制作者:国本静三

音楽サロン表紙 目次 ロマン派目次 20世紀目次 作曲家別作品表 時代別作品表


プッチーニの生涯

ジャコモ・プッチーニGiacomo Pucciniイタリア(1858-1924)


<20世紀前後のイタリア・オペラ>

 イタリアは18世紀にグルックGluckドイツ(1714-87)を無視したように、19世紀にはヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)を嫌った。その中でヴェルディの「オッテロ」はイタリア・オペラの伝統の記念碑的存在として受入られ、イタリア・オペラの健在ぶりを示す役目を果した。ヴェルディの後、イタリアの聴衆はヴェリスモ・オペラ(写実主義オペラとか現実主義オペラとも訳される)に熱をあげた。ヴェリスモ・オペラの中心的人物はマスカーニMascaniイタリア(1863-1945)レオンカヴァッロLeoncavalloイタリア(1857-1919)であった。つまり19世紀末の文学思潮に始るイタリア・ヴェリスモの口火となり、ヴァーグナーに対する最大の反撃でもあった。それらはマスカーニ「カヴァレリア・ルスティカーナ」(1890年)とレオンカヴァッロ「道化師」(1892年)であった。この2つのオペラは1幕ものの形態をとり、自然な舞台の流れをねらうヴェリスモ・オペラの古典的な名作となった。

 音楽手法も直接的な劇的効果をねらい、強烈で激しい表現がみられる。歌手による激しいフレーズ、管弦楽はしばしば興奮のるつぼに達する。だがこのような表現様式は、長編オペラには向かない。例えていうならば交響曲に対する交響詩のような存在がヴェリスモ・オペラである。しかし、この1890年代のヴェリスモ運動を誰も繰返すことができなかった。マスカーニもレオンカヴァッロ自身も繰返すことができなかったのであった。一瞬に咲いた花のようでも、そのオペラ史における意義は大きい。こうした状況の流れの中でプッチーニがイタリア・オペラ界に登場してきたのであった。


<プッチーニの音楽史での位置>

 プッチーニの音楽史での位置づけはむつかしいかもしれない。生涯を19世紀にその3分の2を、また20世紀に3分の1を過ごした。ということはロマン派(1820-1900)と20世紀の音楽史に生きた作曲家であったことを示す。イタリア近代の音楽家ともいえ、またプッチーニは19世紀末から20世紀初頭のイタリア・オペラの代表者である。

 プッチーニは、ロマン派のイタリア・オペラの頂点を築いたヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)の後を次ぐ人物と評されている。だがプッチーニ生存当時から国外やイタリアでさえ、その評価については大いに異論があった。特に20世紀に入って10年間というものは、イタリア本国において最も活発な反プッチーニ運動が存在していた。それは何故か? すぐれた劇場感覚ゆえか、洗練され過ぎたドラマ感覚に充ちた音楽ゆえか‥‥‥。プッチーニ・オペラの中には重厚な芸術性が欠如している、というのが終始いわれ続けた論拠であった。ヴィーンをはじめ他のヨーロッパの諸国でも同じであった。その頃のヴィーンは丁度広がり行く北や東のヨーロッパと南、西ヨーロッパの重要な拠点であって、音楽市場に対してその発言力は強かった。

 プッチーニ・オペラは、その音楽も題材選びも地方色豊な特徴をもっている。すなわち国際的な題材選びや世の動きにも敏感で、熱心に台本作りをした。“いい台本がなくては私の音楽は役立たない”と自身でいっている。音楽についても“私は聴衆に一歩先んじるが、決して数歩は先んじない”ともいっている。たしかに新しい音楽の要素を用いても、革新的といわれることもない。「トスカ」や「蝶々夫人」のような作品は、初演では受入れられなかったが、その真価はすぐに認められた。自分は“劇場のために作曲することを神に命じられた”と自認している通り、オペラの重要な作曲家となっていった。最後まで独善的な自己陶酔に陥ることなく、良質で娯楽性のある劇場音楽をめざし続け、その目的を果したといえる。彼の選んだ題材は万人の共感を得るし、音楽も感情表現にすぐれ、特に哀切の極みにあらわれる旋律と管弦楽の効果的な人物描写は絶妙である。


