悲 愁 歌
Elegy
小松崎 松平
by
matsuhei komatsuzaki
第一章 ハイヒールと少年
背後から、小気味よい響きが聞こえてきた。ハイヒールが、アスファルトの路面を鳴らす音だった。藤原賢治は、それまで三十分ほど、公園のベンチに座り、外燈の下で、文庫本の細かい活字を無理して読んでいた。しかし、リズミカルな靴音が耳に伝わってくると、文章を流すようにして、神経を聴覚に集中していった。
公園の入口から賢治が座っている木製のベンチまでは、およそ十メートル離れている。そこを今、ハイヒールが歩いて来る。
(女だ。随分、華奢そうな人らしい。歩く速度から察すると、二十歳代前半だろう……)
画家が着衣のモデルを前にして、裸体を想像するように、一人の女性像を素早く脳裡に描く。それは楽しい半面、誰にも知られたくない羞恥を含んでいた。賢治はちょっと気恥ずかしくなり、雑念を打ち消そうとして、文庫本に視線を移した。だが、無駄な動作だった。精神は、外燈の明かりで活字を追う作業を厭がっている。それよりも、何か新しい刺激を求めていた。
靴音は、こちらの動悸と比例して、確実にやってきた。何故このように胸が昂るのか、彼は解からなかった。こういう時の賢治の勘は鋭い。その音は、定められた旋律の上を、一拍の乱れもなく進んでくる。
(あっ、止まった。でも、こちらには来るはずがない。あの二股に分かれた道を左へ行ってしまえば、それで終わりだろう……)
「いま、何時ですか」
妙に艶のある声が、背後から訊ねてきた。公園には、自分以外の人間は他に居ないことを、彼は先程、確認していた。間違いなくこの僕に訊いている、と賢治は判断した。だが、振り返って見るべきかどうか、一瞬、躊躇った。
「十時二十三分です」
いままで本に向かっていた視線を腕時計に移して、賢治はさらりと応えた。
「有り難う」
相手が礼を言い終わらないうちに、賢治は視線を元に戻していた。しかし、数秒後に「仕舞った」と思い、残念がった。時刻を教える時に、何気なく相手に目が移っていたなら、つまらない想像も直ちに掻き消せたろうし、鼻にかかった甘い声を出す人物の、素早い観察も、可能であったろう。後悔の念が増すにつれて、賢治の心は振り返って見るほんの僅かな行動を、拒否し続けるのだった。
「お勉強ですか、大変ね」
女は、こちらを覗き込みながら言った。
「ええ……」
たった今、時刻を教えておきながら無視するのも不自然なので、彼は軽く頷いた。賢治の心は、先程から何か切っ掛けを待望し続けていた。ちょうど、スタートラインに立って、ピストルの合図を待つランナーの心境だった。
「真面目ですわね」女は、含み笑いをした。
賢治は、僕をからかったな、と思うやいなや、
「いいえ、勉強と呼べるほどの大袈裟なものではありません。本を読んで暇を潰しているのですから」
と一気に言って、とうとう後ろへ首を捻った。揶揄(やゆ)に対する反論というよりも、己の内面の抵抗を振り切るための発言だった。
「あら、読書って、勉強のうちに入りませんの? 学問は一冊の書物からと誰かが言っていましたわ」
女は、案外という顔をして、今度は明るく笑った。
「しかし、僕が読んでいるのは、文芸書です。学問などという堅いものではありません」
賢治は、それだけ自己主張して、後ろに立っている女を素早く観察し始めた。淡い水色のブレザーと膝上十センチほどのミニスカート、背中半分ぐらいまでの黒髪、黒いショールダーバック。一見して、清潔そうな感じである。身長は一メートル六十センチ前後で、推定年齢は二十三歳ぐらいに見える。
「目を悪くしませんの? こんな所で本を読んでいて」
女は、ちょっと首を傾けながら言った。
「外燈がありますから、どうにかこうにか――」
賢治は、言葉尻を濁した。
