黄昏の挽歌
In the twilight
小松崎 松平
by
Matsuhei Komatsuzaki
第一章 黒田宏昭という男
その年の夏の国政選挙は、保革逆転の可能性が高いと予測されていた。桜井雅之は、首都圏を対象とする日刊紙の取材記者として、連日、選挙戦の前線で各候補の動きを追っていた。中盤を過ぎた段階でも、保守、革新が互角の戦いを繰り広げていた。
桜井がその夜、新聞の原稿の入稿を済ませて、東京都渋谷区恵比寿のアパートに帰り着いたのは、夜の十一時過ぎだった。桜井の住むアパートは、JR恵比寿駅から、歩いて十分ぐらい三田方面へ向かい、昔、伊達藩の屋敷があったことから名付けられた伊達坂を登り切った所の近くにあった。
桜井が住んでいるアパートの大家は、七十歳過ぎの在日中国人で、高田馬場や青山に洋風パブ、レストランなどの飲食店を手広く営んでいた。大家の妻は、五十歳代の日本人で、若い頃は水商売の女将であったらしく、小太りの体型にいつも和服を粋に着こなし、二匹のチャウチャウ犬をペットにして、夫婦の間に産まれた子供のように可愛がっていた。
桜井の住む物件は、八畳の和室と四畳半の和室、三畳の板の間、キッチン、トイレ、簡易シャワー設備のある一戸建てだった。以前に大家の娘――妻の連れ子――が婿養子を貰うまで住んでいた所であり、アパートの向かいには、大家の豪華な二階建ての住まいが、建っていた。桜井は、学生時代にそのアパートを借りて、家賃が安く、大家の経営する店も格安で利用できる特典があったために、仕事を持ってからも、そこに住み続けていた。近所に宗教系団体が支援する野党党首の自宅があるために、周囲の警備が厳しくて、時々、桜井も夜遅く仕事先から帰る途中、制服の警察官に呼び止められて、職務質問され、身分証明書などの提示を求められることがあった。桜井が日刊紙の新聞記者だと判ると、相手はちょっと驚きの表情を浮かべて、急に畏まり「失礼しました」と言って、敬礼するのだった。
桜井はその夜、アパートの近くで、二十歳代後半ぐらいの躰のがっしりした警察官に呼び止められた。桜井は、いつものように身分証明書を見せた。だが、今夜の警察官は、ショールダーバッグの中身の物品検査まで要求するほど、執拗だった。桜井は不愉快になった。やっと解放されて、部屋に帰ると、上着、ズボンを脱ぎ、シャワーを浴びた。その後、下着姿のまま、すぐに蒲団の中に潜り込んだ。仕事を終えてから、新橋の地下街でビールと日本酒を飲んだため、寝付きが良かった。
何時頃だろうか、電話のベルが鳴った。仕事柄、深酒気味でも、電話のベルで起きられた。
「もし、もし」
受話器の向こうから、掠れ気味の声が聞こえてきた。
「桜井さんのお宅ですか」相手が訊く。
「そうですが……」
桜井は、枕元の目覚まし時計を見た。午前一時四十分過ぎだった。
「あっ、桜井さん。わたしよ、日比野よ」
そう言う声の主は、息遣いが荒かった。
「起きていたの?」
日比野友子の声だった。桜井は、寝入り端に起こされたので、相手を認識するまでに数十秒かかっていた。
「いや、十二時前に帰って来て、寝ていたよ」
桜井は、首を左右に振って、血の巡りを良くしようとした。
「ごめんなさい、起こしてしまって……。桜井さん、驚かないでね、黒田先生が亡くなったのよ」
日比野は低い声で伝えてきた。
「えっ」桜井は、思わず驚きの声をあげた。眠気が一遍に吹っ飛んだ。
黒田宏昭は、桜井がジャーナリストになるために通った専門学校の恩師だった。桜井は一年間、黒田の許で秘書のような立場にあった。
「いつ、亡くなったの?」
桜井は、息急き切って訊いた。
「今朝早く、あっ、もう日付が変わっているのね。昨日の朝、六時頃」
日比野は慌てて応えた。
「病死かい?」桜井は、恩師の死因を知りたかった。
「ええ……」日比野友子は、曖昧に返事した。
「また、お酒の無茶飲みをしていたのだろう。あれほど、寿命を縮めると注意していたのに――」
桜井の胸底に、悔しさのような苦いものが拡がっていった。
黒田は、講義中にも顔を赤らめているほど、酒なしでは過ごせなかった。慢性アルコール中毒の一歩手前まできており、心臓の薬を常飲していた。
「桜井さん、お葬式に出て下さる?」
日比野が訊いてくる。
「もちろんだよ。それで、式はいつ?」
桜井は、頭の中で仕事の日程を思い浮かべた。
「二日後よ。昨日は大変だったわ。何しろこちらのご家族は、桜井さんがご存じの通り、バラバラで、世の中のことに疎いからね。葬儀屋の手配から知人への連絡など、すべてわたしが指示したのよ。黒田先生の二人のお子さんたちは、何も解らないんだもの」
日比野は愚痴った。
桜井が黒田の許を離れてから、入れ替わりに秘書の後釜として面接に来たのは、同じ学校を出た日比野友子だった。その後、黒田から何度か電話がかかってきたものの、桜井は日々の仕事に追われていたために、様々な黒田の誘いを断っていた。
