ヴェルディの生涯と作品
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「ヴェルディの肖像」
ジョヴァンニ・ボルディーニGiovanni Boldini
1886年制作 |
<はじめに>
ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディGiuseppe Fortunino
Francesco Verdiイタリア(1813-1901)は、
ロマン派時代(1820-1900)に属する。ヴェルディの功績は、彼の作品の90%を占めるオペラにおいてであった。改作を除くと正味26作品のオペラを残した。そもそも
オペラはイタリアにおいて
誕生し、イタリアの偉大な土壌の中で育っていった。イタリアで多くの名作オペラが生れていったのも当然のことかもしれない。もちろん、オペラはフランス、ドイツ、イギリスなどにも伝わっていったが、ドイツに
ヴァーグナーWagnerドイツ(1813-83)が出現しても、イタリアのオペラにおける地位は揺がなかったと言える。こうした歴史の中で、ヴェルディのオペラが花開いたのも当然のことかもしれない。そしてイタリア・オペラ、いや、西洋のオペラの一つの頂点を築いた。それは、当時としては形骸化していたイタリア・オペラを活性化させ、最高の高みに導き、自身は後期ロマン派の世界へと変化を遂げていったと言えよう。同じ年に生まれたアルプス北のヴァーグナーとは互いに融和しがたい両極に並び立つライヴァルとなる。
<ミラノへの道>
ヴェルディは
1813年10月10日、北イタリアのパルマ県にある小都市ブッセートの郊外3kmの寒村レ・ロンコレで行商人相手の飲食店兼宿屋
1)の長男として生まれた。レ・ロンコレは人家わずか数十戸の鍛冶を主とする小さな村であったが、古くからクレモナからパルマへ抜ける行商人や旅音楽師たちの交通の要衝であった。家業の宿屋と言う環境の中で育ったヴェルディは、立寄った旅音楽師の音楽を胎内にいた時から耳にしていたことだろう。そうした旅音楽師のひとりでヴェルディの家を常宿にしていた
バガセットが、幼いヴェルディの素養を見抜いて、父に彼が音楽家の道を進むよう勧めたといわれている。後年ヴェルディが老音楽師を捜し求めて報いたと言うエピソードも伝えられている。彼の一生を支配した人物であったと言えるかもしれない。
1821年7才の時、村の教会オルガニスト、
バイストロッキに本格的な音楽の手ほどきを受ける。ヴェルディはただならぬ熱意ぶりで、ついに両親は彼にひどい中古のがたがた状態のスピネット
2)をヴェルディに買い与える。寝食を忘れて彼は引き続けたと言う。またこの時彼の故郷はフランス支配下の中にいた地域であったため、小学校ではフランス語が使われた。ヴェルディのイタリア語とフランス語のバイリングァルであるのはこのためである。10才の時バイストロッキが死に、父はブッセートの雑貨と酒の卸商人
バレッツィ(1787-67)に相談した。小学校を終えた息子の行く末を考えてのことであった。音楽愛好家であるバレッツィはヴェルディの能力を見抜き、ブッセートで勉強するよう勧めた。バレッツィはこの町の名望家で
(後にヴェルディの義父になる)、ヴェルディの恩人としての役割を死ぬまで果す。ヴェルディ・オペラには特有の役廻し・性格をもつ
ヴェルディ・バリトンが登場する。その存在の根源がこのバレッツィであろう。
そうしてヴェルディは靴職人プニャッタの家に下宿してブッセートの中学校に通うようになる。下宿代の半額を稼ぐためにレ・ロンコレに通ってサン・ミケーレ教会のオルガニストを務めた。
1825年ヴェルディ13歳の時からバレッツィはヴェルディに、ブッセート市立音楽院院長でありブッセート大聖堂楽長
(合唱長・オルガニスト)であるすぐれた音楽家であった
