制作者:国本静三

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ヴェルディの妻



最初の妻マルゲリータ>


 ヴェルディの最初の妻マルゲリータ・バレッツィ・ヴェルディMargeherita Barezzi Verdiとの出会いは次のようであった。

 ヴェルディが生まれたのは北イタリアのパルマ県にある小都市ブッセートの郊外3kmの寒村レ・ロンコレで宿屋兼飲食店を営む父の長男としてであった。レ・ロンコレは当時、数十戸の鍛冶を主とする小さな村であった。それでも古くからクレモナからパルマへ抜ける行商人や旅音楽師たちの交通の要衝の地で、それなりににぎわいのある所であった。7才の時、村の教会オルガニスト、バイストロッキに本格的な音楽の手ほどきを受ける。10才の時バイストロッキが死に、父は知人でもあるブッセートの雑貨と酒の卸商人アントニオ・バレッツィAntonio Barezzi(1787-67)に相談した。小学校を終えた息子の行く末を考えてのことであった。音楽愛好家であるバレッツィはヴェルディの能力を見抜き、ブッセートで勉強するよう勧めた。バレッツィはこの町の名望家で(後に彼の長女マルガリータと結婚し、ヴェルディの義父になる)、ヴェルディの恩人としての役割を死ぬまで果す。ヴェルディ・オペラには特有の役廻し・性格をもつヴェルディ・バリトンが登場するが、その存在の根源がこのバレッツィであると思われる。
 ヴェルディは靴職人プニャッタの家に下宿してブッセートの中学校に通うようになる。下宿代の半額を稼ぐためにレ・ロンコレに通ってサン・ミケーレ教会のオルガニストを務めた。

 1825年ヴェルディ13歳の時からバレッツィはヴェルディに、ブッセート市立音楽院院長でありブッセート大聖堂楽長(合唱長・オルガニスト)であるすぐれた音楽家であったプロヴェーシ(1770-1833)に指導を受けさせた。1826年から最初の作品を書き始め、ブッセートの楽友協会のメンバーが集まるバレッツィ家に頻繁に通い始めた。ここでやっと本物のピアノに触れることができ、一日中入り浸るようになった。この厚遇に報いるためにバレッツィの商いの手伝い、つまり会計を手伝うことになる。帳簿をつけたり、請求書を発送をした。またバレッツィ家の長女マルゲリータ・バレッツィMargeherita Barezzi(1814-40)に歌とピアノも教えた。彼女はやさしくおとなしい内気な娘で、彼に惹かれていった。彼も同様であった。

 1831年、ブッセートでは強盗が頻繁に起こり、バレッツィの妻はヴェルディにバレッツィの家に部屋の提供を申し出たので、プニャッタの所から引っ越した。ヴェルディの音楽の勉強も好調に進み、またますますバレッツィの信望も得ていった。そしてバレッツィは、ミラノの音楽院入学のために奨学金の申請や手続きを取り計った。次の年の1832年に奨学金は認可され、マルゲリータに思いを残し、いや彼女の思いの方がはるかに強かった。6月22日にミラノに着いた。しかし、入学試験に落ちた。定員はわずか、年齢制限は超えているし(14才以下が入学資格、彼は18歳だった)、また特別な資質も見出されなかったとされた。一般に不合格は年令のためであったと伝えられているが、実際ピアノの演奏能力や対位法において力不足でもあった。いずれにせよこのことは彼には生涯忘れ得ぬ屈辱的な出来事となってしまったことは確かである。

 その後、ヴェルディはラヴィーニャLavigna(1766-1836)の所へ個人レッスンに通い始める。こうしてミラノにおいて作曲家としての教育を受けることになった。ラヴィーニャは有名なオペラ作曲家で、以前はミラノ音楽院のソルフェージュの教師と、スカラ座の歌手の指導者でつまりチェンバロ奏者(<チェンバロのマエストロ>と言われていた)を務めていた。特にヴェルディに対位法書法をしっかりと教え込んだ。明けても暮れてもカノンとフーガばかりだったとか。パイジェッロPaisiello(1740-1816)の礼賛者ラヴィーニャから得るとものが無かったといわれているが、後の「弦楽四重奏曲」や最後のオペラ「ファルスタッフ」生きたのではなかろうか。ヴェルディは何度かはスカラ座に通った。しかし、その頃スカラ座で上演されるプログラムは、ドニゼッティ(1797-1848)とメルカダンテ(1795-1870)のオペラが多く、彼が聴きたかったベッリーニ(1801-35)はほとんど無く、ロッシーニ(1792-1868)も少しだけで外国のオペラは皆無だったという。