「桜井さん、今日、こちらに来て下さらない?」
日比野は、不安そうな声で言ってきた。
「飛んで行きたいのは、山々なんだけどね、今ちょうど、選挙戦の最中だろう。取材が立て込んでいるんだよ」
桜井は、午前中に取材のアポイントメントを入れてあった。
「黒田先生の知人には、わたしの知る限り、全部、電話で連絡したつもりでも、見落としている人があると困るでしょう。それで、桜井さんにもう一度、確認して欲しいのよ。それにわたし一人では、色々なことに気が回らないわ」
最後は、日比野の泣きが入っていた。
「解かった……。今日、午後の仕事を抜け出して行こう」
桜井は、午後の予定を変更しようと考えた。
「そうして下さる? 有り難いわ」
日比野の声が途端に明るくなった。
電話を切って、蒲団に潜り直してから、桜井は黒田宏昭と出会った頃を想い出していた。
桜井雅之は、都内の私立大学に在学中の頃からラジオの構成台本や雑誌の記事などを書いて、生活費を稼いでいた。偶々、高校二年生の時に応募したラジオドラマの脚本が、優秀作品に選ばれて、その時の選考委員に勧められ、ずるずるこの道に入ってしまった。どうにか大学を卒業したものの、教授の推薦を取れるほど成績が優秀でなく、会社員になることにも抵抗を感じて、フリーランサーの立場で生活していた。
その頃、桜井は、首都圏を聴取エリアとしている民放FMラジオの脚本を準レギュラーで請け負っていた。担当番組は、インスタント珈琲メーカーがスポンサーとなり、日曜日の午前十時から二時間、若い男女の恋愛物語を俳優が淡々と語りながら、合間に適当なミュージックを流すスタイルで四年以上も続いていた。桜井は番組スタッフの中でも一番若く、五人いる構成作家と競うようにして台本を書いていた。ただ、それだけでは食べていけないので、テレビ番組台本の制作、印刷をする下請け会社の夜勤スタッフとしても、働き続けていた。どうかすると、月々の稼ぎはこちらの方が多かった上に、固定給料も確保された。しかし、四年以上も不安定な生活を続けていると、桜井は日々に不満と不安を抱えるようになっていた。
ある朝、桜井雅之は夜勤からの帰りに、地下鉄の恵比寿駅でジャーナリスト養成学院のポスターを見て、心が動かされた。桜井は、そのポスターに掲載されている数十人の講師の中に、既知の人物を五人ほど確認して、親近感のようなものを感じた。
桜井の亡父は、若い頃、トップ屋として活動していた時期があった。トップ屋とは、現在のルポ・ライターのような者である。全国紙を発行する大手の新聞社が、週刊誌を発行し始めた頃だった。
その学院の講師には、週刊誌創刊期の頃の老兵たちが、幾人も名を連ねていた。桜井雅之の父は、彼が小学校四年の秋に病死しており、何も遺さなかった。桜井は、亡父と同世代の青春を過ごしたであろう老兵たちに、何かを期待して、その学院への入学を決めたのであった。
黒田宏昭は、その学院の講師の一人だった。黒田は、他の講師たちと違って、週刊誌や新聞社の記者あるいは編集者の経験者でなく、労働法を専門とする学者崩れで、月刊誌に硬い論文を書いていた。最初の講義の時、黒田は蝶ネクタイを締め、鼈甲(べっこう)縁の眼鏡をかけ、百七十五センチぐらいの痩身を、猫背気味にして現われた。黒田の顔は四角張り、前頭部分の髪が薄く、一見すると、台湾人のような感じで、アジア南方系の種族に見えた。黒田宏昭は、大学での教鞭経験もあり、他の講師と比べても、講義の仕方が堂に入っていた。世界と日本の現代史を理論的に解き明かしていく黒田の姿は、ジャーナリストというよりも、一人のラディカルな大学教授のようだった。
桜井雅之は、教室の一番前の席で、黒田宏昭の初めての講義を熱心に聴いていた。一時間を過ぎた頃から、黒田の指が微妙に震え始め、顔には脂汗が噴き出し、顎を伝わって滴り落ちた。黒田の声が掠れている。眼鏡を外し、ハンカチで顔の汗を拭う動作を続ける。さらに続けて話そうとするが、顔色が見る見るうちに土色になっていった。黒田は、弱々しく椅子から立ち上がり、
「すまん、躰の調子が悪くなった。今日は、これぐらいで勘弁して欲しい……」
と言って、まだ三十分ほど講義の時間が残っているのに、教室から出て行ってしまった。
学生たちは、黒田の行動に対して口々に不満の声を上げた。他の講師は、講義の準備をしていない者もいて、一時間半を雑談で済ませてしまうケースもあり、黒田はまだ誠実な方だ、と桜井は一応、評価した。
二度目の講義の時、黒田は端からも判るほど、顔が赤く、酒臭い息を吐いていた。相変わらず苦しそうだったが、何とか規定時間を喋り続けた。三度目の講義でも、黒田は昼食時の飲酒の後らしく、この時も一時間ほどで切り上げた。学生たちは、
