「レクイエム Requiemニ短調 K.626」
<作曲の経緯>
a.最後の年1791年−夏から冬
1991年夏、モーツアルトは作曲の仕事に忙殺されていた。つまり
ジングシュピール「魔笛」と
オペラ・セーリア「皇帝ティトの慈悲」の作曲中、7月頃「レクイエム」の注文が舞い込んだ。その前月の6月4日、身重の
コンスタンツェは健康がすぐれず、
次男カール・トーマス(1784-1858)とモーツァルトの助手・弟子
ジュースマイヤーを伴い、温泉地バーデンに保養に出かけた後であった。7月中頃にコンスタンツェはヴィーンに戻り、7月26日に
四男フランツ・クサヴァー(1791-1844)が誕生する。
9月6日、プラハ国立劇場でモーツァルトの指揮で「
皇帝ティトの慈悲K.621」初演した。9月30日「
魔笛K.620」
(3月-9月28日作曲)をアウフ・デア・ヴィーデン劇場でモーツァルトの指揮で初演。ついにヴィーンで今までになかった市民層の聴衆を獲得する作曲家となった。「魔笛」はモーツアルトにとってもヴィーンにとっても新しい時代の到来を告げるオペラであった。だが、モーツアルトにとっては、もうこの新しい時代をより発展させ、受けて立つ力は残っていなかったようだ。10月初旬、コンスタンツェはバーデンに行った。その16日にモーツァルトはバーデンに妻子を迎えに行き、翌日3人で戻った。妻子を迎えにやって来たモーツアルトを見て、コンスタンツェは驚いたという。この4ヶ月間ですっかり衰弱して、病人にしか見えない様子だった。11月20日、病床に伏した。
12月5日午前零時55分、コンスタンツェとその妹ゾフィーに見守られ、
その生涯を終えた。
モーツァルトの死を前にした半年は次の通り。
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6月4日
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コンスタンツェ、バーデンへ療養に行く。
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6月8日
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モーツアルト、バーデンに出発。
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6月10日
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ブルク劇場で催された盲目の女流グラス・ハーモニカ演奏家キルヒゲスナーの音楽会で彼女のために書かれた。
「グラス・ハーモニカのためのアダージョとロンドK.617」が初演。
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6月17日
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バーデンで、モテット「アヴェ・ヴェルム・コルプスK.618」を作曲。
バーデン保養中のコンスタンツェに世話をしてくれた友人の合唱指揮者シュトル(1748-1805)へ送られた。
度々モーツアルトは見舞っていた。
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| 7月頃 |
「レクイエム」作曲依頼を受ける。
7月中頃コンスタンツェはヴィーに戻り、26日にクサーヴァーが誕生。 |
| 9月 |
9月6日「皇帝ティトの慈悲K.621」プラハでモーツァルトの指揮で初演。
9月28日「魔笛」完成 9月30日初演 |
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10月
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友人シュタードラーのために「クリネット協奏曲イ長調K.622」が作曲される。美しく心豊かな音楽である。
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11月18日
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「フリーメイソン小カンタータK.623」作曲、モーツァルト自身の指揮で新ロッジの献堂のために初演。
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11月20日
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ついに病床につく。
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12月4日
午後
