十七歳への返歌(かえしうた)
Poem in reply
小松崎 松平
by
Matsuhei Komatsuzaki
第一章 始まりは男女川(みなのがわ)
筑波嶺の峰より落つる男女川
恋ぞつもりて淵となりぬる
それは、川島由美子から贈られた和歌だった。昔の歌人が詠んだ数多い和歌の中から、百人一首の陽成院の恋歌を、由美子が選んだのは間違いではなかった。少なくとも、柿岡和也の背信を責めるには、充分過ぎるほどの力のある和歌だった。
別れてから一年後の冬、由美子はその和歌を和也宛に送ってきた。葉書に黒々と墨でしたためられた和歌を詠み、彼は一瞬たじろぎ、瞼を閉じた。やられた、と気づき、すぐに打ち消そうとしたが、三十一文字は脳裡に染み込むように浸入し、彼を支配するまでに膨れ上がっていった。彼は慌てて和歌の記憶を払拭しようとした。酒も飲んだ。睡眠もとった。散歩、読書、音楽、映画など様々なもので気分転換を図った。
しかし、和歌の記憶は和也の脳裡から消えずに、脳漿を刺激し、中枢神経を狂わせた。いかに妄想癖の強い自分とは言え、和歌一首に怖じ気づくなんて情けない、と彼は思いながらも、三十一文字がどうかすると口から零れ出そうになる。次第に彼の日常は、和歌に左右され、由美子に責められているという、自虐的な気分に落ち込んでいくのであった。
和歌を贈られてから、一度だけ和也は由美子に手紙を書こうとした。面と向かっては言えない胸の裡を、素朴な文章に託そうと考え、机上に原稿用紙を広げた。だが、書き進んでいくと、どうにも遣瀬なくなった。くどくど弁解じみた言葉を書き並べている自分に嫌気がさし、ペンを止めた。あの和歌は、単なる書写に過ぎないのだ、たかが三十一文字の和歌ではないか、と彼は強がり、ことさらに平静を装うとした。ところが、意に反して、和歌は勢いを増して蘇り、十八歳の少年の心を掻き乱すのだった。
この状況になって、和也は由美子の仕掛けた罠が容易なことではないと自覚した。大和古来から伝わる和歌の形式、とりわけ洗練された秀歌を迷わずに選んだ由美子に、彼はかつての友人として敬意を表すしかなかった。既にその時、陽成院の和歌は、詠み手の切ない恋心から超越して、由美子の恋歌になっていた。解釈、鑑賞の枠を飛び越え、激しく、力強い女の恋心が三十一文字に込められているのを感じ、彼はふと、『浅茅が宿』の、屍になって亭主の帰りを待つ女の狂気を思い浮かべた。まさに由美子の怨念と愛情が、和歌一首に託され、彼の脳裡に張り付いてしまった。
和也は、日頃の多忙にかまけて、また自分の怠惰な性格のために、由美子への手紙を最後まで書き上げることができなかった。十八歳の彼は、己の恥を他人に晒け出す勇気がなかった。その頃の彼は、謂われなき罪に怯える臆病な少年であった。
和也は、連歌の発祥地、茨城県新治郡で生まれ、十五歳の春までそこで育った。無名の、売れないもの書きだった父が、時折暇を持て余して、幼少の彼に『徒然草』から『太陽の季節』までを、読み聴かせてくれたものだった。和也が退屈すると、父は百人一首の札を持ってきて、一首ずつ詠み上げ、彼に札を取らせる。こうして、いつの間にか、雨水が大地に染み込むように、様々な和歌が彼の記憶に留められていった。もちろん、和歌の内容や意味するものは理解できなかったが、もの哀しい三十一音の調べに心惹かれ、いつしか自らも和歌を創る少年に成長していった。
少年の頃に飽くことなく眺めた筑波山。いまでも和也の心には、夫婦の山が何より大きく、原風景として残っている。筑波山は、彼の故郷そのもので、とりわけ山の頂に雪を被った筑波は美しい。和也の家の裏側にある小高い丘から観る筑波山は、富士山に勝るとも劣らない、と彼は会う人ごとに自慢したくなる。