「授業前に酒を飲んで来て、規定時間を喋れないのなら詐欺だ」
と騒ぎ始めた。桜井の隣に座っていた九州出身の塚本辰雄という男が勢い付いて、
「皆で、事務局に乗り込んで抗議しよう」
と提案した。学生たちは一応、賛同の意思を示したものの、自ら行動に移す者は一人もいなかった。学生たちは各々、帰り支度を始めて、最後に残ったのは三十数名のうち、五人ほどだった。そのクラスには、大学を出た者か中退者、それに匹敵する学力のある者が集まっており、二十四歳の桜井が一番年長者らしかった。
「あなたは、どうしますか」
塚本が桜井に訊いてきた。桜井は、このまま突き放すつもりはなかった。
「少し時間ある? その辺でお茶でも飲もう」
と桜井は塚本を誘った。
それから高田馬場駅前の喫茶店で、桜井は塚本と二時間近く話し合い、意気投合した。
翌日、桜井と塚本は講義が終えてから事務局に行き、事務局長に面会を求めて、講師に対する不満をぶちまけ、特に黒田は酒を飲んで来て、自分の躰の都合で授業時間を短縮しているのは許せない、と抗議した。四十五歳前後の事務局長は、血気盛んな青年たちの鬱憤を渋い表情で聞きながら、それは酷いねえ、と応じている。
「このままでは、遅かれ早かれ学生たちが爆発します」
塚本は、事務局長を威嚇する。
「解りました。黒田先生には、私から説明しておきます」
事務局長は、椅子から立ち上がり、それで話を終えて切り上げようとする素振りを見せた。
「説明するだけでは駄目ですよ。本人に注意して、きっちり改善されなければ、学生たちは再び騒ぎます」
塚本は、執拗に喰い下がった。
「解りました。私が責任を持って、改善します。黒田先生も、話せば解って下さるはずです」
事務局長は、弱りきった顔で応えた。
「それでも改善されない場合は、講師の変更を求めますよ。そうでなければ、授業料の返還を求めます」
塚本は、堂々と主張した。年間五十万円近くの授業料は、桜井にとっても安い額ではなかった。その上、講師が準備不足であったり、講義を雑談で済ませてしまうようでは、いくら過去に週刊誌などの黎明期に関係した実績があった人であっても、許されるべきことではなかった。まして酒を飲んで来て、教室で酒臭い息を吐きながら、講義するなどは、言語道断だった。
塚本たちが事務局長に抗議した翌週から、黒田はやっと素面で教室に現われるようになった。ただ、途中からの手の震えは、隠しようがなかった。明らかにアルコール中毒の前兆現象だった。黒田は、顔面に噴き出す脂汗をハンカチで拭きながら、一時間半、どうにか喋り続けていた。
桜井は、授業が終えてから、塚本を近くの喫茶店に誘った。
「黒田は今日、酒を飲んで来なかったね。どうやら僕たちの抗議が効いたようだ」
桜井は、珈琲にシュガーを入れながら言った。
「当たり前だよ。あれだけ言っても解らなければ、僕はあの学院を詐欺罪で告訴するつもりだ」
塚本は、真剣な表情で応えた。
「しかし、ちょっとかわいそうな気がするな」
と桜井は言った。
「誰が?」塚本が訊く。
「黒田がね。講義中の彼の様子を見たかい? アルコールが切れたからなのか、両手が震えていたし、顔には脂汗が噴き出していた。話す内容は、他の講師よりも良いのだから、彼だけを槍玉に挙げるのは、フェアーではない気がする」
桜井は、黒田宏昭に対して同情的に見ていた。
「甘いねえ、桜井さん。あそこの講師たちは一時間いくらで金を貰って話しているのだから、手が震えようと何しようと、それは自己管理が悪いからそうなるのだよ。あなただって、ラジオの脚本を書いているのなら、僕らよりもプロの厳しさは、解っているはずでしょう」
塚本の言い分は正しかった。金を貰っているプロならば、風邪を引こうが、頭痛や発熱、腹痛など、いかなる場合でも、引き受けた仕事は、期日までに仕上げなければならなかった。その点で黒田宏昭も学院から講演料を貰っている以上は、規定時間内はプロに徹するべきであった。
翌週も黒田は、講義の途中から手が震え始め、その場に立っていられないほどの状態で喋り続けた。桜井は、黒田に痛々しさを感じた。黒田は、一日に午前の部と午後の部の二クラスの講義を受け持っているので、後者の部の桜井たちは、黒田が喋り疲れた段階で講義を聴いているのだった。
その日、黒田は講義を終えてから、疲れ切った様子でしばらく椅子に腰掛けていた。学生たちは帰り支度をしていた。
「黒田先生、大丈夫ですか」
桜井は、黒田の側に行って、労わりの言葉をかけた。
「ああ、有り難う……」
黒田は、弱々しそうな声で応えた。
「悪いけど、肩を貸してくれないか」
唐突に黒田が頼んできた。
「えっ」桜井は、驚いた。
「タクシーがつかまりそうな所まで、僕の躰を支えて行って欲しい……」
