生と死と
生老病死は、自分の努力では何ともしようのない事実である。自然、宇宙に生成発展の法則があるように、生老病死の法則に則って自己をいかに活かしていくかである。
宗教を信じるとは、宗教行為そのものである。宗教は勉強して分かるという面もあるが、行為の中で人間としてあるべき姿を体現していくことが宗教本来の目的であろう。
もし、その行為が社会に受け入れられないものであれば、その宗教は間違っている。その教えが正しいとすれば、行為者の方に問題があるのかもしれない。キリスト教、イスラム教、仏教の実践者の中にも犯罪者はいる。犯罪行為を犯した人に問題があるといえる。
人間の行為規範として宗教は必要であろう。人間が人間であるための自立の原点である。「汝自身を知れ」という。自省のため、自らを制するために哲学、宗教が要請される。
仏教の生死観は、誰人も避けることのできない生老病死の四苦を問題にする。
四苦八苦と言われる、その四の苦しみである。このほかに愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰盛苦あわせて八苦になる。
愛別離苦は愛するものと別れなければならない苦しみ、怨憎会苦は恨み憎んでいる人と会わなければならない苦しみである。
求不得苦は求めても得ることができないことによる苦しみ、五陰盛苦は、肉体と精神作用によってもたらされる苦しみをいう。
葬式などの儀式はほとんど意味をもたない。結局、自分として死に臨んだ時、どう対処するかを決めることであるから。ソクラテスのいう「死の学び」である。生きながら死を学びつづけることである。そこから他者への関わりも出てくる。
そのようなものの実践として宗教があると考える。仏教ならブッダにかえって、その根本のところを知る必要がある。ブッダが、説きたかったことは一体なんであるのかということである。
宗教は人間が生み出し、人間の幸福を実現するためのものである。自然、宇宙に生成発展の法則があるように、生老病死の法則に則って自己を活かしていくことであろう。自分を見つめることを放棄すれば、どのような思想、哲学、宗教であろうとそれに人間が隷従することになる。
宗教はアヘンなりといったマルクス主義もイデオロギー信仰の一種といえる。民主主義も衆愚政治の道具として利用されてしまう。
自力と他力とでは、自力が自分の努力とすれば、他力とは自分を超えた法則とでもいえる。したがって、自力と他力との合致に人間の生きる道が開けるのではなかろうか。
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