幼きイエスの子守歌
The lullaby
小松崎 松平
by Matsuhei
Komatsuzaki
第一章 マガンダ・ババエ(きれいな女性)
もう何年も前から、マニラの歓楽街で働く若い女性たちは、結婚の条件として、四つのMを話題にしている。『日本人と結婚するなら、アパット・ナ・エム(四つのM)よ。マタダン・マヤマン・マダリン・ママタイの頭文字なの。意味はねえ、老人のお金持ちで、早く簡単に死ぬ人。そういう人がいいなあ』
岩井次郎が飲みに行ったフィリピン・パブで、軽いジョークのような言葉を、出稼ぎフィリピン人女性のマリーから聞かされたのは、ちょうど一年前だった。彼女たちにとって、日本への出稼ぎと日本人との結婚は、どん底から脱出する最も身近な夢になっている。
二月の北風が空中で唸っていた。その音が建築して二十年以上経っている古い五階建てビルの中まで、ガラス窓越しに伝わってきた。時刻は午後七時過ぎ。岩井は、東京都港区三田の印刷会社で、オーディオ業界新聞の入稿、レイアウト、校閲などの編集作業を終えてから、三階の校閲室でゲラの整理や不要になった原稿の処分を行っていた。
「岩井さーん、どないです? さっきの件、行ってみる気にならはったろうか」
関西訛りの言葉で背後から声をかけてきたのは、三ヶ月前に大阪支局から東京本社に移動して来た営業広告部員の山内和夫だった。
「うーん、どうかねえ」岩井は煮え切らない返事をした。
「冷やかしてみるだけでもいいでっしゃろ。厭な店ならすぐ出て来ればよいでっしゃろ」
岩井は北関東生まれで、関西訛りにあまり馴染んでいなかった。その上、四十歳を過ぎた肥満気味の山内から発せられるこてこての関西訛りには、素肌を逆なでされるような悪寒を感じていた。
「この店はテレビのナイトショーでも紹介されたそうでっせ。いい娘がわんさかいてるらしいな。新聞記事にそう書いてありまっせ」
山内は、見出しの大袈裟なスポーツ紙の切り抜きを見せびらかしながら、岩井の気を惹こうとしている。そんなのはヨイッショ記事だ、それぐらい業界紙にいて解らないのか、と軽蔑し、怒鳴りつけたくなる感情を辛うじて抑えて、岩井は言った。
「金がないよ。先月は新年会などで遣い過ぎてしまった。二月は誰も懐が寂しい状態だろう」
関西人は締まり屋が多い。一度甘い顔を見せると、つけ込んでくる。
「山さんが奢ってくれると言うなら、話は別だがね」
岩井は決定打を放った。大概の関西人は酒席を共にしても、割り勘が精一杯で、同僚に奢りなどしないはずだ、と認識していた。
「いいでっしゃろ、今夜はわしの奢りでも結構でっせ。その代わり会社の内部情報を提供して貰いまっせ」
山内は、下品な笑いを見せた。社員二十人足らずのオーディオ業界紙発行会社では、岩井も途中入社組であり、社歴は四年に満たなかった。ただ、会社や経営者に対しては、不満がたくさんあった。岩井は社内で不満分子の一人だった。山内は、早くも岩井の社内における立場を見抜き、布石を打ってきた。
「ちょっと、待って。会社に連絡を入れてみよう」
岩井は、机上の黒い電話を取り上げ、ダイヤルを回した。呼び出し音が鳴り続けるばかりで、誰も出なかった。
「みんな先に帰ってしまったらしい。薄情だよなあ、こちらはまだ仕事中なのに。頭にくるなあ」
岩井は受話器を乱暴に置いた。
「行こう、山さん。今日は週末だ、気晴らしにカラオケで唄いまくるのも良いだろう」
そう言って、岩井は立ち上がった。
三十路を過ぎても独り身の岩井次郎は、埼玉県内の賃貸のアパートに帰っても、待っている人がいなかった。時々、寂寞感に襲われると、二十五歳過ぎの頃から、同僚たちとフィリピン・パブなどではしゃぐ日が多くなった。岩井は地方の国立大学を卒業すると、上京し、船員・船舶業界紙に記者として就職した。そこには八年ほど勤めたが、船舶業界は戦後最大の不況に陥ったため、業界紙発行も苦しくなり、岩井を含めて記者たち数人がリストラの波に飲まれた。