<プッチーニのオペラ作品>

作品名 初演年月日 初演場所
ヴィッリ  1884 03/31 ミラノ        ダル・ヴェルメ劇場
 改訂版   1884 12/26 トリノ        王立劇場
エドガール 1889 04/21 ミラノ        スカラ座
 第2版 1892 02/28 フェラーラ      市立劇場
 第3版 1905 07/08 ブエノス・アイレス オペラ座
マノン・レスコー 1893 02/01 トリノ        王立劇場
ラ・ボエーム 1896 02/01 トリノ        王立劇場
トスカ 1900 01/14 ローマ        コスタンツィ劇場
蝶々夫人  1904 02/17 ミラノ        スカラ座
 第2版   1904 03/28 ブレーシア      グランデ劇場
西部の娘 1910 12/10 ニューヨーク     メトロポリタン歌劇場
1917 03/27 モンテ・カルロ    オペラ座
3部作
 @外套
 A修道女アンジェリカ
 Bジャンニ・スキッキ
1918 12/14 ニューヨーク     メトロポリタン歌劇場
トゥランドット 1926 04/25 ミラノ        スカラ座


<その生涯>

a.プッチーニ家

 プッチーニの正式な名ジャコモ・アントニオ・ドメニコ・ミケーレ・セコンド・マリア・プッチーニGiacomo Antonio Domenico Michele Secondo Maria Pucciniである。プッチーニ家第2代目から続いてきた音楽家の名を付けているので、このような長い名前となった。プッチーニ家は父祖伝来の音楽家の家系であったのである。

☆初代プッチーニPuccini:1700年代のはじめ頃、単身でイタリア・トスカーナのチェッレCelleという小さな村からルッカにやって来て住み始めた。ルッカで妻をめとり子供たちをもうけたが、職業や名などは明らかではない。家名であるプッチーニだけが伝えられている。

☆2代目ジャコモGiacomo(1712-81)69歳+:中世以来の歴史をもつベネディクト会大修道院付属ルッカ音楽院で学び、ボローニャでも研鑽した。有名なジョヴァンニ・バプティスタ・マルティーニ神父(1706-84)に指導を受けたともいわれているが、明らかではない。ルッカのサン・ミケーレ教会を中心に活躍した音楽家。

☆3代目アントニオ・ベネデット・マリアAntonio Benedetto Maria(1747-1832)85歳+:先代ジャコモと同じくルッカ音楽院で学び、ボローニャで研鑽した。彼のボローニャでの友人の妹でかなりの名声をもった女流作曲家、オルガニストカテリーナ・テセイCaterina Teseiを妻としてルッカに連れ帰った。彼はプッチーニ家でオペラの才能を示した最初の人であった。
1771年アントニオは対位法の試験にパスしてボローニャのアカデミア・デイ・フィルハーモニチAccademia dei Filarmonici(音楽家学士院)の入会を許された。このアカデミアは、この前年(1770年)にマルティーニ神父が彼の弟子モーツァルトMozartオーストリア(1756-91)(当時14歳、第一回目のイタリア旅行中であった)に試験を受けさせ、会員資格は満20歳以上の規定にも拘わらず満場一致で会員に推挙された学士院であった。この時アントニオも居合わせて羨望の眼で神童アマデウスを見ていた可能性がある。

☆4代目ドメニコ・ヴィンチェンツィオDomenico Vicenzo(1771-1815)41歳+:このドメニコによってドラマ的要素がプッチーニ家の音楽家に導入されたといえる。そして彼の音楽の特徴はうっとりさせる旋律にあった。

