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ヴェネツィア共和国(697-1797)
<ヴェネツィア共和国の誕生>
ヴェネツィアvenezia伊語はラテン語ではvenetiaで、ヴェネティveneti人(venetus=海色の・水色の・青色のを複数形化したもの。イタリアの東北部の種族を指す。)が住む国の意味となる。
ヴェネツィア共和国の建国は古い。伝説的には421年3月25日「神のお告げ」の祭日に建国されたとされている。今から1500年前の452年頃から6世紀にヴェネト地方(イタリア本土内)に住む人々が、突然にこのアドリア海の沼地ラグーナ(潟)に移り住むようになった。それはイタリア北部に侵入してきたゲルマン系諸族やフン族の民族大移動に追われ、アクイレイアを始めとする各都市からの避難民たちを襲う異民族の侵入から身を守るためであった。幾度か繰り返された侵入によって陸地からより遠い所を求めて移住して行き、ついに海の中の沼地が選ばれたのであった。この沼地は住むには不便であったが、襲撃から守るには利点があった。敵の船を泥沼に追い込んでやっつけてしまうのである。かくしてビザンツ帝国と巧みに結びつき、自治権が与えられた公国をトルチェッロTorcello島や港町マロッコMaroccoに形成していった。こうしてビザンツ帝国はヴェネツィア文化の源流となり、中世のヴェネツィア文化を生み出すことになる。
ついに697年に住民投票によって総督dogeが選出され、ヴェネツィア共和国の建国となった。かくして9世紀のはじめに本格的な国土建設が始まった。要するにヴェネツィア人はこの沼地を埋め立てていくのである。すぐれた歴史に残る土木工法によって夢の島ヴェネツィアができ上がっていった。
9世紀初めフランク王国が支配下に置こうとして軍を派遣、この時トルチェッロ島や港町マロッコから逃れて現本島のリアルト地区に移り住む。810年にビザンツ帝国とフランク王国との間の条約で、ヴェネツィアはビザンツ帝国に属するが、フランク王国との交易権ももつこととなり貿易都市への布石が置かれた。自治を強め840年には総督の選挙制を勝ち得る。独自の議会制を発展させ、限られた貴族層による共和制を維持した。名目上はビザンツ帝国に属していたが自治を行っていた。
<サン・マルコ教会の建設>
ヴェネツィア人の心に永遠に残る出来事が起こった。それはエジプトに出向いていた2人のヴェネツィア商人がアレクサンドリアにいた時のことである。本当はローマ教皇によって異教徒との貿易が厳禁とされていたのだが、いうことを聞かないのがヴェネツィア人だった。その時サラセン人がアレクサンドリアに攻め寄せて来た。この二人はチャンス到来と福音史家・聖マルコの遺体をまつる正教会の修道院を訪れ、イスラム教徒サラセン人の略奪から守るという名目で、聖マルコの遺体(頭部が無かった)を金で買い取ってしまった(828年)。あるいは盗み出したという説もある。
この二人はヴェネツィア商人魂を発揮していく。次の難関、サラセン人の軍隊の目から逃れるために、聖マルコの遺体を豚肉の詰まった大きなかごの底に隠して(イスラム教徒は豚肉を忌み嫌い、食べないし触れもしない!)、港まで運んだ。そして船に乗せてヴェネツィアへ向かう。その間、大変な苦労があった。嵐やら海賊やらの危険な事件が続発し、常に聖マルコの保護のもとで奇跡的に難から逃れたという。ヴェネツィアにたどり着いた時は、市民の大歓迎が待っていた。お祭り騒ぎであったという。聖マルコの遺体は、荘重にドゥカーレ(総督)宮殿の横の教会に納められ、サン(聖)・マルコ教会の誕生となった。2人のヴェネツィア商人はアラブ圏と商業取引は違法であったが、このことは無に帰され、そればかりかヴェネツィアの歴史に残る英雄になってしまった。こうしてヴェネツィア人の心のよりどころサン・マルコ教会が生まれ、ヴェネツィアは発展と栄光の歴史を刻んでいく。
