制作者:国本静三

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オペラ「アイーダ Aida」


 ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdiイタリア(1813-1901)



<はじめに>


 1869年ヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)は、いつものことであるが次作のオペラの題材を探していた。今回はヴェルディ本人にとっても妻ジュゼッピーナにとっても最も苦しい時期だった。ヴェルディは新しいオペラの道を打開するためにも、よい題材を探し求めていただけでなく、ストルツの存在が夫婦間に陰を指したからである。ストルツは妻の苦しみの種であったが、夫ヴェルディにとってはすべてを忘れさせてくれる存在であった。彼女はマリアーニとの関係を断ち、ヴェルディと交際していたからである。これは巷のうわさにも上り、ヴェルディは妻の問いただし対してもただただ黙り、これがまた彼女をたいへん苦しめていた。またストルツの元愛人マリアーニ(指揮者)は、嫉妬のために憔悴していた。

 1869年2月27日、「運命の力」の改訂版がスカラ座で上演され、たいへんな成功を収めた。主役歌手はストルツであった。ヴェルディの呼びかけによって始められたロッシーニ追悼「レクイエム」の14人の連作による作曲計画は13人で完成したものの、その初演は果たされなかった。この時ヴェルディはより新しい音楽への前進を考えていた。ヴァーグナービゼー、グノー等の活動がヴェルディを追っていた時である。新しいオペラ創作の打開のために新しい題材が必要であった。それはも自分のためでもストルツのためでもあった。次のオペラのソプラノ役は、重要な役廻りでなければならなかったのである。




<作曲の経緯


――スエズ祝賀委嘱、「リゴレット」を当てる

 次作のオペラの題材について焦っていたヴェルディは、フランス・オペラ「ドン・カルロス(1867年3月11日パリ、オペラ座初演:仏語版)の台本を書いたカミーユ・デュ・ロクルと活発に手紙を交し、オペラの計画について話合っている。そうした時ヴェルディに祝典のための作曲依頼が舞い込む。依頼者はエジプトの総督イスマーイール・パシャであった。1869年11月17日スエズ運河開通の祝賀事業の一環として、カイロにオペラ劇場を開場されることになった。その開場式典の祝賀音楽の作曲委嘱であった。それに先だって1869年8月以前にヴェルディに依頼が入ったという訳である。しかし、ヴェルディは首を縦には振らなかった。ヴェルディは機会音楽morceaux de circonstanceを書くことには慣れてないと断ったのである。しかし、結局、1869年11月6日オペラ劇場こけら落としにはヴェルディの既作オペラ「リゴレット」が当てられ、ユージニー皇妃とフランツ・ヨーゼフ皇帝臨席のもとで、ムツィオ指揮で上演された。


――委嘱作「アイーダ」に決定

 1870年春、再度その後エジプトの総督パシャは、エジプトを舞台にした新作オペラ作曲をパリに住むロクル(フランス・オペラ「ドン・カルロス」の台本作者)を通してヴェルディに申し入れて来た。題材としてパシャが用意したのは、考古学者オギュスト・マリエットの著した23頁からなる物語であった。マリエットは1821年生まれのフランス人で、1849年からルーヴル美術館のエジプト考古部に勤務していた。彼は1851年からエジプトに渡り研究を続けている。エジプト総督パシャによる信頼も篤く、ベイ(1858年)とパシャ(1879年)のエジプトの尊称を与えられた人物である。

 実際、スエズ運河(1859年着工-1869年11月17日開通はすでに完成していたので、一般に流布している「アイーダ」がスエズ運河開通記念のために作曲されたオペラというのは当たっていない。パシャは自分が統治するカイロのオペラ劇場でヨーロッパの有名作曲家による大がかりなオペラを上演したいという願望をもっていて、もしヴェルディが断ればグノー(1818-93)かヴァーグナでもよいとロクルに伝えていた。このことをロクルはうっかりヴェルディに漏らしてしまった。だがこのことがヴェルディを奮起させたようである。つまりヴァーグナーに対するライヴァル意識を引き起こしたと思われ、ついにヴェルディはカイロのオペラ劇場ために新作を書くことを引き受けた。しかもヴェルディは、次作は「アイーダ」のようなオペラ・セーリアではなくオペラ・ブッファの題材を想定し探していたのに、これをしりぞけての受諾となった。

 台本が決定するまでちょっとした経緯があった。先述したフランスの高名なエジプト考古学者オーギュスト・マリエットの歴史的事実に基づく物語は、有名な物語になっていた。
 1870年ヴェルディが「アイーダ」とオペラの題名を決め台本はイタリア語とすることを強く主張した。またマリエットやロクルと手紙を交し、自身台本作りにも関わっていく。それまで全く知らなかった古代エジプトについてこの考古学者マリエットから詳しい助言を得て、その考古学者から得た知識やヴェルディのそうした意気込みが反映された台本となっていく。


