇ではないか。一生は100年を満たずに1幕の喜劇として終わる。己の抱える悲哀を解決するのでなければ、これほどの悲劇はない。
 現実のこの悩みと、理想を求める葛藤は人として生きていることの証しである。言葉の飾りは必要でなく、脈動する命を己のものとしてどう生きるか、その一筋の道があればいい。柿沼がいればこのようなことを話し合っただろう。
 命は考えてから生きるのでなく、生きていること、生きようとして煩悶することがそのまま考えていることなのだ。生きていること自体が苦しみであるなら、そこから逃れる術はない。苦しみを受け入れて生きることが、救いを見出す本当の道ではなかろうか。自らに生きることは、たといそれが苦しみであろうとも、自らの苦しみを救うただ一つの道である。
 この世にあってこの自分は、いずこから来たものであろうと、生きている限り苦悩は消滅することなく、よりよく生きようとするから苦悩がある。単なる生存に留まることなく、人として生あるものとして生きるに値しようとするからこそ悩みは尽ない。生命は生きているこの事実から出発し、再び現実に還ってくる他ないのだ。

 このように私は日記を書き終えて、2日ばかりの心の迷いを整理した。


3章 配達

 柿沼はどうしているかな。気にし出すと心が掻きむしられる思いがする。まあ、気にしてもどうなるものでもない。彼も大人だ、そう無茶なこともしまい、と自分を納得させるほかなかった。
 新聞の配達があるので11時過ぎには床に入った。畳の気配を背中に感じる煎餅布団と薄い掛け布団に包まり、念のため目覚ましを4時半に合わせた。しばらく時の刻む音を聞きながら何時の間にか眠りに落ち込んでいった。
 目が覚めると間もなく4時半になろうとしていた。目覚ましのボタンを押して、着替えを済ませ、いつものように顔を洗って戸外に出る態勢を整える。夜明けにはまだ早く、薄明かりの中を自転車に飛び乗って新聞販売店に急いだ。もう新聞の梱包は店の前に放り投げられていて、4、5人の店員たちが板の間に梱包を開け、配達区域ごとに仕分けを始めている。
 「おはようございます」と声を掛け、私も280部ほど本紙を分け、スポーツ紙など必要な部数を揃えると、チラシをまとめておいたものを新聞の間に挟みこむ。眠気もあり、時間との戦いに誰も口数少なく同じ作業をする。それが終わると順路帳をジャンパーに突っ込み、配達に向かった。

 5時に近い東の空は、夜明けの光がゆっくり昇ろうとしている。自転車を走らせて行くと、時々、同業の顔見知りに会う。挨拶を掛け合うのは、互いの労苦をよく知っていることからだ。しばらくすると牛乳配達の兄さんにも行き交う。この朝まだきには特殊な人種しか活躍していない。妙な誇りというか、自慢したい気持ちがこみ上げて来る時がある。
 「この広い世界に、今起きて活躍しているのはこの俺なのだ。新鮮な空気を吸い、街角を走っているのは。」
 まだ正体も無く寝ている輩を一軒、一軒叩き起こして歩きたい衝動に駆られる。
   柿沼も1年前には、この同じ道を共に走っていたのが思い出され、何やら苦くてやり切れない気持ちがこみ上げた。
 自転車を立て、新聞を2、3部荷台から引き抜き、新しいところは順路帳で確認してからポストに入れる。横丁を曲がると突然、番犬が吠えて驚くこともある。犬の好きな餌をやって手なずける方法もあるのだが、それは馴染みになってからのことだ。そうでなければ犬だって決して人に心を許しはしない。
 6時半も少し回る頃には起き出してくる人も多い。ご苦労さんと受け取って貰えるのは実にうれしく、弾む心で胸のうちがぱっと明るくなる。
 7時前には全ての新聞を配り終わり、軽くなった自転車で意気ようようとご帰還だ。一仕事を終えた後の空腹感は、どんな食事でも最高の美味となる。飯と漬け物、味噌汁、この3点さえあれば文句のつけようがない。

 イラクの情勢が厳しいな、アメリカ一国が力で押さえつけようとしてもどうしようもない。何の関わりもない民が傷つき、死んでいくのは活字の上だけでもたまらない気持ちになる。
 新聞の見出しをざっと見て、11時頃まで休むのが習慣となっている。あまり読み込みすぎるとつい睡眠時間がなくなってしまうので、この辺の調節が難しい。神経が高ぶっていると目を閉じてもうつらうつらで悪い夢を見る。
 私には兄弟がいないので、柿沼が弟のように思えていたのかも知れない。頼りない兄だったのだろうか。いつもひょっこり現れ、冷蔵庫を覗くと、何か食えるものがあれば、これを貰うよとうれしそうに口に頬張っていた。できの悪い兄に比べ、頭も鋭く、それでいて時々私を笑わせた。気持ちの優しい奴だった。
 何が彼をそこまで追い詰めたのか、うすうす気づいてはいたのに悩みを聞いてやれなかった自分が情けない。手の届かないことの苛立ちと、不安を味わっていた。だが、そんな気持ちをどこに配達するというあてもなかった。


4章 再会

 少し休憩を取ると何時の間にか昼近くになっていた。アパートの窓を開けると隣のビルの屋根越しに雲間から青空が広がり、風が部屋の中に入ってきた。
 今日は新聞の拡張だな、締め切りまであと5日だ、そう思いながらも気力がいつもと違って萎えていた。そういえば、たしかK病院だったかでS子が事務をしていると柿沼が言っていたのを思い出した。場所は田端の近くだったか、おぼろげに浮かんだ。病院の名前を手掛かりに検索すると難なく目的の病院が探り当てられた。

 私はS子と一度会ったことがあった。柿沼がS子とデートの待ち合わせをしているところにたまたま出くわしたのである。彼女も私を覚えているはずだ。拡張は明日することにして、S子に会って柿沼から連絡がないか確かめてみることにした。すでに失踪から5日目になっていた。

 急いで昼食を済ますと、上野から山手線に乗って田端駅に向かった。
 田端駅の北口を出ると、正面に道路が走り、左前方にアスカタワーが一際高く聳えていて、そのまま道路を左手に沿ってしばらく行くと動坂に至る。その反対側を少し入った所にK病院があった。
 玄関を入ると左側に受付があり、事務員がカルテを持って忙しく行き来している。外来患者の名を呼んで問診表に症状や既往症などを記入してもらっているようだ。頃合いを見計らって、
 「あのう宮田と申しますが、こちらに事務員で坂本S子さんという方はいらっしゃいますか?」恐る恐る訊ねた。
 怪訝そうな顔で、小太りした中年の事務員が  「はい、いますよ。今席を外していますが、もうすぐ戻ります。」と、顔を覗き込むように見る。
 「柿沼の友人だと言っていただければ、分かるはずですからお願いします。」と頼んで、ベンチに腰を下ろした。

 10分程も経った頃、
 「お待たせしました。」  S子が長い髪のほっそりした顔を見せた。大きな目で色白な顔が印象深かい。
 「どうもしばらくです。柿沼の友達の宮田ですが。」周囲が気になった。
 「ええ、あの時にお会いした方ね。」よく覚えているというように微笑んだ。
 「あの、さっそくですが、柿沼のことをご存知でしたら教えてほしいと思って。」  柿沼と彼女の関係を尋ねているようで言い淀んでいると、  「それがね、わたしにもよく分からないのよ。」  察するようにS子は私の言葉を遮った。柿沼は彼女にも何も告げず旅に出たのかもしれない。何か手がかりでもと思ったが、淡い期待だったようだ。
 「それでは何か分かりましたら、ここに連絡いただけませんか。」メモに書いてS子にそっと渡した。深くは話さなかったけれど、S子には柿沼のことが既に十分承知のことと思われた。

 夕刊の時間には、まだ間があったので田端の高台をぐるりと回って帰ることにした。田端は大正から昭和のはじめにかけて、画家、陶芸家、作家が多く移り住み、「文士村」となった。名前の親しい作家に芥川龍之介、室生犀星、萩原朔太郎、堀辰雄、菊池寛、中野重治などがあげられる。
 田端駅に通じる切通しの道路が台地を削り取って南北に走っており、先ほどK病院に行く時に通った道である。その削り取られた崖上に芥川龍之介の住居跡があり、山茶花の生垣が往年の面影を一部残している。昭和2年、芥川の自殺によって文士村は実質的に終わった。高台から北には晴れていれば筑波山が遠望される。そのまま石段を下り、田端駅の改札をくぐった。

 上野駅の不忍口を下りて浅草通をしばらく行き、元浅草の店に着くと、間もなく新聞発送の車がやって来た。配達区域ごとに夕刊を分け始める頃には、どやどやと仲間たちが自転車で集まって来た。新聞を荷台に載せゴム紐で括ると我勝ちに配達に急ぐ。夕暮れが迫ると共に急かされるのである。
 ビルの路地から路地へ人を縫うようにして行く。配達区域に着くと荷台から新聞を1部引き抜くと、指に挟むようにしてピューとしごく。こうするとポストに差し込むのに都合がいい。新聞を抱えて小走りに次々とポストに届ける。1時間もすると夕刊の束はなくなり、いつものコースを空の自転車で軽々と帰るが、春の陽はまだ残っていた。
 店に帰って、明日の朝刊に入れるチラシの準備を終えると一段落する。夕刊を一部取ってアパートに帰る途中で、夕食を済ませるのが手間がかからなくていい。とんかつ定食はちょっと贅沢したい時の定番で、腹が満ちるとようやく今日一日を終えた気持ちになる。

 アパートの階段を上って2階の部屋のドアを開けると6畳と台所が見通せた。  夕刊には、米軍によるイラク人捕虜虐待の見出しが載っている。テーブルにそれを置くと畳に大の字になった。昼の疲れからうとうとしていると電話が鳴った。受話器を取ると店からだった。
 「宮田君、不着だよ、4丁目の○○さんから連絡が入っているから、すぐ届けてくれよ。」
 主任のぶっきらぼうな声が受話器の向こうでがなりたてる。
 「済みません、分かりました。」
 店に自転車を飛ばし、夕刊を1部、そして洗剤を1箱手にして、お客の所に向かう。
 「遅いね、ちゃんと配達してもらわないと困るじゃないか。」苦情にひたすら謝るが、お客は腹の虫がおさまらないという様子。こうなったらひたすら平身低頭しかない。ようやく許してもらい、ほうほうの体で帰る。アパートの階段を重い足取りで上りつつ、明日は拡張やらなければと思った。


5章 紫煙

 夜になって風が出てきた。窓を揺すり、時々ひゅーと鋭い悲鳴を上げる。雨にならなければいいが、明朝の配達が気がかりだ。あまりよく寝付けぬまま、嫌な夢を見たようだ。頭を上げて時計に目をやると4時に15分前。少し早いが起きることにした。
 風の音は止んで、雨が降っているのか、遠くで車が水を跳ね上げて走っているようだ。窓を開けて様子を見るとやはり雨だった。カッパを着て階段を下り、自転車で薄暗がりの中を店に向かう。
 店には何人かが来ていて、手際よく梱包から新聞の束を取り出し、必要な部数を数えて分けていく。持ち場の新聞を1部づつビニールシートに入れ、雨に濡れないようにする。自転車から新聞がずり落ちないようにきつくゴム紐で固定して、直ぐ取れるように前の籠にも2、30部載せておく。

 早朝の時間は1分たりとも無駄に出来ない。雨の日は、それでなくとも、いつもより時間がかかり、スリップ事故にも注意がいる。カッパで体も動き難い。4、50軒も配るとカッパの内側は、熱と汗でむしむししてくる。ようやく7時頃には最後の一部を配り終えた。
 店に戻って掃除を終えると急いでアパートに帰り、シャツなど着替えなければならない。さもないと風邪をひく。雨降りの配達はめんどうだ。朝飯を済ませるとそのままぐったり一休みと相成る。
 目を覚ますと11時半だった。今日は拡張しよう。先月で購読を終わった読者、前に取ってもらったことのある読者が対象だ。拡材(拡張材料)は、洗剤30個とビール券10枚を持って行くことにした。
 セールストークは、挨拶と日頃の御礼、簡単な世間話や紙面の特集紹介などができればいい。財布の紐を握る奥さんに気に入ってもらえないと契約はまず見込めない。植木があればそれを褒める。何という花か教えてもらう。顔見知りになっていくと、セールスもけっこう楽しいものだ。
 午後1時頃から3時頃まで配達区域を回って、今日の成果は8軒。まずまずだ。わくわくしながら店に帰り、契約を終えたカードを主任に渡すと、「お、すごいね。今日一番の成績だよ。」とご機嫌がいい。伝票を整理してからアパートに戻り、4時の夕刊まで休憩だ。

 足を投げ出しテーブルの上の煙草を取り上げ、一服する紫煙の消え行く先を見ながら柿沼とS子のことが思いやられた。日頃はそれほど思いに耽ることなどないのに、柄にもなく笑い飛ばすこともできない。柿沼という対象を失ったせいで悲観的な気持ちに落ち込んでしまったようだ。いつもは、励ます側がこのざまでは仕方がない。
 夕暮れの迫るこの時間が一番危険だ。やがて来る闇の世界が人を包む束の間の危うさが孤独を感じさせるのだろう。昨日会ったS子のことがちらりと頭を掠めた。理知的な額、大きな黒い瞳が愁いを帯びているようにも感じられた。柿沼との間に何か葛藤があったせいかもしれない。
 休憩の間にもかかわらず、私の頭脳はことの成行を見極めようとして忙しく働いているのが分かった。体を起こし、頭の働きには関係なく、物理的な労働に勤しまなければならない。腹が減っても動かないわけには行かないのだ。何のために働くのか、と考える暇はない。
 明日は給料日、6万5千円の家賃を差し引くとどれほど残るか、それによって食費を計上し、水道光熱費に当てなければならない。なければないなりに何とかなるさ、これで行かなければ気がおかしくなる。取り越し苦労はしないに越したことはない。
 こう考えながら販売店で夕刊を揃えて、配達に走る。晴れの日はペダルを踏むのも心地よい。決まったコースをひた走るのは、キーボードをリズミカルに叩くほどの快感がある。集中することでいやなことを忘れさせてくれるからだ。配達先でふと目にする春の垣根には沈丁花の香り、初夏の頃にはクチナシの白い花が甘酸っぱい匂いがするのもうれしい。
 配達を終えて、部屋に戻るとS子からメールが届いていた。柿沼に関することで何か分かったか、連絡があったのだろうか。


6章 告発

 急いでメールを開いてみると、”先日は突然のことで、詳しいこともお話できず、失礼しました。アドレスを教えていただいたので、メールをさせていただきました。”というような書き出しで、柿沼とは2週間ほど音信がないとのことだった。さすがに彼女も少し心配になっているところに私が尋ねて行ったことになる。
 S子にしても、できることなら私から柿沼のことを詳しく聞き出したかったに違いない。私のことは柿沼から聞いているらしく、メールの文面からは先日のことを唐突というふうには受け止めていないことが分かった。
 女性の扱いは苦手なので、一先ず面倒な関門をくぐったことになり、やれやれと思った。
 そこで、柿沼が失踪してから6日になること、警察には失踪届けを出してあることなどを書き、理由はよく分からないが、何か思い詰めた手紙を柿沼から貰っていることだけは伝えた。この段階で彼女に会うべきかどうか、躊躇われた。後のことは彼女の判断に任せることにした。

 テレビをつけるとイラク人虐待でブッシュ大統領が謝罪しているニュースが流れている。あれほど強大な武力を持ってしても、イラクの治安を維持できないとは。
 フセイン政権が政権維持のために人民を拷問し、処刑したその刑務所でアメリカ軍によってイラク人が虐待を受ける。裸のイラク人男性が犬のように首に紐を掛けられ、その端を米軍女性兵士持っている。その写真を見て私は胸が悪くなった。
 人間の尊厳は、どこへ葬り去られたのか、と深い憤りがこみ上げてきた。戦争は敵を人間と見なさないし、人間と見なしたら最後、自分が殺されてしまう。情報を取るためなら拷問は正当化されるに決まっている。どんな口実を設けようが、戦争は殺し合いに過ぎない。
 アメリカのためにフセイン独裁体制を倒し、アメリカは、世界は安全になったのか。そのためにどれほどイラク人の血が流されたのか分からない。現実主義者は、戦争による問題の解決をよしとする。生存競争だから強いものが生き残るのは自然の理だ、人口が調節されるから人類のためになるのだという。しかし、我が身に置き換えた時、この非道を告発せずに居られない気持ちが湧き上がってきた。

 9時過ぎにメールを開くと、S子からの返信が来ていた。メールだけでは、柿沼のことがよく分からないので、できれば会って手紙を見せてくれないか、という内容だった。
 日曜日は集金があって時間が取れない。普段の日、夕刊を配り終わった後7時以降、できれば上野近辺なら助かる。あとは彼女に時間と場所を合わせる旨、返信した。電話でもよかったが、あいにく彼女に電話番号を教えてなかったし、余計な気を使うのは面倒でもあった。間もなく彼女から明日7時、私の希望を入れて上野不忍口でというメールが来たので了解と打った。


7章 紹介

 今日はS子との約束の日だ。新聞を配る時もいつもと様子が違う。何か地に足がつかず、空を歩く感じで、急いでいるのに前に進まない。こんなことでは、何か失敗するぞ。途中で目を閉じ、深く息を吸った。
 路地には人気はまだなく、無人の開放感だけがひしひしと伝わってくる。自分は何を不安に思っているのか。後ろから少しずつ、間隔を詰められてくるような得体の知れない圧迫を感じていた。
 頭の中は考えがまとまらないくせに、支離滅裂な動きをする。S子に会ったらどう話を切り出したものか、話を組み立てようとする。だが、こんなものは何の役にも立たないことはとうの昔に分かっている。それでも、何かせずには落ち着かないのだ。
 不着があったら大変だ、そう思いながらもようやく配り終える頃には、早い出勤者は駅のほうに足早に先を急ぐ。
 店の電話当番を1時間ほどして部屋に帰り、パンと牛乳で朝食を取った。その後で柿沼からの手紙を机の引き出しから取り出し、書かれている文字に目を落とした。柿沼の話では、S子とは1年ほどの付き合いになるらしかった。
 私が、彼らのデートに出会ったのは半年ほど前のことになる。傍目には似合いのカップルに見えたのだが、柿沼は繊細で必要以上に人の気持ちを考え過ぎる。ちょっとした行き違いか、思い違いが人間関係をややこしくしているのかもしれない。この手紙をS子に見せることで、どのような展開になるのかを考えると責任の重さを感じ、どうしたものかと迷いが生じる。

 午後から集金の残りを集め、残った分はとりあえず、立て替えて集金代金を清算してもらい、今月の給料とあわせて受け取ることにした。これでしばらくは息をつける。
 バブル崩壊以後、給料も上がらず、拡張の割り当ても厳しい。リストラがないだけ良いというものだ。なにしろ体だけが資本の商売で、健康は自己管理するしかない。時間があれば、少しでも睡眠をとり、早朝労働に備えておくのが生活リズムとなっている。食事は偏りがちでこればかりは頭が痛い。
 夕刊の時間が迫ると店に発送車の着くのももどかしく、新聞を受け取って真っ先に自転車を漕ぎ出した。不着には気を配り、念を入れて確認する。5時半には、きっちり配り終わった。7時に人と会わなければならないからと、朝のうちに所長に申し入れてあったので給料と集金手数料を直ぐ受け取ることができた。
 ひげの所長は、紙袋を金庫から取り出し、
 「ご苦労さん、今月は拡張も頑張ってくれたね。来月も一つ頼むよ。」
 眼鏡の奥の柔和な目を細めながらいった。いつも店員は所長のことを親爺さんといっている。
 「親爺さんにそういわれちゃやらないわけに行かないですね。」
 うやうやしく給料袋を押し頂き、ポケットに入れると店を後にした。

