制作者:国本静三

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古典派ドイツ・オペラ略史




 ドイツにおけるオペラの発展は遅れを見せている。もともとイタリアで誕生したものだからであろう。

 1740年初めにベルリンとマンハイムの新しい音楽様式がドイツに成立していった。丁度1750年にバッハが没し、一つの区切りとなっていた。国情的にも18世紀に入ってプロイセンとザクセンを中心にドイツの国力は快復し、活気に満ちた経済が音楽文化にも影響を与えていった。市民階級の台頭は、一般市民階級にも音楽を浸透させたし、アマチュア音楽文化が興隆し、市民も楽器を手にして演奏会にも行くようになった。そしてやさしい曲集や教則本も出版され、音楽批評も試みられた。かってのバッハのような純粋に教会音楽ではなく、演奏会用作品として機能する教会音楽が好まれるようになった。グラウンG.H.Graun(1703-59)クリスティアン・バッハC.P.Bach(1714-88)の作品がそのよい例であろう。




 18世紀のドレスデンはドイツ音楽の主導的な位置にあった。ポーランド王を兼務していたザクセン選帝侯宮廷ではポーランドの民族音楽を取り入れたし、オペラ劇場ではハッセHasse(1699-1783)のイタリア・オペラが上演されていた。そのためイタリアから招聘された歌手たちが活躍していた。

 ベルリンでは1740年になるとプロイセン王フリードリッヒU(大王)は、クヴァンツQuantz(1697-1773)クリスティアン・バッハを雇い入れていた。オペラ劇場はイタリア趣味に支配されていたが、器楽分野では多感様式Empfindsamer Stilが横行していた。大王自身もフルートの名手であった。マンハイムではファルツ選帝侯カール・テオドールの治下にあって、シュターミッツStamitzチェコ・ドイツ(1717-57)を中心に宮廷楽団が形成されていた。このシュターミッツを含めリヒターF.X.Richterモラヴィア・ドイツ(1709-87)ホルツバウアーHolzbauerオーストリア(1711-83)カンナビヒJ.C.Cannabichドイツ(1731-98)はマンハイム楽派といわれ、パリやロンドンにも名を馳せ、ドイツ音楽の名を有名にした。

 ライプツィヒ
ではヒラーJ.A.Hiller(1728-1804)の12作のジングシュピールが史上重要である。ゴータのザクセン・ゴータ・アルテンブルク公フリードリヒVの宮廷楽長となったベンダJ.A.Bendaチェコ-ドイツ(1722-1795)がイタリア留学後、ドイツ語でいわれるメロドラマ1)とジングシュピール2)で成功をおさめた。モーツアルトは彼の手法から影響を受け、ドイツ・オペラ「ツァイーデK.336b」(1780年作曲、未完成)を作るきっかけとなった。こうしてドイツ古典派はヴィーンで活躍したグルックGluckドイツ(1714-87)ハイドンJ.Haydnオーストリア(1732-1809)モーツァルトMozartオーストリア(1756-91)そしてベートーヴェンBeethovenドイツ(1770-1827)等から次第に引き継がれていった。




<注>


1) メロドラマmelodrama独語は音楽入りの劇ことで、レティタティーヴォがなくアリアで構成。ジングシュピールと同じ。これとは話は別だがオペラという語が定着する前にメロドランマmelodramma伊語というオペラと同じ意味でいう呼称もあった。

2) ジングシュピールsingspiel
独語は、アリアは歌われるがレチタティーヴォが無く台詞がある。形としてはオペラ・コミックopera-comique仏語や後のオペレッタoperetta伊語と同じである。これらをすべて総称して広い意味でオペラといっていいのでは。。。


2004-2007


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