沖縄レポート

勤務大学の制度で琉球大学への国内研修の機会にめぐまれ、4月〜9月の半年間を沖縄で過ごしました。
  滞在中に目の当たりにした沖縄戦60年目の沖縄の平和を巡る動きを発信してきました。
  その時々の沖縄社会の空気を感じていただければ幸いです。

  *なお、本稿は情報誌『SAITAMAねっとわーく』(日本機関紙協会埼玉県本部)への連載の改訂版です。

「4月1日」 (05/5/30)

 60年前米軍が本島に上陸した4月1日、イラクに派遣されていた「第31海兵遠征部隊」が沖縄に帰還しました。この部隊はイラクの戦闘において約2200人中、50人の戦死者と220人の負傷者を出していました。同時に帰還した普天間基地所属のヘリ22機には、昨年8月13日に沖縄国際大学に墜落したのと同型のヘリ3機も含まれていました。1日夜の緊急抗議集会で、会場の普天間第二小学校の小学生が、通学路にプロペラが落ちているのを見てぞっとした体験を読み上げたことがたいへん印象的でした。それにしても、沖縄の人々の恐怖の記憶が刻まれたまさにその日に、強襲揚陸艦で上陸(帰還)するとは....

 ところで、4月19日、辺野古でのヘリ基地建設のボーリング調査阻止行動は1周年を迎えました。海上・海中の阻止行動現場に足を運び、一日また一日という積み重ねを実感させられました。ところがその直後、辺野古案見直しが浮上しているにも関われず防衛施設局は作業を加速させたのです。調査用やぐらの増設の動き、座り込みをしていた櫓への金網設置・締め出し、ジュゴン保護のために禁じられている夜間作業の強行と、環境・安全無視の暴挙を続けています。阻止行動も「夜討ち朝駆け」に備え、連日海上泊まり込みを続けており、疲労がピークに達しています。埼玉の方々にご協力いただいた180筆のジュゴン保護署名をテント村に届け喜んでいただきましたが、なお一層の経済的・人的支援が必要です。

(『SAITAMAねっとわーく』 2005年6月号掲載)

海上櫓に立てこもる人々・支援船 vs 調査を強行する作業船・警戒船
(*これらの櫓は、台風対策を理由に防衛施設局自らの手で撤去されました 05/9/30現在)

撮影 杉田 05/4/28


静かな闘い (05/6/30)

 沖縄では60年目の慰霊の日6・23に向けて、新聞・テレビの記事・特集や、大小様々な活動が急増しています。沖縄にせめぎあうこの悲しみの時間は、やはり住んで初めて実感されるものでした。
 先日、元ひめゆり学徒との対話を通じ若者が沖縄戦の継承者となることを期待して昨年結成された「虹の会」(下嶋哲朗氏主宰)の戦跡フィールドワークに参加させてもらいました。元学徒の島袋淑子さんが、当時配属された糸数分室(アブチラガマ)の説明の途中で「私はいまでもこの先に行くのは辛いですから」と立ち止まりました。それは脳症患者の収容区域で、意識障害の重傷者たちがわめき暴れていた恐怖の記憶がよみがえる場所でした。60年を経てなお越えられない心の境界線を刻印した体験と、それをおして語り続ける営みについて思いをいたさざるを得ませんでした。苛烈な体験をした六月になると毎年体調が悪くなるという方もおられると聞きました。

 沖縄戦体験者の中には、戦後50年目を契機に語ろうと思いながら踏み切れないまま60年目を迎え、いま語らなければ永遠に語れなくなるとの葛藤を経て、絵や文章に表現し始める方が多数おられます。NHK沖縄と県が企画した「沖縄戦の絵」にはそうした体験者360人以上から絵が寄せられたといいます。
 こうした過去を記録し記憶するたゆまぬ努力が続けられる一方で、忘却への圧力も増しています。沖縄県は、沖縄戦戦没者の名前を刻む平和祈念公園の「平和の礎(イシジ)」の追加刻銘について、毎年行ってきた朝鮮半島出身者の刻銘受け付けを呼び掛ける韓国の新聞への広告掲載を、「竹島問題」による日韓関係の悪化を理由として見送ったのです。*
 基地問題と対照的な、静かな闘いにこそ感性を研ぎすまさなければならないでしょう。


