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東ローマ帝国=ビザンツ帝国A中期
<東ローマ帝国 中期(611-1204)>
ビザンツ帝国中期は本格的なビザンツ文化の始まりであり、第4回十字軍によって首都コンスタンティノポリスが占領されるまでである。7世紀前半から始まる200年に及ぶイスラム教徒との闘いで、9世紀後半からビザンツ帝国が攻勢になった。第1次ブルガリア王国(681-971)が帝国領土内で成立する。7世紀前半にスラブ民族がバルカン半島に定住し始めたが、スラヴ族は自らの独立国家を作ることなく融合を図ったので帝国は解体を免れる。徐々にスラヴ化された地方のギリシャ化が始まり、バルカンのスラヴ民族がキリスト教徒となっていった。対外危機を乗り越え、行政改革を成し遂げた帝国はバシレイオスU世の時アルメニア、小アジア、シリアの沿岸部やドナウ川以南のバルカン半島を再び帝国領とし、ユスティニアヌスT帝以後の最大の領土を得る。内政外政の比較的平隠な時代のマケドニア朝(867-1056)は、帝国の一大繁栄期であった。
イスラム教との交流により触発され、1世紀間にわたって繰り返されたイコン破壊運動=イコノクラスムIconoclasm英、聖像破壊運動(726-787年、813(5)-843年)に終止符が打たれた。この運動が否定されたことを機にキリスト教におけるビザンツ皇帝の指導的地位を認めてきたローマ教皇は、東ローマ帝国から離れていくことになる。教皇は新生フランク王国のカール大帝にその庇護者を見出すことになり、現実にはカール大帝の戴冠以後ラテン的キリスト教世界とギリシャ的キリスト教世界の2つの世界に分裂し、より明確にそれぞれが独自の道を歩むことになった。ビザンツ帝国はスラヴ民族への布教を通じて正教文化圏を決定的に拡大していった。10世紀半ばのキエフ公国女王オルガの受洗、さらにはウラジミール王のキリスト教の国教宣言(979年)によりキエフ公国も東ローマ帝国の有力な国家の一員となった。
11世紀半ばを過ぎると対外的にはセルジュークトルコの台頭により小アジアを失い、バルカンでは第2次ブルガリア王国やセルビア王国に苦しめられ、終わりには第4回十字軍により首都が占領されるに至る。
1054年に東西両教会はローマ教皇の首位権をめぐり、さらに両教会の典礼・慣習などの違いを理由に大分裂を起こす。ここに東方教会=正教会と西方教会=ローマ・カトリック教会において両者の独立的活動が行われるようになった。セルジュークトルコに脅かされ、分裂した東方の兄弟たちを救うという大義名分のもとに教皇ウルバヌスUは第1回十字軍を起こした(1096年)。十字軍の騎士たちは首都に集結した時、ビザンツにいる東方のキリスト教徒たちは期待が裏切られたと感じ始める。双方の誤解は十字軍が回を重ねるごとに激しくなった。首都の富への羨望、教会分裂の元凶としての帝国への反感と敵意、これにヴェネツィア総督エンリコ・ダンドロの東地中海・黒海貿易路の確保の野望が重なって第4回十字軍はついに首都を攻略した。1204年4月に占領し、ラテン王国(1204〜61年)を樹立する。
| 中期 東ローマ皇帝一覧(610-1204) |
| ヘラクレイオスHerakleios(575-641、ヘラクイオス朝初代皇帝在位610-641) |
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アルメニア人貴族の息子として生れた。608年、フォカスに対し、カルタゴ総督であった父ヘラクレイオスが反乱を起こした。ヘラクレイオス(息子)が610年、首都コンスタンティノポリスへ艦隊を率いて攻めた。首都はわずか2日で開城する。皇帝フォカスは処刑され、代わってこのヘラクレイオスが皇帝に即位した。 |
| コンスタンティノスKonstantinos V(612-641、ヘラクイオス朝第2代皇帝在位641) |
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ヘラクレイオスの長男で、先妻エウドキアとの子。641年、父ヘラクレイオスの死により即位した。父の遺言により、コンスタンティノスVの義母マルティナ(ヘラクレイオスの姪で後妻)の息子ヘラクロナスと共同統治が行われた。しかし、宮廷内ではコンスタンティノスV派とヘラクロナス派との間で抗争が起こった。この争いの中でコンスタンティノスVは死亡した。コンスタンティノスVの死はマルティナによる毒殺であると噂された。マルティナはヘラクロナスの後見人として皇帝になろうとしたが、コンスタンティノスV派や近親相姦であるマルティナ母子を嫌う首都市民の要求により、コンスタンティノスVの息子コンスタンスUを共同皇帝につけた。 |
| ヘラクロナスHeraklonas(626-641、ヘラクイオス朝第2代皇帝在位641年2-9月) |
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ヘラクレイオス帝とその姪マルティナの子。父帝がサーサーン朝ペルシアと対戦している時にラツィカで生まれる。ヘラクレイオス帝がマルティナともうけたおそらく4人目の子どもであったが、身体に障害のない最初の子で、そのため帝位資格者であった。ヘラクレイオス帝治世の終わり638年に、母マルティナの影響力を通じてアウグストゥスの称号を取得した。父帝の死後に腹違いの兄コンスタンティノスVの共同皇帝となる。 |
| コンスタンスPogonatus U(630-668、ヘラクイオス朝第3代皇帝在位641-668) |
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コンスタンティノスVの子で、11歳で共同皇帝となる。元老院などの画策によってヘラクロナスらは廃位追放され、641年末にコンスタンスが単独の皇帝となった。当初は幼少のため元老院やヴァレンティノスが実権を握っていた。この時期、帝国艦隊が644年頃にシリア沿岸部の一部都市、そして645年にはエジプトのアレクサンドリアを奪回し、いずれもその後の戦略や補給の失敗などで維持できなかった。エジプトからは646年に完全に撤退した。 |
| コンスタンティノスW Konstantinos W(650-685、ヘラクイオス朝第4代皇帝在位668-685) |
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コンスタンスUの長男で、654年に父コンスタンスUによって共同皇帝とされた。668年にミジジオスがコンスタンスUをシチリアで暗殺し皇帝位を名乗った時、コンスタンティノスWは自ら艦隊を率いてシチリアに遠征し、ミジジオスの反乱を鎮圧した。同じ頃小アジア半島でテマ・アルメニアコンの長官であったサボリオスがウマイヤ朝と結んで反乱を起こしたが、これも鎮圧した。 |
| ユスティニアノスIustinianos U(668?-711、ヘラクイオス朝第5代皇帝在位685-695・705-711) |
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コンスタンティノスWの長男。685年、父の死により即位した時、イスラムは第2次内戦の最中であった。ユスティニアノスはレバノン山地にいた原住民マルダイテス人を利用してシリアでゲリラ活動を行わせ、688年にはキレナイカ地方のバルカをビザンツ艦隊がイスラムの指揮官を殺した。これらに苦慮したウマイア朝カリフ・アブドゥルマリクは688年にユスティニアノスUと和睦を結ぶ。この時マルダイテス人の多くは小アジア半島南部へ移住され、キプロスはこれ以降東ローマ帝国とイスラム勢力の共有地となる。この状態はバシレイオスT時代の一時期を除いて10世紀後半まで続く。 |
| アナスタシオスAnastasios U(?-719、ヘラクイオス朝第6代皇帝在位713-715) |
