制作者:国本静三

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チャイコフスキーの生涯


チャイコフスキーTchaikovskyロシア(1840-93)


<幼年時代> 

 1840年4月25日、ピョートル(チャイコフスキーのファーストネーム)は、ヴォトキンスク(現在はウドムルト自治共和国)でチャイコフスキー家の次男として生まれた。ヴォトキンスキの町は、モスクワから東へ約700キロ離れ、ウラル山脈の西側に沿ってカマ川が流れるかなりの僻地であった。ヴォトキンスクはカマ川沿いに多くあった製鉄場を統轄する町として1759年に建設された鉱山の町であった。
 チャイコフスキー家はもともと貧しいコサックの出で、医師であった祖父ピョートルが長年の努力と研鑽の結果、貴族に叙せられた家系である。我らのピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの父イリヤー(1795-1880)は、この地方の製鉄場の監督官、さらに住民のもめ事まで裁判する権利を与えられていた。彼はフルートをたしなみ、文化的な家庭を築いていた。 

 ピョートルは父44歳と母27歳の子として生まれた。母アレクサンドリア(1813-54)は父にとって2度目の妻であった。1827年に1番目の妻マリアと結婚して最初の娘、長女ジナイダ(1829-78)を残して、1831年に死去した。1833年にイリヤーより18歳年下のアレクサンドリアと再婚したのである。彼女の家系はフランスの侯爵の末裔で、本来はプロテスタントの一派ユグノー教徒であった。というのはアンリ4世によるユグノーに信仰の自由を認めた“ナントの勅令(1598)”が1685年にルイ14世によって廃止された。それを多くのユグノー教徒が国外に逃れて亡命したが、彼女の先祖もロシアに逃れて移住して来た家系であった。彼女は3、4歳の時母親に死なれ、孤児院で育った。豊かな教養とやさしさをもち、音楽についても歌やピアノの素養を身につけていた。だが神経質で、親ゆずりのてんかん症の持病があったとされる。

鉱山技師であった父イリヤーは、1837年の42歳の時にヴォトキンスクに鉱山長(官位は陸軍中佐であった)9歳になる先妻の娘ジナイダと妻をつれて移った。その後ヴォトキンスクで生まれてすぐ死んだ女子カテリーナのあと長男ニコライ(1838-1910)ピョートル(1840-93)妹のアレクサンドラ(1842-91)三男イッポリート(1843-1927)と続いて4人が生まれる。このたいへん幸せな家にはこの親子だけでなく、何人かの親戚の人たちや使用人たちが住んでいたというかなりの大所帯であった。父イリヤーの兄の娘で、母を失ったばかりの従姉リディア(1830-92)をひきとっていたし、孤児となっていた姉の娘アナスターシャもそうした家族の一員であった。アナスターシャはアレクサンドラをたいへんよく家事において助けた。

 1844年母アレクサンドリアは6歳の長男ニコライと従姉リディアのために、ペテルブルグで家庭教師として若いフランス人の娘ファンニ・デュルバッハ(1822-95)を見つけて来て、この僻地に住む家族に加わった。彼女は豊かな教養とやさしく厳しい教育態度は、子供たちにもこの家族にもよく溶け込んだ。彼女は我々にピョートル・イリイチ・チャイコフスキーの幼年時代(4歳から8歳までの4年間)の貴重なデータを伝えてくれた人でもある。その後も彼女はチャイコフスキーと文通を続けた。

 家庭教師ファンニが来た時、ピョートルは4歳半だった。先ずはニコライとリディアを教えるための先生であったが、最初の日からピョートルも一緒に学びたいとせがみ母を困らせ、すぐに母は承諾するのである。幼少のピョートルはすべて同じように勉強することを望み、6歳でフランス語とドイツ語を完全に読むことができた。はるかにニコライとリディアの方が優等生であったのに、ピョートルはなぜかこの家庭教師の心を捉えた。彼女は彼の感受性や個性を、気に入った。遊びにも勉強にも個性を発揮する子供であった。彼女はピョートルの音楽的な才能に関しては無関心で、彼の文学的才能には一目おいている。“この家の小プーシキン”と彼のことをいった。また傷つきやすい性質を見抜いて“ガラスのような子供”ともいった。彼女は偉人や芸術家の伝記物語をかみ砕いて巧みに話した。ピョートルのお気に入りの物語は、ジャンヌ・ダルクだったという。