――「アイーダ」の台本・作曲

 契約条件に常に細かく心を配るヴェルディは、作曲料やその受取り方などを決めてからでないと作曲にかからないのが常であった。「アイーダ」の報酬は台本料、カイロに指揮者を派遣する費用を含めて、当時としては史上最高の15万フランと決められた。そのやり方は農場経営者(サンターガタに広大な農地を所有、邸宅も建てた)ヴェルディの姿が全面的に出ている。エジプト国内における台本とスコアの所有権はヴェルディに属することにし、スコアをエジプト側に渡す時、15万フランがパリのロスチャイルド銀行に振込まれることを条件にした。そして最終的に台本作者はフランス人のロクルではなく、イタリア人アントニオ・ギスランツォーニA.Ghislanzoniと急遽決められた。イタリア語による台本制作のためには当然のことながらギスランツォーニの方が適していたからである。彼はボーイトと同じくミラノのスカピリアートゥラ(19世紀後半のミラノの芸術家の自由奔放なライフスタイル主張する文学運動)のメンバーだった男である。

 ロクルによる「アイーダ」の題材は、メタスタジオ作の「ニネッタ」と「アイーダ」と基本的に一致する部分がみられる。メタスタジオのこれらの作品によるオペラが1756年から1812年の間にすでに13作のオペラが作曲されていた。もともとアイーダの話はパピルスに書かれた伝説であったようで、考古学者マリエットも解読していたようである。ヴェルディは今まで以上に念入りに台本作りに手を出した。彼の最後の3つのオペラ(「アイーダ」、「オテッロ」、「ファルスタッフ」)で実践されていくことになるが、その本格的なドラマと音楽の一致化の手初めであった。ヴェルディはドラマ展開のために効果的な音楽を作ることを志していた。そのため言葉の語義や言葉の長さ、言葉のアクセント、さらに詩句と散文の関連などにも充分考え抜いた。ヴェルディは「アイーダ」のできあがった台本について、ギリシャ悲劇と聖書のシンプルさがプラスされたようなものだと評している。

 それまでヴェルディはこの「アイーダ」の時ほど自分の希望を明確にし、その実現に力を入れたことはなかった。できあがった台本を訂正、省略、修正を施してれいる。第1幕の有名な「清きアイーダ」についても殆ど一語一語台本作者に指示している。すぐれた劇場感覚をもつヴェルディには台本担当のギスランツォーニさえも異論を挟みようもなかった。ヴェルディは「アイーダ」が自分の音楽生活における最も重要なオペラになると予感し、あるいはそうしたいと決意していた。彼のやり方は慎重さと情熱の極みにあったといってよい。オペラにありがちな不自然で極端に強調された人間像ではなく、より真実な生身の人間像を置きたかった。悩んだり、迷ったり、疑ったりするような真実の厚みのある人間の姿でなければならなかった。すべての人間は多様さを有している、つまりアイーダも王女アムネリスもそうした人間の一面を示すものである。そのまますべてを描きたかった。そして彼は言葉と音楽の融合にたどり着いていく。

 第2幕の作曲を完成させた時、その間にヨーロッパの状況は変り動いていた。1870年9月2日、フランス第二帝国がセダンの戦いで滅びた。ヴェルディにとって、フランスは因縁を感じさせる存在であった。思えばジュゼッピーナとの運命的な再会もフランスにおいてであった。いやそれよりずっと以前の生れ故郷レ・ロンコレは、フランス支配下にあった。そのため寺小屋のような教会の学校でもフランス語が教えられていた。だからこそ彼はフランスの敗戦を聞いた時、2000フランをフランスの負傷者のために寄付したのだろう。そして1870年9月20日、サルデーニヤ王国将軍ラッファエーレ・カドルナがローマを制圧した。そのため教皇ピオ\統治下のローマも降伏させられたのである。そのため教皇領であったローマを中心とするラツィオ地区は、イタリア王国に併合させられることになった。

 ジュゼッピーナに劣らずフランスを愛していたヴェルディとって、ドイツ軍によるフランスの滅亡はゴート族の血をひくゲルマン嫌いを増大させた。その延長線上にヴァーグナーの存在をみていたのかもしれない。ヴァーグナーは好きにはなれないが無視できない存在であったのだろうか。また鎖に繋がれて「アイーダ」の舞台に登場するアイーダの父エチオピア王アモナスロは、捕虜になったナポレオンVの姿と映ったのかもしれない。身分を隠しているが、まぎれもなく彼こそ王であった。この王こそ重要な役割とヴェルディは考えていたのであろう。