☆5代目ミケーレMichele(1813-64)51歳+:先祖と同じくボローニャで研鑽し、ナポリにも行き、ドニゼッティDonizettiイタリア(1797-1848)メルカダンテMercadanteイタリア(1795-1870)にも師事している。彼は理論家、教師としての名声が高かく、多年にわたってルッカ音楽院の院長を務めた。

b.少年時代

 ジャコモ・プッチーニはプッチーニ家6代目、音楽家としては5代目を継承することになる。トスカーナ北部の古い伝統的な町ルッカで生まれ育った。1864年2月18日、プッチーニ家5代目ミケーレが、妻アルビーナと7人の子供を残して死んだ。未亡人は夫ミケーレより18歳下の33歳、5人の女の子と2人の男の子を抱かえていた。上から5人目がジャコモ・プッチーニで5歳であった。父の死後だれもが彼に音楽家としての期待をかけたが、幼い頃は特に音楽的才能を発揮することもなく、学校の成績もよくなかった。それでも母は貧しい中でも彼に音楽教育をするのを怠らず、亡夫ミケーレの弟子アンジェローニ(1834-1901)はじめルッカのすぐれた音楽家たちの指導を受けさせた。

 プッチーニ家の住まいはポッジォ通りの30番地の2階で、道を出て右に行けばすぐ近くにサン・ミケーレ教会がある。この広場を横切ってジャコモ少年はサン・マルティーノ教会へ通った。オルガニストを務めたが、彼の好むことでもなくオルガンも好きな楽器でもなかった。こうした時、師アンジェローニによってオペラへの興味が始まった。彼がヴェルディの「リゴレット」、「椿姫」、「イル・トロヴァトーレ」等を紹介した。こうして1876年3月11日にルッカから往復歩いてピサで上演されていた「アイーダ」を見に出かけた。このことはプッチーニの生涯のうちで最も決定的な影響を与える出来事となった。それは彼にオペラへの開眼をもたらし、ミラノ王立音楽院(現ジュゼッペ・ヴェルディ音楽院)を受験することを決意させたのである。ミラノ音楽院はオペラの作曲のために重要な存在であった。ルッカでは伝統あるパティーニ音楽院で学んではいたが、オペラ作曲のためには不向きで、むしろ教会音楽に優れていた音楽院であった。


c.ミラノ音楽院時代

 プッチーニがミラノに行くに当たって母親は資金集めに奔走する。1880年の秋、ルッカのパティーニ音楽院の卒業証書とマルゲリータ女王育英資金もってミラノへおもむいた。見事一番の点数で音楽院合格を果たし、12月16日に授業は始まった。作曲の担当教授はバッツィーニBazziniイタリア(1818-97)ポンキエッリPonchielliイタリア(1834-86)であった。
 バッツィーニはヴァイオリニストとして有名であったし、ドイツ音楽に精通して器楽音楽において功績をおさめていた。彼の唯一のオペラ「トゥランダTuranda」(台本ゴッツィ)はプッチーニ最後のオペラ「トゥランドットTurandot」の先駆的な作品で、この同じ題材を約40年後にこの弟子は用いることになる。
 ポンキエッリはオペラ作曲家であり、より直接的な影響をプッチーニに与えた。現在でもよく上演されるオペラ「ラ・ジョコンダLa Gioconda」は有名で、ヴァーグナー派の管弦楽重点主義に対して彼は声楽に優位をおく考えを持っていた。プッチーニはこの2人のよい要素をほどよく継承したようだ。

 恵まれた師のもとにいたと思われるプッチーニだが、彼としては不満も多くあったし、彼も勤勉なタイプの学生でもなかった。学生生活は貧しく、下宿はサン・カルロ通りの小さな部屋で、音楽院同門の後輩のマスカーニMascaniイタリア(1863-1945)と一時同居した。当時マスカーニは1年そこそこで音楽院を中退し、旅回りのオペラ団の指揮者になっていた。こうした貧乏暮らしは後の「ラ・ボエーム」を彷彿させられるが、こうした経済的に恵まれない生活は「マノン・レスコー」初演(1893年)後まで続くことになる。
 プッチーニにとってミラノ生活で最も重要なことは、オペラを観ることであった。こうした情況で特にビゼーBizetフランス(1838-75)の「カルメン」やカタラーニCatalaniイタリア(1854-93)の「デヤーニーチェ」から多いに啓発を受けた。カタラーニとは親交を結び多くの影響も受けている。カタラーニは肺結核を病み39歳で亡くなり、晩年猜疑心が強くなりプッチーニの成功に嫉妬を燃やしたとか。