 ピョートルは5歳の頃には、ピアノをいじり始めた。家にあった当時の自動演奏装置オルケストリオンの奏でるモーツァルトロッシーニベッリーニドニゼッティの音楽に熱中し、その旋律をすぐピアノで弾いた。父親の催す音楽の集いがあった夜などは、感の強いピョートルは泣き叫んで寝つかなかったという。母と家庭教師は戸惑いつつ、ついにピアノの先生として農奴出身のマリア・マルコヴァナ・パリチコヴァが招かれることになった。しかし、この師弟関係は1年足らずで終る。さらに家庭教師ファンニとも別れなければならなくなった。8歳のピョートルには生まれ故郷と大好きな先生との別れはたいへんな悲しみを与えた。それは1848年に父イリヤーはヴォトキンスクの地位を失い、チャイコフスキー一家はペテルブルグに移っていったからだ。ペテルブルグは母の生まれ故郷で、父が教育を受け成人した所で親戚も多かった。この年の12月初め、ニコライとピョートルは麻疹にかかり、ピョートルの方が重症になりひどい精神障害も起こるほどであったという。当時の首都であったペテルブルグは、何もかも違った。ピョートルはここでフィリポフという有能なピアノの先生につき、めざましい進歩を見せ始めた。しかし、ピョートルは兄のニコライと共に寄宿学校に入学したが、その雰囲気に合わず、体まで衰弱してしまった。医者は、田舎への転地を勧める。父は未だ職を得ていない時だった。

 こうした時期に偶然にも1849年初めに、父はヤコヴレフ家の遺産相続人所有のアラパエフスク工場の管理人の職にやっとありついた。半年あまりのペテルブルグでの都会生活生活から解放されると、再びチャイコフスキー家に活気が戻ってきた。父は職を得、本来田舎育ちの子供たちにはより好ましい地であった。兄ニコライは鉱山学校入学準備のためにグロズドフ寄宿舎学校へ入れられ、他は再びウラルへ。アラパエフスクはヴォトキンスクより300キロもウラル山脈に入った田舎であった。両親はピョートルの将来を考えて教育大学を卒業したばかりのアナスターシヤ・ペトローヴァを、1849年の暮れに家庭教師にした。法律学校に入るためであった。
 1850年5月1日、双子の弟アナトーリイ(1850-1915)モデスト(1850-1916)が生まれた。2人ははピョートルの最も重要な兄弟となる。


<ペテルブルグの法律学校(10歳〜19歳)>

 1850年8月下旬、ピョートルの法律学校入学に当たって、ペテルブルグへなんと母、先妻の娘である姉ジナイダ、妹のアレクサンドラが伴って行った。5月に生まれたばかりの双子の2人の弟は残してである! 到着の直後8月22日に母は子供たちを連れてアレクサンドリン劇場へ連れて行き、グリンカのオペラ「皇帝に捧げた命」を見せた。驚くべきことにピョートルを法律学校の予備校である寄宿舎学校に入れたが、毎週の休日には可愛い10歳のピョートルと過ごすために9月末まで彼らはペテルブルグに滞在したのである。1851年5月に法律学校の本科への進学試験に無事受かり、法律学校7年生になった。この月に家族は、妹アレクサンドラと弟イッポリートの教育のことを考えアラパエフスクペから3年足らずでテルブルグに引き上げてきたので、ピョートルはまた家族と一緒に生活ができた。

 1854年初めに長女ジナイダが結婚し、6月13日、母アレクサンドリアが死ぬ。母は突然にコレラにかかり、一時危険な状態から3、4日脱したかと見えたがすぐに死んだ。ピョートル14歳の時の母との突然の別れは、激しい衝撃を与えた。葬儀の日に父もコレラにかかり危ない状態になる。幸運にも1週間で快復する。ピョートルのこうしたショックは、チャイコフスキー音楽の基調となっている哀愁感を生むことになったのかもしれない。この年の秋には妹のアレクサンドリアが女子専門学校、弟イッポリートは海軍幼年学校、兄ニコライは鉱山学校に入り、家には父と幼い双子の弟だけが残った。暮れに父イリヤーは、モスクワにいた兄ピョートル・ペトロヴィチ一家をペテルブルグへ呼び寄せて一緒に暮らすことになった。休日には2家族の子供たちも寄宿舎学校から帰ってきてにぎやかな家族団らんとなった。これは1857年まで続く。

 さて、ピョートルの法律学校は超エリート学校で、1835年に貴族階級出身の法律家を養成するためにつくられたものであった。といっても中流以下の貴族家庭の子弟のためで、大貴族の子弟はリセや幼年学校へ入った。ピョートルは在学中にドイツ人のピアニスト、キュンディンゲル(1832-1913)にピアノを習っている。彼の兄がヴァイオリニスト、作曲家でもあったので一時音楽理論を習った。学校内ではミサのための合唱団があって、有名な指揮者ロマーキン(1812-85)が指導に来ていた。ピョートルも参加し、ソロを歌ったり、代理で指揮をしたりもしている。そして当時のロシアの首都であったペテルブルグには3つの大劇場があり、しょっちゅうイタリア・オペラ団が来てロッシーニ、ベッリーニ、ヴェルディ、モーツァルト(特に1856年に観た「ドン・ジョヴァンニ」は深い感銘を与えた)、マイヤベーアなどのオペラを見ることができた。こうした環境の中で彼の音楽への本格的な情熱は、熟成されていった。