 作業着を脱ぎ、汗を拭いてから一張羅の紺の背広に着替え、不忍口の改札口に着くと、S子の姿を遠くから認めることができたので手を上げて知らせた。
「お待たせしました。早かったですね。」
「ちょうど今着いたばかりです。」
 大きな目をこちらに向け、2、3歩、歩み寄って来る。少し打ち解けたせいか、この間よりは顔が柔和になって右の頬に笑窪が浮かんでいるのに気がついた。
 お互い食事は未だだったので、少し奮発することにして、アメ横から御徒町方向に歩いて手頃なレストランを見つけた。2階に上ると窓側の席に案内され、向かい合う形で椅子に掛けた。オーダーはお任せで、エビフライとサラダ、スープを注文した。料理のことは疎いのでこういう時にはほとほと困る。料理が出てくるまでの間、自己紹介から話し始めた。
 柿沼とは3年来の友人で、1年前に彼が新聞販売店を止めるまで半年ほど一緒だったこと、自分は今も同じ販売店に勤めていて、出身は彼と同じ新潟であることなどを話した。S子の話によれば、柿沼とは蔵王のスキー場で知り合ったらしい。それが丁度1年前だから店を止めた頃のことになる。その後彼がどこに就職したのかは、定かでない。S子は、K病院に5年ほど勤めているという。


8章 不安

 運ばれてきた料理は、ナイフとフォークを使う。これがどうも苦手で、上手く使えない。目の前のS子を意識すると手が震え、気もそぞろになるのが分かる。無骨者でテーブルマナーが全然だめなことを言って、エビフライを食べ易く切って後は専らフォークを使うことにする。純日本式作法で料理を口に運ぶ。これでなくては食事にならないのだ。

 S子は、どうぞといってナイフとフォークを巧みに使う。気取ってもどうせ素地は直ぐばれる。そう腹を決めたら気が楽になった。
 柿沼はS子との出会いについてはあまり語らなかった。彼との話は利害に結びつくものよりは、文学や芸術を語り合うことが多かった。彼の生真面目さを時々茶化すのが私の役目だった。
 軽い趣味の話などをしながら相槌を打つ。
 「柿沼さんは、日頃はおとなしいのにスキーの時は別人みたい。大胆なんですよ。」大きな目を輝かせていう。
 「そうでしたか、彼にそんな面があるとはね。」
 初めて柿沼の知られざる一面を垣間見た。
 「大胆て、どんなことですか。」気になって聞くと、
 「滑降する時に思いっきりがいいんです。それで途中でこけちゃって。あら、余計なこといっちゃったかしら。」
 さも可笑しいというように形のいい唇を手で覆う。
 「なるほどそれは可笑しいや。あはははは。」
 つられて笑った。笑いながら柿沼の手紙を彼女に見せるのが辛くなった。できることなら見せずにこのまま彼女と談笑していたかった。切り出せずにいると察しがいいS子は
 「ところで柿沼さんのお手紙、見せて頂けるんですよね。」と笑窪が動いた。
 「ええ、いいですよ。そのつもりでお会いしたのですから。」
 内ポケットに手を伸ばし、封書を取り出して、「ちょっと辛い内容かもしれませんが、、、私宛てのものですから」とS子に渡した。

 彼女はそれを受け取り、失礼しますといいながら封筒から一枚の便箋を取り出し、両手で広げた。期待と不安のためか、柔和な瞳が少し厳しさを帯びている。彼女の薄紅色に輝いていた頬から血の気が引いていくのがはっきりと分かった。ああ、残酷なことをしてしまった。一時前までのあの優しさと快活さは既に失せていた。
 「どういうこと。いったい私が何をしたっていうの。」
 彼女の言葉に何をいうべきかその言葉を失って沈黙が流れた。
 「柿沼は繊細すぎるから、自分の言葉に傷つくところがあるからな。あまり気にしない方がいいですよ。」と慰めるほかなかった。
 具体的な経緯は、私には皆目わからない。このままS子を帰すには忍びないものがあった。同情心というのでもない。手紙を見せたことの結果に対する責任のようなものを感じていたのかも知れない。
 レストランを出ることにして、彼女を促し、レジで支払いを済ませて外に出た。雲の陰から月が輝きを見せていた。力なく歩むS子を気遣い、お茶を飲んで行こうと並んで歩いた。適当な言葉が出てこない。黙ってそのまま歩き続け、喫茶店を見つけて中に入った。
 さいわいそれほど混雑していず、静かに話ができる店のようだった。奥の席に腰を下ろすと、何にしますか、と彼女に聞いてオーダーを合わせることにした。ブラック2つとウェイトレスに注文し、彼女を振り向くと手紙を確認するように見ている。一体何があったのか、と聞くのもいい出しにくい。
 「私が、自分勝手に話し過ぎるせいかしら。」独り言のようにつぶやく。
 「いいえ、あなたの快活さは周りを温かくしてくれます。」
 労わる気持ちもあったが、本心そう思っていた。
 「ありがとう。そういっていただけるだけで救われます。」
 憂い気な眉が一瞬明るくなったように見えた。


9章 白い花

 真っ直ぐに上げた顔が先ほどの憂いを消すかのように、ほの暗い空間に白い花となってぽっかりと浮かんで見えた。どこかで見たような感じがするが、思い出せない。記憶の底から青空にふんわりと木蓮の花が浮かんだ。柔らかに包むような花弁。その白い木蓮の花が、静かに思い出したように語る。落ち着いた様子から柿沼と同じか、一つか、二つ上のようにも思われるが、はっきりとは判断できない。

 「あの人は、自分を許せないところがあったわ。いつも何かを追っているように。」ふっとため息をつく。
 「そうですね。真っ正直というか、生真面目すぎる。そこが彼のいい所でもあるんだけど。」
 「私とは、正反対の性格よね。私はあまり先のことなど考えないし、考えても仕方ないから。」と明るい顔に戻っている。
 柿沼とはあまりに性格が違うなとS子の顔を見ながらふと思い出した。「彼女と上手くいっているのか、たまには冗談くらい言わないとな。」というと「うん分かっている。それは分かっているんだけどね。」と柿沼は押し黙ることが常だった。普段は活発に議論するのに、S子のことになると話しが進まない。意識過剰とも思われた。
 私とて女性の複雑な心理を分かっているわけでもなく、アドバイスできるほどのものもなかった。それで帰り際に、素直な気持ちでぶつかるだけだな、と軽く彼の肩を叩く位だった。

 「柿沼はきっと帰ってくる。もう少し待ってみましょう。」
 自分を励ますようにS子に言うと、黙って頷いた。かすかに脳裏に浮かぶ不安を振り切り、柿沼の顔を無理にも思い出そうと努めた。
 「柿沼さんは、お父さんが亡くなって、お母さんとは生き別れなので時々寂しそうにしていました。」
 「天涯孤独と言ってましたね。親戚はあるのでしょうけど、あまり行き来はないのでしょう。」
 彼の手掛かりがないか、S子に聞いてみた。
 「ここ2週間ほど連絡が取れないので、川口のアパートに行って見ようかと思っていたんです。」  まだ、彼女にアパートのことは言ってなかった。
 「この手紙を受け取って直ぐアパートに行ったのですが、引き上げていました。あなたの連絡先が思い出せなかったので、遅れてしまいましたが。」いきさつを説明すると、彼女はショックを受けたように俯いた。それから思い直したように顔を上げると、
 「彼は職場の人間関係で悩んでいて、それで私が、そんなことくよくよ悩んでいても仕方ないわよ、人のことなど気にしないで仕事に打ち込んだら、といったのがひどく気になったみたい。君には僕の気持ちなんか分かるわけがないと口もきかず、2日ほどして連絡しても電話に出なかったのよ。今までも時々、ぶつかることはあったけど、こんなのは初めて。」と、思いもかけない行き違いに戸惑いの表情を浮かべる。

 「職場のことは分からないけど、彼は感受性が強いので、ちょっとしたことでも人一倍感じるほうだから。心配でしょうけど、もう少し待ってみましょう。」
 そう言ってテーブルの下で腕時計を見ると9時半になろうとしていた。彼女も少し落ち着いてきたようなので、
 「そろそろ帰りましょうか?」とS子に目をやると彼女は、
 「何か分かりましたらお知らせください。」と丁寧に頭を下げた。
 店を出ると風が少し吹いていて、月が雲に覆われていた。
 上野駅まで肩を寄せ合うようにして歩き、切符を買って改札口に入ろうとするS子を「それじゃ、気をつけて、また。」と見送った。彼女は会釈して、見えなくなる前にもう一度こちらを向いて頭を低く下げた。ブルーのスーツ姿が駅の構舎に消えるのを見届け、私は駅を後にして帰途についた。


10章 返信

 アパートに着いて、電灯を灯すと何か暑ぐるしい。急いで歩いてきたせいか、それとも部屋の空気が淀んでいるからか、窓を開けると星が中天に瞬いているのが見えた。それは雲が晴れ、空間を隔てて生き物のように息づいている。こんなに物の存在がありありと身近に感じたことは久しくなかった。
 洋服を着替えてしばらく、ぼんやりと気持ちが移ろうままに任せていると、記憶の遠くからおぼろげなものが浮かんで来て白い花と思う間もなく、心の中に像を結んだ。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出し、今日のいろいろな出来事を苦味と共に一気に飲み干した。さあ、これで今日は終わりだ、いつもなら快い眠りが直ぐにも襲ってくるのだが、目は冴えていた。時計が11時を指していたので電気を消し、そのまま床にもぐりこんだ。眠れぬままに展転反側し、うとうとして目を開けると3時を少し回っていた。
 そのまま暗がりの中、起き出して電燈のスイッチを入れると、テーブル上のカップにコーヒーを入れ、ポットの湯を注ぐ。その馨しさを鼻から吸い込み、疲れの取れない半睡状態の脳に活を入れた。息で吹いて程よく温度を調節した褐色の液体を口に含んでゆっくりと飲み込む。喉の奥を通って胃に達するのが分かる。こうして1時ほど過ごし、いつものように階段を下りて、自転車を駆って店に向かう。

 「おはようございます。」主任に挨拶すると、新聞を分ける手を忙しく動かしながら、「おお、おはよう。」とこちらをちらって見てから「まいったよ、給料貰って飲みに行ったのはいいんだけど、ちょっと飲み過ぎちゃった。頭がずきずきする。」自嘲気味にからっとしゃべる。
 「それは大変ですね。休んでいてください。やりますから。」助けの手を出そうとすると、
 「もう少しだから大丈夫だ」と新聞の束を扇状にさっと広げ、お札を数えるように手際よく数えていく。
 しばらくすると、次々にやってくる店員達で店はごった返し、15分もすると一陣、二陣と飛び出して行き、店の中は静かになる。ここでは専業の店員、アルバイトの学生店員がそれぞれ、自分の持ち場、職分を果たすシステムになっている。

 新聞販売店の業務は主に新聞の配達と集金、拡張で、それぞれの手数料が新聞本社から販売店に支払われる。販売店では、そのお金からさらに店員に対して配達料、集金などの手数料として支払われるのだ。このほか、販売店独自の収入源となるのが、新聞に折り込むチラシ広告の配達手数料である。新聞拡張では、店員で行うほか、拡張だけを業務としている拡張団に応援を要請することもある。拡張団に所属する拡張員が各販売店に入る。

 配達を終えて、途中のコンビニで買った弁当をアパートのテーブルに広げ、用意したお茶で朝食にする。朝は弁当か、パンが多い。10分くらいで食べ終え、朝刊にざっと目を通してから、メールが来ているかどうか開いてみる。その中の1通がS子からのものだった。
 「昨日は、ありがとうございました。また、あなたに余計なお金を使わせてしまい、申し訳ございません。それと柿沼さんの手紙をお預かりしたままですね。お返しするのをつい忘れてしまいました。あまりに辛い内容だったものですから。
 でもあなたにお話を聞いていただき、だいぶ楽になりました。ありがとう。お礼とお詫びをお伝えしたくて、メールしました。」
 大きな瞳を輝かせて話すS子の笑窪が浮かぶように感じた。

 「こちらこそ、ありがとうございました。あなたと話して、柿沼のことがよく分かるようになりました。知っているつもりではいたのですが、ずいぶん彼のことを知らなかったのだなと。友達として、ちょっと恥ずかしい思いです。
 彼にとってあなたが大切な人であることは彼の話から分かっていました。ただ、その気持ちを上手く伝えられないことで、彼は悩んでいたようです。
 彼の手紙は、いつでもいいですよ。次の機会にでもいただければと思っています。」このように書いて、S子に返信した。


11章 断崖の花

 メールを送ってから、何か心につかえるようなものがあるのを感じた。柿沼にとってS子が大切な人であることを彼女に伝えたのはその通りで、そのことに間違いはない。だが、伝えた後、何か別の感情が湧いて、気持ちが二つに分かれて互いにぶつかりあい、定めなく揺れ動くのが分かった。柿沼の気持ちを共感しきっていなかったことへの自責の念であろうか? S子に柿沼のもっと深いことが伝えられないもどかしさであるのか。

 昨日、S子に会う前からの不安と期待に満ちた感情、そして柿沼のことを話してから彼女の戸惑いと悲嘆、やりきれない感情をぶつける対象を無くして宙ぶらりんの状態に置かれているのを共通にしていた。
 果たして柿沼は、S子の深い愛情に基づく理解を失ったと受け止めていたのであろうか。父母の愛情に包まれて育ったとは言い難い。人への信頼感は薄れがちであるだろう。幼少をどのような境遇で過ごしたのかは予測もつかない。ただ、世を恨んでいるふうもなく、僻みもない。ごく真っ当な青年である。真っ当すぎるくらい、真っ正直なところがあった。
 逆境の中で、研ぎ澄まされた刃物のような鋭さと脆さを備えていたかもしれない。その刃は、時として己に向かうこともある。S子が”あの人は、自分を許せないところがあった”というのもたぶん、そのことを言っているのだろう。孤独の身をますます追い込む結果になるようなことをしたのだ。

 「恋とは断崖絶壁に咲いている花を摘みにゆくことである」というスタンダールの言葉を彼と語り合ったことがあった。花を摘みに行かないで、断崖から身を躍らせるなどということは絶対にあってはならないのだ。途中で命を落とすことがあったとしても、花をめざして行くのでなければ生きることにならない。
 畳の上に身を横たえ、目を閉じていると、ここ数日のことが胸に去来して苦しい思いが込み上げてくる。昨夜の睡眠不足と、軽い疲れからうとう浅い眠りに落ちた。眠りの中で、柿沼の心情が思いやられ、一方、S子の悲哀にも同情というより、もっと強い共通の痛みを分け合っていたといってもよかった。
 ふだんは空気のようにその存在を知ることもないのに、いったん手から抜け落ちた時にその有り難味を痛切に感ずることがあるものだ。失ってこそ真実の意義が分かるというのは人生の秘儀かもしれない。
 夢うつつの中で、花を巡って思考は無限に飛翔を続ける。夢の中で思考が先へ先へと飛躍するのである。かなり頭が疲れた状態で目が覚めると昼になっていた。

 牛丼はもうないので、びっくりラーメン180円也を昼飯にすることにした。通りの角にあるその店は、昼時は混むので少し時間をずらす。だいたい、食い物には贅沢を言わないのが自分の信条だ。何を食ってもいいし、それが身につけばいい。着物も小奇麗でさえあれば何の不足があろう。寝る処は起きて半畳、寝て一畳、この部屋は十分以上だ。
 久しぶりに食べたラーメンは美味かった。醤油味か、塩味がいい。味噌ラーメンもたまに胃袋が要求する。体の求めるものを食べていれば、まず間違いない。自然の流れが、自分をそうさせるのだ。夕刊の時間まで、体を休めて感情の高まりを鎮めた。


12章 酩酊

 体は随分休んだが、頭は相変わらず、落ち着きなく駆け巡っていた。勝手に浮かんではうごめく念慮に振り回されている自身を他人を見るように眺めやった。そうしていることでとらわれた心からかすかに自由になることができた。店に行くと少し時間が早かったので、主任と専業のOさんが待機している。
 「宮田君、今日は早いね。」
 スポーツ刈りの顔をこちらに向けて主任が屈託なく笑う。
 「ええ、たまには早く来てお手伝いしないと後がこわいから。」愛想笑いで答えて、Oさんの方を向くと浮かぬ顔で
 「馬を摺っちゃったよ、今度こそと思ったんだけどな。」
 いまいましそうな表情をする。横からそれを見ながら主任は、
 「貸しは今月の給料から天引きだからね。」と念を押す。
 「馬は当たることがあるんですか?」私が話を向けると、
 「馬鹿を言っちゃいかんよ。素人に安っぽく言われたくないね。こちとらは20年からの年季が入ってるんだ。そうそう当たることはないさ。だけどここ一番という時には、でかい山を当ててやる。今回がそのつもりだったんだが。万馬券は3年前にも当てた。一発当てれば一気に挽回さ。」
 大きな赤ら顔が目を剥いた。
 「ま、あまり入れ込まない方がね。競馬で家を建てた人なんて聞かないから。」日頃から堅実を主張する主任が諭すように言う。
 「それにしても、年金は酷いことになってるね。未納3兄弟が続出だ。もっと真面目にやれってんだ。」
 「おや、八つ当たりかい。Oさんは年金に入っていたんだっけ。」主任がにやりと笑う。
 「えへへへ、これから入ろうかなと思ってんだけど。馬券を買って増やした方がいいかな。」根っから馬好きだという顔をする。
 しばらく馬談義を聞いていると夕刊の発送車が到着し、慌ただしい戦場が始まった。

 販売店で5年の間にどれほどいろんな人生に出会ったことだろう。学生達は4年で店のアルバイトを終わり、それぞれの就職口へと旅立っていく。
 新聞の休刊日は月に1度くらいしかないので、店員に週休を与えるため専業店員が代配をする。これでも昔に比べれば、日曜、祭日の夕刊は休みなので楽になったものだ。毎日朝、夕の配達は時間が決まっているから生活行動がそれによって規制される。ちょっと想像も出来ない独特の生活スタイルといえる。

 学生アルバイトが一人辞め、代わりにW大のY君が今日から新人として入る。夕刊から順路を取ることになって、連れ立って配達区域へ自転車を走らせる。順路帳を持たせて、表札、角々の目印となるものを覚えてもらう。初めは要領が分からず、一度に飲み込めない。どこか知らない地点をぐるぐる回っている感じで、方向感覚が狂ってしまうのだ。ほとんど酩酊状態に似ている。Y君も必死になってついて来る。
 新人の真面目な顔が初々しくて、”2、3日すれば、直に慣れるから心配しなくても大丈夫だ”と言葉を掛けてやる。
 いつもより20分ほど時間がかかって、5時半には配達を終えて店に帰った。店の清掃、明日の準備を整えると解放される。行きつけの暖簾をくぐり、今日は焼き魚定食にした。腹を満たして部屋に帰るとごろんと横になった。
 一人になるとS子のことが急に思い出された。昨日の今頃、彼女に会っていたこと、そして数日の間に起こった数か月分にも当たる時間的経過や、心境の変化を認めないわけにはいかなかった。そんな自分が忘れたくてビールの栓を抜き、コップに注ぐとぐっと飲み干した。
 疲れた体に染み込んで行くように頭の重石が取り除かれ、空虚の中に己を投げ込んだ。酩酊に身を任せる責任のなさと投げやりな気持ちが心の奥でその凶暴さを現そうとしているのを感じていた。


13章 苦学

 今なら断崖に花でも取りに行ける気がした。一歩踏み出せば足場を探りながら岩肌に取り付いて進むことができる。人は誰しもこの荒々しいものを内に抱えている。そして人は何かを犠牲にせずには生きていけない存在なのかもしれない。自らの命を繋ぐためには他の生き物の命を奪わなければならない、という生き物としての定めをも人は課せられている。

 傷ついた柿沼の身に思いが及ぶ。自分が柿沼だったらどうしたかな。凶暴な牙を剥かなければ生きて行けないのか、弱い動物のように食い殺されてしまうのか。凶暴さを秘めつつも、そうはなりきれない弱さが彼と共通にあることを見出した。非情な生き方はある意味で楽な生き方かもしれない。人の気持ちを考えることもないし、損か得かの計算を間違わなければいいだけである。
 自分は金を儲けたいとも、地位や名誉をほしいとも思わない。ただ、自由が欲しい。何ものにも束縛されない自由を欲しいと思う。意識の揺らぐ中で本来の自分が抑圧から浮かび上がろうとする。酔いが回って意識が身体を制御でき難く、起き上がろうとして足元がふらふら揺れながら布団まで辿り着いて、崩れるようにそのまま眠った。