d.オペラへの道

 音楽院の卒業作品の管弦楽曲「交響的奇想曲Capriccio Sinfonico」は、1883年7月14日にファチオ指揮によって音楽院オーケストラで初演され、大好評を得た。しかし、卒業と同時に彼の前には多くの問題が山積み状態であった。目先の問題は定職のない彼にとって収入はどうするかであった。ルッカにいる母も長患いが始まったし(1884年に死去)、ルッカに帰るかミラノに止まるか。ルッカではパティーニ音楽院から教授になる申し入れもあったが、教えることに向いてない彼は教授になりたくはなかった。ミラノで活躍するためにはオペラを書かなくてはならない。折しもこの年1883年から1幕もののオペラコンクールが開催されることになった。そこで彼は締め切り(12月31日)に6ヶ月しかなかったが、「ジゼル」と同じ題材「レ・ヴィッリLe villi(妖精)」を仕上げて応募した。結果は落選であったが、この1幕のオペラ「ヴィッリ」は1884年、ミラノのダル・ヴェルメ劇場で初演された。その結果はまずまずの成功で、リコルディ出版社はこのオペラの全権利を取得した。そしてリコルディの忠告に従い2幕ものに改作してトリノで上演され、ミラノと同じく成功を収めた。だが、1885年のナポリ上演(サン・カルロ劇場)では怒号で中断せざる得なかった。

 これ以後は彼の苦難の時代であったといえる。プッチーニの母が死に(1884年7月17日)、その後まもなく彼は駆け落ち事件を引き起こした。相手の女性は人妻でエルヴィーラといい、男女の2児がいた。プッチーニ26歳、エルヴィーラ24歳でともに魅力あるカップルであった。2人はいわば師弟関係、すなわち彼女の夫の求めに応じて声楽とピアノを教えていた。そして熱烈な恋に陥ることになる。エルヴィーラは娘のフォスカを連れてミラノでプッチーニと落ち合い、同棲を始める。その2年後、1886年にプッチーニの子アントニオが生まれる。しかしエルヴィーラの夫の死(1903年)まで単なる同棲関係でアントニオは私生児のままであった(1904年に正式入籍)

 第2作のオペラ「エドガール」は大失敗に終わった(1889年)。1891年よりヴィアレッジオ近くの湖畔のトッレに落ち着き、後に現在も残されている屋敷を建てる。鳥打ちの好きな彼には打ってつけの場所であった。そして第3作目のオペラ「マノン・レスコー」(1893年)で大きな成功を収め、文字通り彼の出世作となり、オペラ作曲家としての地位を確立した。6人の台本作者の手を煩わしたオペラであった。新聞批評や世論もこのオペラについてイタリア的特性を遺憾なく発揮しているし、彼の交響的な管弦楽法についても現代の要求に応えるものとして支持を受けた。こうした成功によって彼の困窮した経済生活は一挙に解決した。さらにミラノ音楽院の教授としての招へいや、ヴェネツィア音楽院からは院長としての依頼まで受けた。もちろん彼には全く興味ないばかりか最も嫌う仕事であったので、拒否したことはいうまでもない。

 プッチーニの台本作者に対するわがままぶりは有名であった。特に「ラ・ボエーム(1895年完成)ではたいへんなものであった。前作「マノン・レスコー」以上に台本に対して作曲者の注文は多くなり、間に立って実質的な見地から常に見守っていたのは音楽出版業リコルディ家の2代目ジュリオ(1840-1912)であった。