 現代の研究で明らかにされていることであるが、チャイコフスキーはホモセクシャルであった。これを前提にしないと捉えられない点が、彼には多々ある。しかし、ホモセクシャル関係がこの法律学校時代にあったかどうかは確証がない。しかし、学校内の彼の周りに明らかな同性愛者がいたことは事実である。ピョートルより1年遅れて入学してきたアレクセイ・アプーフティン(1840-93)は、すぐ飛び級して6年生の同じクラスになった。 天才的な詩人型の少年で、小柄でやせたブロンドの髪をした病弱な少年であった。彼は後に肥満になり、ロシア貴族社会の典型的な怠け者になり、徹底した衆知の同性愛者となる。ピョートルは後々まで彼のそうした仲間たちと交遊していく。もうひとりはヴラディミル・メシチェルスキー公爵(1839-1914)。ピョートルより2学年上で、あからさまなスキャンダルを引き起こした有名人である。弟モデストはこの人物に触れることを避けているが、ピョートルの手紙には好ましい人間としてよく登場している。

 ピョートルよりずっと年下のセルゲイ・キレーエフ(1865年に卒業した)は、上級生と初級生の交際は禁じられていたのにピョートルは交友した人物である。ずっと後年になっても家の仕事机の前にその写真が貼ってあった。その他に卒業写真に2人で手を組んでいる若者がいる。彼が誰であるか今のところまだ不明である。法律学校時代の友人関係はまだまだ明らかでない。


<法務省時代(19歳〜23歳)> 

 1859年5月13日、ピョートルは19歳で法律学校を立派な成績で卒業した。卒業と同時に9等官の官位を当てられ、本人の希望で6月3日法務省第一部(管理部)に配属された。これは今でいうキャリア組で、1860年には課長上級補佐になり、最終的に1867年には官位は7等官、陸軍中佐に相当する地位になる。しかし、彼にとってこうした仕事自体は興味あるものではなかった。その分遊びの方に熱心でもあった。先にあげたアプーティンなどとの交際を通してホモセクシャルのグループとのつきあいが多かった。中でもアレクセイ・ヴァシエヴィチ・ゴリツィン公爵(1832-1901)と知り合ったことは、この公爵が教養の高い文化人でもあり生涯にわたって影響をもつ人物となった。親族以外に深く女性と接触のないピョートルは、興味はなくても女性たちにも近づいてはいる。見栄かその本心は計り知れないが、妹アレクサンドラに出会った娘たちに対するイロニカルなコメントを書き送ってはいる。どちらにしても彼にとっては結婚はまだまだ差し迫った問題ではなかった。

 妹アレクサンドラは、1860年レフ・ヴァシーリエヴイチ・ダヴィドフ(1837-96)に嫁いだので、10歳の双子の弟たちは誰も世話をしてくれる者がいなかった。ピョートルが夜帰って来て彼らと遊んでやった。この頃から3人はたいへん親しくなっていく。1861年の夏休みにピョートルの最初の外国旅行(6月末から3ヶ月間)を父の友人の通訳という名目で、ドイツ、ベルギー、ロンドン、パリを訪れた。8月24日、モデストとアナトーリイはピョートルにならって法律学校予備クラスに合格した。この頃すでにピョートルは無気力な貴族の若者の典型に近づいている。浪費家で借金に苦しんでもいる。だが、同時に音楽家としての芽生えも始まっていた。妹アレクサンドラへ手紙(1861年12月4日)“音楽理論を習い始め、とてもうまくいっていることについては、もう書いたように思います。僕のかなりの才能(自慢だと思わないで下さい)を考えれば、この分野で幸運を求めないのは得策でないと思うでしょう? 僕が恐れているのは個性の無さだけです。おそらく怠け癖が例の働きをして、僕も勝てないかも知れません。 ” 森田 稔「チャイコフスキイ」新潮文庫p.51-54より
 この頃、年齢的に3倍年上のイタリアの音楽家ルイージ・ピッチョーリ(1812-68)との友情は、ピョートルの音楽的発達に影響を与えた。声楽やイタリア語を学ぶことができた。


<ペテルブルグ音楽院時代(22歳〜25歳)> 

 当時、ロシアではまだ職業音楽家の確立がなかった。そうした情況の中でピアニスト・作曲家、ユダヤ-ロシア人、アントン・グリゴーリエヴィチ・ルビンシテイン(1829-94)の存在は異例であり、ロシアの音楽界にとって多大な貢献した。ピョートルにも直接間接大きな影響をもたらしたのはいうまでもない。この存在なくしてはチャイコフスキーはなかったといえる。1858年の夏、A.ルビンシテインは4年にわたる2度目ヨーロッパ大演奏旅行から凱旋してきた。彼はロシアで大きな評価を得て、大公妃エレーナのお抱え音楽家となった。その立場を利用して先ずロシア音楽協会を設立し、演奏活動の組織化と音楽教室を作ってプロ音楽家の養成に着手した。この音楽教室から1862年9月8日に昇格したペテルブルグ音楽院は、ロシア初の音楽院となった。ピョートルは音楽教室時代に聴講生としてザレンバの音楽理論のクラスに入っていた。