由美子は、和也の育った環境を先刻承知の上で、陽成院の和歌を贈ってきた。誠に心憎いばかりの、的を射た選歌だった。まるで、これがあなたの子よ、と別れた女から逃れられない証拠を突きつけられた男のように、和也は酷く狼狽した。由美子は一筆、一筆を切々たる想いで書いたのだろう、筆の運びに重みがあった。わずか三十一文字から、由美子が現在も心変わりしていない、と和也には判った。同時にまた、かつての自分の一方的な行動を詰られているような気がして、和也は別れの際に上手く説明できなかったことを悔やんだのであった。
木造アパートの六畳間で、和也は打ち拉がれて由美子と別れた日を振り返っていた。あれから三年の月日が過ぎていた。雨の多い、今頃の季節にあの長い手紙を書き始めたのだった。
だが、いつまでも苦い感傷に浸り続けていられなかった。差し当たって、食べていくための資金を稼ぐ必要に迫られていた。甘い想いに耽るのは、まともな職に就いてからで良かった。
定時制高校の卒業を目前にした年の十二月、和也はそれまで勤めていた会社を辞めた。そして、三年九ヶ月間住んでいた東京都足立区北千住の街を離れ、渋谷区の國學院大学の近くに六畳一間、台所、トイレ付きのアパートを借りた。これまでのように会社の独身寮で同僚との相部屋で気兼ねするのではなく、わずかの間でも独立した部屋で受験勉強をするという目的があった。そこから大学に通い、新しい夢にまで見た生活がスタートするはずだった。しかし、少年の計画は、経済上の理由でたちまち窮地に陥った。アパートの権利金と敷金、三、四の大学の受験料、諸経費などを支払うと、三年数ヶ月の間に貯めた百万円に満たない蓄えは、数十日間で出て行った。
朝起きたら、まず最初に新聞の求人欄を見る。主にアルバイト中心だが、手頃なものがない。求人情報誌を買って見ると、こちらも似たり寄ったりだった。
大学の合格発表日、掲示板に和也の受験番号があった。困ったな、と思った。入学金がなかった。茨城県石岡市に所帯を持っている二番目の姉に貸している金などが戻る予定だったが、裏をかかれた。口達者な姉は、電話で言い訳めいたことを並べるだけで返済してこない。夫に内緒で借りた金なので、工面するのに困っているらしかった。他に金が入ってくる可能性は、全くと言っていいほどなかった。民間の金融業者とも交渉してみたものの、未成年の上に、失業者崩れの男には融資するはずもなかった。悔しくないと言えば嘘になる。和也は、闘うことに気を取られて、事後の資金の遣繰りを忘れる愚かな男だった。
和也は、池袋駅前の喫茶店『モンブラン』に夕方五時から夜十一時まで勤め始めた。仕事はウエイターで、そこで働く学生たちともすぐに親しくなった。ほとんどが私立大学生で、遊ぶ金を得るためのアルバイトであり、生活資金を稼ぐための和也とは、目的が違っていた。
和也の日常は、全てがゆっくりと回復するかに見えていた。アパートの部屋にいる時は、専ら読書をしたり、ものを書いたりしていた。高校時代に書き溜めた原稿を読み直し、もう一度、創作に挑む気になっていた。落ち着いた、それでいて単調な日々が続き、季節は夏から秋へ静かに流れようとしていた。しかし、災いは思わぬところに潜んでいた。二番目の姉からの電話が、古くて重い悩みを和也の脳裡に蘇らせた。
「あら、和也は知らなかったの? 母さんが再婚しているってことを」
姉は、意外だと言う感じの問い掛けをしてくる。
「何、再婚だって?」
和也は、わが耳を疑った。姉は、こともなげに追い討ちをかけてくる。
