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東ローマ帝国=ビザンツ帝国@初期(330-610)
<東ローマ帝国の始まり >
東ローマ帝国は、コンスタンティヌス大帝Constantinus I Magnus(274-337、在位324-337)の名を取った首都コンスタンティノポリス開都(330年5月11日)に始まる。正式には395年東ローマ帝国初代皇帝アルカディウスから1453年オスマン帝国のスルタン・メフメトUの攻撃に敗れ(1453年5月29日)、トルコ領となるまでの1000余年続いた帝国をいう。
首都コンスタンティノポリスはビザンティオンByzantionギリシャ語=ビザンティウムByzantiumラテン語と呼ばれていたが、コンスタンティヌス皇帝の死後、彼の名に因んでコンスタンティノポリスconstantinopolisラテン語=コンスタンティノープル英語となった(現在はイスタンブルIstabulである)。
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| 「コンスタンティヌス大帝」 4世紀古代ローマ彫刻=大理石 |
「教皇シルヴェスターから帝位を受ける コンスタンティヌス大帝」 |
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| BC4世紀ギリシャのブロンズ彫刻「4頭の馬」金箔が施されていたと思われる。コンスタンティノポリス古代競技場に飾られていたが、13世紀第4回十字軍が持ち帰った。この絵はカナレット(1697-1768)の制作。これによって分かることは18世紀にはまだサン・マルコ教会にではなく、ドゥカーれ宮殿前に設置されていたこと。カナレットが1730年に描いた絵でもサン・マルコ教会にはまだ設置されていない。 | 現在、ヴェネツィア、サン・マルコ教会にファッサード階上部中央に飾られている。これは複製、オリジナルはサン・マルコ教会内部2階にある。 ナポレオンが一時戦利品としてパリへ持っていったが、また戻された。 |
| 初期 東ローマ皇帝一覧(330-610) |
| アルカディウスArcadius(377-408、テオドシウス朝初代皇帝在位395-408) |
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| アルカディウスは弟西ローマ帝国皇帝ホノリウスと同じく無能力で政治的関心も無かった。だが、有力者アンテミウス等の政治的政務取り仕切りによって、帝国は動いた。 | ||
| テオドシウスU<カリグラフォス>Theodosius U Calligraphos (401-450、テオドシウス朝第2代皇帝在位408-450) |
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| テオドシウスUは初代皇帝アルカディウスの子であり、“カリグラフォス”は能書家の意味である。父を補佐する副帝を402年から408年までの6年間務め、408年、父アルカディウスの死により即位する。 テオドシウスUは<能書家>というあだ名の通り書に優れていた教養人でもあり、神学や学問にに熱心で、政治を興味を示さなかった。政治はテオドシウスUの重臣が行ない、その在位中にテオドシウスの城壁」と呼ばれる難攻不落の大城壁建造による首都コンスタンティノポリスの防衛強化や「テオドシウス法典」の整備など、東ローマ帝国の基礎が作られたのである。
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| マルキアヌスMaricianus(396-457、テオドシウス朝第3代皇帝在位450-457) | ||
| 先帝の死去後、その姉アエリア・プルケリアと結婚した マルキアヌスが皇位を継ぐ。即位後、フン族の王アッティラへの献金の打ち切りやカルケドン公会議での三位一体説を支持するなど、皇帝としての力量を見せたが、在位7年で病死した。 マルキアヌスとプルケリアとの間に生まれた娘エウフェミアは、西ローマ皇帝アンティミウスと結婚した。 |
| レオT Leo T(400-474、レオ朝初代皇帝在位457-474) |
| レオTはトラキア生まれの帝国軍人であった。先代の東ローマ皇帝マルキアヌスには男児残さなかった。帝国のゲルマン人軍事長官であったアスパルに支持されたレオTが、皇帝即位する。 このような即位の経緯から治世前期のレオTはアスパルとその息子アルダブリウスの思いのままだった。しかし471年、イサウリア人のタラシコデッサ(後の皇帝ゼノン)の力を借りてアスパル父子を打倒し、皇帝としての地位を確固たるものとする。 |
| レオU Leo U(467?-474、レオ朝第2代皇帝在位474) |
| 祖父は初代皇帝レオT、父はゼノン、母はレオTの娘でゼノンの妻アリアドネであった。474年のレオTの死後、皇位は孫のレオUが継ぐことになった。まだ7歳だったため、レオUの実父ゼノンが共同皇帝として即位し、政治を取り仕切ることとなった。レオU1年の在位で病気で亡くなる。 |
| 初期 東ローマ皇帝一覧(474-610) |
| ゼノンZenon(426-491、皇帝在位474-491) |
| ゼノンはアナトリア半島少数民族イサウリア人の族長であった。皇帝レオT下で実権をもっていたゲルマン人アスパル父子を倒した功績で、皇女アリアドネの婿となり、レオTの死後アリアドネとの息子レオUの後見となるが、レオUが夭折したため自ら即位した。475年、反乱によってバシリスクスに帝位を追われるが、1年後には小アジアから軍勢を率いてコンスタンティノポリスへ攻め寄せ、帝位を奪回することに成功した。 その後も数々の謀反の陰謀などがあったにもかかわらず、皇帝のまま一生を終えることに成功した。ゼノンは民衆の信望も薄く、その治世は人気取りのためのばら撒き財政などに終始した。一説によるとゼノンは棺に納められた後に中で息を吹き返したが、誰もがそれを無視してそのまま葬ったと言う。 ゼノンの治下時、476年西ローマ帝国滅亡した。このことは東西両教会の分裂(正教会とローマ・カトリック教会)の遠因を生むことになる。西ローマを滅ぼしたオドアケルから西ローマ皇帝位を返上され、ゼノンが東西合わせた全ローマ帝国の皇帝となった。ゼノンの死後、アナスタシウスTが皇位を継いだ。 |
