制作者:国本静三

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モーツアルトの青年時代と作品

 ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトWolfgangus Amadeus Mozartオーストリア(1756-91)




ザルツブルクでの音楽家生活(1773年3月4日〜1777年9月23日)


 モーツァルトMozartオーストリア(1756-91)は、17歳(1773年)から割合長い間、故郷ザルツブルクで過ごすことになる。心身ともに成育期にあった旅に明け暮れた少年時代は、密度の濃いインプットの時代だったと言える。それに対して故郷ザルツブルクでの落ちついた生活は、旅で吸収したすべてを消化し、新たなものを作り出す成長期となっていった。特にイタリアの旅はたいへん印象的だったと思われる。帰郷後しばらくはイタリアの香りが漂う作品が多く作られている1)

 しかし、モーツァルト子は、このザルツブルクの生活に満足したわけではない。レオポルトは絶えず息子のために何かよいことはないかと頭を巡らしていた。ザルツブルクではヴォルフガングの能力は活かされないと考えていたからである。3回目のイタリア旅行から帰った1773年3月から席も温まらないその7月に、コロレド大司教がヴィーン行きのため、ザルツブルクを留守にした。チャンスとばかりもっとよい就職先を求めて父子は7月16日から9月25日まで、ヴィーンに行く。ヴィーン宮廷楽団への就職をもくろんだが、うまくいかなかった。マリア・テレジアとの謁見も効をなさず、宮廷側の態度も以前と全く変わってしまった。あきらめた父子は、すごすごと9月26日にはザルツブルクに戻っている。

 この職探しの失敗にみえるヴィーン行きも見方を変えれば、以後のモーツァルトの幅広い活動と音楽上の収穫からみると、これでよかったと考えてよいかもしれない。どんな大きな都の宮廷にしろ、所詮宮仕えで、よい仕事、つまり作曲活動ができたか否かは疑問である。今で言えば殆どフリーター状態の社会的立場であったからこそ、彼の幅広い作品群が可能であったと考える者である。
 また、たしかに今回の本格的には2度目となる職探しの失敗も無理からぬ点もあった。というのはこの時ヴィーンにはあまりにも優れたそうそうたる音楽家が多く結集していた。一例をあげるだけでもハッセドイツ(1699-1783)グルック ドイツ(1714-87)ヴァーゲンザイルオーストリア(1715-77)ディッタードルフオーストリア(1739-99)サリエリイタリア(1750-1825)ホーフマンオーストリア(1738-93)(聖シュテファン大聖堂楽長、宮廷楽長を勤めた)ミスリヴェチェクチェコ(1737-81)(イタリアでも活躍。モーツァルトと交友、影響を与えた)等の作曲家や、多くのすぐれた演奏家や音楽教師がヴィーにはいた。当時の視点で言えばザルツブルクの音楽家モーツァルトは、そうした華やかな地位や名誉ある音楽家の中では目立ったものではなかった。だが、だが、モーツァルトは事実彼らをはるかに超える音楽家となる。これは歴史的にみれば一目瞭然である。

 ヨーゼフ・ハイドンJ.Haydnオーストリア(1732-1809)は、この頃(1773年)、人々の注目を集めつつあった。ハイドンはモーツァルトにとって、作曲の模範ともなったし、モーツァルトの進むべき道を指し示す作曲家であった。丁度弟のミハエル・ハイドンがザルツブルク宮廷に仕えていた。そのためハイドンとモーツァルトの二人を結びつける機会が早くからあったが、本格的には1781年頃以後からハイドンと親しくなっていく。

 世は疾風怒濤Strum und Drangの時代であった。ハイドンは1772年には彼の作品にこの傾向を表している。モーツァルトも1773年からこの影響を受け、情感ゆたかで鋭い楽風の作品を作っている。1773年10月から1774年はじめに「交響曲24番変長調K.173dA25番ト短調K.173dB29番イ長調186a」は疾風怒濤の傾向を示すものである。またこの3つの交響曲は、十代のモーツァルトの傑作である。この頃からクラヴィア協奏曲も書き始めた。

 1774年の春からモーツァルトはがらりと音楽スタイルを変える。それはギヤラント様式といわれるものに身をおき、いわばちょっぴり軽薄で(?)こまっしゃくれた美しさで勝負した。これはドイツにおいても流行していた。「ファゴット協奏曲変ロ長調K.186e」、「クラヴィア・ソナタハ長調K.189dヘ長調K.189e変ロ長調189f変ホ長調K.189gト長調K.189h」などはこの例であろう。

 1774年12月6日モーツァルト父子はミュンヘンに向かった。それはバイエルン選定侯マクシミリアンVから依頼された謝肉祭のためのオペラ・ブッファ偽りの女庭師K.196の上演のためであった。初演は2週間ほど延びて2)1月13日に行われた。姉のナンネルも一人で初演に立ち会うためやって来た。初演は、ザルヴァトル広場に旧宮廷劇場で行われたらしい。大成功だった3)。ミュンヘンでの収穫は、オペラの成功以上に意味をもつものがあった。それはギャラント様式を知り、ザルツブルクに帰郷後その影響を受けた作品を作るようになった。「クラヴィア・ソナタニ長調K.205b(1775年)などは、はっきりとギャラント様式である。

 1775年は、ギヤラント様式の名作、5つのヴァイオリン協奏曲の年であった。ザルツブルクのコロレド大司教は音楽に理解を示さず、それと人間的な問題もからみ、モーツァルトとは不仲であった。ではなぜこの短い期間に5つものヴァイオリン協奏曲を書き、自らヴァイオリンも弾いたのか。考えるに協奏曲というものは、音楽に疎い人をもひきつけ、独奏者の技術を誇示もできるものである。そこで自ら演奏して、自分の能力をなんとかコロレドに示そうとする下心があったとも推測される。だが、その効果は無かったようであるが。
 モーツァルトのもう一つの目論みもあったかもしれない。それは第5番イ長調“トルコ風”K.219」には洗練された批判精神も感じられる。華麗さばかりでなく、皮肉が共存しているようである。つまりコロレド大司教に向かって“あなたはトルコ=イスラム=野蛮”とでも言いたかったのではないだろうか?! でも、この時期“トルコ風alla turuca”は大流行であった。当時隆盛を極めていたオスマン・トルコ帝国の軍楽隊は、ヴィーンの町でも見聞きできたし、その異国的で粋な雰囲気をこぞって自作に取り入れる音楽家は多かった。モーツァルトの究極のトルコ風はオペラ「後宮からの誘拐K.416a(1782年作曲・初演)であろう。他は「クラヴィアのためのソナタ イ長調K.300i(“トルコ行進曲付き”)(1783年7−10月)が有名である。

