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写真を撮影する目的は、時間を止めること、そして保存することです。何を撮影しても撮影と同時に、レンズの前にあった光景の時間の流れ止まります。 時間は心を癒す 何か特別なことがあって「絶対に忘れられない」ことなどがあれば(仮にB事件としましょう。その人はいつもB事件を意識しています。するとその人にとってはB事件は現在形となり、いつまでも新しいことになります。何がいいたいかといえば、人により新しいとか古いとかが違ってくる、という話です。言葉をかえますと、その人なりの特別な感情といったらいいかもしれません。いったい人間は、どのくらいの時間がたつと「古い」と感じるかは簡単ではありませんが、いつかは古いと感じます。「いろいろな事があったけど、皆むかしのことだなぁ」と思い始めます。人は生きて色々な経験を重ね、様々な印象を持ちます。最大その方がなくなるまででしょうか。おおむね50年くらいを限度としたほうがと、筆者は考えています。 たとえば誰か知っている方が亡くなられたとします。非常に悲しい事で、時には耐え難い苦痛でもあります。それでも、しばらく時間がたつと(非常に大雑把ないい方ですが)、悲しみが薄れ、過去の事となってゆきます。人との死別に限らず、たとえば新聞やテレビをにぎわした大事件も、長い時間が経過すれば、勢いは薄れゆっくりと忘れ去られてゆきます。それまでの時間は、ある人にとっては長いと思えるでしょうし、また、他の人にとっては短いと感じるでしょう。しかし、いずれ時の流れの中へ吸収され、人々の記憶から姿を消してゆきます。すべてを明確に記憶し続けていたのでは、人間は悲しい事や辛い事に耐えきれなくなります。「時間」は「心の治療薬」ともいわれます。あまりにもショックが大きく、その後一ヶ月を経ても社会生活に不都合を生じる場合はPTSDといわれる心の障害で、医師の治療を必要とします。また忘れられた事件を故意に掘り出す場合は背後に政治的な思惑がある場合が多いものです。 昭和44年でしたか、大学紛争が盛んな一時期があり、例えば東大安田講堂事件の現場を取材し、そのときは「今しかない」と命がけで撮影し、翌日は大きく新聞の一面を飾った報道写真も、40年後となれば、昭和史の映像記録としての価値へ終結します。そのときの作者のねらいは、50年後には終了して意味がない事が現実です。偶然にも著作権は作者の死後50年となっていますが、これも最大の年数を考慮した法律で、以前は公表後50年で著作権が消滅となっていました。現在は撮影者の死後から起算しますが、主として配偶者などご遺族の財産権を保護したもの考えられます。 チョッと話が変わります。じつは写真家という職業は、世の移り変わりを強く感じる事が多いのではないか、と筆者は想像しています。大げさに言うと、転生輪廻といった仏教的な思いにとらわれることが多い。さらにいうと、世の中の移り変わりに、はかなさを意識したり、ワビとかサビ、あるいは仏教的無常に捕われやすい。実際にそのような仕事で優れた業績を上げておられる写真家も多いのです。今日、映像ほど、時間という概念を強く意識させる分野は多くありません。(時間が強い意味を持つ分野には音楽があります。音楽は時間がないと「音そのもの」が成立しませんから、物理的に時間が必要です。) 以下はまったく個人的な考えですが、筆者は「語りつぐ」といった行為に疑問を感じています。例えば「原爆」の悲劇を「語りつぐ」といっても、じつは本当に悲惨な目にあった方々は、ほとんど亡くなっておいでです。また、筆者の乏しい経験からですが、例えば東京大空襲の惨劇を実際に体験した方にお会いしたのですが「つらくなるから・・・」とおっしゃり、あまりお話しになりませんでした。忘れる以外に、どうしようもない悲劇とか悲しみというものが、現実には存在します。もちろん、いつ、なにが、といった歴史的記録は大切ですが、これは、例えば国であるとか、適切な場所で行うべきと思われます。誰でも、一度しかない人生の時間が限られていますから、事件にこだわり、楽しむべき人生を無駄にすることは、つまらぬと考えます。忘れ去る以外に解決法がないことがあります。前述しましたが、どんな大事件も結局は古くなってゆきます。筆者は、それでいいのだと考えます。「50年忌」や「著作権の機関は作者の死後50年間」とおなじく、おおむね50年を経過したら、積極的に忘れる努力を重ねるほうがと考えます。そうでないと政治的に利用され、あるいは宗教に利用され、いつまでも人間関係の円滑を欠く結果になるほうが心配です。もちろん、色々な考え方があるなかで、一つの考え方としていわせて貰いました。俳句との関係 日本では、松尾芭蕉の俳句に代表される、ワビ・サビに基づく俳句が盛んです。国民的文化になっておりますが、教科書に書いてある通りに述べますと「滅んでゆくもの、枯れてゆくもの、消え去ってゆくものに対する鋭敏な美意識」は、現代では俳句に加え、写真にも取り入れられている、あるいは、そういった方向へ動いているのかもしれません。写真の中に潜む無常観とは、俳句と同じ理由で、写真を国民趣味のひとつに押し上げているのではないでしょうか。話のポイントを繰り返すと、日本独自の写真は、滅んでゆくもの、なくなってゆくものに対する感覚を鋭敏にさせるようです。限りある命を精一杯生きようとするのも宗教の教えですが、俳句や写真にもおなじ働きがあるのでしょう。もちろん、正岡子規が唱えた写生句が「非常に映像的」との話は脇においています。 命をいつくしむ。 写真家の実際の仕事は、新しい、あるいは、現代的な注文が多いものです。ジャンルは異なっても、実際の仕事には「今日、現在、」を強調する要望があるでしょう。これは、無常とは全く相反するように見えますが、今とは何か、といった意味で、やはり秒単位の時間にしばられ、どうも、写真家は時間からは逃げられないようです。 了 |