 かねてより愛し合っていたバレッツィの長女マルゲリータヴェルディは、1836年4月16日に結婚届が役所に出された。その19日後に質素な結婚式が行われた。その年2月にブッセートの聖バルトロメオ大聖堂楽長と市の音楽教師に任命されていたし、いよいよブッセートに居を構えることができた。しかし、ヴェルディの給料はわずかなので義父バレッツィから援助を受けた。ヴェルディの市の音楽教師の仕事も始まり、週に5日間、チェンバロ、ピアノ、オルガン、歌唱、対位法、作曲法を教えた。1837年長女ルイジア(1837-38)が3月に誕生、9月にバレッイに借金して学校の休暇を利用して60日間だけミラノへ行く。1838年7月長男アントニオ(1838-39)を得たが、長女は1年4ヶ月で失った(1838年8月)。ついに彼はブッセートでの仕事を辞職することにした。

 1839年2月6日に妻と長男を伴い、ミラノへ移住した。しかし長男が1年2ヶ月で病魔に奪われてしまう(1839年10月)。11月にスカラ座で初めてのオペラ「サン・ボニファーチョの伯爵オベルト」を初演し、それなりの評価を受けた。そしてスカラ座から新作の委嘱を受けたが、貧しさの苦労のうち、最愛の妻も1840年6月に失った。悲嘆の中で9月に上演したオペラ・ブッファ「一日だけの王様(にせのスタニスラオ)」は成功しなかった。その後苦しい日々を送る中で後に二度目の妻となるプリマ・ドンナのジュゼッピーナの励ましとスカラ座支配人メレッリによって書上げられた「ナブコドノゾル(ナブッコ)」(1842年初演)は、オーストリアの支配下にあったミラノの人々を沸かせ、文字通りの大成功を収めた。ヴェルディの本格的なオペラ作曲家としての名声を得る第一歩となった。



<二度目の妻ジュゼッピーナ


 ジュゼッピーナ・クレリア・マリア・ストレッポーニ・ヴェルディGiuseppina Clelia Maria Strepponi Verdiイタリア(1815-97)はモンツァの作曲家フェリチノの娘で、ミラノ音楽院に学んだ。トリエステでデビューして以来、27の劇場で歌った有名なプリマ・ドンナであった。イタリアの劇場やヴィーン宮廷歌劇場でも大功を収め、母親と弟や妹たちの生活を支えていた。1842年の「ナブッコ」初演ではアビガイッレを演じた。これはヴェルディが彼女のために想定した役である。それは「ナブッコ」の作曲に当たって、彼女が困窮のヴェルディに果たした恩に報いるものでもあった。1845年、彼女はパレルモ公演で大失敗し、1846年2月の舞台出演を最後に歌手活動から引退した。その後パリでひっそり音楽教師をしていた時、ヴェルディと再会し、本格的な愛が芽生えていった。10年間の同棲後1859年結婚した。この華やかなソプラノ歌手がどうしてかくも献身的な愛をヴェルデに注いだのか。しかも10年の長きに渡る日陰の生活に耐えたのであろうか。

 ジュゼッピーナはヴェルディに負い目を感じ続けていた。それはヴェルディと知り合う前に、ドニゼッティやスカラ座支配人バルトロメオ・メレッリ(「ナブッコ」の作曲をヴェルディにすすめた人。ヨーロッパのオペラ界で最も有力な権力者である興業主の3、4人のうちの一人で、スカラ座だけでなくヴィーンの宮廷歌劇場をも、賃貸借関係によって自分の手中に収めていた。ヴェルディがミラノに出てきた時、新人歌手ジュゼッピーナを介してメレッリと知己を得た。)、オペラで共演したテノール歌手ナポレーネ・モリアーニやバリトン歌手ジョルジョ・ロンコーニ等とかって愛人関係にあった。そして結婚の続きを踏まずに彼らとの間に少なくとも3児をもうけていたといわれている。
 ヴェルディと知り合った後もこうした過去ある自分を責め、罪悪感に苦しんでいた。こうして華やかで知的な魅力を有し、社交会でもてはやされた女性ではあったが、ヴェルディと暮らし始めて農民的で非社交的な大音楽家に寄り添う妻に甘んじる生活を送った。またヴェルディにとっては彼の亡き妻の父であり、今なお続く彼の恩人でもあるバレッティの反対があったため、正式な入籍は遅れることになった。

