オペラ「タンクレディ Tancredi」
<作曲の経緯>
a.原作:ヴォルテール「タンクレード」
ヴォルテールVoltaireフランス(1694-1778)は、フランスの啓蒙思想家、詩人、劇作家、史家、文芸批評家である。当時の国家権力、殊に教会権力に対する反抗や合理主義的思考を発表し、大きな影響を与えた。父はパリの裕福な公証人で、母は貴族の出であった。ルイ・ル・グラン校で学び、自由主義貴族の集まるサロン<タンプル会>に出入りしていた。1717年、彼は摂政オルレアン公の風刺詩作家との嫌疑を受けて1年間バスティーユに投獄、その獄中で書いた悲劇「エディプス王」が大当たりし、有名人となった。釈放後、貴族との口論がもとで再び投獄され、イギリスに亡命した
(1726-1729)。帰国後に発表した「哲学書簡」は、国家を愚弄するものだとして焼却処分となった。彼は、愛人で庇護者であったシャトレー侯爵夫人
(1706-1749)のシレー城館に身を隠さねばならなくなった。夫人の死後、一時プロイセン王フリードリヒ2世の宮廷に招かれたが、1759年からスイス国境近くのフェルネーに住み、<フェルネーの長老>として欧州の人々の尊敬を集めた。また彼は「百科全書」制作にも参加した。1778年、自作の劇の上演を見るために老体をおしてパリに来て、熱狂的な歓迎を受けたらしい。これがもとで死んだとか。
18世紀は
<啓蒙思想>(17c後半-18c)の時代といわれる。18世紀のヨーロッパの人々がとてつもなく無知であったとし、啓は開く、蒙は暗いという意味で、無知の人を正しい知識へと導くことを目的とした。つまりこの時代の前半は
バロック(1600-1750)で、バロックBaroqueはポルトガル語のbarrocoバホーコ
(粘土とかぐにゃっとした意からいびつの真珠の意に転じたようである)に由来するフランス語といわれている。それはフランス古典派の人が、この時代の建築様式を奇妙、異様で悪趣味だと考え、悪口としてバロックbaroqueを用いた
(フランス語baroqueを経て英語でもbaroqueとなった)。そして建築や美術様式の時代概念として浸透していった。音楽にも使われたのは20世紀の初め頃である。それは理想的なルネサンス文化が、
ルターの宗教改革(1517年)によるプロテスタンティズムによってゆがめられたと考えられていた。プロテスタンティズムはギリシャ・ローマの理想の美を目指したルネサンスの考えに反抗し、彼ら流のキリスト教的理想主義を作ろうとした。こうした対立
(反宗教改革)がカトリック側にゆがみを生じさせたと
啓蒙思想家たちは考えた
(ex.モンテスキューやヴォルテール)。その最たるゆがみをフランス絶対王朝と捉え、矢を激しく向けたのである。そうしたプロパガンダのためにヴォルテールは演劇という分野を使った。無実の罪で失脚するタンクレディはヴォルテール自身がモデルでもあった。英国へ亡命せざるを得なかった彼の体験をシチリアに移している。「タンクレード」
(1759年)の初演は検閲官も上演禁止にはできなかった。これが上演禁止になったのはフランス革命
(1789-99)以後のことで、亡命革命家たちの帰国が盛んになった頃である。この原作は19世紀初めイタリアでは最新思想として受け入れられた。ロッシーニはそうした時のしるしを感じ取ったといえる。
b.作曲
ロッシーニは1806年にボローニャ市立音楽院に14歳で入学し、1810年に卒業した。その後はオペラ作曲家としての道を歩んでいった。ヴェネツィアとミラノを中心に活躍することになる。ロッシーニ7作目のオペラ・ブッファ「試金石」
(1812年9月26日ミラノ、スカラ座初演)の成功したので、その後1812年秋から13年にかけて3つのオペラを同時に受注した
(20歳)。それは10月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場からオペラ・セーリアの注文を受けた
1)。「成り行きの泥棒」
2)(8作目のオペラ、1812年11月24日ヴェネツィア、モイゼ劇場初演)が上演された頃、フェニーチェ劇場のオペラ・セーリアは「タンクレディ」
(10作目のオペラ)に決定した。
台本はガエターノ・ロッシに決まった。すでにこの題材は、1812年ステーファノ・パヴェージ作曲、ルイージ・ロマネッリの台本でミラノ、スカラ座で31回の上演という大成功を迎えていた。この物語はタッソーの叙事詩「エルサレムの解放」とヴォルテールの「タンクレード」に基づいている歴史物語である。ロッシはロマネッリの台本を大いに参考にしたようで、ロマネッリに倣ってハッピーエンドとした。ロッシーニの9作目のオペラ、ファルサ