| アルテミオス=アナスタシオスUはフィリピコス・バルダネスの時代に書記局長官だったが、フィリピコスに対する不満が高まり他の高官たちとともに陰謀を企画した。そしてフィリピコスの幽閉に成功すると、その翌日に聖ソフィア大聖堂(現アヤ・ソフィア)で即位し、アナスタシオスUと改名する。彼は多くの有能な人物を抜擢した。またウマイア朝によるコンスタンティノポリス包囲を予期して、城壁の補修やビザンツ艦隊の軍備増強などに努めた。またフィリピコスが破棄した第3回コンスタンティノポリス公会議の決議を復活させた。715年にウマイア朝の艦隊が小アジア南部に進出して来ると、テマ・オプシキオン軍を派遣した。だがオプシキオンはロードス島で反乱を起こし、テオドシオスVを擁してコンスタンティノポリスに押し寄せた。反乱軍とアナスタシオスUの軍は半年あまり内戦を繰り広げたが、最後にはアナスタシオスUは降伏する。彼は修道士となってテサロニキで隠遁した。 レオーンVの時代になった時、アナスタシオスUはかつての部下たちや第一次ブルガリア帝国を誘って陰謀を企てようとする。しかしイスラムを撃退したレオーンVに逆らう者は少なく、ブルガリアも味方しなかった。陰謀は完全な失敗に終わり、彼は最後はブルガリアのテルヴェル王に捕らえられ処刑された。 |
| テオドシオスTeodosios V(?-?)、在位715-717) |
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ヘラクレイオス王朝断絶後の東ローマ帝国皇帝である。アドラミュティオン(現トルコのエドレミット)の徴税役人であったが、時の皇帝アナスタシオスUに対してテマ・オプシキオンが反乱を起こした時、反乱軍に担ぎ上げられて対立皇帝なった。反乱軍はコンスタンティノポリスに攻めその攻略に成功したため、小アジア半島に逃げていたアナスタシオスUも降伏して退位した。その結果テオドシオスVが正式の皇帝となった。しかし、テオドシオスVの権力は弱く、テマや中央の官僚たちの支持を完全には得られなかった。そしてコンスタンティノポリスに向かってウマイア朝の軍勢が小アジア半島内部に侵入して来たが、彼には軍事的才能がなかった。このため717年、テマ・アナトリコンの長官であったレオーンに反乱を起こされて退位を迫られる。テオドシオスVは身の安全を保障するという条件で退位し、レオーンが即位した。テオドシオスVは修道士となり、エフェソスで754年以降に没したという。 |
| レオーンLeon V(685-741、イサウリア朝初代皇帝在位717-741) | ||||||||
| レオーンVの出身はシリアとキリキア地方の境域部に位置するゲルマニケイア(現マラシュ)である。青年期にユスティニアノスUの植民政策でトラキアへ移住した。彼の初期の経歴は不明であるが、明らかなのはアナスタシオスUによってテマ・アナトリコンの長官に任じられた点て、この時期にはウマイヤ朝の軍はすでに小アジアに侵入してきており、イスラム軍の司令官であるマスラマがアナトリコンの中心都市であるアモリオンに迫っていた。レオーンは計略によってマスラマの軍を一旦後退させ、テマ・アルメニアコンの長官で盟友のアルタヴァスドスと共にコンスタンティノポリスに向かい、コンスタンティノポリス対岸のクリュソポリスに到達する。この時コンスタンティノポリス総主教ゲルマノスT等がテオドシオスVを退位させ、レオーンを即位させた。レオーンVが即位してまもなく、マスラマ軍がコンスタンティノポリスに到達し、包囲を開始したが、成功しなかった。これ以降オスマン帝国の時代までイスラム軍によって首都が包囲されることはなかった。 レオーンVは盟友アルタヴァスドスを陰謀の中心になっていたテマ・オプシキオンの長官に任じて、小アジアのテマを把握する体制を築く。オプシキオンと同じく陰謀の温床となっていた帝国艦隊の分割に実行し、小アジア南部にテマ・キビュライオタイを置いた。このように帝国側の体制が整い、ウマイヤ朝が徐々に衰退したこともあって、730年代以降はウマイヤ朝の小アジア侵攻が大きな成果を生まなくなっていく。そして740年にはアクロイノンでウマイヤ朝軍に勝利を収めた。イタリア方面ではシチリア島で艦隊の強化を進め、チュニスから襲来するイスラーム艦隊に対抗した。だがイタリアで重税を課したこともあってイタリア北中部での支配は動揺し、732年頃には一時ラヴェンナがランゴバルド王国リュートプランド王によって制圧された。 イコン崇拝を異端であると見なし、726年にイコン崇拝の禁止令を出し、イコン破壊運動イコノクラスムを開始した。だが731年ローマ教皇がこの派を破門した。内政面では「ローマ法大全」の要約・改訂版である「エクロゲー(エクロイ)」と呼ばれる法律集を741年に発行する。
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| コンスタンティノスKonstantinos X(718-775、イサウリア朝第2代皇帝在位741-775) | ||||||||
| 父レオーンVの死により即位する。しかし即位の翌年、義理の兄弟であったアルタヴァストスが反乱を起したため、一時皇位を追われた。皇帝として即位したアルタヴァストスはイコン擁護政策を採用したため、小アジアの国民の支持を得ることができなかった。小アジアのテマ(軍管区)の支持を受けたコンスタンティノスXは都へ進軍してアルタヴァスドスを破り、翌743年にコンスタンティノスXは復位した。コンスタンティノスは軍事に優れた手腕を発揮し、ウマイヤ朝の衰退に乗じて北シリアまで兵を進め、またアルメニアやメソポタミアでも大勝して国境を東へ押し戻し、東方で主導権を握ることに成功した。さらに帝国西部のブルガリアに9度も遠征を行ない、多くの勝利を収める。 しかし、東方やブルガリアに集中したため、751年北イタリアの最後の帝国領ラヴェンナをランゴバルド族に占領されてしまう。これによって東ローマ帝国によるイタリア中・北部における支配は終わり、ローマ教皇庁は東ローマ帝国から離れた。コンスタンティノスXは父の始めたイコン破壊運動を推し進め、イコンに留まらず聖遺物・聖人崇拝・聖母崇拝にも及んだ(754年イエリア主教会議)。反対派の聖職者などを弾圧や処刑した。コンスタンティノスは、775年、ブルガリア問題を最終的に解決することなく、ブルガリア遠征中に没した。 |
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| レオーンLeon W(750-780、イサウリア朝第3代皇帝在位775-780) | ||||||||
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同王朝第2代皇帝コンスタンティノスXの子である。イコン破壊運動に対して寛容な態度を取った。780年、わずか30歳という若さで死去。残された子供のコンスタンティノスYが幼かったため、レオーンの皇后のエイレーネーが実権を握ることになる。 |
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| コンスタンティノスKonsutantinos Y(771-797、イサウリア朝第4代皇帝在位780-797) | ||||||||
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レオーンWの子、780年父レオーンWの死により即位する。わずか11歳だったため、生母エイレーネーが摂政となった。エイレーネーはイコン破壊運動には否定的な人物で、イコン破壊令を破棄してイコン復活策を採った。しかしそのため、イコン破壊運動を支持する一派がコンスタンティノスYと結びつき、エイレーネーと対立した。だがいつの間にかコンスタンティノスYはイコン破壊運動支持派とも対立してしまう。また、祖父コンスタンティノスXにならいブルガリア帝国へ遠征したが、恐怖のため戦わずして逃走するという失態を示し、軍隊や政府高官の支持も失ってしまう。この機をとらえたエイレーネーは797年、軍を動かしてコンスタンティノスYを捕らえ、息子の目をくりぬいて追放した。そしてエイレーネーはローマ帝国初の女帝として即位する。 |