 1849年にヴェルディが彼女を伴ってブッセートに住み始めたが(同棲生活)、北イタリアの頑固で閉鎖的、保守的で旧弊な気質の人々は、彼女に対していじめを行った。同棲生活もさることながら、この過去ある女性は町中のうわさの種になり、彼女は町の人には受入れられなかったのである。教会内でも同じベンチ座る人もなく、それどころかミサ中にどよめきさえ起ったと伝えられている。このことを発散するかのように自分の子供の世話のために、フィレンツェやヴェネツィアに出かけている。そして彼女が一番生き生きするのはパリにおいてであった。彼女は旅行の空から自分の心情を溢れるように書き連ねる手紙をヴェルディに書き送っても、彼の方はこまやな愛の表現を彼女に返すことはない。  

 1859年8月29日にヴァッレ・ダオスタ州、カステッロ・サヴォイアのコロンュ・ス・サレーヴ村でジュネーヴのメルミヨ神父の司式でやっと正式に結婚した。ジュゼッピーナはかなり美人であるが早く老けるタイプであったようだ。この頃すでにヴェルディは、妻への情熱も失せてしまっていった。もちろんヴェルディにも反省する心はあったが、自分が間違っているとわかっていても、不機嫌さとなって現れる身勝手な男の姿があるだけであった。

 1893年頃から、ジュゼッピーナは老衰の兆候が現れ始める。養女となった遠縁の娘マリア・ヴェルディ・カラーラが彼女の世話をした。1897年にはほとんど歩くこともできず、サンターガタの邸宅でただ最期の時を待つばかりとなった。気管支炎がもとで臥せ、ジェノヴァに移るが肺炎をひきおこし、1897年11月14日午後4時に死去した(82歳)。ブッセートの大聖堂で葬儀が行われ、ミラノの記念墓地に埋葬された。彼女は遺言で、今後毎年永久に50組の貧困家庭を助ける基金を定めている。

 現在、ヴェルディの音楽家の憩いの家の中庭には半地階になった礼拝所がある。これがヴェルディの墓所で、向って左側にヴェルディの墓石がある。ここに最初の妻マルガリータも一緒に埋葬されている。しかし、マルガリータの遺体や遺骨ではなく遺品、すなわち結婚指輪と思い出の品二つのみだといわれている。というのは1867年9月16日に先妻の墓を調査依頼をしているが、整理のため共同墓地に合葬された後で遺骨を特定することはできなかったからでる。そして右側にジュゼッピーナ、そしてその間中央にヴェルディの養女カラーラ=ヴェルディ一族の墓碑(これは墓石ではなく棕櫚の葉のブロンズのレリーフが置かれている。名は記されてはいないが、次に述べるストルツも合葬されている)が3つ並んでいる。



ストルツ


 テレーザ・ストルツTeresa Stolz(1834-1902)はボヘミアのソプラノ歌手で、指揮者アンジェロ・マリアーニの婚約者だった。マリアーニはヴェルディの親しい友人であった。さて、ストルツはすぐれたソプラノ・ドラマティコのプリマ・ドンナで、スカラ座初演のアイーダ役でもあった。彼女は古典的美人タイプではないが魅力的な女性である。その利発な態度はヴェルディの心を捉えた。彼はストルツといると心が休まり、長い議論も交せる彼にとって希有な存在となった。1867年、仏語版「ドン・カルロス(初演は1867年3月11日パリ、フランス語版)は満足のできる結果を得られなかったが、伊語版改訂版「ドン・カルロ(1867年10月27日初演)はボローニャ上演でのマリアーニ指揮、ストルツのエリザベッタ役で大成功を収めている。こうしてヴェルディとストルツは接近していった。1869年「運命の力」(1869年2月改訂版ミラノ初演)の準備中二人は急速に親しくなる。激怒したマリアーニはストルツとの婚約を破棄した。以後ヴェルディ作品と決別し、イタリアにおけるヴァーグナー作品紹介の主導者となる。

 すべてを察知していた妻ジュゼッピーナは苦しみに苦しんだ。しかし、この耐える妻は嫉妬を表に現すことはしなかった。建て前としては、ストルツをヴェルディ夫妻の共通の親愛なる友として受け入れていた。ジュゼッピーナとストルツの二人は礼節溢れた手紙を相互に交換し、サンターガタの家にもストルツは度々滞在している。ジュゼッピーナにとってはストルツの存在は夫との関係、そしてストルツの過去の男性マリアーニの婚約者であるという複雑な男女関係の渦の中に巻き込まれもした。伝記作者たちはヴェルディとストルツを愛人関係にあったとはあからさまには表記しないようであるが。


2003-2011


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