 ついにピョートルは1962年8月22日に音楽院に入学願書を提出して第1期生になった。アレクサンドラへの手紙(1862年9月10日)“僕は新しく開かれた音楽院に入学しました。そこでの授業もまもなく始まります。お前も知っているように、去年は音楽理論を物凄く勉強しました。そして今では、僕が遅かれ早かれ音楽に仕事を変えることを、はっきりと確信しています。僕が大芸術家になるつもりなどとは考えないで下さい。” 森田稔「チャイコフスキイ」新潮文庫p54より
 音楽院でのピョートルの同級生は179人で、様々な経歴を持っていた。税関の官吏、予審判事補佐、技術士官、近衛連隊の中尉、そしてグルジア人やイギリス人も含まれていた。因みにピョートルはこの時法務省課長であった。理論クラスの同級生に、生涯の友、モスクワ音楽院の同僚、彼の作品の支持者になるゲルマン・ラロシ(1845-1904)がいた。

 ピョートルはピアノにおいて優れていて、3ヶ月もしないうちに必修のピアノのクラスを免除されている。そして音楽院のあらゆる科目に勤勉で、並外れた優秀さを示した。音楽院に入って3年して音楽以外に自分の道はないと確信したようだ。1864年の夏、作曲家の学生に課題が出された。彼はオストロスキーの「雷雨」を標題にし、その序曲を書いた。彼は大チューバ、イングリッシュ・ホルン、ハープ、分奏によるヴァイオリンのトレモロ、大太鼓とシンバルといった当時としては異端的な管弦楽法を用いた。だが、師A・ルビンシテインの不興をを買うことになる。この師はシューベルト、シューマン、メンデルスゾーンといった時代に育っていたので、このような新しい動き、すなわちマイヤベーア、ベルリオーズ、リスト、ヴァーグナーといった管弦楽法には否定的であった。さらに当時ロシアで台頭していた国民楽派、すなわち5人組[バラキレフを代表とするボロディン、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ]とこの師A.ルビンシテインの率いる音楽院派は激しく対立していたのである。

 このような対立はこの時代のロシア文化にありとあらゆる所で現れた。政治的対立というより観念主義と現実主義の対立といえる。これは西欧のロマン派のドイツ・ロマン派と新ロマン派の対立にも似ている。さらにピョートルが序曲の題材として用いた「雷雨」(1860年)は、ロシアの進歩的な階層に支持された戯曲であった。そうしたピョートルの態度にも師は反感を覚えた。様々な攻撃にされているA.ルビンシテインは、自分に対する反逆と考えてしまったのである。1865年末、ピョートルは音楽院を優秀な成績で卒業する。卒業作品は「歓喜に寄せて」で、5人組のキュイから激しい酷評を受けた。師の6歳年下の実弟ニコライ・グリゴーリエヴィチ・ルビンシテイン(1835-81)との出会いが、活躍の場をモスクワへ移すことになる。


<モスクワ時代(26歳〜38歳)>

 1866年1月6日朝にモスクワに着いた。N.ルビンシテインは、ピョートル・チャイコフスキーの給与が安いことを心配して自分の家に住むようにした。彼はモスクワ音楽院の創設者で、1858年に3年間の結婚生活を破綻させていた。だが、彼の家での寄宿生活は当然ながらピョートルには負担に感じられた。弟たちに“乳母のように世話を焼きたがる”とこぼしている。しかし、N.ルビンシテインは音楽的なことについても面倒を見たし、ペテルブルグの5人組とも交流があったのでチャイコフスキーにもその利益をもたらした。こうして恵まれた環境の中でモスクワ時代の当初からチャイコフスキーは作曲に没頭できた。12年間のモスクワ音楽院での担当は、基礎理論、和声学、管弦楽法(作曲も含む)で、1866年には「交響曲第1番ト短調“冬の白日夢”Op.13」を完成させ、1868年に大成功のうちに初演ができた(第2版1874年)

 1867年9月、ペテルブルグのA.ルビンシテインはロシア音楽協会とペテルブルグ音楽院のすべての仕事から手を引いた。ロシア音楽協会の音楽監督にはバラキレフ、音楽院の作曲家教授にはリムスキ=コルサコフがつき、これによって音楽院派対国民楽派の対立は解消されていった。これによってモスクワのチャイコフスキーとも結びつきが密になっていく。こうして1868年にはチャイコフスキーは5人組と知り合い、相互の理解を深めつながりができていく。1867年の暮れにペテルブルグを訪れていたベルリオーズがモスクワにも来演した(12月27日)。標題音楽への影響を受ける。

