制作者:国本静三

音楽サロン表紙 目次 ロマン派目次 20世紀目次 作曲家別作品表 時代別作品表



リヒャルト・シュトラウスの生涯と作品


<生涯>

 リヒャルト・シュトラウスRichard Straußドイツ(1864-1949)は ドイツの作曲家・指揮者。近代オーケストラのためのすぐれた作品を書き、また声楽曲のジャンルでも業績をあげた。


a.生まれた時の背景

 1864年6月11日にR.シュトラウスは生まれた。丁度その40日前にパリで当時のフランス・グランド・オペラの巨匠、マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)が亡くなった。オペレッタの世界ではヴィーンにスッペSuppe'オーストリア(1819-95)と、パリには人気を独占していたオッフェンバックOffenbachドイツ-フランス(1819-80)がいた。オッフェンバックはマイヤベーアと同じくドイツ生まれのユダヤ・ドイツ人であった。彼はよく知られたオペラの題材をパロディ化しながら自分のオペレッタに巧みに取り込み、大エンターティメントを展開した。意表をつくおかしみとフランス第2帝政期の風刺などを織り込んだ巧みで派手な様式を編み出していた。今でも親しまれている数々の旋律のヒット・メーカーでもある。

 1861年にヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)が「タンホイザー」でパリで大失敗した。これは聴衆がマイヤベーアの華麗な管弦楽法orchestrationや大仕掛けな舞台になれきっていたせいでもあろう。この時、ヴァーグナーにとってマイヤベーアはヴェルディVerdiイタリア(1813-1901以上に脅威な存在であった。マイヤベーアが死んだ時51歳のヴァーグナーは、ライフワークであるバイロイトに祝祭劇場の建設に着手しようとしていた。1864年にルートヴィヒ2世がバイエルンの国王になり、ドイツから追放の身で多額の借金に苦しむヴァーグナーに援助を申し出た。これによって新ロマン派グループベルリオーズBerliozフランス (1803-69)リストLisztハンガリー(1811-86)ヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)は力を得て大きな成果を収めていく。
 新ロマン派への対抗馬として絶対音楽absolute musicの旗手としてブラームスBrahmsドイツ(1833-97)が立てられるが本人は辞退してる。彼には野心もなかった。ブルックナーBrucknerドイツ(1824-96)は、「ミサ曲第1番ニ短調」を書き、引き続き「交響曲第1番」に取りかかり、1868年に初演される。

 こうした背景の中でR.シュトラウスは生まれた(1864)。ヴァーグナー、リスト、ブラームス、そしてビューローBuelowドイツ(1830-94)等は、彼に多大な影響を与えることになる。でも、バイロイトの巨匠ヴァーグナーや長い白髪のリストとは個人的には会うことはなかった。だが、彼の父フランツ・ヨーゼフ・シュトラウスはミュンヒェン宮廷歌劇場の主席ホルン奏者にして王立音楽院の教授でもあった。この父はヴァーグナーを評価しなかったが、演奏者としてヴァーグナーと度々顔を合わして彼の指揮で演奏もしていた。ヴァーグナーの方もこの父のホルンの腕前とヴァーグナー自身に対する批判的考えもよく承知していた。

 R.シュトラウスは後に父のことを回想して次のようにいう。父は先ず第一にモーツアルトを置き、次いでハイドン、ベートーヴェンを評価していた。その他はシューベルト、ヴェーバー、メンデルスゾーン、シュポーアであった。ヴァーグナーについては否定的で、「タンホイザー」はかろうじて認めるが他は駄目だった。後期のヴァーグナー作品は全面的に否定していた。しかし、彼ほど「トリスタン」や「マイスタージンガー」のホルン・ソロを演奏できる者はいなかったけれども‥‥‥。ひどい喘息もちであったが69歳まで宮廷歌劇場管弦楽団の主席ホルン奏者を務めた。この父こそR.シュトラウスの音楽家としての基本的な洞察力を与えた人であった。この息子R.シュトラウスが、ヴァーグナーの起こした楽劇Musikdramaを完成し、それを乗り越えていく作曲家となろうとは考えもしなかったことだろう。
 R.シュトラウスが生まれた時、父は42歳、ビール大醸造業者の娘であった母ヨゼフィーネは26歳(父にとって2度目の結婚で、コレラが最初の妻と2人の子供を奪った)であった。ところで、どうして息子にヴァーグナーと同じリヒャルトと命名したのかは驚きでもあり、不思議でもある。


