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オペラとオラトリオ略史-誕生前から古典派まで
<オペラとは>
オペラは日本語で歌劇とも訳されるが、あまり適切な訳語とは思えない。なぜならばオペラoperaラテン語-伊語はもっと広い意味を持ち、元来労働とか仕事を意味し、芸術作品、音楽作品とか著作を意味する。語源的にはオプスopusラテン語から生じた語で、オプスopusは音楽の作品番号を示すのに用いられていることは衆知の通りである(Op.と略記され、一例をあげればベートーヴェン「荘厳ミサ曲ニ長調Op.123」)。
しかし、初めからオペラとはいわれてはいなかった。当初はドランマ・イン・ムジカdramma in musica(音楽による劇)とか、メロドランマmelodramma(メロディによる劇)と呼ばれていた。オペラoperaという語が実際に用いられたのは1639年ヴェネツィアで、カヴァッリ「テティとペレオの結婚」をオペラ・シェニカopera scenicaといい、その後オペラ・イン・ムジカopera in musicaというようになった。そして末尾部分が省略されてオペラoperaが流布し、現在に至る。
<オペラの誕生前>
オペラの起源を求めるとすれば、どこまで逆上ればいいのだろうか。人類の起源(100万年前位?)から芸術の起源(人類最古の芸術といわれるラスコー洞窟の壁画は1万7千年前に描かれた)に逆上らなくてはならないのだろうか。言えることは音楽と結びついた演劇の類は、この地球上に古くから至る所にみられる。これは音楽をつけてドラマを上演するという要求は、人間の表現本能の一つであるに違いない。
a.バレーBallet仏語
フランス語のバレーballetはイタリア語のバッロballoの縮小形バッレットballettoから出た語で、16世紀の終りにはフランスにおいて好まれたイタリア風の舞踏を指す言葉であった。この時代の有名なバレー劇は「シルス、−王妃のバレー・コミック」(1581年初演)がある。パリのプチ・ブルボン宮で婚礼の祝いとして上演された。贅沢の限りをつくしたこのバレー劇の完全な資料とスコアは、翌年出版されている。コミックは喜劇ではなくドラマを意味する。このバレー作品で一貫した筋をもった最初のバレーとなった。ボーリューとサルモンの作曲によるものであった。
*筆者がバレエでなくバレーを用いてるのは原音に近づけるためである。スポーツのバレーはヴァレーがいいかも。
b.インテルメディオintermedio伊語(幕間劇)
インテルメディオは中世の典礼劇に起源をもち発展した。芝居の幕間に演じられた。特にフィレンツェのメディチ家の宮廷で、たいへん娯楽性と豪華性において目立ったものであった。バルガリのコメディ(演劇)「巡礼の女」(1589年)上演の際、いくつかのインテルメディオを幕間にはさんで上演された。これらはまさしく音楽の力を発揮したものであった。ペーリPeriイタリア(1561-1633)など複数の作曲家による合作で、その中の一つ「アポロはデルポイで怪獣を殺す」は史上第1番目とされるオペラ「ダフィネ」(1597/98年初演)を産む契機を与えた。これはメディチ家の婚礼の祝いのためであった(フェルナンド一世とクリスティーナの婚宴)。
c.牧歌劇パストラーレpastrale伊語
牧歌劇パスロラーレは典礼劇(中世)から発達したもので、16世紀半ば頃、イタリアではすべての劇の中心的なものになった。野原や森など、田園的な美しい情景に、男女の羊飼いや神々が登場した。ギリシャ神話も旧約聖書物語も新約聖書の福音物語もすべて田園的背景に展開されている言ってよいだろう。ヨーロッパ人にとって、田園のイメージは広く深いのである(牧歌劇pastraleはキリスト教的世界がイメージされた。旧約時代の牧者、新訳時代のキリスト及びその誕生の情景など。この概念はヘンデル「メサイア」のパストラーレ、ベートーヴェン「交響曲第六番」、ベルリオーズ「幻想交響曲」の第3楽章田園の情景などへと繋がっていく)。
