トップページへ戻る次へ


つれづれ随想2


「利き酒」「死者と生者の交流」「それはそうだが」「3000冊の読書」「旅は放浪」「独創性」「大分の頓知話」
 

利き酒

 お酒は般若湯ともいわれる。悪い飲み方をすると、般若のお面のようになるからか?
 般若湯とは禅でお酒のことをいう言葉、般若は知恵を表す。お酒を少量飲むと血液の循環がよくなり、頭の働きも軽快になる。いつもの固定した枠が外れて創造力が働く。こんな所から来たのかもしれない。
 お酒は週に2日休肝日を設けることが健康を守る秘訣といわれる。少々なら血液循環にもよく、精神的にもリラックスできるという効能がある。

 きき酒は「聞き酒」かなと思ったら、「利き酒」だった。
 聞香は匂いをかぐことであるから、酒の匂いをかぎ、その味の違いを知ることであろうと推測した。念のために「聞く」を辞書で引くと、(酒を)味わってみる、という項目があった。聞き酒でも利き酒でもいいことになる。
 ききざけ「聞酒・利酒」が載っている。─酒のよしあしを味わってためすこと。酒の品質、銘柄などを鑑定すること。また、そのための酒。(国語大辞典・小学館)

 利き酒には、お酒の色を見る、香りをかぐ、口に含むという行程がある。
 お酒の色を見るには、利き猪口を使う。猪口の底に二重の青い丸が描かれているので、青い部分と白い部分との境目で色を判定する。
 ついで香りをかぐ。この香りは果実や、花のような甘い香りがする。上にほのかに上ってくるような感じなので、「上立ち香」と呼ばれる。

 最後にお酒を口に含んで香り、舌触りを聞き分ける。まず口に含んだまま舌の上でお酒をころがし、香りをかぐ。お酒の基本的な香りで「基調香」という。
 利き酒師はこの時点でお酒を吐き出してしまう。沢山のお酒を試飲するので、酔いが回って判定できなくなるのを防ぐためである。飲みたいが飲めない、辛い所がある。このお酒はどこ産の、どこの銘柄のものか判断する。利き酒は、お酒を飲むわけではないのでお酒自体に強くなくても利き酒士にはなれるはずだ。

 普通はお酒を飲み込んだ後で、口から鼻に抜けていく香りも味わうことができる。このように3つの香りが同じような印象であれば、香りのバランスはとれている。
 味を試す。3〜6ml程度を口に含み、舌の部分と全体を使って味わう。舌先は甘味、舌の縁辺は酸味と辛味、舌根は苦味を感じる。「甘・辛・酸・苦・渋」の五味のうち特に強く感じる味を中心に総合的に判断していく。その印象を言葉に置き換えて表現する。
 利き酒は視覚、嗅覚、味覚、舌の触覚などの総合判断からなり、言葉によって仕上げられる伝統的な文化といえる。利き酒から発展して酒が酒を飲むようでは不味い酒になる。



死者と生者の交流

 夏のある日体は疲れているのに蒸し暑さと神経だけが高ぶり、床についても寝付かれなかった。目を閉じていると遠くで音がする。カランコロンなら牡丹燈籠の下駄の音? はや何時だろう。蛍光で光る時計に眼をやると軒先三寸下がる丑三つ時になろうとしていた。コツ、コツ、コツと次第に音が大きくなる。おやっと聞き耳を立てるほどに、その音はぴたりと止まった。人の気持ちを察知するかのように沈みかえる。忙しく打つ鼓動を一つ二つと数えながら数秒か、十数秒だったか。コツーン、コツーン、コツーンと耳に響いてくる。ギ、ギーときしむ音、白いものが窓越しに浮かんだような気がした。ぼんやりと闇に浮かんで見えるのは? ふと気がつくと階段を人が上って行った。

 怪談といえば蒸し暑い夏の夜の肝試しがある。その場所は墓場か、火葬場と決まっていた。山の火葬場では死体が焼かれ、魚を焼くように油がじゅうじゅう滴り落ち、ぱっと燃え上がる。爪を焼いた匂いが立ち込めていた。すべて燃え尽きるまで半日ほどそのまま放置して、熱気が冷めたころ骨を拾いにやって来る。杉の梢には烏がじっと獲物を待つように葬式饅頭を狙っている。
 土葬の土饅頭からはしとしと雨の降る夜など青白く燐が燃える。髑髏が訪れるものを待っているのか。肝試しは祖先に会い、自分に会う儀式であった。昔は人が人の肉を食う食人葬で魂をあの世に送り、死者が生者に甦るという祈りが込められていたのかも知れない。墓地は死者と生者との交流の場である。

