制作者:国本静三

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ルターの宗教改革とルター派教会

 マルティン・ルターMartin Lutherドイツ(1483-1546)


<ルター派教会>


 ルター派教会Evangelische Kircheは、16世紀にルターLutherドイツ(1483-1546)の宗教改革によって起こったプロテスタントの中心的な教派である。ルターは、カトリックのアウグスティヌス修道会の司祭でヴィッテンベルク大学の神学教授だった。ルター派教会は北ドイツ中心にドイツ語圏の国々や北欧諸国(オランダ、デンマーク、スウェーデン、ノールウェイなど)に発展していった。

 ルター派という名称にルター自身は批判的で、教会も当初は「アウクスブルク信仰告白の福音主義教会」、あるいは単に「福音主義教会Evangelische Kirche」と名のっていた。今もドイツでは一般にエヴァンゲリストEvangelist(福音主義者)と呼ばれている。18〜19世紀の宣教運動の結果、ルター派教会は世界各地に広がったが、その多くはルター派系の新しい教派として形成されていった。ルター派教会の信者数は現在、約8000万人を数えるといわれる。現在、ルター派で行われるミサは(大きな祝日や月に一度程度)、神学的解釈は大きく異なるものの、ラテン語式文でない点を除けば第二ヴァティカン公会議以前のカトリックのミサと殆ど同一である。それは典礼式文や司式者の所作においても、ルターがカトリックから分派した後もカトリックから継承したものを多く伝えているからである。これは筆者にとってはまことに興味深い点の一つである。

 またルター派教会は、キリスト教の文化や学問に大きな影響を与えてきた。特に音楽と哲学の発展に大きな力となった。作曲家としてはプレトリウス、シュッツ、ブクステフーデ、バッハなどがあげられる。また、ルター主義出身の思想家にはカント、フィヒテ、ヘーゲル、キルケゴールらがおり、彼らはルター派の伝統に対する問答として、またしばしばルター主義に対する反論として、自分たちの思想を展開した。さらに、ルター派系教派からは著名な聖書学者や神学者も輩出している。シュトラウスやシュヴァイツァーらの聖書学者やリッチュル、ハルナック、オットー、ブルトマン、ティリヒらの神学者が有名であり、また重要な功績を残している。


<ルターの宗教改革について>


 マルティン・ルターMartin Lutherドイツ(1483-1546)はドイツ(当時は神聖ローマ帝国)中部ザクセン地方の小村アイスレーベンに生まれた。洗礼を受けた日が聖マルティヌスの祝日でそれにならってマルティンの名が付けられた。生家はもともと小作農で、父ハンスはマンスフェルトの銅鉱山の炭坑夫で、母の名はマルガレータであった。ルターは、マンスフェルト、マクデブルク、アイゼナハで初等・中等教育を受けた。1501年17歳でエルフルト大学に入学し、1502年に学士、1505年に修士を取得した。

 その後は父の意向により法律を学ぶつもりだったが、同じ1505年の夏に突然、勉学を放棄して教科書も売り払うと、エルフルトにあるアウグスティヌス修道会(聖アウグスチノ修道会)に入り、友人や父を驚かせた。後にルターはこの時のことを、友人が急死したり、自身が落雷にみまわれるなど人間の死に直面し、生命のはかなさに気づいたからだと説明している。修道会では忠実に修練者としての務めに励んだが、期待していたような心の充足を見出すことはできなかったといわれている。それでも1506年の秋に修道士の誓願を立て、1507年に司祭に叙階された。

 1510年11月、アウグスティヌス会の7つの修道院を代表してローマを訪問した。彼にはドイツと比べてローマの聖職者があまりにも世俗的なことに衝撃を受けたらしい。1512年ヴィッテンベルク大学で神学博士号を取得し、同大学の聖書学教授となり、生涯にわたって教鞭をとることになる。

 1517年10月31日、ルターは「95ヶ条の提題」をラテン語で発表、広く議論を巻き起こすこととなった。それは、ローマの聖ペトロ大聖堂の建築費用を集めるために免償(金銭による罪の償い。いわゆる免罪符といわれるもの)が乱発されたことを批判するものだった。これが宗教改革の発端となり、ただちにドイツ語に翻訳されてドイツ中に広まった。ヴィッテンベルクをはじめ各地の大学で討論会が開かれ、この運動をさらに進める意見が相次いだ。一方ローマでは教会審問がおこなわれ、1520年6月15日にはルターの教えを非難する勅書、1521年1月には破門宣告が出された。

 1521年4月、ルターは皇帝カールXからウォルムスの国会に召喚され、自説を撤回するよう求められたが、彼はこれを頑強に拒否した。カールXはルターを帝国から追放したが、領主のザクセン選帝候フリードリヒが保護検束によって彼を助け、アイゼナハの郊外の山上にあるヴァルトブルク城にかくまう。そこでルターは著作活動に専念し、新約聖書を原典のギリシャ語からドイツ語に翻訳した。またこのルター訳聖書は、標準ドイツ語の確立にも重要な役割を果たすこととなる。

左:1522年フンカー・ヘルク制作「ルター」、ヴィッテンベルク絵画館所蔵
右:ヴァルトブルク城=上・遠景、右下:城内のルターの部屋


<ルター派の教義について>


 ルター派教会は、信仰とキリスト教徒の生活において、聖書に記されている神のことばに絶対的な権威をおいている。救いは人間の行いによってではなく、神の恵みによってのみ得られるとする。すべての人間は原罪のために罪人であって悪の力に束縛されている。自分自身の力では自由にはなれない。神によってのみ義化義認されるとしている。そして、信仰とは神の不変の愛を信じることであり、信仰こそが神の救いの働きかけに応える唯一の道であるという。

 ルター派教会は自らを“福音が述べ伝えられ、福音に従って聖礼典が取り行われる信徒の集会”と定義した(「アウクスブルク信仰告白」の第8条)。したがって、当初からルター派教会の礼拝は聖書を中心としており、伝統的な7つの(ルター派では礼典といわれる)のうち洗礼聖餐式(カトリックではミサ、実際ルター派でもミサという呼称も使われる)の2つのみを認めた。礼拝ではカトリック教会で使われてきたラテン語を排して、民衆が理解できる民族言語を用い、説教を聖なる務めとして重視した。礼拝の構成はミサにおける聖体の秘跡に関する箇所を除いた構成と殆ど同様と言えるが、聖書の解釈に基づく説教を重視している。会衆を積極的に礼拝に参加させるために、特に簡易なコラール(一般聖歌)を斉唱させた。このような礼拝の発展の上で、ルター自身が有名なコラール(例えば「神はわがやぐら」など)を作曲し、多大な貢献をしている。その多くにグレゴリオ聖歌から取られた旋律がみられる。


2000-2011

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