岩井たちが新聞の降版作業を終え、一階の玄関口に降り立ち、警備員に一礼して、厚いガラスドアを押すと、冷たい北風が容赦なく吹き込んできた。岩井たちは、手に持っていたコートを慌てて着込んだ。表に出て、首を竦めるようにして田町駅方向に歩いて行った。
「東京は大阪より寒いと聞いていたが、これほど寒いとは、わしも思わんかったなあ」
山内は、関西人らしい泣き言をこぼした。
「こんなのは序の口、そのうち雪が降ると、もっと寒くなるから、山さんも覚悟しておくことだね」
幼い頃から、筑波颪と太平洋からの冷たい潮風の中で育ってきた岩井は、優越感を覚え、図体ばかり大きい山内を横目で見た。
「えらいこっちゃ、えらいこっちゃ」山内は、ぶつぶつ呟いた。
間もなく、右手頭上に最近建てられたばかりの、ロケットを模倣したような日本電気の高層ビルが見えてくると、北風も建物に遮られて弱まった。岩井たちは都営三田線の出入り口から入って行った。
「浅草へは、JRで行った方が早いのと違いまっか」
山内が、不安そうに訊いてくる。
「都営線で大丈夫、人形町で都営浅草線に乗り換えればよいから。それに地下鉄の方が車内の暖房がよい」
山内がスポーツ紙の記事から見つけ出したフィリピン・パブは、浅草にあった。
「ああ、そうでっか。何しろ東京には不慣れなので、案内の方はよろしう頼みまっせ」
こいつは、本当に関東圏で、このままずっと関西弁を使いながら、業界紙の広告取りがやっていけるのだろうか、と岩井は推測して、傍らの男が頼りなくなった。
岩井が浅草に来るのは、五年ぶりだった。専ら同僚たちと飲みに行くのは、池袋や新宿界隈が多く、若い女が大勢いる雰囲気が好きで、酒そのものはあまり強くなかった。
浅草駅前に立つと、上空から北風が吹き下ろしてきた。
「ウへー、寒いィー」
山内は、力士のような丸い顔面をゆがめた。
岩井は腕時計を見た。午後八時過ぎだった。商店街のアーケードの下を歩いて行くと、十字路に差し掛かった。そこを左に曲がり、五分ほど真直ぐ行くと、目当てのパブがあった。外見は西洋風の城のような作りで、白い外壁に蔦をはわせている。パブに通い慣れている岩井ですら、入りにくそうな雰囲気がビル全体から漂っている。それは山内も感じたらしく、「どうする?」と、不安げな視線を岩井に投げて寄こした。
「怖じ気ついたのかい、山さん」岩井は苦笑いして訊いた。
「そういうわけでもないがね……」
岩井たちは、そのパブの前を素通りしようとした。
「チョット、ニイサン、コノミセヤスイヨ」
たどたどしい日本語の呼び込みだった。
岩井次郎は立ち止まって、顔を横に向けてみた。そこには、胸の大きく開いた赤い上着から、豊満そうな乳房の谷間を三分の一ほど露出して、見事に張り出した臀部、そして太腿の線が露わな赤く短いタイトスカートを穿いた二十歳前後の派手な女が、パブの入口前に設けられているアーケードの下で、寒そうにして立っていた。女の特徴は、セミ・ロングの黒髪、胸の突き出た肉感的な躰付き、細く締まったウエスト、長い間の混血によって造られたエキゾチックな顔立ちなどだった。間違いなくフィリピン人の風貌である、と岩井は、その女を一瞥して判断した。
「ニイサン、いまならサービス・タイム。一人、三千円で飲めるよ」
女はこちらが脈ありと見たのか、岩井たちの方に向いて右手を突き出し、指を三本立てている。
「三千円なら安いなあ」
関西人の山内は、具体的な金額ですぐに反応した。
「カラオケもあるね」
女は、岩井たちの所に小走りで寄って来た。
「マガンダン ガビ(こんばんは)、フィリピンのどこから来たのか」
岩井はタガログ語で訊いた。多少の会話ならこなせた。
女は目を大きく見開いて、岩井を見つめてくる。
「ニイサン、フィリピンの言葉が話せるの?」
「少しなら話せる」岩井は、なおもタガログ語で応えた。