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| エイレーネーEiréné(752-803、イサウリア朝第5代皇帝在位797-802) | ||||||||
| エイレーネー=イリニはイサウリア朝第3代皇帝レオーンWの皇后、第4代皇帝コンスタンティノスYの生母、ローマ帝国史上初の女帝である。正教会では聖人とされている。シリア出身のイサウリア朝の諸帝はイコン破壊運動を推し進めてきたが、古代ギリシャの中心地アテネ出身のエイレーネーはイコン破壊政策に反対であった。彼女が開いた787年の第2ニカイア(ニカイア)公会議でイコン擁護を決議した。これによって、息子の目をつぶして帝位を奪ったが、エイレーネーは正教会からは聖人に認定されている。イコン破壊派であったテマの長官を廃するなど徹底的な弾圧を行なったため、帝国軍の弱体化を招いた。このためアッバース朝の小アジア侵攻を招き、帝国領は次第に削られていく。 だがローマ教皇レオVは、コンスタンティノスYの廃位によって正統なローマ皇帝は絶えたと解釈し、エイレーネーの即位を無効とし、ローマ皇帝は空位の状態にあるとみなす。800年のサン・ピエトロ大聖堂でのクリスマス・ミサの際、フランク王国の国王カールをローマ皇帝として戴冠した。これによって東ローマ帝国の威信は、大きく傷つけられた。このように失政を続きのエイレーネーは802年、財務長官ニケフォロスの宮廷革命によって廃位され、イサウリア朝は断絶した。そしてニケフォロスはニケフォロスTとして即位し、アモリア朝が始まる。 |
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| ニケフォロスNiképhoros T(760?-911、皇帝在位802-811) |
| ニケフォロスはエイレーネーの時代に財務長官であった。802年10月31日のクーデターの中心人物として、エイレーネーを退位に追い込み、即位した。翌年、ニケフォロスTの即位に反対するバルダネス・トゥルコスが反乱を起こすと彼はすぐに投降した。ニケフォロスTは財務官僚としての経験を生かし、財政の再建に着手した。 基本的にはエイレーネー時代の減税の廃止や、徴税の厳格化などであり、ニケフォロスTの経済政策への知識が発揮されている。また船乗りたちに対する政策は、彼らの生活基盤の強化や商業活動支援政策になったと考えられる。また住民の移住政策は、当時帝国領に復帰してまもなかったギリシャ地区、特にペロポネソス半島に対する支配強化と、中部地中海への進出の始まっていた北アフリカのイスラム勢力に対する防衛強化策であると考えられている。なおこれらの政策はエイレーネー時代から受け継がれたものであり、ニケフォロス1世はバルカン半島に新たにテマ・テッサロニキ、テマ・ペロポネソス、テマ・デュラキオンを設置した。 ニケフォロスTの時代、フランク王国カール大帝とは、800年のクリスマスにカール大帝がローマ教皇から与えられたローマ皇帝の称号を巡って交渉が続けられたが、彼の治世の間には交渉は妥結しなかった。また反乱を起こしたヴェネツィアに対して、809年に艦隊を派遣している。さらに彼は帝国の東西で軍事遠征を繰り返して行ったが、成果を挙げることがなかった。またブルガリアがクルム王のもとで勢力を拡大し、エイレーネー時代に回復したテマ・マケドニアやテマ・トラキア等への侵入を繰り返した。ニケフォロスTはこれに対しても何回か軍を派遣した。811年にはブルガリア領内に大軍を率いて侵入し、首都プリスカを制圧、焼き打ちした。クルムはこの時和平を乞うたがニケフォロスTは応じない。その直後、バルカン山脈の山中でブルガリア軍に襲われて戦死した。ローマ皇帝の戦死はヴァレンス以来のことであった。 |
| スタウラキオスStaurakios(?-812、皇帝在位811年7月26日-10月1日) |
| 803年に父ニケフォロスTによって共同皇帝とされ、807年にエイレーネーの一族のテオファノと結婚した。811年、父と共にブルガリアの討伐に出陣し、父は戦死し自身も瀕死の重傷を負ってしまった。彼はコンスタンティノポリスに帰国できたが、政務を執れる状態にはなかった。このため、彼の後継をめぐって対立が起きる。テオファノは自ら即位しようとするが果たせず、結局義弟のミカエルTランガベーに譲位して修道院で隠退し、翌年に死去した。 |
| ミカエルT ランガベMikhael I Rangabe(?-844、皇帝在位811-813) |
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8世紀後半にエーゲ海地区の艦隊司令官を務めていたテオフュラクトス・ランガベの息子で、ニケフォロスTの娘のプロコピアと結婚し、クーロパラテースの爵位を与えられていた。811年に義父のニケフォロスTがブルガリアのクルムの軍に敗れて戦死し、辛くも生き延びた義兄のスタウラキオスも瀕死の重症を負っていたため、同年のうちに皇帝の座を譲られて即位することになった。このとき、息子のテオフュラクトスを共同皇帝としている。 |
| レオーンXLeon X(?-820、皇帝在位813-820) |
| パトリキオスの爵位をもっていたバルダスの息子。青年時にはミカエル(後のアモリア王朝の初代皇帝ミカエルU)等と共に、小アジア半島のテマの長官を務めていたバルダネス・トゥルコスの幕僚であった。彼は803年にバルダネス・トゥルコスがニケフォロスTに反乱を起こした時にはニケフォロスTの味方に付いた。しかしニケフォロスTは後にレオーンを解任している。しかしレオーンはミカエルTランガベによって呼び戻され、テマ・アナトリコンの長官となる。そして813年にミカエルTがブルガリア王クルムに敗れた後、彼から譲位され即位した。この頃クルムの軍は首都コンスタンティノポリスにまで迫っていたが、クルムにはコンスタンティノポリスの城壁を越えることができなかった。814年にクルムが急死し、クルムの後継者オムルタグと30年間の和約を結ぶ。 レオーンXは815年にイコン破壊運動を復活させ、反対するコンスタンティノポリス総主教ニケフォロスを解任した。しかし彼の政策は根強い反対運動に遭う。レオーンXは旧友ミカエルと次第に対立していく。彼はミカエルを820年に捕らえ、処刑することにした。しかしクリスマスを理由に妃テオドシアが処刑に反対したため、処刑を1日延期した。レオーンXは翌朝のミサの最中に、ミカエルの支持者たちに暗殺され、彼の遺体はコンスタンティノポリス近郊のプロテ島に運ばれて埋葬された。また共同皇帝のコンスタンティノスをはじめとする彼の息子たちは修道士とされた。 |
| ミカエルMikhael U(770?-829、アモリア朝初代皇帝在位820-829) |
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小アジア半島内陸部の中心都市アモリオンの出身で、レオーンXやスラブ人トマスなどとは、テマ・アナトリコンの長官バルダネス・トゥルコスに仕えていたため親友であった。また彼はアナトリコンの長官の娘を妻としている。レオーンXが皇帝になると、彼は近衛部隊長官に任命された。しかし次第に両者の仲は険悪になり、820年の12月にミカエルは逮捕される。だがミカエルの処刑が1日延期されたため、この機会を利用してミカエルの支持者たちがレオーンXを暗殺し、ミカエルが即位した。 |
| テオフィロスTheophilos(813?-842、アモリア朝第2代皇帝在位829-842) |
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ミカエルUの実子。821年父ミカエルUによって共同皇帝とされた。829年にミカエルUが没した後、一時的に継母のエウフロシュネが摂政となるが、830年頃軍人マヌエルの姪のテオドラをテオフィロスと結婚した。テオフィロスは学問や演劇・建築などにも深い関心があった。数学者レオーンを抜擢してコンスタンティノポリスのマグナウラ宮殿で高等教育を行わせたことや、小アジア半島のコンスタンティノポリス近郊にブリュアス離宮を建てさせたりしている。 |
