制作者:国本静三

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モーツアルトと人々




<洗礼名簿に記された名前


ヨハンネス・クリソストムス・ヴォルフガングス・テオフィルス・モーツアルト
Johannes Chrysostomus  Wolfgangus   Theophilus  Mozart


 彼の名は3人の聖人の名が冠せられている。ヨハンネス・クリソストムス(c.354-407)は、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の大司教で、ギリシア教父最大の説教家であった。ヴォルフガングス(924-994)はドイツ人のベネディクト会修道士で、時の皇帝ハインリヒ(エンリコ)2世の師でもある。そして貧者をあわれむ人であった。テオフィルス(2世紀) は、シリア・アンチオキアの司教であった。




<モーツァルトの家族>

ヨハン・ゲオルク・レオポルト・モーツァルトJohann Georg Leopold Mozart(1719-87)
作者不詳1665年頃制作

 几帳面なザルツブルク宮廷の副楽長。ドイツのアウグスブルク出身のヨーロッパ各地からザルツブルクに集まってきた音楽家の一人である。巧みなヴァイオリンの技術を認められ、宮廷楽団に所属し多彩な音楽活動をしていた。モーツァルトの生まれた年1756年に「ヴァイオリン教程」を出版し、この時代の楽器演奏法の重要な文献となっている。モーツァルトは、父のすべての知識、技術を受け継ぎ、凌駕してしまう。



マリア・アンナ・モーツァルトMaria Anna Mozart(1720-78)
ペルティ1765年制作

 ザルツブルク宮廷の財務官の天真爛漫な娘。豊かな家庭に育った彼女は、1才年上のレオポルトと27才の時結婚して以来、生涯貧しい暮らしをしいられるが、不満を言うことなく楽天的な性格を崩していない。パリに滞在中、常に息子の負担にならないように気遣い、モーツァルト(22才)と看護婦に看取られ病死(57才)した。



姉マリア・アンナ・ヴァルブルガ・イグナツィアMaria Anna Walburga Mozart(1751-1829)

 愛称ナンネNannerl(ナンネルと表記もされるがナンネルが原音に近い)。3男4女の兄弟のうち第4子ナンネルと第7子のモーツァルトが生き残った。33才の時=1784年、15才年上の2度妻に先立たれた5人の子持ちのザンクト・ギルゲンの地方管理官(宮中顧問官)と結婚した。ナンネルはこの夫と新たに3人の子供をもうけ、1801年に未亡人になってからザルツブルクで住んだ。最後の数年は盲目になり1829年、78歳で死去。



妻コンスタンツェ・モーツァルトConstanze Mozart(旧姓ヴェーバーWeber)(1762-1842)

結婚頃のコンスタンツェ          夫の死後ハンセン1802年制作

 ヴェーバー家の三女。マンハイムにいたヴェーバー家は、父親の死を機にミュンヘンを経てヴィーンに移住していたので、モーツァルトとはヴィーンで再会した。この時モーツァルトが3年前に失恋した次女アロイジアは、ランゲに嫁いで宮廷オペラのプリマ・ドンナになっていた。モーツァルト死後再婚した。
 モーツァルトの結婚前のコンスタンツェについてのコメントは下記のようである。

470 モーツアルトよりザルツブルグの父に
[ヴィーン、1781年12月15日]


 ところで、ぼくの愛の対象は誰でしょう?‥‥‥(略)‥‥‥−でも、ヨゼーファでも−ゾフィーでもなくて−コンスタンツェ、まん中の娘です。‥‥‥(略)‥‥‥長女は怠け者で、無作法で、不実で油断ならない人です。ランゲ夫人になった娘は、嘘つきで、意地悪で、誘惑的な(コケット)な女です。末の娘はまだ若すぎて、特にどうという取り柄もなくお人好しだけども、軽薄な娘っ児です! 神様があの子を守ってくれますように!−ところで、まん中の娘、つまりぼくの善良な、かわいいコンスタンツェは一家の殉教者で、おそらくそのためにももともと心優しく、賢くて、要するにみんなのなかで一番いい娘です。−自分から家事のいっさいを引き受けているのに姉妹たちに満足されていません。‥‥‥(略)‥‥‥彼女はブスではありませんが、けっして美人とはいえません。およそ彼女の美しさは、その小さな黒い両の目と、すらりとした体つきにあります。機知はありませんが、妻として、母親としての務めを果せるだけの常識は充分に備えています。彼女に浪費癖などありません。それは真っ赤な嘘です。