最も古いパストラーレはポリッツィアーノ台本の「オルフェオ」(1472-1483年の間)で、マントヴァで上演された。これには独唱の3つの歌曲、1つの合唱曲が含まれ、台詞が劇進行の役目を果たした。牧歌劇の本格的な始まりは、フェラーラで上演されたベッカーリ台本の「アブラハムの犠牲」(1554年)とされている。音楽はヴィオラが作った。オペラ誕生に最も近く重要な牧歌劇はタッソ「アミンタ」(1583年初演 フェラーラ)やグァリーニ「忠実な羊飼い」(1581-1590年の間に初演 フエラーラ)であろう。これらには社会的には地位の低い滑稽な人物が登場し、ハッピーエンドとなる。また台詞と歌がうまく組み合わされ、音楽はエコー表現が盛んに用いられ、叙情的な表現や神秘的な場面なども好まれていた。
d.マドリガーレ・コメデイアmadrigale comedia伊語(マドリガル・コメディ)
マドリガーレ・コメディアは1570-1605年までのヴェネツィアにおいてマドリガーレmadrigale伊語によって演じられた舞台劇をいった。例えば、1585年にヴィチェンツァのオリンピコ劇場(古代の円形劇場をまねたといわれ、舞台は遠近法を巧みに用いた装置が設置され、音響もよい。)で演じられたアンドレア・ガブリエリA.Gabrieli(c.1510-86)の「エディプス王」、ヴェッキVecchi(c.1550-1605)「アンフィパルナーソ」(1597年出版) やバンキエリBanchieri(1568-1634)「おてんば娘」(1598年作曲)が記録に残る。
マドリガーレはルネサンス期に形成された多声音楽ポリフォニーで、各パートに役割をもたせたりした演劇的なマドリガーレも盛んに作られた。
<オペラの誕生:イタリア、フィレンツェ>
劇的な表現様式を可能にする音楽手法はモノディ様式であった。ソロ歌唱と器楽による書法である。フィレンツェのカメラータcamerata伊語(a.1570-92)といわれるグループがこれを生み出すことになる。カメラータは同志を意味し、フィレンツェのバルディ家に集まっていた。ここにグループとして集まったのは1580年以前のことであった。彼等は古代音楽の復興を論じ合う音楽家と文学者たちであった。主要なメンバーは保護者のバルディ伯爵、音楽家としてはヴィンチェンツォ・ガリレイ(彼の長男が近代科学の父と呼ばれる数学者・天文学者として有名なガリレオ)、ペーリ、カッチーニ、ストロッツィ等と詩人のリヌッチーニであった。1592年にバルディ伯が教皇庁の侍従としてローマに移り、コルシが代わって保護者の役目を引き受けた。カメラータの最初の目的は古代ギリシャ劇の復興であった。つまり、この時、ルネサンス発祥の地フィレンツェではキリスト教文化以前の古代ギリシャ・ローマ文化を再認識する動きが盛んになっていた。
カメラータはギリシャ古代の演奏様式を復活させることを目的にしていたのに、独唱と器楽伴奏によるレチタティーヴォrecitativoを作り出した。カメラータは古代ギリシャ劇に範を求め、歌詞の朗唱法と情緒の表出を可能にする歌唱様式を考えていたのである。これがモノディ様式を成立させ、多声音楽の廃止へと導いていくことになる。こうしてガリレイの著作「古代と現代の音楽の対話」(1581年出版)をもって、対位法音楽に対する挑戦状とした。またガリレイはダンテの「神曲」地獄編(第23の4-75行)(1582年上演)や、「エレミアの哀歌」の一部によって歌を書き、4つのヴィオルの伴奏にあわせて、自分で歌った(消失)。以後バルディやストロッツィも実作を手がけた。こうして登場するのが史上最初のオペラ「ダフネDafine」(1594-98年の間に上演 97年の初めとするのが有力)であった。台本がリヌッチーニRinuccini、作曲ペーリPeri(1561-1633)と、コルシCorsi(1561-1604)の2曲も含まれいた。現在、楽譜は殆ど散失し、上演不可能である。そして史上第2番目のオペラは、同じくペーリの「エウリディーチェ」(一部カッチーニCacciniイタリア(c.1550-1618)作曲)で、1600年の初演であった。ペーリの曲を主に用い、カッチーニの曲も少し加えて上演された。
<オラトリオの誕生:イタリア、ローマ>