 習慣とは不思議なもので、あれほど酔っても時間には目が覚める。店に行って間もなく、新人のY君が眠そうにやって来た。それを見て、
 「おはよう、眠そうだね。」と声をかけると
 「おはようございます。眠いです。」と目をしぼしぼする。
 睡眠サイクルに体が慣れるまでは辛い。特に冬場は寒さと夜明けが遅いので早朝の配達は体にこたえる。苦学生の生活そのままともいえるだろう。
 何が辛いといって、眠いのを堪えるほど辛いことはない。今頃、他の人は温かい布団の中で快く眠っていることを思うと我が身の惨めさが偲ばれるからである。その辛さを乗り越えた時、眠気に打ち克つ意志の強さを多少とも感じられ、誇りがもてるようになる。どんな辛さも目的があれば、その達成への意志が喜びとなっていく。
 動いている時はいい。机に向かい、本を開いて眠気が襲ってくる時が辛くもあり、情けなくもなる。人間の真価が問われているようで、睡眠の誘惑に負けるか、勝つかの試練の時である。打ち克った者は勝者となり、破れた者は敗者となる。実に1日1日の積み重ねである。
 人に勝つことはまだ易しい。自分に克つことは、己の心との戦いであるから至難の業である。人に厳しく、自分にやさしいのが世間普通のあり方である。これを逆転することは心に革命を起こすことである故によほどの決意と持続がなければ叶わない。孤独な作業の中で心身を鍛え、学業に精励することに対し、幾らか尊敬の気持ちを込めて世間は苦学生の名を与えたのであろう。

 「Y君行くよ。」新人に声を掛けて、促す。
 「はい。」素直に快活な声で応じる。
 順路帳を見ないでもほとんど、配達先を覚えているようだ。
 「大体分かったようだから、後ろで見ているから一人でやってごらん。」
 新聞を積んだ自転車と交換した。夕刊と違って、朝刊にはスポーツ紙、専門紙が入るので、それを覚えれば朝刊の配達もほぼ完璧である。
 「次の家には株式新聞が入るよ。その先には電波新聞。」などと教えてあげる。「雨の時はポストの奥まで入れること。この家はポストでなく、玄関の隙間から入れる。」細かなことを指示して最後の一軒も終えた。
 7時には出勤のお客さんもいるので、それまでには配達を終えるようにし、不着しないためには集中力が大事だと自分の体験を教える。「配達以外のことを考えていると必ず失敗するよ」と言いながらこの間の自分の失敗を思い出していた。


14章 表裏

 「今日は授業あるの?」自転車で帰りながら聞くと、
 「レポートを提出したので、今日はゆっくりできます。」Y君はゆるりと答える。
 「そうか、それなら昼間のうちに受け持ち地区を空回りしとくといいね。」
 「空回りって何ですか?」
 「うん、順路を確認するために辿ってみることだよ。別に新聞を配るわけではないから空回りさ。」
 「そういうことですか。分かりました。午後から空回りしてみます。」
 Y君はこの業界に入って、2日目だが、半年もすればすっかり配達生活が染み込み、業界用語の2つや3つ当たり前のように使うようになるはずだ。新聞業界の表ばかり見てきた人間には想像もつかない裏の世界を知ることになるだろう。
 「部屋は店で借りてるとこだよね。木造の古い家だったけど。」
 「ええ、4畳半一間です。物もないし、寝るだけですから。」
 3年前に1年ほど、店の2階に住み込み2段ベッド暮らしだった。もちろん家賃は只だったけれど。それに比べれば待遇は改善されたといえる。新聞奨学生は新聞社から学費を貸与され、卒業するまで4年間、無事に勤め上げれば返済を免除される。ただ、途中で辞めると全額を一括返済しなければならない。生活費となるのは店からの給料である。

 世界に冠たる宅配制度によって1日5千万部をこえる日刊新聞が全国に朝夕配達される。47万3千人の新聞配達労働者が、マスコミに君臨する新聞各社を土台で支えているのである。彼らは睡眠時間を削り、早朝からの配達、拡張のノルマ、少ない休日、低い賃金など日々の苛酷な労働に従事している。

 Y君はジャーナリストになることを志望し、勉学にも励んでいるようだった。エリートコースを歩むより、この現実を知っていることが役に立つことがあるはずだ。泥まみれになって生活の現場から真実のペンを振るう人間になってもらいたいと切に願った。

 店でY君と別れ、路地を自転車をゆっくり走らせながらアパートに帰る。その途中で、最近家を取り壊した後、更地を駐車場にしている処があり、猫がよく遊んでいる。もうだいぶ馴れ、近づいても逃げようとしない。こちらの顔を見ると挨拶代わりに四つん這いのまま前肢を伸ばして、大きく欠伸をし、背を弓なりに見事な柔軟姿勢を見せる。
 赤茶色のとら、所々斑の入った白、黒いのが思い思いのポーズで縄張りを確保している。舌先を打って彼らを呼ぶとチラリと一瞥を流す。意思が通じるのがうれしくて、2度、3度と呼ぶ。猫たちにとっては迷惑至極なたわいないことだが、こんなことで心が癒されることもある。

 アパートに着くと、いつもの如くテーブルに向かい、ブルーベリーをたっぷり食パンに塗って、牛乳を一口飲んでからそれを食べる。朝食を黙々と口にしている時が全てから解放され、ただ、食べるという行為に集中している。食べることが既に生きることである。
 何かを介在させて、生きることを意味付けるなどという空しいことではない。生きることに直結しなければ、間接的な生き方となり、やがて自らをも手段としてしまう。
 流れに流されて生きることはできないな。無意識の時は何とも思わなくても、いったん自覚に上ると流されたまま生きることは苦しい。「私はあまり先のことなど考えないし、考えても仕方ないから。」と言っていた、S子のことが思い出され、メールを送ってみたい気持ちに駆られた。
 「先日来、身の回りの忙しさに取り紛れていました。気になっていたのですが、お知らせするようなことも手に入っていません。あなたの気持ちを考えると何をどう書いてよいのか、分からなくなります。あまり思い悩まれませんように。」と短い文を書いて送った。


15章 郵送

 横になってそのまま眠ったらしい。暑苦しさに目を覚ますと昼になろうとしていた。5月に入っても寒暖の差は激しい。昨日は肌寒いと思っても、今日は蒸し暑くなる。
 風邪を引くと早朝の配達はだるくて、マンションの階段を上り下りするのは辛い。その上汗をかくので、治りかけた風邪をぶり返す。自己管理を怠ると後で付けが回ってくる。
 ぼんやりした頭を上げ、ゆっくりと起き上がる。喉の渇きを覚えたので,冷蔵庫を開け、冷たくした湯冷ましをコップについでゆっくり飲む。メールの返事が来ているか、パソコンを立ち上げ、メールを開いてみると、3通ほど来ていてS子からのもあった。

 「メールをありがとうございました。お忙しいのに済みません。柿沼さんからはまだ連絡がないご様子、本当にご迷惑をおかけしています。いつもご心配戴きうれしく思っています。
 私もどうしたらいいのか、あれからずっと考えているのですが、何の手掛かりもなくて。手紙には思い詰めたことが書いてあるし、私、どうしたらいいのか。考えても仕方ないことは分かっているんですけど、彼の身が気がかりで。それと、あなた宛てのこの手紙をお返ししないと。もしお時間がないようでしたら郵送しましょうか。ご都合をお知らせくださいね。」
 郵送という文字に目が釘付けになった。特別な用件もないので、郵送でもよかったはずだが、それを避けたい気持ちがあった。手紙を彼女の手許に置いておくか、さもなければ、手渡しで願いたいと思った。

 「お役に立てなくて残念です。くよくよ考えるとますます、落ち込みますから、ここは考え過ぎない方がいいでしょう。柿沼は深く考える質ですが、人の迷惑になるようなことは決してしない人間です。あなたもご存知のように責任感の強い男ですから大丈夫ですよ。きっと連絡があるか、帰ってくるはずです。
 彼からの手紙のことですが、郵送には及びません。あなたの都合のいい時にでもいただければいいですよ。それまではあなたの手許に置いていただければ。元気を出してお仕事に頑張ってください。」
 メールを送って、少しほっとした気持ちになった。

 今月も新しい集金が始まる。その準備をしなければならないので、昼飯を終わったら午後一には店へ行くことにし、牛丼屋で豚丼を頼んだ。牛丼は安くて給料日前には助かったが、アメリカの狂牛病以来、メニューからなくなってしまった。懐を直撃するのでこれは堪える。自宅に戻って少し休んでから店に行った。
 月の20日過ぎには初集(最初の集金)となり、月内に新聞代金のうち8割集めることが課されている。月末には販売店が新聞代金の原価を発行本社に納金しなければならないからである。不足分は販売店が立て替えて収めることになる。
 読者管理はパソコン処理なので、昔に比べれば証券(領収書)作成は楽になった。以前は全て手書きでやっていたから間違いのないように一つ一つチェックするのに時間がかかった。
 途中で引っ越した読者、即入(途中から新聞購読すること)の読者に落ちがないかを点検し、証券をプリントアウトして揃えるとかなり分厚い束になる。これが今月集金する280軒の本紙、諸紙(スポーツ紙、専門紙)の領収書となる。

 証券作成が終わった頃、Y君が空回りから帰ってきた。
 「ご苦労さま、どうだった?」
 「はい、だいたい大丈夫ですね。もう1回夕刊についてください。明日の朝刊からは1人で大丈夫だと思います。」順路帳をポケットから取り出して、その端についている紐を釘に掛けていつもの位置にぶら下げる。
 「ちょっと待ってな、冷たいのを買ってくるから。」Y君が帰ろうとするのを止めて、声を掛けた。
 「すみません、ごちそうになります。」
 自動販売機で買ってきたコーヒーを渡すと蓋を開け、美味そうに飲む。その顔を見てうれしかった。かれこれ20分ほど話して、一旦アパートに帰って来ます、とY君は店を出て行った。

 発送の車が、間もなくやって来たので紙取りし、その時には主任や、専業のOさんも加わり、各区域の紙分けをする。Y君も姿を見せていた。夕刊はチラシがないので、紙分けが終われば直ぐ配達にかかれる。Y君が自分の自転車に夕刊を積み、ゴム紐でしっかり新聞を固定したのを見届けて、自転車で私は後ろからついて行く。確認だけだから作業としては楽だが、目を離すと肝心なことで注意し忘れる。順路帳を見ることもなく、順調に配達して予備の1部を残してピッタリ終わる。
 「もう完璧だね。これで安心してバトンタッチできる。明日から頼むよ。」
 「はい、もっとかかるかと思いましたが、案外早く覚えられました。ありがとうございました。」うれしそうに笑顔を向けた。
 一つ責任を果たすことができたので、自転車を走らせて頬に当たる風も快かった。店でチラシの準備をY君に教えて今日の仕事は終わった。


16章 約束

 今日は午後からずっと出ていたことになる。それでコンビニに寄って弁当を買うことにし、棚を見渡すとどれも味見したものばかりなので値段を見て決めた。自宅に帰ってテーブルの上に弁当を広げ、ティーパックを入れた湯飲みにポットから湯を注ぐ。テレビのスイッチを入れ、弁当の箸を割って食べ始める。

 某大手銀行が金融庁の指摘を受け、不良債権の貸し倒れ引当金積み増しで大幅赤字となる見通しと伝えている。大手行には公的資金という税金が投入されて倒産を免れるのに、中小零細企業は銀行の融資も受けられない。不動産担保の価値が下がったからと借り入れ金の貸し剥がしに遭う。大企業はリストラによって生き残ることができるからまだいい。零細企業は倒産ともなれば私財を投げ打たなければならず、生活を根底から脅かされる。小企業で働く日々の困窮を我が身に感じた。
 バブル景気に日本国中が浮かれていたツケが、バブル崩壊から10年以上経っても解消されていない。1985年のプラザ合意が潮目だった。ドル高による貿易赤字に苦しむ米国がG5諸国に呼びかけて為替の協調介入に踏み切る。ドル高是正を図るものだった。それまで1ドル240円だったのが、数年で120円台まで急激な円高となった。
 円高では米国債などは含み損を生じる。これを売却した資金が為替リスクのない日本国内へと向かう。円高で打撃を受ける輸出業界を救済するために金融が緩和された。国内にだぶついた資金は、株や土地に投資先を求め、空前の株高、土地の高騰となった。銀行はその土地を担保に貸し付けを進める。投資が活発になり、景気はよくなったが、実体経済を伴なったものでないので、やがて縮小していく。株や土地への投機意欲が冷めれば、株価や地価は下落する。担保だった土地の価格が融資額を下回る事態になり、銀行は不良債権を抱え込むことになった。

 失われた10年を取り戻すのは容易なわざではないと思った。デフレに沈む日本経済に考えをめぐらせ、新聞の拡張がいつも念頭を去らない。2紙取っていたところも1紙に絞られる。少しでも削れる所は削るのが庶民に残された生活防衛の方策かもしれない。そこをどうやって新聞を取ってもらうか、いつも頭を痛める。
 だいたい銀行に預金しても利息は雀の涙。100万円の1年定期、金利0.003%では300円にしかならない。今入っている国民年金は40年かけても満額で年間797,000円、これで生活するのは難しい。不足分は何とか貯金する他ないが、経済問題は深刻だ。病気になった時、介護を受けなければならなくなった時、贅沢をするわけでなくとも生きて行くのは生易しくない。

 8時頃、パソコンのメールを見ると、S子から送られて来ていた。
 「メールを拝見しました。思いやりのこもった優しい言葉ありがとうございます。あなたのおっしゃる通りだと思います。でも一人でいると少し不安になるのです。柿沼さんのことをあなたにお聞きしたいし、その時に手紙をお返ししたいと思っています。」
 感謝の気持ちを込めた内容だった。直ぐ返事を書くためにパソコンに向かった。
 「いくらかお元気になられたようですね。安心しました。不安になったらいつでもメールを下さい。お話しているだけでも不安が解消できるかもしれません。これといって何も出来ませんけど、お話はお聞きしたいと思っています。
 あなたのお仕事は残業などあるのでしょうか? 私は、20日から集金が始まりますので、ちょっと忙しくなります。でも昼間のうちに回りますから都合はつきます。あなたのご都合がよければ、21日、午後7時、この間の上野不忍口でいかがでしょうか? 手紙はその時に。」と書き送った。

 間もなく折り返すようにS子から返事が届いた。
 「拝見しました。残業といっても1時間ほどですから、私の方は大丈夫です。それよりあなたの方は集金でお忙しくなりますね。無理でなければ、お会いしてお話をお聞きしたいと思います。日時はあなたのご指定の通りでいいですよ。ご都合が悪くなりましたらご連絡ください。よろしくお願いします。」と承諾の内容だった。了解とのメールを送り、21日に会う約束が決まった。


17章 独立

 Y君は今日から一人で配達を任される。私が店に着いた時、すでにY君の姿があった。
 「おはよう、気合いが入っているね。」
 「ええ、大事な初日ですから。」
 若者らしく受け答えがはきはきして気持ちがいい。
 「若いの、頼むよ。大事なスタッフだからな。今度の日曜日、馬を当てたらご馳走するから。」Oさんが大きな赤ら顔で愉快そうに言う。
 「主任、この学生は頼りになりそうですぜ。なあ、宮田君。」
 主任がやって来たのに声を掛け、私にも同意を促す。

 「そうですね。2日目から一人で配れるくらいですから、Y君は立派です。大いに期待しています。」Y君は照れくさそうにしている。新人の入店で店の雰囲気がすっかり明るくなった。主任もうれしそうにY君に目をやって、
 「学校の授業もあって大変だろうけど、頑張ってくれよ。人より一歩早く社会に出ているわけだから後々役に立つと思う。あとは交通事故に気をつけること、健康は毎日の自己管理が大事だからね。」と激励した。小さな店にとって人の出入りは大きな出来事である。目を輝かせているY君の姿を見るのは静かな喜びだった。
 「宮田君は、これで手が空くので4区域の代配を担当してもらうよ。詳しいことはまた後で打ち合わせしよう。」
 「分かりました。」
 主任に答えて、代配も慣れるまでは大変だなと考えた。
 「発送が来たよー。」と叫ぶ声に外に出てトラックから新聞の梱包が投げ下ろされるのを拾い上げ、布の梱包を開けて新聞の束を店舗の板の間に置く。各区域に紙分けを終えると、店員たちはチラシを巧みに新聞に挟み込み、準備が整うと各々配達区域をめざして出掛けて行く。Y君も少し遅れて自転車に乗って出て行った。肩幅の広い後ろ姿を見送って、梱包袋をたたみ、散らばった新聞を括っていた紐類を片づける。

 「今月は拡張員が入るから、その前に出来るだけ拡張しておかないとな。」主任が、後片付けをしている専業員たちに大きな声を掛ける。この店には専業店員が5人、その他学生、少年が朝夕刊合わせて24人ほどいる。朝刊だけ、夕刊だけというアルバイトもいるので人員はそれだけ多く必要になる。
 Aさんは黙々と店先を箒で掃いている。眼鏡をかけ、いつも無口であまり笑ったところを見たことがない。Nさんは背が少し低く、愛想のいい笑顔で、いつも帽子を被っているのが特徴だった。主任と駆け出しの私を含めた専業5人がこの店の仕事を分担していた。
 私たちは全員集まって営業会議をするということはほとんどなかった。各人の担当業務を責任もって遂行することが何よりも大事なことで、集金を完納すること、拡張の目標を達成することがほとんど全てといってもよかった。
 拡張員が入る時には、契約カードの監査という仕事もある。契約内容をお客に確認するのである。集金のための証券作成、月が変わるごとに新しい購読者、購読中止の読者があるので、順路帳をその都度新規に作る作業が必要となる。順路帳は配達の基本台帳であり、購読者台帳でもある。

 店員が配達から1人、2人と帰って来た。間もなくY君も自転車の姿を店先に見せ、既に並んでいる5、6台の自転車に並べて駐めた。
 「ご苦労さん、新聞残らなかった?」私が言うと、
 「はい、ぴったりです。予定より10分ほど余計かかりましたけど。」
 「なあに後2回ほども配れば、時間も縮まるさ。お疲れさん。汗をかいただろうから、着替えて風邪を引かないように気をつけな。」
 「今日は午前中にゼミです。帰って寝ることは出来ませんが、頑張ってきます。」
 眠気の辛さはよく分かるので、  「そうか、君には目標があるんだからな」と頑張れよ、という気持ちを込めた。Y君はもう独り立ちできそうだった。健康に気をつけてくれさえすればそれでよかった。  主任に呼ばれ、担当区域を決めた。Y君の区域を含め、4区域の代配を担当することになった。明日から集金が始まるので、他の区域を覚えるために夕刊には順路を取ることにした。


18章 黒鞄

 お昼までぐっすり眠って、物音に目が覚めた。同じ階で一番奥の住人が引っ越しをしているらしい。時間帯が違うので顔を合わせたこともなく、どんな人物か知る由もないのだが、去って行くとなるとやはり寂しいものだ。このアパートに来てから間もなく2年になる。契約の更新ももう直ぐだ。この時勢だから家賃は上がらないとしても、更新料と不動産屋への手数料がかかる。家賃2か月分は最低でも必要で、懐不如意の身には堪える。
 昼食に牛丼屋でカレー丼を注文した。並盛350円。安くて、しかも出てくるのが早い。箸で紅生姜を取って、どんぶりの左端に置き、具を口にすると、豚肉に玉ねぎ入りで案外あっさりしている。さくさくと掻き込み、コップの水を飲む頃には胃の中に温かさが伝わり、幸福な気分になる。牛肉が使われていないのが、うるさくいえば不満ではあった。カレーといえば牛肉入りが一番カレーらしかった。

