騒ぎがはじまったのは、雨雲が低くたれこめた真冬の土曜日の午後だった。

こんな片田舎の町の大会に金メダリストが来るというのだから、大騒ぎにならない方がおかしい。「歓迎」の横断幕が掲げられる中、今や国民的アイドルとなった彼女の姿を一目見ようと、ほぼ全員といっていいくらいの町民が公民館に押しかけている。まだ開会式が行われているのであろう。ざわめいている中の喧騒をよそに、ひっそりと裏口から控室に入る。まだまだ駆け出しの私ではあるが、「一流の選手に会えば何か実戦に役立つ事でもあろう」と、中をとりもってくれる人もあって、この場に。

「先生、今日は徹底的に飲み明かしましょう」
どうやら式が終わったらしく、監督の声がする。何でも、うちの町長は監督の恩師にあたるそうな。こんな大会に来てくれるというのも、まぁその縁もあってのこと。
「監督、飲みすぎないで下さいね」
「ばっきゃろー。何年ぶりかというのに、これが飲まずにいられるかって」
「もう、相変わらずなんだから」

「ね、君の足に触らせてくれないか」
監督と町長が昔話を始めて、ポツンと取り残されたかのような彼女に向って、こう話しかけてみる。
「えぇ、どうぞ」
彼女は一瞬キョトンとした表情を見せたものの、ニッコリと微笑んでくれた。てっきり断られると思って、こっちは半分冗談のつもりで言ったのに。足といえば大事な商売道具。普通の感覚だったら、初対面の人間に触らせることはないのだろうが、そのあたりにも彼女の人柄の良さがあらわれている。

今ここで彼女の骨を折ったら大変な事になるんだろうなぁ。一瞬そんな想いが頭をよぎったが、まさか、そんな事をするわけもない。そういえば、かなりの昔だけど、足に1億円の保険をかけた野球選手がいたっけ。彼女の場合はどうなっているんだろう。今や何億と稼ぐ足。それなりの対応はしてるとは思うけど。

レース直前のマッサージを施しながら、触っているその指の感触が、初めて会った時の出来事を私に思い出させる。あれから9ヶ月。私はチームのスタッフとして迎えられ、24時間行動を共にするようになった。

いよいよスタートまであと少し。考えてみれば、彼女ほど本当の意味でセルフ・プロデュースができたランナーはいないかもしれない。最初からぶっちぎって良し、中盤から飛ばして良し、ラストの勝負にも強い。どんなレースでも自分で組み立てられるんだから。

私は指先を通じて、彼女と会話をし続けてきた。今では、どんな事を考えているかわかるくらいだ。彼女も私には全幅の信頼を置いてくれている。でも、それはあくまでも選手とスタッフとの関係。私の心の中には、いつの日からか別の感情が芽生え始めていた。でも、それは許されることのない世界。思い悩んだあげく、私は何も告げずにチームから離れることにした。

空港のロビーにあるテレビでは、まさにゴールの瞬間を映しだそうとしていた。まるで台風のように駆け抜けて行った彼女。優勝おめでとう。それを確認すると、私は搭乗口へと向った。そして、画面には世界最高記録のタイムが。

そう、人生は割りきれるものばかりじゃない。