「そうよ、再婚。もう五、六年前になるはずよ、あの男の入籍を済ませて」
「五、六年前? ちょっと待ってくれ。僕が上京して四年数ヶ月だ。そんなはずがない。何かの間違いだろう」
最後の望みを、目に見えない何ものかに託して、和也は姉の返答を待った。しかし、姉は非情だった。裁判官が被告に刑を告げるように、確信を持って応えた。
「いや、間違いでも勘違いでもないね。わたしも反対したのだけれど、こればかりはたとえ娘でも阻止することができないわ。てっきりわたしは、和也が承知の上であの人たちの入籍が済まされたと思っていたのよ。本当に知らなかったの?」
姉は、不思議そうな声で訊く。
「ふざけ話だッ。なぜそれを僕にもっと早く知らせてくれなかったのか。酷いじゃないかッ、一言も相談がないなんて」
和也は激怒した。母も許せなかったが、いままで母たちの近くに住みながら、その事実を伝えて寄こさなかった無責任な姉も許せなかった。なぜ今頃になって――という無念の想いと、肉親たちのあまりに身勝手な行動に、新たな怒りと憎悪が和也の腹の底からふつふつと湧き起こってくるのだった。
「わたしに怒ったって仕方ないでしょう。文句があるのなら母さんに言いなさいよ。わたしは何度も止めたのだから、あんな男と今更一緒になるのは馬鹿らしい、と。悪いのは皆、あの人たちよ、いい歳をして――」
姉は、大きな声で母の行いを責めた。
「どいつもこいつも、役立たずだ。役に立つどころか、こちらの足を皆で引っ張ってやがる。これで判ったよ、全ての謎が――」
和也は、新たな怒りが湧き起こってくるのを感じていた。
「えっ、何?」
姉は、訊き返した。
和也は、生活を安定させるために再び勤め人になろうとして、ある人の紹介で中堅商社の入社試験を受けた。筆記試験に通り、二次面接もほぼ通って、最終段階で「履歴書にちょっと不備がありますね」と人事部長が疑りの視線を向けながら、告げてきた。恐らく彼は、次のように忠告したかったのだろう。なぜ同じ戸籍内の人物名を記入しないのですか。故意に隠すのは、何か知られてはまずいことでもあるのですか、と。
母の再婚が発覚した日、和也はアルバイト先のわずかな休憩時間を利用して、池袋駅前の公衆電話から母に抗議の電話をかけた。
「益男が、益男が――」
と、母は実弟の名前を繰り返すばかりで、全く要領を得ない。
十円玉は秒刻みで電話に飲まれていく。腹が立つやら、焦れったいやらで、和也はとうとう怒りを爆発させ、我を忘れて母を罵った。
「いい加減にしたまえッ。僕は、あんな男と一緒になって欲しくない、と強く反対したではないか。人を馬鹿にするのも程がある。一体、あなたは、どういうつもりでいるのか。歳を考えろ、トシを。五十過ぎても、男なしではいられないのか。何度、僕を困らせれば気が済むのか。それでも親かッ」
隣のボックスで受話器を耳に当てていた二十歳ぐらいの女性が、驚きの表情でこちらを見ている。だが、今は他人の目など気にしていられない。和也の怒りは容易に収まりそうになく、躰が熱せられたように火照る。
「いいかね、あなたの身勝手な行動で一番被害を被っているのは、この僕なんだ。あなた方は、僕に隠れてこそこそあの男を入籍して置きながら、いままでずっと黙っていたんだ。どこにこんな馬鹿な話がある? 聞いた試しがないね。子供の教育に熱心な親なら世の中に大勢いるが、子供を虐待し、揚げ句に本人自らが切り拓いた進路を妨害するとは、どういうことかッ。どこまで僕を苦しめれば気が済むのかッ。自分さえ幸せなら、子供はどうなっても構わぬのかッ。恥を知れ、恥を――」