 いつもより30分ほど早く店に行った。作業場の板敷きを通ってそのまま、居間の障子を「こんちは」と開ける。するとその奥の部屋から主任が顔を出し、
 「おお、宮田君か。今、本社の担当さんが来て所長と打ち合わせをしているところだから。」と渋い顔をしている。
 「何かあったのですか?」と気になって尋ねると、
 「また後で話すから」と奥に引っ返した。
 販売のことで厳しい目標でも出されたのかな、と不安が心をかすめた。夕刊の時に順路を取る新しい区域の順路帳に目を通すことにした。そうこうするうちにAさんが眼鏡を掛けた顔をぬっと現した。こちらから先に軽く会釈するとAさんも黙って頭を下げる。続いてNさんも帽子姿で愛想よく入って来た。帽子を取るのは仕事を終えた時で、寛いでいるのが分かる。
 「お待たせ、まだだよね。」といいながらOさんが賑やかに赤ら顔を見せる。

 丁度その時に部屋の奥から担当員が黒い鞄を手に、
「みなさん、お世話になってます。いつもご苦労さま。」  一人一人に目をやる眼鏡越しの眼光は鋭かった。いや、そう感じたのは私だけかも知れない。慌てて笑顔で会釈を返した。後ろからは所長、主任が付き従っている。
 「皆も知っていると思うが、本社の販売担当員のTさんだ。今月も拡張に頑張るように。」
 いつもは温厚な所長もいささか緊張の面持ちで言う。担当員と顔を合わせても、挨拶くらいでほとんど話したことがない。業務の話は所長と主任が当たっているので話す必要もなかった。
 「担当員のお出ましとは珍しい。何事ですか?」Oさんが、不思議そうに所長に聞く。
 「夏をめざして紙を増やせということだよ。ここのところ減紙だからな。」所長が眉間に皺を寄せる。
 拡張のノルマがきつくなるな、と重苦しい雰囲気になった。
 「親爺さん、やれるだけはやってみますよ。新人のY君も頑張ってくれていますし。」振り絞るように私は声を励ました。当てなどなかったが、ともかくやるしかないと思った。

 夕刊にはY君も元気な顔を見せた。頑張れよ、と声を掛け、新しい区域の順路を取るためにアルバイト店員の後を追った。この他、あと2地域を覚えることになるが、1日1地域だから何とかなるだろう。
 順路帳に読者の位置関係を斜め向かいとか、1軒置いて隣とかを記号で書き込む。こうしておけば出発点の読者から配達の最後まで、順に追って行くことができるからである。ベテランはこの記号を目安に初めての所でも配達できる。地図を手に目的地を探し当てるのに似ている。こうして無事に順路を取り終えた。
 今日はだいぶ神経を使ったので仕事を終えると疲労で食欲もなかった。アパートへ向かう途中の蕎麦屋で盛りそばを食べ、部屋に帰ったのは7時ごろだった。

   夕刊を広げて目を通す。習慣になっているので、幾ら疲れていても新聞を読まないことはまずなかった。
 ニュースの速報性では、テレビやラジオに敵わないが、記事を掘り下げ、背景まで解説するとなると新聞が優れている。その新聞を読者の誰よりも早く見られる立場にあり、配達するのが商売だから読まないのはいわば、職務怠慢とも思われた。商品を知らなければ売り込むこともできない。情報の先端に位置することの誇りと仕事の必要性から自分の配達する新聞は隅々まで読んでいた。


19章 愛憎

 「初集が始まったので、宮田君頼むよ。」朝刊の紙取り当番に行くと主任が念を押した。昨日は疲れて、集金が出来なかったから、今日はS子との約束もあるし、睡眠は取らないで午前中から回ることにした。
 残りの担当区域の順路を取って、帰った後8時ごろまで店番し、その間に集金用の釣り銭を受け取る。それから千円札、百円、十円、五円硬貨などでぎっしり重くなった集金鞄を肩に掛け、証券(領収書)を詰め込む。読者用のパンフレット、古新聞入れの袋を自転車に積み、アパートで朝食を取ると、休憩する間もなく10時半ごろには集金に出かける。

 商店関係では午前中の集金が嫌われることが多いので、午後に回し、20日指定や、早くても支障のない家庭を訪問する。あとは夜や土日の集金で、25日、月末の所も多い。夜の集金は7時から9時頃まで、部屋の明かりが目安である。
 日曜は読者によって10時頃か、午後になる。まず会える時間を推測し、訪問となるのだが、会えても支払って貰えるとは限らない。今日は都合が悪いから次にしてくれ、とか取った覚えがないと言われることすらある。これを切り抜けなければ集金手数料は差し引かれる。どうしても回収できないものは翌月以後に廃証(証券廃止)となる場合もあるが、それまでは何度も足を運ばなければならない。だから読者とのコミュニケーションが欠かせないのである。

 此の頃は垣根に紫陽花の花が咲き始めているのを処どころで見かける。青紫、赤紫、薄桃色と花の色はとりどりで、その色から住人の好みが分かる。また、花が七変化することも紫陽花の面白いところだ。そんな家に伺うと、お茶を出されることもある。ほんのちょっとした心遣いかもしれないが、受ける方には大きな喜びなのだ。そのような行為をした当人は、そのことすら遠い昔に忘れ去っているいるかもしれない。ごく自然な気持ちからであろう。しかし我が生涯を振り返った時、忘れえぬ一齣として心に咲き続けていることだろう。
 昼食を挟んで夕刊直前まで集金に回り、ほぼ予定通りの金額を集めることができた。回収した金額を計算し、証券の半券との合計が合っているかを調べ、釣り銭分の金額と合わせて収める。主任が点検し、「ぴったりだね。ごくろうさん」現金を確かめると金庫に納め、集金鞄と証券を受け取った。

 販売店の一日は回転が速い。夕方4時には夕刊の配送が来る。それを紙(新聞)取りして、紙分けすると、あとは配達員の配達業務となる。Y君はもう一人前になっていた。自分で手早く夕刊を揃えると担当の地域へ颯爽と出掛けていく。それを見送ってから店内の清掃、新聞の残りを片づける。30分もするとあらかた店の中はきれいに整う。あとは配達から皆が帰ってくるのを待つばかりだ。
 6時を過ぎるころには不着があると苦情電話が入るので、トラブルに備える。30分ほど待機している間にチラシを各区域に分ける終わる。あとを主任に引き継ぎ、アパートに取って返して一張羅の背広に着替え、待ち合わせ場所に急ぐと、S子が姿を見せた。
 ライトブルーのスーツが新鮮だった。真珠のイヤリングがかすかに揺れた。
 「お待ちになった?」軽く頭を下げて笑窪を作った。
 「ちょうど今着いたところです。」答えながら、先に立って歩き始めた。二人とも食事が未だだったので、中央通を渡り、5、6分歩いて広小路にある和食の店に入った。人の入りがほどほどあったが、1階の右奥の席に案内された。野菜の天婦羅、煮物、刺身が少しつき、三つ葉の入った吸い物などの定番メニューを注文した。この方が洋食より私には居心地がよかった。
 「お預かりしている手紙をお返ししますね。ありがとうございました。」
 ハンドバックから取り出して両手を添えて差し出すのを支えるように受け取った。彼女は、この柿沼の手紙をどんな気持ちで読んでいたのか知りたいと思った。
 「この手紙から何か読み取れましたか?」話をそれとなく向けてみた。

 「そうね。私のことはもう諦めたなんて、どういう意味なのか分からないわ。私が彼の気持ちを分かってあげられなかったということはその通りかもしれないけど。絶望することなのかしら。人間なんて、完全には理解し合えないところがあっても仕方ないんじゃないかしら。」あくまで冷静に答える。

 「彼は、それだけあなたのことを愛していたってことになるんじゃないかな。より深く愛すれば、それだけ相手にも深い理解を願うのは自然な気持ちかもしれないし。愛には二律背反的な面があるのではないかと思う。愛の裏面には反作用として憎しみの感情がつきまとうでしょう。彼の場合、それが己に向かい絶望の感情にとらわれたのかもしれないですね。」どうしてか、柿沼の弁護をしたくなっていた。

 「それは本当の愛かしら。本当の愛ならすべてを受け入れ、許すことだと思うんですけど。生意気なことをいってすみません。私は彼のことを好きだし、愛してもいます。彼は完全を求め過ぎるんだと思います。私は欠点の多い人間です。だからといって欠点を認めてほしいといっているわけではありません。欠点はあまり考えたくないだけです。」
 楽観的というか、くよくよ考えない彼女の性格を吐露している。

 「おっしゃる通りです。ただ、本当の愛はすべてを受け入れ、許すことというのは完全な愛をいうのでしょうね。平凡な人間には実際にはできないことです。愛と憎しみが交差するのが人の世の常ではないかと思います。私には、柿沼のいうこともあなたのおっしゃることも理解できる気がします。」行き違いが仄見えたように思われた。
 「彼に酷いことを言ったのでしょうか? 私はこのようですから冷たく感じられたのかもしれませんね。冷たくしている気持ちはないのですが。」
 彼女は柿沼に真意を汲んでもらえぬのがよほど悔しかったのだろう。時々、自省の気持ちに耽るような遠い目をした。

 「あなたとお話して、あなたの人柄も優しさも、そして自立した強さも分かったような気がします。柿沼は正直な男です。上手に嘘など言えない性格なのはあなたが一番ご存知のはずです。彼の弱さは人間としてみれば強さでもあると思う。そこを知ってほしい。」
 痛切なる私の感情であった。白い花は時々、赤い炎を燃え上がらせることもある。
   店を出ると夜空は曇って星一つ見えなかった。横丁を曲がった所の喫茶店に入り、話が続けられた。


20章 議論

 一階はお客で一杯だったので、二階に上がり、右奥の席に腰を下ろした。ブレンドコーヒーを2つ注文して、コップの水を一口飲んでから、
 「この手紙は、私宛てなのでちょっと格好付けているかもしれないですね。男同士だと未練がましさを見せたくないという気持ちが働くから。」
 S子の顔を正面から見ると、なぜか胸が痛んだ。先へかけて緩やかなカールのかかった長い髪に目をやった。

 「男の方同士なら本当の気持ちを話せると思ったのですが、違うんですか?」意外だという顔をする。
 「男には変なプライドがあります。これは意地でも守りたい。後で考えれば何でそこまでということなんですが。その時には意地を通すことが、自分が自分であることの証明になると受け止めるからでしょう。」
 とうの昔にプライドを捨てた私には、プライドという言葉が眩しく思われた。

 「男の方はプライドですか。女なら虚栄でしょうね。きらびやかに身を飾り、虚栄のためにさえ恋愛するかもしれません。」  そういう彼女には見栄など感じられない。理知的な光が快活な明朗さと融け合って不思議な魅力を醸し出している。

 「柿沼は自分の生き方に誇りを持っていたというより、誇りを持てる生き方を模索しているようでした。私と議論しても彼には決して妥協はなかった。彼は自分が納得したことでなければ言葉を吐かなかったし、言葉一つにも重みがありました。」
 彼の議論には自問自答して自分を追い詰めていくような趣があった。そのくせ人と言い争うということはなかった。言葉は必ず自らに帰って来る。このことを深く知っていたからだろう。S子は顔を上げて私を凝視した。つややかな瞳は深くすべてを見通して、しばらく見つめていると何処かに連れ去られるような錯覚に襲われた。

 「あらいやだ、お見合いみたいね。」S子は口に手を当てて可笑しそうに笑った。  「あっ、失礼。見つめるつもりはなかったのですが、あなたの瞳に引きつけられてしまった。」  そういいながら頬にさっと血潮が熱く広がって行くのを感じた。S子の前では繕うことは出来なかった。それを見逃さず、
 「意外な、あなたを発見しました。うふふ、ごめんなさい。」
 話がとんだ方向に来たことに戸惑いつつも、うれしかった。柿沼を話題にしながらどこかで自分の考えを差し挟んでいたのかも知れない。ここでS子に相対しているのは自分であって柿沼ではないのだから、自分に素直であることが彼女に対しても誠実というものだろうと思った。

 「私も柿沼を通してしかあなたを知らなかったので、意外なところが多いですね。」
 率直に感じたことを口にした。ほう、とS子は感心ありげな顔を向け、
 「どんなところですか?」ぜひ聞きたいという面持ちで聞く。
 「あまり先のことなど考えず、現実的な考えをされる方だと思っていました。悪く言えば打算的な人と。これは失礼。聡明な方だということを改めて知りました。」
 気に触ることを言ったかなとS子に目をやると、
 「随分褒め過ぎね。そんなに立派じゃないですよ。打算は当たっているかもしれないわ。私の考えは現実的なところがあるから。そうね、どちらかといえば女はみな、現実的なところがあるかもしれない。無意識のうちにバランスが取れているっていう感じ。恋人に夢中になっていても、どこかで本能が計算していてくれるような気もするの。」
 そのへんの感覚は男である私には、窺い知れないが、彼女の言葉には妙に説得力がある。

 「男はどうしても理屈を積み重ねて、物事をそれに当てはめる癖があります。女性のようには鋭い直観力を持たない。計算してもそこから漏れるものにはどう対処のしようもない。男と女のぎごちなさ、座りの悪さはそこにあるのかもしれませんが。」
 所詮女には敵わないな、と冑を脱ぐと話も楽になる。
 「よく観察されているのですね。ついでに私の観察結果はどうかしら?」
 悪戯してその結果がどうなるのか、興味深げに見つめる子供のような面影が浮かんだ。彼女にこんな悪戯っぽい面を見るのは初めてだった。

 「そうですね。冷静さと、直感の鋭さ、屈託のなさ、楽天的明るさを具えられた天性の聡明さでしょうか。しかし、時として現実にそぐわないものは拒否される性格のようにも思われます。」
 このように言った推測は、女性特有の生存本能が彼女に合理的判断を下しているようにも思われたからである。
 「大筋では当たっているようです。ただ一つ、天性の聡明さということを除いてはね。」
 にっこりと笑窪をくぼませた。向かって右唇の端に小さくできるのが筋肉運動とは分かっていても、生きているように微妙な表情を見せる。

 「私をどう観察されましたか? 今度は教えてください。」
 彼女にどのように映っているのか、聞きたいと思った。
 「そうね、心の広い公平にものごとを見られる方、そして友達を大切にされ、正義感も強いでしょう。忍耐強い努力型の人と思う。秘められた情熱のようなものも感じるわ。あなたが好きになるのはどんな人なのかしら?」
 彼女の指摘はあながち間違っていない、いやそれどころか、かなり正確に私のことを洞察していることに驚いた。
 「そこまで見抜かれているとはお恥ずかしい。好きな人ですか。難しいけど、優しくて、明るく、傍にいるだけでほのぼのと温かさを感じられるような人かな。純粋な人がいいですね。」
 そういいながら、白い花を思った。腕時計をそっと見ると、9時半に近かった。許されるなら一晩中でも話し続けていたい気持ちだった。
 「私は構わないのですけど、遅くなりますからそろそろ帰りましょうか。」
 「今日は楽しかったわ。彼のこともよく分かったし、それにあなたとも親しくお話ができました。気持ちが晴ればれできました。ほんとうにありがとうございました。」
 丁寧に頭を下げる。空気の動きにつれ、ほのかに香水の匂いがしたような気がした。何かしみじみとして、懐かしく、胸のどこかが締め付けられるような感じだった。店を出て、しばらく歩くと中央通に出る。これを渡れば上野駅は直ぐだ。

 「自宅はどちらでしたか?」並んで歩きながら尋ねると、
 「王子に住んでいます。駅から5、6分くらいのところです。以前は妹と一緒でしたが、2月前に妹が結婚しましたので、今は1人で住んでいます。」そう言って顔をこちらに向けた時、急に彼女との距離が縮まったのを感じた。通りを渡り、彼女が妹のことを話してくれるのを聞きながら不忍口まで歩き、改札口からライトブルーが消えるのをじっと見送った。


21章 孤独

 アパートに帰って、テレビをつけると日朝首脳会談のニュースが流れていた。拉致被害者の家族5人が帰国と伝えている。今日は夕刊も見なかったので、しばらく首相や、家族の会見の場面を見てから新聞にも目を通した。
 拉致は重大な国家犯罪で、被害者の長年にわたる苦しみが思いやられた。5人の帰国を喜ぶと共に残された課題の一刻も早い解決を祈るような気持ちだった。国家存亡の手段として拉致や核、ミサイルが使われていることは国際社会のあまりにも非情な現実であろうか。国家と国家の対立が罪なき人々を、これほどまでに苦しめ、ささやかな暮らしを奪う。

 煙草をくゆらせながら紫煙が消え行く先を見つめていた。今日一日が、随分昔のような気持ちがする。日常の出来事にそれほどの変化があったわけではない。S子との対話が私に心理的な変化を与えているのだろうか。
 彼女との対話の場面を思い起こし、その心の動きをぼんやりとたどってみた。柿沼の話題から何時しか二人の話のやり取りになっていた。それもごく親密なものへと水の流れるままに運ばれていた。いつしか対話は一つに融け合って、共有の空間が開けていたのに、改めて気づいた。すると妙な孤独感に包まれているのを感じる。
 これまでこの部屋にいると一番心が開放されるので、誰にも邪魔されたくなかった。一人暮らしの気安さ、自由を楽しんでもいた。夕暮れ迫るあの危険な時間をいつのまにか心に忍び込ませてしまったのだろうか。いったん孤独な時間に魅入られてしまえば、もはや為す術はない。そのまま床に入っても、脳裏を夕方からの映像がゆっくり回転していた。

   冷え込んで雨になりそうな日曜は、行き交う人もまだない。用意した雨具を自転車に載せて店に着くと、準備体操をしている主任がいた。挨拶して「雨が降らないといいですね」というと「大丈夫じゃないかな」と空の気配をうかがう。
 「それにしても拉致被害者の家族5人、帰って来てよかったね。昨夜はずっとテレビを見っぱなしだったよ。」主任は、ほっとしたようにいう。
 「ひとまず安心しました。安否の分からない人たちのことも何とかしてほしいですが。」気掛かりな同胞のことが話題になる。そのうちにAさんがやって来た。時間があるといつも文庫本を手にしている。聞くところによると彼はかつて教師をしていたという。無口な人なので教師は苦痛だったのかもしれない。
 販売店では、店員の過去を詮索することはご法度である。それぞれどんな理由があるにしても、仕事をきっちりと真面目にしていさえすれば差別する理由などありはしない。同じスタートに立った仲間、同志である。付き合ってみればみんな人のいい人間ばかりであった。
 Nさん、Oさんもやって来て店は俄然賑やかになる。
 「昨日は5人が帰って来たので、ビールで乾杯だった。お蔭でたっぷり飲むことができた。万万歳だ。この調子で、馬も頑張ってほしいね。一生懸命応援しているんだからさ。」赤ら顔のOさんが演説する。Nさんは帽子をちょっと直して、
 「Oさん、ご機嫌だね。今日もいいことあるよ、きっと。」と笑う。

 トラックが来て、紙分けを始める頃には次々に店員たちも駆けつけ、早い1日が始まる。
 「Y君、だいぶ慣れたようだね。逞しくなった。」声をかけると、
 「はい、眠気にはなかなか勝てませんけど。」
 新人らしく正直な気持ちをいう。眠気を振り払うように手早い作業をする。
 今日で私も担当地域の順路を取り終わり、来週から配達員に週休を与えるための代配を受け持つ。これが順調に回転するようになれば、お互いに休みが取れるので助かる。月1回程度の新聞休日では、あと3回は店の責任で交代休日を確保する他ない。販売店の代配は、そのための制度である。
 最後の順路を取り、電話当番を終えて、帰り道の駐車場に寄って見る。斑の入った白が傍に来て甘え声を出す。黒は知らん顔で、くるりと顔を背に回し首を振って何度も舐める。いつも3匹いるのに赤茶色のとらの姿が見えない。猫取りに捕まったか、車にでも引かれたのか、気になったが、白の頭を撫でてそこを去った。

