オペラ「トゥランドット Turandot」
<作曲の経緯>
第1次世界大戦(1914-18)の余波は、イタリアに政治的経済的混乱をもたらした。頻繁なインフレやストライキ、またレーニン主義がどこでも流布し始め、ファシズムを生む土壌を作っていった。悲観的な傾向のあるプッチーニは、危険から逃れるために遠くへ長い旅か移住さえ考えた
(ex.インド、極東、ブラジルなどへ)。1922年10月、ムッソリーニはファシスト政権を樹立した。プッチーニもムッソリーニ思想に共鳴しないわけにはいかない。正式入党はしなかったものの名誉ファシスト党員とされ、1924年には王国の上院議員に任命された。彼がトッレ・デル・ラーゴTorre
del LagoからヴィアレッジョViareggioに居を移すのは、こうした少し前の1921年末であった。引っ越しの理由は家の近くに泥炭工場が造られ、その騒音と悪臭に耐えられなかったからである。新居のヴィアレッジョはトッレ・デル・ラーゴからわずか8キロで、海辺のこの家が最後の住処となる。ヴィアレッジョは、当時は現在のような気のきいた避暑地ではなく、単なる小さな漁村に過ぎなかった。現在は避暑客が押し寄せ、世界中の豪華なヨットが停泊する港でもある。
さて、プッチーニの未完の遺作で彼の最大の傑作オペラの題材は、全く偶然に手に入れた。それはヴィアレッジョに居を移す前の1919年の夏、ルッカに滞在中、雑誌編集者であり作家兼劇批評家シモーニSimoni(1875-1952)と知り合う。シモーニは博識で学者タイプの作家であった。そして翌年
(1920年)の夏プッチーニが偶然に訪れたミラノのあるレストランでシモーニに会った。この時、18世紀ヴェネツィアの劇作家
カルロ・ゴッツィ(1720-1806)の寓話劇「トゥランドッテTurandotte」(1762年)を題材にすることを彼から提案された。このゴッツィの大昔の中国に舞台をとった寓話劇は、ドイツ語に翻案されベルリンで演劇として上演もされ、プッチーニもベルリンですでに観ていた。この付随音楽を作曲したのが
ブゾーニBusoniイタリア(1866-1924)で、また彼は1917年にオペラ「トゥランドット」
(全2幕)にしてチューリッヒで初演したが、プッチーニは観ていない。
プッチーニの異国への関心はたいへんなものであった。このような傾向はプッチーニだけでなく、マーラー、ドビュッシーなど音楽のみならず、ヨーロッパ一般芸術界でも特に東洋に対する関心は新境地を開く原動力になっていた。プッチーニはドビュッシーの「ペレアスとメリザンド」
(1906年)を見て以来、同じく新しい和声のオペラを書きたいと思い続けていた。そして幻想的で、おとぎ話風の主題で、しかも同時に人間的で感動的な題材を求め続けていた矢先であった。また、その上彼のミラノ音楽院での師
バッツィーニ(1818-97)の唯一のオペラ「トゥランダ」
(台本ゴッツィ)のことも考えが及んだことであろう。かくしてシモーネから「トゥランドッテ」を借り、トッレへ帰る汽車の中で読んだ。これは
シラーSchillerドイツ(1759-1805)によるドイツ語翻案で、原作よりかなりロマンティックな色合いが強くなっていた。それをさらにマッフェイがイタリア語翻訳したものであった。彼は大いに興味を抱き、変化に富んだ新しいスタイルをこのオペラに導入したいものだと考え始めた。
シモーニとアダーミが台本を担当することになり、1920年の9月から最初のスケッチを始め、寝食を忘れての作曲となる。台本と作曲は同時進行で進められていった。作曲を始めてまもなく「トゥランドット」は完成できないのではないかと心配している。1920年クリスマス頃までに第1幕の台本の韻文化は完成した。作曲は主に同じトスカーナの湿原地帯トッレ・デル・タリアータでの所有の狩猟小屋で作曲された。第1幕の作曲は順調に進んだが、問題は第2幕、第3幕の台本が完成しないことにあった。彼は催促を繰り返している。こうした中、「トゥランドット」を全2幕構成にしようかとも考え始める。ブゾーニも2幕構成だったし。
彼は遅延した台本にいらいらしながらも作曲を進めていった。1922年8月、スイス、オランダ等を友人と自動車旅行に行く。8月28日の夜、一行はバイエルン州のインゴールシュタットのホテルに泊まった。その晩の夕食時に鵞鳥の骨を飲み込んでしまう。それが彼の喉に刺さり医者を呼ぶ騒ぎとなった