黒田は、今にも倒れそうなほど憔悴しきっていた。桜井は、弱みを見せる黒田に哀れを感じた。それで黒田の肩に腕を伸ばして、立ち上がらせようとすると、黒田はよろけた。
「おい、塚本君、手を貸せよ」
桜井は、近くでこちらの様子を眺めていた塚本に声をかけた。塚本はにやにやしながら近づいて来て、黒田の片側から腕を差し入れた。桜井は、机の上に置いてあった黒田の手提げバッグを持った。黒田は、まるで病人のように足を引きずるようにして、ゆっくり歩き始めた。その後、二階から一階へ降りる踊り場で、黒田は血嘔吐を吐くように告げてきた。
「僕のワイフが、死にそうなんだよ……」
「えっ」桜井と塚本は、同時に驚きの声を上げた。
「本当に、死にそうなんだよ」
黒田は、今にも泣きそうな表情になった。
学院の外に出ると、早稲田通りに立って、空きタクシーを待った。タクシーがつかまると、黒田は後部座席の奥に乗り、
「君たちも来て欲しい」と言った。
「どこまでですか」桜井は訊いた。
「飯田橋」黒田が応えた。
桜井は後部座席に乗り込み、「塚本君、君も付き合えよ」と誘った。
「えっ、僕も?」塚本は一瞬、躊躇した。
「さあ、乗れ、乗れ」
黒田が叫んだ。塚本は、嫌々ながら桜井の隣に乗り込んできた。
タクシーが飯田橋駅に近づくと、黒田は自分の行くべき所を運転手に説明するものの、要領を得ない。桜井は運転免許証を持っているために、多少、道路事情が解り、黒田の説明から推測して運転手に指示した。
黒田宏昭の個人事務所は、飯田橋駅から車で十分ほど走った所にある、マンションの三階にあった。部屋の間取りは2DKであり、八畳の和室、六畳の洋室、トイレ、キッチン、バスなどで構成されていた。事務所というよりは、寝具なども用意されていて、黒田の隠れ家のような雰囲気だった。
部屋に着くと、黒田は浴衣に着替えて、心臓の薬を飲んだ。
「ふーう、苦しい。一日に三時間以上も喋り続けるのは、堪えるよ」
黒田は本音を吐いた。
「それなら、どうして引き受けたのですか」塚本が訊いた。
「宇田川君が大学の時の教え子で、僕に、楽な仕事があるから、と勧めてきたのだよ」
宇田川というのは、ジャーナリスト学院の事務局長だった。その事実を黒田から初めて知らされて、桜井と塚本は、思わず顔を見合わせてしまった。あの時、事務局長は「黒田先生なら、私が説明すれば解っていただける」と自信たっぷりに応じていた。黒田が大学時代の恩師ならば、それも当然だろう。
「君たちだろう、事務所にまで押しかけて、宇田川君を大声で脅かしたのは。僕が酔っぱらったまま、講義をしているとね」
黒田は、二人を睨んでくる。教え子二人は、無言でいた。
「ま、良いよ。元気があることは良い。ただ、立場の弱い事務局長を吊し上げるのではなく、今度からは、僕に直接言って来いよ」
黒田は、諭すように言ってくる。
「それなら、今、言います。酒を飲んで来て、講義をするのは止めて下さい」
塚本が勇気を奮い起こして、主張した。
「解った、解った。なるべく飲まないで喋るよ」
黒田は、ばつが悪そうに言い、立ち上がってキッチンに行き、冷蔵庫の中から皿に盛られた漬け物や瓶詰めのザーサイなどを持ってきた。さらに冷えたビールを運んできて、
「さあ、祝杯を挙げよう。僕たちの出会いを祝して」
と笑顔で言った。
「えっ、たった今、酒は飲まないと、宣言したのではないですか」
塚本は、呆れ顔で言った。
「今日の仕事は、もう終わったろう。これからは、自由時間だ。おい、桜井君、ビールの栓を抜け」
黒田は桜井に命じてきた。黒田は、体よく我々を懐柔しているのではないか、と一瞬、桜井は疑った。だが、相手がこちらと友好関係を築こうとしているのに、拒絶するのは信義に反する。桜井は、ビールの栓を遠慮せずに抜いた。
それから、一時間ほどで三人でビールを六本飲んでしまうと、焼酎のお湯割りが用意されて、黒田宏昭の飲むピッチが早まっていき、舌の回りも良くなった。九州の大学の哲学科を中退している塚本は、議論好きらしく、哲学書などの中身を疎覚えで黒田に突っかかって行くが、上手くかわされてしまう。それで塚本は、ますます熱り立つ。
三人が飲み始めてから、二時間以上は経っていた。玄関のドアが開き、五十歳前後の和服を着た女性が現われて、部屋に入ってきた。眼鏡をかけて、痩身の落ち着いた感じの人だった。
「あら、あら、また飲んでいるの?」
彼女は、男たちを軽蔑したように見回した後、持参した割烹着を着てキッチンの掃除を始めた。
「こいつらは、ジャーナリスト養成学院の教え子たちだ。僕が、酒を飲んで講義するのを、糾弾した連中だ」
黒田は、飲酒の言い訳のように説明した。
「お酒ばっかり飲んでいると、また心臓が苦しくなって、七転八倒しますわよ。わたしに助けを求めて来られても、知らないから」
