制作者:国本静三
オペラ「ラ・トラヴィアータ(椿姫) La traviata」
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino Francesco Verdiイタリア(1813-1901)
<作曲の経緯>
ヴェルディVerdiイタリア(1813-1901)の1851年の「リゴレット」から1867年の「ドン・カルロス」(仏語版)までの8作(新作のみ)を指して、ヴェルディ中期(または第2期とか成熟期とも)の作品といわれる。丁度その時期はフランスに住んでいたロッシーニがオペラ作曲の筆を折っていたし、すでにベッリーニが1835年にドニゼッティが1848年に世を去っていた。ヴェルディが世に出る時期が来ていたのである。実際、40歳前から50歳過ぎのヴェルディは、劇場支配人や出版社にも発言力をもち、自分の意志を通せるようになっていた。それに加えて19世紀前半に隆盛を極めたロマン派文学が彼にすぐれたオペラ題材を提供してくれたし、彼自身もそうした劇的な世界へのめり込んでいった。こうした時期にヴェルディはオペラ作曲家としての自己確立をしていく。またどんどん熟しつつある作曲技法をオペラに投入し、オペラの名作を残していくことになる。
ヴェルディは1852年から53年にかけての冬、パリに滞在していた。1853年2月6日、ジュゼッピーナともにヴォードヴィル座の「椿姫」を観て、いたく心打たれた。ヴェルディは、5月4日、イタリアに戻った。この時すでにヴェネツィアのフェニーチェ劇場と新作オペラの契約を結んでいた。同劇場では1年前に「リゴレット」で大当りをとっていたからである。フェニーチェ劇場側の座付き作者ピアーヴェの台本による新作初演は1853年3月と予定されていたが、1852年の10月になってもヴェルディはまだ新作オペラの題材を決めていなかった。10月の末、ヴェルディの住むサン・タガータに台本担当のフランチェスコ・マリア・ピアーヴェFrancesco Maria Piave(1810-76)が遣わされて即刻決断を迫られた。そしてデュマ・フィスの「椿姫」に決定となった。題名は「ラ・トラヴィアータ La traviata」とした。それは“道をふみはずした女”という意味になる。ヴェネツィアの検閲局は「ラ・トラヴィアータ La traviata」の題名について異議が出され、ヴェルディと劇場側は「愛と死 Amore e Morte」という妥協案を出した。だが最終的に「ラ・トラヴィアータ La traviata」に落ち着く。
ヴェルディは私的にはジュゼッピーナとはまだ籍を入れないままの同棲状態であった。デュマ・フィスの「椿姫」は、彼にも彼女にも実生活の現状からみても心動かされる題材であったことであろう。ヴェルディも不安定な立場にいる彼女のことを思いやり、気遣っていたと思われる。
新作の作曲は1853年、初演の約5週間前から始められた。ローマで初演する「イル・トロヴァトーレ」の舞台稽古中も、このオペラの作曲に没頭していた。ブッセートに帰って「ラ・トラヴィアータ」の大半を仕上げ、2月21日にヴェルディはこのオペラのオーケストレーション(管弦楽化作業)と稽古を実地に行うためにピアーヴェと共にヴェネツィアに行く。フェニーチェ劇場で新作「ラ・トラヴィアータ」の舞台稽古を続けながら、作曲の仕上げ(オーケストレーション=管弦楽化作業)を続けた。結核で倒れるヴィオレッタ役は肥満のサルヴィーニ、アルフレードのグラフィアーニも調子がよくなかった。ヴェルディが劇場側に不満を申し入れるには初日期日が迫り過ぎていた。
初演は1853年3月6日ヴェネツィアのフェニーチェ劇場で行われた。だが前作の「リゴレット」とは違い大失敗に終った。その理由は、舞台の時代設定を原作の19世紀から18世紀にヴェルディの強い意志に反して変更させられたことにもあった。つまり衣装や舞台装置についてで、それはフランス、ルイ14世時代の18世紀風の典雅な演技をしながら、衣装が当時代の19世紀風となっていたのはたいへん不自然であった。もう一つは歌手たちの問題である。予想通りこのオペラを背負うタイトル・ロールのソプラノ歌手がミス・キャストであった。だが、たとえよい歌手群に恵まれたとしてもこの短期間でのリハーサルでは無理な話だったかもしれない。