 プッチーニは、1900年の6月にロンドンで演劇「蝶々夫人」を観た。オペラ化の内諾をベラスコと取っていたが、なかなか正式には解決しなかった。しかし11月にはすでにプッチーニは構想に取りかかった。戯曲のように1幕構成(プロローグと1幕)ではなく2幕にすることを考え、イッリカにこの案を送っている。
 1901年1月29日ヴェルディが亡くなり、オペラ化への手順作業は中断された。プッチーニはミラノへ行き、葬儀とトスカニーニ指揮の追悼演奏会(スカラ座)に列席した。それから1ヶ月後、ヴェルディとその妻ジュゼッピーナの遺体は中央墓地から“音楽家の憩いの家”の墓所に移された。プッチーニはこのすべてをルッカの公式の代表として参列した。そして1905年にヴェルディの追悼のために「合唱とオルガン(リードオルガン)のためのレクイエム」を作曲している。
 正式のオペラ化契約は1901年9月20日に、つまり1年以上かかって成立した。台本作者としては「マノン・レスコー」以来の黄金コンビであるイッリカとジャコーザが選ばれた。そして「蝶々夫人」の台本化は今までより意外なほど円滑に進んでいった。だが問題も起こった。プッチーニは2幕から3幕(第1幕:蝶々さんの家、第2幕アメリカ領事館、第3幕:蝶々さんの家)に引き延ばすことを考えた。が、しかしまたもやプッチーニの心変わりで2幕案に戻された。1902年の春にやっとプッチーニは台本を手にし(台本の全完成は11月であった)、身のまわりには日本とアメリカに関する参考資料で埋めつくして作曲が進められた。

 1902年の春、プッチーニはイッリカのすすめに従って、その頃ミラノを訪れていた明治の有名な俳優川上音二郎とその妻川上貞奴一座のミラノ公演の舞台も見物している。それは特殊な高い、さえずるような調子で語る日本人の女優が、どのように自国の言葉を実際に語るのを聞いてみたいと思ったからであった。
 プッチーニは劇音楽に優れている作曲家である。彼が「蝶々夫人」において目立ってやったことは、多数の日本の旋律を引用した点である。彼のオペラにこのようなやり方は「蝶々夫人」はじめ「西部の娘(カリフォルニアの歌)や「トゥランドット」(中国の旋律)により具体的に現れて来た。

 「蝶々夫人」では日本人によく知られた歌が多数引用されているが、日本人の観念にしたがっては適材適所に用いられてはいない。プッチーニの音楽観から選択されたようである。つまり歌詞や曲の内容には関係なく、それらの曲想からプッチーニは用いた。
 あと書斎に残されていたサリヴァンSullivanイギリス(1842-1900)のオペレッタ「ミカド」の楽譜や、パリ版のベネディクトBenedictドイツ−イギリス(1804-85)編集の“日本旋律集”なども参考にされたのだろう。ひさ子夫人はプッチーニ登場人物につけられている名前はおかしいと異議をいったそうである。例えばヤマドリやスズキなど。しかし、完成したオペラを見るとこの点については全く耳をかさなかったようである。

 プッチーニは「トスカ」完成後、それまでモーター・ボートに凝っていたが、さらに自動車に興味は広がっていった。こうした時、しばらく前から喉の病気に悩んでいた。作曲の大半が完成した1903年2月23日、ルッカの専門医に診てもらうためトッレ・デル・ラーゴから妻子を同乗させていた。診察後、友人の家で食事を終えた頃、その夜は霧が深く、また霜のために道路は滑りやすくなっていた。友人のカゼッリは泊まっていくようすすめたが、翌日またルッカで歯医者に診てもらう予定があったのにも拘わらず断った。「蝶々夫人」を少しでも進めたいという気持ちが多かったし、夜は彼にとって一番の仕事時間でもあったからである。
 ルッカから6キロくらい行って、ヴィニョーラという村の近くまで来た時、運転手が運転していたプッチーニの車は、急な曲がり角でスリップした。堤防を乗り越え、15メートルも落下し、転覆してしまった。妻子は免れたが、運転手は外へ放り出され、大腿部を骨折し、プッチーニは転覆した車体の下敷きとなって気を失い、吹き出すガソリンの排気ガスを吸い、窒息状態で発見された。幸いその近くに立派な医博が住んでおり、この人が物音を聞いて現場に駆けつけ、適切な処置が受けられた。彼の自宅へ運ばれ、プッチーニは右の大腿部の骨折と体のあちこちに打撲傷を受けていることが判明した。次の朝、モーター・ボートでトッレ・デル・ラーゴへ運ばれ、骨折箇所の手当を受けた。しかし、2、3日後に再び骨のつぎ直しをせねばならなかった。以後彼はビッコをひくようになったのである。全治8ヶ月の足の骨折で入院生活を余儀なくされた。この間彼が軽い糖尿病に罹っていることも発見された。