もう一つの初期のモノディ様式による作品は、オラトリオortorio伊である。この名の元となっているオラトリオは、私設の小聖堂・祈祷所を意味する。他にも似た語としてカペッラcappella伊があるが、どちらも物理的な大きさで言うのでなくほぼ同義的に用いられる語である。二つとも修道院、大教会、学校や私邸に附設された小聖堂や個人の邸に置かれた私設小聖堂などを指していわれる。大きな教会堂などの両側に並んで設置されているこれらの小聖堂は、オラトリオではなくカペッラと呼ばれている。
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フイリッポ・ネリP.Neriイタリア(1515-95)
さて、フイリッポ・ネリP.Neriイタリア(1515-95)がローマのサン・ジローラモ・デッラ・カリタsan Girolamo della carita教会において信徒のために祈りの会を催していた。その中で聖歌や音楽などが演奏された。これがオラトリオと呼ばれていた。これが基礎となって教会音楽の一分野オラトリオとなっていったのである(1575年にこの祈りの会・オラトリオは教会から正式認可を受けた教会活動となる)。このためフイリッポ・ネリは音楽作品としてのオラトリオの基を築いた創案者ということになる。
またフイリッポ・ネリはこうした祈りの会・オラトリオによる活動を基礎に1564年、オラトリオ会という在俗司祭共同体をサン・ジローラモ・デッラ・カリタ教会で創立した。この名前の由来もその祈りの会・オラトリオortorio伊であった。尚、フイリッポ・ネリはカトリック教会で認められた聖人で、聖フイリッポ・ネリとされている。
さて、史上最初の音楽作品としてのオラトリオは、カヴァリエーリCavalieri(1550前-1602)作曲のオラトリオ「霊魂と肉の劇」(1600年初演)とされている。この「霊魂と肉の劇」は、フィレンツェのモノディの原理を教会音楽に適用した最古のものとされている。24曲の合唱曲と、なだらかな民謡風の独唱曲が用いられ、独唱より合唱を重視、早い速度の対話でなく語り手を登場させている。台本は教訓的な内容で、扮装をもって演じられたようだ。ここにバロックに生まれた音楽の2大分野、教会音楽のオラトリオと世俗音楽のオペラの両横綱が出揃うこととなった。この2つの共通点はどちらも概ね劇的な展開をもつが、オラトリオは演じられることはない。オラトリオの題材が聖書物語や信仰に関する物語要素の多いものであることはいうまでもない。後にオラトリオ上演が教会から一般ホールにも場が広がっていく。
<史上第2番目のオペラ:ピッティ宮殿の婚宴>
オペラは祝典的な宮廷音楽として生まれた。台本全体に音楽がつけられ、衣装や舞台装置を伴うオペラは、遊びと啓蒙的な要素も混じり合った音楽分野となった。現存する最古のオペラはペーリ作曲「エウリディーチェ」(1600年初演)で史上第2番目のオペラとなる。初演にはペーリの曲を主体にし、カッチーニの曲も加え、合作として発表された。台本はリヌッチーニで、この「エウリディーチェ」は当時まだオペラとは呼ばれず、牧歌神話劇といわれていた。
このオペラはフランス王アンリ4世(前妻と離別、プロテスタントからカトリックへ改宗をもって再婚)とメディチ家のマリア(マリー・ド・メディシス)との婚礼を記念して、フィレンツェのピッティ宮殿で初演された。これは音楽としてはモノディ様式の朗唱に終始する単調なものであるが、つめかけた貴族たちに大きな感銘を与えたといわれている。ギリシャ神話のオルフェオの悲劇的結末を変えてハピー・エンドとした。
<史上第6番目のオペラ:ドゥカーレ宮殿>
ピッティの大祝宴にマントヴァ侯爵宮廷楽長モンテヴェルディMonteverdi(1567-1643)も出席していたかもしれない。彼がフィレンツェのカメラータを凌駕してしまうことになるとは、誰が予測したであろうか。クレモナに生まれ、1590年からゴンザーガに仕えた。1613年からヴェネツィアに移りサン・マルコ大聖堂の聖歌隊長を没するまで務めた。歴史的には第6番目のオペラ「オルフェオ」(1607年のカーニヴァルに初演)はマントヴァの宮殿の小さな広間で、貴族の学校交友サークルの前でごく内輪に行われた。これがオペラ史上最初の金字塔を築く作品となった。後、ヴェネツィア・オペラの発展につくした。
<ナポリのオペラ>