翌年の1854年5月6日、ヴェネツィア、サン・ベネデット劇場の再演が圧倒的な成功を収めた。ヴェルディもスコアに何箇所かに手を入れた。この時は舞台や衣装を徹底して1700年代とし、歌手の人選もよかった。同年のうちにオペラ「椿姫」はイタリアの諸都市、ローマ、ナポリ、ボローニャなどで上演され大喝采を受ける。その後、1855年にはマドリード、ヴィーン、マルタ、バルセロナ、リスボン、リオ・デ・ジャネイロ、そしてイタリアの他の各地で初上演された。1856年、ロンドン(王立劇場)、パリ(イタリア劇場)、ブエノス・アイレス、ワルシャワ、モスクワ、ダブリン、ニューヨークで初上演された。1857年、ロンドンでは英語、ブタペストではハンガリー語、ハンブルグでドイツ語で上演された。
時代設定は初版(リコルディ版)では1700年代としていたが、1964年版のリコルディ社のピアノ・スコアでは1850年頃=デュマ・フィス原作と同じ時代設定になっている。これは20世紀に入って徐々に原作小説や戯曲と同じ時代設定にしていったことを意味している。またヴェルディが生きている時代に、原作の演劇もオペラも有名になっていた。原作小説と演劇が「椿姫
La Dame aux camélias」であったが、オペラを「ラ・トラヴィアータ La traviata」としたことにヴェルディは一つの自信とこだわりをもっていた。
<音楽的特徴>
「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」は現在もオペラ十八番中の十八番として受容されている。だが一見大衆的なドラマと、美しくわかりやすい音楽で綴られているオペラともみえる。たしかに「椿姫」の音楽はヴェルディのオペラの中でも別格で、これほど多くのヒットナンバーをもつオペラもめずらしい。古今のオペラのなかで探すとすればかろうじてモーツァルトの「フィガロの結婚」や「魔笛」、ビゼーの「カルメン」くらいしか思いつかない。声楽曲部分だけでなく管弦楽曲部分も名曲揃いで、単独でも演奏されることも多い。ロマン派管弦楽曲の名曲ともなっている。
「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」は、伝統的な番号オペラである。この時、ヴァーグナーはアルプスの向うで楽劇という新しいオペラ理念に到達しようとしていた。そして「トリスタンとイゾルデ」(1859作曲)では非旋律的な音楽、無調的な音楽が展開され、古い伝統的な番号オペラのやり方は排除された(「ローエングリーン」がヴァーグナーが番号オペラを棄てた最初だった)。娯楽性ではなくドラマ重視したオペラをめざしていた。ヴァーグナーは人間の現実世界ではなく非現実的な世界を媒介として人間の姿を投影しようとしている。だが、この時ヴェルディがめざした音楽の世界は、人間の現実に則した真実性と心ときめく良質な娯楽性の2つの要素の肯定にあった。
フランチェスコ・マリア・ピアーヴェFrancesco Maria Piave(1810-76)の台本も輝いている。しかもこの時代のオペラ台本にありがちな不自然さがない。原作の骨組を単に押えているだけでなく、豊かな肉づけのための可能性が秘められている。そしてヴェルディの音楽は、デュマの悲劇物語をいっそう劇的で抒情あふれるものとした。ヴェルディのオペラ作りの書法と創造力が、自然に音楽とドラマの合体を生み出した。このことは人間の芸術をめざしたオペラ誕生の理念にも通じるものではなかったろうか。芸術至上主義(?)のヴァーグナーと一線を画するものである。とはいえヴェルディの新局面も見られる。一例をあげると、それは第2幕第1場のヴィオレッタとジェルモンのシエーナscena(レティタティーヴォ・アッコンパニャートが拡大されたもので、重要な劇的経過が表現されるので劇唱ともいわれる。直訳すれば情景とでも言おうか)である。ここでの20分ほどの長い対話のすぐれた音楽描写は、以後の彼のオペラの前表となるものであった。一つの見方をすれば、ヴァーグナーのシュプレッヒゲザング(ヴァーグナーは「ラインの黄金」第4場で初めてのシュプレッヒゲザングを用いた)に負けないものと言えるかもしれない。そして強い父親像もヴェルディ・オペラには欠かせない存在となっていくが、ここでその傾向を示している。
ヴェルディの中期の3つの名作、すなわちは「リゴレット」、「イル・トロヴァトーレ」、「ラ・トラヴィアータ」は、異形の真実の世界を取扱っている。せむしの道化、ジプシーの差別された女性、日陰に生きる娼婦という風にセンセーショナルな人物が登場する。歴史ものや王宮ものなどの演目で優雅な人物が登場していたオペラの世界にはあり得なかった人物像であった。しかし、これは当時としては新しい波であり、人間の真実を写し出す絶好の人物設定となっている。またこれらの人物像は聖書的人物像といえるのではないだろうか。それはキリストが常に陽の当らぬ人たちにスポットを当てていたからである。殊に軽んじられた人々、差別された階級に目を向けた。その代表が娼婦で、善人ぶる偽善的な人間よりも、むしろそうした人たちの方が天国に近いとキリストは教えた1)。それは逆説的肯定とも言うべき表現であった。ヴェルディはヴィオレッタをマリア・マグダラナのように回心し、神にゆるされていく人間として描きたかったのだと筆者は思う2)。回心すればゆるされない罪は無いからである。