作品名

 作曲年月日

年齢

ヴァイオリン協奏曲(第1番)変ロ長調K.207

1773/04/14

17歳

ヴァイオリン協奏曲(第2番)ニ長調K.211

1775/06/14

19歳

ヴァイオリン協奏曲(第3番)ト長調K.216

1775/09/12

19歳

ヴァイオリン協奏曲(第4番)ニ長調K.218

1775/10

19歳

ヴァイオリン協奏曲(第5番)イ長調K.219(“トルコ風”)

1775/12/20

19歳

ヴァイオリンのためのアダージョ ホ長調K.261

1776?

20歳

ヴァイオリンのためのロンド 変ロ長調K.261a

1775〜77

19〜21歳



 1776年1月にモーツァルトは、ついに20歳なった。彼はザルツブルクの大司教宮廷に仕える音楽家として、職務をなんとか果たしていた。主に機会音楽のディヴェルティメントが多く作られた。交響曲やソナタはない。だが、貴族の女性のための作品が多くなり、例えば「3台のピアノのための協奏曲ヘ長調第4番K.242(アントニア・ロードゥローン伯爵夫人と2人の令嬢のため)、「ピアノ協奏曲ハ長調第8番K.246(アントニエ・リュッツォウ伯爵夫人のため)、「ハフナー・セレナード ニ長調K.248b(市長ハフナーの娘の婚礼のため 菅楽器のため)、「ディヴェルティメント ニ長調K.251(おそらく姉ナンネルの誕生日ため)などがある。これらの作品は自己表現、つまりモーツァルト自身の世界を表現し得る作曲家としての成熟を示すものである。そうした年齢に達していたのである。

 レオポルトは、息子がこうしてザルツブルク宮廷でくすぶっていることはよくないと考えていたし、モーツァルトも宮廷の仕事に耐えかねていた。この年の9月に、イタリアで教えを受けたマルティーニ神父にあてて手紙を書いている4)。しかし、それは全文父レオポルトの筆跡で、署名と同封した作品、教会歴季節(待降節と四旬節)用の奉納唱「主のあわれみをK.205a」のみがモーツァルトの筆跡であった。その手紙においては父が子モーツァルトのために切々とザルツブルクの音楽事情を訴えている。モーツァルトのために何かよいイタリアで就職口がないものかとやんわりと依頼したげである。この手紙は当時のザルツブルクの音楽事情を知る貴重な資料でおある。マルティーニ師のそつのない丁寧な返信5)もおもしろい。

 1777年6)3月14日、父子の各地への旅行願いを大司教に出すが、却下された。再度8月1日にモーツァルトは皮肉を込めてかなり慇懃に父とそろって旅立つ許可を求めた。この残された請願書は父の筆跡であり、ただ息子モーツァルトは署名を行ったのみであった。しかし、父レオポルトの想定外の結果がもたらされてしまったのである。父子そろって辞職せざる得なかった。結果として9月1日付けで父子は解雇され、自由に旅行ができることにはなる。それ以後父はショックで病気になり、重いカタルにかかり寝込んでしまった。そのため次の旅は父がザルツブルクに止まり、がモーツァルトに同行することになった。


[注]*制作者と引用箇所の固有名詞に表記の違いがあります


1)「ディヴェルティメント変ホ長調K.159b」、「交響曲第22番ハ長調K.161b、第23番ニ長調K.162b(1773 5)、第26番変ホ長調K.161a、第24番変ロ長調K.173dA」などである。

2)
212 レーオポルト・モーツァルトよりザルツブルクの妻に
[ミュンヒェン、1774年12月28日]

 新年おめでとう!

 おまえたちがザウラウ伯爵閣下のところに伺っていたちょうどその日の朝十時に、ヴォルフガングのオペラの最初の稽古があり、これがすっかり評判になったため、オペラは1775年1月5日まで延期になりました。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 U/白水社 p445-446より
214 レーオポルト・モーツァルトよりザルツブルクの妻に 
ミュンヒェン、1775年1月5日

 昨日はナンネルが午後2時前に無事ミュンヒェンに着きました。‥‥‥(略)‥‥‥ヴォルフガングのオペラは13日にはじめて上演されることは、おまえもシュルツさん から聞いていることと思います。‥‥‥(略)‥‥‥部屋にはきちんと鍵をかけておきなさい。‥‥‥(略)‥‥‥


同U/p453-454より

3)
216 モーツァルトよりザルツブルクの母に 
ミュンヒェン、1775年1月14日


ありがたいことに! ぼくのオペラはきのう13日に上演されました。そしてとてもいい出来だったので、その評判はママには描写できないほどです。第一に、劇場は大入り満員で、大勢の人が引き返さなくてはなりませんでした。ひとつのアリアが終わるごとに、いつも拍手と驚嘆のどよめきとマエストロ万歳の叫び声です。選定侯妃殿下も大妃 も(ぼくの向かい側におられて)ぼくにブラヴォーと言われました。‥‥‥(略)‥‥

同U/p456-457より

4)
227 モーツァルトよりボローニャのジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ師に
いとも敬愛すべき巨匠たる神父様[全文イタリア語]
[ザルツブルク、1776年9月4日]