「蛍の光、窓の雪という歌はありましたけれど、外燈の下は聞いたことがありませんね。現代版の二宮金次郎ってとこかな。感心ね」
女は、肩を竦めて見せた。
「そのような偉人ではありません。小説なんて所詮、慰み物です。要するに、他人の私生活を覗いているようなものですからね。低俗です」
賢治は、少し自虐的に言った。
「そうかしら?」
女は不思議そうに、彼を見た。
賢治は、どうしてこうまで通りすがりの者に反抗的になるのか解からなかった。彼自身の内部に潜む規律がそうさせているのかも知れなかった。特に彼は、女性と相対する時にしばしば同じような現象が起こった。若さからくるある種の羞恥心と考えられるが、それにしても強すぎる反応だった。ある時、友人に「僕は女嫌いだ」と言ったら、「女が嫌いな男がいるか、馬鹿」と一笑された。しかし、当人にしてみれば笑い事ではない。女性嫌悪でなければ女性恐怖でもない。何度か考えた末に「女性回避、女性逃避という症状だ」と気づいた。
「隣に掛けても良いかしら?」
賢治が独り考えに耽っていると、さりげなく女の思慮深げな言葉が飛んできた。
「どうぞ……」
心の動揺を勘付かれないように、彼は小さくゆっくりと深呼吸した。
女はバックからハンカチを取り出して、ベンチに敷いた。本来なら男である自分が取るべきエチケットであった、と気づき、彼は気後れがした。それで文庫本を自分と女の間に、まるでそれ以上、近寄ってはいけない境界線を示すように、そっと置いた。
「お近くに住んでいらっしゃるのですか」
彼の覚悟を見透かし、女が訊ねてきた。
「龍田町です」賢治は、正直に答えた。
「あら、近くですわね」女は、直ぐに反応した。
「あなたは?」
賢治が訊いた。相手があまりすんなりと飛び込んでくるので、彼は少し気を弛めて、女の様子を窺った。
「桜木町です。わたし、長沢直子。上智大学に在学中です。よろしくね」
女はあっさりと自己紹介をした。賢治は名乗って良いものかどうか躊躇(ためら)った。
長沢直子の額は広く、鼻筋が通っている。瞳は大きく、唇は薄めで、顔全体の印象としては、凛々しく冷たい感じを受ける。賢治は直子の顔を見て、誰かに似ていると思い、すぐには想い出せなかったが、もう一度正面から眺めて、ある映画女優の名前が浮かんだ。
「わたしだけ自己紹介しても損ね。あなたのお名前は? お国はどちらですの?」
直子が訊いてくる。
ああ、やはり田舎者であることを見抜かれたか……。賢治は、地方出身者にありがちなコンプレックスを、上京して二年目の今も抱えていた。今更、都会人ぶるつもりはない、と彼は開き直り、いくらか気分が軽くなってきた。
「藤原賢治です。生まれは茨城です、よろしく。一応、会社員の身分ですが……」
と言って、今度は新たなコンプレックスに襲われた。定時制高校生とは言えなかった。
「本当? わたしは学生さんかと思っていましたわ。お勤めはどちらですの?」
直子は、賢治の躊躇いを気にする風もなく、続けて訊いてくる。
賢治は、医療器製造会社名と、近くに本社があることを告げて、仕事内容は製品管理と営業であると説明した。賢治が実際に担当しているのは注射器の検査だった。注射器の先端に専用金具を填めて、穴を指で押さえ、ピストンを押して水中で泡が出るかどうかを観る。やってみれば簡単な作業であるが、長時間の単純労働に耐える根気が要求された。営業というのは、下請け業者からの製品や半完成品の受発注などを担当していた。本社の部門でも一番目立たない、言ってみれば影の存在だった。
「まあ、社会的貢献度の高い職業ですね」
直子は感嘆の声を上げた。
「社会的貢献度?」
そのような表現で、賢治は自分の仕事を評価されたことがなかった。彼は面食らった。
「ええ、そうです。医療関係でしょう?」