b.結婚まで

 当然のことながら、有能なホルン奏者であった父フランツ・シュトラウスから4歳の時に音楽の手ほどきを受けた。1868年(4歳半)に最初のピアノ・レッスンを父の友人トンボー(ミュンヘン宮廷歌劇場の首席ハープ奏者)から、ヴァイオリンは従兄のベンノ・ヴァルターから習った。ピアノは後にニーストに変わる。彼はテクニカルな練習をする生徒でなく、勝手にスコアを上手に弾くことができるようになった。ごく幼い頃からホルンの響きに微笑み、ヴァイオリンの音には涙で反応したということである。

 1870年(6歳)に教会付属小学校に入学し、ピアノ独奏曲や歌曲も作曲し始める。大変元気のよい子供だったと伝えられている。10歳の時、王立ルートヴィヒス・ギムナジウム(1874-82年)に入った。たいへんな優秀な生徒と伝えられている。第3学年の時担任から、音楽に対する才能は群を抜き、数学を除いては‥‥‥という評価をもらった。1882年大学入学資格をもらって卒業した。音楽と並んで常に歴史と古典文学(ギリシアやローマの作家たちの)に魅せられていた。1875年〜80年に宮廷楽長のマイヤーに作曲法と理論を学んでいる。

 ギムナジウムの間にいくつかの作品が生まれ「交響曲ニ短調」(1880年。未刊で作品番号なし)、テノールとバスの独唱、男声合唱、管弦楽による「“エレクトラ”の合唱」(ソポクレスの詩による 1881年? 作品番号なし)、「ヴァイオリン協奏曲Op.8」を作曲した(1882年)
 1882年秋ミュンヘン大学哲学科に入学し、83年には退学した。この年に大きな影響を与えることになるマイニンゲン宮廷管弦楽団の楽長ビューローBuelowドイツ(1830-94)と出会う。そして85年10月にこの管弦楽団の補助指揮者になっている。21歳で彼の指揮者デビューとなった。12月にはこのマイニンゲン宮廷管弦楽団の音楽監督に就任した。
 1886年(22歳)に病気になり、マイニンゲンを去り、イタリア旅行を経てミュンヘンの宮廷歌劇場第3楽長に就任。87年にマーラーとの出会い、認められた。89年ヴァイマール宮廷劇場の第2楽長に就任した(94年まで)。94年2月12日、ビューロー死す。9月にパウリーネと結婚した(30歳)。パウリーネ夫人はシュトラウスの歌曲のすぐれた歌手として活躍していく。


c.活動の頂点、そして死
 
 結婚の年(1894年)にミュンヘンの宮廷歌劇場第2楽長、96年第1楽長となった。そして1898〜1918年ベルリンの第1宮廷楽長に就任し、オペラの指揮者と活躍した。1904年にアメリカに渡り新作の「家庭交響曲Symphonia DomesticaOp.53」(1903年)を初演した。08年にベルリンの音楽監督総督、09年に芸術院会員に。1917〜20年ベルリン高等音楽学校作曲家マイスター・クラス主任教授を務めた。
 1919〜24年(55歳〜60歳)まで、オーストリアの名指揮者フランツ・シャルクとともにヴィーン国立歌劇場の総監督として指揮者・芸術監督をつとめている。この間南米(23年)や再度アメリカ(22年)を訪問している。彼にとって最も多忙な時期を迎えていたこの時、世界情勢も複雑になっていった。第一次世界大戦(1914-18)を経て、33年にナチスがドイツの政権を獲得した。彼はヴィーン歌劇場を辞した後もヴィーンに滞在し、33年にベルリンに帰った。