 ヴェルディが新しいオペラのあり方を求め考える時、ヴァーグナーの存在は大いにヒントになり、刺激となったようである。また大きく意識する存在であり、重要な役割を果たしたと考えられる。なぜならヴァーグナーは、自分のすべてのオペラの台本を自ら書いた。さらにヴァーグナーは、新しい音楽論を多数書き発表していた。一方、ヴェルディはヴァーグナーのように詩人でもないし、音楽論者でもないと充分に自覚していた。それでもヴェルディは、人間の真実性を描くことに自分の売りがあると自負していたと思われ、台本にも積極的に手を出したのではないだろうか。だが敢て音楽については自分は誰よりも無知であるとうそぶき、そうした主張することを憚らなかったのも興味深い。




<2つの初演>


――カイロ初演

 1870年12月半ばに作曲を終えた(58歳)。作曲に要したのは5ヶ月弱だったが、初演まで1年待たなくてはならなかった。敗戦になったフランスの国情が不安定で、考古学者マリエットがパリで制作させた舞台装置と衣装が国外に出せなかったためである。パリがプロイセン軍に包囲されて完全に封鎖されていた。マリエット自身もパリから出ることができなかった。ヴェルディの不機嫌は極に達し、妻も友人達もお手上げ状態で、さらに予定していた指揮者マリアーニが断ってきたボッテジーニが代役となる)。ストルツとの契約もなく、これはマリアーニとストルツとの婚約解消問題が絡んでいた。こうした時ヴェルディは、「アイーダ」のスカラ座でのヨーロッパ初演を考え始める。この時こそストルツを使おうと考える。そしてヴァーグナーの考えとしながらも、スカラ座の上演ではオーケストラ席を見えないようにしてはと提言している。

 1870年を終ろうとする頃、ナポリ音楽院の院長にと要請を受けるが、拒否した。1871年5月にエジプトの太主であり歌劇場監督のバイがサンターガタのヴェルディを訪ねて来た。報酬の支払いと同時にスコアを渡すよう要求したが、それを受入れなかった。これを機に「アイーダ」のいくつかの曲を改訂し、台本のギスランツォーニも新たな詩句を書かなければならなかった。

 ついに1871年12月24日、「アイーダ」はカイロ、オペラ劇場で初演された。たいへんな大成功であった。だが、この成功は多分にこのオペラに対しての深い理解からというより、題材、エジプト古代のファラオ王国の栄光の時代の舞台設定によるものと思われる。それにしても愛の真実という点から見るとエジプトは戦いに勝利するが愛においては敗者となるこのドラマ設定を、カイロ市民は理解し受け入れることができたのだろうか? 

 船旅に弱いとの理由でヴェルディはカイロには行かなかった。本式の初演はスカラ座と考えていたからである。ジェノヴァに残り、スカラ座で歌う歌手たちに練習をつける方を選んだ。カイロの聴衆の反応は熱狂的で、批評家たちはヴェルディの書法が洗練され、その表現豊かさに驚嘆した。作曲家であり批評家のエルネスト・レイはその和声感覚、不意の転調、旋律の独創性、オーケストレーション(管弦楽書法)の巧みさに感嘆している。だが、ヴァーグナーを模倣したという批評家もいた。


――ミラノ初演

 ミラノでの公演に出演する歌手たちをジェノヴァの家に集めた。もちろんタイトル・ロールは今度こそストルツである。午後1時にヴェルディはピアノの前に座り、彼の指導で歌手たちは2時間通しで練習が行われた。自分ですべてを管理したいヴェルディは、ミラノの他の歌手や合唱、オーケストラを指導する指揮者ファッチョのいるミラノへ出かけ、うるさく細部に至るまで指示する。哀れなのは妻ジュゼッピーナで、会話は」殆どない。おまけに家にはストルツが滞在していた。さらに新しいアイーダのロマンツァ“おお、わが祖国Oh patria mia”(第3幕)をストルツのためにつけ加えた。