和也の脳裡から、十年間の鬱積が一気に流れ出ていった。電話の向こうの母は、濁流に飲まれる田畑を為す術もなく呆然と眺めている農婦だった。母は、神を呪うような悲痛な声で叫んだ。
「そんなことを、あたしに言っても、仕方ないでしょう。益男が決めてしまったんだもの。それに、あなたがこちらに帰ってこないから悪いのよ」
「何ッ、帰ってこいだって? 僕を帰れなくしたのはどこの誰なんだい? 家を出るように仕向けたのは、一体誰なんだい? 皆、あなたじゃないかッ」
和也は、唾を飛ばしながら怒鳴っていた。
「あたしが、何をしたというのよ?」
母は、和也をからかうような感じで言った。
「惚けるのも、いい加減にしろッ。夜な夜なあなた方は、僕らの横で、何をしていた? あれが精神的な苦痛、虐待でなかったら何だというのかッ。ふざけるな! あなたらの破廉恥極まりない無神経な行動が、多感な少年にとって、どれほどの苦痛であったかを、当事者のあなたは、未だに気づいていない。全く呆れた話だ。それだけでは足りずに、今度はぬけぬけと、くだらない男の入籍だッ。普通の神経の持ち主なら、到底考えられない暴走だ。しかも、反省しようとも思わない。厚かましく生きてやがる――」
和也の脳裡に、あの頃の苦い体験の記憶が一際鮮やかに蘇った。自分の家に住んでいながら人質にされたような不安と屈辱が、あの頃の彼に付きまとっていた。その屈辱が新たな怒りとなって和也の胸臆から湧き起こる。受話器を持つ彼の右手がぶるぶると怒りの感情で震えた。何ものかに向かってがむしゃらに突進しようとする己を、母に対して、言葉の洪水のような罵詈罵倒を吐く行為で、和也は辛うじて抑えた。
「何とか言ったらどうなんだい? 自分のしていることが恥ずかしくて、何も言えまいッ」
和也は、ここぞとばかりに母を責めた。
「……」母は無言の抵抗を試みる。時間を稼ぐ気らしい。
彼は腹が立った。十円玉を電話機に次々に投入する。
「卑怯じゃないか、黙るなんて――」
和也は、母の反撃を待っていた。
「うるさいわねッ。一人で大きくなったつもりでいるんじゃないよ。減らず口がたたけるほど、立派な人間だと思っているのかい? 一体、自分を何様だと思っているんだい? いい気になるんじゃないよッ」
母は、和也の挑発に乗ってきた。
「何ッ。いい気になっているのはそっちではないか! ふざけるのもいい加減にしろッ。今、あの男はそこにいるのか。いるのなら電話に出せッ。早く出せッ」
和也は、次に闘う相手を求めた。
「いないわよ」母は、声を低くして応えた。
「隠すんじゃないぜ。早く出せッ」
和也は、さらに挑発した。
「いない者はいないのよ。隠したって何にもならないでしょう、馬鹿ッ」
母が、大声で罵った。
「馬鹿はどっちだい? あんな薄汚い男と再婚したくせに。呆れてものが言えないよ」
和也は、相手を見下すように言った。
「それだけ親を罵れば充分でしょう」
母は、不貞腐れた。
「うるさいッ、黙れ!」
和也は、怒鳴った。
ガチャン、と電話は切れた。糞ッ、汚い手を使いやがってッ。周囲の冷ややかな視線を、全身に痛いほど感じながら、和也は再び十円玉を電話機に投入した。しかし、コールサインを何度繰り返しても相手は出ない。母は、論争することを一方的に放棄したらしい。
アルバイト先の休憩時間は、三十分。予め用意していた十円玉は約五十枚。手許に残ったのは四、五枚足らずだった。茨城と東京の物理的な距離だけでなく、和也は、母との人間的な距離を途轍もなく長く感じて、気が滅入ってしまうのだった。