 次はオペラ「地方長官Op.3」。1867年3月から68年の夏にかけて完成した。初演は1869年1月30日ボリショイ劇場で行われ、大成功であった。ロシア農民の場面ではロシア民謡を引用している。またモスクワで知り合った重要人物の一人が、出版企業家ユルゲンソン(1836-1904)であった。彼の出版の要求に応えて音楽院で使う理論書の執筆や西欧の理論書の翻訳、民族主義的な作品にも手がけていく。彼はチィコフスキーの将来を見抜いて出版を積極的に系統的に行った。またチャイコフスキーの手稿や手紙(チャイコフスキーとユルゲンソンの往復書簡250通ほどある)も収集保存して、膨大な資料を我々に残してくれた。またバラキレフとの交友を通して標題音楽「幻想序曲“ロメオとジュリエット”」(1868年 第2版1870年、第3版1880年)などを作曲している。民謡の引用で有名な「弦楽四重奏曲第1番ニ長調“アンダンテ・カンタービレ”Op.11」(1871年)も作曲した。

 1871年8月末にN.ルビンシテインの家を出て、アパートに住むことにした。これによって彼のホモセクシャル生活の謳歌が始まる。安い狭いアパートであったが、田舎の青年を召使いに雇い入れた。この青年は昼食を作った。音楽院の週27回の授業で2700ルーブルの年棒を得ていたし、経済的にもかなり楽になっていた。この青年はチャイコフスキーの生涯通して共にいたアレクセイ・ソフローノフの兄ミハイルで、チャイコフスキーより8歳ほど若い。弟のアレクセイは11歳若く、この頃12、3歳であった。兄弟はクリン地方の農民で、1876年まで兄弟で一緒にチャイコフスキーの世話になっている。その後ずっと弟が1人で仕え、チャイコフスキーの死後すべての動産をこの召使いに遺産として与えた。同性愛の相手の1人と考えられている。

 こうした時期にチャイコフスキーに大きな事件がいくつか起こってくる。しかし、これらのごたごた事によって創作活動がより活発になるという不思議が、この作曲家にある。名作ピアノ協奏曲第1番ロ短調Op.23(1874-75年作曲、ボストン初演1875年)は、紆余曲折あったが結果的には大成功をおさめる。彼の作品は常に彼の私生活との関連が大きい。この協奏曲の感性豊かな表現は強い愛の想い出であった。最愛の恋人の一人、エドワルド・ザークは、1873年、19歳の若さで自殺してしまう。ザークは音楽院の学生で教え子だった(?)ともいわれているが、彼については未だに一体どういう人物か不明で、ずっと後の1887年9月5日の日記は彼に対する強い愛を示している。“彼の死、つまり完全な消滅は僕には理解できない。彼ほど強く僕が愛したものはほかにはいなかったように思う。神様! あの時皆が僕に何と言ったとしても、そして僕がどんな自分を慰めても、彼に対する僕の罪は深い! それにしても僕は彼を愛していた、いや、愛していたのではない、今でも愛している。” 森田稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.119より



☆奇妙な女性問題

 デジレ・アルトー(1835-1907)チャイコフスキーより5つ年上の優秀なオペラ歌手。彼女の声にチャイコフスキーはすっかり魅せられた。ピアノ曲「ロマンス ヘ短調op.5」(1868年)が捧げられた。チャイコフスキーは父への手紙(1868年12月26日)で、“私たちは二人共結婚を強く望んでいますし、障害が生じないかぎり、夏には結婚する予定です。”森田稔「チャイコフスキイ」新潮文庫p131より)と書いている。こうして2人は事実上婚約までした。しかし、N.ルビンシテインや友人、彼女の母までが猛反対する。その反対理由は、彼女が有名歌手で家庭生活には不向き(髪結い亭主のようになると心配)、作曲活動にも支障をきたす、というものであった。結局、彼女の方から身を引くことになる。当然の事ながら彼には何の衝撃も与えなかった。 

 ナデージダ・フィラレートヴナ・フォン・メックMeck(1831-94)貧乏地主の娘に生まれ、鉄道技師でロシア最初の鉄道建設者・経営者カルル・メック(1819-76)の夫人。5男6女の子供を持つ未亡人で、無類の音楽好き。チャイコフスキーの作品のとりことなる。そして彼のスポンサーになることを思いつき(6000ルーブルの年金を申し出た)、1876年、ヴァイオリンとピアノのための作品を、かって音楽院での和声理論の教え子ヴァイオリニスト、コテック(チャイコフスキー愛人の1人と思われている)を介して依頼してきた。当時1876年12月18日、手紙と多額なお礼が送られてきた(当時彼女は45歳、チャイコフスキー36歳)。これ以後文通が14年も続く。チャイコフスキーの手紙760通、メック夫人の手紙451通が残っている。2人はついに1度も会うことなく文通だけの奇妙な交際が続く。1890年9月末に突然に財政的困難を理由に援助を一方的にうち切ってきた。しかし、それは全くの嘘で、これを知ったチャイコフスキーは激怒する。後にドビュッシーDebussyフランス(1862-1918)をお抱え音楽家にしている。ともあれチャイコフスキーは彼女の援助で音楽院をやめ、作曲に専念できたのである。別にも借金の肩代わりや、外国生活のための費用なども度々受けた。