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モーツアルトは見舞いに来た友人の歌手たちと共に、「レクイエム」の“涙の日”を試唱する。モーツアルトは感涙したという。
「魔笛」のアリアを歌うよういったという。
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12月5日
午前0時55分
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ベッドでジュースマイヤーに「レクイエム」の完成の指示。
昏睡状態になり医師が呼ばれ処方。息を引き取る。享年35歳 |
b.「レクイエム」依頼-作曲-死
35歳のモーツァルトは7月に、ある見知らぬ男の訪問を受けた。その男は人目をはばかる様子でレクイエムの作曲依頼の手紙を携えていた。しかも、注文主の名は明かさず前金だけは少なからぬ額を置いて行った
(全額が100ドゥカーテンで前金はこの半額であった)。加えて、灰色の服を着て背の高いやせ細った人物で、モーツアルトを大いに気味悪がらせた、という。確かにその頃彼は大作の仕事に忙殺され
(2つのオペラ「魔笛」と「皇帝ティトの慈悲」の作曲)、健康も衰えていた。自分の死の近いことを予感していたようで、死の使いのように考えたといわれている。だが、どうしてこのように多忙で、健康もすぐれないのにこれを引き受けたのであろうか。考えられる理由の一つは、モーツァルトが
シュテファン大聖堂楽長の地位に関心があったし、今までに教会音楽を多数書いているし、さらに新たな作曲意欲も沸いたのであろう。さらに多額の作曲料にも大いに関心があった。事実経済的にもかなり貧窮していたこともたしかである。
この注文主は
ヴァルゼック伯爵(1763-1827)であった。モーツァルトとは以前から間接ながら彼とは接点があり、父レオポルト死去(1987年5月28日)に伴ってレオポルトが残した遺品の分配や遺産相続問題が姉ナンネルルとの間に起こった。この問題は8月に解決を見、9月に競売が行われることになった。姉ナンネルルの夫(モーツァルトには義兄)に宛てた和解の手紙にヴァルゼックの名がとどめ残されている。それは、手紙の宛人としてもたびたび登場する友人プフベルクPuchberg(1741-1822)がヴァルゼック伯爵邸に寄宿していたためである。プフベルクはフリーメイスンを通じて親しくなった豊かな織物業者で、晩年のモーツァルトの借金依頼に応えた唯一の人物である
。
681 モーツァルトよりザンクト・ギルゲンの義兄に
[ザルツブルク、1787年9月29日]
最愛のお義兄さん
大急ぎで。−ぼくらが気持ちよく和解できたことをとても喜んでいます。−為替手形を送ってくださるときは、ホーアー・マルクトのヴァルゼック伯爵館気付ミヒャエル・プフベルク氏宛にして下さい。月曜の朝早くから、ぼくはプラハに旅立つので、この人がお金を受け取る指定人です
海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 YV/白水社 p418-419より |
「レクイエム」作曲経緯については伝説的に多く語られてきた。しかし、1964年に急展開する。それは作曲依頼主ヴァルゼック伯爵に仕えていた
ヘルツォークによる「
回想記」が、電気学者ドイッチェによってヴィーナー・ノイシュタットで発見されたのであった。そしてこれが発表されてモーツァルトの「レクイエム」の作曲の経緯がより詳しく明らかにされていった。とはいえ1839年にヘルツォークによって記された「
回想記−W.A.モーツァルトのレクイエムの真相と詳細」は、「レクイエム」が作曲されて半世紀近く経っ後のた証言であり、正確な伝承といえるかどうか疑問も残る。
この「
回想記」によると
ヴァルゼック伯爵(1763-1827)が、若くして亡くなった妻
アンナ(1791年2月14日死去)に捧げる自作のレクイエムとして発表しようと考えた。彼には金に飽かして匿名で名高い作曲家に委嘱して作らせて写譜し、それを自作として自分を作曲家にみせたがる癖があった。実際、モーツァルトは引き受け、1ヶ月余りの間「レクイエム」作曲に従事したと考えられている
(ランドン説では10月8日-11月20日に)。「魔笛」と「皇帝ティトの慈悲」の作曲・上演のために実際10月まで作曲に取りかかれなかっただろう。加えてこの頃はコンスタンツェを迎えに行かなくてはならないし、「クリネット協奏曲イ長調K.622」や「
フリーメイソン小カンタータK.623」の作曲もあった。
モーツァルトのこの最後の日々については、多くの伝記作者が語っているが、同時代の
ニーメチェクNiemetschekチェコ(1766-1849)の「モーツァルト評伝」=1798年著述、生涯と作品を論じたや