(後に彼はしゃれてIngolstadtを“イン・ゴラ・スタIn gola sta=喉に在るの意”といっている。この2年後にプッチーニが死に、この傷が癌の原因ではないかと発表された)。
この旅行後、すぐ「トゥランドット」に再び取りかかるが作曲は進まず、11月にはまたもやこれを放棄しようと考え始める。11月3日のアダーミ宛の手紙で再び2幕構成の案をいい出している。またこの5週間後に第2幕を殆ど仕上げていたのに、またもや放棄しようと考えた。事実、アダーミは他の題材を提供していた。それは18世紀のヴェネツィアを舞台とした悲劇であった。こうした時、翌年の1923年初めに「マノン・レスコー」初演30周年記念としてスカラ座、ヴィーン国立歌劇場で特別公演が行われ、大いにプッチーニを喜ばせた。
「トウランドット」は一応1923年から3幕構成に向かってまた作曲に取りかかる。11月にはリュウの死の場面の音楽もできた。この頃は間に合わない台本に先立って作曲してる。プッチーニが暫定的に4行連句からなる歌詞を作り、実際、二三の訂正のみでそのまま使われている。
1924年2月、この時彼は喉の痛みを感じ、しつっこい咳に悩まされる。作曲は順調であった。3月には主治医とミラノ専門医に見せている。2人の医者はリューマチ系の炎症とし、問題なしとした。そしてすすめに従い、パルマ近くの保養地サルソマッジョーレで5月の最後の一週に治療を受けた。「トゥランドット」は、最後の二重唱とフィナーレだけが残っていた。彼としてはほんの数週間もあれば完成できると思っていた。
1924年9月7日には、スカラ座の芸術監督のトスカニーニが、ヴィアレッジョのプッチ−ニを訪れて1925年春の初演に向けて喜々として打合せをした。だが、10月の初め、スカラ座のリハーサル室でトスカニーニや台本のシモーニも立ち会って会合がもたれたが、プッチーニの弱り切った姿を見てトスカニーニは愕然とする。1924年10月8日についに二重唱の3つめの歌詞を受け取り、大満足する。
長年の親友シビル・セリグマンが1924年8月末、ヴィアレッジョのプッチーニの自宅を訪ねた時、絶えず喉の痛みを訴えた。シビルは息子のトニオにすぐ知らせ、トニオは他の医者の診察を促したが、プッチーニはなかなか聞き入れない。10月になるとますますひどくなり、意を決してヴィアレッジョの専門医に見せたが、特に何も認めなかった。しかし、今度はプッチーニ自身の不安はおさまらなかった。彼は家族には内緒でフィレンツェの専門医に赴いたところ、乳頭腫
(小さな乳首状の腫れ物)で悪性の腫瘍でないと診断された。それでも不安はおさまらず、トニオにこのすべてを告げた。トニオは直ちにその医者に手紙連絡を取り、再度診察を受けさせることにした。その結果、医者は秘かにトニオに喉頭癌で、しかも手遅れで手術も及ばないと告げた。トニオは父には真相知らせず、父の延命のためにあらゆる手段をとる。
1924年10月20日、3人の専門医を自宅によんで診察させた。すなわち、グラデニーゴ教授とフィレンツェのトッリジアーニ博士、トージ博士であった。彼らは前の診断が誤りがなかったことを確認し、X線治療を勧める。これが唯一の病状の急速な悪化を防ぐ手段であるといった。当時まだこの種の治療はごく初期の時代で、全ヨーロッパで2つの病院、つまりベルリンとブルュッセルしかなかった。プッチーニはいろいろ考慮の末、ブリュッセル・クーロンヌ付属病院でルドゥウ教授の治療を受けることに決める。ブリュッセルに発つ前にミラノでトスカニーニと会い、さらに「トゥランドット」の打合せを行った。トニオはこの指揮者には真実を知らせておいた。というのは最後の幕の残りを完成できるかどうかわからないからである。
1924年11月4日ついに出発。同行したのは息子トニオと養女フォスカ、リコルディ社を代表してクラウゼッティの3人であった。妻エルヴィーラは夫の病気の真実をまだ知らず、彼女はひどい気管支炎をおこしていたのでヴィアレッジョに残った。プッチーニは「トゥランドット」の最後の愛の二重唱とフィナーレのスコアのスケッチ
(36ページ分)を持参した。途中、汽車の中で彼はひどい吐血をした。アダーミに宛てて“ブリュッセルにて 私は、ここにいる! 哀れなるかな! これから、6週間もかかるそうだ!