 アパートの部屋に入ると、テーブルが奥にぽつんと置いてあるのがいとおしい気持ちになった。テレビを聞くともなしに流しておく。黙々とパンを食べ、牛乳を流し込む。午後から集金があるので、午前中は休むことにした。
 朝刊を見ているうちに眠くなったのでそのまま新聞を傍において目を閉じた。ふっと目が覚めると、私の存在が次第に周囲から浮き出て一人でいることがはっきりと自覚された。時計を見ると11時を指している。
 少し早めの昼食にすることにして、人の割と大勢集まる近くの中華飯店でラーメンと餃子を注文した。何気なくS子がいたらと思った。親しい者が傍にいることはどれほど安らぎを与えられることか。親密の度を増すごとに時間と空間を共有できないことは、孤独の耐え難さを増す。それは存在の重みを一人で耐えることであるからだろう。
 店で集金の準備を終えて、担当区域を一軒一軒回るのだが、会う人ごとに余所余所しく感じられる。こんなことは今までなかった。どうしても距離を感じてしまう。自分の意識が変わってしまったことが原因なのか。うすうす感じてはいた。喜びの時は、見るもの全てが輝いて見える。悲しみに沈む時には青空さえも曇天の重さに胸塞がれるものである。五月下旬の空には雨雲が垂れ込めていた。集金で3時間ほどもビルの階段を上がり降りし、苦情を言うお客の応対に気を使うとかなり疲れた。


22章 競争

 皆が担当区域の配達に出かけた後、店の片付けを終えると集金の集計に取り掛かった。釣り銭分も含めて合計額に間違いはなく、今日の集金は無事終わることができた。新聞の増減を記帳して朝刊に入れるチラシを12種類ほど各区域に分け終わる頃には夕刊の配達から2人、3人と帰って来る。Y君も帰って来た。ちょっと疲れた様子で、気になった。

 「Y君、今日は少し元気ないな。どうしたの?」尋ねると、
 「ちょっと体調を崩したみたいです。たいしたことはないんですが。」弱弱しく笑って見せる。
 「ちょうど今頃疲れが出る頃だから気をつけたほうがいい。折り込みを手伝ってやるよ。」
 そういって、二つ折りになっているチラシの間に他のチラシを挟みこみ始めると、Y君は頻りに恐縮している。こうすることで明日の作業が楽になる。二人なので、作業は直ぐ終わった。

 「熱はないのかな?」風邪の心配もあったので尋ねると、
 「風邪は大丈夫です。睡眠のリズムが狂ったからだと思います。」今度は、少し元気に答えた。
 「そうか、それならよかった。仕事も終わったので、喫茶店で休んで行かないか?」
 一服したいと思っていたところなので、彼を誘ってみた。
 「喉が渇いていたところなんで、うれしいです。お言葉に甘えて。」うれしそうにいう。
 主任に今日はこれで上がります、と後のことを引き継いでY君と一緒に店を出て、たまに行く喫茶店に向かった。6時過ぎだったので店はまだ空いていた。落ち着く奥の席を選んで、アイスコーヒーを2つとサンドウィッチ2人分を頼んだ。

 「忙しくてなかなかゆっくり話も出来なかったね。勉強の方は順調かな。」
 お絞りをゆっくり使いながらサンドウィッチを薦め、話を向けた。
 「ええ、ようやく配達の生活にも慣れてきたとこです。どちらかというと勉強の方がきついです。どうしても眠くなるので。」
 「やはりな。これでみんな挫折することが多いんだよ。眠気には気力も萎えてしまう。机に向かっても30分と持たないな。たっぷり睡眠を取れば勉強時間がなくなるし、仕事と勉強の両立は難しい。体を壊しては元も子もないから、健康には気をつけたほうがいいよ。」経験から彼の辛さは十分過ぎるほど分かった。
 「ありがとうございます。体には自信あるんですが、こう眠くては敵いません。眠気覚ましのいい方法はないですか?」真剣な眼差しだった。
 「そうだな、水で顔を洗うとか、軽い体操をすることかな。それでもだめなら立ったまま本を読むっていう手もある。自分に合った方法を工夫してごらん。」
 思いつくままに上げてみた。
 「さっそくやってみます。いいことを聞きました。」
 安心したように笑顔を見せた。

   その顔を見ながら何かアドバイスできないかなと考えた。
 「机上の勉強も大事だけど、こういう苦労の中で学んだものは決して忘れない。ものごとを考える土台になるはずだよ。その上で本を読むと、不思議とよく分かる。本には経験で得たものが前提になっているからね。どんなに理論を構成してもその人を支えている現実の生活は厳然とあるわけだから。逆に現実を知れば、理論も分かりやすい。」
 本の知識の有効性も限界も今の生活の中で実感していた。

 「そういわれると、分かるような気もします。現場に身を置くことがジャーナリストの第一条件だと思いますから。現場にあって現場に埋もれることなく、真実の姿を抉り出す使命があるはずです。」
 目を輝かせるように私に語りかける。

 「その通りだと思う。マスコミは一つの組織形態だね。君も知っての通り、新聞は社会の木鐸であることを謳っている。ぜひそうあってもらいたいものだが、これはなかなか重い任務だね。」
 理想と現実が一致しないということを暗に示すと、
 「はい、マスコミ業界に入れば社員は一つの歯車になりますね。取材して記事を書いても社の編集方針に沿って編集されます。これは個人の限界かも知れません。でもできる限り真実に迫りたいのがジャーナリストの願いだと思います。信念でもあるはずです。」

 「資本主義の世の中だから企業として成り立たなければならない。経営基盤が必要で、新聞の場合、広告収入と購読料がある。特に言論の自由を確保するために編集権が独立してもいる。」
 新聞は企業であると共に他にはない独自性があることをいう。
 「その辺のことは、販売店に入ってから身近に感じるようになりました。今までは編集のことにばかり目が行っていたんですが。」

 「君も知っていると思うけど、新聞社では編集局が他の部局に対して圧倒的な力を持っている。広告局は広告を出稿してもらうスポンサー企業にはどうしてもお願いする立場になる。ただ、その間に広告会社が介在するので、巨大な広告会社は企業広告をどの媒体のスペースに配分するか、その権限を通してマスコミ界に影響力を発揮する。
 マスコミも媒体のスペースを広告会社に確実に売ってもらえれば安心だ。企業は、広告掲載の料金と効果を費用対効果で常に厳しく査定する。このような相互関係があるので、上手く機能すれば互いに牽制しあって一方的な支配は生じにくいはずだが、実際のところはどうなのかよく知らない。」
 あらまし、この業界に入って知っている内側のことを語った。
 「概論だけは学び始めたところですが、もっと生々しい力関係が働いているんですね。その力に対抗していくのは、生易しくないでしょう。」
 彼はふっと息をつき、コーヒーを半分ほど飲んだ。

 「それで編集権の独立を確保し、言論の自由を担保するには経営基盤がしっかりしていなければならない。販売部数によって広告効果が期待されるので、販売部数は広告料金にも当然反映される。一定の地域において販売部数が多ければ多いほど、広告の浸透度は増すわけだ。また、販売部数によって購読料金収入も増える。
 編集権の独立とはいっても広告スポンサーの嫌がる記事は載せ難いだろう。だから広告収入に依存し過ぎるのは危険でもある。それを回避するのが、購読料金だ。一人一人の読者に支持されていれば、経営基盤が揺らぐことは少ない。この二つは相互に矛盾するとも言えるが、販売部数を増やすということでは目的が一致する。
 だから新聞社は部数拡大に鎬を削ることになるわけだ。我々の販売店、店員はその先兵でもある。この辺のことは教科書に載っていないかも知れないな。かつてはあまりに販売が過当競争になったので、新聞協会に販売正常化委員会が設けられ、行き過ぎた競争は自粛する方向にあるけどね。そうは言っても現場の実情は厳しいよ。」
 販売の実態を話して聞かせた。

 「各社の販売部数はどうやって調べるんですか?」
 「日本ABC協会というのがあって、ここで公平な立場で調査(公査)することになっているよ。この部数が広告料金の基礎になるんだから、信頼が置けないと成り立たないね。」
 この現状を知って、彼にはそこから逞しいジャーナリストに育って欲しいと思った。 
 「おお、もうこんな時間だ。明日があるからそろそろ帰ろうか。少しは元気が出たかな?」そういって、彼を見ると、
 「はい、先輩の話はすごく面白かった。いい勉強になりました。明日にも眠気覚ましに立って勉強してみます。」元の快活な彼に戻っていた。
 レジを済ませて表に出ると夜風が快かった。頑張れよ、と彼の肩を叩いて、私はそのままアパートに向かった。


23章 省察

 暗いアパートに帰るのは心が進まなかった。静かで寛げるはずだったのだが、一人の部屋に帰るのは孤独に襲われるような気がした。
 ドアを開けて中に入り、いつものスイッチを押し、灯かりがともると気持ちも温かくなった。少し腹が空いているのに気づき、冷蔵庫を覗くとハムがあった。それと缶ビールを取り出し、テーブルの上に置き、夕刊を見ながら飲み始める。コップに注ぐとかなり泡となった。構わず泡もろとも半分ほど飲み干し、ハムを1切れ食べながらビールの苦味を噛み締める。

 動き回ったり、人と話している時には紛れていたのが、一人でいるとどこか、底の方から風が空ろな心を吹き抜けていく。荒野を一人、風に吹かれているのを感じていた。その幻が、次第にはっきりとして、今ここにいる自分に重なって一つになった。
 ビールを飲んでいる自分は遠い過去のようにも思われた。そしてぼんやりと過去を見ている自分の存在をどこかで感じてもいた。ほんの少し前、Y君と喫茶店で話していたのが映像のように甦る。その後、別れてこのアパートに帰って来た。冷蔵庫からハムと、ビールを取り出して飲んで、夢幻の境に流離ったのか、そこから立ち返ってみれば自分は相変わらず、ここにこうしてビールを飲んでいる。そのことに何も不思議はないが、幾重にも深い時間の層が重なり、その層を揺らめきながら立ち現れてくる自分がここにいることが不思議だった。自分の意志でいるのでもなく、誰かによって作為されたとも思えない。自分の存在が階層へと広がり、再び飛翔するように再生して自己と現れる瞬間をまざまざと観ていたのである。
 覚醒するなかで自分の姿が次第に浮かび上がってくる。磨き上げられた鏡にS子の面影がくっきり映し出されてくるようでもあった。これほどありありと彼女の姿が思い浮かんだことはこれまでなかった。

 パソコンに電源を入れ、彼女からのメールが届いていないか、開いて見ると、5通の中からS子のメールを見つけた。
 「昨日はありがとうございました。いろいろお話していただいたので、私の知らない彼の一面もよく分かりました。男性のプライド、女性の虚栄のお話し、それと人間観察まで話しが弾みましたね。いろいろお聞きして失礼だったかしら? 率直なお話うれしかったです。」というような内容だった。S子からのメールはとうに来ていた。

 「メールを拝見しました。ご返事遅れてごめんなさい。話が弾んだことを思い出しています。教えられることが多かったのは私の方ですね。失礼なんてそんなことは全然ありません。これほど心おきなく話が出来たのは久しぶりです。あなたとは何でもお話できるような気がします。お帰りが遅くなったのではないかと気掛かりでしたが、メールを戴いてほっとしました。」
 返事を書いていると今までわだかまっていたものが消えていくのを感じた。ここ数日来の心の変化は自分でも信じられなかった。純粋なものとして心の一番奥に輝いているのを知った。
 林檎が成熟してその果実の内部に蜜としての結晶作用が認められるように人間の内部にも何らかの結晶作用があるのかもしれない。外部からは見ることができなくとも人は誰しも自己の内にこのような価値を生み出し、その命が自らを生かす根源の力ともなる場合がある。

 自分の生き方に誇りを持てるような生き方、自分自身が心の底から納得できる生き方は、柿沼と議論するといつも行き着く結論だった。意見の違いはあったが、ここだけは友人としてというより人間として互いに認め合う原点であった。
 柿沼が私に対して示してくれた誠意は見せかけのものでなく、自分自身に妥協しない厳しさから生まれたものである。少なくともそれを欠いたら人間として何ら意味を見出しえないものであったろう。そのようなものとして私は人間を信じる。人間の真を信じたいと思った。
 自身に素直であることが自らを結晶させるのである。不純物があるとしても水晶がその結晶の中に植物などを含むように自らの生命の中にすべてを包み込むはずである。
 自身を一人静かに省察した。


24章 分割

 Y君はすっかり元気な顔でやって来た。
 「おはようございます。昨日は、ありがとうございました。おかげさまで元気になりました。」屈託のない顔で挨拶する。  「若いのはいいよな、元気で。こっちは、もうちょっとのとこで懸賞を逃がしたよ。」Oさんが、残念そうにいう。
 「馬もままならないけど、車も大変だよ。値上がりでガソリンがリッター108円になってるけど、6月からさらに110円台になるとか。給料も上がるといいけどね。」Nさんが話に入り、私の方を向く。それを受けて、
 「石油が値上がりしてるから、電気代や化学製品も上がるかもしれないし、そのまま値上げできないから競争が激しくなるはず。よっぽどの企業でないと給料の引き上げは難しい。Nさんはバイクだからもろに響くでしょう。」
 物価の話になった。Aさんは眼鏡の位置を右手で直し、皆の話を聞いている。間もなく発送車が来て、店の中が活気付く。

 今日は、代配初日なので順路帳を持って早めに店を出た。順路は取ってあるから大体は分かるが、油断すると路地の奥や、一軒跳んでで斜め向かいなどはそのまま忘れやすい。順路帳と照らして慎重に配る。
 雨の時などは悲惨な状態となることが予想されるだろう。新聞はビニール袋に入っているからいいが、順路帳を広げれば雨に濡れる。雨合羽を着ても傘が必要になる。それでなければビルや家の軒先で雨を避けて順路帳の必要なところを確認しておく。今日は、晴れていたので多少時間は掛かったものの無事に終わることができた。最後の一部を配ると緊張が解け、責任を果たし終わったという爽やかな開放感に包まれる。

 店に帰ると「お疲れさん、どうだった?」と主任が声を掛けて来た。
 「はい、何とか無事に終わりました。順路帳を見ながらなんで時間がちょっとかかりましたけど。」順路帳を元のところに戻しながらいう。うなづきながら、
 「皆にも言ったんだけど、夕刊の始まる1時間前に店に来てもらいたい。専業の人だけにちょっと所長から話があるんだ。」改まった口調で言う。
 「拡張のことですか?」まだ集金に掛かり切りなのでもう少し先にしてほしいという気持ちを込めて聞く。
 「それもあるけど、今日のは別の話だよ。詳しくはその時に。」と話を止めた。何だろうと不安な気持ちと聞きたい好奇心との入り混じった気持ちで、
 「分かりました。それでは夕方3時までにここに来ます。」と返事して、店を後にした。

 例の駐車場に寄ると、赤茶色のとらの姿が相変わらず見えなかった。黒が仰向けになって背中をアスファルトにこすりつけ、右に左に体を回転させる。斑の白は私の姿を見つけると猫撫で声で寄って来て私の足に纏わりつく。いったいぜんたい、お前達はとらのことが気にならないのか、猫はのん気でいいな。
いや、彼らにしてみればこれで縄張りを守り、生きるため必死に戦っているのに違いなかった。

 コンビニでおにぎり3個と即席味噌汁を買って部屋に帰った。冷蔵庫にハムの残りがある。ガスに薬缶をかけ水を沸かしている間に即席味噌汁の封を切り、汁茶碗に入れて準備し、その後湯を注ぐと味噌汁の出来上がりだ。こうして15分もあれば、すべてを胃袋に収めることができる。
 食べ終わった後、湯飲み茶碗のティーパックの上からまだ熱い湯を掛けると食後のお茶になる。残った湯はポットに入れて保温する。

 食後はゆっくり朝刊に目を通す。急いでいる時は見出し読みで、1面から最後の社会面まで15分ほどで全体を眺め、どんな出来事があるのかを頭に入れる。後で時間のできた時に読み返すことになる。
 そのあとパソコンに触れるのが習慣となっていた。しばらく待ってからメールを開くと昨日遅くS子から返信が届いていた。
 「あなたは優しいのね。私のことで心配していただいて。遅いといっても10時過ぎには家に着いていました。王子の駅からは直ぐですから大丈夫なの。あなたこそお仕事大変でしょう。お体に気をつけてくださいね。お休みなさい。」
 短い文面だったが、真情に溢れていた。何か重いものが取れ、弾むような喜びが湧き上がってくるのを感じた。
 「おはようございます。うれしいメールでした。仕事の疲れも吹き払われるような気持ちです。お心遣い本当にうれしく、ありがたく思っています。今日もいい1日であるような気がします。」と返信した。

 少し休んで午後から2時間ほど集金に回り、早めに切り上げて店に向かった。3時10分前には着いたが、まだ他の人たちの姿はなかった。4、5分もするとNさん、Aさん、Oさんの面々が揃ったので、一緒に奥の部屋に行く。
 すでに所長と主任は控えていた。私は、主任に集金鞄を預けると、所長を上座に見て中央のテーブルを囲んで他の皆と席に着いた。部屋の空気は何となく緊張していた。
 主任が皆を見回すと、
 「今日は、所長から大事な話があるのでよく聞いてください。」といってから、「それでは、所長お願いします。」と所長の顔を見て促した。
 「えー、いつもご苦労さん。今日は夕刊の前の忙しい時間を使って申し訳ないが、皆に聞いて貰いたいことがあるので、急遽集まってもらった。」
 柔和な顔が何時になく緊張のためか上気し、眼鏡を上に持ち上げて話を継いで、
 「実は本社から店の分割の話が来ているんだ。半年前から打診はあったのだが、返事をしてなかった。それでこの間も販売担当員のTさんが来たわけだ。」皆息を飲んで、次に出てくる所長の言葉を待った。
 「今の5000部を3000部と2000部の二店舗に分割する案だが。2000部の区域は新所長が就任し、今いる従業員はそのまま引き継がれることになる。これはもう決まったことなので皆には受け入れてもらいたい。」所長の話を聞いて皆の顔に動揺が広がった。

   いつもは無口なAさんが、
 「決定したことと言われたって心の準備も何もないですよ。どうなってんですか?」強い語調でいう。
 「これは本社の強い意向なんでね。私としてはできることなら今まで通りに皆と一緒に頑張りたいんだけど。こればかりは厚い壁でどうにかなるものではない。」所長の額には苦悩の色が浮かんだ。

 「所長もよくよく考え、これまで半年以上も本社の意向に逆らってまで先に延ばしてきたんだ。そこのところをよく考えてもらいたい。」堪りかねた主任が口を開いた。
 「主任の言うことは分かるけど、我々だって生活が掛かってるんだから。そんな簡単に決められては困りますよ。」Nさんが憤慨して顔を赤らめている。
 「ちぇっ、ついてない時は何もかもついてないんだから。本社の意向には逆らえないさ。逆らえばお取り潰しだ。長いものには巻かれた方が利口だよ。」Oさんが、諦めたようにいった。

 所長は決心したようにおもむろに語った。
 「本社としては販売拡張は至上命令だから、どうすれば紙を増やせるか考えるわけだ。一定の地域でどれだけ本紙が読まれているかは、購読部数を世帯数で割れば出る。この普及率が販売の力量を現している。地域によって読者層も違い、それと販売店の営業力も反映しているわけだ。過去のデータに基づいて基数が決められている。
 仮にうちの場合の基数を4000部としよう。この部数はどんなことがあっても維持しなければならない数だ。二店舗に分割すれば、販売管理も細かく目が行き届き、営業力も集中的に発揮できるというメリットがある。基数も引き上げることが可能になり、例えば3000部の店舗では2800部に、2000部の店舗では1800部になったとすれば、合わせて基数4600部で、600部の基数引き上げということになる。販売政策から導かれる結論とのことだよ。」
 所長は、詳しく説明した。

 「親爺さんのもとで一緒に働いてきた私たちが、別の職場になるわけですからもう少し時間がほしい。販売担当員を呼んで話を聞かせてもらおうじゃないですか。」
 私は、いや私たちは苦労を一緒にして来た仲間だった。何とかならないものか、無力を感じつつも皆の意思を本社側にも伝えるべきだと強く思った。