‥‥‥(略)‥‥‥尊師がこの曲をいかがお考え召されるかを率直に忌憚のなく私におっしゃって下さいますよう、切にお願い申しあげます。‥‥‥(略)‥‥‥

 父はすでに36年も当宮廷に仕えておりまして、ここの大司教が年輩者を理解することもできず、また、望みもしないのを知っており
、またそれを気にかけもせず、それでも自分の好む研究の文献に没頭しております。私どもの教会音楽はイタリアのそれとは大いに異なっているばかりか、‥‥‥(略)‥‥‥もっとも荘厳なミサですら、大司教御自身がじきじきにとりおこないますときには、一番長くてさえ45分以上にわたって続いてはならないのです‥‥‥(略)‥‥‥
                                            敬具  
                                                
いやしくも忠実なかぎりのしもべ  ヴォルフガンゴ・アマデーオ・モーツァルト

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 V/白水社 p23-26より

5)
229 ジョヴァンニ・バッティスタ・マルティーニ師よりザルツブルクのモーツァルトに[全文イタリア語]
ボローニャ、1776年12月18日


 
‥‥‥(略)‥‥‥この曲には、現代音楽が要求するところのものすべて、良い和声、熟達した転調ヴァイオリンの節度ある動き、諸声部の自然な変化、それに無理のない見事な声部処理が見られるので、たいへん喜んでいます。‥‥‥(略)‥‥‥

同V/p27-28より


☆「3台のピアノのための協奏曲ヘ長調第4番K.242」

 
1776年2月、ザルツブルクで作曲した親しく交際していたロードゥローン伯爵夫人とその2人の令嬢
(アロイジアとジュゼッピーナ)のためのチェンバロ協奏曲で、プロの名手に要求されるテクニックはいらない。
特に第3パートはやさしく書かれている。後に2台のクラヴィアのための協奏曲に編曲した。


参考ディスク

LD 
WPLP-9716 発売収録1990

サー・ゲオルグ・ショルティ指揮、イギリス室内管弦楽団
サー・ゲオルグ・ショルティ、ダニエル・バレンボイム、アンドラー・シフ(P)

6)
[この頃のモーツアルト]1777年制作 「3つの勲章を付けたオーツァルトの肖像

 1770年1回目のイタリア旅行中、7月5日イタリア旅行中に教皇より黄金軍騎士勲章を受けた(14歳)。同年ボローニャのアカデミア・フィラルモニカAcademia filaronica会員と、1771年ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカAcademia filaronica<カヴァリエーレ・フィラルモニコCavaliere filarmonico>(好楽の騎士)の称号を与えられた。

 この
3つの称号を記念したモーツァルト21歳の肖像であった。胸には黄金軍騎士勲章が輝いている(1777年制作ボローニャ、マルティーニ音楽院所蔵)アカデミア・フィラルモニカ会員カヴァリエーレ・フィラルモニコの合わせて3つの称号を記念したモーツァルト21歳の肖像であった。しかし、こうしたことに興味を全く興味を示さないモーツァルトであった。



マンハイムとパリヘの旅(1777年9月23日〜1779年1月15日)
 <マンハイム(1777年10月30日〜1778年3月14日)>


 1777年8月1日に再度モーツァルト父子は、皮肉を込めてかなり慇懃に父とそろって旅立つ許可を求めた。しかし、父レオポルトの想定外の結果がもたらされてしまった。父子そろって9月1日付けで父子は解雇された。それ以後父はショックで病気になり、重いカタルにかかり寝込んでしまった。そのため次の旅は父がザルツブルクに止まり、がモーツァルトに同行することになった。

 1777年9月23日モーツァルトは母マリア・アンナと共にザルツブルクを出発した。レオポルトにとってはこれが、妻マリア・アンナとは最後の別れになった。細かく気のつくレオポルトにとってはたいへん心配な妻子の旅だった。とはいえ寝込んでしまった父にはなすすべもなかった。父の思いはどんなものであったろうか。同行する母は、おおらかではあるが実際的ではなく、父が果たしてきたようなステージ・パパ的役割は果たせないだろう。

 この旅は、21歳のモーツァルトを音楽家として人間として自立させる門出となった。旅に出てすぐに呑気な二人は、必要な免状や紹介状を忘れたことに気付くのである7)。このように二人の道中は始まり、旅がらすの母子組(マリア・アンナとモーツァルト)とザルツブルクの父娘組(レオポルトとナンネとのほほえましく、興味深い往復書簡が交わされることになる。しっかり者で心配症の父は、モーツァルトを遠隔操作するが、うまくいかなかった。こんな様子も手紙で読み取れるのである。

 ミユンヘンでの就職活動は結局あきらめ、父の勧めにしたがい8)、10月11日に父レオポルトの故郷アウクスブルクに着いた。そして父は盛んに1770年にローマでもらった<黄金軍騎士勲章>の着用をすすめているのがおもしろくおかしい9)

 アウクスブルクでは、レオポルトの弟の娘ベーズレことマリア・アンナ・テクラと知り合うことになる。このレオポルトの弟、フランツの紹介で、町の重要人物をたずね歩いている。ヨハン・アンドレアス・シュタイン(1728-92)(ハンマーフリューゲルの制作者)との出会いは、モーツァルトの以後のクラヴィア音楽の分野にとって大きな刺激を与えた。というのはモーツァルトの日頃弾いていたクラヴィア(鍵盤楽器)チェンバロで、いわばこの18世紀のピアノ(=ハンマーフリューゲル、フォルテピアノは、現代のピアノに限りなく近いものでもある。宮廷のないアウクスブルクの町はモーツァルトには惹きつけるものがなく、10月26日にマンハイムをめざして発った。

 10月30日マンハイムに着き、ここで4ヶ月半ほど滞在する。宮廷もあり、当時のドイツにおける文化活動の中心地の一つであった。シュターミッツを招いていた宮廷オーケストラは、ヨーロッパ随一のものになっていた。マンハイム楽派という名を今でも残している。11月6日、宮廷の演奏会に出演して成功をおさめた。翌日に選定侯と謁見して、オペラの作曲を打診したがうまくいかない。ここマンハイムでおもしろい手紙ベーズレ書簡10)が書かれることになる。現在6通が残されていて、モーツァルトの結婚後ベーズレからモーツァルトに返されたらしい。妻コンスタンツェが所持していた。