‥‥‥(略)‥‥‥だが、「トゥランドット」はどうなるだろう?”
(日付なし) モスコ・カーナ(加納泰)「プッチーニ 生活・芸術」音楽之友社よりp335
これ以後彼は本格的なX線治療に入る。毎朝のようにドス黒い血を口一杯吐いている。治療の初期の段階ではかなり自由に外出も許された。モネ劇場で彼が生涯で最後に聴く自作「
蝶々夫人」も観た。1924年11月24日の朝にルドゥウ博士は第2段階の治療を施す。首に穴が開けられ、7本の針が首内部の腫瘍に差し込まれた。3時間40分の治療で、患者の心臓に対する考慮から部分麻酔であった。それから3日間、患部の激しい痛みと鼻から流動食が注入され、意志の伝達は身振りや走り書きで行われた。博士も経過良好と判断して快復の見込みを信じていた。
11月28日午後6時頃にプッチーニは突然、治療の椅子の中で心臓麻痺を起こした。すぐ針が除かれ、注射が行われた。医者たちはこの心臓麻痺を一時的なものと考えていた。しかし、この苦しみは10時間も続き、この間イタリア大使が見舞いに訪れた。ローマ教皇大使も訪れ、病者の塗油の秘跡をまだ意識のあるプッチーニに授けた。そして
1924年11月29日朝方4時ついに息を引き取った。
葬儀は1924年12月1日、ブリュッセル市内のイタリア人居住地区にある聖マリ−教会で教皇大使司式で行われた。遺体は汽車でミラノへ運ばれ、12月3日ドゥオーモ
(カテドラル)でトージ枢機卿司式の下で国葬となった。トスカニーニはスカラ座の管弦楽団を指揮してオペラ「エドガー」の中から演奏した。大雨の中遺体は記念墓地のトスカニーニ家の墓所に仮安置された。イタリアは国を挙げて喪に服し、半旗が掲げられ、スカラ座は閉ざされた。その2年後に柩はトッレの屋敷の内の墓所におさめられる。
未完となった「トゥランドット」
未完の第3幕第2場最後の愛の二重唱とフィナーレは、
フランコ・アルファーノFranco Alfanoイタリア(1876-1954)の手に委ねられ、プッチーニの草稿
(36ページのスケッチ)にしたがった補作によって完成された。
→アルファーノ補作版
近年、2002年の
リチアーノ・ベリオLuciano Berioイタリア(1925-2003)の補作版も注目を浴びている。
→ベリオ補作版
<初演と受容>
「トゥランドット」はプッチーニの死後17ヵ月目の
1926年4月25日に初演されたのであった。この初演の日のみ指揮者のトスカニーニは、演奏が第3幕第1場のリュウの死の場面が終わったところまで来た時、指揮棒を譜面台に置き、“ここでマエストロは筆をおきました。死はこの場合、芸術より強かったのです”といって指揮台を降りた。そして次の日の公演より
アルファーノの補作版により完全上演された。そして今日に至っている。
4月21日はイタリアにとって祝日で、ミラノではファシスト党の祝典がムッソリーニも来て行われていた。初演の日に彼も招かれていた。開演前にファシスト党歌を演奏することを命じられたが、トスカニーニは断じて応じず、そしてムッソリーニも来なかった。
<物語の特徴>
時代を規定しないこのドラマは北京という場所で展開される。トゥランドットの伝説は中国起源ではなく、かなり古くからヨーロッパに伝えられていた。オペラの台本となった原作者ゴッツィは、17世紀末にフランス語訳されたペルシャ伝説集「妖精たちの部屋」か「アラビアン・ナイト」の中で見つけたらしい。プッチーニは愛と憎悪の相克というテーマで、愛を知らぬ冷たい女性が愛によって生まれ変わるというドラマに捉えられた。プッチーニと2人の台本作者は、ゴッツィの寓話劇に作曲家の好みに従ってかなり登場人物像を変えている。
トゥランドットを冷酷な女性にして、第3幕フィナーレの変身