彼女は、キッチンから後ろ向きの姿勢のまま、黒田を批判した。
「大丈夫、大丈夫、今日は予め薬を飲んでいる」
黒田は弁解する。
「何が大丈夫なものですか。今日も講義中に苦しんで、青い顔をして、自分一人では歩けないくらいにふらふらになり、それで僕たちがここまで付いて来たんじゃないですか」
塚本は、得意げに事実を暴露した。
「うるさいッ、余計なことを言うなッ」
黒田が一喝する。
「あら、そうなの?」
女性が男たちの方に振り返った。
「それだけではなく、ワイフが死にそうだなんて言っておきながら、元気じゃありませんか」
塚本は、勝ち誇ったように黒田を責めた。塚本は、今、キッチンに立っている女性を黒田の妻と判断したようだが、桜井は何故か違うような印象を持った。それをこの場で口に出してしまうと、何かが崩壊してしまう予感がして、桜井は言葉を飲み込んだ。
「うるさいッ、君は帰れ!」
黒田は怒鳴った。
「黒田先生は、都合が悪くなると、すぐ怒鳴るのですから。それでは、インテリとして恥ずかしいですよ」
塚本は酒に弱い質らしく、明らかに酔っており、自己をコントロールできない状態に陥っていた。
「塚本君、言い過ぎているよ。黒田先生に謝れよ」
桜井は、部屋内の重い雰囲気を察して塚本が低姿勢に出ることを望んだ。だが、塚本は、あくまでも出発点に拘泥した。
「僕らに対して、謝らなければならないのは、黒田先生の方じゃないですか。授業中に酒臭い息を吹きかけて、しかも、一時間ほどしか喋らないで、途中で切り上げてしまう。職場放棄! 怠慢ですよッ」
塚本は、酔いに任せて、大声で主張した。
「塚本、何度同じことを言っているのだ? 君は『葉隠』で有名な佐賀県出身のくせに、武士の情けという言葉を知らないのか。いい加減にしろッ。さあ、早く帰れ!」
黒田も酔っていた。
「僕も帰ります」
桜井は、その場から立ち上がった。
「君は帰るな。まだ用事がある。塚本だけ帰ればよろしい。酔っぱらって、理性をなくしている。おおーい、タクシーを呼んでやれ」
黒田は、キッチンの女性に命じた。
「大丈夫ですよ、一人で帰れますから」
塚本が立ち上がった。足がふらついている。桜井は、塚本の肩を支えて、そこまで送って行きます、と言って、部屋を出た。
「桜井君、必ず戻って来いよ。君に、大事な話があるから」
黒田が叫んだ。
マンションの階段を降りると、
「すいません、こんなに酔ってしまって」
塚本が詫びてきた。
「気にするな。大丈夫かい? 大通りに出て、タクシーを拾おう」
桜井は、塚本を気遣った。
「黒田は、嘘吐きですね、ワイフが死にそうだ、と言っておきながら、あんなにぴんぴんしているじゃありませんか」
塚本は、まだそのことに拘っていた。
「塚本君、あの部屋にいたのが黒田の妻だと思うのかい?」
桜井は、否定的に考えていた。
「えっ、あなたは違うと思うのですか」
塚本は、驚きの目で桜井を見た。
「何となくね、勘だよ」桜井は、静かに言った。
「それじゃあ、あの人は一体、何者なんですか」
塚本は、素朴な疑問を投げた。
「さあ……」桜井は、言葉を濁した。
「本妻でないとすると、不倫の関係ですか」
塚本は、好奇心に溢れた目で桜井を見る。
「恐らく、そうだろう」
桜井にも、確証があるわけではなかった。しかし、先程の女性があの部屋に入って来たときから、桜井は何故か、違和感のようなものを感じていた。言葉では説明しがたい、その人の持つ独特な雰囲気が桜井にそう思わせたのであった。
塚本をタクシーに乗せてから、桜井は黒田の部屋に戻った。
「おお、ご苦労。田舎者はすぐに酔うし、いつまでも同じことにこだわるから、酒がまずくなる。桜井君、そう思わないかね?」
黒田は、まだ飲んでいた。
「ええ……」桜井は、曖昧に応えた。
「あなたが若い人に見境なく、お酒を飲ませるからですよ。ねえ、桜井さん」
割烹着姿の女性が、黒田の隣に座っていた。
「何を言うか、酒を飲んで講義するなと言うから、試しに酒を飲ませて、あいつの根性を確かめてやったんだ。それで何が悪い?」
黒田は、自分のコップに焼酎を入れようとした。
「もう、それぐらいで止めておきなさい。今日は随分飲んでいるわよ。お医者様から、止められているのでしょう、お酒を飲めば、心臓に負担が掛かり過ぎる、と」
女性は、黒田から焼酎の瓶を取り上げた。
「うるさいッ。酒でも飲まなければ生きていられないよ、僕は」
と黒田は主張し、お湯割り焼酎を飲み続けた。
「本当に死んでしまっても、わたしは知らないから。一体、誰があなたの面倒を見てくれるの? 負担は皆、わたしに掛かってきて、あなたは好き放題に生きているのでしょう。ねえ、桜井さん」
女性は、桜井に同意を求めてきた。
「それなら、君も自由に生きたら良いじゃないか。僕は、君を束縛するつもりはない」