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年7月号掲載)

壕前で証言する元ひめゆり学徒と聴き入る若者たち  (「虹の会」フィールドワーク)
撮影 杉田 05/4/30


2005年度、韓国の方は3人が追加刻銘されました。
撮影 05/6/26 杉田


忘却と歪曲がもたらすもの (05/7/30)

 さる六月二三日、沖縄は六〇年目の「慰霊の日」を迎え、全島が平和への祈りに包まれました。しかし、この前後、そうした沖縄の心を踏みにじる出来事が次々と起こりました。

 六月九日、今年の私立A高校入試の英語問題において、元ひめゆり学徒の証言について「私は退屈で飽きてしまった」との記述を含む読解問題が出題されていたことが報道されました。それから数週間、元学徒・研究者・文化人・一般県民等、県内外の多様な立場から怒りの声が表明され続けました。ひめゆりの方々は「今の人が戦争と体験者の証言をこの程度しか考えないとは非常に怖い」と憤りつつも「これにめげずに命を大事にする子どもたちが一人でも増えるように頑張りたい」と語りました。「生まれて初めて怒りで吐き気がした。悔しくて悔しくて涙があふれた」という投書からもわかるように沖縄の戦後世代もやはり傷つけれらたのでした。

 七月七日、在沖米軍トップのブラックマン四軍調整官が、普天間飛行場や嘉手納基地について「何もない場所に空港を造ったのに、その周囲に人が集まってきた」と発言しました。この認識は、そもそも住民を追い出して基地を建設した歴史的事実を無視し、支配者意識によって歪曲し責任転嫁したものであり、米軍機爆音、水陸両用車の民間地侵犯や辺野古沖への水没、嘉手納基地所属米兵による小学生女児への強制わいせつ事件、金武町の都市型訓練施設での実弾射撃訓練強行等々の恐怖と隣り合わせで暮らす多くの県民をひどく傷つけました。

 七月九日、海兵隊ヘリが昨年八月に墜落した沖縄国際大学では、爪痕が刻まれた「記憶の壁」が反対を押し切って切り取られましたが、壁の保存方法は未定のまま。現場や体験者が消え去ったあとにやってくる忘却と歪曲の暴力との闘いがまた新たに始まります。(下記参照)


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年8月号掲載)

▼沖縄国際大学「記憶の壁」 撮影 05/2/1 杉田


短冊の願いも空しく切り取られていく「壁」  沖縄国際大学

撮影 05/7/7 杉田


*そして「壁」は無くなった...

撮影 05/7/30 杉田
*ビニールシートで保管されている「壁」

撮影 05/7/30 杉田


墜落1年の沖国大から (05/08/30)

 沖縄では8月13日に沖縄国際大に米海兵隊ヘリが墜落して1年となり、様々なイベントや報道が続きました。中でも沖国大当局が10日から1週間の予定で校舎の屋上に「NO FLY ZONE(飛行禁止区域)」と書いたアドバルーンを揚げたことは、創意ある抵抗アクションとして注目を集めました。地上60メートルの高さでゆれる気球は、普天間基地に直近の校舎から時折フェンスに迫るようにたなびいていました(写真)。

 これに対し、在沖米海兵隊と那覇防衛施設局が中止の圧力をかけました。海兵隊側の論理は、航空施設から五マイル(八キロ)の地域でアドバルーンの掲揚を禁止している米連邦航空法に違反しているというものですが、日本国内に米国内法は適用されないことは明らかです。また施設局側は日本の航空法違反を主張しましたが、米軍飛行場に同法は適用されません。同大学の憲法学教授は、米連邦航空法が「日本にも適用できると考えるのは米国の帝国主義の表れ。日本政府がその主張を受け入れるとすれば、国家主権の放棄だ」と明快に批判しています(沖縄タイムス8月11日他)。これを周辺商店街や学校・施設でも揚げれば、米軍機の離着陸を制限できるのではないかとのアイディアも出されています。