 「分かった。他の店員たちにも言わなければならないし、担当を呼んで聞いて見よう。私も身を引き裂かれる思いだ。私にできることは、分割する時間を多少先に延ばす交渉ぐらいだが。」可愛い店員たちにこれ以上苦労をかけるのが忍びないという所長の思いに皆黙り込んだ。

 「所長の言われたように厳しい状況にあるけれど、ここにいる限り、お互いに力を合わせて店を守っていきたいと思う。よろしくお願いしますよ。もう夕刊が来るので今日のところはこれまでということで。それと他の人には未だ言わないでおいてもらいたい。いいね。」主任がそう言って、話し合いを終えた。

 夕刊の時間になっていたが、私たちはいつになく暗く重い気持ちに落ち込んでいた。発送車から紙受けすると、紙分け作業が黙々と始まった。誰も口には出さなかったけれども、それぞれ心の中で先ほどの出来事を思い描いているのが分かった。


25章 憤慨

 夕刊の代配をしながら考えがぐるぐる頭の中を回っていた。販売店での3年間の経験から新聞販売の実態は身に染みて分かっていた。けれどもこのような厳しい事態になろうとは予想もしていなかった。

 新聞販売店は、新聞発行本社とは別組織なのだ。名称だけは○○新聞販売所とあるから新聞社の下部組織と思われるが、新聞の委託販売をしているに過ぎない。
 新聞社との契約によって販売店は一定地域において系列の新聞を独占的に販売する権利を得ている。ただその契約は、販売店の義務が一方的に求められる片務契約で、販売店の生殺与奪の権は本社担当社員が握っている。その権限によって販売店主の首を切ることを改廃といい、販売店は本社の販売拡張政策を受け入れることしか許されないのである。

 新聞社と販売店との取り引き契約期間は3年から5年で、特に問題がなければ、自動更新される。その契約条項をみると、販売店は、購読者に対して本社が定めた定価で販売し、迅速正確に個別配達をすること。新聞の販売拡張方法(拡材、拡張団)については発行本社の指示に従うことなどが明記されている。
 本社に対し、販売店は次のような諸事項を義務づけられている。販売店は購読者名簿、順路帳、集金簿、増減簿など新聞販売に必要な帳簿等を作成し店舗に常備し、発行本社がその閲覧を求めたときは即時提示する。販売店は、発行本社が業務上の諸事項の調査、報告を求めた時、これを拒否しない。
 契約解除の条項には、新聞配達、代金等に関する不正、または本社の名誉を毀損、その他本社に損害を及ぼす行為があった時。本社が警告を発し、これを販売店が改めない時は何らの通知催告を要しないでこの契約を解除することができるとしている。

 販売店主は本社担当員に対等にものを言える立場にはなかった。それはある程度承知していたものの、考えればあまりにも一方的な店の分割で、怒の気持ちが湧き上がってくる。
 ある者は新聞社の厚い壁に諦め、ある者は販売店の置かれている立場を嘆く。自分の境遇をもたらしたものを恨み、どうにもならない非力な己を自嘲する。憎しみの対象をどこかで羨望してもいることが、屈折した僻みをもたらす。

 何処にどう新聞を配ったのかも朧気ながら夕刊は全て配り終わった。店にはOさんが既に帰って、Nさんと雑談している。チラシの準備を終えた配達員は1人、2人と帰っていく。赤ら顔のOさんは、
 「偉そうなことをいっても人なんか信じられん。結局自分が可愛いだけさ。」吐き捨てるようにいう。
 「本社は紙を増やすことしか頭にないからね。」Nさんも同調する。
 「俺たちを何だと思ってんだ。痩せても枯れても人間だぞ。本社に比べれば、馬の方がまだ可愛い。」憤慨に堪えないらしい。持って行き場のない気持ちをぶつけずに居られない風である。その気持ちは分かるので、
 「親爺さんが話してみるといっているので、もう少し待ってみましょうよ。」そうなだめると、
 「宮田君、人がいいにもほどがある。本社がうんと言うはずがないだろう。だめに決まってるさ。こうなりゃ、ストだ。それしかない。」興奮気味にいう。

 「そりゃ、過激だ。おっかないぜ。」Nさんが肩をすぼめ、
 「ストなんかやったら、一発で改廃だ。本社は配達要員を引き連れてやって来る。」と言った。
 Nさんのいう通り、本社にとって販売店など赤子の手を捻るよりも簡単なことがはっきりしている。配達は絶対的な契約条件に入っていた。本社は、これを盾にストの解除を迫ることは間違いない。場合によっては本社の社会的名誉を著しく損ねたと契約の即時解消を言い渡すだろう。

 「気持ちは分かるが、販売店の立場ではあまりに無謀、火の中に飛び込むようなものです。冷静に対応しないと犬死ですよ。」私も、気の短いOさんの暴発を抑えるが、
 「俺はやるとなったらやるんだ。びくびくしてどうする。」いつもの強がりを言う。
 「ま、あんまり大ごとにしない方がいい。それじゃ、私は、これで帰えるから。」
 Nさんは、帽子を手にするとそれを被って店を出て行った。

 入れ替わりにAさんが集金から帰って来た。
 「お帰りなさい。」私が声をかけると、黙って会釈した。
 「今日はかっこよかったね。」Oさんが冷やかすように言う。
 「大事な職場だから。」Aさんがにこりともしないで答えた。それに賛意を示して、
 「そうですよ。一緒にやりたいですものね。」と私は言った。
 「押し紙するくらいなら販売店の実情を一つでも見ろと言いたいね。」ここぞとばかりOさんは主張する。それを引き受け、私は言う。
 「基本部数で販売店を締め上げるだけでなく、購読部数を上回る必要以上の予備紙の押し付けは困りますよ。」
 部数拡張のためとはいえ、販売店が注文もしないのに本社から押し付けてくる多数の新聞(押し紙、積み紙)は、古紙として処分されるか、無代紙として読者サービスに回される。販売店では購読部数と押し紙をも含めた新聞の原価を発行本社に収めなければならない。発行本社から新聞1部当たりの補助金が出るにしても、販売店の負担は大きなものとなる。新聞の販売過当競争の根源がここにある。

 「まったく、俺たちにも人として生きる権利はあるはずだ。道具じゃないんだ。」Oさんが権利を主張する。
 「言論と人権の新聞です。そうであるからには販売店の実情を明らかにすれば、本社だって知らぬ存ぜぬというわけにはいかなくなるでしょう。」あくまで正攻法で行こうとすると、Oさんは、
 「甘いね。誰が人権など守るものか。組織を守ろうとするだけさ。金にならないものなど何の意味もない。全て金だよ。金。」と息巻く。

 「それはちょっと違うんじゃないかな。金も生活には重要だけど、人間そものを否定されたらこれには断然異議を申し立てなければならない。」Aさんも反論する。
 「人間否定は、腹に据えかねる。これだけは譲れないですね。」
 私も同調した。先進の新聞を支えている土台が販売店である。販売店が過酷な労働条件にもかかわらず、戸別配達の先兵となっているから言論の自由も維持されている。この犠牲を無視するなら言論の自由とは一体なんなのか。新聞社が自らのために言いたいことをいう自由に過ぎないではないか。新聞の存在意義に考えを廻らしていた。


26章 猶予

 大衆食堂で定食を取り、アパートに帰ったのは8時過ぎだった。生活の基盤を揺るがすような思いがけない出来事で、この1日は何日分にも相当するような時間の長さを感じた。
 新聞を広げても何か空ろで記事など他所ごとにしか思われない。本社に対抗すれば、改廃の憂き目を見る。所長はじめ店員の身の処遇がどうなるのか。上手くいっても2店舗に何人かの店員が雇用されるだけだろう。分割案なら、現在の従業員はほぼ同じ条件で職に就くことができるかもしれない。退職金、新聞奨学生はどうなるのか、次々に不安が襲ってくる。
 このアパートも来月には契約更新が迫っている。雇用保険は入っているので当座は凌げるが、再就職となるとあてはなかった。パソコンの分割払いも後5回残っている。全ての歯車が狂ってしまう。

 ふとS子のことが浮かび、なんだか急に話がしたくなってパソコンに向かった。
 「その後いかがでしょうか。蒸し暑い日が続きますが、間もなく梅雨入りですね。この時期はどうも体調を崩しやすくて困ります。
 今日は、職場のちょっとした問題がありました。そんな時、あなたの快活な顔が思い出され、こうしてメールを書いているところです。それでふと、柿沼が職場の人間関係で悩んでいたというあなたの話を思い浮かべました。彼が具体的にどんなことで悩んでいたのか、分かりませんが、あるいは配置転換か、上司との人間関係が上手くいかなかったのか、仕事上の行き詰まりか、勤めることは様々な問題を抱えていますね。
 私も店の危急存亡の時を迎え、彼の気持ちがいくらかでも分かる気がします。外から見ているのと、中にいる当事者ではかなり問題の捉え方にギャップが生じます。取り止めもないことを書きました。」
 そのまま送受信ボタンを押した。

 気がかりなことを文字にして、相手の心に送り届けた。はたしてその真意が届けられるのか、誰しも悩む所であろう。意図したことが伝わらず、意図せぬ誤解を生じることが日常茶飯のことである。ましてメールともなると、その困難が急速に高まる。返信を受け取るまでが、期待と不安の入り混じった猶予の期間であった。
 この宙ぶらりんの感じが、何か人が生きていくのに似ていると思った。生まれてから死ぬまで、何も決定されてはいない。宙ぶらりんの状態で一人一人に選択が委ねられている。ただ、生まれてきた時のことを覚えていないし、死んでいく時は死につつあることを自覚しているのだが、死そのものは自覚されることはない。外から見ている限り、そのように思われる。
 当事者でないので判断できないだけである。このように考えれば、生きることは今まで外から見ていたことを当事者となって、今直面している事態に踏み込んでいくことに他ならない。

 「メールを拝見しました。買い物をして少し前に帰って来たところです。蒸し暑くなりましたね。私の職場は冷房が入っているので、室温は調節されますが、あなたのお仕事は外ですからこれからの梅雨時は大変でしょう。お体に気をつけてくださいね。
 あなたの職場で困ったことがあったのですね。職場はいつも顔を突き合わせているところですから、人間関係がこじれると辛いことになります。逃げ出したくても思いのままには行かないでしょうし。
 彼は上司のことで悩んでいたようです。何か提案しても受け入れてもらえず、上司のやり方を押し付けられ、上手くいかないと責任を取らされる。仕事をやりきって認めてもらうしか方法はないでしょう。
 それでもあなたのおっしゃるように当事者にしか分からない苦しみがあると思います。だからそれを分かち合うべきでした。私はドライでいつも心が行き届かないのよね。」
 かなり長いメールが来た。私の出したメールの真意が伝わっていることにほっとした。食い違うと、時に感情的な論争にまで発展しがちな所がメールにはある。S子とはこれまで何回か会って話をし、お互いに気心が知れていた。

 「職場の人間関係はいつものことだから本当に辛くなります。私の場合は、店が分割されるという問題を抱えていることですが。新聞社と販売店との関わりの中で起きる一方的な合理化です。この問題で今まで仲の良かった仲間たちの関係が利害の対立でぎすぎすしたものになってしまいました。経済と人間関係の両方から痛手を受ける形となっています。
 当事者として一人一人が分かり合えるはずなのにそれが上手く行かない。割り切れればいいんでしょうが、そうもいかないし。八方塞を感じます。」
 S子との会話で心が少しづつ広がり、気持ちがほぐれて行くのを感じた。

 「それはお辛いですね。苦しい立場におられるのが分かります。あなたなら公平に忍耐強く問題を解決されると思うわ。人間、我を通すだけなら楽だけど、一人一人を尊重し、それぞれが満足とは行かないまでも我慢のできる解決を求めることは心身がタフでないと務まらないと思うの。あなたに今一番必要なのは健康ですからお体には十分気をつけてくださいね。」
 S子からのメールは、温かく、思いやりに溢れていた。孤独な心を深く知るものだった。


27章 掲示

 翌日店に行くと「明後日、担当員を呼んで店員会を開くから店に全員集まるように」と主任から専業店員には通達があり、黒板にも張り紙が掲示されていた。店員たちの間にはすでに分割問題が噂となって広がり、2、3人集まるとその話題で持ち上がる。朝刊の紙分けをしながらも店員の関心は店の分割のことだった。人の口には戸が立てられなく、昨日の出来事が全員の知るところとなっていた。

 「皆も自分の身の振り方を考えた方がいいよ。ストでもやって抵抗するか、本社の言いなりになるか、二つに一つだからな。」
 Oさんが焚きつけるようにいう。それを聞いて主任は苦虫を噛み潰したように、
 「どうするかを明後日の会議で決めるんだから、早まらないようにね、Oさん。」と念を押す。

 「そんな奇麗ごとを言ったって、俺たちの生活が掛かってるんだよ。」
 むっとした顔で反論する。それを見て私は、
 「たしかに一人一人の生活に直接関わることです。考え方は皆違うかも知れないけど同じ職場の仲間であることに変わりはないし。どうしたら一番納得できるかを考えて結論を出した方がいいと思う。昨日の話でも分かるように所長も心を痛められているんだから。」と話を引き取った。

 「馬だって当たるか、外れるかしかない。外れたら諦めるしかないだろう。人生は二つに一つ、白か黒かだ。損か、得、それだけさ。」
 Oさんは、あくまで自説を主張する。それに対して、
 「なるほど、予想通りに行くか、外れるかは競馬と同じかもしれない。何とか当てようとしていろいろ調べ、出した結論に賭けるわけでしょう。皆で話し合うのも同じことではないでしょうか。もちろん利害関係、考え方はそれぞれ違うから最後の結論は一人一人が自分で決めるほかないですが。一人では考えられないこともいろいろな意見が出されることで選択の幅が広がるはずで、その中からよりよい方法が選べるでしょう。」話し合うことの利点を根気良く強調する。
 「分かったよ、宮田君の根性には負けた。」
 Oさんもしぶしぶ折れたようだった。
 「ま、詳しいことは次の会議にして。朝刊の仕事に掛かりましょう。」
 主任は、そう言うとやれやれというふうに向こうに行った。

 Oさんは、新聞を自転車に積むと代配に出かけて行った。私は代配がないので後片付けにかかる。そこに主任が来たので、私は、
 「所長はどうしていますか? 分割のことで苦しんでおられるようですが。」と聞いてみた。
 「うん、もう少し待ったくれるように話しているようだ。それもあって担当員を呼んで店員たちの生の声を聞いてもらおうというつもりなんだよ。」
 明後日の会議の経緯について話した。

 「本社は、あくまで分割の方針なんでしょうか。既定の方針ならこれを変えさせるのはまず無理でしょう。所長も本社と店員との板挟みで辛い立場ですね。何か良い手立てがあればいいのですが。」
 「交渉するとしても、本社相手では限界があるし、時期を2、3ヶ月延ばすことくらいかな。」諦め顔で主任が話した。
 「こちらの店舗に残る人はいいとしても、分割先の新店舗に移る人が生活の不安を抱えるわけですから。経営者や待遇問題などもあるし、ちょっとやっかいですね。」突っ込んで聞くと、
 「具体的にはまだよく分からないが、次の会議ではそんな話も出ると思う。」主任からは、おおよその話が聞き出せた。

 7時前には配達から皆帰って来る。Aさん、Oさん、Nさんが代配だった。
その他順次に帰って、自転車を店の前に並べて置く。Y君も帰って来たので、今日は学校の方はどうかと聞くと、授業は午後だという。5分ほどの所に大衆食堂があるので、朝飯を一緒に食べに行くことにした。納豆、海苔、焼き魚、沢庵、味噌汁、それに大盛の御飯が朝の定番だった。
 「君も知っていると思うが、店の分割が問題になっている。次の会議で詳しい話があるはずだ。」そう話を切り出すと、
 「ええ、今日初めて主任から話がありましたので。それでどうなるんでしょうか?」心配そうに聞く。

 「まだ、いつになるかは決まっていないようだけど、分割は避けられないだろう。どの区域が分割され、新店舗になるかは次の会議の時に話があると思う。全員集まるのだから自分の意見を言った方がいい。
 君も今の店舗に残るのか、新店舗に移るようになるのか、今はまだ分からないが、待遇がどうなるのか心配だと思う。新聞奨学生だから多分条件は同じはずだが、確認しておく必要はあるね。販売店によっては異なる所もあるらしい。」
 「そうなんですか。僕の場合は現在朝夕刊の配達だけですが、集金もやってくれといわれると困ります。確認しないとだめですね。」
 食事をしながらY君とこれからのことなどしばらく話し、支払いを済ませ、暖簾ををくぐって外に出ると、そこで別れた。
 アパートに着いてから、ゆっくりと茶を飲む。飲みながらこうしていられるのはいつまでかなと思った。


28章 燃焼

 バグダッド近郊で日本人ジャーナリスト2名の殺害が朝刊のトップ記事だった。黒こげになった車が襲撃の生々しさを伝えている。その中の1名はベトナム戦争を取材した数少ない生き残りであるという。今回のイラク行きは、戦闘に巻き込まれて左眼に傷を負った少年の治療を日本で受けさせようと訪れたのである。
 戦争報道、災害報道は危険な現場に身を置くものだから常に死と隣り合わせであることは避けられない。ジャーナリスト魂が時代の証言者としてその場に自身を赴かせる。対象に迫り、事実の断片から真実を抉り出すことに興味と使命を感じ、生命を燃やすのである。

 命を燃やすべきものを持つことは人間として幸せなことである。1度しかない人生に悔いがあるとしたら不幸なことであろう。命を賭けてそのことに燃え尽きることがあったとしても、それは満足な人生であるのではなかろうか。といってもそれは独り善がりの生き方をいうのではない。独り善がりは、他の犠牲の上に自らの利益を図る生き方である。自分がよければ人のことなど構わない、という人間に限って他人によって自分の利益が侵害されると猛然と反発するものである。自らに認めることを他人には決して認めようとしない。
 人間はエゴの塊で、醜く、浅ましいものだから人の誠意や善意などありもしない世迷い事だと切って捨てる人もいる。世の中の辛酸を舐め、ことごとく騙され、裏切られてきた人生の真実を言い当てているのであろうか。所詮人間は一人、恋人も家族も友人も信頼に値しないと。そこまで徹底的に懐疑を貫徹する生き方ならそれも一つの道かもしれない。その徹底さもなく、家族や近しい友人とは日常の便利さを妨げない範囲で付き合いを保ち、自分とは直接かかわりをもたない他人に対しては自己のエゴを押し通すのは手前勝手な生き方だと言われても仕方ない。

 この世に生を得て、生きて来るのにどれほどの人々の支えがあったことであろう。それを善意と認めたくないにしても、自分の利益を求めるという目的や行動の結果であったとしても互の支え合いが世の中を作っている。たんに自分の利益を求めることだけでなく、一人一人の関わりは他の利益をもたらすものでもある。一人一人のエゴ、生存することの欲望を認めつつも、他から支えられていること、そして何らかの形で他を支えていることが生物としての生存のあり方である。
 人としてこの世に生を得た以上、自分もまた、何か一つこの世に付け加えたいと思う。何か新しいもの、人の心に点火できるものを生み出したいと願った。

   メールが気になって、パソコンに電源を入れて開くとS子から来ていた。
 「お仕事のこと、それから柿沼さんのことでもご心配をおかけしていますからさぞご心痛のことでしょう。どうかあまり思い詰めなさいませんように。私はある程度考えて、それでぱっと結論を出す方だから気楽な生き方かしら。
 女は自然な流れに任せちゃうことが多いのかもしれない。きちんと論理立ってはいないけど、これも理に叶っているとは思うの。柔軟な考えが問題を上手く解決に導くことがあるでしょう。私は、そのことを此の頃よく考えるようになりました。」
 彼女らしい文面だなと思った。

 「うれしいメールでした。おっしゃるように問題に囚われすぎると身動きが取れなくなります。気持ちを自由にして考えることは大事だと思っています。自分の主張を押し通そうとすると必ず失敗してしまう。反発を受け、希望していたものとは逆の方向に動いていってしまうことがあります。
 これは自然の流れに逆らっているからでしょう。風に吹かれる柳や雪の重荷にも柔軟に対応する竹のようなものかもしれません。」S子の示唆がありがたかった。お礼のメールを送っておいた。