ニッセンNissenデンマーク(1765-1826)の「モーツァルト伝」=1828年著述、手紙中心に編集したなどは、より事実性が高いと思われる。この2人は、プラハでの「皇帝ティトの慈悲」初演からヴィーンに帰郷後、モーツァルトの健康が悪化していったこと、「レクイエム」の作曲は自分のため、自分の余命は少ない、誰かに毒を盛られた、コンスタンツェが一時「レクエム」の作曲から遠ざけたことなどを記している。モーツァルトが決定的に床につくのは11月20日であった。彼の主治医はクロセットClosset博士(1754-1813)であった。この博士は11月28日にはザラーバSallaba博士(1766-97)を呼び、モーツァルト診察させた。1791年12月4日の夜、ジュースマイヤーに「レクイエム」の完成するように願い、自分の考えを述べ色んな考えを伝えた。そして意識を失い主治医クロセットが呼ばれ、処置を受けたが、意識を回復することなく5日になったばかりの午前0時55分に息を引き取った。
モーツァルトの最後の日については、コンスタンツェの妹ゾフィー(1763-1846)が、1825年4月7日付の姉アロイジアとニッセン夫妻に宛てた長い手紙の中で報告している。
モーツァルトの生涯の最後についてですが、モーツァルトはいまは亡き私たちのお母さんがだんだん好きになっていきました。お母さんも彼が好きになりました。…略…
次の日は日曜日でした。…略… 母は言いました。《とにかく、急いでお出かけ。すぐに知らせてくれるんだよ、彼がどんな具合なのか。…略…》 お姉様が私を出迎えて、次のように言ったとき、私はどんなにびっくりしたことでしょう。《あ、ゾフィー、来てくれてよかった。ゆうべはとても悪かったので、今日までとても持たないって思ったほどなの。…略…》 かわいそうなお姉さんは私の後を追ってきて、後生だから聖ペテロ教会の司祭様たちのところへ行って、司祭様に一人、偶然のようにして来てほしいと頼んでみてくれというのでした。私はそうしましたが、ただあの方たちは長いこと拒んでおられ、そんな人でなしの司祭をそうするように決心させるのにたいへんな骨折りをしたのです。−そこで私は不安でたまらなくなり、私を待っている母のところに飛んで行きました。…略… 私はまたできるかぎり急いで、すっかり悲観しきってお姉さんのところへ行きました。
モーツァルトのベッドのそばにはジュースマイヤーがいました。それに掛布団の上には有名な「レクイエム」が置かれ、モーツァルトが、自分の考えはこうこうで、自分が死んだらそれを仕上げてくれるようにと、彼に説明していました。さらにモーツァルトは妻に、早朝アルブレヒツベルガーに自分の死を報告するまでは、それを秘密にしておくように頼みました。というのは、この人に神とこの世に対する勤めがゆだねられているからです。
医者のグロセット[クロセット]は長いこと探して、やっと劇場で見つかりました。でも芝居が終わるのを待たねばなりませんでした。−それからやって来て、燃えるような頭に冷罨法れいあんぽうを処方しましたが、これが彼に大きなショックを与え、息を引き取るまでもう意識が戻りませんでした。彼の臨終は、まだまるで口でもって自分の「レクイエム」のティンパニを露わそうとでもするかのようでして、私にはいまでもそれが聞こえてきます。
美術陳列館からミュラーがすぐやって来て、死んだ彼の青ざめた顔を石膏に形どりました。
彼の忠実な妻が際限もなくやつれ切って、がっくりとくずれおれ、全能なる神に助けを求めている様子は、お兄様、筆紙には尽くしがたいものです。私がどんなに頼んでも、彼から離れることができませんでした。お姉さんの苦しみがなおいっそう募ったとすれば、そのぞっとするような夜の次の日に、人びとが群れをなして家の前を通り過ぎ、かれのために声高に泣き、そして叫んだことで募ったにちがいありません。
私はモーツァルトが憤慨したり、いわんや激怒したところを生涯見たことはございません。
海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 YV/白水社 p707-710より |
モーツァルトが使用していたノート「記念帳」に12月5日の日付でコンスタンツェが下記のような一文を書いている。ただ、これは後日なんらかの意思で書き加えたのではないかとも思われるものではある。
かってあなたがこのページの上に、お友だちのためにお書きになったこと、
そのことを、私はいま深くうなだれつつ、あなたに対してお書きしています。
いとしい夫よ、私にとっても、またヨーロッパ全土にとっても忘れることのできないモーツァルト。
あなたも、いまはしあわせでございましょう。−永遠に幸せでありますように!
本年の12月4日から5日にかけての真夜中の一時に、あの方は36歳で去ってゆかれました。
−ああ! あまりにこのすばらしい−でも恩知らずの世を!−ああ、神様!−
8年もの間、優しいかぎりの、この世では断ち切ることのできない絆が、私たちを結びつけていました!