黒田は、突き放すように言った。
「そんな台詞は聞き飽きたわ。二十年近くも、一方的にあなたに振り回されて来て、わたしは立ち上がれないくらいに疲れてしまったわ。そろそろ、身も心も、本当に自由になりたいわ」
女性は、嘆き悲しむように言った。
「ええい、うるさいッ。今日は桜井君に話があって、ここに呼んだんだ。君は黙っていろ!」
黒田の発言に、桜井は少し警戒心を抱いた。
「桜井君、ラジオの台本を書いているそうだね」
黒田は唐突に言った。
「あら、そうなの? 何という番組なの?」
女性が好奇心に駆られて訊いてきた。桜井は、ラジオ番組名と放送曜日、時間帯を教えた。
「今度、必ず聴いてみるわね」
女性は、桜井に関心を持ち始め、値踏みでもするような目つきになった。
「台本を書いてお金を頂いているのなら、何も黒田なんかに教わることはないでしょう?」
女性は訊いてくる。
「馬鹿、脚本とジャーナリスト的な感覚は違う。余計なことを言うな」
黒田が窘めた。
「桜井君は、脚本以外の文章を書いたことがあるのか、プロとして」
と黒田が訊いた。
「ええ、雑誌の記事や就職情報誌の会社紹介などの記事は、知り合いの編集者に頼まれて、何度か書いたことがあります。時々、調査報道記事も、各種団体が発行する機関誌などから頼まれることがあります」
桜井は、事実を有りのまま告げた。
「それなら、何故ジャーナリスト学院に入る気になったのかね?」
黒田が試験官のように訊いてくる。黒田は自分の経歴を知りたがっている、と桜井は判断した。
「私の亡き父は、週刊誌が創刊されたころに、トップ屋だったのです。いまは、ルポライターとかノンフィックションライターなどと、格好良く呼んでいますが……。ジャーナリスト養成学院には、週刊誌創設期の頃に活躍した人たちが、何人も講師としておられますからね」
桜井は、具体的に何人かの講師の名前を挙げた。
「その方々の話を聴くために、私は入学しました。まだ、脚本だけでは食べていけませんし、放送では、活字と違って後に残りません。そこに不満を感じたのです」
桜井は、最近、ラジオの台本書きへの意欲を無くしつつあった。
「脚本は、単価が安いからなあ。僕の知り合いでもいるよ、脚本を書いても食えないから、女房に食べさせて貰っているのが」
黒田の発言の後に、割烹着の女性が個人名を口にした。
「そうだ、あいつだ。五十過ぎてまでも続けているんだから、全く救いようがない」
黒田は、諦め顔で言った。
「でも、あそこはお子さんたちもしっかりしているし、お幸せそうよ」
女性が反論する。
「馬鹿、それとこれとは別だ。才能のない者が、女房の世話になりながら、売れない台本を書いていて、どこが幸せなものか」
黒田は軽蔑を込めて言った。
「あなただって、同じようなものじゃありませんか。雑誌に難しい論文を書いて、それで満足しているのですから。ねえ、桜井さん」
女性が桜井の方に視線を向けた。飲み屋の遣り手ママが、客に媚びるときの感じだった。
「そんなことは、どうでも良い。僕の話を邪魔しないでくれ」
黒田は、女性のいる方向に片手を裏返しにして振り、女性が席をはずすことを求めた。
「はい、はい。解りましたわよ」
女性は立ち上がって、
「今日はこちらにお泊まりになるのですか」
と黒田に訊いた。
「雑誌の原稿の締切があるから、ここで書いている」
と黒田は応えた。
「わたしは、あなたが大学教授の頃の方が良かったですわ。あの頃の方が、もっと颯爽としていらしたわ」
女性は、遠くを見詰めるような目付きになって言った。
「やかましい。余計なことを言うなッ」
黒田は一喝した。
「あら、本当のことを言ったまでよ。これから夕飯のお買い物に行って来ます」
と告げて、女性は部屋から出て行った。
「桜井君、一つ僕の願いを聞いてくれないかね?」
黒田は、真面目な顔になって言ってきた。
「何でしょうか」桜井は少し身構えた、
「いま、僕は『黒い資本主義』という単行本を作っている。ほとんど取材も終えて、資料も充分に集めた。後は、書き始めればよいのだが、僕には時間がないのだよ。大学生などを対象にした教科書のようなものなら、書き慣れているんだが、今回のものは、一般大衆を相手にしなければならないので、文章も多少軟らかく書いて欲しい、と出版社から注文されている。そこで相談なんだが、この仕事をこれから君が手伝ってくれないか、ということなんだ。もちろん、只でとは言わない。何某かの礼はする。どうかね?」
黒田は、説明を終えると、桜井を見つめた。
桜井は少し考えて、
「それは、ゴーストライターになってくれ、ということですか」
と訊いた。
「そういう呼び方もあるのかな? そんなに大袈裟でなくとも、部分的なリライトと考えて欲しい。既に、基礎的な原稿は、粗方できあがっているから、それを基本にし、単行本にして欲しいということだよ」