[注]
1) 新訳聖書・マタイ21:31〜32“‥‥‥(略)‥‥‥はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。”(新共同訳/聖書)
2) 聖書に記述されているイエスに罪をゆるされた女性の例は下記の通り。
ヨハネによる福音書8:1〜11=姦通の女とイエスとのエピソード
ルカによる福音書8:36〜50=イエスが罪深い女を赦す
ルカによる福音書8:2=“七つの悪霊を追い出していただいたマグダラナの女と呼ばれるマリア”(新共同訳/聖書)
<実在の椿姫と原作、そして戯曲>
オペラ「ラ・トラヴィアータ(椿姫)」の原作はアレクサンドル・デュマ・フィス「椿姫 La Dame aux camélias」である。これには実在のモデルとがいた。それは作者自身とパリの美しい高級娼婦3)マリー・デュプレシ(1824-47)、本名をローズ・アルフォンシーヌ・プレシという女性である。彼女は19世紀のパリで名をはせた女性の一人といってよいだろう。パリの多くの男性の心を捉え、彼女と浮き名を流した男は多い。デュマ・フィスや作曲家リストとの愛は有名である。さて、アレクサンドル・デュマ・フィスDumas fils(1824-95)は有名な大デュマ、すなわちアレクサンドル・デュマと縫製工の母マリー・カテリーヌ・バベの私生児として生れ、父と区別して小デュマ(デュマ・フィスはデュマの息子の意)とも呼ばれる。マリーとの短い愛の思い出を小説「椿姫 La Dame aux camélias」4)として残した(直訳すれば“椿をつけた婦人”の意で、デュマ・フィス自身によって戯曲化もされた)。デュマ・フィスとマリー・デュプレシの実際の関係は次のようなものであった。5)
1844年暮れ、20才のデュマ・フィスはパリの取引所の辺りを歩いていた時、衣装店に入って行くマリーと出会い、心惹かれた。純朴な女性と信じたマリーは、7人もの大金持ちのパトロンをもつ女であった。彼女は月の25日を白い椿の花を付け、あと5日間を赤い椿を胸元に付けて、夜毎、劇場の桟敷に姿を見せていた。彼女の行きつけの花屋の女主人は、彼女を“椿姫
La Dame aux camélias”と呼んでいた。デュマ・フィスが父親と劇場に行った時、父から彼女を操っているクレマンス・プラという女の名を聞き出し、そのつてを使ってその夜、マリーの家へ行った。
マリーは多くの男に取り囲まれ、優雅な紫檀で作られたプレイエル製のピアノを弾きながら、下卑た歌を歌っていたという。気遣うデュマ・フィスにすでに結核に冒されていた彼女は血を吐きながら、お金が欲しい、年10万フランは必要だといったとか。純情なデュマ・フィス(しかも大文豪の息子!)に惹かれた彼女は椿を彼に渡し、花の色が変わる頃会いましょうと約束した。かくして二人は逢瀬を重ね、馬車でパリを駆けめぐったという。彼は数ヶ月程の彼女とのつき合いで5万フランもの借金をつくった。みかねた父は息子をスペインへ連れだした。1845年8月30日、スペインからにマリーに別離の手紙を送る。その冬、彼女は銀行家の息子ペルゴー伯爵と知合い、彼の恋人になる。1846年2月21日、すでに結核で弱っていたマリーとロンドンで入籍する。だが、その夏には破局を迎えマリーはパリに戻り、別居した。10月18日マリーに、デュマ・フィスは父とのスペインおよび北アフリカへの旅の空から一通の手紙を書き、1年前の自分の犯した罪のゆるしを乞うた。
1848年2月3日、ペルゴー伯爵夫人マリー・デュプレシは、パリのアンタン通りRue
d'Antin9番地の自宅で多額の借金をかかえたまま結核で死去した。享年23才であった。その1週間前パリに戻ったデュマは、まだ生きているのに彼女の家財が競売される様や、2月16日にモンマルトル墓地での彼女の埋葬の一部始終を見聞した。マリーの墓には今も供花が絶えないという。
1848年2月、24歳のデュマ・フィスは、マリーとの思い出を小説「椿姫」として書き上げ、出版した。すべてデュマ自身が体験し、感じ、見聞きしたこととはいえ、これを読む者を深い感動に導くものである。1849年、すすめに従い1週間で戯曲版「椿姫」を書上げた。1850年のヴォードヴィル座での上演が決るが、検閲当局の拒否で2シーズンの上演禁止になる。やっと1852年2月2日、5幕の芝居「椿姫」がヴォードヴィル座で初演され、大成功をおさめた。ヴェルディが観るのはその4日後の2月6日の上演であった。
