| 音楽サロン表紙 | 総目次 | 古典派目次 | 作曲者別作品表 | 時代別作品表 |
イタリア古典派
今でこそ古典派といえばヴィーン楽派を指していわれるが、当時の視点ではイタリア勢がはるかに優勢であった。これは特にルネサンス(1400-1600)とバロック(1600-1750)におけるイタリアの音楽家の活躍は、作曲家ばかりでなく器楽奏者や声楽家においても顕著な存在であった。そればかりかイタリア製の弦楽器やピアノ(1709年フィレンツェでメディチ家に仕えたクリストフォリが発明した=フォルテピアノという)は全ヨーロッパ音楽界に大きな貢献をした。そして今も用いられている音楽用語もイタリア語である。バロックに生み出された多くの音楽分野や形式はイタリアにおいて生み出された。それはオペラ、オラトリオ、カンタータ、ソナタ、協奏曲など。これらは現代も受け継がれている。音楽のみならず美術、建築、文学、医学などの学術や文化芸術一般のイタリア優位が中世やルネサンスからあった。
<鍵盤音楽>
バロックのドミニコ・スカルラッティD.Scarlatti(1685-1757)の後を継ぐナポリ派のプラッティPlatti(1697-1763)、パラディエスParadies(1707-91)、ルティーニRutini(1723-97)、そしてローマ楽派のアルベルティAlberti(1710-c.40)1)。あとピアノのクレメンティClementi(1752-1832)が作曲と演奏家としてヨーロッパ各地で活躍した。
<ヴァイオリン音楽>
ジェミニアーニGemoniani(1687-1762)、タルティーニTartini(1692-1770)、ナルディーニNardini(1722-93)、プニャーニPugnani(1731-98)等が演奏・作曲ともに貢献した。合奏曲や管弦楽曲の分野ではロカテッリRocatelli(1695-1764)とサンマルティーニSammartini(1700/01-75)2)がいる。チェロのボッケリーニBoccherini(1743-1805)もいる。
18世紀後半にはこうした器楽音楽におけるイタリアの流れは、たしかにドイツやオーストリアにも注ぎ込まれていった。現代の目で見ればイタリアは他の国々、特にオーストリアやドイツ、フランスに凌駕されてしまったように見えるが、そうはいえないかもしれない。少なくとも当時における受容ではイタリア音楽優勢という見解が一般的であった。そうした中でフランシスコ会修道士マルティーニMartini神父(1706-84)がボローニャで活躍していた。作曲、著述、教育に貢献し、全ヨーロッパに聞こえる名であった。100人を超える弟子のうちでクリスティアン・バッハドイツ(1735-82)3)がいたし、モーツァルトも1770年にボローニャに立ち寄った際、対位法を学び、その後も交流を続けた。イタリアで職を得るという希望は叶えられなかったが。あとグルックGluckドイツ(1714-87)、グレトリーGretryベルギー(1741-1813)などの古典派の大物が彼のもとで学んだ。
<オペラ>
ナポリ派オペラのヨンメッリJommelli(1714-74)やトラエッタTraetta(1727-79)、サッキーニSacchini(1730-86)、そしてモーツァルトのライヴァルとなるサリエリSalieri(1750-1825)がいた。ペルゴレージPergolesi(1710-36)の「女中奥様」4)以来オペラ・ブッファが人気を獲得した。そしてガルッピGaluppi(1706-85)、ピッチンニPiccinni(1728-1800)、パイジェッロPaisiello(1740-1816)5)、チマローザCimarosa(1749-1801)などはこの分野で大活躍した。
[注]
1) 彼はアルベルティ・バスという分散和音を創始した。これはハイドン、モーツァルト、クレメンティにも影響を与えた。
2) グルックの師、交響曲においてはハイドンに影響を与える。
3) ヨハン・クリスティアン・バッハJ.C.Bachドイツ(1735-82)は、父バッハの2度目の妻マグダレーナとの末子。15歳で父バッハと死に別れ、1750年に兄フリーデマンとベルリンに移り、兄エマヌエルから教育を受けた。1754年イタリアへ旅立ち、ボローニャのマルティーニのもとで学ぶ。ルター派のバッハ一族の唯一の例外として彼はローマ・カトリックに改宗した。1760年ミラノ大聖堂のオルガン奏者に就任し、オペラ作曲家としても活躍。1762年ロンドンのキングス劇場に教会音楽とオペラ作曲家として移った。1764年にロンドンに訪れたモーツァルトは彼から教えを受け、多くの影響を与えられた。
4) 1733年ナポリ王国皇后誕生日にオペラ「尊大な囚われ人」とその幕間劇インテルメッツォ「女中奥様」2幕を初演。後者が大成功。死後、ブフォン戦争(1752-54)を引き起こした。フランス音楽vsイタリア音楽の論争で、ブフォンは道化を意味しイタリアのオペラ・ブッファを揶揄する意味合いを持っていた。ペルゴレージの死後の1752年にパリ・オペラ座でリュリの悲劇オペラ「アシスとガラテ」にペルゴレージ゙の「女中奥様」を幕間劇としての上演が原因となり、ペルゴレージに軍配が上がった。
5) 彼はナポリ楽派ではなくグルックに近い精神を示す。ヴィーン初演(1782年)の「セビリャの理髪師」は、これを聴いたモーツァルトに影響を与えた。
2004-2007
| 音楽サロン表紙 | 総目次 | 古典派目次 | 作曲者別作品表 | 時代別作品表 |