| ミカエルMichael V(840-867、アモリア朝第3代皇帝在位842-867) |
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842年父テオフィロスが死去した時、2歳という幼年であったため、母テオドラと宦官テオクティストスが政務を行った。母テオドラはイコン破壊運動を終わらせ、843年にイコン崇拝復活を宣言した。続けてテオドラはクレタ島の回復目的とした戦いを始めたが、成果は上がらなかった。成人したミカエルVは、かつてテオクティストスと対立して追放されていたバルダス(テオドラの弟)らと協力して855年にクーデタを起こしテオドラを修道院に追放し、親政を開始した。彼は協力者バルダスを重用し、864年には副皇帝に任じた。また863年にアッバース朝領内の地方指揮官エミールが小アジアに侵入してきた時にはバルダスの兄弟ペトロナスを将軍として派遣し、エミール軍の撃破に成功する。ビザンツ帝国は小アジア東部でイスラム勢力に対して攻勢に転じるようになっていく。だがシチリア島ではアグラブ朝による攻勢を食い止めることができなかった。また小アジア半島における異端パウロ派の勢力拡大にも、効果的な対策を行うことができなかった。 |
| バシレイオスBasileios I(?-886、マケドニア朝初代皇帝在位867-886) | ||
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アルメニア系農民の子から皇帝にまで上り詰めた。彼のマケドニア王朝は、10世紀から11世紀初頭にかけて東ローマ帝国の最盛期をもたらす。バシレイオスは最初テマ・マケドニア長官ツァンツェスに仕え、後にコンスタンティノポリスに上る。アモリア朝3代目皇帝ミカエルVの一族で城壁防衛長官テオフィリッツェスに仕えた。やがてミカエルVの目に留まり、皇帝の警護役へと取りたてられる。865年皇帝の寝室管理長官となり、ミカエルVの愛人だったエウドキア・インゲリナと結婚した。当時既にバシレイオスにはマリアという妻がいたが、マリアは離縁されて故郷のテマ・マケドニアに送り返された。バシレイオスの急速な出世は、帝国の実力者であった皇帝の叔父副帝バルダスとの衝突を引き起こした。そのためバシレイオスは866年4月に計略をめぐらしてバルダスを暗殺し、翌月にはミカエルVによって共同皇帝の地位を与えられたが、軍隊、市民、官僚の人気は得られなかった。その後バシレイオスはミカエルVとも衝突し、867年ミカエルVを暗殺し、翌朝宮殿をも占拠して単独皇帝となった。 |
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| レオーンLeon Y(866-912、マケドニア朝第2代皇帝在位886-912) | ||
| バシレイオスTと二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、この妻はミカエルVがバシレイオスTに暗殺されるまでミカエルVの愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと867年に生まれたステファノスはミカエルVの息子である可能性がある。レオーンは870年に共同皇帝とされている。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、879年、本来の後継者コンスタンティノスが死去したためレオーンがバシレイオスTの後継者とになり、882年に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後にエウドキア・インゲリナが没するとバシレイオスT世とレオーンの関係は悪化した。そして883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に886年7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが復権した直後にバシレイオスTが急死し、その権力を継承した。彼は、当時コンスタンティノポリス総主教に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命する。 外交面での彼の失敗はいくつかある。896年ブルガロフュゴンでブルガリアに敗北し、毎年貢納金を支払う条件での和平を結んだこと。西方の領域でも888年ミラッツォ沖でイスラム艦隊に敗北を喫した。902年シチリア島のタオルミナが陥落した。また904年帝国第二の都市テッサロニキが襲撃された。レオーンには未だに子供がいないままだったので、4番目の妃ゾエ・カルボノプシナによって905年ついに息子のコンスタンティノス(後のコンスタンティノスZ)が生まれた。ただ「四婚問題」ためこれを禁じたニコラオスT世を解任し、信任する修道士であったエウテュミオスを後任としたが、これはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。レオーンYは912年5月11日に病死した。コンスタンティノスZが幼かったため、バシレイオスT時代から共同皇帝の地位にあったアレクサンドロスが後継者となった。 |
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| アレクサンドロスAleksandros(c.870-913、マケドニア朝第3代皇帝在位912-913) | ||
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同王朝初代皇帝バシレイオスTの子で、レオーンYの弟に当たる。兄やステファノス(コンスタンティノポリス総主教)とは違い、バシレイオス1世とエウドキア・インゲリナとの間に生まれたことが確実な唯一の男子である。レオーンY治世の間、共同皇帝だったが実務に関与することなく過ごす。912年にレオーンYは幼少であった息子のコンスタンティノスZの後見を委ねて死去した。 |
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| コンスタンティノスKonstantinos Z(905?-959、マケドニア朝第4代皇帝在位913-920、ロマノスTと共同統治920-944、944-959) | ||
| マケドニア朝第2代皇帝レオーンYと4度目の妻ゾエ・カルボノプシナの間に生まれた。コンスタンティノスが幼いうちに父が死去したが、叔父であるアレクサンドロスが帝位に就いた。しかし、アレクサンドロスは在位1年で死亡し、913年にコンスタンティノスは皇帝に即位した。幼いコンスタンティノスに代わってコンスタンティノポリス総主教ニコラオスTを長とする摂政団が国政を担った。だがゾエ・カルボノプシナが反ニコラオス派であった上、ニコラオスが協力を期待した帝国軍最高司令官のコンスタンティノス・ドゥーカスが帝位を狙って殺されるなど国内は混乱する。そこへ先帝アレクサンドロスの貢納金支払停止を理由にシメオンTが率いるブルガリア軍が侵攻して来た。東ローマ側は譲歩を迫られ、シメオンをブルガリア皇帝として戴冠させ、コンスタンティノスZとシメオンの娘との婚約することで和議を結ぶ。皇帝の義父となるシメオンに帝国を乗っ取られてしまうこと危惧した勢力は摂政団を倒し、ゾエ・カルボノプシナが権力を握った。ゾエはシメオンの戴冠を取り消し、帝国の東西で戦いを進めるが、ブルガリアに敗北し、その権威は失墜する。翌919年3月に帝国海軍の司令長官ロマノス・レカペノスが宮殿を占領し、ゾエは修道院へ隠棲させられた。ロマノスは娘ヘレネとコンスタンティノスを結婚させて、共同皇帝となって実権を握る。 920年になるとコンスタンティノスZの地位はロマノスと逆転し、正皇帝はロマノスにとなった。さらにロマノスの息子クリストフォロスが第2位共同皇帝となり、コンスタンティノスは第3位共同皇帝になった。944年、ロマノスTはコンスタンティノスZを後継者に指名する。それは既にロマノスの長子クリストフォロスは病死しており、残る2人の息子をロマノスは評価していなかったからである。これに対してロマノスの次男と三男が反発して、クーデターでロマノスTを追放し、コンスタンティノスの追放をも図る。しかし、国民の支持を受けていたコンスタンティノスは2人を逮捕して追放した。こうしてコンスタンティノスは40代になってようやく実権を掌握することに成功する。正皇帝の座を回復した後もコンスタンティノスは実際の政治は臣下に任せ、自らは引き続き学問研究に没頭した。彼の治世の下で学者が宮廷に集められて古代ギリシャ文化の研究を進め、百科事典的な書物「抜粋」や農業書などが編纂された。コンスタンティノスは建築や音楽といった面に興味を持ち、教育にも力を入れた。また、コンスタンティノスも自ら「バシレイオスT伝」、「テマについて」、息子ロマノスUのために書い「帝国統治論」、「儀式の書」等の著作を残す。こうして、帝国は後世にマケドニア朝ルネサンスと呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を迎える。 |