和也が電話ボックスを出て、重い足取りで池袋駅前の雑踏の中を歩いて行くと、「世界同時革命!」を宣伝車の屋根の上からがなり立てている、女性革命家の叫びがキンキン響いていた。普段ならば「オッ、頑張っているな」と親近感を持つのに、この日ばかりはやけに空しく、彼らの主張は、おおよそ実現が不可能な夢物語に思えてならなかった。宣伝車の横に立っていたカーキ色の軍服を着た青年が、和也に素早く近寄り、署名を求めてきた。和也は、無言のまま首を横に振った。
「あなたも労働者でしょう。それなら我々の運動を理解できるはずだ。時間を下さい。お話をしましょう」
青年がそう言って、和也の前に立ちはだかった。
「悪いが、勤務中なのでね」
和也が断ると、青年は大人しく引き下がり、機関誌を手渡し、
「カンパをお願いします」と言ってきた。
和也は上着のポケットから小銭入れを出し、差し出されたボックスに小銭を入れた。
「有り難うございます」
青年は、次の「労働者」を見つけるために後方へ退いた。黒いヘルメットを被り、見事なアジテーションをとばす女性革命家に、和也は訊ねてみたかった。あなたには疎ましい母親はいないのか、と。
和也は悔しかった。母たちのあまりにも無恥な、それでいて、大胆この上ない行動が許せなかった。姉が指摘するように、母の再婚が悪いのではない。あの男を自分と同じ戸籍に入れ、しかも、こちらの姓を名乗らせたことに我慢できなかった。
柿岡和也が十歳の頃、母とあの男の交尾現場を見てしまった時は、二匹を殴り殺してやりたいと思った。少年の潔癖感が招いた衝動だったろうか。それとも、もっと深い魂の叫びであったろうか。彼は、二人を殺さなかった。殺そうと思えば殺せたはずだ。現に彼は、あの男の寝顔を眺めながら、右手にがっちりと薪割の柄を握っていたではないか。不敵な薄笑いを浮かべつつ、何度もあの男を挑発したではないか。母を木刀で殴りつけたこともあった。だが、とうとう殺せなかった。腕力やチャンスがなかったからではない。殺意はあった。彼を無抵抗主義者に導いたのは何だったのか。あれほどまでに屈辱を受け、地獄図を見せつけられながら、彼を生きる道へ走らせたのは誰だったのか。かつて川島由美子が指摘したように、亡父の意志を継ごうとする和也のエネルギーが強かったからだろうか。
十三歳の秋、和也は二度の自殺に失敗した。一度目は家の裏山で、松の枝に紐を吊し、首吊り自殺を企てた。だが、一見頑丈そうに見えた枝が少年の体重で折れ、地面に強かに尻を打ち、馬鹿馬鹿しくなって中止した。二度目は自らの手で包丁を持ち、喉を真横に掻っ切ろうとした。しかし、意外に喉の骨は硬く、白いワイシャツの襟を鮮血で染めただけで致命傷には至らなかった。喉にタオルを巻き、近くの恋瀬川へそのワイシャツを捨てに行った。
母は、少年の心の葛藤に気づいていたろうか。否だ。亡父たちの位牌を安置している部屋で、しかも側に和也と幼い妹が寝ているのを承知の上で、母とあの男は、中年の弛んだ肉体を貪り合い、獣じみた呻き声を張り上げていた。和也は幾度となく母に抗議した。母は少年の怒りをまともに受け止めないで、揶揄してくる。尚も食い下がると、蠅でも追い払うように、怒鳴り散らすのだった。
「うるさいわねッ、子供は黙ってらっしゃいよ。誰のお陰で御飯が食べられると思っているのよ。皆、あたしがいるからじゃないか。お前の父さんは、家族に何も遺していってはくれなかった。生きている間は、お酒をたらふく飲み、自分だけ好き勝手なことをして、早々とあの世に逃げてしまったではないの。だから、これからはあたしも好きに生きる権利があるわ。あたしは、やっと自由になれたのよ。文句があるかい?」
「売女ッ」と、和也は吐き捨てた。
「何だって? 自分の親を――。生意気な口を利くんじゃないよ。もう一度言ってみろッ」