 アントニーナ・イヴァーノヴァ・ミリューコヴァ(1849-1917)チャイコフスキーの2ヶ月半の妻。1877年初夏、突然に1通の熱烈な求愛の手紙を彼に送った。彼女28歳、チャイコフスキー37歳で、彼の断りの返信以後文通が始まり、1877年7月6日聖ゲオルギー教会で式をあげてしまう。司式は音楽院でロシア聖歌史を教えていたラズモフスキー、結婚の証人は弟のアナトリーとヴァイオリニストのコテック(メック夫人からの最初の作曲依頼を仲介した。彼の愛人だったともいわれている)。新夫妻はその日のうちに父親に会うためにペテルブルグに。14日にはモスクワに帰ってきた。26日にはメック夫人に借りた1000ルーブルをもって、彼1人で妹の住むカーメンカへ。そして9月11日にモスクワに戻ってくる。9月の中頃、モスクワ川に入って自殺(?)を試みるが未遂に終わる。9月23日ペテルブルグへ逃れた。

 ユルゲンソンの仲立ちで離婚成立の努力をたが果たせず、死ぬまで籍は抜けないまま。彼女には生涯仕送りを続けた。彼女は他の男と3人の私生児を生んで孤児院に入れている。1896年には精神病院に入れられたりしたが、自らはチャイコフスキー姓を名乗ることはなかった。

 この結婚のいきさつは両者時を隔てて回想しているが、食い違いがある。それはチャイコフスキーの死後「ペテルブルグ新聞」(1894年4月3日)と「ロシア音楽新聞」(1913年42号)に彼と彼女は姻戚関係で子供の時からの知り合いだといい、その後彼女自身もモスクワ音楽院に入学して学び、4年以上密かに愛し続けていたという。彼も思いを寄せていたが内気でうち明けられなかった、と。さらに6月に彼が彼女の所を訪れて、“私は一度も女性を愛したことがないし、熱烈な愛情を持つには年を取りすぎていると思うし、そのような愛情は誰にも持たないと思う。しかし、あなたは私の気に入った最初の女性だ。もしあなたが静かで平穏な愛で満足するのなら、あなたに結婚の申し込みする”森田稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.190より)といって、すぐ話がまとまったという。それは6月でそして忘れられない劇的なキスを交わしたとも書いている。

 チャイコフスキーは、メック夫人への手紙(1877年7月3日)“ここで、私は未来の妻について少しお話しします。名前はアントニーナ・イヴァーノヴナ・ミリュコーヴァといいます。年は二十八歳です。かなり美人です。評判も悪くありません。とても感じのいい母親がいますが、仕事をしながら一人で独立して生活をしてきました。とても貧乏で教育も中級以上ではありません(エリザベート専門学校で教育を受けています)。見たところ、とても善良で、逆らい難く魅了させる力があります。” 森田稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.211より

 メック夫人への手紙(1877年7月28日)“第一に、私に心から心酔している娘ですからきっとすぐに好きになれるであろうと思われたし、第二に、私の結婚が私の年老いた父や、その他の近親者の待ち望んだ願いを叶える事であることを知っていたからです。しかし、式が終わるとすぐ、そして、妻と二人だけになったことに気づくとすぐ、今やわれわれは互いに別れることなく生活する運命にあるのだということを意識して、彼女が私に単なる友人としての感情もおこさせないばかりか、言葉の最大の程度において、私にとって憎悪すべきものであることに、私は突然気づいたのです。私が、あるいは、少なくとも私の唯一とさえいえるよい部分、つまり、音楽性が、永遠に死滅してしまったように私には思えたのです。” 森田稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.214-215より



 さて話を元に戻す。結婚問題などの事件の間、バレー「白鳥の湖0p.20(1875-76年作曲)オペラ「エヴゲニー・オネーギンOp.24(1877-78年作曲)があたためられていく。1877年の結婚の破綻に続いて1878年秋、モスクワ音楽院を辞めることになる。メック夫人からの年金6000ルーブルは、音楽院から受ける年棒の2倍にもなる額であったし、さらにロシア音楽協会からも年金をこの頃もらえた。作曲の収入も増え、経済的安定もすでにあった。


