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東ローマ帝国=ビザンツ帝国B後期
<東ローマ帝国 後期(1205-1453)@1205-1261年>
1204年、東ローマ皇帝アレクシオスVアンゲロスの娘婿テオドロス・ラスカリスは、兄のコンスタンティノス・ラスカリスをローマ皇帝に擁立した。だが、コンスタンティノポリス陥落によってわずか1日で兄とともに脱出する。1205年、兄から皇位を譲られたテオドロス・ラスカリスは、小アジアのニカイア(現在のトルコ共和国イズニク)においてローマ皇帝テオドロスTラスカリスとなった。当初はラテン帝国やルーム・セルジューク朝などとの間で苦戦したが、しだいに勢力を強め拡大し、小アジアの西半分を制圧した。
テオドロスTラスカリスの娘婿で第2代皇帝となったヨハネスVドゥーカス・ヴァタツェスは、堅実な内政で国力を充実させ、バルカン半島へと領土を拡大した。第3代皇帝テオドロスUラスカリスが若くして没した後、幼い第4代皇帝ヨハネスWラスカリスの摂政となり、ついで共同皇帝となった大貴族ミカエル・パレオロゴスが帝国を事実上乗っ取ってしまう。
1260年、ミカエル・パレオロゴスの下、ペラゴニアの戦いでエピロス専制侯国、ブルガリア帝国、アカイア公国などからなる反ニカイア連合軍を破る。1261年、守備が手薄になっていたコンスタンティノポリスを奪回した。そしてミカエル・パレオロゴスがローマ皇帝ミカエル[パレオロゴスとして戴冠され、東ローマ帝国を復活させた。なおその際、本来正統な皇帝だったはずのヨハネスWラスカリスは廃位され(1261年)、幽閉される。
| 後期@ 東ローマ皇帝一覧(1205-1261) |
| テオドロスTラスカリスTheodoros I Laskaris(c.1175-1222、ニアカイア帝国第1代在位1205-1222) |
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| ヨハネスVドゥーカス・ヴェタツェスIoanes V Dukas Batatzes(1193-1254 ニアカイア帝国第2代在位1193-1254) |
ヨハネスVドゥーカス・ヴァタツェスはテオドロスTの娘婿、すなわち1222年テオドロスTの長女イレーネー・ラスカリナと結婚した。イレーネーはテオドロスUを出産後、落馬して重傷を負ったためにそれ以上子供をもうけることができなくなる。彼女はエウゲニアと改名して、1239年に修道女として余生を送る。ヨハネスVは神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒUの私生児コンスタンツェと再婚するが、子宝に恵まれなかった。東ローマ帝国の組織のなごりを再編し、傑出した統治能力によって農業の振興や福祉施設の建設などに力を入れた善政を行う。このためニカイア帝国はレバントで最強で最も豊かな国となる。ルーム・セルジューク朝の了解を得て東部前線を防衛し、以前のヨーロッパ側の領土の回復に乗り出す。海域ではエーゲ海においてラテン帝国を脅かし、領土をロードス島まで広げた。陸ではフランス人傭兵を投入して、ラテン帝国軍を敗走させた。 1235年、ブルガリア人とのコンスタンティノポリス攻囲には失敗したが、テッサロニキの諸侯やエピロス専制侯国に対して大権を有していた。最終的にニカイア帝国が東ローマ帝国の失地回復を成した。死後50年たった後、正教会から聖人とされている。 |
| テオドロスUラスカリスTheodoros U(1221-1258、ニアカイア帝国第3代在位1254-58)) |
テオドロスUラスカリスは第2代皇帝ヨハネスVの長男、母のラスカリス家の姓を取った。1254年、父ヨハネスVの死により後を継いで即位する。父や祖父の時代には優勢であったラテン帝国との戦いには劣勢になり、エピロス専制侯国との戦いでも敗戦を重ねた。父の時代にはコンスタンティノポリスを奪回する勢いだったニカイア帝国だが、テオドロスUの治世では現状を維持するに留まる。また皇帝による専制を強化し、貴族の力を除こうと図ったため、少年時代からの友人であるムザロン(後のヨハネスW・ラスカリスの摂政)を補佐役にする。これがかえってミカエル・パレオロゴス(後の皇帝ミカエル[パレオロゴス)ら帝国有力貴族の反感を買い、息子ヨハネスWに災いをもたらした。1258年、38歳の若さで病死する。 |