 マンハイムで作曲したモーツァルトの作品をあげると、「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ ト長調K.293a(1778)、「フルート協奏曲ト長調K.285c(1778)、「フルート協奏曲ニ長調K.285d(1778)などで、これらはマンハイム楽派の様式が色濃く表れている。またモーツァルトはマンハイムで忘れることのできない恋を経験する。相手はアロイジア・ヴェーバーであった。

ベーズレ

         アロイジア

 1778年3月14日、母とともにパリに向かうことになる。アロイジアに対する後髪をひかれる思いと、将来に対する不安も交差したことであろう。


[注]


7)

232 モーツァルトよりザルツブルクの父に
[ヴァッサーブルク]1777年9月23日


 ザルツブルク大司教猊下宮廷礼拝堂楽長レーオポルト・モーツァルト様

 ‥‥‥(略)‥‥‥ぼくは旅にすっかり馴れました。第二のパパですからね。万事に気を配っていま す。御者への礼もぼくがすかさず支払っています。ああいう連中と話をつけるのは、やはりママよりぼくのほうがうまいですからね。‥‥‥(略)‥‥‥ぼくらは二人とも、パパが健康に注意して、あまり朝早くから外出したり、ひとりで腹を立てたりしないようにお願いします。大いに笑い、陽気に過ごし、そして、常に楽しく、ぼくらのように。あの回教坊主のH・Cは尻尾みたいな奴で、神さまはやはり憐れみ深く、慈悲を垂れ、愛を恵んでくださるのだということをお考えください。‥‥‥(略)‥‥‥

 追伸 ‥‥‥(略)‥‥‥家に免状などを忘れてきたようにおもうけど?―― どうぞ至急お送りくださるようお願いします。


海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 V/白水社/p38より

234 モーツァルトよりザルツブルクの父に
ミュンヘン、1777年9月26日

 ‥‥‥(略)‥‥‥

  マリーア・アンナ・モーツァルトの追伸

 ‥‥‥(略)‥‥‥さようなら、いとしい方、お元気でね。お尻に口をくっつけて舐めて下さい。おやすみなさい。ベッドに音を立ててウンチして下さい。‥‥‥(略)‥‥‥

同V/p51より

8)
241 レーオポールト・モーツァルトよりミュンヒェンの妻と息子に
ザルツブルク、1777年10月6日

 ‥‥‥(略)‥‥‥おまえひとりならミュンヒェンで暮らしていけるというのはもっともなことです。‥‥‥(略)‥‥‥そんなことは、おまえならミュンヒェンでばかりかどこでだってできるのだ‥‥‥(略)‥‥‥ところで、おまえたちは神の御加護によって旅を続けることになるだろうし、アウクスブルクでは、アウクスブルクの商人がみんな私に褒めてくれているハイリヒ・クロイツァー通り《ツム・[
ヴァイセン・]ラム[白羊館] 》に宿を取るのです。‥‥‥(略)‥‥‥

 なお、おまえにいっておかねばならないのは、オーケストラがおまえのコンチェルトを申し分のないくらいに見事に演奏したことです。所で、オーボエ奏者がもう一人、第二奏者としてイタリアから来るはずです。‥‥‥(略)‥‥‥
おまえたち二人に百万回キスします。心からいつまでもおまえたちの老いぼれた夫にして父親のモーツァルト

マリーア・アンナ[ナンネル]・モーツァルトの添え書

 ‥‥‥(略)‥‥‥今日は舞踏会がありました。‥‥‥(略)‥‥‥ところで私は、仮面をとって自分の正体を現すほど立派で綺麗な仮面を持っていなかったので、私たちは、パパは黒の光沢のある絹の服と古い仮面、それに私は古い家庭用ボンネット、白のリンネルの頭巾付きオーバー、それと、エーベリーン嬢の黒の琥珀織りのオーバーオール、それにあんた用のあの仮面で行こうと決めました。私たちは十二時半まで残っていました。誰も長い間私に気がつきませんでした。あんたのお気に入りのB嬢は、私のサヴォワ風の仮面をつけていました。‥‥‥(略)‥‥‥


                    としよりのおばぁちゃん、マリー・アンヌ・モーツァルト

同V/p92-96より
245 レーオポルト・モーツァルトよりアウスブルクの息子に
ザルツブルク、1777年10月12

 十月十三日。私たちはおまえの手紙を私たちが望んでいたようにアウクスブルク からではなく、またミュンヒェンから受け取りました。その手紙には、おまえたちは十一日、つまり土曜日にアウクスブルクに行くとあったが、それと食いちがって、おまえたちは二人とも手紙の日付を十一日付にしています。これは十日晩じゃなければなるまい。まったくどうしたというのだ。おまえたちが一文の収入も期待できないミュンヒェンにそんなに長逗留し、しかもそれはほとんど三週間にもなるのだが、ずいぶんと遊んだものです。

 ‥‥‥(略)‥‥‥いつだって自分の名誉を重んじなければならないし、それにすこしはもったいぶらな くちゃいけない。
‥‥‥(略)‥‥‥

同V/p118-121より

9) 上の手紙の続き
245 レーオポルト・モーツァルトよりアウスブルクの息子に
ザルツブルク、1777年10月12

 ちょうど思いついたので、おまえに忘れぬように注意せねばならぬのだが(おまえは こうしたことにほとんど注意しないから)、おまえが勲章を頂戴したのは教皇様は、有名でお偉いガンネッリ教皇、クレメンス十四世だった。カイザースハイムでは、おまえは 自分の十字勲章を佩用しなくちゃいけない。‥‥‥(略)‥‥‥

同V/p118-121より

10) 従妹ベーズレに宛てたこれらの手紙は、ユーモアとくだけた内容である。
260 モーツァルトよりアウクスブルクのマリーア・アンナ・テークラ・モーツァルトに
[マンハイム、1777年11月5日]

 最愛の従妹ベーズレちゃん、子兔ヘーズレちゃん!