ああ! やがては永遠にあなたと結ばれる日が参りますように。
あなたの悲しみに暮れる妻
コンスタンツェ・モーツァルト
旧姓ヴェーバー
海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 YV/白水社 p718-719より |
c.死の直後と「レクイエム」
モーツァルトが世を去ったのは1791年12月5日になったばかりの午前0時55分だった。すぐに検死調書が作成された。モーツァルト所属教会である聖シュテファン大聖堂の死者台帳には以下のように記されている。
12月6日
モーツァルト
第三等
教区聖堂
聖シュテファン
料金8グルデン
56クロイツァー
支払い済み |
称号ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト氏、オーストリア皇室楽長兼宮廷作曲家
ラウエンシュタイン通りクラインカイザーシュタイン館970番地 検死結果は急性粟粒疹熱
36歳
聖マルクス墓地
4グルデン36クロイツァー
4グルデン20クロイツァー
馬車3グルデン |
上記の12月6日という日付は葬儀の日を指している。また皇室楽長兼宮廷作曲家となっているが、楽長でなかったが。1787年12月グルックの死にともない宮廷作曲家の称号を受けるが、無給であった。また住所がシューラー通り846番地でなく、ラウエンシュタイン通りクラインカイザーシュタイン館となっているのは、1790年9月にモーツァルトがフランクフルト・アム・マインに旅行中に妻たちが引っ越ししたからである。年齢は実際は満35歳(1956年1月27日-1791年12月5日)であるが、36歳と記されている。いわゆる数え年で書かれたのであろうか。
死因は急性粟粒疹熱であるが、直接の死因は瀉血である。これは母がパリで死んだ時も同じで、当時の慣習的治療法であったが、衰弱を進め、生命に危険のある処置であった。
モーツァルトの死後、彼の病跡について現在に至るまで様々な推定や推論が、医学関係の学者によって行われてきた。決定的な答えは未だ出ていない。
検死は主治医クロセット博士が連れて来たローペス博士が行ったようである。彼が鑑定書を作成した。検死後、遺体には服が着せられたが、フリ−メイスン用の黒い死装束であったと伝えられている。コンスタンツェの姉妹たちやモーツァルトと親しかった音楽家アルブレヒツベルガー、アイブラー、ジュースマイヤーたちが葬儀の一切を行ったであろう。そしてヴィーン時代のパトロンであったスヴィーテンSwieten男爵(1734-1803)によって第三等葬儀となった。19世紀の伝記が記す、簡素な葬儀、貧民墓地への埋葬は伝説神話となっている。
葬儀の三つある等級は、1782年ヨーゼフ2世によって制定されたヴィーンの葬祭法令による。第一等は貴族用、第二等は37グルデン、第三等は8グルデン56クロイツァーの費用と貧者の無料があった。当時の全死者の7割くらいがモーツァルトと同じ第三等で行われている。
モーツァルトの葬儀は12月6日火曜日午後3時に行われたという。モーツァルトの家から聖シュテファン大聖堂へと棺が運ばれ、大聖堂内陣の十字架礼拝堂に安置され、最後の祝福も行われたと伝えている。当然ながら葬儀ミサと告別式 が行われただろう。参列者は、親族はゾフィー、ヨゼファと夫ホーファー、アロイジアと夫ランゲ、ヴェーバー夫人。友人はスヴィーテン男爵、サリエリ、ジュースマイヤー、ローザー、オルスラー、アルブレヒツベルガー、フライシュテットラー、弟子のハートヴィヒ、ショル(フルート奏者)、ダイナー、シカネーダー一座のゲルルとシャック、アイブラー、医師クロセットとザラーバだった。コンスタンツェと2人の息子は家にいたという説もあるが、参列していたとも考えられている。
告別式が終わるとモーツァルトの棺は大聖堂の入り口から右側に曲がった、つまり大聖堂外部に面した北側にある十字架像小聖堂(死者のための礼拝堂)墓地に運ばれるまで慣例通り置かれた。慣習に従って夕刻を待って城壁外の聖マルクス墓地へ運ばれた。遺族やアルブレヒツベルガー夫妻、フライシュテットラーやハートヴィヒは霊柩馬車に同行した。徒歩で1時間はかかる距離であるが、途中のシュトゥーベン門で一行の葬列は解散された。墓地まで行かないのが当時の習慣であった。墓地に着いた時は暗くなっていて、その夜は墓地の遺体安置所に置かれ、翌朝に共同墓地に埋葬されたと考えられる。この共同墓穴は成人4名と子供2名か成人5名が埋葬された。そして埋葬後10年経つと掘り起こされ、遺骨は整理されてその墓穴は再利用された。こうした事情のためモーツァルトの埋葬場所と遺骨を特定することは不可能となっている。そして現在推定される場所にモーツァルトの墓碑が設けられている。