| ヨハネスWラスカリスIoannes W Laskaris(1250-1305、ニアカイア帝国第4代在位1258-1261) |
1258年に父帝テオドロスUラスカリスの死にともない、ヨハネスWラスカリスはわずか8歳で帝位に就く。だが摂政ミカエル[パレオロゴスに実権を奪われ、彼が共同皇帝となった。ミカエル[パレオロゴスが1261年にコンスタンティノポリス奪回し、ローマ帝国皇帝を宣言した。やがてヨハネスWラスカリスは目を潰されてマルマラ海の城郭に幽閉された。 |
<東ローマ帝国 後期(1205-1453)A1261-1453年>
首都を逃れたビザンツ勢力はトラペツント、エピロス、ニカイアに亡命政権を樹立した。中でもニカイアの政権が最も強かった。半世紀の間に周辺の外敵を破り、ミカエル[によるペラゴニアの戦いの勝利により政権の地位を不動のものとした。同帝はその勢いに乗じて旧首都をラテン王国から奪回し、ローマ帝国最後で最長の王朝、パレオロゴス朝(1261〜1453年)を樹立した。
しかし、バルカンではセルビアに、小アジアではオスマントルコに浸食されてしまう。海上ではイタリア商業都市の艦隊に制海権を奪われ、陸では帝国の周囲をトルコ軍に包囲された。チェルモナの戦い(1370年)でセルビア軍が大敗した後、ビザンツ皇帝は以後オスマン帝国に対して進貢義務を負わされ、帝国の政治的独立は失われた。こうした窮状にあってヨハネスXらはローマ教皇を通じて西欧側からの軍事援助を教会再統一を条件に、すなわちローマ教皇の首位権を認めることを条件に引き出そうと務める。国内における保守派の反対と教皇をはじめとする西欧世界の関心の薄さに阻まれ、なんの実効もあげ得なかった。
かくするうちにコソボの戦い(1389年)、ニコポリスの戦い(1396年)でセルビア、ハンガリーが大敗した。モンゴルのティムール・ハンの小アジア侵入、つづくアンゴラの戦い(1402年)でスルタン・バヤジットが破れ、帝国は一時小康を得るものの、1453年春スルタン・メフメトUが籠城軍の10倍の兵力をもって総攻撃を仕掛けるに及んで帝国の命運は尽きたのである。
1453年5月29日の総攻撃の日、皇帝コンスタンティヌス11世は市内の白兵戦で倒れ、千有余年の命脈を保った帝国はここに終息する。首都はオスマントルコに滅ぼされたが、正教はトルコ支配下にも少数ながらもかろうじて生き続けることになる。今日に至っている。
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| 1265年の東ローマ帝国勢力範囲 |
[正教]
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| 後期A 東ローマ皇帝一覧(1261-1453) |
| ミカエル[パレオロゴスMicael [ Palailogos1225-1282、パレオロゴス朝初代在位1261-1282) | ||
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| アンドロニコスUパレオロゴスAndronikos U Palaiologos(1260-1332、パレオロゴス朝第2代在位1282-1328)(ミカエル\・パレオロゴスパレオロゴス朝第3代在位1294-1320と共同統治) | ||
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| ミカエル\パレオロゴスMikha?l IX Palaiologos(1277-1320、パレオロゴス朝第3代在位1294-1320) | ||
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| アンドロニコスVパレオロゴスAndronikos V Palaiologos(1297-1341、 パレオロゴス朝第4代在位1328-1341) |
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| ヨハネスXパレオロゴスJohannes X Palaiologos(1332-1391、 パレオロゴス朝第5代、在位1341-47/第7代1354-76/ 第9代1379-91)実権喪失と復権 |