 ‥‥‥(略)‥‥‥さて、お休みなさい。花壇ベートのなかにバリバリッとウンコをなさい。ぐっすりお 眠りよ。お尻を口のなかにつっこんで。‥‥‥(略)‥‥‥ありゃ、お尻が火のように燃えてきたぞ こりゃ一体なにごとだ! ―― きっとウンコちゃんのお出ましだな?――‥‥‥(略)‥‥‥―― でも、な んだか焦げるような匂いがする―― ‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 V/白水社/p218-221より



<マンハイムとパリヘの旅(1777年9月23日〜1779年1月15日)
 <パリ(1778年3月23日〜9月26日)>


 モーツァルトとは、1778年3月23日2度目のパリの土を踏む。このパリに至る9日半の旅は、退屈でつらかったようだ。かって神童といわれたモーツァルトも22才、パリもすっかり彼のかっての評判を忘れていた。青年作曲家と演奏家としてのモーツァルトの名声は、パリには伝わっていなかった。ザルツブルクと南ドイツに知られていただけだし、頼りにしていたグリム男爵もフランス宮廷での立場を考えを変えていた。そしてパリの音楽界も大きく変化し、グルックGluckドイツ(1714-87)ピッチンニPiccinniイタリア(1728-1800)のオペラ論争が戦われていた。グリム男爵はピッチンニ派で、モーツァルトがピッチンニ派支持にまわらなかったためか、こうした中での就職活動はなお難しかった。またフランス宮廷楽団員ジャン・ジョゼフ・ロドロフ(ヨハン・ヨーゼフ・ルードルフ)が、年給2000リーヴルのヴェルサイユ宮殿のオルガニストの話もしたが断っている。母は夫レオポルトに二人の無事をいじらしく報告し、とりとめのないニュースを交えている。モーツァルトは父に、このいい訳を懸命にしている11)。このことの理由はマンハイムのアロイジアに対する愛12)にあったためと推測される。それに対する父の返事は、先ず軽々しいそうした断りを諫めている。その一方、とても明るい調子で二人に希望をもたせ、大変長い手紙を展開している。だが最後の結びで考え直せ、どんなチャンスが巡ってくるかわからないものだと説得し、グリム男爵にも相談するように強く主張している13)

 この頃作曲した有名な作品は「フルートとハープのための協奏曲ハ長調K.297c(4月)や当時流行スタイルの「協奏交響曲変ホ長調K.297b(オーボエ、クラリネット、ホルンファゴットのためのサンフォニー・コンセルタント)やバレー音楽「レ・プティ・リアンK.299b」などがある。しかし、つらいパリ生活には変わらなかった。母は心労をつのらせ、体を弱らせていた14)。しかし、パリでの傑作「交響曲第31番ニ長調“パリ”K.300a」が6月18日、チュイルリーのコンセール・スピリチュエルで初演され、大成功を収めた。


[注]


11)
332 マリーア・アンナ・モーツァルトよりザルツブルクの夫に 
パリ、1778年5月14日

 
いとしいかた
 おかげさまで私たち二人とも元気ですし、‥‥‥(略)‥‥‥あの子はド・(ギーヌ)公のお嬢様に毎日2時間作曲を教えなくてはなりません。このかたはたくさん払って下さいますし王妃のお気に入りです。公爵はヴォルフガングをことのほか可愛がって下さいます。‥‥‥(略)‥‥‥夏の終りには自分たちの住居を持つ必要があるっていうことです。‥‥‥(略)‥‥‥そうすれば半額のお金で暮らせます。‥‥‥(略)‥‥‥

 王妃(マリー・アントワネット)はいま身ごもられていますが、これもまだ公表されておりません。‥‥‥(略)‥‥‥

 ここパリでは、あの時(1763年最初のパリ訪問)からいろんなことが変わってしまいました。大きな建物がどんどん建てられて、町が大きくなり、とても説明ができません。‥‥‥(略)‥‥‥

 モーツァルトの追伸

 ‥‥‥(略)‥‥‥
その彼(ルードルフ)がヴェルサイユのオルガン奏者の職を世話してくれて、ぼくに引き受けないかと言ってくれました。それは年収二000リーヴルで、六か月はヴェルサイユで暮らさなくてはなりません。‥‥‥(略)‥‥‥どの道たいした金額ではありません。‥‥‥(略)‥‥‥

同W/p68-70より

12)
326 モーツァルトよりザルツブルクの父に
パリ、1778年3月24日

 ‥‥‥(略)‥‥‥きのう、二十三日月曜日の午後四時に、ぼくらはおかげさまで無事ここへ着きました。九日半もの旅でした。ぼくらはとても耐えきれないと思いました。生まれてこのかた、こんなに退屈したことはありません。マンハイムを立ち、あんなにたくさんの愛すべき親友と別れて、‥‥‥(略)‥‥‥神様のお助けので、万事うまく行くことを期待しています。

 ‥‥‥(略)‥‥‥ヴェーバー嬢は、ぼくへの思い出と、ささやかな感謝のしるしとして、2対のレース編みの袖飾りを心こめて編んでくれました。‥‥‥(略)‥‥‥

同W/p14-18より
           

13)
333 レーオポルト・モーツァルトよりパリの妻と息子に
ザルツブルク、1778年5月28日


 ‥‥‥(略)‥‥‥おまえはそれをそうすぐに断ってしまってはいけません。半年で八十三ルイ・ドールが稼げるってこと、―― おまえには残りの半年は別の収入があげられるよう残されているってことを、じっくり考えてみなくてはいけません。

 ‥
‥‥(略)‥‥‥宮廷にいるのだから、つまり毎日国王や王妃のお目にとまるのだから、それによっておまえの幸福にいっそう近づけるのだ。―― 二人の楽長のうち一方でも辞めでもしたら、おまえはその地位を得ることもできる‥‥‥(略)‥‥‥この手紙をフォン・グリム男爵様に読んで差し上げ、彼の意見を伺いなさい。‥‥‥(略)‥‥‥