プロヴェーシ(1770-1833)に指導を受けさせた。1826年から最初の作品を書き始める。ブッセートの楽友協会のメンバーが集まるバレッツィ家に頻繁に通い始める。ここでやっと本物のピアノに触れることができ、一日中入り浸るようになった。この厚遇に報いるためにバレッツィの商いの手伝い、つまり会計を手伝うことになる。帳簿をつけたり、請求書を発送をした。またバレッツィ家の長女
マルゲリータ(1814-40)に歌とピアノも教えた。彼女はやさしくおとなしい内気な娘で、彼に惹かれていった。彼も同様であった。
1831年、ブッセートでは強盗が頻繁に起こり、バレッツィの妻はヴェルディにバレッツィの家に部屋の提供を申し出たので、プニャッタの所から引っ越した。ヴェルディの音楽の勉強も好調に進み、またますますバレッツィの信望も得ていった。そしてバレッツィは、ミラノの音楽院入学のために奨学金の申請や手続きを取り計った。次の年の1832年に奨学金は認可され、マルゲリータに思いを残し、いや彼女の思いの方がはるかに強かったが6月22日にミラノに着いた。しかし、入学試験に落ちた。定員はわずか、年齢制限は超えているし
(14才以下が入学資格、彼は18歳だった)、特別な資質も見出されなかった。不合格は年令のためであったと伝えられているが、実際ピアノの演奏能力や対位法において力不足でもあった。いずれにせよこのことは彼には生涯忘れ得ぬ屈辱的な出来事となってしまったことは確かである。
その後、ヴェルディは
ラヴィーニャLavigna(1766-1836)の所へ個人レッスンに通い始める。こうしてミラノにおいて作曲家としての教育を受けることになった。ラヴィーニャは有名なオペラ作曲家で、以前はミラノ音楽院のソルフェージュの教師と、スカラ座の歌手の指導者でつまりチェンバロ奏者(<チェンバロのマエストロ>と言われていた)を務めていた。特にヴェルディに対位法書法をしっかりと教え込んだ。明けても暮れてもカノンとフーガばかりだったとか。パイジェッロPaisiello(1740-1816)の礼賛者のラヴィーニャから得るとものが無かったと言う。ヴェルディは何度かはスカラ座に通った。しかし、スカラ座で上演されるプログラムは、
ドニゼッティ(1797-1848)とメルカダンテ(1795-1870)のオペラが多く、彼が聴きたかった
ベッリーニ(1801-35)はほとんど無く、
ロッシーニ(1792-1868)も少しだけで外国のオペラは皆無だったという。
かねてより愛し合っていた
バレッツィの長女マルゲリータとヴェルディは、
1836年4月16日に結婚届が役所に出された。その19日後に質素な結婚式が行われた。その年2月にブッセートの聖バルトロメオ大聖堂楽長と市の音楽教師に任命されていたし、いよいよブッセートに居を構えることができた。しかし、ヴェルディの給料はわずかなので義父バレッツィから援助を受けた。ヴェルディの市の音楽教師の仕事も始まり、週に5日間、チェンバロ、ピアノ、オルガン、歌唱、対位法、作曲法を教えた。1837年長女ルイジア(1837-38)が3月に誕生、9月にバレッイに借金して学校の休暇を利用して60日間だけミラノへ行く。1838年7月長男アントニオ(1838-39)を得たが、長女は1年4ヶ月で失う
(1838年8月)。ついに彼はブッセートの仕事を辞職することになった。
1839年2月6日に妻と長男を伴い、
ミラノへ移住した。しかし長男が1年2ヶ月で病魔に奪われてしまう
(1839年10月)。11月にスカラ座で初めてのオペラ「サン・ボニファーチョの伯爵オベルト」を初演し、それなりの評価を受けた。そしてスカラ座から新作の委嘱を受けたが、
最愛の妻も1840年6月に失う。悲嘆の中で9月に上演した
オペラ・ブッファ「一日だけの王様
(にせのスタニスラオ)」は成功しなかった。その後苦しい日々を送る中で後に2度目の妻となるプリマ・ドンナのジュゼッピーナの励ましとスカラ座支配人メレッリによって書上げられた「ナブコドノゾル(
ナブッコ)」
(1842年初演、旧約聖書を素材にしている)は、オーストリアの支配下にあったミラノの人々を沸かせ、文字通りの大成功を収める。これによって本格的なオペラ作曲家としての名声を得る第一歩となる。オーストリア検閲当局はこのオペラを革命を扇動する危険な作品とし、いくつかの場面を削除させようとしたが、ヴェルディは断固として拒否したのであった。