葬儀が12月6日というのも現在、疑問視されている。弟子の一人ダイナーが残したモーツァルト没後60年以上経って公開された記録では、12月7日が葬儀の日としてこの日は<大風が吹き荒れ、はじめ雷雨となった。雨と雪とが同時に降り、あたかも自然が偉大な音詩人の同時代人とともに不平を鳴らしているかのようであった>(海老沢 敏、高橋英郎編訳/モーツァルト書簡集 Y/白水社 p715より)と回想している。
当時の葬祭規定が死亡時から48時間後に埋葬のこととしている点も合致し、他の人びとのモーツァルト葬儀の日の天候についての記述や気象台記録も7日であれば合致する。
12月11日、コンスタンツェは当時在位の皇帝レオポルト2世に年金の申請する請願書を出した。夫死後の窮状を訴え、残された2人の子供と自分のために援助を願ったものであった。宮廷年金支給の条件を満たしてはいなかったが、何度も何度も出した請願が受け入れられ、1792年3月13日付で遺族3人にはモーツァルトが得ていた800フローリンの年俸の3分の1になる266フローリン40クロイツァーが一年間支給された。
最初の請願書の提出された1791年12月11日、宮廷付属聖ミヒャエル教会でモーツァルトの友人たちによって行われたモーツァルト追悼ミサにおいて、未完のままではあるが「レクイエムK.626」の「入祭唱」=殆ど完成されていたと「キリエ」=フライシュタットラーやジュースマイヤーが補筆したが友人たちよって演奏された。このミサ挙行の発起人は、「魔笛」の依頼者であり台本を書いたシカネーダーであった。
<補筆完成版の経緯>
モーツァルトはレクイエムを完成することは出来なかった。
未亡人コンスタンツェは、ヴァルゼック伯爵との契約履行のため、残金の獲得のためにも完成する必要があった。未完で残された自筆譜を誰かに依頼して、モーツァルト本人が完成したものとしてヴァルゼックに渡したかった。先ず未亡人はモーツァルトの弟子の当時20歳半ばの
アイブラーEybler(1765-1846)(1814年サリエリの後任として宮廷楽長になる)に補筆依頼を持ち込んだが、第1曲と第2曲の<
5.Confutatis呪われた者は>まで手を入れ、すぐに仕事を降りてしまった。彼はモーツァルトが書いた楽譜に直接書き込んだに過ぎなかった。次いで後輩弟子
ジュースマイヤーSüßmayr(1766-1803)に依頼し、1792年3月初め頃に補筆され完成された。これが完成版として今に伝えられ、残るものである。ヴァルゼックがモーツァルト未亡人から受け取った
<ジュースマイヤー版スコア>と
<モーツァルト自筆の未完成版スコア>の2つがヴィーン国立図書館に所蔵されている。
左:ジュースマイヤー版スコア表紙(上智大学図書館所蔵ファクシミリ=Mus Hs.17,561/T)32,7x24,3cm
右:モーツァルト自筆の未完成版スコア表紙(上智大学図書館所蔵ファクシミリ=Mus
Hs.17,561/U)32,7x24,3cm
ジュースマイヤー補筆「レクイエムK.626」の総譜が1800年にブライトコプフ・ウント・ヘルテル社から刊行された。これによってジュースマイヤーの補筆欠点がいわれ始め、19世紀初頭以来多くの論議があって現在に至っている。これによって注文主ヴァルゼックも実情を知るに至り、これに対して釈明を求めたということである。また伯爵に無断で筆写譜を作成してプロイセン国王に売却もされた。この2点についてついての釈明であった。とはいえヴァルゼックは歴史に残る大天才モーツァルトをゴースト・ライターとして白羽の矢を立てたのはほむべきことではなかった。こうしてモーツァルトの名声と共に歴史に汚名を残してしまった。
ジュースマイヤー補筆の完成された「レクイエム」の総譜を、未亡人コンスタンツェは
ヴァルゼック伯爵の手に渡した。伯爵は自分の手で写譜し、表紙にヴァルゼック伯爵作曲と記した。だが、ヴァルゼックは、この「レクイエム」がモーツァルト以外の人物の手で補作されたことや、彼の手による演奏以前にすでに演奏されていることも知らなかった。かくして
1793年12月14日、ヴィーン南方50キロほどの街ヴィーナー・ノイシュタットのノイクロスター教会
(シトー会修道院の付属教会)において妻の追悼ミサの際に自作として自ら指揮したのである。また翌年の
1794年2月14日の亡妻の命日にゼンメリングのマリア・シュッツ教会で自作として指揮もして演奏された。しかし、ヴァルゼックの知らないところでもっと早く
本当の初演が1793年1月2日に行われていた。それはモーツァルトのパトロンだったスヴィーテン男爵が催したコンサートであった。モーツァルトの最後の住居から近いヒンメルプフォルト通りにあるヤーン館にあるホールで「レクイエム」全曲完成版が、サリエリ指揮で行われた。これは注文主には契約違反というか無断でジュースマイヤーによる補筆完成版が、別に写譜されていたことになる。
以上の「レクイエム」補筆から上演の経緯を整理すると下記のようになる。
| 1791年 |
12月11日 |