同W/p83-84より

14)
336 マリーア・アンナ・モーツァルトよりザルツブルクの夫に
パリ、1778年6月12日

 いとしいかた


 
‥‥‥(略)‥‥‥私もヴォルフガングもおかげさまで元気です。きのう、私、瀉血をしてもらいましたので、今日はあまりたくさん書けません。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p107-109より



<マンハイムとパリヘの旅(1777年9月23日〜1779年1月15日)
 <母の死>


 1778年6月12日付けの母の書いた手紙が、最後の別れとは誰が考えただろうか。瀉血を受けたと報告している。しかし、今の医学から考えると、どんな病状だったとしてもこの処置は妥当ではなかった。そしてこの報告の6日後にモーツァルトは、つづいて母の死に至るドキュメントを父につづることになる。1778年7月3日に母は世を去った。だが、父への手紙にはまだ生きていることとして、母の様子を報告している。みごとに父を思い計る、みごとに成長した息子の姿がここにあるではないか。息子は誰よりも父の性格を熟知していた。だが、父はそれ以上に息子の心を見抜いていたのである。

338 モーツァルトよりザルツブルクの父に
パリ、1778年7月3日

 最愛のお父さん!


 非常にいやな、悲しいお知らせをしなくてはなりません。この前の十一日付のお手紙に、もっと早く返事が書けなかったのも、そのためです。―― お母さんが重態です。―― 例のように、お母さんは瀉血をしてもらいました。‥‥‥(略)‥‥‥―― でも、だんだん悪くなるばかりで――‥‥‥(略)‥‥‥―― 望みはあると人は言いますが、ぼくはあまり期待していません。―― もう長いこと昼となく夜となく、ぼくは怖れと期待の間をさまよっています。―― でも、すべて神の御心にまかせています――‥‥‥(略)‥‥‥

 どんなことになろうとも、ぼくは信頼しています。―― いかなることも(たとえそれが逆のようにぼくらに思われても)ぼくらの最善ために取り計らってくださる神が、そうお望みだということがぼくにはわかるからです。というのは、どんな医者も、どんな人間も、どんな不幸も、どんな偶然も、人の命を与えたり奪ったりすることはできない、神さまだけがひとり可能なのだとぼくは確信します(そして誰がなんと言おうともその考えを棄てません)。‥‥‥(略)‥‥‥―― だからといって、お母さんが死ぬだろうかとか、死ぬにちがいないとか、希望がすべて消え失せたとか言うのではありません。―― また元気で健康になるかもしれません、もし神がお望みでしたら。‥‥‥(略)‥‥‥


 さて、話題を変えます。こんな悲しい考えはよして、希望をもちましょう。でも多すぎてはいけません。神を信頼しましょう。そして、万能の神の御心に適えば、すべてうまくゆくのだと考えて、みずからを慰めましょう。神は、われわれみんなの現世の幸福と永遠の救済になにが有効で役立つか、いちばんよく御存知ですから――‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p131-133より
339 モーツァルトよりザルツブルクのヨーゼフ・ブリンガー師に
パリ、1778年7月3日

 
最愛の友よ!
 親展
 友よ、ぼくとともに悲しんでくれ、―― 今日は、ぼくの生涯でもっとも悲しい日だった。―― いまこれを夜の2時に書いている。―― きみにぜひ伝えなくてはならないが、ぼくの母、愛する母はもういない!―― 神に召されたのだ。―― 神がお望みになったのが、ぼくにははっきりとわかる。―― だから、ぼくは神の意志に委ねた。―― 神は母をぼくに与えてくれた以上ぼくから奪うこともできるのだ。この2週間、ぼくが堪え抜いてきたあらゆる不安や怖れや心配をどうか想像してほしい。―― 母は自分ではなにも知らずに死んでいった―― まるで光が消えるように。3日前に告解
(制作者記:ゆるしの秘跡をすませ、聖体を拝受(制作者記:拝領して、聖油制作者記:病者の塗油の秘蹟(制作者記:秘跡も受けた。―― 最後の3日間、たえずうわごとを言いつづけていたが、今日の5時21分、臨終の苦しみが始まり、と同時にあらゆる感覚と意識がなくなった。―― ぼくは母の手をにぎりしめ、話しかけたけど―― 母はぼくを見ることもなく、聞こうともせず、なにも感じなかった。―― そんな状態が5時間つづき、夜の10時21分、母は息を引き取った。―― そのとき居合わせたのは、ぼくのほかはぼくらの親友の(父も知っている)ハイナさんと付添婦だけだった。

 ‥‥‥(略)‥‥‥友人のよしみでひとつだけお願いしたいのは、かわいそうな父がこの悲しい知らせにゆっくりと心の準備をするようにしむけてほしい。
‥‥‥(略)‥‥‥―― いまはただ返事を待って―― それに応じて書き加えるつもりだ。神が父に力と勇気を与えてくれますように!‥‥‥(略)‥‥‥そこでお願いだが、最上の友よ、どうか父を支えてあげてくれたまえ。‥‥‥(略)‥‥‥15

同W/p137-138より


 以上の手紙でわかるようにはじめは父と姉には、母の死を伏せて、ザルツブルクのブリンガー神父には、すべてをうちあけ、父姉の心の準備を願った。そして6日後に、父に次のようなたいへん長い手紙を書いている。
341 モーツァルトよりザルツブルクの父に
パリ、1778年7月9日

 
最愛のお父さんムッシュー・モン・トレ・シェール・ペール
 この上なく悲しい、辛いお知らせのひとつを、落ち着いて聞いてくださる覚悟ができていることと思います。
‥‥‥(略)‥‥‥―― その同じ3日の夜、10時21分に、お母さんは神のみもとに永眠されました。―― ぼくが手紙を書いたときは、もうすでに天上のよろこびを楽しんでおられて―― すべては終わってしまいました。‥‥‥(略)‥‥‥ ―― お父さんもお姉さんも、この小さな、どうしてもやむをえない嘘をお許しくださることと思います。