ナポリでシーズンごとにオペラが上演されるようになったのは、1658年以後のことである。ナポリ楽派の最初の重要な作曲家は、プロヴェンツァーレProvenzale(c.1630-1704)である。ナポリでオペラはオペラ・セーリアopera seriaとオペラ・ブッファopera buffaの区別された。そしてナポリで歌手の技巧が、18世紀に最高のレヴェルに達する。この技巧の発揮はもっぱら即興によってなされ、楽譜としては残らなかった。ジャコメッリGiacomelli「メローベ」(1734年ヴェネツィア初演)を有名なカストラート、ファルネッリFarinelli(1703-82)が歌った。
文字通りナポリのオペラと18世紀イタリア音楽の基礎を開いた人と認められている作曲家は、アレッサンドロ・スカルラッティAlessndro Scarlatti(1660-1725)で、多数の音楽家がナポリで生活し活動し、イタリア内外の音楽家に多大な影響を与えた。このスカルラッテイはチェンバロ・ソナタで有名なドメニコ・スカルラッティの父でモンテヴェルディ以来のオペラを総合し、後のイタリア・オペラの布石となった。特にダ・カーポ・アリア、各種のレチタティーヴォなどの発展は彼なくしては考えられないし、これらで培われたベル・カント唱法bel cantoは、声楽の重要な技法になったのである。
スカルラッティにつぐ初期ナポリ楽派の、最も有名な作曲家はペルゴレージPergolesi(1710-1736)であった。オペラ・セーリアの幕合劇インテルメッツォとして上演された「女中奥様」はイタリアのみならずパリでも好評を博した。これはオペラ・ブッファに発展していく存在で、悲劇の壮大なドラマの中でほっと一息つかせるものであった。18世紀の後半ではオペラ・ブッファが盛んになり、オペラ・セーリアが衰微していった。後のピッチンニ、パイジェルロ、チマローザの作品は、オペラ・ブッファに属するものである。
<古典派のオペラ>
ヨーロッパのどの国でもイタリア・オペラ、すなわちイタリア語によるオペラが主流であった。イタリア語はオペラにとって最適の言語というコンセンサスがあったのである。
a.グルック
グルックGluckドイツ(1714-1787)はド1741年に最初のオペラ「アルタセルセ」をミラノで発表した。1745年にロンドン(この時ヘンデルとも親交)、1748年にウィーンの銀行家の娘との結婚が機縁でヴィーンに落ち着いた。女帝マリア・テレジアのヴィーン宮廷でも、確固たる地位を得ていく。この間ナポリ、パリ、ローマ、ボローニャなどいわば最高のオペラ市場で活躍し、名声を得た。グルックは芸術美の基礎を“単純、真実、自然la
semplicit,la verit e la naturalezza”と定義している(オペラ「アルチェステ」1769年出版譜の序文より)。“音楽を詩に表現を与え劇的状況を強めることに奉仕するという、音楽の限定し‥‥‥”つまり音楽の非必然的な装飾的要素の排除を主張する。これらはグルックのオペラ改革といわれ、“美しい単純さ”を追及し、題材としてギリシャ神話が多く用いられた。
b.モーツァルト
モーツァルトMozartオーストリア(1756-1791)もイタリア・オペラいや全オペラ史における偉大なる貢献者であった。モーツァルトは18世紀のイタリア・オペラがめざしていた理想のすべてを有している事が分かる。劇の要素に追従の過剰がなく、彼の音楽のすべての世界(楽曲の構成力、管弦楽法、劇的感受性と娯楽性…)がいつもオペラに注ぎこまれた。モーツァルトの完成されたオペラは17、そのうちイタリア語オペラが12、ドイツ語オペラが4、ラテン語オペラが1つである。
c.イタリアのオペラ
現在イタリア古典派はイタリア以外ではあまり留意されないが、多くの作曲家がいた。例えばガルッピGaluppi(1706-1785)、ピッチンニPiccinni(1728-1800)、パイジェッロPaisiello(1740-1816)、ガッツァニーガGazzaniga(1743-1818)、チマローザCimarosa(1749-1801)、サリエリSarieri(1750-1825)などがいた。また彼らの名はたいへんよく知られていたのであった。
参考:オペラの誕生:第1話〜第4話
2005-2008
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