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集X/白水社/p180-181より


 モーツァルトの結婚1782年8月4日聖シュテファン大聖堂で行われた。コンスタンツェの母親は後見人を入れて、3年以内に妻とし、契約不履行の場合は毎年300グルデンを支払うことが明記されている。父レオポルトは半年前から2人の噂を聞き、大反対だったが、承認の手紙の到着1日前に式をあげてしまった。この妻はたしかに良妻賢母からは遠く、軽薄、軽率で浪費ぐせがある。コケットで友達感覚の妻。常に夫をやきもきさせる。躁鬱性の性格で、体が弱い(ex.足が痛む)。しかし、9年間の結婚生活は夫側から見れば常に妻を追い求め愛し、倦怠期知らずの満足した幸せな生活であったともいえる。モーツァルトの死後、そしてニッセンと再婚した。晩年、再婚の夫ニッセン(1765-1826)と共に1820年からモーツァルトの故郷ザルツブルクで住み、夫ニッセンと共に義父レオポルトと同じ墓地に眠る。享年80歳。



モーツァルトの子供達

 モーツァルト26才、コンスタンツェ19才で結婚して9年間の結婚生活で6人の子を得た。
第1子長男ライムント・レオポルト誕生(1783_6/17-8/19):
 モーツァルト27才の時誕生。
 生後2ヵ月と2日で死亡した。


第2子次男カール・トーマスCarl Thomas Mozart(1784_9/21-1858_10/31):
 モーツァルト28才の時誕生
。9月21日。
 音楽を学んだが、ミラノで官吏になって当地で74歳で死去。生涯独身。


第3子三男ヨハン・トーマス・レオポルトJohann Thomas Leopold Mozart(1786_10/18-11/15):
 モーツァルト30才の時誕生。
 生後28日で死亡した。


第4子長女マリア・テレジアMaria Theresia Mozart(1787_12/27-1788_6/29):
 モーツアルト31才の時誕生。
 生後6ヵ月で死亡した。

第5子次女アンナ・マリアAnna Maria(1789_11/16):

 モーツァルト33才の時誕生。
 当日生まれてすぐに死亡した。


第6子四男フランツ・クサーヴァーFranz Wolfgang Mozart(1791_7/26-1844_7/29):

 モーツァルト35才の時誕生。7月26日。
 レーム ベルクで音楽教師と合唱指揮者をした。ピアノ曲、室内楽と作品も多い。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト2世を名乗った。ジュースマイヤーとコンスタンツェとの間の子供ではないかという臆説もある。

 以上でわかる通り、成人したのは第2子(次男)カール・トーマスと6番目の末っ子(4男)フランツ・クサーヴァーの2人だけであった。

ハンセン1798年制作カールとフランツ



ジュースマイヤー


 ジュースマイヤーSüsmayr(1766-1803)はオーストリア、シュヴァーネンシュタットで生まれた。父から音楽の手ほどきを受けたという。1779-84年までクレムスミュンスター修道院で学び、後に同地のリッター・アカデミーで哲学と法律を勉強した。1787年までアルト歌手、テノール歌手、ヴァイオリン奏者、オルガン奏者としても活動した。1787年秋にクレムスミュンスターを去って、1788年7月からヴ ィーンに住む。個人音楽教師や宮廷楽団で臨時奏者として務めていた。
 モーツァルトと知り合ったのは1790年頃と思われる。モーツァルトの弟子であり、助手を務めた。写譜などの仕事をこなしていたと思われる。未完の「レクイエムK.626」に補筆して完成した。