黒田は立ち上がり、机の前に行き、束になった原稿用紙を抱えて持ってきた。
「これなんだがね」
黒田は、桜井にその原稿用紙の束を見せた。桜井は広げて見た。大凡、三百枚程度の分量だろうか。前半部分は、黒田の原稿らしく学術論文風で書き慣れていた。だが、途中から字体も変わり、一読して文章も稚拙で、素人の書いた物であることが歴然としていた。しかも、一人の人間がまとめているのではなく、何人もの手が入っていた。
「うーん」思わず桜井は、唸ってしまった。
「どうかね、やれそうかね?」
黒田は、不安そうに訊いた。
「黒田先生、これは学生に書かせましたね?」
桜井は推測して訊いた。
「判るかね? 学院の若い連中を使ったのだが、素人ばかりで、どうしようもないのだよ。ただ、取材部分や数字的なものは、そのまま使えるだろう?」
黒田は、縋りつくような目で桜井を見てきた。
「どうでしょうかね。もう一度、資料などと引き比べて、一つ一つ確認する必要がありそうですね」
桜井は慎重に応えた。
「君がやってくれないかなあ」
黒田は腕組みをした。
桜井は考えた。時間的に余裕があれば、可能かもしれない。
「一体、いつまでに、完全原稿に仕上げれば良いのですか」
桜井は試しに訊いてみた。
「一週間」黒田は、平然と答えた。
「えっ、一週間?」桜井は驚き、呆れた。
「無理かね?」
黒田は、首を傾けて心配そうな表情を浮かべた。
「ちょっと無理でしょうね。少なくとも一ヶ月なければ……」
桜井は、過去にある財界人の自分史のようなものを、ゴーストライターとして引き受け、相手のスケジュールに合わせながら、約二ヶ月でインタビューから完全原稿まで仕上げたことがあった。その時も、ラジオの脚本と並行して書いていたから、仕事を一本に絞り込めば、一ヶ月程度でも可能だろう。特にタレント本などは、時間をいかに短縮して創り上げるかが、制作現場で競われている。
「もう締め切りは、過ぎているんだが、もう一度、出版社に交渉してみるか。桜井君、それなら、この仕事を引き受けてくれるかね?」
黒田は、誘い水を撒いてきた。
「まだ私は、この本の内容もよく解らないし、少し考える時間をいただけますか」
桜井は、慎重になっていた。これ以上、自分にできない仕事を背負い込みたくなかった。
「ああ、良いよ。君が納得するまで充分に考えてくれ。『黒い資本主義』とは、表に出てこない裏資金のことで、やくざや総会屋、右翼などのブラックマネーやセックス産業、パチンコ産業などの大衆を相手にした娯楽産業の裏金を対象にしている。これらは、表の市場経済には現れてこない。当然、脱税の部分が多い」
労働法を専門にする黒田にしては、視点が変わっている。恐らく、出版社から入れ知恵をされたであろう、と桜井は推測した。
「黒田先生の取り上げるテーマにしては、大分異色ですね」
桜井は、口許を弛めて訊ねた。
「そうかね。僕は、本名で労働法関連の論文を書く以外に、港浩平というペンネームで、多少軟らかい問題も書いているんだよ」
黒田は、少し余裕を取り戻して、自信ありそうな表情になって応えた。
「それは知りませんでした。今度、講義でも、そちらの分野のテーマも、話して下さい」
桜井は、願い出た。
「ああ、良いよ。君たちの何かの参考になるのなら、話して上げよう。編集者との付き合い方も含めてね」
黒田は、満足そうに応えてきた。
桜井は、夜勤の時間が迫っていた。
「黒田先生、私は今日、夜勤がありますので、これで失礼します」
と桜井は告げた。
「えっ、君は夜勤もやっているのか」
黒田は驚いている。
「そうです。ラジオ一本の仕事だけでは、食えませんからね」
桜井は、隠さずに応えた。
「早く一本立ちになりたまえ」
黒田は、優しい目で桜井を見てきた。
桜井は、それで黒田の部屋を出た。
道々、桜井は、黒田の仕事を引き受けるべきか否かを考えた。時間配分のことを考えるのなら、これ以上、余計な仕事を増やしたくはなかった。桜井にも書きたいテーマがあったし、いまも少しずつ小説のようなものを書いていた。ただ、黒田宏昭という人物に、少しずつ興味を抱き始めているのは、確かだった。
翌週の講義を終えると、黒田は桜井を呼び、
「桜井君、これから出版社に行くから、付いて来て欲しい」
と一方的に言った。
桜井は、少し躊躇した。黒田は、桜井に有無を言わせず、先に歩き出し、桜井は付いて行くしかなかった。早稲田通りでタクシーをつかまえて、黒田は「神田」と行き先を運転手に告げた。
光洋出版社は、築二十年近くは経っているであろう五階建てビルの地下にあり、その一画には、法律事務所や個人営業の興信所などが入居していた。光洋出版の狭い事務所には、壁際に新刊の書籍が堆く積まれており、来客用のテーブルにも、書籍が積まれていた。