母は、憤怒の形相で和也に迫ってきた。
「売女ッ」和也は、母を罵った。
いきなり母は、近くにあった箒(ほうき)を手に持ち、柄の部分で殴りかかってきた。狂ったように殴り続けてくる母を、和也は続けて罵り、空しい少年の抵抗を試みるのだった。
案の定、母は身籠もった。周囲の者たちは即刻「堕胎」を主張した。だが、妊婦は耳を貸そうとしない。まるで腰から下に太い根が生えたように、しぶとく、強情な母を見た時、和也は女の執念を、言葉でなく、実感として知り得たのであった。
「堕すべきだ、堕して欲しい、頼む――」
和也は、母に哀願していた。
涙ながらに訴える少年の前で、母は言った。
「お前のような子供に女の気持ちが解るものかい。あたしは産むわよ、誰が何と言っても産むわよ。殺せるものなら殺せッ。さあ、早くお腹の子と一緒に殺してみろッ」
母の下腹部は日に日に膨らみを増し、誰の目から見ても「堕胎」は母胎に危険を伴うほどになっていた。
母の頑なな考えに対して、亡父の実弟が継ぐ本家では、
「勝手にしたらよい。その代わり親類の縁を絶つ」
と宣言してくるのだった。
青年時代に、父は文学を志して、上京した。家督は、父の実弟が継いだ。父の生存中は、こちらを立てていた叔父一家だったが、父亡き後は、様々な面で難癖をつけてきた。母は、母子家庭への世間の冷たい視線に逆らうように、あの男をわが家へ導き入れた。肉体を代償にする方法で、一家の安全を買おうとした。しかし、母の選択は家庭崩壊へ行き着く道だった。母は、多感な少年の反抗と抵抗を、予想し得なかっただけでなく、母から女への微妙な変化を隠し通せなかった。母の世間に対する反逆は、目覚めたばかりの十一歳の少年の怒りに、油を注ぐ結果となった。
その男は宿なしだった。大工の腕は確からしいのだが、以前に勤めていた工務店を辞めて、柿岡和也の自宅に、亡父の仏壇に線香を手向ける目的で現れた頃には、運送会社で助手をして、その日暮らしを続ける四十男に過ぎなかった。酒が好きで、雨が降ると仕事にも行かないで家で飲酒する悪癖があった。何が面白くないのか時々、狂ったように喚き散らす。悪い意味での「職人気質」だった。
母は、そういう男のどこが良かったのか、和也には解らない。「もう苦労は懲り懲りよ」と、人生を悟りきったと言いたげな母が、なぜまた貧乏籤を引いたのか。しかも周りから祝福されない子を身籠もる気になったのか。少年には想像もつかない母の奔放な行動であった。
「もしもお前が、父さんのようなもの書きになるのなら、それだけ覚悟して置くことね。本人は、自分の好きなことをしているので、満足かも知れないけれど、もの書きの妻は、本当に苦労するよ。あたしは、子供たちに食べさせるお米を借り捲ったわよ。お前たちは、母さんのそのような苦労を知らないでしょう。あんな惨めな、哀しい想いは、お前の連れ合いには体験させるのではないよ。できるなら、初めからもの書きになろうなんて考えない方が良いわね。真面目な堅い勤め人にでもなる方が無難だわ。その方が家族も安心して暮らしていけるからね」
母は、父が存命中の頃、何かの折りに和也にそう語った。
和也は、母の気持ちや願いも理解しようとした。しかし、五十歳を過ぎても、背を丸めるようにして机上に向かい、原稿用紙の升目をこつこつ埋めていた父の姿が、和也の脳裡に焼き付いているのだった。亡父が遺していった書物を、彼は母に隠れてこっそり読んだ。和也の創作した自由詩が児童文集に掲載されたりすると、
「蛙の子は蛙だわねえ。先が思いやられるわ。困ったことねえ」
母は、少し眉を顰めて見せたが、和也には母の本心までは判らなかった。