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| ロマノスRomanos U(939-963、マケドニア朝第5代皇帝在位959-963) | ||
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コンスタンティノスZとロマノスTの娘ヘレネの子であった。959年、父コンスタンティノスZの死により後を継いで即位する。曽祖父バシレイオスTのような軍事的才能も、父コンスタンティノスZのような文化的才能も持ち合わせてはいなかった。そのため自ら国事を司ることはなく、すべて臣下に任せた。行政面においては父時代からの重臣である宦官ヨセフ・ブリンガスやテオドロス・デカポロティスを重用して帝国政治の整備を行なわせた。軍事面にではニケフォロス・フォカスに任せ、イスラム勢力からクレタ島を奪回し、帝国領を東方に大きく拡大することに成功した。ロマノスUは狩猟中に事故に遭い、在位4年で死去する。2人の皇子、幼いバシレイオス(後の皇帝バシレイオスU)とコンスタンティノス(後の皇帝コンスタンティノス[)、そして皇女アンナ(後のキエフ大公ウラジーミルT妃)が残された。 |
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| ニケフォロスNikephoros U(913-969、マケドニア朝第6代皇帝在位963-969) | ||
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963年、ロマノスUが25歳の若さで早世し、幼い2人の皇子の長男のバシレイオスが即位したものの、実際に政務を見ることはできなかった。このため故ロマノスUの皇后テオファノはニケフォロスU世と結婚した。ニケフォロスUはバシレイオスとコンスタンティノスを共同皇帝とし、自らはその義父という立場で皇帝に即位した。ニケフォロスUは積極的な対外政策を推し進め、強力な重装騎兵軍団を作り上げてイスラムを相手に戦い、3世紀以上も帝国から離れていたアンティオキアを奪回するなど、帝国領の拡大に成功を収めた。現在まで続くアトス山の修道院共同体はニケフォロスによってこの時成立した。しかし、その一方で連年の戦争で必要な軍費を調達するために、国民、貴族や軍人にまで重税を課し、さらには財源を確保するために貨幣の悪鋳を行った。965年にニケフォロスがシチリア遠征に失敗すると、民衆の不満は増大し、貴族層や軍人までニケフォロスUを非難した。 |
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| ヨハネスJohanes T(925-976、マケドニア朝第7代皇帝在位969-976) | ||
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軍人皇帝として活躍し、東ローマ帝国領を東方へ拡大させた。ヨハネスはマケドニア王朝の血統ではない。叔父ニケフォロスUのもとで将軍として活躍したが、ニケフォロスに冷遇されたことで彼に不満を抱くようになり、愛人関係にあったニケフォロスの皇后テオファノと結託してニケフォロスU帝を暗殺した。そして自ら即位すると、愛人テオファノに先帝殺しの汚名をかぶせて追放した。自らはコンスタンティノスZの娘テオドラと結婚してマケドニア王朝と縁戚関係を結び、帝位の正統性を確保した。政策的には先帝ニケフォロスの軍事拡大路線を受け継ぎ、帝国の国力を増大させた。
ヨハネスが率いる重装騎兵軍団は、971年にバルカン半島へ侵攻してきたキエフ大公スヴャトスラフTの軍隊を打ち破ってブルガリア東部を制圧する。また先代から引き続いていたドイツとのイタリアにおける戦争を、姪テオファヌをドイツ王オットーUに嫁がせて終結させた。次いで東方のファーティマ朝打倒に向かい、974年からはメソポタミア北部を占領し、さらに翌975年にはシリアとパレスティナへ遠征し、ダマスカスなどのシリア諸都市やナザレなどのパレスティナ地方を占領した。 |
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| バシレイオスBasileios U(958-1025、マケドニア朝第8代皇帝在位976-1025) | ||
| バシレイオスはマケドニア王朝の皇帝ロマノスUの長男であったが、ニケフォロスUとヨハネスT後に976年正帝として皇位についた。軍事貴族の相次ぐ反乱、第一次ブルガリア帝国との戦争などに悩まされ、一時は軍事貴族バルダス・フォカス(ニケフォロスUの甥)が率いる反乱軍によって絶体絶命の危機に陥いる。しかし軍事貴族の反乱はキエフ大公国の援軍を得て平定。第一次ブルガリア帝国に対してはやっと1014年、クレディオン峠の戦いで大勝した。1018年にはブルガリアを完全に滅ぼして、東ローマ帝国によるバルカン半島全域の支配を約400年振りに回復した。イスラム勢力や南イタリアのランゴバルト人との戦いにも勝利し、北はドナウ川、南はクレタ島、東はシリアやアルメニア、西は南イタリアのマグナ・グラエキアに及ぶ大帝国を建設した。それは東ローマ帝国の中世の黄金時代であった。内政では専制政治を推し進め、ディオクレティアヌス帝から始まったローマ帝国の皇帝専制体制はその頂点を迎えたのである。 バシレイオスは自らを苦しめた軍事貴族や大土地所有者を抑圧し、彼等が農民から不正に取得した土地の没収などを行う一方で、中小農民の土地保護などに努めた。また贅沢を慎み、財政支出を抑制し、外征を行いながらも国家財政の健全化をなしとげた。一方、その緊縮財政により、経済発展は抑えられる結果ともなった。さらに、反乱平定の援軍派遣の見返りとしてキエフ大公ウラディーミルTと妹アンナを縁組させたことによってロシアやウクライナがキリスト教化し、正教会の勢力を北方へ拡大させることにも成功した。1025年12月25日、バシレイオスはシチリア遠征の準備中に倒れ、間もなく死去。バシレイオスは結婚しなかったために子がなく、無能な弟コンスタンティノス[が帝位を継いだ。彼の死によって東ローマ帝国の絶頂期は終わる。
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| コンスタンティノスKonstantinos [(960-1028、マケドニア朝第9代皇帝在位1025-1028) | ||
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コンスタンティノス[はロマノスUの次男、つまりバシレイオスUの弟、長く共同皇帝の座にあったが、実権は兄が有しており政治に関与することはなかった。即位した時はすでに60歳を過ぎ、政治は宦官に任せて自らは宴会や戦車競走などに熱中した。古代ローマの剣闘士競技を復活させ、自ら野獣相手に戦ったという。バシレイオスUが残した莫大な国家財産は浪費され、また東方や北方で反乱や異民族侵入の兆候があったにも関わらず何の対策もとらず、東ローマ帝国は衰退を始める。コンスタンティノス[は男子がいず、死の床で次女のゾエ(既に50歳を過ぎていた)と元老院議員で首都長官ロマノス・アルギュロス(ロマノスは60歳を過ぎ、妻と離縁させた)と結婚させた。ロマノスがロマノスVアルギュロスとして即位した。 |