こうしてヴェネツィアは自分たちにふさわしく決定的な聖人を得た。それは聖マルコはこの地方の最初の教会、アクィレイアの教会を創立した伝えられ、アドリア海北部沿岸地方で広く尊敬され愛されていた聖人ではあった。しかし、海の民の守護聖人サン・ニコラ(ニコラウス)やヴェネツィアの守護聖人サン・テオドーロ(テオドール)ほど信望を収めてはいなかった。だが、828年のこの出来事は決定的で理想的な解決となった。つまり、サン・テオドーロはギリシャ人であり、彼を信奉することはヴェネツィアの東ローマ帝国帰属を意味していた。それに引き換え聖マルコは自分たちの地方の最初の教会、アクィレイア教会の創立者とされていた。この聖人の遺骸を得て、ヴェネツィアは政治上東ローマ帝国から開放されたことを意味した。また東方教会・正教会の教会権力からも独立することを意味したのである。時の総督パルテチパツィオはこの機を大いに利用した。
聖マルコへの崇敬はうまく民衆に根付いた。他の聖人崇拝をしりぞけることもなく、よりキリスト教の原点に迫る聖マルコの存在はすべてを総括した象徴的な存在となった。そして強力にヴェネツィア市民を愛国心を鼓舞するものとなっていく。ある意味で保守的でもあるヴェネツィア人は巧みに過去の習慣などを保つこともできた。こうしてこの国は聖マルコの寓意である獅子がヴェネツィアの象徴になり、聖書に片脚をかけた翼のある獅子の像はヴェネツィアの国旗になる。聖マルコの遺体を納めたサン・マルコ教会は総督の私設教会、つまり私用教会堂であった(1807年にヴェネツィア大司教座が置かれた。現在はサン・マルコ大聖堂と呼ぶ)。またひとつの市民の公会堂としても用いられ、ここで総督の演説、国家的セレモニーや市民大集会も行われていた。
サン・マルコ教会建設はこの時より何世紀にも渡って現在の姿になっていく。すべての国家的セレモニーはこの教会で行われ、戦いが終わるとその戦利品がこの教会を飾っていった。火災にも何度か見舞われ、その都度修復や改築が行われた。
最初に建てられたサン・マルコ教会は。エルサレムの聖墳墓教会をまねたといわれている。大々的な改築は1060年-63年頃、総督コンタリーニが行った。その理由は次のようである。この頃、ヴェネツィア大司教の選出に当たって教皇と神聖ローマ皇帝が対立し、抗争が起こった。しかし、ヴェネツィアは両方の権力に対抗した。そうした新しい教会造りを目指したのである。
この新たな教会の平面構成は、縦横の長さが等しいギリシャ十字形の形を取った。それは6世紀にユスティニアヌス皇帝が創立した、の聖使徒教会1)を模して造られたビザンツ様式であった。ビザンツ様式に倣い、内部の天井は天地創造、キリストの生涯や聖マルコの生涯を描いたモザイクであった。外側は質素なレンガ造りであったが、共和国が栄えるにつれてサン・マルコ広場や教会の前面が豪華さが増し、装飾が豊かになっていった。こうして11世紀から15世紀にかけてヴェネツィアは最盛期を迎えていく。その頂点は第四次十字軍(1202-04)であった。コンスタンティノープルからの数々の分捕り品でサン・マルコ教会は飾られることになる。
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| カナレットCanaletto(1697-1768)1730年制作「サン・マルコ教会広場」 9世紀より建設が始まったサン・マルコ教会。11世紀大改築、13世紀モザイク。塔の右が総督宮殿。 |
[注]
1) アギイ・アポストリ教会。6世紀に創建されたが、15世紀に壊されて現在は無い。この聖使徒教会を壊した跡にオスマン朝スルタン、メフメットU(在位1444-46、1452-81)によってモスクが建てられた。
<まばゆいサン・マルコ教会のパーラ・ドーロ!>
サン・マルコ教会内でひときわ大きな特徴を見せるのが主祭壇(この下にサン・マルコの遺体が納められている)の黄金の後背“パーラ・ドーロ pala d'oro”である。祭壇の<金の後背>という意味になる(イタリア語)。この祭壇の後背は国や時代によって異なるが、特にバロックではスペクタルな装飾を施したものも多い。サン・マルコ教会のは、裏表のリバーシブルになっていて表裏に別の装飾をもっている。通常は木制パネルで造られた割合質素な複数の聖人像が描かれた面が会衆には向けられている。ここで説明するのはその裏の部分である。手動の回転扉のようになっていて、特別な祝日に年に2度ほど裏側に廻して信徒に見えるようにされた。