[注]
1)父はカルロ・ヴェルディ(1785-67)、母はルイジャ・ウッティーニ(1787-51)、1805年にピアチェンツァから嫁いで来た。この2人が営む飲食店兼宿屋は、現在でもイタリアや他のヨーロッパの国々でも見られるバールbarとレストランが階下にあって上階に部屋を持つ安価なホテルで、アルベルゴAlbergoという。
2)スピネットspinetta伊語、spinet英語、épinette仏語、Spinett独語は、通常一段鍵盤の小型チェンバロcembalo伊語の一種。15世紀ヴェネツィアでスピネッティG.Spinettiが考案したのでこの名がある。音域は普通4オクターヴ半。
<他の都市での活躍>
ヴェネツィアのフェニーチェ劇場の依頼で第5作「エルナーニ」を完成し、初演する
(1844年)。このユゴーの原作はパリでも賛否両論を引き起したロマン主義戯曲で、ユゴーの芸術と最初の結びつきでヴェルディの新しい劇的表現の開拓になった。それ以前のオペラには見られなかったドラマとしての有機的な統一を計り、音楽をドラマの内容と密接に結びつけようとするようになった。それまでは、一つ一つの歌が、感情の凝集となって爆発すると言うようなやり方であった。以後、ローマでは「
二人のフォスカリ」
(1844年11月3日アルジェンティーナ劇場初演)、ミラノ、ヴェネツィア、ナポリのために相次いで書かれたが、それ以上の新しい発展はなく、自身“苦役の年月”と呼び、リューマチの発作と胃の痛みにも悩まされた。
第10作「マクベス」
(1847年フィレンツェ、ベルゴラ劇場初演)で、初めてシェークスピア(1564-1616)に挑戦する。シェークスピアは彼の深く尊敬する作家で、「リア王」、「テンペスト」、「ハムレット」についても晩年までオペラ化する望みを持っていたが、実現しなかった。「マクベス」においてより人間の深層心理の表現に、彼の音楽が向った点は注目すべきである。マクベスとその夫人の異常な人物像は、従来のオペラに現れる典型的人物像でない。この人物に劇的で性格的な新しい表現を見い出した。これは
モンテヴェルディ以後200年間、イタリア・オペラが忘れ去っていたものであったと言えよう。だが、「群盗」
(1847年ロンドン、クイーン劇場初演)以後1年少しパリにとどまった
(1847年冬-48年12月20日)。この時、パリ、オペラ座から要請で「十字軍のロンバルディア人」
(1843年ミラノ初演)を改作した「エルサレム」
(1847年11月26日パリ初演)をフランス・オペラ、
グランド・オペラとしてリメークして大成功を収めた事は意義深い。
1847年、引退してパリで生活していた
ジュゼッピーナとの再会し、愛が育まれた。彼女は2年以上前からパリに住み、声楽を教えたり、演奏会も行っていた。プログラムの曲の殆どがヴェルディのオペラのアリアだった。パリで愛は確かなものにし、人生の伴侶をジュゼッピーナ・ストレッポーニと決めたようだ。ヴェルディが幸せなパリ滞在時に2月革命
(1848年2月22-24日)起こり、国王ルイ・フィリップ
(在位1830-48年)は退位させられイギリスに追放された。3月13日にはオーストリア首相メッテルニヒが辞任し、イタリアのリソルジメント運動家たちは浮き立った。
ヴェルデイは4月5日-5月31日の間ににミラノからブッセートへ行って家を買い、サンターガタの農地と大きな別荘を買い取った。2月革命後、イタリアでもイタリア統一をめざすリソルジメント運動などヨーロッパ中が動いた。こうした中ジュゼッピーナと共にパリ郊外パッシーへ居を移して、落ち着いた生活を送る。時々劇場にも出かけ新しいオペラを観た。まだ彼にとってヴァーグナーは目の中に無かった。マイヤベーアMayerbeer