 この年(1933年)の11月、ドイツの政権をにぎったナチスに請われて第三帝国音楽局の名誉総裁に就任した(1933-35)。シュトラウスはこの時69歳であった。何故、総裁に就任したか? その理由は、親戚にユダヤ系の嫁がいたのでそれを恐れてかナチスに迎合しようとしたらしい。ナチス政策によるユダヤ人迫害は音楽家にも向けられていき、多くのユダヤ系の音楽家が歴史から抹殺されつつあった。しかし、すぐに堪忍の緒が切れた。それは抹殺されたユダヤ系のメンデルスゾーンMendelssohnドイツ(1809-47)の「真夏の夜の夢」の代わる同名の作品を作曲するよう要請されたり、ユダヤ系のツヴァイクの台本によるオペラ「無口な女Op.80」(1935年)に対する不興などが重なった。こうしてユダヤ系作曲家の作品をほうむろうとする当局と対立し、35年に総裁を辞任した。36年に総裁時代の作品、「オリンピック賛歌」(1934年作曲)がベルリン・オリンピック開幕に当たって演奏された。

 第二次世界大戦(1939-45)が勃発し、戦争中もドイツに留まっていた。40年日本の紀元2600年祝いのために日本政府から委嘱された「祝典音楽(皇紀2600年奉祝楽曲Festmusik zur feier des 2600ja"hrigen Bestehens des Kaiser-reiches Japan)」(1940年作曲)が東京で演奏され、これをラジオで聞いた(76歳)。45年ドイツが敗戦を迎え、スイスに移住した。ナチスに協力したという理由で裁判にかけられたが、無罪になる。後、余生を静かに送っていたが、49年8月に心臓麻痺を起こし、9月8日14時10分、ガルミッシュ・パルテンキルヘンの山荘で死去(享年85歳)。葬儀の時は故人の遺志によりオペラ「ばらの騎士」第3幕から3重唱が歌われた。


<作品>

 シュトラウスの作曲活動は、3期にくっきりとわかれる。第1期(1880〜87)の作品は今日ほとんど演奏されないが、古典派・ロマン派の巨匠たちの影響下にあり、流麗さが特徴である。シュトラウスは、最初は父親の保守的な考えを受け継いでいた。リストやヴァーグナーなどの新ロマン派には背を向けて、古典派の音楽家ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェンに心酔していた。同時代のロマン派のヴェーバー、シューベルト、メンデルスゾーンなどの手法も受け入れていた。
 1882年「トリスタンとイゾルデ」を聞いて、ヴァーグナーに傾いた。83年、ベルリンへ行った時、美術のメンツェルなどから影響を受け、芸術の新しい方向への目を開き始めた。84年ビューローと出会い、彼から認められ、ブラームスの熱烈な信奉者になった。そうして標題音楽と絶対音楽、革新と保守の間をさまよっていた。この頃、ブラームス風であるがヴァーグナーの影響も強い作品を書いている。ex.「チェロとピアノのためのソナタOp.6」(1882-83年)。 マイニンゲン時代(1885年-86年)にヴァーグナー派に転向し始めた。

 第2期(1887〜1904)には管弦楽法に格段の進歩をとげ、標題音楽で注目すべき成果をあげた。この時期は、ドイツの作曲家ワーグナーが開拓したライトモティーフの手法を活用して、交響詩のジャンルを高度に発展させる。和声と楽器法の刷新もおこない、近代オーケストラの表現力を大幅に拡大した。

 ミュンヘン時代(1886-94年)至る時代には彼の管弦楽曲は、新ロマン派(ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナー)の傾向を強く現している。ex.「ピアノとオーケストラのための“ブルレスケ”」(1885年)、「交響的幻 想曲“イタリアより”Op.16」(1886年)、「交響詩“ドン・ファン”Op.20」(1887-88年)、「交響詩“死と変容”Op.24」(1888-89年)。1892年、ギリシア、エジプト、シチリアの転地静養によって、洗練さを与えられたようである。ex.「交響詩“マクベス”Op.23」(1890年)、「オペラ“グントラム”Op.25」 (1888-93年)、「交響詩“ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら” Op.28」(1894-95年)、「交響詩“ツァラトゥストラはこう語った”Op.30」(1896年)、「交響詩:ドン・キホーテOp.35」(1897年)、「交響詩“英雄の 生涯”Op.40」(1898年)、「家庭交響曲Op.53」(1902-03年)
 描写的な手法もみられ、複調や無調的な方法や当時の新しいやり方をすすんで取り入れている。こうして7つの交響詩を仕上げ、リストLisztハンガリー(1811-86)が創始した交響詩の世界を征服したといえる。