直子は、さらに強調してくる。
「ま、そうですがね……」
賢治は苦笑した。確かに医療関係者だ。直子の指摘は間違っていない。現に「厚生省認可」を表看板にしている会社だった。
しかし、賢治が毎日繰り返している単純作業が、果たして「社会的貢献度」に値するものなのかどうか。同僚の岡田秀雄が聞いたら、泣いて喜ぶだろう。賢治も悪い気分ではなかった。「職業に貴賤はない」などと持って回った言い方をされるよりも、直子のような評価が彼の心を慰める。それで、賢治も口が軽くなった。
「正直言って、半分は学生でもあるのです。昼間働いて、夜学ぶ定時制ですからね」
「あら、夜の学校? 真面目な方のですか」
食い入るような目で、直子は彼を見つめ、茶化した。賢治は笑って受け流そうとした。しかし、口許に現れた笑いはぎごちなく、心は己の発言を悔いていた。
(初対面の者に勤労学生であることなど、教える必要がなかったのだ。その事実を公表すると、誰もが同情じみた言葉を投げてくる。しかし、必ずやつらは優越感に浸りながら、僕たちを軽蔑している。自分よりも恵まれない者がいたぐらいの感覚で、こちらが聞いていると、おかしくなるような台詞を並べてくる。ちょうど、健常者が、身体障害者を見るような感じだ。僕は、何も同情されるために、このような境遇を選んだのではない。僕には、僕の独自な生き方がある。しかし、この女の前で、それを詳しく言っても、どうにもなるまい。むしろ、今夜の僕は、平凡なお坊っちゃん育ちの学生役でも演じていれば良かったのだろう……)
むっつりと黙ってしまった賢治を見て、長沢直子は彼を冗談の通じない人間と判断したのだろうか、彼女は真剣な表情になった。
「ごめんなさい、笑ったりして。気に触りましたか」
直子は、上目遣いで賢治を見てくる。
「いいえ、別に。学生でありながら、職業に就いていること自体が、矛盾していますからね。最も、現代の世の中には、そのような状況でしか生きられない人間もいることも事実です。しかし、結局のところ、何も掴まないで終わってしまうのでしょうね。よく言います、二兎を追う者、一兎をも得ず、とね」
賢治は、そう言って、下を向いた。
直子は、賢治が言った諺を英語で置き換えて、発音した。賢治は、日本人離れした発音に一瞬、おやっと思ったが、先程、直子が上智大学の学生という自己紹介をしていたのを思い出して、納得した。
「でも、偉いわ、あなた」
直子は、彼を元気付けるように言った。
「偉いという言葉は、あまり好きではありません。要は頭が悪いためにこんな境遇にあるのですから」
賢治は、その言葉を少し自虐的な気持ちで発言した。両親が健在の何の不自由もない家庭に育っていたなら、いまごろは田舎の高校に、平凡な学生として通学していただろう。賢治の父は、彼が小学校四年の秋に病死した。それから母子家庭には様々な事件が起こった。結果として、賢治は家出同然の上京と定時制高校への進学を決意するしかなかった。
「頭の悪い方が、こんな所で本を読みまして? それも難しそうな顔をして――」
今度は口許を掌で隠しつつも、前屈み気味の姿勢で、さも楽しそうに笑った直子。目の前にいる女の震える両肩の辺りを見て、賢治の心は苦しくなった。
(そうだ、あなたの言うとおりだ。誰が好きこのんで、こんな薄暗い所で本など読むものか。豊かな家で、食事、睡眠をゆっくり採れるならば、恐らく僕はそこでぬくぬく育っていただろう。しかし、僕にはそれがなかったし、家は既に崩壊している。もう僕には、帰るべき家も家庭も、故郷もない。確か、詩の一節にあった。たとえ異土の乞食<かたい>となるとても、帰るところにあるまじゃ、だ。あなたには解かるまい、僕の苦悩の日々が……)