 柿沼と文学を語ったことを思い出していた。彼の考えでは虚構というのはたとい文学であっても好まないようだった。純粋なものの中に手段が入ることをひどく警戒していた。人生の真実を追究するのに形式的にも虚構を設けることが許せなかったのかもしれない。だから作者自身が自らをモデルとして自分の置かれている状況を生き抜くことが表現の原点であるべきだと主張する。
 彼の問題の捉え方には共鳴しつつも、私はもう少し実験的であってもいいと思った。実際の人生は、経験できる範囲が限られたものであるから実人生で体験できないこと、そのことを創作という舞台ならいろいろな性格の人物設定ができ、人物がどのように振る舞うかを人物の身に添う形で共に行動できる。もう一つの人生を生きることが可能になるというのが私の考えであった。
 彼の文学は人生そのものであったろう。私の方法は人生を探求する方法論ともいえた。純粋さという点では、彼には及ばなかった。柿沼は実に純粋に物事を考える男だった。

 頭が冴えて、横になっても眠れなかった。考える時は横になっていることが多い。眠っているか、考えを廻らせているか、それとも取り留めのない考えを頭に浮かべては消えるに任せているのが常だった。考えを廻らせて、これでよしと一区切りつくのを見届ける頃には昼が過ぎていた。


29章 再編

 月末近かったので、集金に力を入れないといけなかった。梅雨を前にしていたが、雨が降らないので外歩きにはありがたい。土曜、日曜はお客が在宅ならほぼ集金に応じてくれる。今日も午後から丹念に1軒1軒残らず回ると8割くらい集めることができた。一つの目安を越えると、先が見通せるので気持ちにもゆとりがもてるのである。
 夕刊前には店に行き、集金額を調べ、証券の控えと集金を主任に渡し終わるとひとまず業務から解放される。

 仕事の内容は一見、同じことの繰り返しに過ぎないが、内容はそれぞれに違っていた。同じ新聞代金でも何回も通ってやっと回収できたもの、給料前で小銭を集めて払ってくれたもの、様々だった。
 この集金業務の中にも世の中を巡るお金の流れ、人情が付随しているのを知る。雑貨を売っているおばちゃんの渡してくれたお札には汗がにじんでいた。手に汗して働いたお金を実感させてくれるのはこんな時である。金額以上のもの、額面の金額によっては量られない労働、汗に滲む献身の姿をそこに見出した。
 金によって人の価値が量られるのが世の中である。商売ということではそうかもしれない。しかし労働の結果、人間の営為が金銭の価値を裏打ちしているのでなければマネーゲームでしかなく、人間は物を買うための道具にしか過ぎない。

 いつもの時間に発送車が来て紙取りをし、配達区域に紙分けをする。それを各家庭に一定の時間に新聞を届ける。それだけの仕事である。このサイクルがあるから読者は家庭にいながらにして真新しいインクの匂いのする新聞を読むことができる。新聞社は取材し、原稿を編集整理してコンピュータで組版されたものが輪転機に掛けられ、大量印刷された新聞がトラックで販売店まで発送される。
 世の中はすべからく、このような互いに関連する網の目のような仕組みで支えられている。何が必要で、何が必要でないということはない。その時にあるものは、それなりの意味があって存在している。ただ時代の移り変わりで、自ら脱皮しないものは時代に淘汰される。新聞販売店は、今後どのように変化を遂げていくのか、それは販売店というより、新聞社のあり方に関わる課題でもあるだろう。

 販売店の時間は正確である。どの会社よりも配達業務に集中する時間がはっきりしている。どこかが狂えばシステムに支障をきたし、新聞の標榜する社会的使命は音を立てて崩れる。それは同時に新聞社の営業利益にとっても大きな打撃となる。特ダネ競争と販売競争に鎬を削る新聞社は、販売店が過当競争によって内側から食い破られていくのに気がつかない。それは白蟻が巨大な建物を土台から崩していくのに似ている。
 販売店の分割は、身体の細胞分裂のように新聞社の販売組織を維持していくために宿命付けられたものであるかもしれない。新聞業界で生きていくためには、巨大な流れに逆らうことなど無駄な抵抗なのだろう。銀行業界、流通業界などあらゆる業界で再編成が進む。時代の動きであろうが、人間の姿が一向に見えてこない。業界の再編成って、人間は背後に後退してしまったのだろうか。分割の問題に直面して、この業界の行方を考えざるを得なかった。

 「店員会議では、どう訴えたらいいものかね。」
 野球帽を被ったNさんが配達から帰ってきて、会議のことで話し掛けてきた。
 「特別のことでなく、私たちの実情を話す意外にないと思いますが。」
 たしかに大きな岩に素手でぶつかるようなもので、私とて無力感はどうしようもなかった。
 「給料は上げてもらいたいけど、それがだめならせめてベースダウンだけはやらないでほしい。仕事がこれ以上きつくなるのは、もう限界だし。」訴えるようにNさんはいう。
 「何故分割なのか、分割は撤回できないものかどうか。それがだめなら条件闘争になりますね。闘争というか、話し合いによる交渉ですが。直ぐに分割といっても、これだけは飲めませんから、時期をできるだけ先に延ばすようにし、労働条件も今と同じになるように求めていかなければならないと思います。退職金や、新店舗に赴任する店主のことも説明してもらう必要があります。」
 だれでもこれくらいは聞きたいし、本社の説明を求めたいと思われた。

 店の後片付けを終え、明朝配布のチラシを各地域に分け終わると早めに店を後にした。明日は久しぶりの交代休みなので、朝はゆっくりできる。大衆食堂に寄り、豚カツ定食を食べた。キャベツが山盛りにあるので、野菜不足も補える。部屋に帰ると疲れがどっと出た。
 冷蔵庫の缶ビールは、もう1本残っていたので、それを取って足を投げ出す格好で座ると蓋を開けてそのまま3分の1ほど飲み干した。清涼感が喉から胃へと下りて、ホップの苦味が舌から頭の先へと伝わって行く。

 夕刊にはイラク2邦人襲撃の続報が載っている。紙面をゆっくり眺めながら朝送ったメールの返事が来ていないか、パソコンを立ち上げるとS子からの返信があった。
 「私のメールをそんなに喜んでいただけるなんて、よかったです。気持ちを楽にたもつのは私の得意なんですよ。ある程度考えたら後は自然に任せる。そうすると自然になるようになって行きます。落ち着く所に落ち着くということでしょうか。
 けっこう、私はいい加減なところがあるのかもしれませんが。よくいえば、楽天主義なんでしょう。ものごとをよい方へ、よい方へと考える習慣がついているような気がします。こんなことしかお話できませんが、あなたの気持ちがいくらかでも安らぐならうれしいです。」
 伸びやかなS子の感情がぎすぎすした神経には心地よかった。

 「とても気持ちが広がり、明るくなりました。どん底の時には楽観主義が救いになりますね。あれこれ思い煩うより、よい方に考えをもっていくことが思考力を強め、集中することができるようになります。とてもいいアドバイスです。ありがとうございました。
 明日はしばらくぶりに交代休日が取れました。あなたの都合がよければ、お会いしてお話したいと思っているのですが。私の方は午後3時ごろからは空いていますのでJR上野駅公園口でいかがでしょうか。それまでには集金も終わることができますので、あなたのご都合をお聞かせいただければと思います。」
 S子とメールのやり取りが続いたので、ぜひ会って話をしたいと思った。
 「メールを拝見しました。私の都合は大丈夫です。午前中は買い物や家の片づけがありますが、3時以後ならOKです。ゆっくりお話できるので楽しみにしています。上野駅公園口、3時ですね。」彼女からメールが来たので、確認の返信を送った。


30章 真情

 朝から日が照りつけ、昼近くには気温もぐんと上がっていた。日曜の集金は午前11時頃から始める。出掛ける人は朝も早いが、たいてい朝はゆっくりしている。昼近くの集金が適当で、午後も3時頃までが最適な時間帯ということになる。これまでに8割方は終わっているので、S子との約束までには十分な時間だった。昼はゆっくり昼食を取り、2時過ぎには集金を終えて店で集計し、納金を済ませた。

 3時少し前に上野駅公園口に着くと、間もなくS子が濃紺のスカートに白いブラウスのすらりとした姿を改札口に現した。私を見つけると、
 「どうもお待たせ。」といって、右手を少し上げ、色白の顔で微笑んだ。昼間彼女を見るのはK病院で再会した時以来であった。亜麻色の長い髪が肩の辺りで緩やかに曲線を描いている。顔の向きを変える時、イヤリングが光った。夜会った時には落ち着いた女性の印象だったが、昼間はそれとは違った華やかさがある。

 「すっかり印象が違いますね。」そう話し掛けながら彼女を促し、公園に向かって一緒に歩きだしていた。
 日差しが強かったので、上野国立西洋美術館の前を通り、どこか木陰を探して休むことにした。広場には子供連れの家族や、若いカップルの姿も見えた。鳩が人を恐れるふうもなく、広場を餌を求めて歩きまわる。時々、驚いたようにぱっと羽ばたいて低空を舞う。そんな様子を見やりながら右手奥の噴水の方へ並んで歩いた。近くのベンチに腰を下ろすと噴水の向こうに東京国立博物館のコンクリート建築が、瓦屋根を乗せた帝冠様式の落ち着いた雰囲気をたたえている。

 「ここなら見通しがよく、ゆったりできますね。」S子を見ながら、風が少し出てきたのを感じていた。
 「ええ、いくらか涼しくなってきたみたい。今日は特別暑かったわ。」ハンカチを取り出し、額と頬を軽く押さえ、笑窪のあたりもそっと触れる。その指先は細く伸び、マニュキアが透明に艶やかな光沢を帯びていた。何もかも新鮮な輝きがある。噴水に目をやりながら、
 「明日、店の分割のことで本社から説明に来ることになっています。この時代ですから、どこの職場も楽なところはないですね。」と話すと、
 「職場の人間関係もいろいろあるけど、分割なんてもっと大変なことでしょう。私の職場では、まだそのようなことはないですが、医療事務の合理化はどんどん進んでいますね。」S子の仕事の話はあまり聞いたことがなかった。
 「世の中便利になったものの、すべて機械的、事務的に処理されていくのはどうなんでしょう。人間をもっと大事にしてほしいですね。」私が言うと、
 「ええ、柿沼さんもあなたと同じようなことを言ってました。医療に携わっていると特に感じます。大きな機構の中で事故が起こって、合理化だけを考えると患者さんのことを見失いがちになりますね。生命を最も大切にしなければならない所で医療ミスなど辛く、悲しいことです。」
 S子も職業上の悩みを抱えていることを知って、私は胸をつかれた思いだった。

 「あの噴水を見ていると思うんです。今は噴水が上がっていますが、しばらくすると止まり、また再び間欠泉のように噴き上げます。人間は一人一人、みんな自分の心の中に間欠泉を持っているのかもしれませんね。どんな思いが渦巻いているのか、誰も分からない。本人自身にも分からないかもしれません。それが、今噴き上げているようにいつか誰の目にも見える形で現れてくるのでしょう。」
 「ええ、そうかもしれませんね。一人一人の思いが交差してその結び目にさまざまな人生模様が織り成されているのでしょうか。あなたと出会えたのは彼が居たからですが、目に見えない形で人と人とは細い糸を互いに織り合っているような気がします。」S子の瞳が私を見て言った。

 「不思議な気持ちがします。柿沼を通してあなたのことを少しずつ分かる糸口が与えられていました。そしてあなたにお会いして、柿沼のことがだんだん分かってきました。おかしなことなのですが、柿沼のことを知るに従って私は自分自身のこともよく分かるようになって来たということです。」そういってS子を見つめると、彼女は首をすくめる格好をして笑った。
 「あら、それじゃ、柿沼さんは私のことをどう思っているのかしら?」悪戯っぽく尋ねる。

 「たぶん、あなたのことを最も純粋に理解していると思う。その理解は深い感情に基づく理解で、あなたの存在を丸ごと担っているはずです。愛という言葉は皮相的に見えてしまうので、使いたくないのです。」
 言葉で何かを表現しようとする時、幾許の含羞がある。S子の顔が美しいからというだけでなく、眩しく見えた。
 「それって、愛の告白でしょ。」ちらりと私の顔を見て、噴水が再び吹き上がっていくのを眺めながら言った。単刀直入に言われて、答えに詰まり、しばらく頭の中でどう答えようかと考えをめぐらせた。

 「たしかに柿沼があなたに対して愛の告白をどのような形でしたのか、あるいはまだ心の内に秘めたままなのか、それは知りません。でもこれが彼の本心であることは私には分かります。」柿沼の心を言ったのだが、それがそのまま私の心の表明であった。もし、柿沼がここにいるなら私もS子が好きだと言えただろう。心を許す友人として彼もまた私がそのように言うことは許してくれるはずだ。

 「彼からはまだ、はっきりとした形では告白がなかったわね。私は直感も大事にするから彼の気持ちを分かっていたと思うのよ。でも愛の気持ちを言葉に包んでそっと渡してほしかった。」
 S子の心のかすかな振幅を思った。
 「その微妙なところが言葉にするとなるとほとんど不可能になるようです。彼は言葉に表そうとして言葉からこぼれ落ちる真実を伝えることに自身が絶望したところがあったのでしょう。言葉は恐ろしい力を持っています。いったん言葉を吐けば自分自身を縛ってしまう。人間は言葉によって自由を得ると同時に束縛もされる。そうすると実に困ったことに出口がなくなってしまいます。」
 私もまた、柿沼の困難を感じていた。青葉を茂らせる桜の木を、夕風が吹き抜け、梢の葉を揺すって行く。

 「そうね、私は現実的な女なのよ。今になって思えば、こんなとこにちょっとした行き違いがあったと分かるんですけど。私も少しは賢くなったかしら。今だったら言葉に表れない言葉もいくらか分かる気がします。」
 夕日が陰るまで、話は尽きなかった。メールでの会話の隙間を埋めるように1本の糸はもう1本の糸と撚り合わされ、小さな織物に織り上げられていった。

   噴水を背に広場に向かって歩き、そのまま両側に桜の樹木を見て、真っ直ぐ行くと西郷像を左手に階段を下りると中央通に突き当たるのだが、途中で右手に行くと不忍池に通じる道がある。その石段から不忍池が見渡せ、池の中ほどにある弁天島には弁天堂が、その後ろに東天紅のビルが見える。
 弁天堂を通り過ぎるとボート場があり、鴨が何羽か集まって羽を休めている。ボート場から貸しボートに乗って、二人はボート池に漕ぎ出した。オールを漕ぎ慣れていないので、水を掴めず舟はなかなか前進できない。舟は大きな円周を描いて回転する。
 ボートが揺れる度にS子は悲鳴をあげるので、その様子を笑いながら何度か繰り返すうちに漕ぎ方のこつが分かってきた。ボートは舳先で水を左右に分け、前進していく。池の中央からの風景は、視界が開けてまるで別の光景を見ているように思われる。

 40分ほどゆっくりと池を巡り、それからボートから上がると遊歩道を歩いて池之端の中華料理店で夕食をすることにした。
 季節のお奨めメニューは真菰茸の二種味盛合せだった。運ばれてきた料理は真菰茸のフリッターと、真菰茸と牛ロースの細切り醤油味で、真菰茸のしゃきしゃきの食感が涼味をもたらす。
 「今日はゆっくりとお話もでき、ボートも楽しかった。」とS子はうれしそうにしている。彼女といるだけで、何か気持ちが弾み、心が温かくなってくるのを料理を味わいながら思った。
 「こんなに心が打ち解けることができたのはここしばらくなかった。」
 うれしさが込み上げて、彼女に笑顔を返した。
 「ええ、それは私も同じよ。お会いしたのが屋外だったせいかしら。噴水が心をとても解放してくれたわ。」
 「同じ時間と場所を共有できることで安らかな気持ちになるのでしょう。私にとって大切な1日になりました。」何者かに感謝したい気持ちだった。

 「あなたは優しいのね。何のこだわりもなく自然にお話ができます。私はあまり考えることなく話しちゃうので、相手の人を傷つけてしまうことがあるかもしれません。思うままに振る舞ってることがありますが、我が侭に過ぎないんでしょうか?」
 「自然にというのは、本当は難しいことなんでしょう。それができれば、聖人君子の理想とした振る舞いですから。一見、我が侭と同じように見えても全く違うものでしょう。思うままに振る舞って何の不都合もなく、自由である。それができれば素晴らしいことです。」
 「そうよね。世の中、自由と自由がぶつかり合って、不自由なことばかり。口で言うほど簡単ではないわね。」S子は納得したというようにうなずいた。彼女とは幾らでも話続けられるように思われた。
 食事を終え、しばらく話が続いたが、今日は私の会計にして、とS子は言う。
私は、それを留めてレシートを持ってレジへ向かい、支払いを済ますとドアの外に出て彼女を待った。

 外は昼の暑さはおさまっていたが、それでもいくらか蒸し暑さが残っていた。不忍池の夜風に吹かれたくて、彼女を誘って水上音楽堂の前を通って上野駅へ肩を寄せて歩いた。辺りはもう暗くなったいた。彼女の白い横顔を見ながら何時までもこのまま歩き続けたいと思った。
 昼間、S子に柿沼の気持ちを代わりに話したが、あれは自分の気持ちであった。直接告白することに何か後ろめたさを感じていたから、あのような形を取ったのである。
 勘の鋭い彼女にはすでにお見通しであったかもしれない。それを信じるしかないことが、唯一の心残りであった。そのことを考えると無性にやるせない気持ちがして、柿沼に対する後ろめたさともつれ合い、心の中で激しく葛藤しているのが分かった。しかし、私の真情からするならこのまま曖昧にしておくのは、S子に対しても誠実さを欠くことであるのを知っていた。

 彼女の歩く動きにつれ、かすかに甘い匂いが夕闇の中にして、漂う心が手繰り寄せられていくのを感じた。彼女の白い顔が振り向いて、闇の中に浮かんだ夕顔の花を思い浮かべた時、抵抗する術を失っていた。
 この消え入りそうに不安でそれでいて強く求めて止まない、胸の奥の痛み、それをひたすら知って欲しいと願った。我知らず、彼女を引き寄せ強く抱きしめていた。S子は、驚いたようにちょっと抵抗したが、直ぐ力が抜けていった。そのまま、高鳴る胸に衝き動かされるように唇を重ねていた。
 二つの存在を隔てる深い淵に身を捨て、そこから再び飛翔してくるにはどのくらいの時間だったのか、あるいはほんの短い出来事だったのかもしれない。この一瞬が遠い昔のようでもあり、遠い昔に出会ったのが今こうして再び彼女に巡り会っているようでもあった。
 この瞬間を私は悔いてはいなかった。ただ、真実のみがあった。如何なる邪念もこの瞬間にはなかった。彼女は顔を起こすと、私の瞳をじっと見つめて、「これでいいのね。間違いではないのね。」と言った。私は黙ってうなずいた。言葉は要らなかった。並んで駅の方に歩いた。
 改札口で「それでは気をつけて」と溢れる感情が込み上げて、「今日はありがとう。おやすみなさい。」という彼女の瞳にひたすらな思いを込めて見送った。


31章 生死

 柿沼はS子を諦めきれずに、しかし、諦めたという。男と女の感受性の違いというか、思考方法の違いが当人にも気づかれないズレとなって齟齬をきたすのである。ボタンの掛け違いなら始めからやり直すこともできただろう。
 真面目であればあるほど自分の真面目さにいっそう確信を深めて、ついにその溝を埋めることが困難になることがある。彼らはまさにそれであった。S子には分かり始めていたが、柿沼が自分自身の呪縛から解き放たれていたかは私には知る術もない。