女が岩井の腕を掴んできた。
「ワタシ、いま、困っている。お客さん、お店に連れて行かないと、中に入れない」
女は岩井を見つめ続けながら、山内にも聞こえるようにはっきりと日本語で言った。岩井には、女の台詞が店のマネージャーから教えられた常套句であることぐらい判っていた。
「サムイ、サムイ」
女は岩井の胸に蹲るように上半身を預けてくる。
女の大きな乳房が岩井の胸に接触し、彼女の胸の谷間から柑橘類系の香水の香りがたちこめ、彼の鼻腔を甘く刺激する。
「イヨッ、色男」山内が側で笑いながら囃し立ててくる。
「こうなったら、入るしかないでっしゃろ、岩井さん」
山内は、既に店の入口の方向に歩き始めている。
「山さん、金の方は大丈夫だろうね。三千円だけじゃ終わらないよ、きっと」
岩井は不安になって言った。
「大丈夫でっせ、大船に乗ったつもりで従いて来たらいいがね」
「支払いは、山さんだからね」岩井は念を押した。
「アア、ヨカッタ。これでお店に入れるわ」
女は嬉しそうに言って、岩井の腕を引っ張って歩き始めた。
パブ『ゴンドラ』の店内は、薄暗く、客とホステスで百人ほど入れるぐらい広かった。以前はキャバレーを営業していた所に多い造りだった。十人ほど座れそうなエリアごとに分かれており、派手な銀色のソファーがガラスのテーブルを丸く囲んでいた。中央の四カ所に、太いコンクリートの柱があり、奥にはカラオケセットとマイクスタンドが設置されている。その前にはダンス・フロアがあった。その夜の客の入りは、三分の一程度だった。
岩井たちが、フロントにコートと手荷物を預け終えると、女は岩井たちをステージの見える前の方の席に案内して、
「ここでいいでしょ、ショータイムになると、よく見えるから」
と言って彼らをソファーに座らせ、「ボーイサーン、ボーイサーン」と、立ったまま右腕を高々と挙げ、大きな声で呼んだ。腕を挙げた拍子に女の赤い服の襟元が上に少しずれて、胸の膨らみが胸元からせり上がるようになり、岩井の位置から、彼女の片方の乳房半分ほどと、くびれた細いウエスト、臍の窪みが露出した。さらに、女が男たちの間に座ろうとしたとき、ミニ・スカートの下の肉付きの良い太腿、白いパンティーが見えた。
ボーイが来ると、
「サービスタイムでは、ビールかウィスキーをチョイスする。あなたたちは、どうする?」
と、女が訊いてきた。
「ビール、ビール」山内が応えた。
「女の子のご指名は?」ボーイが訊いてくる。
女が、岩井の顔を素早く見た。
「今日が初めてだから、適当で良いです」
岩井は、関心がなさそうに応えた。
「それなら、アコ(わたし)、アテ(お姉さん)呼んで良いかしら?」
女が愛らしく首を傾けて、岩井に訊いてくる。
「任せるよ」と岩井は応えた。
女は、横に置いてあった白い小さなバッグから名刺入れを取り出し、
「マリーです。よろしくお願いします」
と名乗って、店名の入った女性用の小さな名刺を、岩井と山内に差し出した。岩井が女のフルネームを訊くと、女は答えた。マリーは源氏名でなく、本名だった。
「マリーちゃん、可愛いねえ」山内が目を細めて微笑んだ。
「イラン タオン カ ナ?(何歳なの?)」岩井は訊いた。
「二十一歳」マリーが応えた。
「イカウ(あなた)、マガンダ ババエ(きれいな女性)」
岩井は、マリーを見つめて言った。
「アノン サビ ニャ?(今、何て言ったの?)」
マリーは、口元を弛め、嬉しそうな顔で訊いてきた。
「イカウ マガンダ ババエ」
岩井は同じ台詞を繰り返した。
「アコ? ボラボラ(ごますり)ね」
マリーは声に出して笑った。
岩井は取材記者でありながら、人見知りする質だった。特に女に対しては、その傾向が強く現れる場合があった。田舎者と言われればそれまでだが、マリーに対しては、初対面でも目に見えない壁ができなかった。彼にとっては、好い兆しだった。