腕を伸ばせば届きそうな距離にいる女に、賢治は初めて憎しみを感じた。同時に、彼の内部では、全ての女性に対する敵意のようなものが湧いてきた。自分に対する辱めの報復として、目前にいる女の丸みのある肩へ素早く腕を回して、小憎らしく薄紅の引かれた唇を、こちらの唇でふさいでしまいたい衝動に駆られるのだった。
「ごめんなさい、ごめんなさい。今夜のわたしは、どうかしているのです」
直子は、その場の雰囲気を素早く察して、スカートの裾を整え、額に垂れた前髪を掻き上げ、身を正した。
賢治は、先程の心の動きを相手に悟られないように、ベンチから静かに立ち上がった。そして二、三メートル歩くと、腰を屈めて小石を拾い、空しい怒りを打ち消すように、それを闇へ放った。小石は、公園の滑り台に当たって、金属質の音を響かせた。
「僕は、働きながら学ぶことを悔やんでなんかいませんよ」
偽りも装飾もない藤原賢治の言葉だった。革命を騒ぎ立てる学生などより、自分たちの方がより革命的な運命を担っている、と賢治は常々考えていた。さらに、近頃の記憶力重視の受験勉強は、手前勝手な要領の良い人間を次々に生産しているだけだ。現在の教育制度は、個性を潰して、国家や会社組織に、大人しく従う羊のような人間を産んでいる元凶だ、と彼は批判的にとらえていた。
「資本主義国での教育では、既に歪みが各方面で現れている。良い例が暴走族だ。彼らは、声なき声を社会に向けて叫んでいるように、僕には見える。若者たちは管理されまいとして、抵抗している。無気力、無感動、無関心が、現代若者の特徴と言われており、批判の対象になっているが、あれも消極的な抵抗じゃないですか。高校入学の受験競争に敗北した者、昼間の高校で問題児に見られた者たちの何割かが、定時制に流れてきている。そこは、傷付いた若者たちのオアシスですよ。だからと言って、定時制高校や夜間中学が、特別優れた制度だとは思いません。それらは、高度経済成長を成し遂げた、わが国の古傷みたいなものですからね」
普段の鬱積を晴らすかのように、藤原賢治は早口で捲し立てた。
直子は瞼を閉じて聞き入っていた。口調がちょっと強過ぎたかな、と賢治は直子の表情を見て反省した。彼が話し終えると、直子は瞼を開けて、
「わたしが悪かったわ。誤解を招くような言動をとってしまって。本当にごめんなさい」
膝に両手を置いて、深々と頭を下げた。改まったその仕草に、今度は賢治が受け身の姿勢になった。
「謝るほどのことじゃありませんよ。人には、それぞれ色々な考え方や感じ方があっていいと思います。その人なりの自己哲学があるでしょうからね」
「こんなことを言ったら、また叱られるかも知れませんが、あなたは強い方。そうね、己を律せる人と表現すれば良いのかな、そんな方ですね」
直子は素直に語った。
(長沢さん、僕は強くない。むしろ弱い人間だ。僕を強く見せているものがあるとすれば、それは僕という人間が、孤独を背負っているからだろう)
賢治は、それらのことを口に出そうとして、止めた。そこまで語れば、心の襞をも露出しかねない。礼儀正しい女の前で、彼の古い怒りはやわらかく溶けていった。
直子がベンチから立ち上がり、賢治の立っている方向へゆっくり歩いて来た。近付く躰を彼は目で追いながら、十六歳の少年のストレートな想像を描いた。確かに、長沢直子は魅力的な存在だった。青い理性を刺激するには充分過ぎるほどの、成熟した女の匂いを感じさせた。
「わたしも、あなたのように、力強く毎日を生きられたら幸せだわ、きっと……」
一言、一言を噛み締めるかのように、直子は呟いた。先程とは打って変わって、哀しげな暗い表情の直子であった。外燈の明かりから離れたためか、それとも何かしら重い沈鬱なものが彼女の心に漂っていたのだろうか。
「女は駄目よ、女は……」
吐き捨てるように、直子が言った。
「何故だい?」賢治は、訊いた。
「――」