 ところで、当日同大で開かれた公開講座では、沖縄の直面するのが「米軍基地」問題なのか、「軍事基地(含自衛隊)」問題なのかという問題提起がなされました。米軍基地を撤去できたとして、それが自衛隊基地に置き変えられていいのか(独自の国防)、それをも拒否するのか(非武装)という問題は、まだ最前面には出ていません。しかし、これは、世界規模の米軍再編作業の中ですでに深部で進行している問題として、日本国民全体が考えなければならない問いであると言えるでしょう。


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年9月号掲載)

▼沖国大の 'NO FLY ZONE' アドバルーン
 
(写真右下が校舎。左側が普天間基地。現在は揚げられていません)
撮影 05/8/12 杉田


図書館と大砲 (05/09/30 )

 私が所属している琉球大学のある西原町でちょっとした「事件」が起きています。昨年八月開館の真新しい町立図書館の前庭に、旧日本軍「九六式十五センチ榴弾砲」が出現して入館者を威圧しています。昨年十二月に町内で発掘されたものを、平和事業・平和学習のためと現町長が主張し、町議会で約一四〇万円の予算を得て設置させました。

 議会では、一部の議員が文化交流の場とすべき図書にふさわしくないと執拗に追及したものの、町長は、図書館の前の広場に設置すればその当時の状況を調べてみたいときに即対応ができるという学習上の利点を強調し、押し切った形となりました(町議会議事録より)。「西原町・図書館を考える会」等の市民運動も「大砲より本を」と大砲設置中止の要請活動を展開しましたが、決定を変えるには至りませんでした。

 なぜ、このようなことが起きたのでしょうか。現町長は、昨年、平和行政に力を注いできた8年間の革新系町長の後継候補(社大、民主、社民、共産推薦)を大差で破って当選した保守系の人物です。彼は、当選後「イデオロギーにとらわれない町政をしたい」と抱負を述べ、議会では反戦平和を強調しつつも平和憲法擁護を明言しないスタンスをとっています。こうした姿勢が、平和行政を柱としてきた議会・町民の中で警戒感を生んでいると考えられます。それは杞憂でしょうか?彼が「反戦平和」をはずせないのは、西原町が先の大戦で町民の四七%を失った重い歴史と、それを憲法九条の碑を建立するなど形にしてきた平和行政の遺産に配慮せざるを得ないからとも考えられます。今後の町政展開は未知数ですが、国政の「自公圧勝」の風の中で、町民が心配する方向性が徐々に形を現してくるのではないかと危惧されます。

 いま町民は、九月定例議会に向けて大砲設置中止の署名運動に取り組んでいます。


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年10月号掲載)

図書館を威圧する大砲

撮影 05/9/8 杉田


沖縄と平和ガイド (05/10/30)

 学習目的の旅行で沖縄を訪れた人の中には、南部戦跡ツアー等で平和ガイドと呼ばれる人のお世話になったという人もいらっしゃるのではないでしょうか。

 この平和ガイドという存在は、沖縄社会において特別の意味を持っており、『沖縄コンパクト事典』(琉球新報社)にも項目があるほどです。そこでは「沖縄を訪れる修学旅行生などに沖縄戦の実相を伝える草の根の戦跡案内」と説明されています。

 復帰後の沖縄観光は「慰霊観光」としてスタートし、全国から訪れる戦没将兵の遺族の方々に語る観光バスガイドのシナリオも軍人賛美的なものにならざるをえない歴史的な事情がありました。しかし、沖縄戦をくぐり抜けた民衆の思いからも、戦争の実相からもかけ離れた物語がそのような形で国民の記憶となっていくことは、沖縄にとって耐え難いものでした。そこで、こうしたガイドの有り方を変える動きが七〇年代に沖縄戦体験世代の研究者・歴史教育者たちを中心に起こされ、八〇年代から九〇年代にかけて戦跡と基地を案内する「平和ガイド」として社会的認知を獲得していきました。