あたしは子供を産む、と頑固に主張していた母の決心を根底から揺るがせたのは、少年や親類の無慈悲な抗議のためばかりではなかった。皮肉にも、母の躰に子種を宿した男が、同じ町に住む子持ちの未亡人と深い仲にあるという事実を、母が知ったからだった。その事実を二番目の姉、恵子から初めて聞かされた時、母の顔は一瞬、白くなった。哀しみ、嘆き、怒り、空しさを通り越した表情があることを、和也はその時知り得た。
「そう、そうなの……」
と言ったなり、母は自宅の居間で俯いた。
「母さんは馬鹿よ。あんな碌でなしのために尽くすなんて。躰を痛めるのは、母さんではないの。一体何のために子供を産むの? わたしなんか逆に男を騙してやろうと思っているわ。そうしなければ、この世界で生きてゆけないから」
十九歳の姉は、水商売で強かに生きていた。この姉でさえ過去に「死ぬ」の「生きる」のと、騒いだことがあるのを和也は知っていた。幸い薄い女であった。
母は、産婦人科の門をくぐり、堕胎を決意した。一つの生命を母親自身が葬り去る代償として、母は自らを裁き、卵巣を摘出した。母の決断を母の実弟から詳しく伝え聞かされた時、和也は、かつてない強い衝撃を受けた。
「嘘でしょう、叔父さん」
和也は、叔父に確認を求めた。
「そんなことをお前に嘘を吐いたって、何の得にもなりはしないだろう。ただ、事実をありのまま教えたまでだ。もし、俺の言うことを信用できないのなら、直接、自分の母親に確かめたらよいだろう」
叔父は、「お前たちがあまり姉さんを責めるからだ」と言いたそうな眼差しを和也に向けてきた。和也は、叔父の存在が疎ましかった。一体、それではあの場合に、どのような態度、考えで事に対処すればよいのか。賛成にも反対にも取れる、曖昧な薄笑いを浮かべているだけでは卑怯だ。堕胎を強く勧める以外に、自分の取るべき行動はなかったのではないか。叔父も堕胎に賛成し、母に翻意を迫っていた。今更、自分は無関係だった、と良い子ぶるのは、あまりにも見え透いている。和也は、心の奥で叔父、そして大人社会に反論を試みるのだった。
母が卵巣を摘出したと聞かされた時、和也はすぐに亡父の「古傷」を想い出した。父は、若い時コミュニストだった。明治末生まれの、地主の長男の立場にあった父が、どのような経緯でマルクスを知り、深く傾倒していったのかを、和也は詳しく知らなかった。父が病床にある時、周囲に人がいないのを見計らって、枕元に和也を呼び、秘密を打ち明けてきた。
「女の一念というものは怖いぞう。いまだから言えるが、父さんは一人の女性を殺してしまったのだよ」
「えっ、本当?」和也は驚いた。
「驚くのも無理はない。でも、誤解しないで欲しい。父さんが自分の手で殺したのではない。しかし、あれはどう考えても私の責任だったと思う」
父は、過ぎ去った昔を想い起こすような眼で天井を眺め続けていた。暫くしてから、徐ろに語り始めた。
昭和十数年頃、父たちは特別高等警察の監視を逃れて、地下活動に従事していた。共産党幹部ならいざ知らず、父たちのような中堅党員は衣食住もままならなかった。その頃の父には、婚約者に等しい人がいた。山の手育ちの役人の娘だった。
「和服の似合う、きりっとした美人だった。その割にモダンで、津田塾で英文学を学んでいたインテリだった。どうして、あんなに気立ての良い人を――」
父は絶句した。父の瞳が心なしか濡れているように、和也の目には映っていた。
父たちは秘密の会合を開いていた。そこへ特別高等警察が、突然、踏み込んで来て、非合法活動を行っていた父たちを連行し、様々な拷問を加え、転向を迫った。