 染井墓地にはお岩の墓もある。儚く散ったお岩さんも、桜の妖精だったのかの知れない。桜の木の下にはどんなものが埋まっているのだろうか? 花咲じいさんの愛犬シロだろうか。オオシマザクラとエドヒガンの交雑種としてこの世に生を得た染井吉野は花が咲いてから葉が出る。妖しいまで裸身の美しさ、羽衣を脱ぎ水浴びしている天女の危うさがある。実がつかずに終わる儚い命が風にたゆとう。



それはそうだが

感情の動物
人は感情の動物だ。だから理屈でやり込められると、つい反発したくなる。「将を射んと思わば、まず馬を射よ」との諺どおり、相手の心をつかむには感情に訴えることが大切だ。

おかしな点
刺繍の無色透明な鮮やかな彩りが目をひく。

屁理屈
父「携帯ばかりしているね。よくそんなに話があるもんだ。あきれるね。」
娘「何言ってんのよ。せっかく持ってるのに使わなかったら損じゃん。お父さんも、私と話をしたかったら携帯買ったら」

それはそうだが
「タバコは体に良くないからやめたほうがいいね。喫煙者はがんの罹病率が高い。周りの吸わない人にも害を及ぼす。」
反論
「嗜好の問題だよ。個人の好みまで禁止する権利は誰にもないはずだ。現に国家で販売を認め、税収源の一つにもなっている。」



3000冊の読書

 人の一生でどのくらい書物を読めるものであろうか。
 書籍、新聞、雑誌など膨大な出版物が溢れている。専門書、実用書、趣味・娯楽書、教養書などその分野も多岐にわたる。この他にインターネット上の電子情報もある。
 ちなみに年間100冊として、20歳前後から70歳前後までの約50年間とすれば、およそ5000冊が人の一生に読める本の数ということになる。これは一般人にとって可能な最大限の冊数であろう。普通は仕事や、病気、いろいろな付き合いなどで時間が費やされることを考慮すれば、3000冊程度が平均的なところかもしれない。

 世界に存する数千万冊の書物、日に日に出版される書籍からすれば3000冊は取るに足りない数である。学者であろうとも目を通すのはせいぜい数万冊程度であろう。必要な項目をコンピュータ検索で済ますならそれよりはるかに少ない冊数でもそれなりの仕事はできるかもしれない。ここでは仕事を持ち、普通に生活しているサラリーマンを対象に考えてみる。
 限られた時間に何を読むか。逆にいえば何を読まないかということでもあり、取捨選択である。乏しい読書体験からすると、5、60冊位読んでも砂漠の砂に水で頭には何も残らないような気がした。本は読んだが、中身が全く脳裏にないのである。これは衝撃であった。徒労感が空しく残った。
 100冊くらい過ぎると本の読み方が変わってきた、というより工夫するようになった。一度読み終えたら、はしがき、あとがきなどもう一度読み、目次から全体を辿ってみた。こうして少しは記憶に留まるようになった。
 ともかく乱読した。小説、政治、経済、科学、文化史、戦史、戦術論、忍術、兵法書、 毒薬、ヤクザ、売春の歴史など所謂硬いものから柔らかいものまで幅広く耽読した。余り褒められた読書ではなかった。

 どのように読むか。気の向くまま、興味に任せて本を読むことも楽しい。しかし、本格的に読書しようとするなら著者の意図、訴えたいこと、思想、表現の特徴、背景は何かまで読み取ることが必要となる。人生の糧としようと決意するなら本の読み方は疎かに出来ない。これはその人の生きかたそのものにも関わることである。
 その手がかりを得るには「はじめに」、「あとがき」を読むことである。作者が本を書こうとした意図なり、目的が掴める。次に目次に目を通すことで書物の全体構成が分かる。気になる項目を2、3ページ読んでみれば作者のおおよその考えが見てとれる。自分と同じ考えであれば本を棚に戻し、奇想天外な考えが展開されているなら買いである。

「人は何をすべきなのかを本は示唆してくれる。本には人を理想や変革に駆り立てるパトス(情念、情熱)がある。いい本には必ず毒がある。いい本であればあるほど、その毒性は強く、人を激しく感化してやまない。」(作家・森 詠)

