ロッシーニについて
<ロッシーニの時代>
オペラは誕生以来イタリアに優位があり、いや音楽全般において古くよりイタリアは音楽大国の座を占めていた。当時の認識では19世紀に入っても同様であった。バロック末期以後のペルゴレージPergolesi(1710-36)、パイジェッロPaisiello(1740-1816)、チマローザCimarosa(1749-1801)、ケルビーニCherubini(1760-1842)、マイールMayrドイツ(1763-1845)(ドイツ人だが、26才の時イタリア・ベルガモに来てイタリア音楽家として活躍)、パエールPaër(1771-1839)(「レオノーラ」はベートーヴェン「フィデリオ」の一年前に初演)、スポンティーニSpontini(1774-1851)(「ヴェスタの巫女」は壮大華麗な19世紀パリ風グランド・オペラの基礎となった作品で、ベートーヴェン好みの台本であった)等がロッシーニ以前に活躍したイタリアの作曲家たちである。
ジァッキーノ・ロッシーニGiacchino Rossiniイタリア(1792-1868)は、19世紀前半、つまり初期ロマン派のオペラ界を制覇した作曲家である。彼が生まれたのは
モーツァルトの死
の翌年で、意外や意外シューベルト、
マイヤベーア、
ベルリオーズ、グリンカなどと同時代である。リスト、
ヴァーグナー、ショパンとも知己であった。しかし、彼は我々の思惑とは違って、生まれつつあったロマン主義に対しては否定的であった。むしろ19世紀に18世紀の古典派の精神と思想を導入し、延長させようと考えていた人であった。ロマン派の人達が好む極端な題材
(ex.過剰な感傷、殺傷、墓場や怨霊、死etc.)といったものに興味を示さず、批判的でさえあった。彼にはロマン派の音楽家が扱う題材やその理念は、高い芸術の世界のものとは思えず、特に当時のオペラに現れる題材は、あまりにも形而下的で刹那的な低いものと彼の目には映ったようである。来たりつつある新時代、つまりロマン派に抵抗を示していた。だが、現在の視座から見ると、ドイツ・オペラの
ヴェーバーWeberドイツ(1786-1826)やヴァイオリン音楽の
パガニーニPaganiniイタリア(1791-1840)等と共に
ロマン派の初期を飾る重要作曲家であったことは確かである。ロッシーニは立派にロマン派音楽の世界に位置していたといえる。
<ローッシーニのオペラ>
ロッシーニのオペラは、
ペルコレージ、
モーツァルト、チマローザが展開した
オペラ・ブッファに深く根ざしている。特にモーツァルトが残したオペラの後継者として、ロッシーニの名はヨーロッパ中を駆けめぐった。ヴィーンでは
ベートーヴェンや
ヴェーバーをも凌ぐ人気であった。彼が活躍した時代はベートーヴェンやシューベルトも生きていた時代で、スタンダールやベートーヴェンからも熱烈な讃辞をもらっていた。ロッシーニの38曲あるオペラには
オペラ・セーリアが多く含まれている。オペラ・ブッファとオペラ・セーリアにおいて
18世紀ナポリ派の伝統を継承した傑作を残している。オペラ・セーリアの名作の例は「
タンクレディ」、「オテッロ」、「湖上の美人」、「セミラーミデ」そして彼の最後のオペラ「ウィリアム・テル」等である。特にフランス・オペラ「ギョーム・テルGuillame Tell
(=ウィリアム・テル)」
(1829年パリ初演、37歳)はオペラ・セーリアでありグランド・オペラである。その後のイタリア・オペラとフランスのグランド・オペラに大きな影響を与えた作品である。
ロッシーニの管弦楽書法は、当時としては類をみない非凡なものであった。しかし、イタリアとフランスの声楽偏重のベルカント愛好者たちは、管弦楽に重点をおいたロッシ−ニ・オペラには批判的であった。彼の管弦楽書法が当時の人々には重苦しく、歌を阻害するものと考えられたようだ。今の視点でみると要を得た巧みな書法で、単に歌の伴奏や補佐するという役目を越えているものでもある。それでも明らかに声楽の伴奏となっている時も管弦楽は歌に深く関わっている。また朗唱的なフレーズや
レチタティーヴォの時も管弦楽が主旋律を受け持ったりと、歌に対して多声的・多重的な表現をして豊かな音楽的生命を与えている。また彼の有名な書法である
ロッシーニ・クレッシェンドは、一つの楽句を幾度も反復しながら高音パッセージとより充実した管弦楽表現へと昇りつめさせて行く書法である
(ex.「セビリアの理髪師」第1幕第6曲:バジリオのアリア「中傷はそよ風のように」)。また彼の管弦楽書法と和声法の巧みさと大胆さは、「セビリアの理髪師」もさることながら他の多くの序曲でも明白である。それらの序曲はオーケストラ・コンサートのプログラム曲としても新鮮な魅力を放ち続けている。
ロッシーニは当時の歌手たちが自己の技巧を誇示するために即興的に歌唱されるカデンツァや数々の装飾音の音句を否定した。つまり、作曲家の意思から外れるようなやり方を歌手に任せないで、コロラトゥーラの装飾音やカデンツァの殆どすべてを細かく自分で書き記した。それはより質のよいコロラトゥーラの美を追及するためであった。
<ロッシーニの受容の変遷>
ロッシーニは彼が生きた時代には大作曲家として評価されたし人気もあった。19世紀後半に入り急激に人気が下降する。それは
ヴェルディや
ヴァーグナーの隆盛に圧されこともある。その頃広く支持を得ていたヴェルディとヴァーグナー両者共通のコンセプトは、重厚な音楽と劇的なドラマにあった。それらと比べるとロッシーニの舞台は、正反対の軽いものと見なされたためである。それと彼の書く声楽は技巧的に難しく、そのため原曲を勝手に変えた演奏や改編した楽譜までも出回り、正しいロッシーニ評価が不可能になっていた。
しかし、ロッシーニ死後100年を経た1970年代の後半から新しい動きが出てくる。その象徴的な現象の代表が、
<ロッシーニ財団>の設立であった。オリジナル・スコアに基づく正しいロッシーニの姿が洗い直された。今日、歌手や演出家が原典によるロッシーニ作品上演を行い、意欲的に正しいロッシーニ解釈に取り組むようになってきている。