ロマン派フランス・オペラ略史
1807年8月8日、皇帝ナポレオンは即位3年3ヶ月後に次のような決定をした。パリに25あった劇場を8つに整理して他は閉場。その目的はパリ、オペラ座に全ヨーロッパの目を向けさせるため。オペラ座の演目をパリ市内の他の劇場で上演不可にし、人気演目の独占化を図る。このことが帝国運営に大きな利益となるという政治的方策とする。皇帝退位後もどの政体でもナポレオンの方針は維持され、市内のオペラ・コミック座の出し物とは異なる壮大で華麗なグランド・オペラがオペラ座では上演された。それは4幕や5幕の大がかりで、華麗なバレーが必ず入るのがグランド・オペラであった。
19世紀の前半を通じて、パリは事実上ヨーロッパのオペラの中心地の一つであった。たくさんの有名な作曲家が住んでいただけではなく、他の場所に住む作曲家も、パリで名をあげるまでは成功したとはいえなかった。パリで活躍したグルックGluckドイツ(1714-87)はそうした先駆者だった。グルックの後期のオペラは、ドイツではわずかしか成功しなかった。イタリアでは全く受入れられなかったが、フランス人の気性に合う様式をもっていた。彼にはイタリア中心に多くの弟子が自然に集り、その弟子達を通じて革命の期間も生命を保ち、第一帝政期に入って新たな花を開いた。後にフランスで活躍した代表的な外国人に、
マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)や
ロッシーニRossiniイタリア(1792-1868)がいる。
<ロッシーニ>
ロッシーニRossiniイタリア(1792-1868)は、19世紀前半つまり初期ロマン派の全オペラ界を制覇した。彼が生まれたのは
モーツァルトの死の翌年で、シューベルト、マイアベーア、ベルリオーズ、グリンカなどと同時代である。リスト、ヴァーグナー、ショパンとも知己であった。彼は生まれつつあったロマン主義を目の前にしていたが、思想的には反ロマン主義の考えをもっていた。つまり来たりつつある新時代、ロマン派(1820-1900)に抵抗を示していた。だが、現在の視座から見るとドイツ・オペラの
ヴェーバーWeberドイツ(1786-1826)やヴァイオリン音楽の
パガニーニPaganiniイタリア(1791-1840)等と共に初期ロマン派を位置づける重要作曲家であることは明らかである。
ロッシーニのオペラは、
ペルゴレージ、
モーツァルト、チマローザが展開したオペラ・ブッファに深く根ざしている(ex.「
シンデレラ」)。まさしくモーツァルトが残したオペラの後継者としてロッシーニの名はヨーロッパ中を駆けめぐっていた。ヴィーンではベートーヴェンやヴェーバーをも凌ぐ程の人気であった。というのは彼が活躍した時代はまだベートーヴェンやシューベルトが生きていた時代で、スタンダールやベートーヴェンからも熱烈な讃辞をもらった。これはこの時代、オペラが一般聴衆に広く受容されていたかがわかる。ロッシーニの38曲あるオペラにはオペラ・セーリアも含んでいた。オペラ・ブッファのみならずオペラ・セーリアにおいても18世紀ナポリ派の伝統を継承した傑作を残している。
ロッシーニ最後の活動時期(1824-36)はパリにおいてであった。この時期にパリでは発表していなかった「湖上の美人」、「セミラーミデ」などを上演した。そして彼の最後の
オペラ「ウィリアム・テル=ギョーム・テル」(1829年パリ初演)は、その後のイタリア・オペラとフランスのグランド・オペラに大きな影響を与えたものである。その後、引退してイタリアに戻るが1855年から病気治療のためパリに戻っている。彼はコロラトゥーラの美を追及した作曲家で、朗唱的表現に重点をおいたレチタティーヴォにも豊かな音楽的生命を与えている。
<マイヤベーア>
マイヤベーアMeyerbeerドイツ(1791-1864)はドイツに生まれたが、主としてパリで活躍した。ドイツ風の重厚な和声とイタリア風の歌唱的な旋律を得意とする。フランスの
グランド・オペラgrand opéra1)の大成者である。完成したオペラは17作ある。当時のフランスではマイヤベーアは最もよく知られ、影響力の強いオペラ作曲家であった。1812年に最初のオペラ「イェフタの誓い」をミュンヘンで上演した。1816年にイタリアに行き、6作のオペラをパドヴァ、トリノ、ヴェネツィア、ミラノで次々と発表し、一作ごとに名を上げていった。この時期にローッシーニのオペラに出会い、大きな影響を受けた。特に「エジプトの十字軍」