宮廷付属聖ミヒャエル教会:追悼ミサ=シカネーダー等 |
入祭唱とキリエ:自筆未完成版 |
| 1793年 |
1月2日 |
ヤーン館ホール:演奏会形式=サリエリ指揮 |
ジュースマイヤー補筆完成版 |
| 1793年 |
12月14日 |
ノイクロスター教会:追悼ミサ=ヴァルゼック指揮 |
ジュースマイヤー補筆完成版 |
| 1794年 |
2月14日 |
マリア・シュッツ教会:命日ミサ=ヴァルゼック指揮 |
ジュースマイヤー補筆完成版 |
近年、新しい研究の成果とういうべき次のような未完成版を補筆した復元版が作られている。
ジュースマイヤー版(1792年)の欠陥を改め、真正なモーツァルトの響きに近づけようと色々試みられているのである。とはいえモーツァルトの直接の弟子であったジュースマイヤー版の価値は高い。近年逆に再評価されつつある。それは補筆完成版の規範版といえるからである。
主な20世紀の復元版は次の通りであるが、今後も色々出てくるであろう。
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バイヤー版(ドイツ
1971年):
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モーツアルトの最晩年の音響と様式に立ち帰るためにオーケストレーションを手直しした。 |
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モンダー版(イギリス
1986年):
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バーヤー版の線上に立ち、モーツアルト自筆譜にはないサンクトゥスとベネディクトゥスを省いている。
続唱の終結に新発見のスケッチに基づく新たなフーガを加えた。 |
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ランドン版(アメリカ
1990年):
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モンダー版の行き過ぎをしりぞけ、ジュースマイヤーに新しい視点を置いた。
キリエにジュースマイヤーとやはりモーツアルトの弟子フライシュテットラー(1768-1841)の存在を認め、彼も加わっていたとしている。
続唱のオーケストレーションはアイブラーの補筆の方が優れているとして復活させた。 |
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レヴィン版(1991年):
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ジュースマイヤー版(1892年)の欠陥を改め、真正なモーツァルトの響きに近づけようとした。 |
<「レクイエム」の音楽的特徴>
死者のためのミサに基づくモーツアルト唯一の「
レクイエム」である。フルート、オーボエ、クラリネットを使わないで、バセットホルンとファゴットを用いている。これは重々しい響きを作り出している。この作品の注文を受ける前に、
5月9日にシュテファン大聖堂の無給の楽長代理に任ぜられている。かねてから請願していたものであった。この新しい職務のためについに作曲することはできなっかたが、教会音楽家としての充実をはかることを願っていたことは確かだろう。
すでに述べたが、モーツアルトの
バッハと
ヘンデルへの傾きが、この作品で顕著に出ている。モーツアルト自身によって
完成された考えられる部分は、第1曲「入祭唱とキリエ」と第2曲「読唱・怒りの日」(大半)のみであるが、第1曲の前者の終りに2重フガートを、後者に“キリエ・エレイソン”にバロック風の旋律、そして“クリステ・エレイソン”に半音階の旋律による2重フーガが、冒頭から展開される。これは単なる伝統への回帰ではなく、彼の円熟を示す絶品の音楽となった。あまりに美しい第2曲E<
涙の日>は9小節目以降は空白となっていた。
この作品は、古今の教会音楽中の名作で、復活の希望というキリスト教の根幹ともいうべき神秘が感じられる。モーツァルトの作品は、常に時代的センスを映し出し、しかも遊び心が見え隠れする。その音楽は我々を魅了してやまない。それは教会音楽でもオペラにおいても区別がない高さがある。「レクイエム」はモーツアルトにとっても特別な作品で、人間が一生に一度しか語らないような心の一番奥深い世界を真っ直ぐに表現したものであると、誰にも分かるのではないだろうか。
<「レクイエム ニ短調 k.626」作曲・補作の内訳>
<作曲・補作に何らかの形で関わった3人の弟子>
フライシュタットラーFreystadler(1768-1841)
アイブラーEybler(1765-1846)
ジュースマイヤーSüßmayr(1766-1803)