「黒田先生、わざわざお越しいただいて申し訳ありません」
部屋の奥にいた眼鏡をかけ、白いワイシャツの袖を半分ほどに捲り上げた四十歳代の男が、黒田たちを丁重に迎えた。
「鈴木君、新しい書き手を連れて来たよ」
黒田は、そう言って桜井を紹介した。鈴木は、桜井に会社のロゴ入りの名刺を寄こした。「鈴木光洋」と書かれ、肩書きは代表取締役としてあった。桜井は、取材用の名刺を差し出した。
「鈴木君は以前、大手出版社にいて、独立したんだ。僕とは、その頃からの付き合いなんだよ」
と黒田は説明した。
「黒田先生、その後、原稿は進んでいますか」
鈴木は煙草に火を点け、一服吸って、編集者の顔になった。
「ああ、進んでいるよ」
黒田は悠然と応えた。
「来週には、間違いなく原稿をいただけますね」
鈴木が問い詰めた。
「そのことは、この桜井君と相談してくれないか。彼がリライトを担当するから」
黒田は、桜井に視線を向けてきた。
「桜井さん、どうですか」
鈴木の目は、笑っていなかった。
「私は、原稿を先週見たばかりですから……」
桜井は、この場でどう応えて良いか迷った。黒田と鈴木は、予め電話で、今後の計画を打ち合わせでもしていたのだろうか、という疑念が湧き起こってきた。
「正直に言って下さい」
鈴木は、詰め寄ってくる。桜井は黒田の顔を見た。黒田は、責任を放棄してしまったかのような、無頓着な表情だった。
「あのままの状態では、ほとんど原稿として使える部分がないでしょう。リライトといっても、最初から書き直しに近い作業になるでしょうから、どう考えても、短く見て一ヶ月、少し余裕を想定するのなら、二ヶ月を見なければならないでしょう」
と、桜井は感じたままの予測を応えた。
「あなたが責任を持って、最後までやっていただけるのですか」
鈴木は、厳しい問い掛けをしてきた。それだけ、切羽詰まっている状況が垣間見えた。
「任せていただけるのなら、やってみましょう」
桜井は、男として、そう応えるしかなかった。この場で弱気な発言をすれば、黒田宏昭の顔に泥を塗るような気がした。
「期限は一ヶ月。ただし、印刷所の都合がありますから、各章ごとにできあがった原稿を下さい。それで良いですね、黒田先生」
鈴木は、確認を求めた。
「桜井君、それで良いのか」
黒田は、まるで第三者のような感じで、桜井に訊いてきた。これでは、自分が原稿を遅らせている当事者のような立場ではないか、と桜井は気づいた。何か反撃をしなければならない。
「黒田先生、他人事のように考えていては、駄目です。これは、先生の原稿なのですからね。私は、あくまでも部分的にお手伝いするに過ぎないのですからね」
桜井は、黒田に念を押した。
「そうですよ、黒田先生。自分だけ逃げてしまっては、駄目ですよ、この間みたいに」
鈴木は、やっと笑顔を見せて、大きな溜息を吐いた。
「何だ? 僕は逃げていないよ」
黒田は、ばつが悪そうな苦笑いを見せた。
光洋出版を出てから、黒田と桜井は飯田橋の事務所に向かった。タクシーの中で黒田は、大人しかったし、桜井も自ら話す気にはならなかった。二人ともそれぞれの立場で、気まずい雰囲気になっていた。事務所に着くと、桜井は『黒い資本主義』の原稿と、必要な参考書籍、雑誌記事のコピーなどを黒田から受け取った。
「僕の自宅には、他の関連資料がある。今度、時間を作って、来てくれないかね?」
黒田が桜井を誘った。
「ご自宅はどちらですか」桜井は訊いた。
「千葉県の沼南だよ」黒田が応えた。
「そうすると、最寄りの駅は、松戸ですね」
桜井が確認を求めた。
「そうだ。松戸から車で二十分ぐらいかかる。来週の週末にでも、桜井君が泊まりがけで来ると良い。自宅にならば、書庫があるから、色々な関連書籍などが揃えてある」
黒田は、自宅の状況を伝えてきた。
桜井は、十冊程度の書籍と原稿の束を紙袋に詰めた。
「ビールでも飲むかい?」
と黒田が言った。
「結構です。これから部屋に帰って、資料を読み込んでみます」
桜井は、一刻でも早く一人になりたかった。
「そうしてくれるかい? 悪いねえ、君に仕事を押しつけてしまったようで」
黒田は、少年のような照れ笑いを見せた。
桜井は、片手に重い紙袋をぶら下げて、事務所を出た。電車の中、そして部屋に帰ってから、桜井は資料を読み続けた。特に、総会屋関連の資料が、資本主義の裏社会を見るようで面白かった。だが、手書きの原稿は、とても読む気になれなかった。一通り他の資料に目を通してから、数字などを頭に入れて、原稿の使えそうなところを取捨選択しようと考えていた。桜井は、黒田宏昭という灰汁の強い人物に、少しずつ取り込まれていくのであった。
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