| バシリスクスBasiliscus(?-?、ゼノンの対立皇帝475-476) |
| レオUが7歳で死去し、皇位はその実父にあたるゼノンが継いだ。ゼノンが即位してから1年足らずの475年、反乱が起こってゼノンは皇位を追われ、ゼノンの義母にあたるヴェリーナ(ゼノンの妻アリアドネの実母)の弟にあたるバシリスクスが対立皇帝として即位した。476年、追放されていたゼノンに帝位を追われ、ゼノンが復位した。 |
| アナスタシウスT Anastasius T(431-518、皇帝在位491-518) |
| 先代の皇帝ゼノンは後継者を指名しないで死去。このため、ゼノンの皇后アリアドネは枢密院警護長であったアナスタシウスTと結婚して、皇帝とした。即位直後、アナスタシウスTは帝国の防備を強化した。帝国財政は破綻寸前にあったが、アナスタシウスTは優れた経済政策を採用して、財政再建を実現させた。その治世に多くの功績を残した。 アナスタシウスTはアリウ派の単性論であったため、西方教会に対立していた。このことが東西両教会の分裂(正教会とローマ・カトリック教会)を生じさせていく(484-519年)。アナスタシウスTは男児が無く(88歳で死去)、後継者には元老院によって83歳の老将軍ユスティヌスが選ばれた。 |
| ユスティヌスT Justinus T(435-527、ユスティニアヌス朝初代皇帝在位518-527) | ||||
| ユスティヌスTの時代、帝国はアンティオキアの大地震などの災害にみまわれ、対外においてはサーサーン朝ペルシア帝国の侵攻に遭うなど、その治世は多難を極める。貧農出身のユスティヌスは字の読み書きが出来ず、勅令などには“LEGI”(私は読んだというラテン語の動詞一人称)とくり抜かれた型板を用いて署名していたといわれている。このような皇帝であったため、甥のユスティニアヌスが実権を行使した。また、先帝時代に悪化した西方のローマ教会との関係修復に尽力した。ユスティヌスTの死後、皇位は甥のユスティニアヌスTが継承した。 | ||||
| ユスティニアヌスT Justinianus T(483-565、ユスティニアヌス朝第2代皇帝在位527-565) | ||||
バルカン半島ダルダニア州(現マケドニア近辺)の貧農の子から皇帝まで登り詰め、西ローマ帝国を再征服した。すべては507年叔父ユスティヌスTの養子となり、コンスタンティノポリスで高等教育を受けたことに始まる。525年劇場の踊り子(娼婦という説もある)テオドーラと結婚し、527年に即位した。古代ローマ法を集大成した「ローマ法大全」の編纂(534年完成)やハギア・ソフィア(アヤ・ソフィア=トルコ語)大聖堂の再建(537年完了)し、その功績から大帝megasと呼ばれた。しかし、一方では相次ぐ戦争や建設事業は国力の衰退を生じさせた。子を得ず83歳で死去した。
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| ユスティヌスU Justinus U(520-578、ユスティニアヌス朝第3代皇帝在位565-578) | ||||
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ユスティニアヌスTの甥であった。東ローマ帝国は東ゴート王国を倒すなどかつてのローマ帝国に思わせる領土回復をもたらされていた時代を引き継いだ。だが、ユスティヌスUにとって拡大した領土の維持は大きな重荷となった。 |
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| ティベリウスU Tiberius U(540-582、ユスティニアヌス朝第4代皇帝在位578-582) | ||||
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ユスティヌスUの娘婿となり、ティベリウスUとなった。574年、義父ユスティヌスUがサーサーン朝に敗けた衝撃で精神異常になり、副皇帝となって実権を譲られ、578年にユスティヌスの死により正式に皇帝に即位した。その当時イタリア半島ではランゴバルト人が、バルカン半島ではスラヴ人が帝国内に侵入が続いており、ローマ元老院は救援を要請したが、帝国の全戦線で軍事行動をする財力がないのを実感したティベリウスUは、西方での軍事行動は諦めて補助金で対処した。東のサーサーン朝との戦いに力を注ぎ、在位4年にして死去した。 |
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| マウリキウスMauricius(539-602、ユスティニアヌス朝第5代皇帝在位582-602) | ||||
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テベリウスUと同じく、マウリキウスもまたテベリウスUの娘婿だった。男子がいなかったためその娘コンスタンティナの婿であったマウリキウスが、582年義父の死により即位する。即位後西のランゴバルド族の侵攻に対応してラヴェンナとカルタゴに総督府を置いた。また、サーサーン朝ペルシア帝国から亡命してきたホスローUの復位を助けた。サーサーン朝朝と和睦を結び対外政策に尽した。 |
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| フォカスPhokas(547-610、ユスティニアヌス朝第6代皇帝在位602-610) | ||||
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トラキア地方の出身と考えられる。彼はドナウ川国境に駐屯する軍の下士官であった。602年にドナウ北岸での越冬命令が出た時、軍はそれに反対して反乱を起こし、コンスタンティノポリスに向かって進軍した。時の皇帝マウリキウスは逃亡しようとしたが捕らえられて処刑された。その後フォカスが兵士たちによって皇帝に推戴され、即位した。彼はコンスタンティノポリスの元老院議員貴族らとの政治基盤がなく、問題があると反対派を次々に殺していく。 |
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2005-2008
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