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<スメタナについて>
スメタナSmetanaチェコ(1824-84)は、民族ロマン派の名実ともに重要な作曲家である。チェコ国民楽派の始祖となり、チェコ民族復興の熱烈な運動家でもあった。彼の言葉によると“芸術的に高いものであれば、如何にそれが地方色豊かな民族的なものでもそれはすでに世界の音楽でもある”というようなことを述べている。たしかに彼の音楽の世界は洗練された普遍的なものを目指している、と断言できよう。
スメタナの生まれた国は、当時はボヘミアといわれていた。この名称は第一次世界大戦以前まで使われた。現在のチェコである。ドイツのハンブルクを河口とするエルベ川上流の支流であるヴルタヴァ河(モルダウはオーストリア支配下での名称であった)がその中央部を流れ、美しい森が点在する国である。ポーランドやドイツと隣接しているためか、モーツァルトがプラハを訪れ、ヴァーグナーやショパンが温泉で有名なマリーエンバードで遊んだことでも知られている。他にもヨーロッパ屈指の保養地が多くある。
スメタナは1824年4月2日に、リトミシュルという田舎の酒造りの長男として生まれた。幼時よりピアノとヴァイオリンを学んでいた。1839年プラハのギムナジウムに入学し、ここで校長よりチェコ民族復興に対する強い情熱を吹き込まれた。また革命派の風刺詩人ハヴリーチェク(1821-56)との交際もあって決定的な民族主義の楽派の始祖となる根幹が養われた。1843年父の反対を押し切って音楽の道に進む。リストLisztハンガリー(1811-86)に才能を認められて援助を得ることもでき、1849年にカテルジナと結婚をした。
当時ボヘミアはハプスブルク家の支配下にあり、政治的抑圧や民族主義に対する迫害が、かえって反抗力と民族意識を呼び覚まし、オーストリアの圧政から脱しようとする民族主義運動が高まった。1848年の革命で頂点に達し、スメタナも国民義勇軍の一員として加わったが、この運動は失敗に終わっている。だが、1859年オーストリアに対するイタリアの勝利の結果、オーストリアは非ドイツ系民族に対して緩和政策に乗り出した。そのためボヘミアは自由を得ていった。
1859年に妻がドレスデンで死に、60年にベッティナと再婚。この前後にスメタナは民族主義的な作品の作曲に積極的に取りかかっていく。とはいえ彼はドイツ語を話すボヘミア人として育っていたが、30代の半ばにやっとチェコ語が話せるようになった。プラハに国民劇場が建設が決まり、1881年の完成までは仮劇場で1862年より公演が行われ始めたが、保守派と対立していたスメタナも重要な役割を果たしていた。こうした時最初のオペラ「チェコのブランデンブルク人」(1863年)が作曲され、保守派の反対にあって初演を3年先まで延ばされた。1866年5月、彼の名を不朽にしたオペラ「売られた花嫁」が初演され、同年9月にこの仮劇場の指揮者にも迎えられた。第4作目のオペラ「リプシュ」が1881年6月に、国民劇場開場にあたって初演された。
1868〜74年の時期にスメタナの創作力は頂点に達した。しかし、1874年7月から耳の疾患が悪化し、10月には聴覚を失った。これによって音楽から絶縁され、保守派の攻撃にあい、生活苦にあえぎながら74〜79年にかけて彼の代表的な名作である連作交響詩「我が祖国」完成した。第1曲<高き城>の終りに“耳の病気を患いながら”、また第2曲<ヴルタヴァ(モルダウ)>の終りに“全く聴こえなくなって”と悲痛な注釈を付けている。
その後も続々と名作を生み出していく。1876年以降からチェコ北部ヤブケニツェ村に住居を移した。代表作には自叙伝的な「弦楽四重奏曲第1番ホ短調<わが生涯より>」(1876年)や晩年、病苦と戦いながらのオペラ「悪魔の壁」(1882年)と「弦楽四重奏曲曲第2番ニ短調」(1883年)を仕上げた。それでも作曲をやめず1884年3月2日、60歳の誕生日の祝賀演奏会が開かれた時にはすでに精神錯乱に陥っていた。5月12日、プラハの精神病院で死去した。オペラは8作残し、未完のオペラ「ヴィオラ」(1874年、改訂1883〜84年)がある。