(愛の目覚め)を強調した。そして人工的な雰囲気のドラマにヒューマンな感情を入れるためにカラフを救うために命を棄てる乙女リューを創造した。皇帝アルトゥムが原作では精悍な大男だったが、やせた老人に変えた。これも劇的効果を倍加した。そして3つの謎の答えもプッチーニ独特のものにした。すなわち“カラフが持っているもの=<希望>
←原作は<太陽>”、“カラフが生命の危険を賭けたもの=<血>
←原作は<年>”、“カラフが得たもの=<トゥランドット姫>
←原作は<アドリアの獅子>”。すべてがカラフとトゥランドットとの間に生じる愛のドラマとして展開している。ピン、パン、ポン3大臣の登場は18世紀のヴェネツィアの劇作家ゴッツィの創作であった。これは古典イタリア喜劇の伝統を引くものであり、プッチーニのやりたいこととも合致した。
<音楽の特徴>
「トゥランドット」は結末のハッピー・エンドからすると悲劇でない。しかし、部分的に例えばリューの死は悲劇的であり、3大臣の要素は喜劇的ある。おそらくオペラ・ブッファへの憧れを導入したに違いない。
この3つの性格の対比と統一によって傑作を産み出した。またこの3つの性格は内に秘めた彼の個性でもあった。これはプッチーニ晩年の高みを示すものでもある。またこのオペラにおいて合唱や重唱を有機的に展開させている点は、今までの彼の作品とは違っている。その結果、彼の唯一のグランド・オペラであり、またグランド・オペラの性格をもつオペラとなった。これはヴェルディの「
アイーダ」や「
オテッロ」に続くオペラの系譜であるといえるだろう。
「トゥランドット」の音楽の魅力は、東洋的そして中国風の音による色彩感であろう。プッチーニの異国趣味は、すでに「
蝶々夫人」や「
西部の娘」でも示されたが、「トゥランドット」では異国趣味的効果を跳び越えて、音素材として組み立てている。確かに具体的ないくつかの中国の古謡や国歌や民謡を用いている。
彼はこれらを長年中国に領事として駐在していたファッシーニ男爵所有のオルゴールから得た。このオルゴールは“清国国歌”
(3大臣が初めて登場場面に用いられる。1912年に制定された国歌)、“東天紅”
(第1幕で子供たちが歌うセレナーデ。トゥランドットの公的な行動の動機として用いられている)、“儀式の音楽”
(第2幕第2場で用いられる。中国では宮廷公儀に奏された)、“民謡”
(第3幕に用いられている)があった。
この他にプッチーニ自身で組み立てた5音階で幻想界の中国を表現したようだ。また復調技法や自由な調性の展開による原始的な和声やリズム、色彩豊かな管弦楽法、特にエキゾティックな効果をあげる打楽器
(ゴング、鐘、ブロックなど)で彩った。
またトウランドット=
ソプラノに与えられた
ドラマティック・ソプラノは独特であろう。オペラ後半部分しか歌わないのだが、きわめて劇的な緊張と表現力をもつ声が要求される。これはプッチーニ・オペラいやイタリア・オペラにおいてもめずらしいことでもあった。それにしても彼は実際に見なかった日本や中国を表現するために彼の想像力で成功したのに、実際に見たアメリカを描くのになぜ失敗したのであろうか。
プッチーニをもってオペラの歴史の一つの時代が終わったのかもしれない。20世紀音楽の初期の時代を充分に生き、当時現れた様々な傾向にも遅れを取らなかったが、前衛にもならなかった。それでもプッチーニの音の響きはあまりに心地よく、また違和感を感じさせない。これはひとつの音楽の、いや芸術のあり方を示すものであろう。我々各々は違った考えや芸術観を持っている。それでもプッチーニのようなひとつの高みに達した世界を是認することは、大きな意味があろう。
<第3幕第2場の補作>
フランコ・アルファーノFranco Alfanoイタリア(1876-1954)は、1924年プッチーニが死去にともない、
第3幕第2場を完成するためにトスカニーの推薦によってアルファーノが選ばれた。リコルディ社の依頼で最後の
第3幕第2場の二重唱とフィナーレをプッチーニの草稿