ドイツ(1791-1864)には注目し、批判も感じた。新しい世界へと眼差しを向け始めた。この頃バイロン原作の「海賊」を作曲した。2年前に興味を引かれたものの、放ってあったものだった。1848年2月12日完成した。10月25日トリエステのグランデ劇場で初演だったが、完全な失敗に終わる。
パリ滞在(1847年冬-48年12月20日)後、ヴェルディとジュゼッピーナの2人は連れだってイタリアに帰り、ブッセートに住んだ。閉鎖的なブッセートの口さがない連中にはこの2人の婚姻を伴わない同棲生活は受入れられないもので、人々のうわさの種になった。ジュゼッピーナにとっては大きな苦しみとなる。後に広大な土地を購入してあったサンターガタに移る。
「海賊」
(1848年初演)の後に作曲した「レニャーノの戦い」
(1849年12月8日ローマ、アルジェンティーナ劇場初演)は、熱狂的な歓迎を受け、「ルイザ・ミラー」
(1849年12月8日ナポリ、サン・カルロ劇場初演)では新生面の開拓がみられ、レチタチーヴォを旋律的にも管弦楽書法の面からも進展させている。「スティッフェリオ」
(1850年トリエステ、グランデ劇場初演)は失敗に終わる。
<中期の名作と再婚>
前期でのさまざまな経験と蓄積と試行錯誤を総決算し、その中から新しい発展の道を模索した力作として現れたのが
中期(1851-69)の「
リゴレット」、「
イル・トロヴァトーレ」、「
ラ・トラヴィアータ(椿姫)」である。これらの3作は「マクベス」に見られた異常な性格の激烈な表出からさらに進め、異形の中の真実を追求したものであった。いずれもオペラとしては全く新しい題材であり、ともにその中に人間的真実をもつ音楽を発見しようという姿勢に貫かれている。そして音楽を声の技巧のためではなく、ドラマ展開に一致し効果をもたらす音楽を考えた。そうしたヴェルディの意図が徹底するにつれ、彼の音楽は益々劇的表現力を増し、管弦楽の担う役割も増していく。従来の
声の分類による定型とその役割の概念も打破されていった。
その後フランス・オペラ「シチリアの晩鐘」
(1855年パリ初演)と失敗作と言われる「
シモン・ボッカネグラ」
(1857年初演)を経て3つの力作を生むことになる。それは「
仮面舞踏会」
(1859年初演)、「
運命の力」
(1862初演)、「
ドン・カルロス」
(1867年初演:フランス語版)である。特に「仮面舞踏会」は、
イタリア統一と独立(=イタリア国家統一運動Risorgimento)を目指そうとオーストリアに宣戦布告をしようとしている時期でもあり、このオペラはイタリア人の希望の星としての役割を果した。音楽的な意味で言えばこれほど新しい語法と形式への意欲を示した作品はそれまでの彼のオペラには無い。意識的に旋律を否定的に扱い、声楽と管弦楽を結合する厳格さを求め、それはより簡潔さの中で音を造形するというものだった。また旋律や音型に
示導動機Leitmotivへの近づきがみられ、ヴァーグナーの音楽論に決して無関心ではなかったことがわかる。
私生活では、
1859年8月29日にヴェルディ(46歳)とジュゼッピーナ(44歳)と正式に結婚式を挙げる。長い同棲生活にピリオドを打った。1861年にトリノに召集された国会の下院議員に選ばれ、この議会はついに待望のイタリア王国の成立を宣言した。最初の妻の父であり援護者のバレッツィも1867年に死去、またコンビの台本作者ピアーヴェも世を去った。1968年に
ロッシーニRossiniイタリア(1792-1868)がパリで亡くなった時、イタリアの14人の作曲家との共作でレクイエムの作曲を計画し、ヴェルディは「
リベラ・メ」を作曲した。結局この計画は13人によって仕上げられ
(1869年9月全曲完成)、その時の上演は実現しなかった。実現するのは
1988年ドイツにおいてであった。
1873年5月22日、88歳の文豪マンゾーニの死に際して「
レクイエム」
(1874年作曲、初演)を作曲する時、この時作曲した「リベラ・メ」を取入れた。
<後期のオペラと死>
後期(1871-94)。「
アイーダ」