<晩年と死>

 1880年の秋、チャィコフスキーはカーメンカで、序曲「1812年Op.49」(1881年予定の工業技術博覧会の音楽部門の責任者に任命されたN.ルビンシテインの注文)と同時に「弦楽セレナードOp.48」を作曲した。前者は1881年3月1日に皇帝アレクサンドル2世が暗殺され、博覧会が1年延期になり、初演は1882年8月8日になる。またその間にN.ルビンシテインが、パリで客死した(1882年3月11日)。初演の指揮者はアリターニであった。後者は1881年10月18日にナプラーヴニクによってペテルブルグで初演。そしてN.ルビンシテインのために「ピアノ三重奏曲“偉大な芸術家の思い出”Op.50」(1882年)を捧げた。

 召使いのアレクセーイ・ソフローノフが1880年から1884年まで兵役に取られ、1人暮らしに耐えなければならなかった。人目をはばからず彼の兵役免除のため遁走するが、叶わなかった。彼の兵役を終了を期に定住していなかったチャイコフスキーは、1885年2月14日にモスクワ郊外約80キロのマイダノヴォ村に年1000ルーブル別荘を借りて、1885年2月〜1888年4月まで住居とした。そしてここから彼の重要な活躍の場であるモスクワとペテルブルグに出向くという生活が展開される。

 マイダノヴォでの生活は、朝7時から8時に起床、朝のお茶の後しばらく英語の勉強、あるいは読書。その後30分程散歩。9時半から1時まで作曲。1時丁度昼食。昼食後はどんな天気であっても1人で散歩。これは1日2時間歩くことは健康に不可欠と本で読み、厳格に守った。4時にはお茶、新聞を見たり、来客の相手をする。5時から7時まで作曲。夏には夕食前に友人などと散歩。秋や冬にはピアノを弾いた。夕食後11時までヴィントのゲームや読書、あるいは手紙を書いた。この生活リズムは厳格に死ぬまで守られる。
 バラキレフから提案されていたバイロンの“マンフレード”による標題交響曲「交響曲“マンフレード”Op.58」を1885年4月から着手し、5月13日に完成した。モスクワでは音楽協会の理事、モスクワ音楽院の試験官、ペテルブルグでも室内楽協会会員に選ばれたりと仕事が多い。

 1886年、3月23日にアレクセーイ・ソフローノフを連れて弟イッポリートがいるタガンログへ行った。続いて弟アナトーリイがいるグルジアのの首都ティフリス(現トビリシ)へ行った。ここで44歳の誕生日を迎え、昼食会に大勢客も集まったし、その夜はオペラ劇場で彼のオペラ「マゼッパ」も上演され、上機嫌だった。1ヶ月のティフリス滞在だったが、イヴァン・ヴェリノーフスキーという若い士官との交遊があった。おまけに弟アナトーリイの妻とこの士官をめぐって3角関係が生じる。チャイコフスキーの日記の断片から伺うと(1886年4月14日)“再びイ[イヴァン・ヴェリノーフスキイ]の方から大げさな愛情の示威行為”森田稔「新チャイコフスキー」NHK出版よりp.270)、(4月22日)“バルコニーで午餐。ヴェリノーフスキイ。彼に僕の服を着せた”)、(4月26日)“朝食後、ヴェリノーフスキイのことでパーニャと口論”)というような記述がある。このパーニャは弟の妻。チャイコフスキーとアレクセーイがティフリスを出発した後、ヴェリノーフスキーはピストル自殺する。

 チャイコフスキーは、ティフリスから黒海沿岸の町バトゥーミに出て船に乗り、黒海南岸のトルコを海岸沿いに旅をして、地中海からマルセーユに上陸してパリに行った。パリには1ヶ月足らず滞在し、パリに住んでいるゴリツィン公爵を6月2日に訪問し、他の同性愛の仲間とも接触している。
 家に帰ってまもなくして、忘れていた妻アントニーナ・イヴァーノヴナの手紙を受け取って、再び苦悩の日々を迎える。あれから9年経った彼女は、3人の私生児を生み、孤児院に入れている。精神に異常をきたし、復縁を迫ってきた。しかし、彼女には同棲している相手もいた。チャイコフスキーはユルゲンソンを通して金で解決する。この後も彼女は手紙で彼を悩ますが、ユルゲンソンがすべて処理をした。

 1887年の暮れからヨーロッパでも指揮者として活躍し始めた。ライプツィヒのゲヴァントハウスから始まるこの演奏旅行で、多くの音楽家と知り合う。ライネッケ、ブラームス、グリーク、リーマン、R.シュトラウス、マーラー、さらにプラハではドヴォルシャーク、パリではグノー、マスネーとも出会う。4ヶ月の長い演奏旅行を終え、フロロスコエの新しい家に帰る。フロロスコエは、クリンに近く、マイダノヴォからも遠くない。今度の家は建物も庭も景色もよく、チャイコフスキーは大いに満足した(1888年5月)