(36ページのスケッチ)に基づいて補作した。
→アルファーノ補作版による演奏例
草稿はピアノと声楽部分や台本のみで草稿が全く存在しない部分もあった。
たしかにアルファーノの
補作部分=
第3幕第2場は、モーツァルトの「レクイエム」におけるジュスマイヤーの補筆の欠点と共通するともいわれている。当然ながらプッチーニと比べると当然ながら異質な面が目立っていることは確かであるが、完成した「トゥランドット」を観ることができる幸せは否めないであろう。
ルチアーノ・ベリオLuciano Berioイタリア(1925-2003)はもう一つの補筆を完成した。彼は
20世紀の重要作曲家であり、
セリー音楽、電子音楽、偶然性の音楽の作品分野の作品を残した。
ベリオはプッチーニ死後に生きた作曲家であるが、第3幕第1場のリュウの死以降の
第3幕第2場をプッチーニの遺した草稿
(36ページのスケッチ)を元にして補筆した。これが最後の作曲の仕事となった。
ベリオがこの補作をする機縁は次のようである。一つの国際音楽祭からの委嘱であった
(報酬は5万ドルだったという)。それはアフリカ大陸の北西沿岸に近い大西洋上にある7つの島からなる群島、スペイン領カナリア諸島において開催される「
カナリア諸島音楽祭Festival de Musica de Canarias」である。19世紀半ばより毎年1月から2月にかけて行われる国際的な音楽祭である。ベリオ補作による「トゥランドット」初演は2002年1月24日リッカルド・シャイー指揮、アムステルダム・ロイヤル・コンセルトヘボー管弦楽団でラス・パルマス・グラン・カナリアで演奏会形式で行われた。
オペラとしての上演は、2002年5月サンフランシスコ・オペラ、6月にはオランダ国立歌劇によって行われた。8月にはザルツブルク音楽祭でワレリー・ゲルギエフ指揮、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団による上演があった。
→ベリオ補作版による演奏例
2003年ザルツブルク音楽祭5月27日にケント・ナガノ指揮、ベルリン国立歌劇場が取り上げた。2005年11月日本でも藤沢市民オペラが若杉 弘指揮で上演されている。
その特徴は、
アルファーノ版のトゥーランドットの心理の動き
(カラフへ傾き)が唐突であることは否めなかったが、この点をベリオは是正し、カラフに心が傾く心理描写が自然なものにした。もう一つはカラフに心を向けたリューへの思いが加味され、全体が静かにそうした心理描写を施し、自然な余韻を漂わせている点は好ましいといえるだろう。とはいえ20世紀最先端の作曲家の書法は、プッチーニの時代と様式を超えた面も漂わせる。この点が今後どのような評価がなされるか、興味ある点である。
<物語>
第1幕:昔々の伝説の時代。中国の都、北京の城壁のそばの広場
今や日が沈もうとしている広場にたくさんの群衆が押し寄せている。この時、銅鑼の音とともに役人が城壁の上に姿を現し、皇帝の布告を読み上げる。それは王女トゥランドットは王家の血を引く者の中から、姫の課した3つの謎を解いた男を夫に迎える。かなわぬ場合は直ちに斬首の刑に処せられる。すでに立候補していたペルシャの王子は、今夜月の出とともに処刑されることとなったと。(舞台裏で歌われる子供たちの合唱は“東天紅”の引用) その後広場は大混乱となり、“下敷きになった年寄りを救って”という女の悲鳴でひとりの青年が近づき助け出す。すぐに彼の父親であることが分かる。彼ら3人はダッタンの旧王ティムールとその王子カラフ、そして王に仕える奴隷女リューであった。戦いに敗れ、3人は今は放浪の旅を別々に続けていた。こうして思いがけない再会を果たした。(リューのアリア“お聞き下さい、王子様!Signore,ascolta!”、カラフのアリア“リューよ、泣くな!Non
piangere,Liu"!”)