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| ロマノスVアルギュロスRomanos V Argyros(968-1034、マケドニア朝第10代皇帝在位1028-1034) | ||
| コンスタンティノス[はゾエとロマノスの結婚式3日後に死去し、ロマノスが皇帝に即位した。修道院を多数建設して莫大な費用を費やし、財政を破綻寸前に追い込む。バシレイオスUの大土地所有抑制政策を破棄し、これにより帝国は後に大土地所有貴族による内紛状態へと陥ってしまう。さらに財政難を補うために地方に対して重税をかけたが、それを役人が横領するなど、支配階層の腐敗・堕落が進む。軍事面においては、自らをトラヤヌスやハドリアヌスになぞらえて東方へ遠征を行うが、シリアでイスラム勢力に対して大敗を喫して逃げ帰るという醜態をさらした。さらに、皇后ゾエとの不仲や失政に次ぐ失政を重ねた。これにより、既に衰退し始めていた東ローマ帝国はますます衰えていった。ロマノスVの唯一の功績らしい功績はファーティマ朝と休戦し、破壊されたエルサレムの聖墳墓教会を再建し、エルサレム総主教の任命権を得たことくらいである。1034年、ロマノスは入浴中に不慮の死に見舞われた。 | ||
| ミカエルMikhael W(1010-1041、マケドニア朝第11代皇帝在位1034-1041) | ||
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ミカエルWは小アジア北西部パフラゴニア地方出身といわれている。彼の兄弟で有力な宦官ヨハネス・オルファノトロフォスの縁故で宮中に勤めるようになり、そこでロマノスVアルギュロスの皇后ゾエの愛人となった。ミカエルは美男であった上、ゾエは当時ロマノスVと不和になっていたため50歳を過ぎていたが、この若者と関係をもった。これは野心家の宦官ヨハネスが、自らはゆえに皇帝になれない代りにミカエルを帝位につけようと仕組んだことらしい。1034年、ロマノスVが入浴中に不慮の死後、ゾエはミカエルと結婚し、彼を皇帝として即位させた。ミカエルWは即位するとゾエへの興味を失い、彼女を幽閉する。 |
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| ミカエルMikhael X(1015-1042、マケドニア朝第12代皇帝在位1041-1042) | ||
| ミカエルXはミカエルWの甥であった。1041年ミカエルWの病死後、宦官ヨハネス・オルファノトロフォスは彼を皇帝として擁立した。それはヨハネスがミカエルXを操るつもりだったらしいが、ミカエルXは自ら親政を行なうため、ヨハネスを逆に追放する。さらに皇太后ゾエも追放しようとしたが、マケドニア王朝の嫡子であるゾエは民衆に尊敬されていたため、これに反発した市民が逆に反乱を起こしてミカエルXを捕縛して廃位し、盲目にして追放してしまった。 | ||
| コンスタンティノスKonstantinos \(1000-1055、マケドニア朝第13代皇帝在位1042-1055) | ||
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ミカエルX追放後、ゾエが妹のテオドラとともに女帝として即位した。だが2人は仲が悪く、わずか2ヵ月後にはゾエとテオドラは退位した。ゾエが元老院議員コンスタンティノス・モノマコスと結婚し、彼を皇帝として即位させる。これがコンスタンティノス\モノマコスである。当時帝国内では文官官僚の元老院議員と地方の軍事貴族とが対立していた。文官出身のコンスタンティノス\は文官貴族を優遇し、官職を増やして官僚制を肥大化させ、財政支出を増加させた。さらにコンスタンティノス\とゾエ・テオドラ姉妹はますます財政困難を導き、帝国の軍事力の低下を招く。文化面では宮廷にミカエル・プセルロスらの優れた人材を集め、宮廷を中心に法学、文学や哲学が栄えた。帝国各地で軍事貴族出身の将軍達が反乱を起こし、帝国はさらに衰退した。反乱は何とか鎮圧するが、南イタリアの守備を担当していたマニアケスが反乱を起して死亡したために南イタリアにはノルマン人が侵入したため、イタリア半島の東ローマ帝国領は失われていった。 |
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| テオドラTheodra(995-1056、マケドニア朝第14代女帝在位1055-1056) | ||
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コンスタンティノス[の三女(ゾエの妹)で、父が病死した後、女帝として即位した。だが翌年、病のために死去した。テオドラには嗣子がなく、ここにマケドニア王朝の血筋は断絶する。死後、テオドラの遺言によりその養子で元老院議員ミカエルYストラティコスが皇位に即位することになる。 |
| ミカエルYストラティオティコスMikhael Y Stratietikos(?-1059、皇帝在位1056-1057) |
| 1056年、先代の女帝テオドラの遺言によってテオドラの養子となり、皇帝として即位した。ところが、即位したミカエルYは文治を優遇して軍事を軽視する文治政治を採用したため、帝国軍人の反感を買い、即位の翌年には反乱を起こされた。皇帝軍も懸命に抗戦したが、イサキオス・コムネノス(次代のイサキオスTコムネノス)による反乱軍によって敗北した。この軍勢がコンスタンティノポリスに迫るとミカエルYはイサキオスに皇位を譲って退位、1059年に病死した。 |
| イサキオスIsakios T(1005-1061、皇帝在位1057-1059) | |
| イサキオスTは小アジアのパフラゴニアに多くの所領を持つ軍事貴族コムネノス家の出身である。1057年、時の皇帝であったミカエルYはストラティオティコスの文治政治に対し反乱し、ミカエルYを退位させ自らが皇帝となった。この頃の東ローマ帝国は失政や相次ぐ内紛などで財政は極度に悪化し、軍事力も弱体化の一途をたどっていた。このためイサキオス1世は、財政再建と軍備増強、皇帝権力の強化を目指した。バシレイオスUを範とした統治を行なう。歴代皇帝が教会や貴族層に譲渡または贈与した土地を全て無効として没収もした。たしかに皇帝権力は強化され、財政も一時的とはいえ再建されたが、この厳しすぎる政治は、国民や貴族、さらには教会など多くの反発を招く。1059年、狩りで負った傷で病に倒れると、元老院議長で宮廷の実力者であった知識人ミカエル・プセルロスの説得を受けて退位し、元老院議員のコンスタンティノス・ドゥーカスへ譲位した。退位後、イサキオスは修道士となり、1061年に死去した。イサキオスTの甥アレクシオスTコムネノスは、後に皇帝となりコムネノス王朝を開いた。 |
| コンスタンティノスKonstantinos ](1006-1067、ドゥーカス朝初代皇帝在位1059-1067) |
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コンスタンティノス]はコンスタンティノス\と同じく文治政治を採用し、軍事を軽視した。そのため、軍事力が低下し、結果として帝国東方からはセルジューク朝、北方からはべチェネグ族、西方からはノルマン人の侵攻を受けて、領土を次々と失っていった。また財政難を補うために官職売買制度を導入して官制を乱し、中央政府の地方に対する行政能力を低下させた。この時は元老院議員数が一万人を越えたという。 |