 その後春になって、看護されながら車椅子でピアノに向かえるようになり、作曲を再開した。8月29日の手紙で蝶々さんが夜を明かす場面に置く「間奏曲」を完成したことを書いている。9月15日に第1幕のオーケストレーションを完成した。そして1903年12月27日午後11時10分に全曲をついに完成した。構想から数えると3年以上の歳月を要したことになる。
 オペラ「蝶々夫人」の完成はプッチーニの結婚の完成であった。というのは20年来エルヴィーラと生活を共にしてきたが、彼女には夫がいた。だが、この夫ジェミニァーニが1903年に亡くなった。これで正式な結婚の障害がなくなり、1904年2月17日の初演に先立って、晴れて教会で結婚式が行われ、正式な夫婦となった。この時長男アントニオは18歳になっていた。


e.ドーリア事件

 1908年10月から1909年7月までの間、ドーリア事件がプッチーニの身に降りかかって来る。丁度、作曲案を練っていた「西部の女」の作曲を本格的に取りかかろうとした時で、やむなく作曲は中断されることになった。それはプッチーニ家小間使いドーリア・マンフレーディの自殺事件に始まった。

 この事件は妻エルヴィーラと深く関わっている。この時彼女は嫉妬に狂った般若状態、すなわち夫に対して猜疑と悋気で平静心を失っていた。もちろん彼女の夫にも責任が多いにあった。性衝動のままにかなり羽目も外すことの多い夫! 妻の性格はもともと柔軟性に欠け、心の狭い、寛容さのない、自意識過剰しかも高慢な所があった。また情熱的な愛を夫にそそぐ彼女はかってはプッチーニと不倫関係を結び、駆け落ちしてまでする破滅的型女性でもあった。今は夫に対する愛は私物化傾向があり、家庭では夫を支配しようとした。それに巧みに対応できる夫でもなかった。遊び好きで交際も多い夫にひどい嫉妬を燃やすようになる。この妻はいわゆる賢婦人型でもない。また夫も彼女に一切仕事に関わらせなかった。心身ともに閉じこめられていった。仕事のために出向く都市や外国にも同伴させなかった。これによって有名人を夫としながらも彼女のプライドが深く傷つけられていき、そうした時その鬱憤を晴らす好機が到来する。

 1903年2月23日、プッチーニ自動車事故直後に16歳のドーリア・マンフレディが小間使いとして、主にプッチーニの臨時の付き添いとして雇われた。彼女はトッレ・デル・ラーゴの田舎の娘で、家族の反対を押し切ってこの仕事を受けた。というのはプッチーニの女性好きとその妻の嫉妬深さは、有名であったからである。ドーリアは優しく従順で控えめな娘で、この夫妻によく仕え可愛がれもした。こうして5年経た1908年9月末か10月の初め頃、妻は夫とこの娘との間を疑い始めた。そして行動に出る。この娘にひどい追求や近隣にも2人の関係をいいふらした。後にプッチーニはきっぱりとこの点に関しては否定している。そしてドーリアは解雇されたが、エルヴィーラはこれでは満足しなかった。トッレの村中にいいふらし、娘を村から追い出そうとした。道で彼女に出くわすと人々の前で、あらん限りの悪言罵倒をやめなかった。いたたまれないプッチーニはパリに逃げた。

 そして1909年1月23日、エルヴィーラのすざまじいいじめに耐えられなくなったドーリアは錯乱状態になり、家でついに3錠の毒薬で自殺を図る。そして5日後に彼女は死んでしまった。検死が行われ、その結果彼女が処女であることが証明された。世間は今度はエルヴィーラに対する攻撃と非難に変わった。そしてドーリアの家族はエルヴィーラを告訴する。プッチーニは多額の金で解決しようとしたが果たせなかった。この妻は息子アントニオとミラノで仮住まいをし、夫はトッレに止まっていた。プッチーニはその数ヶ月の間、哀れな娘の幻影に悩まされることになる。