その時、死刑執行の役人たちが登場。すでに夕闇が迫っていた。そこへ若きペルシャの王子が引き立てられていく。同情する群衆。月光に照らし出されてトゥランドット姫が美しい姿を現す。これを見ていたカラフ王子は姫の美しさに心を奪われてしまう。父王ティムールは王子カラフとこの場から離れようとするが、カラフはその場を動こうとはしない。ペルシャの王子の断末魔の声が響いてきた。
カラフは姫の夫として立候補しようとするが、3人の奇怪な大臣、帝相ピン、大膳職パン、料理頭ポンが引き留める。そこへまた9人の侍女も登場。おまけに城壁には姫のために命を奪われた亡霊が現れる。次いで役人が今殺されたばかりのペルシャの王子の生首をもって現れる。リューは泣きながらカラフに挑戦をやめるよう訴える。だが、燃える心を抑えられないカラフは銅鑼に駆け寄って3回連打する。(合唱と管弦楽による“東天紅”)
第2幕
第1場:幻想的な装飾の中国風の一室
ピン、ポン、パンの3大臣が登場。王子カラフの立候補の準備について話し、ついには今までの20人の犠牲者に話は移る。(ここではイタリア古典喜劇の世界が展開される!) 宮殿の内部から人々のざわめきが聞こえ、あわてて3人は出て行く。
第2場:宮殿の前の大広場。正面に壮麗な大階段がある
大勢の群衆が広場に集まって来た。大官たち、3つの謎の解答を収めた3幅の巻物を持つ8人の賢者、3大臣が登場。そして老皇帝アルトゥムろトゥランドット姫が現れる。姫はなぜ自分が心を閉ざし、このような残酷なことをするのかを話す。それは昔々の王家に秘められた王女の悲劇をとくとくと語るのであった。(トゥランドットの異色のアリア“この宮殿の中でIn questa reggia”。)
話し終え、我に返った姫は“謎は3つ、死は1つ”とカラフに宣告する。カラフは“謎は3つだが、生は1つ”と返答。トゥランドットは第1の謎を出す。“暗い闇夜に飛び交い、暁とともに消え、人の心に生まれ、日毎に死に、夜毎に生まれるものは何か?”カラフは“希望です”と答えた。8人の賢者は第1の巻物を開いて、正解であることを確認する。
次いで姫は第2の謎を告げる。“炎のようにゆらめき、燃え立ち、夕陽のように紅く、ある時は冷たく凍り、しかもそのかすかな呼び声を聴き分けることが出来るものは何か?” カラフは“それは血!”と答える。8人の賢者が巻物で確認する。興奮した姫は第3の謎を問う。“氷のように冷たくて、汝には火を注ぎ、あなたを自由にまかせるかと思えば奴隷にし、奴隷にするかと思えばあなたを王とするものは誰か?” 考え込んだカラフ! ついに“私の勝ちだ! それはトゥランドット!”(“東天紅”の引用) 8賢者は確認した。初めて敗北を味わった姫は怒りをあらわに出し、皇帝に素性も分からぬ他国者の妻にはならないと訴えた。皇帝は認めない。カラフは姫に力強く愛を告白する。
カラフは姫に“今度はあなたに1つの謎を与えよう。私の名は何か?”という。“もし夜明けまでに私の名がわかったら、私は命を差し上げよう”と誓った。姫はうなづき、この挑戦を受け入れた。
第3幕
第1場:前と同じ日の夜中。王宮内の庭園
役人たちが夜の北京の街中に、見知らぬ王子の名が分かるまで誰も眠ってはならない、とふれ回っている。カラフはただひとりこの布告を物思いにふけっている。(カラフのアリア“誰も寝てはならぬかNessun dorma!”) そこへ3大臣が現れる。彼らも夜明けまでに王子の名をつきとめなければ首をはねられることになっている。先ず美女3人に王子を誘惑させるがダメであった。今度は宝物でつるが王子は応じない。最後は群衆共々で哀願や脅すが効き目はなかった。
そこへ兵士たちが年老いたティムールとリューを引き連れて来る。王子が2人に近づくのを見たピンは姫を呼ぶ。姫はティムールに“彼の名を言え!”と命令する。リューが“この方の名は私だけが知っています”訴える。しかし、口を割らないリューに怒った兵士たちは捕らえて縛り上げる。かばおうとした王子も縛られる。姫は彼女の勇気に不思議がり問うと、“それは愛のためです”というと、愛を知らぬ姫を益々怒らせた。拷問を命じ、リューは苦しみながら最後の訴えをする。(リューのアリア“氷のように冷たいあなたTu che di gel sei cinta”)そして兵士の短刀を取って胸を刺した。群衆さえリューの心に感動し、運ばれていくリューの死体に続いて行く。
残った姫とカラフはその場に立ちつくすが、ついにカラフは姫を抱いて激しい口づけをする。その後、沈黙が流れ、身を離した姫は突然別の人間に生まれ変わったようになる。カラフはその純真な美しい姿を見て感動する。すでに夜も白み始めている。生まれて始めて男に抱かれる姫に“私の名はカラフ、ティムール王の王子!”高らかに叫んだ。これを聞いたトゥランドットは勝ち誇ったように顔を輝かせる。
第2場:宮殿の前の大広場
大広場の大階段の玉座には多くの貴族、高官、賢者たちを従えた皇帝が着席。大階段に立った姫は誇らしげに告げた。“約束の朝、私は彼の名を知りました。その名は愛!”王子カラフは駆け上がり、全員の喜びの中でトゥランドット姫とあつい抱擁を交わす。(最後の大合唱はカラフのアリア“誰も寝てはならぬかNessun dorma!”に基づく)