「取調べの特高は、竹刀で背中を殴り続け、気を失うと、水をぶっかけられて、さらに板の間に何時間も座らされて、足の感覚がなくなる。煙草の火を掌に押しつけてくるなど、あの手この手で、痛めつけてきた。食事や水をある期間与えられなくても耐えられるが、眠らせてもらえないのは、一番堪える。それで、とうとう自分が実際にやっていないことを肯定し、予め用意された転向文を大声で読み上げて、爪印を押す。いいかね、偽りの転向文は、特高の手によって書かれているんだ。その紙に親指を朱に染めて押すだけなんだ。卑怯なやり方だよ、全く――」
その時の屈辱が脳裡に蘇ったのか、父は天井をぐっと睨み、顔面の筋肉を引き締めた。父は、現在も転向などしていなかった。自分の死を予感して、誰かに悔しい胸の裡を明かして置きたい、そんな差し迫った想いが、普段は寡黙な父を饒舌にしているのであった。
父は、婚約者の自殺についてを最期まで詳しく語らなかった。後に父の旧友などからの話を集めると、おおよそ次のようになる。婚約者は一度、親許へ引き戻されたが、再び父のところへ戻って来た。彼女の両親は、家出人捜査願を出し、そこから特高が動き始め、父たちの活動場所を嗅ぎ付けた。彼女は特高に尾行されているなどと考えもしなかった。彼女自身も被害者であり、ユダ呼ばわりされる必要はなかった。しかし、婚約者は、全ての原因は自分にあると思い込み、背負わなくても良い罪を背負い、その重さ、辛さに耐えきれないで服毒自殺した。その際、彼女が使用した青酸カリは、父が預けていた物だった。父は責任を感じて党を離れ、田舎に引き籠もった。その後の父は、婚約者の幻を求めて、孤独に生きていた。人々の中で常に父が浮き立ち、和也自身も幼い頃、「主義者の息子」や「お前の親父はアカだったろう?」などと、年上の者たちから、からかわれたことがあった。
母が卵巣を摘出したと聞いた時、和也はなぜか深い悲しみに襲われた。どう言えば良いのだろうか。自分と母の絆がぷっつりと切れたような、喪失と疎外の入り混じった複雑な孤独感だった。父が婚約者の死を罪と感じたように、自分もまた、「母の子」を闇へ葬り去る切っ掛けを作った事実を、常に心の片隅にぶら下げて、長い道のりを歩いて行くのだろうか、と和也は考えた。
母が退院すると、両者協議の上で母と情夫は別れを決めた。父方の実弟と母方の実弟が全てを取り仕切り、少年の和也には口を挟む余裕すらなかった。儀式めいた大人たちの「手打ち式」に滑稽の見本を見る想いがした。わざとらしい大人たちの横で不安と疑問が十二歳の少年の胸に湧き起こり、もどかしさが募った。
「公の場で、証文を取り交わしてはどうか」
と、和也は叔父たちに提案した。
「何もそこまでしなくても良いだろう。大丈夫だよ、こうして大人たちが固い約束を交わし合ったのだから。お前は、物事を杓子定規に考え過ぎるぞ」
と、母の実弟は言った。
「しかし――」和也は、尚も食い下がった。
「良いじゃないか。益男さんと私が立会人になって承認したのだ。お前の心配も解るが、悪いようにはしない。責任は、私と益男さんが持つ。死んだ兄貴も、これ以上事を荒立てることは、望まないと思う」
父の実弟が、実直な言葉遣いで和也を説き伏せた。
結局、和也は年の功に折れた。だが、全てを納得したわけではなかった。心は曇り空のように重く沈み、耳には微かにレクイエムが聞こえていた。その不安な想いを払拭するため、和也は亡父の墓に一人で参り、菊の花と線香を手向けた。父が亡くなってから三度目の秋が過ぎようとしている頃だった。
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