 モーツァルトはレクイエムを完成することは出来なかった。未亡人コンスタンツェは、ヴァルゼック伯爵との契約履行のため、残金の獲得のためにも完成する必要があった。先ず未亡人はモーツァルトの弟子のアイブラーEybler(1765-1846)に補筆依頼を持ち込んだが、第1曲=入祭唱とキリエと第2曲=続唱・怒りの日の<5.Confutatis 呪われた者は>まで手を入れ、すぐに仕事を降りてしまった(アイブラーの前にフライシュタットラーが第1曲=入祭唱とキリエのオーケストレーション=管弦楽化に関わった可能性がある)。彼はモーツァルトが書いた楽譜に直接書き込んだに過ぎなかった。次いで後輩弟子ジュースマイヤーに依頼し、1792年に補筆し完成された。これが補筆完成版として今に伝えられ、残るものである。ヴァルゼックがモーツァルト未亡人から受け取った<ジュースマイヤー版スコア><モーツァルト自筆の未完成版スコア>の2つがヴィーン国立図書館に所蔵されている。

 最後の年、1791年6月4日、翌月に産み月を迎えたモーツァルトの妻コンスタンツェは、体の状態がよくなかった。6月4日に6歳の次男カール・トーマスとモーツァルトの弟子ジュースマイヤーを伴い、温泉地バーデンに保養に出かる。このバーデンの妻への手紙が多数残っている。それを見るとジュースマイヤーが療養中のコンスタンツェの世話をしていたことが分かる。モーツァルトが妻への手紙の結びに妻や息子カールへ愛情あふれる結びに付加されているジュースマイヤーへの揶揄したメッセージがある。“宮廷道化師によろしく。”、“スナイにお尻一杯の御挨拶を−そして某をたっぷり悩ましてあげるように伝えてくれたまえ。”、“ラッチ・パッチには1000回の平手打ちを。”、“−そして・・・には鞭打ちを。”(・・・はニッセンによる抹消)などなど。これらによってジュースマイヤーと妻コンスタンツェの特別な関係を示すものともいわれる。7月26日に生まれた第6子四男フランツ・クサヴァーは、この2人の間に生まれた子ではという推論も出ている。
 いずれにしても夫はバーデンでの妻のつつしみの欠けた当地での振る舞いについて、必ず各手紙で苦言を述べている。それとジュースマイヤーとの関連は明かではない。

741 モーツァルトよりヴィーン近郊バーデンの妻に
[ヴィーン、1791年10月2日]

 いとしい妻へ!マ・トレ・シェール・エブーズ
 とても元気にしていることと思う。ぼくはいま、きみが妊娠中ほとんどめったにしか気分が悪くならなかったことを考えていたんだ。やはり、温泉がひょっとしてあまりにもきみを開放的にしすぎてるんじゃないだろうか?−その証拠を待ちたくない、証拠なんていつも惨めなものだ。ぼくの忠告はいつもそうだが、きみがすぐにもやめることだ!そうすりゃ、ぼくの気持ちはすっかり落ち着くだろう。
…略…
 きみからの便りをいまかいまかと待ちわびている。もう12時半だというのに、何も届かない。でも、もう少し待ってから封をしよう。何も来ない、閉じなくては!ごきげんよう、最愛、最上の奥さん!
 
海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/白水社/p651-652より

 ジュースマイヤーはモーツァルトの死後、サリエリの弟子になる。1794年にはヴィーン宮廷劇場ドイツ語オペラの楽長となり、約30程の舞台作品を作った。特にドイツ・オペラが多く含まれている。




シカネーダー


 シカネーダーSchikaneder(1751-1812)は俳優、歌手、台本作家、劇場興行師である。1787年から89年にかけてレーゲンスブルクのカール・アンゼルム・フォン・トゥルン・ウント・タクシス侯に仕える劇団を主宰し、モーツァルトのジングシュピール「後宮よりの誘拐K.384」などを上演した。その後1789年3月に死去した劇団主フリーデルのあと継いで、ヴィーン市街城壁のすぐわきのフライハウス(免税館)内にある小さな劇場、ヴィーデン劇場Theater auf der Wiedenの持ち主となった。フライハウス劇場とも呼ばれる。気安い娯楽的な音楽付きの滑稽劇を出し物にしていた。またヨーロッパ各地を巡業し、モーツァルトとは1780年、一座を率いてザルツブルクを訪れた時知り合った。モーツァルトが所属したフリーメイソンの会員でもある。