 1872年2月8日スカラ座の初演、その夜は寒く、ほぼ零度。湿っぽく、時々時雨があった。それとは逆にスカラ座は、明るく満員の観客で活気に満ちていた。幕が降りると爆発のような拍手がわき起った。ヴェルディは40回も舞台に呼び出された。新聞の批評は二つに分れた。ヴァーグナーとは異なる伝統的なオペラで、オペラの全要素を用いた完璧な作品と讃えた。一方、アルプスの向うの書法をとったに過ぎないとも言われた。これはヴェルディの終焉を告げるものであるというのもあった。ヴェルディにとっては大げさな賛美も悪評も気に入らなかった。とはいえ「アイーダ」はイタリア中で大歓迎され、国内のあちこちで上演されていく。いつもアイーダを歌うのはストルツだった。そしてヨーロッパとアメリカ大陸へと上演は広がっていった。




<音楽的特徴>


 それまでのヴェルディの集大成ともいうべき作品である。イタリア・オペラクランド・オペラ(スケールが大きく華やかな舞台が展開されるオペラ。バレーと大合唱を含む)の特徴を結びつけている。第2幕第2場でバレーの場面と大合唱を置き、フランス風グランド・オペラの形をとっている。特に凱旋の大行進曲は圧巻である。ヴェルディのオペラではあまり重要視されていなかったバレー音楽ついての創意性は注目に値する。新しい技法と表現方法が見られるが、ヴェルディに共通する激しさと情緒的な世界が均衡を保っている作品である。つまり新しさと聴衆受けする表現を融合することはヴェルディの得意とするところであった。ドラマとして見れば三角関係、それは偶然の出来事ではなく、悲劇的運命が付随的にもたらしたものである。伝統的な演劇を踏襲したものといえる。第4幕のアイーダとラダメスの死は、ヴァーグナーの哲学的なイゾルデの愛の死と比べたくなる部分で、アイーダとラダメスと、牢の上の神殿で歌うアムネリスとの3重唱と、遠くから響いてくる祭司と巫女の合唱が穏やかに絡み合う。この運命悲劇を2人の愛に集約するのではなく、3人のすべての人間の姿を立体的に表現している。

 ヴェルディは、このオペラを最後に番号書法番号オペラによる区分構成と決別することになる。「オテッロ」から完璧にヴァーグナー風の一貫した通作書法通作オペラをとるのである。だが、「アイーダ」のスコアを見ると、限りなく通作オペラに近づいていることが分かる。これはすでに中期のオペラから見られ、番号内の曲が長くなり、区分された曲数が少なくなっている。「アイーダ」は一応中断可能な部分に曲は区切られているものの、曲番号はつけていない。第1幕第1場と第3幕にロマンツァRomanzaシェーナとロマンツァScena e Romanzaというタイトルが合わせて3度出てくる。これが伝統的なレチタティーヴォアリアに相当するものとも考えられるが、ここでは古いオペラで見られたように独立した形を取っていない。単なる歌の導入部に過ぎなかったレティタティーヴォを密度の高い音楽へと変化させたものとしている。これはヴァーグナーの影響もあったろう。とはいえロマンツァ“清きアイーダ Celeste Aida”(ラダメス)、シェーナとロマンツァ“勝ちて帰れ Ritorna vincitor”(アイーダ)、第3幕ロマンツァ“おお、わが祖国 Oh patria mia”(アイーダ)の終りに、拍手や声援を送ることは可能である。

 旋律や和声の着想の統一性や、オーケストレーション(管弦楽書法)も個性的で、全体の統一もみごとである。歌と管弦楽の一体化も見られる。曲想についていえば、エキゾシズムあふれる音の使い方が見られる。エジプトの伝統音楽借用や引用はないが、彼独自の工夫による半音階や旋法的な旋律や和声の動きが見られる。これはそこはかとなくエジプトを感じさせるエキゾシズムを醸し出している。特に第1幕第2場の神殿での祈りの場面等である。内陣から響いてくる冒頭の巫女たちの合唱の旋律や第3幕の描写的な情景は、ヴェルディの最も魅力あふれるものの一つであろう。確かにヴェルディはヴァーグナーの影響を受けた点もあるが、その結果はかえってイタリア・オペラの伝統を成熟させ新しい芽を芽吹かせたと言えるだろう。またヴァーグナーと一番大きく異なる点は、ヴェルディが純粋に旋律美の存在を肯定している点であろう。



<物語>


《古代エジプト、メンフィスとテーベが舞台》


第1幕


第1場:メンフィスの宮殿の広間、エジプトとエチオピアが争っていた時代

 エジプトの将軍ラダメスはエチオピア攻撃の総大将になるが、王女アムネリスに仕える奴隷女アイーダと人知れず愛し合っていた。だが、王女がラダメスを恋していた。かくしてラダメスと軍を、国王や王女はじめ群衆は盛大に壮行する。アイーダの心は複雑であった。実はアイーダはエチオピアの王女であった。ラダメスが勝てば母国の敗北、エチオピアが勝てばラダメスを失うからである。でも無事に勝って帰って欲しいのである。