 毒が変じて薬となる。閉ざされていた思考が広がり、経験を受け入れる窓が開かれる。書を読んで、書に読まれ、書に読まれなくなる。本は人が自ら意志を持って問題を追求するよすがとすべきものであって、時間を浪費するためのものでない。娯楽のための本を否定することではなく、限られた人生の時間を惜しむ故である。
 同じ理由から余りにも多く読むことは、考えることを犠牲にすることになりがちである。その人の生活時間帯にあった読書法を工夫する必要がある。
 まず、自ら考えること、そのうえで他人の考えと自分の考えを突き合わせること。
 あらゆることの根底に人間があることを考えれば、人間の精神を深め、生き方を鋭く問う書物が根本であろう。そして自分の考えと全く違う考え方に出会うことが読書することの最大の意義である。もし、そのような書物に出会うことができるなら、人生に劇的な転換を生じるに違いない。多くは読まずとも、人生の秘儀に触れ、生命の深奥を覗くような読書体験をしたいものである。(04.03.20)



旅は放浪

 旅の楽しさは、その土地の風景を目にすることであるのは言うまでもなく、日常からの解放感にあるだろう。心ならずも様々な約束事に束縛される身が、晴れて自由の身になれたことがうれしいのである。だから移動と時間の自由を得る放浪の旅こそ旅の名に値する。

 その土地に立って太陽の光の中、山並みを眺め、風を受け、花の香を嗅ぎ、遠くの潮騒を耳にする。その土地で取れた旬の山の幸、海の幸などの味覚も旅の楽しみである。
 食材の持ち味をどう活かすか、その調理法が工夫される。気候風土が育み、生活に根をおろした食の文化になっている。自然の恵みには化学調味料などは似合わない。自然には自然醸造の調味料が最も相応しい。自然な風味のまま人の口に入れるのが、食物として植物や動物の命をいただく者の礼儀であるように思われる。

 作物は土作りが命であるという。豊かな土壌に実り豊かな作物が育つのは言うまでもない。化学肥料を過度に使って土壌を痩せさせている現在の農法はどこか無理がある。農薬はその幾分かが作物に吸収され、人間の体に取り込まれて蓄積する。
 人間は今、自然の中でどのように旅しているのであろうか。目的地を目指してわき目も振らず、周りの景色や旅先の人々との交流、土地の味覚を味わう心のゆとりさえ失っている。無意味の意味を考えることも大切なことである。もう一度、人生を深く生きるために旅に出よう。

 

独創性

 独創性とは何かを定義、条件、具体例から考える。
 独創性とは、独自の新しい考えでものごとを創り出す性質をいう。
 独創性の条件として2つある。第1.他人の真似でなく、その人独自の考えであること、第2.今までにないものを作り出すこと。逆にいえば独創性とは条件第1.により、人の真似からどれだけ距離があるかによってその程度が測られる。
 具体例を挙げる。芸術作品の創造、科学的な発見・発明、ビジネス特許などは独創性の条件第1.および第2.にかなっているので独創性があるといえる。また、日常生活における創意工夫も独創性の条件にかなっている限りは独創性があるといえる。

 

大分の頓知話

大分県野津町に伝わる吉四六頓知話である。

ある時、吉四六さんが町に行った。
瀬戸物屋の前を通ると、いろんな壺が置いてある。
そこで吉四六さんほ十文の壺を買って帰った。
しかし、小さくてどうも使いにくい。
翌日、この十文の小さい壺を持って、昨日の瀬戸物屋に行くと、 ころあいの大きな壺がある。

「そこにある大きい壺は、なんぼかえ。」

「へい、二十文でございます。」

「じゃあ、昨日の壺と、取り替えてもらおう。」
吉四六さんは、昨日買った小さい壺を返して、大きい壺を抱え、店を後にした。
店の親爺はびっくりして追いかけてきた。
「お客さん、お客さん。お代がまだですよ。あと十文不足してます。」

「ほう、おかしなことをいう商人があったもんじゃ。いいかえ、昨日は十文出した。」

「へい、それは小さい壺の代金です。」

「それで今日、十文のこの壺を返した。合わせると二十文になるな。それで二十文の大きい壺を持って帰って、いったいどこが悪いのじゃ。」

「なるほどたしかに、そういうことになりますな…・‥。」

そう答えたものの瀬戸物屋は、どうも腑に落ちない。首を傾げて思案する。吉四六さんはお構いなしに、「どこにも、文句あるめえが。」と、帰っていった、と。
 
トップページへ戻る次へ

ご意見/ご感想はこちらまで