[注]
3) 日本語で高級娼婦と訳されている語はフランス語のクルチザンヌcourtisaneとみていいが、類似語は多い。フランスだけに許された、歴史的背景と民族独特な気質が作り出した存在なのである。
他にもココットcocotte、グランド・ココットgrande cocotte、ドゥミモンディーヌdemi-mondaine、オリゾンタルhorizontale
などがある。クルチザンヌcourtisane(宮廷人の意)が示すようにその始まりが王たちの寵姫が始まりである。19世紀になって一般貴族や富裕人をパトロンにもつ彼女たちは社会的にも認められた存在でもあった。クルチザンヌたちのたちの邸宅では華やかな夜会が毎夜のように開かれていた。美しく、教養と気品のある彼女たちは公の場にもパトロンの同伴を認められていた。
4) デュマ・フィス(新庄嘉章訳)/「椿姫」/新潮文庫
過去に1884年=明治17年に草廼戸主人によって訳された「巴里情話 椿のおもかげ」があり、また1903年=明治36年に長田秋濤訳による「椿姫」がる
5) ガイ・エンドア(1902- )河盛好蔵訳「パリの王様(デュマ物語)」(講談社 昭48刊)の中で記されている。、フランスだけに許された、歴史的背景と民族独特な気質が作り出した存在なのである。
<物語>
第1幕 ヴィオレッタの客間
時は19世紀。パリの社交界の花、椿姫ことヴィオレッタは、自分の邸宅で今日も夜会を催している。次々と客人が現れ、彼女のパトロン、ドゥフォール男爵も来ていた。そこへやって来たガストン子爵からプロヴァンス生れの若きアルフレード・ジェルモンが紹介された。アルフレードはかねてよりヴィオレッタにひそかに恋心をよせ、ヴィオレッタの健康を気遣っていた。彼女はすでに結核にむしばまれていたからである。そして真摯な青年の思いを恋多き女ヴィオレッタは受け入れ、真の愛が芽生えていく。二人は再会を約束し合った。一人になった彼女は、自問自答し、愛の不思議をたしかめるのであった。
第2幕
第1場:パリ郊外の別荘
あの出会いから3ヶ月後のこと、ヴィオレッタは今までの生活を清算して、アルフレードとパリ郊外で静かな愛の生活を送っていた。だが、生活費のすべては彼女の負担だった。それに気づいたアルフレードは彼女が売って生活費にしたものを買い戻しにパリに出かける。そこへプロヴァンスに住む彼の父親ジェルモンがやって来る。経済的な事情を知らぬジェルモンは息子が金銭的負担をしていると思っていた。そしてあなたは息子にふさわしい相手ではない。息子と別れてくれと願う。ヴィオレッタは今は罪のゆるしを教会から受け、生活を改めていることを告げるが、父は受けつけない。兄アルフレードと過去ある女性との関係は、アルフレードの妹の縁談にさしつかえるというのだった。愛する娘の為に犠牲を払ってくれと言われ、これが大きな衝撃となり、やむなくこの父の願いを受入れるのであった。それは彼の妹の幸せのために捧げる犠牲だった。彼女は決断し、アルフレードへの偽りの別れの置き手紙残し、パリへ向かって行く。この時父ジェルモンが現れ、息子を慰めた。しかし、別れの置き手紙を見、真相を知らないアルフレードは怒り、復讐のために彼女を追ってパリに向かうのであった。
第2場:パリのフローラの豪華な客間
ドビニー侯爵の世話を受けていたフローラ(ヴィオレッタの友人)は、仮面舞踏会を開いている。皆がアルフレードのうわさをしていると、そこへ当人のアルフレードが現れる。次いで元の鞘のパトロンのもとに戻ったヴィオレッタが、ドゥフォール男爵に腕をとられて現れる。真意を知らぬアルフレードは、ヴィオレッタに参会者の面前で侮辱を与える。この時アルフレードの父ジェルモンが現れて、激しく息子を叱咤する。パトロンのドゥフォール男爵もアルフレードに決闘を申込み、大波乱となる。
第3幕 ヴィオレッタの寝室
あの舞踏会から約1か月後のヴィオレッタの寝室。時は謝肉祭の寒い2月。朝7時に医者の往診を受け、ヴィオレッタは彼に、昨夕、神父様がいらしたと語る(これは重病際に受ける<病者の塗油の秘跡>を受けたことを意味する)。医者は召使いにもう数時間の命と耳打ちする。死は迫っている! 彼女はアルフレードの父ジェルモンからの手紙を胸元から取出して読む。もう幾度読んだことか! 義父としての謝罪とアルフレードとの結婚のゆるしが綴られていた。アルフレードは決闘の結果、ドゥフォール男爵を傷つけ国外追放になったがまもなく彼女のもとに戻ると‥‥‥。死が迫っている彼女にはあまりに遅すぎたのである!