| エウドキア・マクレンボリティサEudokia Makrembolitissa(1021-1096、ドゥーカス朝第2代女帝在位1067-1068) |
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コンスタンティノス]ドゥ−カスの皇后で、1067年夫が死去した後、女帝として即位した。しかし、民衆や貴族は強力な軍事政権の樹立を望んだため、エウドキアはカッパドキアの将軍ロマノス・ディオゲネスと結婚し、彼に皇位を譲った。これがロマノスWディオゲネスである。 |
| ロマノスRomanos W(?-1072、ドゥーカス朝第3代皇帝在位1068-1071) |
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即位前はカッパドキアで帝国の将軍を務めていた。皇后エウドキア・マクレンボリティサが女帝として即位したが、国民は強力な軍事政権の成立を望んでいた。このため1068年、エウドキアはロマノス・ディオゲネスと結婚し、彼を皇帝ロマノスWとして新たに即位させた。ロマノスWは北方から侵攻してきたべチェネグ族、ロシア人やノルマン人と和睦して彼らを傭兵として取り込み、軍備を増強したうえでセルジューク朝と会戦し、ある程度の戦果を得た。1071年にはロマノスW自らが6万の兵を率いて親征し、兵力の少ないセルジューク朝は和議を望むが、ロマノスはこれを拒否してマンズィケルト(マラズギルト)にてセルジューク軍と戦い大敗を喫し、ロマノスも捕虜となってしまった。ローマ皇帝が捕虜となったのは、3世紀のヴァレリアヌス以来のことであった。この敗戦で小アジアはトルコ人に占領され、後のオスマン帝国による東ローマ帝国滅亡の遠因となる。 |
| ミカエルMikae Z(1050-1090、ドゥーカス朝第4代皇帝在位1071-1078) |
| ロマノスWと妻エウドキアの子ミカエルZは即位後、父ロマノスWの追放と死去によってロマノスWとセルジューク朝が結んだ和議が反故になってしまう。セルジューク朝はこれを口実に帝国への侵略を開始した。これ以降、小アジア領の大半が奪われていった。帝国西方でも動きが起こる。1071年、ノルマン人が東ローマ帝国領であったイタリア南部マグナ・グラエキアに侵攻し、最後の拠点であったバーリを陥落させた。こうしてユスティニアヌスT以来続いていた東ローマ帝国の南イタリア支配も終わりを告げた。さらに相次ぐ内紛や戦争のため、帝国経済も大きく動揺した。宦官ニケフォリツィスを重用して穀物貿易を専売化し、穀物価格の統制を図ったが、これによって穀物価格のみならず一般の物価も上昇したため、怒った民衆は政府の倉庫を襲撃、破壊する。 1075年、妹テオドラ・ドゥーカイナ・コムネナをヴェネツィア共和国の元首ドメニコ・セルヴォと結婚させた。末妹ゾエはアレクシオス・コムネノスの弟アドリアヌスと結婚した。帝国内部においてノルマン人傭兵隊長ルセール・ド=バイユールやニケフォロス・ブリュエンニオス、ニケオフォロス・ボタネイアテスなどの軍事貴族の反乱が各地で続く。1078年1月7日、首都コンスタンティノポリスの民衆はハギア・ソフィア大聖堂において、小アジアにいたニケフォロス・ボタネイアテスを皇帝に立てた。首都でニケフォロスが反乱を起こし、ミカエルZが退位して修道院へ入った。 |
| ニケフォロスV Nikephoros V(?-1081、ドゥーカス朝第5代皇帝在位1078-10811) |
| アナトリコン・テマの長官ニケフォロスは小アジアでミカエルZに対して反乱を起こし、1078年退位したミカエルZの後を継ぎ、即位した。この時ニケフォロスはミカエルZの皇后マリアと結婚した。ニケフォロスVには男児が無く、ミカエルZとマリアとの間の息子コンスタンティノスを後継者に指名する。しかし、それに不満を抱く貴族の反乱やセルジューク朝の侵攻などの対策に追われ、帝国の混乱は続いた。1081年、アレクシオス・コムネノス(=アレクシオスT1)が反乱によってニケフォロスVは退位を余儀なくされ、修道院へ隠退する。 |
| アレクシオスAlexios T(1048-1118、コムネノス朝初代皇帝在位1081-1118) |
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マケドニア王朝断絶後の皇帝で、イサキオスTコムネノスの甥に当たる。1081年、アレクシオスは反乱を起こし、自ら皇帝アレクシオスTコムネノスとして即位し、コムネノス朝を開く。即位後、対外政策に力を注ぎ、当時、11世紀半ばまで東ローマ帝国領であった南イタリア(マグナ・グラエキア)はノルマン人ロベール・ギスカールによって征服され、その勢力はバルカン半島にまで及んでくる。しかし、アレクシオス1世はヴェネツィア共和国と同盟を結び守りを固めた。しかし、同盟の代償としてヴェネツィア共和国に関税特権などの様々な特権を与えたことが、後の帝国内の商工業者の衰退、東ローマ帝国とヴェネツィア共和国との対立等を招く一因ともなった。 |
| ヨハネスIoannes U(1087-1143、コムネノス朝第2代皇帝在位1118-1143) |
| 1118年、既に父t皇帝アレクシオスTと共同皇帝となっていたヨハネスは、父の死により即位した。即位後姉アンナ・コムネナの夫を帝位につけようとする簒奪未遂事件が起こった。これに対しヨハネスUは、姉を殺さないという寛大な処置を取ったので民衆から評価された。姉アンナは修道院に入り、父アレクシオスTの伝記を執筆し、稀な女性歴史家となった。賢明で思慮深く誠実かつ勇敢なヨハネスは、帝国の再興のために無駄な支出を抑制し、父の政策を継いで軍事力を再建し対外政策に力を注いだ。ヴェネツィア共和国との戦いでは敗れたが、北方で侵入や掠奪を繰り返していたペチェネグ人を壊滅させ、東方においてはルーム・セルジューク朝に占領されていた小アジア領を回復した。1137年にはアンティオキア公国を屈服させ、帝国を再び東地中海の強国として蘇らせた。 この皇帝は<コムネノス家のローマ皇帝の中で最も善良>いわれ、歴代の東ローマ皇帝の中でも屈指の名君であると評価されている。晩年のヨハネスUは、長男アレクシオスと次男アンドロニコスに相次いで先立たれた。1143年、遠征先シリアでの狩猟の途中誤って毒矢を自分に刺し、臨終の床で暗愚な三男を廃して四男マヌエルTを皇位継承者と定め、56歳で亡くなった。 |
| マヌエルManuel T(1118-1180、コムネノス朝第3代皇帝在位1143-1180) |
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マヌエルTはヨハネスUとハンガリー王女エイレーネー(イレーネー)の子でマヌエル1世は四男であったが、1143年の父の死後皇位継承者として選ばれた。質素倹約に努めた父ヨハネスUと違って派手好みで享楽的であったマヌエルTは、宮殿や教会などの建築事業を起こし、豪華な祭礼や外交使節への歓迎行事を行って首都コンスタンティノポリスを飾り立てた。
またハンガリー王国ベーラVを娘婿に迎えてハンガリーと東ローマ帝国の統合を構想し、宮廷に西欧の騎士道の風習を持ち込み、臣下にも多くの西欧人を雇い入れた。 |
| アレクシオスAlexios U(1169-1183、コムネノス朝第4代皇帝在位1180-1183) |
| 両親は皇帝マヌエルTと皇后マリアで、彼らにはアレクシオスは待望の男子であった。父マヌエルは、対神聖ローマ帝国同盟を狙い、フランス王ルイZの娘アンナをアレクシオスの后とする。1180年、父が死去したために後を継いで即位し、12歳という幼年であったため政務は生母マリアが摂政となった。ところが、マリアは亡夫マヌエルTの親ラテン政策を継承したが、この政策に対して不満を持つ国民層の支持を得たアンドロニコスT(マヌエルTの従兄弟でマヌエルTとは対立)による反乱で1182年に殺された。こうしてアンドロニコスT世は翌1183年にアレクシオスUと共同皇帝になり、完全に帝国の実権を掌握してしまう。アンドロニコスTの邪魔者となったアレクシオスUは、共同統治が始まってから2ヵ月後に殺害された。 |