東京の夜空の、見えないはずの星を探す振りをして、直子は彼の質問から逃れた。人間には誰しも、他人には見せようにも見せられない心の影がある。物心ついたころからの、その人自身の内的な歴史を持っている。
「いや、あなたが話したくなければ無理にとは言わないよ」
直子に向けて発した言葉が、賢治の耳に痛いほど響いて、胸中で頷く自分がいた。
「有り難う。変ね、あなたとは波長が合うわ。どうしてかしら?」
直子は、賢治を見詰めてくる。
「……」賢治は、直子から視線を逸らして俯いた。
「あら、迷惑かしら?」
直子は、不思議そうな表情になった。
「いいえ、別に――」
賢治は、横を向いた。
こうなると、十六歳の極めて内気な少年は、立場が弱くなる。次に発すべき言葉を探すが、躍起になればなるほど、思考が追いついて行かないで、顔の火照りが増してくる。少年のぎごちない素振りが露出した途端、年上の女は、ここぞとばかりに攻めてきた。
「ここでお会いしたのも何かの縁ですから、お友だちになりませんか」
直子は、さらに賢治に対して、積極的に振舞ってきた。
「そう言われても……」
口では否定しているが、既に賢治の顔には、隠せぬ喜びの色が現れていた。恐らく、直子は目前の男が与し易しと判断したのだろう、何を思ったか、公園中央のブランコの方へ走り出した。彼は、呆気にとられてその場に立ち竦んでいるだけだった。
「押して下さる?」
やがて直子は、ブランコに乗ってにこやかに微笑を浮べながら、彼を誘った。賢治は苦笑して、ゆっくりと直子のいる方向に歩いて行った。
* * *
その夜、藤原賢治が公園に出向いたのは、国鉄ストのためだった。平日ならば、朝七時四十五分から勤務して、夕方五時のサイレンを聞くと、一年先輩の岡田秀雄と先を競うようにして灰色の作業服を脱ぎ、私服に着替え、五段変速ギア付き自転車に飛び乗り、地元の都立高校へ向かうのが日課になっていた。二十四時限ストの当日は、学校側から自宅学習の指示が出ていた。
その日、賢治が会社から帰ると、独身寮は静かだった。寮人たちはまだ誰も戻っていなかった。多分、彼らは近くの喫茶店や居酒屋で一日の疲労を癒やしているのだろう。当たり障りのない雑談をして、時を食う現状肯定者たち。賢治は、同僚たちをそう見て、自分を孤独の世界に追いやっていた。九畳の一間で寝起きを共にし、同じ職場で働き、同じ高校に通学する岡田とすら、賢治は必要以外の話をしなかった。互いに自己の世界を頑なに守り続け、部屋の空間に、三十八度線を示す目に見えない境界が設けられていた。増して、地方の大学などを卒業している他の寮人たちとは、学歴も違うし、仕事内容も事務職の者が多く、その点で賢治は少しコンプレックスを感じていた。夜八時頃まで、彼は、ひっそりとした部屋で読書と書き物をしていた。それから寮内の廊下でスリッパを引きずる音がして、急に騒がしくなった。どうやらここに住む人数よりも多いようだ。
数分後に、一号室から麻雀牌を掻き回す特有の音と共に、寮住まいの者たちの奇声や笑い声が賢治の部屋にまで聞こえてきた。賢治はあの音が嫌いだった。麻雀のルールを熟知しないためもあろうが、牌を掻き回す音と喧噪は、彼の神経に障った。週末の夜遅く、疲れた心身を休ませようと思いながら寮へ帰ると、必ずその現場に出会すのだった。彼は「またか」と思い、憂鬱な気分になった。読書も書き物も全て興醒めで、それでは寝るかと蒲団に潜っても、とても寝られる状況でなかった。そのような時、賢治は降参して、荒川の土手辺りを散歩することにしていた。日光街道を走る車のライト、いくつものネオンサイン、東京の夜景は華やかだった。