 
‥‥‥(略)‥‥‥あの悲しい状況のなかで、ぼくは3つのことで心を慰めました。つまり、ぼくは完全に神の御心に信頼しきって従ったこと、それから、お母さんのあんなにも安らかな美しい死をまのあたりにして、お母さんがいまや一瞬のうちにいかに幸福になったか―― つまり、ぼくらよりも仕合わせになったか、と考えると、その瞬間に一緒に旅立ちたいと願ったほどでした。ついに第3の慰めが生まれました。つまり、お母さんはぼくらにとって永遠に失われたものではない―― またぼくらは再会できるのだ―― それも、この世でよりもっと楽しく、もっと仕合わせに一緒になれるのだ、ということを考えたのです。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p142-143より


 手紙はまだまだ続く。後半は音楽の話をしている。これにつながる父よりの手紙は、上記の手紙を読んでいない、つまり、7月3日付けの手紙に対する返事だった。この一卵性親子(?)の間では、すべては察知された! 子は懸命に嘘をついたつもりだったが、この父には通じない。出だしは前日に書かれていて、霊名の祝日のお祝いの言葉で始まっていた。そして息子モーツァルトの7月3日付けの手紙に対する父の返事が以下のものである。すべてを察知した耐える夫しての姿があり、母の死を知った姉ナンネルの激しい悲しみも描かれている。
342 レーオポルト・モーツァルトよりパリの妻と息子に
ザルツブルク、1778年7月13日

 ‥‥‥(略)‥‥‥手紙の書き出しに、私はお祝いの言葉を書きました。―― それにナンネルはあの子のお祝いの言葉でこの手紙を締めくくるつもりでした。でも、あの子は(お前も直ぐ察しつくだろうが)1字もかけないのだ。あの子が書こうとしたとき、ちょうど知らせがきたのだ。―― 1字書き下ろそうとするたびに、それがあの子の涙を眼に溢れ差せるのだ。おまえはあの子が好きな弟なのだから、あの子に代わってあげなさい―― もしおまえが、私たちの望んでいるように、まだ代わってやれるものなら。


 でも駄目だ! おまえにはそれはもうできないのだ―― お母さんは死んでしまったのだ!―― お前はこの私を一生懸命慰めようと骨を折っているが、こんなことは、もし人があらゆる人としての望みを失うか、それとも不幸そのものによってごく自然にそうさせられるのでなければ、そんなにまで熱心にはしないものだ。
‥‥‥(略)‥‥‥

 私はこれを泣きはらした眼をして書いているが、神様の御意志にはすべて忍従しながらなのです!‥‥‥(略)‥‥‥
 私のことについては安心していなさい、私は男として振舞えます。おまえをどんなにかやさしく愛してくれたお母さんがいたことをじっくり考えなさい―― 今になってやっと、おまえはお母さんの心配が分かることだろう。―― おまえがすっかり大人になって、私が死んだあと、私のことをもっともっと愛してくれるようになるようにだ。

 
‥‥‥(略)‥‥‥だからおまえの健康に留意するのです。―― おまえの命に私の命がかかっており、しかも誠実におまえを心から愛しているお姉さんの将来の生計もかかっているのです。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p158-160より


 こうしたパリ滞在中に、約20曲の作品を書いている。母を失って、モーツァルトはパリの町をも嫌悪するようになる。パリもモーツァルトは受け入れなかった。こうした中でも名曲を残した。一例をあげると「クラヴィアとヴアイオリンのためのソナタホ短調K.300c(1778年夏 パリ 22歳)は、我々の心を打つ名曲である。父はこの年(1778年)の8月11日から27日の間に、失っていた自分の復職願いを出して成功していた。楽長の死に伴い空席を利用してのことであった。8月30日に受理され、9月22日に父の復職は発令された。年額100グルデンの支給と相成った。そこで父は手を打った。なんと息子モーツァルトも同様にザルツブルク宮廷でよい条件で受け入れるよう努力する。しかし、親の心知らずで、モーツァルトはザルツブルクに帰りたがらない16)。やっと9月26日にパリを発つが、9月11日の父への手紙以後、モーツァルトは1通も手紙を送っていない。そしてぐずぐずした帰路の旅すがら父の命令にそむいてなんとアロイジアのいるマンハイムにも寄っている17。だが、実際はアロイジアの家族(ヴェーバー家)は9月にミュンヘンに引っ越ししていたのである。モーツァルトがマンハイムへ着いたのは11月末であった。


[注]


15)
パリのサン・トゥスシュタシュの死者の記録簿には、次のような記載が見られる。
「1778年7月4日、土曜日。同日、マリー・アンヌ・ペルトゥル、57歳、バイエルン、ザルツブルクの楽長レーオポルト・モーツァルトの妻、クロ・シュネ街で昨日死亡、息子ヴォルフガング・アメデ。モーツァルトと友人、国王近衛騎兵隊トランペット奏者フ ランソワ・エーナの立ち会いで、墓地に埋葬。[署名]モーツァルト、F・エーナ。助任司祭イリソン。葬列。」


海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集W/白水社 p140より

16)
360 モーツァルトよりザルツブルクの父に
パリ、1778年9月11日

 ‥‥‥(略)‥‥‥ぼくの心のなかを打ち明けるなら、ザルツブルクが嫌いな唯一の理由は、土地のひとたちとまともな交際ができないこと、―― 音楽がそれほど尊重されていないこと、それから―― 大司教が旅をしてきた聡明な人たちを信用しないことです。―― だって、ぼくは断言しますが、旅をしないひとは(少なくとも芸術や学問にたずさわるひとたちでは)まったく哀れな人間です!‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p274より


17)
370 レーオポルト・モーツァルトよりマンハイムの息子に
ザルツブルク、1778年11月19日

 ‥‥‥(略)‥‥‥―― 私はもう気が狂ってしまうか、さもなければやつれ死んでしまう。‥‥‥(略)‥‥‥つまりおまえが十四か月の間に私に借金させた金額が―― 八六三フローリンだと書いたら、もし私がこうした消息をおまえがマンハイムに留まるようにすすめている人たちにみんなに伝え、私がこうした借金を、おまえが二、三年はザルツブルクに戻ってきて、宮仕えをして返済する見通しをもっていると彼らにいわなくてはならない‥‥‥(略)‥‥‥