3)「ブルスキーノ氏」
(1813年1月27日ヴェネツィア、サン・モイゼ劇場初演)がわずか1晩で引っ込められるという散々な結果となったが、丁度その10日後の2月6日、同地ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で「タンクレディ」が初演された
4)。これによって彼の名声が一気に全イタリア、さらには広くヨーロッパ各地に知れ渡り、文字通りの彼の出世作となった。さらにオペラ・ブッファ「アルジェのイタリア女」
(1813年5月22日ミラノ初演)と相まって彼の地位は不動のものとなっていく。
「タンクレディ」の魅力は、偉大な才能が若い芽を出し始める時だけにしか作ることのできない新鮮さが見られる。後のナポリ時代と比べれば音楽の作りはシンプルで、まだパイジェッロやチマローザの影響が見られる。文豪スタンダールは「タンクレディ」の美にとりつかれ、ロッシーニの最高傑作とみなし、生涯にわたって賞賛していた。カストラート全盛時代とはいえなくともまだその生命を保っていた時、タイトルロールにカストラートでなくコントラルトcontra alt=
アルト(女声)を初めから起用している点は興味深い。それは女声による2重唱は独特のすぐれた和声効果があるからである。それはモーツァルトなどがすでにカストラートでなく女性歌手を意図的に用いている例がある
(ex.モーツァルト「ティト帝の慈悲」)。以後は「ばらの騎士」
(リッヒャルト・シュトラウス作曲)の終幕の女声2重唱や3重唱の響きは出色というべきであろうか。また「タンクレディ」には、第1幕のフィナーレのコンチェルタート意外に大規模な重唱がない。2つの幕にそれぞれタンクレディとアメナイーデの2重唱が1つずつあるだけである。まだ青さが残る新鮮な果実のような初々しい味わいが魅力といえるオペラである。
[注]
1)「タンクレディ」のこと。
2) ブルレッタburletta道化劇と記されている。内容としてはファルサfarsaと同じである。
3) ファルサfarsa茶番劇。1幕ものの演劇やオペラ。
4) 初演ヴェネツィア版とフェラーラ版について:ヴェネツィアでの初演の1ヶ月半後、フェッラーラで再演されることが決まった。主役歌手マラノッティのパトロンであったルイージ・レーキ伯爵がロッシーニに、これだけの名曲なのだから、ヴォルテールの原作通りにタンクレディを死なせた方が芸術的に高まると忠告されて書き直したのがフェラーラ版である。現在ではこの版で上演される方が多い。しかし当時この試みは全く失敗に終り、上演はわずか2回で打ち切られてしまった。当時のオペラ・セーリアはハッピーエンドが支持されていたからである。
フェラーラ版の悲劇的結末の際、ロッシーニはフィナーレだけでなく、それに先立つ場面タンクレーディのシェーナとカヴァティーナ第16曲全体も変更している。ヴェネツィア稿では、タンクレーディのカヴァティーナ、サラセン軍の合唱、レチタティーヴォ・セッコ、行進曲、タンクレーディのアリアとなっていた。フェッラーラ版では、カヴァティーナは全く同じだが、続く合唱をタンクレーディを探しに来たシラクーサの騎士達にし、音楽はそのままで歌詞だけ変えている。その後のレチタティーヴォ、およびアリアは全く別ものになった。悲劇的結末の「タンクレディ」が各地で喝采を浴びるようになると、今度はハッピーエンドのフィナーレも上演されるようになった。一時は悲劇的結末の方が優れているという意見が圧倒的だったが、現在では意見が分かれる。
<物語>
[前書き]:1005年頃のシチリア、シラクーサ王国1)の戦時下が舞台である。シチリアはサラセン王国(イスラム教国)とビザンツ帝国(キリスト教国、正教)の戦いの場となっていた。都市国家シラクーサは両者からの独立を求めていた。さらにシラクーサには実力者アルジリオと政敵オルバッツァーノとの内部抗争があり、オルバッツァーノ派が勝利を収めた時、アルジリオは彼の妻と娘アメナイーデをビザンツ帝国の宮廷に送った。アメナイーデはシラクーサからの亡命者タンクレディとビザンツ宮廷で出会い、愛し合う。前シチリア王の子であるタンクレディ(ノルマン人)は、外国人という立場による疑惑と彼の幸運へのねたみからシラクーサを追われていた。アメナイーデはそこにいたソラミール(サラセン人)からも求愛されていた。アメナイーデは彼女の母の死の床でタンクレディと結婚を誓い合った。シラクーサは窮地に陥入っていた。その時アメナイーデの父アルジリオはシラクーサの国王となった。