 1909年6月16日ピサで裁判は開かれた。そして7月6日の判決で、名誉毀損と中傷と生命ならびに身体に対する脅迫の3点からエルヴィーラは有罪となった。5ヶ月5日の懲役と損害に対する700リラの罰金、全訴訟費用の支払いが命じられた。だが、この被告に全く反省が見られなかったばかりか、益々夫にその不貞を責め立てた。7月21日に妻の弁護士たちは控訴した。この時エルヴィーラは、中傷したことについての罪を認め、名誉毀損と身体生命への脅迫については否定した。そこでプッチーニは再度ドーリアの家族に1万2千リラという大金と引き替えに告訴を取り下げさせた。ついに10月2日解決を見ることになった。ともあれこの事件はイタリア国内のたいへんな話題となり、新聞がこぞって取り上げた。プッチーニ自身には残像にように残った、哀れな自ら死を選んだドーリアの運命は「修道女アンジェリカ」のタイトルロール、「トゥランドット」のリュウに反映され、芸術の中で昇華されることになる。また残虐なエルヴィーラの姿は「修道女アンジェリカ」では伯母、「トゥランドット」ではタイトルロールに象徴化される。


<プッチーニの死>

 1924年2月、この時彼は喉の痛みを感じ、しつっこい咳に悩まされる。オペラ「トゥランドット」の作曲は順調であった。3月には主治医とミラノ専門医に見せている。2人の医者はリューマチ系の炎症とし、問題なしとした。そしてすすめに従い、パルマ近くの保養地サルソマッジョーレで5月の最後の一週に治療を受けた。「トゥランドット」は、最後の2重唱とフィナーレだけが残っていた。彼としてはほんの数週間もあれば完成できると思っていた。

 1924年9月7日には、スカラ座の芸術監督のトスカニーニが、ヴィアレッジョのプッチ−ニを訪れて1925年春の初演に向けて喜々として打合せをした。だが、10月の初め、スカラ座のリハーサル室でトスカニーニや台本のシモーニも立ち会って会合がもたれたが、プッチーニの弱り切った姿を見てトスカニーニは愕然とする。1924年10月8日についに2重唱の3つめの歌詞を受け取り、大満足する。

 長年の親友シビル・セリグマンが1924年8月末、ヴィアレッジョのプッチーニの自宅を訪ねた時、絶えず喉の痛みを訴えた。シビルは息子のアントニオにすぐ知らせ、アントニオは他の医者の診察を促したが、プッチーニはなかなか聞き入れない。10月になるとますますひどくなり、意を決してヴィアレッジョの専門医に見せたが、特に何も認めなかった。しかし、今度はプッチーニ自身の不安はおさまらなかった。彼は家族には内緒でフィレンツェの専門医に赴いたところ、乳頭腫(小さな乳首状の腫れ物)で悪性の腫瘍でないと診断された。それでも不安はおさまらず、アントニオにこのすべてを告げた。アントニオは直ちにその医者に手紙連絡を取り、再度診察を受けさせることにした。その結果、医者は秘かにアントニオに喉頭癌で、しかも手遅れで手術も及ばないと告げた。アントニオは父には真相知らせず、父の延命のためにあらゆる手段をとる。

 1924年10月20日、3人の専門医を自宅によんで診察させた。すなわち、グラデニーゴ教授とフィレンツェのトッリジアーニ博士、トージ博士であった。彼らは前の診断が誤りがなかったことを確認し、X線治療を勧める。これが唯一の病状の急速な悪化を防ぐ手段であるといった。当時まだこの種の治療はごく初期の時代で、全ヨーロッパで2つの病院、つまりベルリンとブルュッセルしかなかった。プッチーニはいろいろ考慮の末、ブリュッセル・クーロンヌ付属病院でルドゥウ教授の治療を受けることに決める。ブリュッセルに発つ前にミラノでトスカニーニと会い、さらに「トゥランドット」の打合せを行った。アントニオはこの指揮者には真実を知らせておいた。というのは最後の幕の残りを完成できるかどうかわからないからである。
  