間もなく、ビールとサービスセットが運ばれてきた。すぐ新しい女が三人来て、「イラッシャイマセー」と声を揃えて挨拶した。皆、パンティーが見えそうなくらいのミニ・スカートを穿き、肌の色に差異が見られるものの、フィリピン人らしかった。彫りの深いスペイン系の顔立ちで、二十三歳ぐらいのキャンデーと名乗った女が、この店でのマリーの『アテ』だった。
マリーは、岩井次郎の躰に密着するように側に座り、ビールを注いでいる。山内和夫は、若い女二人に挟まれて、このパブへ来る切っ掛けになったスポーツ紙の記事を取り出し、関西弁丸出しで記事の内容を嬉しそうに喋っている。キャンデーはどちらにも加わらないで、小指よりも細い煙草を気取ったポーズで吸っている。女たちはそれぞれレディース・ドリンクを頼み、初顔の客を値踏みし始めた。
「オニイサン、お名前、教えて」
マリーが岩井に訊ねた。岩井はタガログ語で名乗った。さらにフィリピンのどこの村から出て来たのかを、マリーに再度訊いた。キャンデーが側で聞き耳を立てているのが判った。キャンデーが早口でマリーに話しかけた。キャンデーは、「余計なことは話すな」と言っていることが岩井にも聴き取れた。わたしは何も話していないわよ、とマリーが強い口調で応えている。キャンデーはこの店の古株らしく、客に甘い顔を見せてはいけない、サービス・セットは八時までで終わっている、早く次のオーダーを催促しろ、などと細かい店のシステムを説明して、マリーを叱責している。
「そんなことは、マネージャーに言ってよ。わたしはこのお客を連れて来なかったら、寒い外で震えながら立ちん棒だったわ!」
マリーは、母国語で強く言い返した。気性の激しさが現れている、と岩井は見て取った。
「生意気な女ね!」
キャンデーがフィリピンのスラングを吐き捨て、その場から立ち上がった。生憎、岩井には、その言葉がよく聴き取れなかった。ただ、日本語では「馬鹿!」を意味する「ガグッ!」は、聴き取れた。岩井の席の女たちだけでなく、周囲の女たちも一斉にこちらを見た。客たちは何事があったのかと不思議な顔で眺めている。キャンデーは、
「お前の面倒は見てやらないから!」
と言い残して、席を離れていった。
山内の隣に座っている女たちが「バーキット?(どうしたの?)」と言って、マリーを心配そうに眺めた。しばらく周囲がざわつき、やがて元通りの空気になった。
「悪かったね。僕が君にプライベートなことまで訊いたのがいけなかったんだね」
と、岩井は英語でマリーに詫びた。
マリーは俯き加減の姿勢になり、今にも泣きそうな声で英語を使って応えた。
「違うわ、あなたは何も悪くはないのよ……」
「岩井さん、何があったの?」
山内が身を乗り出し、訊いてきた。
「何でもないよ。さあ、山ちゃん、今夜は楽しく行こう」
岩井は空元気を出そうとした。内心、今すぐにこの場から立ち去りたい欲求もあった。その気持ちを辛うじて堪えた。
午後八時半を過ぎると、店内が次第に込み始め、やがて照明が暗くなり、ショー・タイムになった。ホステスの中から選ばれた踊り子たちが舞台衣装のレオタードに着替えて、ステージでラインダンスのような踊りを始めた。そのメンバーの中に、先程マリーと口論になったキャンデーが加わっていた。マリーは岩井の席に着いている。岩井は、これでマリーの日本における就労形態をほぼ理解した。
日本のパブなどで働く外国人ホステスは、凡そ三つの形態に分かれている。一つは歌手やダンサーとして就労が認められている興行ビザを所有している者で、六ヶ月の滞在が許されている。二つ目は九十日の滞在が許されている観光ビザ、あるいは専門学校などへの通学を目的とした修学ビザで入国してから、様々な理由で不法就労している者。三つ目は興行ビザで何度か来日し、フィリピンのプロモーターなどを通さずに直接店と契約している者、あるいは日本人と結婚してパーマネント(永住)ビザを所有している者。キャンデーは興行ビザ組で、マリーは観光ビザ組、と岩井は推測した。そう考えると、先程の口論が単なる口喧嘩でなく、職場における序列が、微妙に影響していたことが判ってきた。