[注]
1)シラクーサ王国は、古代にはギリシャ語でシュラクサイと呼ばれ、その起源はBC.734年頃コリントのアルキアスがシチリア島東岸に建設したドリス人植民都市であった。ローマ時代にもシュラクサイは政治と経済の中心地であった。AD.280年にフランクの海賊の略奪を受けたが繁栄をつづけ、6世紀には一時ビザンツ帝国の首都になったこともある。AD.878年のサラセンの占領により,政治の中心はパレルモに移ったが、依然として重要な港湾都市であり、11世紀にノルマンの侵入を経験した。その後アラゴンの支配下で総督府が置かれ、19世紀後半にイタリア王国に統合された。
第1幕
サラセンと続いている戦いに備えるためにシラクーサ国王アルジリオは、政敵オルバッツァーノと手を結ぶことにした。その和解の証しにオルバッツァーノと娘アメナイーデ(シラクーサに帰国している)を結婚させると約束する。これは彼女に思いをよせるサラセンの司令官ソラミールに対する挑戦行為でもあった。ビザンツ帝国でアメナイーデに求婚したソラミールは、今や司令官となっており彼女を得ることと引き換えに和平を提案していたのである。タンクレディはビザンツ帝国を秘かに抜け出していた。その逃亡ゆえに彼は死刑宣告され、タンクレディ一族の財産はオルバッツァーノに褒賞として与えられることが決められてしまう。
父アルジリオからオルバッツァーノとの結婚を迫られ、アメナイーデは思い悩む。シラクーサからタンクレディに手紙を書いたが、その手紙が行方不明になってしまう。それには帰国してシラクーサを救って欲しいと書いてあったのだ。その時、タンクレディが秘かにシラクーサに帰国していた。タンクレディを見たアメナイーデは、何も説明せずに彼に身の危険が迫っているので逃げることを勧めた。タンクレディは広場でアメナイーデとオルバッツァーノの結婚を祝う合唱を聞き、彼女が自分を裏切ったと思ってしまう。こらえられず身分を隠して騎士の姿で婚礼の列に飛び出し、国王アルジリオにサラセンと戦う義勇兵に志願を申し出た。タンクレディだと分かっているアメナイーデは苦悶し、結婚式を取りやめるよう懇願する。オルバッツァーノは怒り狂い、彼女のタンクレディに宛てた手紙をサラセン軍のソラミール宛てのものとして告発する。それには宛名が書いてなかったのである。しかもサラセン軍の近くで捕らえられた奴隷が所持していたので誤解は深まる。アメナイーデがサラセン軍に救いを求めたものと誤解され、捕らわれてしまう。タンクレディまでも彼女がソラミールを愛していると誤解してしまうのであった。
第2幕
告発されたアメナイーデは死を覚悟する。実父のアルジリオ国王も苦悩しながらも娘の死刑に署名しなければならなかった。刑の執行のため現れた国王とオルバッツアーノの前にタンクレディはアメナイーデの手紙に不信を抱きながらも、彼女を救うために身分を明かさずにオルバッツアーノに決闘を申し込む。アメナイーデ1人がタンクレディの正体が分かっていた。オルバッツァーノと闘い、彼を殺しアメナイーデの無罪を勝ち取った。しかし、タンクレディはまだ彼女を信じることはできないばかりか彼女をなじるのであった。
誰にも身元を知られないままタンクレディはシラクーサ軍の先頭に立って戦った。タンクレディが致命傷を受けて皆の前に運び込まれた時、アメナイーデは真実を人々に説明する。愛する人と祖国に報いたタンクレディは、満たされた思いで息を引き取るのであった。
参考ディスク
DVD PIBC-2048 ロッシーニ「タンクレディ」(発売2003/7/25)
ジャンルイジ・ジェルメッティ指揮、ピエール・ルイージ・ピッツィ演出
シュトゥットガルト放送交響楽団、南ドイツ放送合唱団
タンクレディ:ベルナデッテ・マンカ・ディ・ニッサ(A)
アメナイーデ:アマリア・バイヨ(S)、アルジリオ:ラウル・ヒメネス(T)
オルバッツァーノ:イルデブランド・ダルカンジェロ(Bs)
イザウラ:カタルツィーナ・バック(Ms)、ロッジェーロ:マリア・ピア・ピシテッリ(S)
収録:1992年、ロココ劇場、ドイツ、シュヴェッツィンゲン音楽祭
★演出は、ミラノ・スカラ座との共同製作。きわめて正統的な演出、衣装が豪華絢爛。タンクレディの戦死が報じられ、フィナーレを迎え、やがて幕が下りる。拍手の中、指揮者ジェルメッティが静聴を求めた。“このオペラには、もう1つ結末が用意されている。それはハッピーエンドです。”といって熱烈さを増した拍手を得て、ヴェネツィア版のハッピーエンドのフィナーレが演じられている。