 1807年にモーツァルトの義妹ゾフィーは、この劇団の団員ハイベルと結婚した。彼はこの劇団の歌手兼楽器奏者兼作曲家であった。この劇団の管弦楽団は35名からなり、指揮者はヘンネベルク(1727-91)で、作曲もした。




サリエリ>


 サリエリSalieriイタリア(1750-1825)は、レガノ生まれの作曲家である。サリエリは同時代には世間からかなりの賞賛を得ていた。1766年にヴィーンの宮廷に招かれ、1788から1824年までヴィーン宮廷楽長を務めた(1791-93年はチマローザが宮廷楽長だった)。モーツァルトがヴィーンに移って来たのは1781年3月16日であった。まさしくサリエリはヴィーンでの栄光の地位にあった。オペラ(43曲)、室内楽曲や教会音楽にも優れていた。当時の音楽家として最高の地位と名声を欲しいままにしていたサリエリは、ハイドンとも知己であり、ベートーヴェンシューベルト、チェルニー、フンメルリスト、モシェレス、ゼヒター、ジュースマイヤー、ヴァイグルの作曲の師でもあった。

 サリエリとモーツァルトの対立は事実か?? それを実証する証拠は一つもない。しかし、サリエリ生前中からモーツァルト毒殺のうわさもあり、サリエリ自身もそれを示唆する発言をしたともいわれている。その時はすでに高年性の認知症であったサリエリの妄想ともいわれている
(1823年弟子モシェレスはサリエリが毒殺のうわさを否定するのを聞いた。同年のベートーヴェンの筆談帳にも毒殺のうわさが記されている)。そしてサリエリによるモーツァルト毒殺は、19世紀以降の文学作品の題材にもなり、未だに我々の好奇心をかき立てている。プーシキンの劇詩「モーツァルトトサリエリ」は1830年に書かれた。またリムスキー=コルサコフの毒殺をテーマにしたオペラ「モーツァルトとサリエリ」もある。20世紀にはピーター・シェーファー「アマデウス」(1979年出版、映画化もされたのは周知の通り)が有名である。

サリエリ



ベートーヴェン


 ベートーヴェンBeethovenドイツ(1770-1827)が17歳の時、ヴィーンでモーツアルトと出会っている。それは1787年4月、ベートーヴェンは自作を尊敬するモーツアルトの前で弾いたが、興味を示してもらえず癇癪を起こしたらしい。モーツアルトを作曲家として絶大なる敬意を持っていたが、オペラ「ドン・ジョヴァンニ」はベートーヴェンにとっては許し難い題材であった。これについてもベートーヴェンの端的なリアクションが見られ、おもしろい。

モーツアルト(1756-91)+35 2人が関わる
人物・要素
ベートーヴェン(1770-1827)+56
声楽と器楽の全分野(ex.オペラ)
時代感覚、娯楽性
功績 器楽音楽(交響曲)
音楽の作品性
良き師
楽器演奏、作曲、伊語、ラテン語、英語を教えた
良くない師祖父は良き師、暴力、飲酒癖
祖母もアル中だった
弦楽四重奏6曲(1782-85)を献呈 ハイドン
(1732-1809)
ピアノ・ソナタ第1,2,3番
(1793-94)を献呈。師事(22才)
ライヴァル(サリエリはヴィーン宮廷楽長) サリエリ
(1750-1825)
オペラの師であった(31-33才)
ゲーテはモーツァルトを音楽の奇跡と賞賛 ゲーテ
(1749-1832)
1812年にに会うが噛み合わない 
率直な表現 手紙 文学的、情熱的
ex.「不滅の恋人への手紙
水がめ座(1/27誕生)←相性悪い→ 星座 射手座(誕生日不明 1/17受洗)
浪費家(江戸っ子型) 金銭感覚 けち(株券を所有)
小柄で貫禄ない(←父レオポルト) 容貌 カニ顔(モーコ大帝←ハイドン)
真面目と不真面目の混在性
“(モーツァルトの音楽は)重みが浮かび、軽さが限りなく重い”(カール・バルト
性格 癇癪もち,真面目で正義感が強い
手近志向(ex.パン職人の娘従妹・下宿屋の娘:アロイジアコンスタンツェ 一流志向(ex.貴族)



2001-2006


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