常連客たちは、踊り子たちの中から顔見知りのホステスを見つけて名前を呼んで囃し立てている。テーブルに付いているホステスたちは、踊り子たちを羨望の眼差しで眺めている。それはどこの店でも見られる光景だった。マリーも先程の険しい表情から解放され、一人の少女になって、ステージを眺めている。
踊りが一通り終わると、キャンデーが衣装を派手な物に代えて、センターのマイクで日本語のポピュラー・ソングを唄い始めた。訓練された太い声の持ち主だった。
「キャンデーはプロのシンガーね」
マリーがぽつりと呟いた。
「うまいねえ」
思わず岩井は、本音を吐いてしまった。先程のフィリピン人同士の口論を思い出し、彼は慌ててマリーの顔を見た。平然としている。あまり根に持たない性格らしい、と判断した。同時に、先程の推測が間違いなく当たっていると確信した。
フィリピンで興行ビザを取得するためには、マニラなどのプロダクションで歌やダンスのレッスンを受けて、フィリピン海外雇用庁と、フィリピン音楽家協会が主催する資格審査のオーディションを受けなければならない。ここで歌やダンスの技量をチェックされ、百点満点で七十点以上を取ると、合格となる。合格者には、ブルーカードと呼ばれる本人の写真付きのIDカードが発行される。このカードは海外労働許可証で、一度取得すると五年間有効。さらに彼女たちを日本人のプロモーターなどが面接試験して、採用するか否かが決められる。この際の判断基準は、プロポーションや器量が優先される率が高い。
生憎、ブルーカードを取得できなかった者も、マニラのカラオケ・バーなどで働いているところを、日本人プロモーターから一本釣りをされたり、人並み以上のプロポーションや器量よしであれば、面接試験を通り、観光ビザや修学ビザでの来日の手続きが取られることになる。また、どうしても日本で働くために高い金を払って偽造パスポートなどを使用し、イリーガル(不法)に入国する者もいる。出稼ぎフィリピン人ホステスと言っても、様々な背景がある。岩井は、これまでフィリピン・パブで遊んできて、そのような情報を得ていた。
店のホステスたちのショー・タイムが終わると、客のカラオケ・タイムになった。常連客が前もってリクエストしていた曲が、次々にかかり、曲に合わせてダンス・フロアでホステスと踊り出す者も現れて、店内は次第に盛り上がっていった。
「岩井さん、サービス・セットは、八時半で終わりね。これからはフリー・タイム。どうしますか」
マリーが頃合いを見計らって訊いてくる。
「山ちゃん、サービス・タイムは、終わりだってよ。まだ、この店にいるのかい?」
岩井は山内に確認した。山内には、五分おきぐらいに入れ替わり立ち替わりホステスが交代でやって来て、上機嫌の様子だった。一人だけ最初に着いたどうみても十八歳ぐらいにしか見えない、小麦色の女が山内の隣に残っていた。その小麦色の肌の女が、山内の太腿を掌でさすりながら、透かさず言った。
「ヤマチャン、ウィスキー・ボトル、キープすると、いいね」
「高いんやろ?」山内が即座に訊いた。
「高くなーい、安いヨ」
小麦色が応えて、テーブルにあったメニューを見せた。
「関西人よりも商売が上手いなあ」山内は感心している。
岩井とマリーは、声に出して笑った。
「ええい、仕方ない、今夜は奮発して、ボトルを入れまっせ」
山内は、メニューの中から値段の安そうな国産のウィスキーをオーダーした。やがてボトルが運ばれてきて、改めて岩井と山内は水割りで乾杯した。
「ネエ、ヤマチャン、フルーツはいかがですか」
小麦色は、ハンバーガー店のアルバイト店員のようにマニュアル通りの勧め方をした。
マリーは、岩井の耳元に唇を近づけて、
「ここのフルーツは高い。スナックのほうが安い」と囁いた。