第2場:神殿の内陣

 巫女たちはエジプトの勝利を祈っている。祭司長はラダメスに神から賜った剣を与える。


第2幕


第1場王女の部屋

 
エジプト軍の勝利の知らせが入る。王女は凱旋の祝賀のために装いの準備に余念がない。そこへ浮かない顔をしたアイーダが入って来るが、王女は本心を探ろうとしてラダメスは戦死したと嘘をいう。アイーダはうろたえ悲しむ。これを見て取った王女は、嫉妬に燃えて自分のラダメスへの恋をぶつけ、アイーダを侮辱する。そして奴隷女などにラダメスを渡すものかと言って立ち去る。

第2場:テーベの城門前

 
凱旋軍を人々は歓呼して迎える。エチオピアの奴隷と捕虜も入場。エジプト王と王女は見守っている。ラダメスは王に褒美に何がよいかと問われ、捕虜の解放を願った。引かれてきた捕虜の中にアイーダの父(エチオピアの王アモナスロ)の姿もあった。父と娘は王に慈悲を願うが、父一人を人質にして他の捕虜を解放することにした。この父はエチオピアの王は死んだと偽った。エジプト王は、娘の王女アムネリスを娶って国を治めよとラダメスに命ずる。アイーダは父に会えた喜びとラダメスを失う悲しみが交錯して苦しむ。


第3幕 ナイル河の岸辺


 
王女アムネリスは結婚の前夜を迎え、祈りを捧げるためイシスの神殿に向う。そこへアイーダが岸辺にラダメスと会うため登場する。そこへ父アモナスロが現れ、ラダメスから軍の機密を聞き出せと迫る。父は物陰にかくれて伺っていた。ラダメスが現れアイーダの誘導で軍事機密を漏してしまう。父アモナスロが出て来て驚喜する。ラダメスは事の重要さに気付き悔む。神殿から出てきた王女アムネリスに事の次第を察知される。そこでラダメスはアイーダ父娘を逃し、自分は兵士に身を委ねてしまう。


第4幕


第1場宮殿の内、地下牢につづく広間

 王女
アムネリスはラダメスを連れてこさせ、私を愛しているのだったら助けると告げる。だがラダメスは拒絶した。ラダメスは祭壇の下に生き埋めとなる死罪の裁きを下されてしまう。アムネリスは激しく嘆いていた。

第2場神殿と地下牢

 
上部は神殿、祭壇の下部は牢になっている。生きながら葬られた形になったラダメスは一人でアイーダを想っている。誰も居るはずがないのに人の気配がした。追手を逃れたアイーダがラダメスの死を察知して先に牢に潜んでいたのだった。二人は天上で結ばれることを喜び合う。そうして愛し合う二人は息絶える。牢の上の神殿には神々に祈るアムネリスの姿があった。



参考ディスク

DVD UCBD1070-71 ヴェルディ「アイーダ」
発売:2008/1/23

リッカルド・シャイー指揮、フランコ・ゼッフィレッリ演出・舞台美術
ミラノ、スカラ座管弦楽団、同合唱団、同バレー団

ヴィオレッタ・ウルマーナ(S:アイーダ)
ロベルト・アラーニャ
(T:ラダメス:)
イルディコ・コムロージ
(Ms:アムネリス)
カルロ・グエルフィ
(Br:アモナスロ)
マルコ・スポッティ
(Bs:エジプト王)
ジョルジオ・ジュゼッピーニ
(Bs:ランフィス)
アントネッロ・セロン
(T:使者)
サエ・キュン・リム
(S:尼僧)
ルチアーナ・サヴィアーノ、ロベルト・ボッレ、ミルナ・カマラ
(バレー)

収録:2006/12/7ミラノ、スカラ座


DVD 9784418080014 世界文化社 DVD決定盤オペラ名作鑑賞シリーズ1 発売:2008/5

ロリン・マゼール指揮、ルカ・ロンコーニ演出
ミラノ・スカラ座管弦楽団、合唱団

アイーダ:マリア・キアーラ(S)
アムネリス:ゲーナ・ディミトローヴァ(Ms)
ラダメス:ルチアーノ・パヴァロッティ(T)
アモナスロ:ホアン・ポンス(Br)
ランフィス(祭司長):ニコライ・ギャウロフ(Bs)
エジプト王:パータ・ブルチュラーツェ(Bs)
使者:エルネスト・ガヴァッツィ(T)

収録:1985年12月スカラ座

2001-2011


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