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| ヨハネスYカンタクゼノスJohannesY Kantakouzenos(1296-1383、在位1347-1354) | ||
| ヨハネスYカンタクゼノスは、前皇帝アンドロニコスVパレオゴロスの重臣であった。彼は幼少の皇帝ヨハネスXパレオロゴスのために実施された摂政政治と対立し、5年以上の内乱を引き起こす。1347年にカンタクゼノス=ヨハネスYの勝利に終わり、彼は娘ヘレネーをヨハネスXと結婚させて義父となった上で自ら皇帝として戴冠してヨハネスYカンタクゼノスを名乗り実権を握った。しかも、ヨハネスXはテッサロニキの行政職に残され、首都の政局から遠ざけられた。彼の周囲にはなお反カンタクゼノス派の有力者や市民が集まり、次第に対立を深めていく。ヨハネスXは1352年、セルビア王ステファン・ウロシュWドゥシャンと同盟を結んでヨハネスYに宣戦する。だがヨハネスX側はヨハネスYを支援したオスマン君主オルハンに敗北する。ヨハネスXは一旦亡命を余儀なくされるが、その後レスボス島のジェノヴァ人領主ガッティルシオ家の支援で帰国を果たし、1354年末にヨハネスYを隠退させて支配権を回復した。 |
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| アンドロニコスWパレオロゴスAndronicos W Palaiologos(1348-85、 パレオロゴス朝第8代、在位1376-79) |
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| ヨハネスZパレオロゴスJohannes Z Palaiologos(1370-1508、 パレオロゴス朝第10代、在位1390年4月-9月17日) |
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| マヌエルUパレオロゴスManouel U Palaiologos(1350-1425、パレオロゴス朝第11代、在位1391-1425) | ||
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この時1402年、ティムール(1370-1405)が小アジアへ侵攻し、迎え撃ったオスマン帝国バヤズィトTが7月のアンカラの戦いで敗れて捕虜になった。その報を滞在先のパリで受けたマヌエルUは帝都に帰ると、オスマン帝国のスルタン位争奪戦に介入し、自らが推したメフメトTをスルタンにすることに成功した。このためメフメトTとの間には友好関係が保たれ、オスマン帝国からの圧迫に小休止がもたらされた。しかし、1421年にメフメト1世が死去してムラトUが後を継ぐと、宮廷内では長男ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭してきた。このため、マヌエルはヨハネスを共同皇帝にして実権を譲り、事実上引退した。ヨハネス[は東ローマ帝国内に拘留されていたバヤズィトTの息子と称するムスタファを対立スルタンとして擁立したが、翌1422年にムスタファはムスタファはムラトUによって打ち破られ処刑された。ムラトUはコンスタンティノポリスまで攻め寄せ、帝都はオスマンの大軍に包囲された。このため、引退していたマヌエルUが復帰し、外交でオスマン軍を撤退させることに成功し、講和条約を結ぶ。その条約では東ローマ帝国はオスマン帝国スルタンに対して臣下の礼をとることを誓約させられた。1425年7月、マヌエルは修道士マタイオスとして74歳で死去した。マヌエルの死から僅か28年後の1453年、帝国は最期の時を迎えた。 マヌエルUはすぐれた文人であり、後にパレオロゴス朝ルネサンスと呼ばれるビザンティン文化最後の黄金時代を代表する人物の一人となった。帝国の維持に奔走しながらも神学、修辞学、詩学の著作を執筆し、書簡集も遺した。政治面で治績を残す機会には恵まれなかったが、粘り強い交渉者であった。 |
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| ヨハネス[パレオロゴスJohannes[ Palaiologos(1392-1448、パレオロゴス朝第12代、在位1425-48) | ||