現在の研究で明らかにされていることは次の通りである。1874年より現れた進行性麻痺と精神錯乱の原因は、若い頃に感染した脳梅毒の末期症状であった。発作のないない時や弟子の手を借りて作曲を続けていたことは驚異に値するといえよう。
<「売られた花嫁」の特徴>
「売られた花嫁」は、スメタナがボヘミアにおける熱烈な民族運動家で、彼の民族主義が彼の音楽の原点であったことを明確に示している。そして当時としてはめずらしいチェコ語によるオペラで、各民族の言語でオペラを制作するという新しい道を開いた作品でもある。そして積極的にボヘミアの民族舞曲なども取り入れている。だが、当時の民族主義の音楽の考え方は、民謡やそのヴァレーションを取り入れることとされていたが、彼は違っていた。あくまでも作曲の素材であっても創作であることを基本としていた。
「売られた花嫁」はコミック・オペラとスメタナ自身によって規定されている。またモーツアルト「フィガロの結婚」以来の名作とも評価されている。登場人物や風俗、その音楽も含めてボヘミアの民族的色彩にあふれている。これによってスメタナは「チェコ音楽の父」といわれるようになった。プラハにおいて1862年国民劇場の仮劇場開設以来、上演される曲はほとんどイタリア・オペラであった。そうした時、スメタナはチェコ語による、チェコ語オペラを目指したのであった。彼の民族主義理念の一つの達成であったといえる。台本が完成されたのは1863年7月5日で、台詞をもつ2幕のオペラとして作曲した。1866年5月30日にプラハ国民劇場で初演した。
当時はプロシア、オーストリア戦役のまっただ中であったため、プラハも戦火にまきこまれる情勢にあったため、わずか2日で上演は打ち切られた。戦争もおさまった10月27日にオーストリア皇帝を迎えて第3回の上演が行われ、やっとすばらしい成功を迎えた。
その後スメタナはしばしばこのオペラに手を加えていく。パリのオペラ・コミック劇場での上演を機会に大幅に改訂し、相当の数の曲も加えた。第2幕の男声合唱「酒の歌」、第3幕の「マジェンカのアリア」のほかバレエ好みのフランスのため第1幕フィナーレの「ポルカ」、合唱「春のおどり」、第2幕第1場「フリアント」(ボヘミア特有の激しい3拍子の舞曲でオペラに用いられたのは史上初めてであった)など。
1870年のペテルブルク公演のために最終改訂を行うことになる。台詞であった部分をすべてレチタティーヴォとし、従来の2幕構成を3幕にした。これが今日も用いられる版である。しかし、ペテルブルクでは不評で、1892ヴィーンで上演された時は大成功をおさめた。
チエコ語によるこのオペラがヨーロッパ各地で受容されていったのは、すぐれたドイツ語訳(カルベック訳)が早くから出たことにも負うところが多いだろう。
<台本>
サビーナSabinaチエコ(1813-77)は、プラハとヴィーンで法律を学んだ。警察に職を得ようとしていたが、1848年の革命参与のため死刑宣告を受けてしまった。だが、実刑は変更され1857年には釈放されるに至った。その後、新聞記者と文学活動に入り、いくつかの小説と戯曲を書いた。1859年から秘密警察の一員として働き、1872年に民族運動家たちによって暴露されるまで二重生活を送っていた。その後は免職されて貧窮のうちに死んだ。スメタナのオペラのために「チェコのブランデンブルク人」と「売られた花嫁」の台本を書いた。特に後者によってコミックなスタイルを確立した。彼にとって台本の仕事は、民族主義云々より収入の増大と名誉に関心があったようだ。
<物語>
第1幕
1860年ころのボヘミアのある農村が舞台。今日は教会の献堂記念日の祝祭日。村人たちは広場で踊り歌い祝っている。農夫の娘マジェンカはひとり浮かぬ顔。それはマジェンカの両親が大地主ミーハの馬鹿息子ヴァシェクに嫁がせようとしているからである。恋人の若者イェニークは優しく慰める。
一方イェニークは小さい頃、父親が再婚し継母を迎えた。だが、継母にいじめられ家を出て、今は身の上を秘めて人に雇われている身である。マジェンカが身の上を聞いてもこれ以上くわしいことを彼は話さなかった。
そこへマジェンカの両親と結婚仲介人が登場して、この度の結婚を喜んでいる。これを物陰で見ていたマジェンカが現れ、自分はイェニーク以外の男とは結婚しないと宣言して結婚契約書を投げ捨ててしまう。驚いた結婚仲介人は、イェニークに会って結婚をあきらめさせようとして村の居酒屋へ出かける。この時、村人たちはボヘミア色豊かな“ポルカ”を踊り歌う。