 第3期(1904〜49)はオペラの時代である。R.シュトラウスのオペラは、20世紀になって劇音楽に本格的に取りかかるようになった。それらのオペラは20世紀オペラのもっとも重要な作品にかぞえられる。交響詩で得た表現法を結集してそそぎ込んだ。1905年、「サロメ」の初演に成功。その後は、オーストリアの詩人・劇作家ホフマンスタールの台本をもちいて「エレクトラ」(1909年)、「ばらの騎士(1911年)、「ナクソス島のアリアドネ」(1912年。1916年改訂)、「影のない女」(1919年)、「エジプトのヘレナ」(1928年)、「アラベラ」(1933年)などの傑作を次々に発表する。

 ホフマンスタールの死後は、ほかの台本作家とともに「無口な女」(1935年)、「ダフネ」(1938年)、「カプリッチオ」(1942年)などを作曲したが、以前ほどの成功をみなかった。「火難」から「サロメ」ではヴァーグナーの手法が明確に出ている。「エレクトラ」ではヴァーグナーへの傾きの頂点であり、表現派シェーンベルクSchönbergオーストリア(1874ー1951)ヴェーベルンWebernオーストリア(1883-1945)ベルクBergオーストリア(1885-1935)の手法も使っている。それに続く「ばらの騎士」では、ヴィーン古典派の感覚に戻っている。こうした簡明化の方向を以後、持ち続けていった。

 歌曲の分野ではシューベルトに始まったドイツ歌曲の伝統を継ぎ、近代ドイツ歌曲作家の一人に数えられている。100曲余りの歌曲があり、そのなかには「献呈」(1882〜83年)、「あすの朝は」(1893〜94年)など、名曲とされる作品も多い。ほかにバレエ音楽「ヨーゼフ物語Op.63」(1914年)、標題交響曲の「家庭交響曲Op.53」(1903年)と「アルプス交響曲Op.64」(1915年)、ソプラノとオーケストラのための「4つの最後の歌」(1948年)なども書いている。彼は優れた指揮者でもあった。20歳から死ぬ2年前まで自作やモーツァルト、ヴァーグナーの作品に優れた解釈を示した。

<オペラ作品作品表>

作品
台本作者

 作曲年

初演

グントラムOp.25

作曲者R.シュトラウス

1888-90

1894 ヴァイマル

火難Op.50

ヴォルツォーゲン

1900-01

1901 ドレスデン

サロメOp.54

ワイルド=ラッハマン

1904-05

1905 ドレスデン

エレクトラOp.58

ホフマンスタール

1906-08

1909 ドレスデン

ばらの騎士Op.59

ホフマンスタール

1909-10

1911 ドレスデン

ナクソス島のアリアドネOp.60-1

ホフマンスタール

1911-12

1912 シュトゥットガルト

    同       Op.60-2 

ホフマンスタール

1916

1916 ヴィーン

町人貴族       Op.60-3

ホフマンスタール

1917

1918 ベルリン

影のない女Op.65

ホフマンスタール

1914-17

1918 ヴィーン

インテルメッツォOp.72

作曲者R.シュトラウス

1917-23

1924 ドレスデン

エジプトのヘレナOp.75

ホフマンスタール

1924-29

1928 ドレスデン

アラベラOp.79

ホフマンスタール

1930-32

1933 ドレスデン

無口な女Op.80

ツヴァイク

1932-35

1935 ドレスデン

平和の日Op.81

グレゴール

1935-36

1938 ミュンヘン

ダフネOp.82

グレゴール

1936-37

1938 ドレスデン

ダナエの恋Op.83

グレゴール

1938-40

1952 ザルツブルグ

カプリッチオOp.85

クレメンス・クラウス

1940-41

1942 ミュンヘン


参考文献

ENCARTA97エンカルタ97エンサイクロペディア マルティペディア百科事典/ Microsoft Corporation CD-ROM:196-100-790より“リヒャルト・シュトラウス”の項=筆者はこのCD-ROM188項目翻訳担当

「R.シュトラウス」ヴァルター・デピッシュ(村井 翔)/音楽之友社

The New GROVE Dictionary of OPERA 4vols/London,1e 1992よりvolums4:“R.Strauss”,“Rosenkavalier”



1998


音楽サロン表紙 目次 ロマン派目次 20世紀目次 作曲家別作品表 時代別作品表