 1924年11月4日ついに出発。同行したのは息子のアントニオとプッチーニの養女フォスカ、リコルディ社を代表してクラウゼッティの3人であった。妻エルヴィーラは夫の病気の真実をまだ知らず、彼女はひどい気管支炎を起こしていたのでヴィアレッジョに残った。プッチーニは「トゥランドット」の最後の愛の2重唱とフィナーレのスコアのスケッチ(36ページ分)を持参した。途中、汽車の中で彼はひどい吐血をした。アダーミに宛てて“ブリュッセルにて  私は、ここにいる! 哀れなるかな! これから、6週間もかかるそうだ! ‥‥‥(略)‥‥‥だが、「トゥランドット」はどうなるだろう?”(日付なし モスコ・カーナ 加納泰訳「プッチーニ 生活・芸術」音楽之友社よりp335)
 
 これ以後彼は本格的なX線治療に入る。毎朝のようにドス黒い血を口一杯吐いている。治療の初期の段階ではかなり自由に外出も許された。モネ劇場で彼が生涯で最後に聴く自作「蝶々夫人」もみた。1924年11月24日の朝にルドゥウ博士は第2段階の治療を施す。首に穴が開けられ、7本の針が首内部の腫瘍に差し込まれた。3時間40分の治療で、患者の心臓に対する考慮から部分麻酔であった。それから3日間、患部の激しい痛みと鼻から流動食が注入され、意志の伝達は身振りや走り書きで行われた。博士も経過良好と判断して快復の見込みを信じていた。

 11月28日午後6時頃にプッチーニは突然、治療の椅子の中で心臓麻痺を起こした。すぐ針が除かれ、注射が行われた。医者たちはこの心臓麻痺を一時的なものと考えていた。しかし、この苦しみは10時間も続き、この間イタリア大使が見舞いに訪れた。ローマ教皇大使も訪れ、病者の塗油の秘跡をまだ意識のあるプッチーニに授けた。そして1924年11月29日朝方4時ついに息を引き取った。

 葬儀は1924年12月1日、ブリュッセル市内のイタリア人居住地区にある聖マリー教会で教皇大使司式で行われた。遺体は汽車でミラノへ運ばれ、12月3日ドゥオーモ(カテドラル)でトージ枢機卿司式の下で国葬となった。トスカニーニはスカラ座の管弦楽団を指揮してオペラ「エドガール」の中から演奏した。大雨の中遺体は記念墓地のトスカニーニ家の墓所に仮安置された。イタリアは国を挙げて喪に服し、半旗が掲げられ、スカラ座は閉ざされた。その2年後に柩はトッレの屋敷の内の墓所に収められる。

 未完となった「トゥランドット」はプッチーニの友人のフランコ・アルファーノFranco Alfanoイタリア(1876-1954)の手に委ねられ、プッチーニの草稿(36ページのスケッチ)にしたがって完成された。「トゥランドット」の初演はプッチーニの死後17ヵ月目の1926年4月25日に行われた。この初演の日のみ指揮者のトスカニーニは、演奏が第3幕第1場のリュウの死の場面が終わったところまで来た時、指揮棒を譜面台に置き、“ここでマエストロは筆をおきました。死はこの場合、芸術より強かったのです”といって指揮台を降りた。そして次の日の公演よりアルファーノの補作により完全上演された。そして今日に至っている。


<結語>

 プッチーニをもってオペラの歴史のひとつの時代が終わったのかもしれない。20世紀音楽の初期の時代を充分に生き、当時現れた様々な傾向にも遅れを取らなかったが、前衛にもならなかった。それでもプッチーニのサウンドはあまりに心地よく、また違和感を感じさせない。これはひとつの音楽の、いや芸術のあり方を示すものであろう。我々各々は違った考えや芸術観を持っている。それでもプッチーニのようなひとつの高みに達した世界を是認することは、大きな意味があろう。



2001-2008


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