ヨハネス[パレオロゴスはマヌエルUの長子、若年から父や弟テオドロスUを助け、帝国辺境領のペロポネソス半島におけるアカイア公国との戦いで大きな功績を挙げた。東ローマ帝国に好意的なオスマン朝メフィトTが1421年死去し、ムラトUが即位した時、東ローマ宮廷内では2つの外交政策が論じられた。それは現状の維持かヨハネス[がミストラスに拘留していたメフメトTの兄弟(偽)ムススタファを擁立し、彼がヨーロッパ側そしてムラトがアジア側の君主となるようオスマン帝国の二分割政策であった。だがヨハネスと重臣達の強硬策は完全な失敗だった。ムスタファはヨーロッパの君主となった途端にあっけなく約束を破棄した。ムスタファがムラトに打ち破られ、ムラトはこの競合者を処刑した後、その矛先を不実なコンスタンティノポリスに向けた。1422年7月、ムラトは大軍でコンスタンティノポリスを包囲する。しかし帝都は城壁に守られ、その間に復帰したマヌエルUの巧みな外交政策で小アジアの反乱を誘発しムラトに兵を退かせる事に成功する。しかし更に困難は続いた。翌1423年には帝国の2つの地方領土、テッサロニキとモレアス専制公領がオスマン軍の侵攻を受け、テッサロニキは帝国から失われた(1430年後オスマン領に)。1424年に和平が成立しても重い代償と引き替えであった。 1425年父マヌエルUの死後、単独統治を開始したヨハネス[は当初は自らの失敗を考慮して慎重に内政の充実に努めた。モレアス専制公領に有能な弟コンスタンティノスを派遣し、領内の整備とアカイア公国勢力の一掃に成功する。だがヨハネス[は決して十字軍結成の構想を捨てた訳ではなかった。バーゼル公会議(1431年)に使節を派遣して下交渉を続けていたヨハネス[は、自ら代表団を結成・引率して次のフェラーラ・フィレンツェ公会議(1438-1439年)に参加した。この会議には皇帝ヨハネス[の他、コンスタンディヌーポリ総主教ヨセフU、皇弟ディミトリオス専制公、高名な学者であったゲオルギオス・ゲミストス・プリソン、ゲオルギオス・スコラリオス、後にカトリック枢機卿となったヨハンネス・ベッサリオンらが出席した。会議では教義、典礼や教会慣行上の諸問題が扱われ、最後に十字軍の約束を交わして東西教会の統合が短期間ながらも成立する。公会議のため3年間もの不在の後の帰国(1440年2月)で待っていたのは非難のみであった。代表団に加わった府主教マルコス・エウゲニコスは決議への署名自体を拒否して帰国し、署名には同意したスコラリオスも帰国後すぐにこれを撤回し、多くの者がこれに倣った。更には同行していた皇子ディミトリオスは会議の途上ヴェネツィアに引き揚げていたが、帰国後間もなく、首都に於ける反対派の支持を背景に、東西キリスト教徒の同盟に懸念を抱くムラトUの軍事的支援も取りつけてコンスタンティノポリスを包囲したのであった(1442年)。 合同の成果とされた十字軍の遠征も散々たる結果に終わった。ローマ教皇エウゲニウスWの指令下、ハンガリー・ポーランド王ウラースローTを中心にブルガリアのヴァルナに派遣された十字軍は内部の不統一を衝かれてムラトUに撃破された。ハンガリー王や枢機卿チェザリーニ自身が戦死した。十字軍と連携したコンスタンティノス専制公のギリシャ遠征も打ち破られてペロポネソス半島は大きな被害を受けた(1446年)。さらに1448年、新たに結成された十字軍もコソヴォで打ち破られ、コンスタンティノポリス救援の為の軍事的政策は無くなってしまった。ヨハネス[は3度の結婚によっても子を得られず、後継者は4人の弟の中から選ばれる事になった。ヨハネスはマヌエル帝の四男にあたるコンスタンティノスを後継者と考えていたが、これに次男テオドロスUと五男ディミトリオスが反発し、それぞれ軍事力行使も辞さない構えであった。ヨハネスは苦心の末テオドロスを帝位継承者に据えたが、彼は1448年6月、ヨハネス[に先立って死去した。ヨハネス[自身も見通しを得ることなく1448年10月31日死去した。 |
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| コンスタンティノスXIパレオロゴス・ドラガセスKonstantinos XI Palaiologos Dragases(1405-53、 パレオロゴス朝第13代、在位1449-53) |
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2005-2011
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