その夜は、翌朝のスト続行に備えて電車通勤者の何名かが寮泊まりの予定になっていた。今夜この寮は、あたかも麻雀荘のような喧噪の場となるのだろう。そうなる前にこちらも息抜きをしておかなければならない。賢治はそこまで考えて、読みかけの文庫本を手に持ち、若々しく楽しげな笑い声の起こっている部屋の前を静かに通り過ぎ、寮から出ていった。
行き付けの喫茶店は夜九時で閉店した。彼は、これからどこへ行くべきか迷った。独りになりたかったので、寮に戻らずに近くの公園へ足が自然に向いていた。
やっと静かになって、賢治は寝床に入った。流石に寮人たちも明朝の出勤時間を考えて、徹夜麻雀だけは敬遠したらしい。四月末になると、東京では毛布一枚を掛けるだけで寝られる。岡田は、早くも静かな寝息をたてている。この男ともう少し打ち解けていたならば、今夜、偶然に出逢った女のことを、得意満面に語ったかも知れない。だが、そこに寝ているのは他人だった。最も下手に干渉されたり、好奇心が剥き出しの質問をされても困るので、他人の関係を続けるのも悪くなかった。
(あの女にはどうだろう? 恐らく僕は、彼女には拒絶反応を起こせないだろう……)
突然にやってきた快感を胸一杯に感じて、賢治は寝返りを打った。瞼を閉じると、今夜覚えたばかりの長沢直子の顔が浮かんできた。
「藤原賢治さんと仰ったわね、いま何歳ですか」
賢治が直子の背後へ回ってブランコを二、三度空中へ押してやると、直子は年齢を訊ねてきた。賢治の場合、本当の年齢を言うと若く見られる気がして厭だった。それで
「十八です」と応えた。
「へえ、十八歳。そう――」
直子は不思議そうな様子である。賢治は自分の童顔を憎んだ。自分の虚勢と鬱積を隠すため、ブランコをぐーんと後ろへ引いて、反動をつけて思いっ切り離した。
「キァー」
直子の悲鳴が闇夜に響き渡った。彼の頭上に戻ってくると、「意地悪ねえ」と言い、幼児がよく見せる「イー」という表情を作った。スカートからはみ出した彼女の両脚が彼の目に映り、白い肌が一際美しく際立った。見てはいけないものを見てしまったような、ある種の恥じらいを、賢治は感じた。
「東京はどう? もう慣れましたか」
直子が賢治に訊いてきた。
「駄目です、なかなか田舎の訛りが抜けませんね」
賢治は、言葉のイントネーションを気にしながら言った。
「あら、そう? それほどでもなくってよ。先程からお聞きしていますけれど、はっきりしていますわよ」
直子は、動いているブランコに乗って話すことを失礼と思ったのだろうか、靴底を地面に引き摺って、ブランコの動きを止めた。ハイヒールの踵で引かれた二本の線が、軟らかい砂地に描かれた。あのような乱暴な動作をしてハイヒールは大丈夫かしら、と賢治は余計な気を回した。
「実を言うと、わたしも東京ではないの。生まれたのは群馬県で、育ちはニューヨーク」
直子は、さらりと伝えた。
「ニューヨーク?」賢治は驚いた。
「そう。父の仕事の関係であちらへ行っていました」
直子は、事実を告げてくる。
「そうですか……。道理で先程の英語の発音が日本人離れしていた」
感嘆を込めて、賢治は言った。
賢治は、直子の左隣りのブランコに腰をおろした。何気なく彼女の左手首を見ると、女性用の細い腕時計が巻かれていることに気づいた。
(この女は何故、時刻を訊ねてきたのだろうか。たまたま時計が遅れているか、止まっているかしていたのだろうか。それとも、初めから僕と話すつもりで、時刻を訊ねることを口実にしたのだろうか……)
賢治の頭の中に、いくつかの疑問が湧いた。だが、それを口に出して直接訊ねるのは、躊躇(ちゅうちょ)した。故意か否かは、この際どうでも良いことだ、ユニークな女性と知り合いになれただけでも幸せではないか、と考えて、彼は疑問符を闇の彼方へ投げ捨てた。