 「交響曲第5番Op.64」はこの頃、1ヶ月程で完成する。年末にはバレー「眠りの森の美女Op.66」(1889年完成)を手がけ、1890年1月3日ペテルブルグのマリンスキー劇場で初演。賛否両論あったが、大成功といえる。引き続きバレー「くるみ割り人形Op.71」(1892年完成)の注文を受ける。初演は1892年12月6日。
 1890年9月、チャイコフスキーがティフリスのアナトーリイに滞在していた時メック夫人から14年続いた年金の打ち切り通告の手紙が来た。現在、この最後のメック夫人の手紙は残っていない。チャイコフスキーがメック夫人やパフーリスキー(夫人お抱えのヴァイオリニスト)に送った手紙は残っている。

 メック夫人への手紙(1890年9月22日)“もちろん私だって、このような急激な収入の減少が、私の物質的安定にまったく影響を与えないと言ったら嘘をついていることになります。‥‥‥(略)‥‥‥誰も私以上には、あなたの全ての不幸な出来事を、共に悲しみ分かちあっているものはいないことを、永遠に覚えておいて下さい。” 森田 稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.294-296より

 パフーリスキーへの手紙(1891年6月6日)“昨年九月にN.F.(注:ナデージダ・フィラレートヴァナつまりメック夫人のこと)が私に、破産したのでこれ以上物質的な援助はできないと告げられました。私の返事はおそらくあなたもご存じでしょう。私は彼女からお金を貰わなくなっても、私とN.F.との関係が少しも変わらないことを望みましたし、私にとってはそうでなくてはならなかったのです。”  森田 稔「新チャイコフスキー考」NHK出版p.297より

 1893年はチャイコフスキー最後の年、また栄光の年でもあった。6月12日はロンドンのケンブリッジ大学で幻想曲「フランチェスカ・ダ・リミニOp.32」(1876年作曲)を指揮し、名誉博士号を授与される。そして交響曲第6番Op.74“悲愴”が重要。10月16日ペテルブルグで自分の指揮で初演し、大成功を収めた。その9日後の10月25日午前3時、ペテルブルグの弟モデストの家で死去。死因説は現在100%確定できない。だが次の2つ説がある。

 @コレラ説:弟モデスト=10月20日に夕食をレストラン食べ、腹具合を悪くした。さらに21日昼食に生水を飲んだとしている。妹アレクサンドリアの末子ユーリイ・ダヴィドフ=毒殺、自殺、その他の色んなうわさ話が飛び交っているが、20日のレストランで生水を飲んだとしている。

 A 自殺説:The New GROVE Dictionary of Music and Musicians 20 vols /Stanley Sadie/London,6e 1980より18巻(p626-628参照):1978年にロシア(旧ソ連)の音楽学者アレクサンドラ・オルロヴァ=彼女は1966年にザンクト・ペテルブルグ(旧レニングラード)のロシア博物館のアレクサンドル・ヴォイトフから次の話を聞き取る。それはあるロシアの貴族が、自分の甥とチャイコフスキーの関係を、高い地位の官吏ニコライ・ヤコビに皇帝へ直訴する手紙を託した。ヤコビはチャイコフスキーと同じ法律学校の出身で、学校の名誉が汚されることを恐れ、タイコフスキーの同窓生6人をも含む名誉法廷が密かに組織された。10月19日チャイコフスキーがこの法廷に召還され、5時間に及ぶ議論の結果、彼を自殺させるという決定を下す。2日後彼は死の病にかかる。これは砒素系の毒によるとしている。


[チャイコフスキーのオペラ作品]

作  品  名 台  本 作曲年 初演:所・年
地方長官 Op.3 オストロフスキーと作曲者 1867-68 モスクワ   1869
ウンディーナ 作品番号なし ソログープ 1869 モスクワ   1870
オプリチニク 作品番号なし 作曲者 1870-72 ペテルブルグ 1874
鍛冶屋のヴァクーラ Op.14 ポロンスキー 1874 ペテルブルグ 1876
エヴゲニ-・オネーギン Op.24 作曲者とシロフスキー 1877-78 モスクワ   1879
オルレアンの少女 作品番号なし 作曲者 1878-79 ペテルブルグ 1881
マゼッパ 作品番号なし ブレーニン;作曲者改作 1881-83 モスクワ   1884
チェレヴィチキかわいい靴 作品番号なし ポロンスキー;作曲者改作 1885 モスクワ   1887
魔女 作品番号なし シュパジンスキー 1885-87 ペテルブルグ 1887
スペードの女王 Op.68 M.チャィコフスキーと作曲者 1890 ペテルブルグ 1890
イオランタ Op.69 M.チャイコフスキー 1891 ペテルブルグ 1892


1999

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