「山さん、スナックで良いってよ」
岩井は山内の方に向いて言った。
「それならスナックにしまっせ」山内は即決した。
小麦色が、岩井の方を冷たい目で眺めてきた。
岩井はその視線から目を逸らし、マリーの横顔を改めて見た。瞳が大きく、下唇がやや厚めで、まるで洋画に出てくるような彫りの深い派手目の顔。躰は肉感的で、思わず頬ずりしたくなるような豊満そうな乳房、腰のくびれ、むっちりした太腿、臀部の肉付きも申し分なく、西洋人のように手脚が長くしなやかで、全身のスタイルも悪くなかった。
岩井は、これまで数人のフィリピンの女と肉体関係を持った経験がある。船員・船舶業界紙発行会社に勤めていた頃、同僚たちと安いツアーに参加して、フィリピンに行き、現地の女を買った。中には目だけがぎらぎらして、貧弱な躰をベッドに横たえた女もいた。金持ちの中でも、一番女好きが多いと思われている日本人が泊まっていそうな高級ホテルの周囲には、明らかに未成年と思われる少女たちがストリート・ガールとして、客引きを行っていた。そういう光景を目の当たりにして、岩井はフィリピンという国から貧しさだけの印象しか受けなかった。それでも岩井は、フィリピン人を嫌いになれなかった。それどころか、どうせ飲みに行くのなら、今夜のようにフィリピンの若い女たちがいる店の方が良かった。時々、取材先のスポンサーなどから、銀座の高級クラブで接待をされる場合もあったが、気取った感じの日本人ホステスには、妙な違和感を覚えるのだった。
「マリーは、日本に来るのは何度目なの?」
岩井はタガログ語で訊いた。
「二度目ね」
マリーは日本語で応えた。店によっては、店内で客に対してタガログ語を話すと、罰金を取られるという噂を岩井も聞いていた。
「前もここの店だったのかい?」岩井も日本語に切り替えた。
「いいえ、違うわ。福岡の店、初めてね」と、マリーは応えた。
「福岡? 随分遠い所だったねえ。それじゃ、東京で働くのは初めてだね」
岩井は、気軽に訊いた。
「イエス。東京に来て、まだワンウィーク、ね。アコ、どこのお店行くか、わからない。行ってから、わかる」
この点は岩井が誰に訊ねても、フィリピン人に限らず外国人ホステスから同様の答えが返ってきた。日本人プロモーターの買い手市場の中で、外国人出稼ぎホステスたちの多くは、日本のどこで働くか勤務地を選択する権利はほとんどないに等しい。たまたま、契約したプロダクションの都合で、日本全国どこへ行かされても、文句は言えないシステムになっていた。
「ワーキング・ビザで来ているのかい?」岩井は訊いた。
「……」
マリーは無言のまま、強い眼差しで岩井を見た。
ほとんどの出稼ぎフィリピン人が、短期間の観光ビザかダンサーや歌手の興行ビザで来日し、ぎりぎりまで働いて、一旦香港などに渡り、日本へ再入国していることを、岩井は見聞きしていた。フィリピンではビザ支給待ちの者が多く、二度目以降は様々な方法で選別が始まり、役人に賄賂を渡して支給を早くして貰う者もいるらしかった。そのような状況であるために、まだ観光ビザでも持っている者はよい方で、いつの間にかビザ切れになり、そのまま日本に居着いて働き続け、不法滞在者になり、入国管理官に摘発されるのを恐れながら、異国にひっそりと暮らしている者たちもいた。フィリピン人に限らず出稼ぎ外国人たちは、日本人からビザについて質問をされるのを極度に厭がっていた。マリーも例外ではなかった。
「ごめんね、悪いことを訊いてしまって」
岩井は素直に頭を下げた。
「ワラン・プロブレーマ(問題ない)、アコ、ビザ、あるね」
マリーは、はっきりした声で自信ありげに応えてくる。
「岩井さんは、ビジネスマン?」マリーが訊いてきた。
「ああ、そうだよ」岩井は、頷いた。
「岩井さんの年齢は?」マリーが訊く。
「幾つに見える?」岩井は、逆に訊き返した。
「二十八歳ぐらい?」