宝石と七宝焼きによる浮き彫りのパーラ・ドーロは、下部の3分の2位の部分には最後の審判に再臨するキリストを中心に諸聖人が並んでいる。中でも重要なのは、キリストを囲むように聖書を記している4人の福音史家の姿である。
全体は250に区切られた面に多数の聖人や印章などの図柄が見られる。現在のような形になったのは3段階を経て現在の姿になった(1102-1345年)(1、40x3、45m)。
第1段階は、ヴェネツィア共和国総督オルデラッフォ・ファリエリFalieri(在位1102-18)がコンスタンティノープルの彫金師に注文して下部の3分の2を造らせた(1102-05年)。聖マルコの生涯、上部に6人の助祭と教会歴などを描く。12世紀までこうした技術は東ローマ帝国=ビザンツ帝国が優っていた。全体に囲むように小さな各聖人を表象する印や総督の肖像などが中心に造られる。七宝はイランから東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に伝えられ、ヴェネツィア共和国に、そして西ヨーロッパに広がっていった。余談であるがガラスや鏡も東ローマ帝国から西ヨーロッパへ伝えられた。かくしてヴェネツイアで作られたヴェネツィア・ガラスは、宮殿の中の宮殿であるヴェルサイユ宮殿鏡の大回廊の鏡にも取り入れられることになる。
第2段階は1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノープルからの戦利品で上部部分を拡大し、装飾を施す。ビザンツ帝国の祝典行事や中央に聖ミカエルの像が造られた。
第3段階の1343-45年に総督ダンドロに命により、ヴェネツィアの2人の金細工職人によって上部と下部両方に手が加えられた。それは上部のロマネスク様式アーチと下部のゴシック様式アーチの細工と、80枚の銀製の板に金を貼り、そこへ真珠526個、ガーネット330個、エメラルド320個、サファイア250個とルビー各90個、トパーズ4個、骨董カメオ2個、ルビー、アメシスト等が施された。合計1927個の宝石が使われている。
15世紀になって現在通常向けられている木製のパネルで細工された面が作成された。特別の日以外はこちらを用いていた。特別の大祝日に黄金の後背パーラ・ドーロを見たヴェネツィア市民の驚きは想像に難くない。
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| 全体図版=1、40x3、45m |
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| 中央部分 全体はガラスで保護されているので、右より中央部が白く反射している |
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| カナレット(1697-1768)作「大運河からサン・マルコ教会と総督宮殿を望む」 |
<ヴェネツィア共和国の終焉>
ルネサンス期に半島内部にも支配地を拡大したが、アメリカ大陸発見後、大西洋沿岸のスペインやポルトガルの植民地大帝国が築かれるに従い総体的に権勢を弱めていった。15世紀にはオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、勢力にもかげりが見えてきた。1797年にナポレオン・ボナパルトに征服されヴェネツィア共和国は崩壊する(697-1797)。その後オーストリアに割譲された(1798年)。1805年ナポレオン支配下のイタリア王国に帰属、1815年にはオーストリアの支配下に置かれた。1866年にイタリア王国に編入した。1987年、世界遺産にヴェネツィアとその潟として登録される。
2005-2011
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