 柿沼から送られた手紙は、彼の生死に関わりなく、その内容が私に対して遺書として迫るものであった。”生きようと苦しむ自分の命は、どこから来てどこへ去ろうとするのか、死による消滅は命そのものの消滅なのか”と反問するのであった。
 仮に死によって全てが終わるのであるなら、生きたいように生き、したいようにするのが存在にとっては合理的なのではないかと思われた。そこには存在そのものが要請する道徳律はなかった。ただ、社会の法が法に反するものを許さないというに過ぎない。法の網にかからなければ、如何なる悪徳も社会の中でのうのうと生き延びることが可能なのである。
 このような観点からは戦争さえも悪として糾弾されることはなく、法という御旗を掲げれば人を殺すことも正当化される。この問題に行き着いた時、私は柿沼の抱える問題の根深さに慄然とした。
 生命の奥深い暗部でマグマのように煮えたぎり、恐ろしいエネルギーとなって意識を突き破ろうとしているかのようだった。生きることを強いられているのか、深海目指してその深さを量る測鉛が私には必要だった。
 測鉛を自らの内に投下してみる。その行為が単なる衝動に駆られたものであったのか、正当化するための言葉をあれこれ探しているのか、自問自答する。衝動であったことは否定できないが、衝動の中にS子に対する思いがあり、その思いは命の底から噴き出す思い、止めようのない力、生きることそのものであった。善いとか、悪いとかでもなく、この世に存在していることそれ自体である。
 存在が許されるならそのような衝動は誰人も否定し去ることはできない。心の欲求に耳を澄ますことで、自分自身の心のありよう、心の方向が手段としているのでなく、生命に対して目的として向き合っているのかを問うてみる。

 己に問うて、己と他を目的として手段としてはいなかった。結果がどうあろうと自分の選んだ道に悔いはなかった。
 諦めるということではない。それは自分の生き方を捨て去ることであるからだ。諦めきれないということでもない。執着しても詮ないことに執着することが諦めきれない心だと分かる。執着すべきことに心を向けることは、己と他を目的として生きることであった。その中に囚われの心、執着の心も生かされている。
 生きることの源として衝動も、命の中に含まれている。それはあたかも水晶の中に取り入れられた草のように一つの命、草入り水晶として存在している。
 泥中に咲く華のように、汚泥にまみれたとしてもこの世は美しく、唾棄すべきだとしても愛しいものである。人の世は善と悪と両面ながら相照らし、幸と不幸を糾う。生きていることが生と死をその内に秘めている。


32章 会議

 明くる月曜日は、店員会議であった。担当員の都合や集金時期でもあったので正午に店に集合せよとの連絡が主任からあった。
 10分ほど早めに店に着くと、所長、主任、担当員は既にいて打ち合わせをしていた。ほどなく、Oさん、Aさん、Nさんを始め、学生店員もやって来た。

 「腹が減るよな、昼飯でも出るのかな。」
 Oさんが、腹が減ってたまらないという顔をする。
 「この時間では、食事が出るんじゃないですか。」笑って私はOさんに答えた。
 「何か緊張する。親爺さんも居るんじゃ、ずけずけ言いにくいね。」
 Nさんが困ったという表情で言う。
 「それは、親爺さんも承知なんだからいいたいことは言いましょう。つまり梅雨入り前の今日の夏空の心ですね。」ゆっくりと寛げるように話題を変えた。
 「宮田君は、うまいことを言うね。」Oさんが相槌を打つ。
 「そんなことはないですよ。Oさんの迫力には敵いません。」
 日頃はあまり話さないAさんが、
 「今日は、いうべきことは言わしてもらおう。こんな機会はもうないかもしれない。」いつもと違っていた。
 「Aさんが一言いえば、説得力が違いますね。」
 いざとなると筋道だった話をするのがAさんであった。

 12時になると主任が「もう、みんな集まったかな。昼時なので食事を頼むけど何人いるか、数えてみてくれないかな」という。16人に所長、主任、担当員の3人を加え19人分、カツ丼を注文した。
 「今日は本社販売担当のTさんに来て頂き、店員会を開くことになりました。 その前に昼食にカツ丼を注文してあります。後30分もすれば来るはずですが、それまで一人一人の自己紹介をして待ちたいと思います。」
 そういって店員会が始まった。そうこうしているうちにカツ丼が届いたので、昼食となった。

 皆、空腹だったのでしばらくは無言で箸を動かし、食べ続ける。所長も、主任も、担当員もむしゃむしゃ口を動かしている。Oさんが急いで喉に詰まったのか、目を白黒させ、右拳で胸をどんどん打つ。湯飲みのお茶を一口飲んで落ち着いたようだ。飯を食う時は誰も同じで、だから同じ釜の仲間はいつでも心の通う共通の土台がある。10分もするとどの丼も空っぽになっていた。


 5分ほど休んで、いよいよ、店員会議の本題に入った。
 「今日は月末で集金など忙しい所、また担当員のTさんにも無理を押してお出でいただき、店員会を開くことになりました。本販売店の分割に関して説明すると共に皆さんのご意見、質問なども承りたいと会議を開くことになったわけです。
 本社の方針として新聞増紙の為、新聞普及率等も勘案して更なる読者サービスと顧客管理のためには本販売店5000部を3000部とし、新たに2000部を新店舗に分割するという案です。かねて半年前より本社から話がありましたが、店員の皆さんの生活にも直接関わることでもあり、慎重に考えたいとの思いから返事は今日まで延ばさせて戴いています。
 そこで改めて本社側から説明を戴くために本日、担当員のTさんにご足労願ったわけです。まず、そのことをご説明していただき、そのうえで皆さんから質問、要望などを出していただきたいと思います。」
 所長が大要話し、担当員に話を引き継いだ。

 「今、所長さんからご紹介いただきました担当員のTです。いつも皆さんには配達、集金、拡張と日夜並々ならないご苦労を戴き、本当にありがとうございます。本社を代表しまして厚くお礼申し上げます。また、学生の皆さんには、仕事と勉学の両立ということで人には分からぬ悩みや、苦しみもあることでしょう。4年間という短いようで、長い年月を雨の日、風の日、雪の日も欠かさず配達に邁進されることに対して、深く感謝し、その目的とする学業を立派に果たされますよう念願しております。
 さて、所長さんにもご心配戴いております分割のことですが、読者サービスと、販売の推進という観点から本社として逐次推進している事業であります。営業基盤をさらに強固なものとし、販売店とも共存共栄できることを目的としたものでございます。この点はぜひとも、ご理解いただきたいと思います。
 皆さんのお立場もよく存じております。いままで一緒に働いていた職場の仲間が、新店舗に行かれるメンバーも出てくるわけですから、その方々にとっておいそれとは受け入れ難いことでしょう。
 本社としましても、その移行を何とかスムースにできるようできるだけのことはさせていただくつもりです。皆さんのご希望、ご要望をお聞きして可能なものは取り入れさせていただきますので、ひとつよろしくお願いします。」
 担当員は丁寧に挨拶した。

 「それでは、何か聞きたいこと、申し入れたいことがあれば自由に話してください。2時頃くらいまでは時間がとってありますから。」と主任が司会を進める。
 「お話を伺って本社の方針は分かりました。ただ、読者サービスや、読者管理のためなら今の体制でも十分にできるのではないかと思います。分割しなければならない理由が今ひとつ分からないので、お願いします。」
 Aさんが、口火を切って質問した。

 「これはご存知の方も居られると思いますが、地域でどれくらいわが社の新聞を読んでくださる読者が居るのか、統計を取っています。この店のように5000部というように多くの部数を抱え、しかも配達区域がかなり広範囲になると同じ販売店といっても読者層に違いが生じます。
 この店でも比較的住宅の多い所、商業地域、ビル街など地域性の違いもあります。それで、広い区域になればなるほど読者数を世帯数で割る普及率は平均化されたもので地域の実情を必ずしも反映しているとはいい難いものとなります。
 そこで販売の基本部数、つまり基数という考え方になるわけです。分割によって普及率が基本部数にそれだけ正確に反映されることになるからです。普及率の高い所は基本部数が多く設定され、普及率の低い所は少なく設定されます。そのへんの調整も分割を進める理由なのです。よろしいでしょうか。」

 「経営の安定化を図るために新聞の購読者拡張を推進しなければならないのは分かります。けれどもそのために販売店だけが一方的に負担を強いられるのは納得できません。今の基数の話も販売店にとっては死活問題になりますよ。」Aさんが続けて質問する。

 「たしかにお店にはご負担をおかけしているのは重々承知しています。ただ、基本部数に関しては販売店の経営、本社の販売方針と両面から合理的に検討した結果ですからこれは納得していただきたいと思います。本社も皆さんから支援していただけるようこれからも鋭意取り組んで行くつもりです。」
 担当員は基本方針を繰り返した。

 「すると分割の方針は変わらないわけですか。考える余地はないのでしょうか?」私が再度、分割方針を確認した。

 「ええ、これは全社的な決定でして、私の一存でどうなるものではありません。ただ、所長さんのおっしゃるように皆さんの生活に直結することでもありますから、時期については多少幅を持たせることは可能です。本社として6月中にという意向なのですが。」担当員が妥協案を提示する。

 「Oさん、何か聞くことはないですか。」黙っているOさんに質問するように話を向けると、
 「いいよ、いいよ。別にない。」と口をつぐんだ。
 「それじゃ、お聞きしますが、分割の時期をどのくらい延ばせるんですか。1年くらいでしょうか。そのくらい伸ばせるなら生活の計画も立てやすくなりますが。」と詰めて聞くと、

 「1年先というのは無理です。もう既に半年は伸びているわけですから。2ヶ月くらいですね。」担当員が提示する。
 「たった2ヶ月ですか、それではなんにも計画はできませんよ。身の振り方を真剣に考えなければなりませんからね。私も来月にはアパートの契約更新を控えています。割賦代金を月々払ってもいます。考えたくないですが、最悪の事態を考えたら2ヶ月では余りにも少なすぎます。他の方の意見も聞いてほしいですが、最低でも6ヶ月は譲れない所です。」
 働くものにとって職場転換、労働条件の変更は深刻な問題である。

 「6ヶ月ですか、長いですね。9月からではいかがでしょう。」1ヶ月プラスして3ヶ月先伸ばし案を担当員が出した。
 「9月は大学の学期が始まることもありますから、学生にとっては落ち着かない時期ですね。12月は年末で販売店としても業務が多忙になりますから11月からということなら所長も受けやすいかもしれません。」と妥協案を提案してみた。

 「この件について、所長さん、いかがでしょう。今の意見も参考に、後ほどのお話で決めさせていただきたくということで。」担当員は所長の顔を見ながら聞く。
 「ええ、けっこうです。その他の要望も聞いて皆が納得してくれれば私には依存はないです。」と所長は話を戻してくれた。
 「他に聞きたいことはないですか。」主任が発言を促した。
 「あのう具体的にどの地域が新店舗となるのですか?」Nさんが心配そうに聞く。

 「そのことは私から言おう」と所長が、「1区から11区までが今まで通り、この店に残る。12区から20区までが新店舗になる。細かなことは改めて該当者に説明するが。」と新店舗となる区域が発表された。一同にざわめきが広がった。主任が、まだ話が終わってないので一通り皆の意見を聞きましょう、とその場を治めた。

 「新店舗の所長は、○○さんが就任することになっています。時期がもう少し近くなったら新店舗に行かれる方には引き合わせることになります。」と担当員から話が進められた。
 「私は新店舗に移行となります。新聞奨学生ですが、労働の条件は今と変わらないのでしょうか? 今は、朝夕刊の配達だけです。集金が追加されると困るので、伺います。」Y君が手を上げて質問した。

 「それは大丈夫です。集金することは希望すればできますが、君は配達だけがいいわけですから引き継ぎの時には私も立ち会いますので、その旨、新店主に申し入れてください。」担当員が約束した。さらに続けて、
 「新店舗に移行される方の給料や、休日などは原則としてこれまで通りということです。これは私も立ち会って、新店主にも約束させますから安心してください。その上で何か問題があれば、何時でも私の方に言っていただければ対処させていただきます。」と担当員が当面の労働条件に関しても保障した。

 「これを機会に退職する場合、退職金などはどのようになるのでしょうか?」私が聞くと、
 「なるべく引き続き働いてもらいたいのが私の気持ちだが、いろいろな事情で去る人もあるかもしれない。これは主に専業店員に関係するわけだが、給料の一部と店、本社の双方が補填して功労基金を積み立ててあるので、これが退職金となる。だから心配しないでも大丈夫だ。」と所長が説明した。
 そのほか何人かが質問や、要望を出し、主任がそれをノートに記録して店員会議は2時少し前には終わった。

 その後、所長が専業店員だけ残るように言い、
 「新店舗に誰か一人行ってもらうことになる。希望する人がいればいいのだが、そうでなければそれを決めなければならない。今すぐというわけでもないのでよく考えておいてもらいたい。」と告げた。


最終章 月光

 夕刊まで少し時間があったので、そのまま月末集金に出かけ、夕刊前には店に戻った。残りの分は月初めに完了する目途がついた。Y君がやって来て、
 「私の担当区域は新店舗になるんですけど、先輩はここに残るんですか?」と訊ねる。
 「専業店員のうち行くのは1人だけど、まだ誰がとは決まっていないよ。」彼を見ながら言うと、「できることなら先輩と一緒の処がいいな、でも無理は言えませんよね。」と軽く笑った。
 「まだ先のことだからくよくよ考えることはないよ。」そう言って彼を慰める。

 新店舗にと言い渡された店員は、まだ気持ちの整理もついていなかっただろう。職場の中は、2つのグループに分かれたような雰囲気が生まれていた。日常の業務は今までと変わることなく時間通りに進められる。ただ、店員の間にも何となく余所余所しいものがあった。職場は緊密な人間関係があるだけにほんの僅かなことでも波風が立つものだ。あれほど家族的な店だったのが、いつか隙間風が心の中を吹き抜けて行くのを感じた。

 「聞いたかい? 10月に分割だと。」Oさんが、赤ら顔をさらに赤くして言う。店員会議の後、所長と担当員の話し合いで、分割は10月と決定された。4ヶ月先には、この店舗が分割されることになったのである。
 「いえ、集金から帰ったばかりなので・・・。10月ですか。」と私が応えると、「向こうに一人行かなくちゃならないけど、俺は嫌だな。誰か希望する者はいないのかね。宮田君はどうする?」と聞く。

 「そうですね。どうしたものでしょう。」と答えは保留にしておく。
 「いよいよとなったら、籤引きかな。貧乏籤だけは引きたくないもんだ。」Oさんは、困ったものだという顔をする。そんなところにAさんがやって来た。 日頃あまり喋らない人なのに今日ばかりは鋭く質問してくれた。私は、
 「分割が10月に決まったそうです。仕方ないですね。」と声を掛けた。
 「11月でなくて、10月か。所長と担当員で決めたことだろうから仕方ない。君もだいぶ粘ってくれたんだけど、本社の壁は厚過ぎる。」と諦めた顔で私を見て言う。

 「Nさん、10月に決まったよ。」鳥撃ち帽で入って来るのを認めるとOさんが知らせた。
 「10月って、ああ、分割の期日ね。」一瞬戸惑ったが、合点が行ったとNさんは、うなずいた。
 「ところで、この中から1人行かなきゃならんが、どうする?」皆の顔を見渡して、Oさんは俺は嫌だというように、「だよな、籤で決めるしかないよな。」と籤で決めることを提案する。
 「籤もあるけど、ゆっくり考えましょう。労働条件も同じということだし、まだ今日言われたばかりですから。」私はそう言って結論を出すのを引き取った。

 今日は夕刊の代配だったので、紙分けを終わるとそのまま配達に出かけ、店に戻って来たのは遅い方だった。順路帳を片手に不着に気を使うので多少遅くなるが、2回目ともなるとだいぶ慣れてきた。あの新人のY君も配達に関してはベテランの域に達していた。
 新店舗に誰が行くか、Oさんの気持ちは分かっているし、Aさん、Nさんも行きたくないだろう。籤引きで決めるのも互いに後味が悪い。私は、自分が行こうと決めていた。

   途中で夕食を済ませて、アパートに帰ると考えた。来月は家賃の更新で出費がかさむ。新店舗はどの辺になるのか、まだ分からない。少し遠くなるかもしれないが、家賃を更新すれば、このアパートから通うことになる。

 昨日のS子のことを思い浮かべていた。夕闇に浮かんだ白い花、ほのかな香り、胸の奥の痛みが、こうしていることが現実であることを思い知らせる。
 S子は割り切った考えをする。優しいのだけれど、どこかでけじめをつける。そのけじめのつけ方が合理的ともいえた。そして自然に流れていくからそれには逆らえない。彼女にはそんな不思議なところがあって、魔力のように人を引き付ける。
 未知なものに遭って、己の心に映った何ものかを見ようとするのだが、何も見出すことができず、茫然自失、ひっくり返された心を何処かに求めずにはいられなくなるのだ。この感情はものの本質を求めようとする哲学に似ているかもしれない。故郷を離れた者が落日の光に望郷の思いを深くするのに近い感情であろうか。
 この世にいきなり放り出された赤子が驚き、泣き声を上げるのは羊水の中から空気中という全く異なる環境に投げ出され、それに適応できない驚きでもあるだろう。羊水として満たされていたのが、突如として羊水が欠如し、代わりに空気が肺に入って来る。生きることは、このように欠乏を埋め合わせようとすることなのかもしれない。

 「昨日は、ありがとうございました。でも突然のことで驚き、心が乱れました。あなたの愛の告白はとてもうれしく思っています。ただ、柿沼さんの本心をもう一度聞かなければと思います。私は心の声に耳を澄ませ、その声に従って生きたいのです。あなたを好きですし、彼のことも忘れられない。今までならこんなに悩むこともなかったはずなのに、どうしたことでしょう。割り切ることなどできはしないのです。」
 S子からのメールを読んだ。その気持ちは痛いほど分かる。私も、柿沼にことの経緯を話さなければならないと思っていた。しかし、私の気持ちはすでに決まっていた。柿沼に、私のこの真実の気持ちを話そうと心に決めていた。
 話すことは苦しく、また柿沼はこのことを聞いてどのように思うか、生木を裂かれる痛みを覚える。だが、話さなければ友としての信頼を裏切ることになる。それだけは自分に許せなかった。

 「メールをありがとうございます。あなたの心を乱すようなことになったのは心苦しい。けれども私の心に偽りはありません。あなたの心を深く知っているつもりです。私にとってあなたは最も大切な人です。柿沼には話そうと決めています。どのような困難があろうとも彼には友として真実を打ち明け、私は自らの道を決めたい。心の声に従おうと思っております。」迷いはなかった。

 人は何かを手に入れようとして、何かを失う。その価値は手に入れたものによって量られるよりは、失ったものの大きさ、重さによって量られることの方が多い。健康を手にする喜びよりも、健康を損ねることでどれほど健康が大切であるかを知るのである。失うことによって手に入れるものもあるはずだ。柿沼は何を失い、何を手に入れたのであろうか。

 人は自分の命と引き替えに何かを得ようとしているのである。生まれてから最終章のピリオドを打つまで、命を削り、命の火を燃やし続ける。屠所に赴く羊のように一瞬先の我が命をも知らぬまま刻々と死に赴きつつ、この世の生を謳歌する。身に影の添うように死は身近に、刻一刻と変転する。生は人生の到達を目指す死の姿でもある。命そのものとして己自身を燃焼し尽くす姿なのである。
 時が来れば、枯れ木としか見えなかった桜にも花が咲き、露を受けて紫陽花はその色を変化する。花瓶に挿した一輪の薔薇も、青空高く舞い上がる雲雀の鳴き声も、清流に踊る鮎の姿もことごとく、時々刻々の命を刻む。千変万化するもの、ことごとく一瞬一瞬を刻みつつ、己の姿を留めようとして果たしえな い。ただ、命に刻まれるものだけが生と共に在り、死に寄り添うものとして在る。命の日々の記述、日記である。

 S子が話さなければならない柿沼は、今何処にいるのであろうか。柿沼の苦悩は私の苦悩でもあった。そして柿沼の遺した手紙がすべてを語っていた。
 日は静かに沈み、夕闇迫るビルの上には月がかかって、その光を地上に及ぼそうとしていた。一人一人が今日に生きる苦悩を抱え、自らも知らない深い闇に心を覆われていても、月の光は等しく注がれるのである。
(04.06.06)




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