| アンドロニコスAndronikos T(1123-1185、コムネノス朝第5代皇帝在位1183-1185) |
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皇帝アレクシオスTと皇后エイレーネー・ドゥーカイナの三男イサキオスを父にもち、母はグルジア王女カタである。マヌエルTの従兄弟に当たる。マヌエルTとは長じるにつれて2人は対立し、アンドロニコスTはエルサレム王国などの諸国を流浪する生活を送った。
青年期から女性関係が多かった。最初の妻との間に2男1女をもうけた。コンスタンティノポリスにいた頃は、自分の姪エウドキアを愛人にしていた。56歳の時にはエルサレム王未亡人テオドラ・コムネナ(ヨハネスUの三男イサキオスの娘で従弟の娘)と愛人関係になる。テオドラとの間には1男1女をもうけ、娘エイレーネーをマヌエルTの庶子アレクシオスに嫁がせた。 |
| イサキオスIsaakios U(1156-1204、アンゲロス朝初代皇帝在位1185-1195、1203) |
| アンドロニコスの子で祖父はコンスタンティノス、祖母はコムネノス王朝の初代皇帝アレクシオスTの娘テオドラ・コムネナである。1185年にアンドロニコスはイサキオスを指導者に擁立した反乱軍によって虐殺され、国民や貴族の支持を得たイサキオスが、皇帝として即位した。前王朝の負の遺産をそのまま受け継ぎ、彼自身は血統でのみ擁立された皇帝だったし、政治力は無かった。アンドロニコスT時代に始まっていたノルマンの侵攻を防いだが、1186年に支配下にあったブルガリアがペタルとアセン兄弟の下に独立し(ブルガリア帝国)、東ローマ帝国と敵対する。1188年には小アジア南西部フィラデルフィアの帝国貴族テオドロス・マンカファースが帝国を裏切って皇帝を僭称するなど、対外的には混乱が相次ぐ。このため、イサキオスは帝国の威信回復を目指して大規模な遠征を計画し、マンカファースの反乱は1193年までに鎮圧したが、ブルガリア遠征は2度とも失敗に終わる。1195年、イサキオスは度目のブルガリア遠征を計画する3が、弟のアレクシオスVが遠征に反対し、遂には兄のイサキオスを廃位して幽閉し、皇位を奪ったのである。イサキオスは弟によって後に盲目にされた。 アレクシオスVはイサキオス以上に無能で、帝国の威信はさらに衰える。するとイサキオスの息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオスWが、軍資金の調達が困難で遠征できなかった第4回十字軍を資金援助や東西教会の統一などを条件にして味方に引き込み、帝国の首都コンスタンティノポリスに侵攻した。1203年7月にアレクシオスVは皇位を追われて逃亡し、アレクシオスWは幽閉された父イサキオスを助け出して、父と共に共同皇帝として即位することとなった。父の復位にあたってアレクシオスWが出した軍資金供出はあまりに国民の負担が重く、1204年にはそれが皇族のアレクシオスXの反乱が起こる。イサキオスUとアレクシオスWは共に殺されてしまい、皇位はアレクシオスXに奪われることになった。 |
| アレクシオスAlexios V(1156-1211、アンゲロス朝第2代皇帝在位1195-1203) |
| アンドロニコスTの子、アンゲロス朝初代皇帝イサキオスUの実弟である。コムネノス王朝の遠縁に当たるため兄と同じようにコムネノス朝第5代皇帝アンドロニコスTに暗殺されかけたことがあり、アンティオキアに逃亡したが、イスラム側の攻撃を受けて捕虜となった。兄が皇帝になると、莫大な身代金を条件にして解放された。その後は東ローマ帝国の宰相や元帥に任じられて兄の治世を補佐するが次第に兄と対立し、1195年にはクーデターを起こして兄を幽閉して廃位し、自らがアンゲロス王朝の第2代皇帝として即位したのである。兄以上に無能な皇帝で、兄時代から対立関係にあった神聖ローマ皇帝ハインリヒYの圧力に屈して膨大な献納金を要求され、歴代皇帝の墓所を暴いて装飾品を処分する暴挙を行なった。さらに兄が財政再建のために交易の利害から優遇していたヴェネツィア共和国との関係を冷却化し、かえって敵対していた諸都市を優遇するなどして対外的に多くの敵を作るなど、失政を重ねた。このため1203年7月、兄の息子で神聖ローマ帝国に亡命していたアレクシオスWが第4回十字軍を味方に引き込んでコンスタンティノポリスに侵攻した時、皇位を奪われて追放された。 帝国を追放されたアレクシオスVは、小アジア側の隣国であるルーム・セルジューク朝スルタンであるケイホスローTのもとに亡命した。後に娘婿であるテオドロスTがニカイア帝国を建国すると、娘婿のもとに亡命して庇護を受ける。ところがアレクシオスVはテオドロスに皇位を要求して対立する。1211年、アンティオキアの攻防戦でケイホスローTがテオドロスの前に戦死すると、アレクシオスは後ろ盾を失ってテオドロスによって修道院に幽閉され、間もなく死去した。 |
| アレクシオスAlexios W(1182-1204、アンゲロス朝第3代皇帝在位1203-1204) |
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アンゲロス初代皇帝イサキオスUの子、母はアンドロニコスTの娘エイレーネである。1195年、父が叔父アレクシオスVによって廃位させられると、帝国を脱出して義兄のシュヴァーベン公フィリップ(後の神聖ローマ皇帝フィリップ)のもとに逃亡した。1201年、軍資金調達で苦しむ第4回十字軍に対して、遠征資金の負担や東西教会の統一を条件にコンスタンティノポリスに侵攻し、1203年7月に叔父を追放した上で、幽閉されていた父を助け出して共同皇帝として即位した。第4回十字軍の遠征資金を負担するためにアレクシオスWは国民・貴族に対して重税を強いてかえって彼らの反感を招く。そして1204年、彼らの支持を得たアレクシオスVの娘婿であるアレクシオスXによって反乱を起こされ、父と共に23歳で殺害された。 |
| アレクシオスAlexios X(?-1204、アンゲロス朝第4代皇帝在位1204) |
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アンゲロス家とは血縁関係でなく、同家の第2代皇帝アレクシオスVの娘エウドキアの婿である。1204年1月にニコラオス・カナボスなる青年を皇帝候補に立て影で操っていたのであるが、それに気付かなかったアレクシオスWは彼を十字軍への支援要請の使者に立てる失敗を犯した。自ら帝位に登る事を決意し、1月末にアレクシオスXとして即位した。彼は2月にはカナボスとアレクシオスW4世を殺害して権力を掌握する。即位後は第4回十字軍に対する献納金を破棄するなどして国民の支持を得たが、これに怒った第4回十字軍によって首都コンスタンティノポリスを攻撃され、首都防衛に失敗して逃亡する。しかし十字軍の追討を受けて捕縛され、首都のテオドシウス記念塔の頂上から突き落とされて殺された。皇位はコンスタンティノス・ラスカリスによって継承されたが、すでにコンスタンティノポリスは十字軍の攻撃によって陥落寸前であった。そしてコンスタンティノポリスは陥落し、東ローマ帝国はここで一時的に滅亡を迎える。 |
| コンスタンティノス・ラスカリスKonstantinos Laskaris(?-1211?、アンゲロス朝第5代皇帝在位1204) |
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東ローマ帝国最後の皇帝「コンスタンティノス12世」とする場合もある。1204年、第4回十字軍に首都コンスタンティノポリスを攻められてアレクシオスXが逃亡した後、首都防衛に活躍したコンスタンティノス・ラスカリスが皇帝として選出された。選出されてからわずか1日で、しかも正式な即位式を行わずに首都を追われて弟テオドロスと共に小アジアに逃亡したため、彼を東ローマ皇帝として認めない場合も多い。 |
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