(1824年ヴェネツィア初演)は大成功で、1825年にはロンドンとパリでも上演され、これを機縁にパリに活動の場を移した。
1832年にすでにプロイセン宮廷楽長に任命されており、1842年には同宮廷音楽総監督に任命されベルリンに戻り、それ以後ベルリンとパリを往復して活動する。1862年、パリにおいてグランド・オペラ「アフリカの女L'Africane」の上演を目指すが、準備中に病死する。「
アフリカの女」
(1837年から25年かけて作曲、死後1865年初演)の音楽は
、ベッリーニBelliniイタリア(1801-35)や
ドニゼッティDonizettiイタリア(1797-1848)の回帰ともいえる。またそれはロッシーニに始まるベル・カント・オペラが、ヴェルディに継承されていく接点でもあった。マイヤベーアは当時のフランスの大歌手のためにオペラを書いている。丁度、当時はフランスに大歌手が排出していた。彼はオペラ界から引退しようとしていたフランスに滞在していたローッシーニから、イタリア・オペラのヴィルトゥオーゾ
(名人芸)を学び取っている。そしてそうした歌唱芸を満載したこの
「アフリカの女」は、19世紀後半の聴衆よりむしろオペラ歌手たちを魅了した。
<19世紀中期〜後期>
19世紀半ばのフランスでは、作曲者の殆どがオペラだけに興味をもっていた。しかも華美で軽い傾向が好まれた。グルックなどの血を引くこのグランド・オペラはオペラ・コミックと区別する意味でいわれたことばである。まじめ題材、華麗な舞台効果をねらったものが多い。マイヤベーアを賛美、ベルリオーズ2)を無視、オッフェンバック3)に熱狂というような具合であった。あとリリック・オペラの中心人物グノーGounodフランス(1818-93)も活躍した。
1870年以後は16、17、18世紀のすぐれたフランス音楽の個性を再興したいと考えるようになり、合唱曲や器楽音楽なども重要な意味をおびてくる。今から見るとこの時期に登場した殆どすべての重要なオペラは、オペラ座ではなく、オペラ・コミック座で上演されたようだ。19世紀の終りにはオペラとオペラ・コミック4)の区別をすることはなくなる。オペラ座が大規模で伝統的な作品を上演し、オペラ・コミック座は斬新で、意欲的な実験的な作品を上演するという違いだけは残された。ビゼーBizet(1838-75)の「カルメン」、ドリーブDelibes(1836-91)の「ラクメ」、ラロLalo(1823-92)の「イスの王様」、マスネMassenet(1842-1945)の「マノン」、ダンディd'Indy(1851-1931)の「フェルヴァール」、ドビュッシーDebussy(1862-1918)の「ペレアスとメリザンド」(1893-1902年作曲)などはパリのオペラ・コミック座で上演されたのであった。
[注]
1)ロマン派時代のオペラ様式の一つで、グランド・オペラはオペラ・コミックに対する語としても使われることもある。内容的にはオペラ・セーリアで、合唱やバレーを多用しているスペクタクルな要素が多いオペラのことである。4幕や5幕構成の大がかりなものである。
2)ベルリオーズBerliozフランス(1803ー69):大規模な管弦楽法とイデー・フィクス固定楽想による劇的表現は特筆すべき点である。史上最初の標題音楽といわれる「幻想交響曲」は彼の代表作。オペラ作品は「トロイの人々」など。
3)オッフェンバックOffenbachフランス(1819-80):主に劇場音楽の領域で活躍。特にオペレッタの発展に重要な影響をおよぼした。代表作オペレッタ「天国と地獄」、オペラ「ホフマン物語」など。
4)オペラ・コミックOpéra comiqueフランス:18世紀後期から出現したフランス・オペラの一様式である。イタリアのオペラ・ブッファの影響から生れ、初めは軽妙な内容のものが多かった。レチタティーヴォ・セッコの代りに台詞が用いられた。後には内容に関係なく(喜劇、悲劇、恋愛劇も含めて)、台詞の入ったオペラ全般を意味するようになった。またオペラ・コミックとオペレッタは形としては同じである。内容を別にすれば、台詞を含むオペラと捉えられる語である。オペレッタは喜劇や軽い恋愛劇などが多い。
2002-2008