マリーがそう言って、微笑んできた。
「だいたい、その辺りだ」
と、応えた岩井の実際の年齢は、三十三歳だった。
「奥さん、いるんですか」と、マリーが訊いてくる。
「僕はシングルだよ」
岩井が答えると、マリーは驚きの表情を浮かべた。
「ナゼ、マリッジ(結婚)しない?」
マリーは、不思議そうに訊ねてきた
「おい、おい。今度は僕のプライベートなことを訊くのかい?」
岩井は、苦笑いした。
「マリッジしていても、おかしくない年齢でしょ」
マリーは、当たり前のように主張する。
「僕は、結婚制度なんかに縛られたくないんだよ」
岩井は、自己流の生き方を端的に話した。
「シバラレル?」
マリーは、言葉の意味が解らないという表情になった。
「縛られるが解らないかなあ。つまり、拘束される。あっ、それの方が難しいか」
岩井は、頭の中で言葉を並べ替えた。
「結婚すると自由がなくなる。具体的には、結婚すると、こんな所で、今夜のように酒が自由に飲めなくなる」
それで解ってくれたかな、と思って、岩井はマリーを見た。
「岩井さんは、お酒が好きなのですか」と、マリーは訊いてくる。
「酒はあまり好きではない」
と岩井は応えた。それは、本当だった。
「それなら、なぜ飲むの?」と、マリーが訊く。
「こういう店に入って、酒をなぜ飲むのかと訊かれてもねえ……」
岩井は、隣に座っているあっけらかんとしたマリーを見て、困ってしまった。
「君たちは、僕のような客がいないと、商売が成り立たないだろう。僕たちは、君たちに奉仕しているんだ。つまり、ボランティア活動と同じなのさ」
岩井は、冗談半分のつもりで言っていた。
「お客さんにサービスしているのは、アコたちよ」
マリーは、微笑みながら精一杯、主張する。
「岩井さん、カラオケ、カラオケ」
山内がホステスから渡された歌詞本を手にして、話しかけてきた。
「今のうちにリクエストをして置かないと、唄えないそうでっせ」
そう言って山内は、ホステスに希望する曲の番号を教え、それを小麦色の女がリクエスト用紙に書き込んでいった。
「岩井さんはどの曲にする?」山内が訊いてくる。
「僕は山さんの後で良いよ」岩井は、応えた。
「リクエストだけでも、して置いたらいいがね」
山内がなおも勧める。
「岩井さん、唄って」マリーが要求した。
岩井がいつもカラオケで唄う曲は決まっていた。玄人好みのする男性シンガーの曲名を言った。歌詞本を持っている女からマリーが貰い受けて、曲のタイトルと番号を探し始めた。それが見つかると、用紙に記入し、小麦色の女に手渡した。女はカラオケ機材が設置されている所まで行き、司会役のボーイに二言、三言何か言って、手渡した。
山内のリクエスト曲は、それから三曲目にかかった。関西人らしく浪花をテーマにした演歌だった。それまでの曲がポュラーソングだっただけに、演歌の唸りは店内に異質な空気を運んできた。山内はそういうことに無頓着で、自己陶酔して最後まで唄いきった。曲が終わると、小麦色が拍手した。マリーも軽く手を叩いている。山内がテーブルに戻って来ると、山ちゃん、上手かったわ、と小麦色が愛想を言った。
「久しぶりに唄ったから、あまり上手くいかへんなあ」
山内は、満足そうな照れ笑いを見せた。その後、山内は小麦色とダンス・フロアに行き、曲に合わせて腰を振りながら踊り始めた。
岩井の曲は、なかなかかからなかった。一つのテーブルに、歌う機会が集中しないようにしているから、とマリーが説明して、岩井に気配りを見せた。結局、岩井の曲がかかったのは、一回目のカラオケ・タイムが終わりになる九時半近くなってからだった。その間、マリーはヘルプで三度、岩井のテーブルから離れた。マリーの代わりに新しい女が来たものの、マリー以上に魅力的な女はいなかった。やっと岩井のリクエスト曲がかかった時も、マリーは他のテーブルに行っていた。岩井は、いつもより酔っていた。ロック調の曲に合わせて、日本語の歌詞を英語風にシャウトして唄うのが、岩井次郎の特徴だった。岩井の歌に合わせて、山内と小麦色の女が楽しそうに踊っている。