その時、通りから賑やかなカーニヴァルの歓声が聞えてくる。そこへアルフレードが戻って来たのである! 二人は永久の愛を誓う。彼女は教会に行きたいという。感謝の祈りのためであったが、あまりの衰弱はそれをゆるさない。そこへ父ジェルモンがやって来て娘よと呼びかける。医師も呼ばれてやって来る。父は激しい自責の念に駆られる。ヴィオレッタは、自分の小型の肖像を取出し、“私の死んだ後、心の美しい娘さんがあらわれたら、結婚してあげて。そして、これをさしあげて。天使たちと一緒にあなたたちの幸せを祈っている女の贈物だと伝えて。不思議! 生返るのかしら、苦しみがとれた、なんとうれしい!” そして、ヴィオレッタは立上がり、歓喜のうちに天に手をさし出し、息を引取ったのであった。
参考ディスク
DVD UCBD9003 発売:2009/11/4
サー・ゲオルグ・ショルティ指揮、リチャード・エア演出
コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団&合唱団
ヴィオレッタ:アンジェラ・ゲオルギュー(S)
アルフレード:フランク・ロバート(T)
父ジェルモン:レオ・ヌッチ(Br)
フローラ:リー=マリアン・ジョーンズ(Ms)
アンニーナ:ジリアン・ナイト(Ms)
ガストン子爵:ロビン・レガーテ(T)
ドゥフォーレ男爵:リチャード・ヴァン・アラン(Bs)
ドビニー侯爵:ロテリック・アール(Bs)、
医師グランヴィル:マーク・ビーズリー(Bs) |
収録:1994年12月コヴェント・ガーデン・ロイヤル・オペラ・ハウス
DVD O734364(映画版) 発売:2007/11/9
ジェイムズ・レヴァイン指揮、フランコ・ゼッフィレッリ監督、脚本、美術
メトロポリタン歌劇場管弦楽団・合唱団
ヴィオレッタ:テレサ・ストラータス(S)
アルフレード:プラシド・ドミンゴ(T)
父ジェルモン:コーネル・マクニール(Br)
ドゥフォール男爵:アラン・モンク(Br)
フローラ:アクセル・ガル(Ms)
アンニーナ:ビーナ・チェイ(S) |
制作:1982年ローマ 伊・米合作映画
☆ビギナーにはおすすめ。回想場面としての演出は、原作の香りをもたらしてくれる。
第1幕の「前奏曲」で展開される映像は、まさに圧巻。
DVD UCBG9097 発売:2009/6/4
カルロ・リッツィ指揮、ヴィリー・デッカー演出
ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団&ヴイーン国立歌劇場合唱団
ヴィオレッタ:アンナ・ネトレプコ(S)
フローラ:ヘレーネ・シュナイダーマン(S)
アンニーナ:ディアーネ・ピルヒャー(Ms)
アルフレード:ロランド・ヴィラゾン(T)
ジェルモン:トーマス・ハンプソン(Br)
ガストーネ:サルヴァトーレ・コルデッラ(T) |
ドゥフォール男爵:ポール・ゲイ(Bs)
ドビニー侯爵:ヘルマン・ヴァレン(Br)
グランヴィル医師:ルイージ・ローニ=全幕登場するが歌わない →グランヴィル医師:ヴィルヘルム・シュヴィングハマー(Bs)=第3幕
使いの者:フリードリヒ・シュプリンガー(Br) |
収録:2005年8月ザルツブルク祝祭大劇場
☆このDVDについて
1997-2011