(1871年作曲)は、スエズ運河開通を記念して建てられたカイロのオペラ劇場のこけら落としのために委嘱された。ヴェルディにとってグランド・オペラ様式と劇的表現の絶頂を示す作品となった。「アイーダ」を最後に番号オペラと決別することになる。ヴァーグナーの
通作書法をとるようになる。確かにヴァーグナーの影響を受けたが、その結果はイタリアの伝統に接ぎ木された。
ペーリ(1561-1633)以後のオペラの伝統ばかりでなく、パレストリーナやマルチェッロの伝統と栄光をも継承しようとした。そのような経緯の過程で「弦楽四重奏曲ホ短調」
(1873年)作曲された。
「アイーダ」から約16年後に「
オテッロ」
(1887年初演)を生み出す。歴史的な成功を収めた。このオペラにおいて今までのイタリア・オペラになかったような人声と管弦楽は完全な一体化を見せ、生き生きとしたドラマを展開した。
レチタティーヴォと
アリアの区別もなく、伝統的なナンバー区分もなく、全体が起承転結となる構成をもっている。
ヴェルディは80才の高齢になろうとする時に「
ファルスタッフ」
(1893年初演)を完成する。生涯に「1日だけの王様
(にせのスタニスラオ)」(1840年初演)と「ファルスタッフ」の2作のみのオペラ・ブッファである。さらに今回もシエークスピアの原作によるボーイトの台本だった。シェークスピアの「ウィンザーの陽気な女房たち」と「ヘンリー四世」を下敷きにしたものである。ヴェルディ待望の喜劇の題材、オペラ・ブッファだった。筆者の一つの考えであるが、「ファルスタッフ」は大いに笑って観るオペラ・ブッファとは性格を異にしている。ヴェルディの人間自体がユーモアあふれるパーソナリティを有していない。
音楽面では「オテッロ」を上回る声と管弦楽の一体化が見られるものの、このオペラの真価を筆者はまだ理解できないでいる。我々の今後の論が待たれるオペラである。
1896年にヴェルディ最後のオペラ
(opera=仕事)となる「
音楽家の憩いの家」の設計書が出来た。100人の退役音楽家を収容出来る3階建ての美しい建物であった。
1897年秋、サンターガタでジュゼッピーナは気管支炎がもとで臥せる。ジェノヴァに移るが肺炎を引き起こし、11月14日に死去した。ブッセートの大聖堂で葬儀が行われ、ミラノの記念墓地に埋葬された。1898年にパリの演奏会で初演された「
聖歌四編」は、彼のバロック的合唱書法と対位法技法の粋を示している。いやもっと古いイタリアの
多声音楽の憧憬さえうかがえる。
1901年1月21日にヴェルディはミラノのホテル・グランデで卒中のため倒れた。
27日午前2時50分87才のヴェルディは、ホテルの部屋で息を引き取った。30日早朝にミラノ記念墓地に埋葬された。2月1日にヴェルディの栄誉を讃える大演奏会をトスカニーニの指揮により開催される。2月27日午前8時、ヴェルディ夫妻の遺体は、彼が私財を投げうって建設した「音楽家の憩いの家」の墓所に移された。その途上は全世界の各団体から巨匠を送る30万人の人々が集り、トスカニーニの指揮による8000人の合唱団が「ナブッコ」第3部第2場「
わが思いよ、金色の翼に乗って行け」を歌いながら行進した。妻ジュゼッピーナと共に
埋葬された。
ヴェルディの遺産は705万リラと計上され、死の前年ブッセートで作られた遺書に従って整理された。半分を晩年可愛がり養女にしたマリア・カラーラに送られた。マリアはヴェルディの叔父の遺児であり、カラーラと結婚してサンターガタで同居していた。カラーラ夫妻がヴェルディの最後を看取っていた。遺産の残りは、使用人、親戚などにも若干贈り、ジェノヴァの慈善団体、ヴィラノーヴァの病院、それに若い時ヴェルディを育んだモンティ・ディ・ピエタ奨学資金などに贈った。さらにヴェルディの印税収入がミラノの「音楽家の憩いの家」に贈られるようにした。その他彼が施した慈善事業は多数ある。
<ヴェルディのオペラ>
[前期のオペラ]
ヴェルディのオペラ作品を3つの時期に分けることができる。
前期の15のオペラ(フランス語版の「エルサレム」を除いて)は、愛国的作品を主体とし、純文学的な傾向をみせている。前期のオペラは以下の通りである。