第2幕
居酒屋でイェニークが村人たちと酒を飲んでいる。そこへマジェンカの結婚仲介人が現れ、水をさすが、人々はかまわずボヘミアの民族舞曲“フリアント”を踊る。大地主ミーハの馬鹿息子ヴァシェクが現れ、無邪気で滑稽な歌を歌う。マジェンカが姿を見せるが、ヴァシェクはマジェンカか誰であるかをまだ知らない。これを利用してマジェンカは、あなたのお嫁さんは意地悪く、あなたをあざむくから結婚はやめなさいと忠告する。すると結婚をあきらめたヴァシェクは、当のマジェンカとは知らず、彼女に惚れ込んでしまう。
一方、結婚仲介人はイェニークにマジェンカとの結婚をあきらめるよう説得している。もっときれいな娘を紹介する。そして300グルデンをやるとまでいう。よく考えたイェニークは、“マジェンカは大地主ミーハの息子以外とは結婚しない”という条件で申し入れを受け入れる。この結婚仲介人はイェニークの本当の身の上を知らなかった。実は彼は行方不明の大地主ミーハの息子であったのだ。結婚仲介人は、大地主ミーハの息子はヴァシェク以外には存在しないと考えていたので、“マジェンカは大地主ミーハの息子と結婚する”という契約書を作成してしまう。
これを見たイェニークは、自分の計略がうまく行ったことを喜ぶ。一方、結婚仲介人は村人に自分の作った契約書を自慢げに読むが、村人は“花嫁を売ったひどい男”と非難を浴びせる。マジェンカは売られた花嫁になってしまった、と村人は考えた。
第3幕
第1幕と同じ広場。大地主の馬鹿息子ヴァシェクが現れ、名も知らないで別れたマジェンカのことが忘れられない様子。そこへ旅芸人たちの一座が登場し、“道化師の踊り”を披露。ヴァシェクはその中の花形スターのエスメルダにぞっこんになってしまう。そこへインディアンに扮した芸人が現れ、熊に扮する者が酒に酔っぱらって今夜の舞台に立てないと言う。そこで座長はヴァシェクに目をつけ、エスメルダに誘惑させて代役に立てようとする。
そこへ結婚仲介人が登場して、ヴァシェクを花嫁の所へ連れて行こうとするが、ヴァシェクは気がすすまない。花嫁の悪いうわさを吹き込まれていたし、今はエスメルダに魅せられその気になっていたし・・・・・。そこへ当のマジェンカが登場。結婚仲介人から愛するイェニークの署名した“マジェンカは大地主ミーハの息子と結婚する”という契約書を見せられ、自分は売られた花嫁になったと怒ってしまう。
ヴァシェクの方はこのマジェンカが自分の花嫁だと知り、大喜び。エスメルダのこともすっかりどこへやら。だが、失意のどん底に落とされたマジェンカは、結婚仲介人のそそのかしと腹いせで“ヴァシェクと結婚する”と言い出してしまう。
そこへ大地主ミーハ夫妻の登場となる。ここでイェニークの姿を見てこれこそ長い間だ行方不明だった長男であることを確認する。それでイェニークが結婚契約書に“マジェンカはミーハの息子と結婚する”という条項が、その息子がヴァシェクでなく、イェニーク自身のことであることに気づくのであった。ことの次第をすべて知ったマジェンカは大喜び。結婚仲介人は村人に嘲笑されて逃げ出す。
そこへ旅芸人一座の熊が逃げ出したと大騒ぎになる。実はヴァシェクが扮していたものであった。怒った母ハータはヴァシェクを引き立てるようにして連れ去る。大地主ミーハはマジェンカの両親のとりなしでイェニークと和解し、許すのであった。そして全員の“これでめでたくおさまった”大合唱が起こる。
マジェンカの父:インドジフ・インドラーク(Br)
マジェンカの母:マリエ・ヴェセラー(S)
マジエンカ:ベニャチコヴァー(S)、イエニーク:ペテル・ドヴォルスキー(T)
大地主ミーハ:ヤロスラフ・ホラーチェク(Bs)
大地主の妻ハータ:マリエ・ムラゾヴァー(Ms)
大地主の息子:ミロスラフ・コプ(T)、結婚仲介人:リハルト・ノヴァーク(BS)
エスメルダ:ヤナ・ヨナーショヴァー(S)
サーカスの座長:アルフレーロ・ハンペル(T)
インディアンに扮装した男:カレル・ハヌシュ(T)
収録:1981年プラハ、芸術家の家
2002
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