海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p336-339より



<失意の帰郷とザルツブルク時代(1779年1月15日-1780年11月5日)


 1778年11月末マンハイムへ着き、やっと12月9日、マンハイムを発った。カイザースハイムに10日以上いて、12月25日にミュンヘンに着いた。それはアロイジアと会うことが目的であった。ヴェーバー一家は9月にマンハイムからミュンヘンに引っ越しをしていたからである。だが、モーツァルトの情熱的な努力は実らず、このミュンヘンでアロイジアとの失恋18)を経験することになった。そこでモーツァルトは、アウスブルクからミュンヘンにあのベーズレを呼び出している19)。そしてこの20歳の従妹と23歳寸前のモーツァルトは、にぎやかにザルツブルクに1779年1月15日帰り着いた。すでにベーズレが伴うことを予告されていたとはいえ、妻を失い深い傷心の中にいるレオポルトの度肝を、さぞついたことだろう。

 父レオポルトによる肝いりの甲斐あって、1779年1月17日にモーツァルトのザルツブルク宮廷復職が受理され、1月25日にザルツブルク宮廷オルガニストに任命された。年額450グルデンの支給されることになる。しかしご本人はいやいや、その請願書もで署名に至るまですべて父レオポルトの手によるものであった。こうして約1年と10ヶ月の間、ザルツブルクで宮廷音楽家とての生活が続くことになる。しかし、モーツァルトは少しも安らぎがなかった。仕える主人、コロレド大司教を嫌っていたし、職務も気に入らなかった。それでも、故郷でのこの期間に約30曲の立派な作品を残している。
1780-81年ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ制作「モーツァルトの家族の肖像」
姉、モーツァルト、遺影の母、父レオポルト

ex. 1779年23歳の作品:
2台のピアノのための協奏曲変ホ長調第10番K.316a(1779年初め頃)
ミサ曲ハ長調“戴冠式ミサ”K.317(3/23)
交響曲第32番ト長調K.318(4/29 23歳 マンハイム、パリの思い出がみられる)
セレナード ニ長調<ポストホルン>K.320
ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲変ホ長調K.320d(マンハイム楽派の影響が、色濃くみられる)など。

ex. 1780年24歳の作品:
ミサ・ソレムニス ハ長調K.337
交響曲第34番ハ長調K.338
証聖者の盛儀晩課ハ長調K.339」など。


 ミュンヘンから依頼されたオペラ「クレタの王イドメネオK.366を作曲することは、この時のモーツァルトにとって一つの救いであったに違いない。1781年1月に完成した。1月29日の初演には、もミュンヘンにやって来た。こうしてモーツァルトは4ヶ月も、ザルツブルクから離れていた。本当は6週間の休暇だったのに‥‥‥。この時ヴィーンにコロレド大司教が滞在していた。その目的は彼の父コロレド侯爵が重病のためのお見舞いであったとか。大司教は、即刻ヴィーンに来るようモーツァルトに命じた。3月12日にモーツァルトはミュンヘンを発ち、16日にヴィーンに着いた。この時、誇り高いモーツァルトの心を逆なでするひどい処遇を受けた。18世紀では音楽家の地位は低かった。宮仕えの一芸人の趣きであった。しかし、モーツァルトの心の中にはすでに近代的な芸術家の理念が育っていた。


[注]



18)
376 モーツァルトよりザルツブルクの父に
ザルツブルク
の楽長レーオポルト・モーツァルト
ミュンヘン、1778年12月29日

 ‥‥‥(略)‥‥‥いままでどうしてもお手紙が書けませんでした。―― いずれまたじかにお話しする仕合わせと楽しみが持てるなら、それまで全部取っておきます。―― きょうはただ泣きたいだけです。―― ぼくの心はあまりにも感じやすいのです。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p372-373より


19)
376 モーツァルトよりアウクスブルクのマリア・アンナ・テークラ・モーツァルトに
カイザースハイム、1778年12月23日

 ぼくの親愛なるいとこへマ・トレ・シエール・クジーヌ

 
‥‥‥(略)‥‥‥―― だから、必ず来てよ。でないと、クソくらえだ。来てくれたら、ぼくが御みずからあなたにご挨拶しコン・プリメンティーレン、あなたのお尻に封印しペチーレン、両手に口づけしキュッセンし、臀部小銃を発射しシーセン、あなたを抱擁しアンブラシーレン、前からも後からも浣腸しクリスティーレン、あなたからの借りをすっかり一毛のこらず返済しベッアーレン、勇ましいおならをとどろかしエアシャレン、ひょっとすると何かを落下ファレンさせるかもね。‥‥‥(略)‥‥‥

  追伸 くそったれ=ローデンルの主任司祭ディビターリは、

  ひとへのお手本として、彼の女給仕のお尻をなめた。


     万歳ヴィヴァット―― 万歳ヴィヴァット ――

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p364-365より
  モーツアルトはミュンヘン出発前にベーズレを伴っていることを父に知らせている
382 モーツァルトよりザルツブルクの父に
ミュンヘン、1779年1月8日

 ‥‥‥(略)‥‥‥―― 急がなくては、郵便馬車が出てしまう。―― ぼくの従妹ベーズレがここにいます。―― なぜかって?―― 彼女の従兄フェッターをよろこばせるため?―― それはもちろん表向きの理由です!―― でも―― そう、それについてはザルツブルクではなしましょう。―― それには、ぜひ《彼女も》一緒にザルツブルクに行ってほしいものです!

 ‥‥‥(略)‥‥‥
―― 彼女に会って人柄を知れば、きっと気に入るでしょう。―― みんな気に入っているのです。‥‥‥(略)‥‥‥

海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 W/白水社 p385-386より

1998-2011


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