直子は賢治に警戒心を抱かなくなってしまったのか、生い立ちを語った。両親は現在もニューヨークに住んでいる。彼女自身は、ハイスクールを卒業と同時に日本へ来て、現在は親類の家に世話になり、上智大学の国際学部に籍を置いている。それらの話を賢治は黙って聞いていた。何故、両親の許で暮らさないのか、と訊いてみたかったが、相手の心の襞に触れる質問であると思い、訊くのを止めた。
「藤原さんは、どうして上京しましたの?」
自分について一通り話し終えると、直子は賢治に身の上話をさせようとして、さり気なく仕向けてきた。甘い誘導尋問だった。自分の話をした後で、相手のことを訊き出すというマナーを賢治も知識の上では知っていた。しかし、語りたくても語れない過去の一つや二つは、誰しも持っているのではなかろうか。
(うっかり、ニューヨーク帰りの女の舌に上手く乗せられるところだった。さあ、この辺で、普段の自分に戻ろう)
賢治はそのように判断して、己に規律を課した。
「別に理由などありません。よく言われる、都会の生活に憧れてというケースです」
賢治の平凡な答えに、直子は不満を感じたらしく、じっと彼を観察してきた。賢治は一瞬たじろいだ。直子は五感以外の勘を働かせて、側にいる男の生い立ちを、想像しているのだろうか。この人には、人間の大事な部分を読まれている、と賢治は察知した。
だが、生い立ちから今日までを、大雑把に語ったところで、何になると言うのだろう。増して、通りすがりの者に、過去の屈辱の日々について語るなど、賢治の自尊心が許さなかった。
賢治は時間を気にして時計を見た。十一時十八分になっていた。
「本当に不思議。やはりこれは何かありますわ。失礼ですが、あなたに素敵なガールフレンドがいまして?」
直子は、気軽に訊いてきた。
「いや、いません」賢治は、俯いた。
「それなら、わたしが立候補しようかしら。よろしいかしら?」
直子の宣言を聞いて、賢治は傍目からも判るくらい、急におどおどした。それを見て、直子は両肩を竦めて微笑んだ。直子の動作はプリティだった。
やがて二人は、近日中にこの場所で再会することを約束して別れた。約束と言っても、直子の一方的な申し出に対して、賢治は軽く同意しただけであった。
寮の門限より一時間ほど遅れて、ドアの開閉を静かに行い、自室に忍び込む頃、賢治は、先程の約束が確実なものに思えてきた。何故ならば、腕時計をしていながら、時刻を訊ねてきた直子の積極的な行動が、賢治には重要なポイントに思えてならなかった。
直子は、別れ際に軽く会釈して、
「今夜は楽しく過ごさせていただき、有り難うございました」
と、丁寧な挨拶をした。感謝をされるべきことをした覚えがなかったので、賢治は何と応えて良いか解からなかった。ただ、その折り目正しい仕草には好感が持てた。
「こちらこそ大変失礼しました。こんなに遅くまで……」
賢治は恐縮した。
「いいえ、わたしの方が読書のお邪魔をした形ですから、失礼したのはこちらですわ。今夜は気分がとてもくさくさしていたので、誰かとお話をしたかったのです。藤原さんのような、聞き上手な方で良かったわ。有り難う」
最後の台詞に、直子は多少のアイロニーを込めている、と賢治も解かったが、悪い気はしなかった。
しかし、それにしても変わった人だ。賢治は寮の部屋で天井を見つめながら、長沢直子の姿を想い浮かべた。
(彼女なら八十点かな)
賢治のいつもの癖で、初対面の人物に対する評価点数を決定する。何を基準にして決めるのかを、彼自身も上手く説明できない。長い間、人間不信に陥っている彼からすれば、八十点というのは、甘すぎるくらいの点数だった。賢治は、かつてない喜びをゆっくりと味わっていた。それが直子と賢治の、国鉄ストが取り持つ出逢いであった。
次章へ
Copyright (C) 2001 by Matsuhei Komatsuzaki.
All Rights Reserved.