 多数の平和ガイドを養成・組織してきた「沖縄平和ネットワーク」では、平和ガイドを「平和学習のために沖縄を訪れる人たちや県内の小中高校生たちと、戦跡や米軍基地を歩き、戦争の実相や沖縄が抱えている問題を伝え平和について一緒に考え」る人と、より積極的に規定しています。今日では、自治体職員によるもの、自治体・資料館・NGO等のガイド養成講座受講経験者、地域住民ボランティアによるもの、観光バスガイドや個人タクシー乗務員有志等、そして、大学生によるもの等、担い手も多様化しています。

 観光コースでない沖縄を体験したいとお思いの方は、一度、平和ガイドとコンタクトをとってみることをお勧めします。現地案内だけでなくプランの相談に乗ってくれるところもあります。
(沖縄平和ネットワーク http://okinawaheiwa.net/ Tel:098−886−1215)


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年11月号掲載)

▼修学旅行の中学生を案内する学生平和ガイド

撮影 05/4/16 杉田
▼韓国の大学生のガイドにも挑戦

撮影 05/7/8 杉田


世代の思いをつなぐ沖縄 (05/11/30)

 9月末、半年間の沖縄での研修を終えて埼玉に戻りました。いま改めて戦後六〇年目の沖縄を振り返ると、次の三つの世代の言葉がとりわけ印象的に思い出されます。

 まず、十五年戦争開始の年にサイパンで生まれ、戦後沖縄で反戦地主として生きてきた有銘政夫さんは、あるフィールドワークのガイドの冒頭で、「戦争体験は共有すべき大事な財産であり、あの世に持って行くものではありません。しかし、語り継ぐからぜひ語って欲しいと言うことでしか語り出せない」と、同世代の責任、後継世代の役割について話されました。

 また、終戦直後に生まれ、座間味村の「集団自決」事件の真相を調査を続ける宮城晴美さんは、沖縄平和ネットワークの講演会の最後に、「私たちの世代は、周りには心にも身体にも傷を負った戦争体験者がたくさんいました。また、自身が米軍の配給で食料を維持してきたし、米軍犯罪もありました。戦後体験としての戦争の証言は十分可能です」と、定年を間近に控えた団塊世代の役割の重要性を訴えていました。

 そして、平和ガイドやひめゆり体験の継承活動に精力的に取り組んでいる大学生の伊佐慎一郎さんは、「虹の会」のフィールドワークに参加した際、「平和を考えるということは、戦争と対比させる必要が必ずしもあるわけではないと思います。今でも自殺に追い込まれたり、生き方を見失ったりという人たちがいます。その一方であのような辛い体験をしながらもそれを語って生きている人たちもいます。生きるとはどういうことかを考えたいのです」と、戦争体験を学ぶ意味について話してくれました。

 これらは別々の場面での言葉ですが、過去と現在から突きつけられる暴力と向き合い、平和を創り出そうとする人々の営みが、沖縄社会の中で世代をつないで続けられていることに気づかされます。歴史を忘れ、歪め、戦争ができる国に造り変えようとする動きが急な今日の日本において、平和の価値、それを支える憲法の価値を再認識するためには、体験世代とその子、その孫の世代が、互いに思いを通わせる場や活動がたいへん大きな意味を持つはずです。そのことを沖縄は教えてくれているのではないでしょうか。


(『SAITAMAねっとわーく』 2005年12月号掲載 修正版)

▲体験世代の責任と後継世代の役割を語る有銘政夫さん

撮影 05/8/14 杉田
▲団塊世代の重要性を語る宮城晴美さん

撮影 05/8/27 杉田
▲体験を受け継ぐ意味を語る伊佐慎一郎さん

撮影 05/7/8 杉田