岩井は唄い終わると、尿意を催したので、そのままトイレに行った。手を洗って出て来ると、トイレの出入り口の所でマリーがお絞りを用意して待っていた。
「岩井さん、歌、良かったわ」
マリーは、そう言ってお絞りを差し出した。
「マリーに聴かせようと思ったのに、聴いていなかっただろう」
岩井は、横を向いたまま言った。
「違う、聴いていたわ」彼女は強く主張した。
「マリーがいないのなら、僕は帰るからな」
岩井はお絞りで手を拭いてから、怒りを発散するかのように、専用ボックスに勢いよく投げ込んだ。マリーは驚き、短い声を上げた。
岩井がテーブルに戻ると、山内は額に汗の粒を噴き出しながらホステスたちとはしゃいでいた。
「山さん、そろそろ帰ろうか」
岩井はその場に立ったまま促した。
「えっ、もうそんな時間なの?」
山内は驚いて、岩井を見上げた。
「帰りの電車がなくなってしまうよ」
岩井は、低い声で脅かした。
「まだ、唄いたいんやけどなあ」
山内は、大きな尻をソファーから上げようとしない。
「山さんがまだここにいるのなら、僕は先に帰るから」
岩井は、突き放すように言った。
「そんな冷たいこと、言わんといてえなあ。わしは東京に不慣れやさかい、同じ方向なんやから一緒に帰ったらいいがね」
山内はやっと腰を上げ始めた。
「伝票どこやろな」山内は辺りを見回している。
小麦色の女が、透かさずソファーの脇からプラスチックのボードに挟まった伝票を引っぱり出して、山内に差し出した。
山内は、ウィスキーボトルを目の高さに持ち上げて、
「よう飲んだなあ。三分の一ぐらいしか残ってへんよ」と感心し、
「これ、間違いなくキープして置いといてえや。また、来るさかいな」
と小麦色に念を押している。
岩井は出口の方向に歩き始めた。山内が小麦色に先導されるようにして従いて来た。山内がフロントの中にいる日本人の中年女に伝票を差し出した。その女はすぐにレジスターを叩いて計算を始めた。
「有り難うございます。三万六千円です」
と中年女は告げた。
「えっ、そんなに高いんでっか」山内は驚きの声を上げた。
「高うおますなあ」
山内は、もう一度伝票を確認しようとして、中年女の手許を覗き込んだ。
「新しいボトルをお入れになっていますからね」
中年女は、他の客にももう何度も使ったであろう台詞を吐いた。
「えらい、高うおますなあ」
山内はまだ信じられない口振りで、渋々、上着の内ポケットから革製の財布を取り出した。岩井は、フィリピン・パブの料金としては妥当な額だと思った。マリーと小麦色の女は男たちの背後に立って、事の成り行きを不安そうに見守っている。財布の中身をのろのろと出そうとしている山内の態度に、岩井は苛立ちを覚えた。
「山さん、僕も払おうか」
堪りかねて、岩井は言った。
「大丈夫でっせ、ちゃんと有りまんがな」
山内はやっと財布から一万円札を抜き出し、カウンターの上に一枚ずつ数えながら並べ始めた。さらに千円札も同様にして並べた。
「さあ、これでお願いしますゥ」
山内は、笑いながら会計係の女を見た。中年女は蔑みの目を一瞬山内に向けて、数枚の札を拾い集めた。さらに、札の透かしを確認するような動作をして、「はい、確かに――」と、聞こえるように言ってから、奥のクロークに声をかけて、岩井たちの荷物をボーイに持って来させた。
岩井たちが店の外に出ると、細かい粉雪が舞い始めていた。
その晩岩井は、山内の住む会社が借りている大宮市内のアパートに立ち寄り、ウィスキーの水割りを飲み過ぎて、結局、泊まってしまった。
翌朝、岩井は電気炬燵の中で寒さを感じて目覚め、表に出てみると、昨夜の雪が地表に五センチほど積もっていた。昨晩、『ゴンドラ』の入口で『サムイ、サムイ』と言いながら、こちらの腕の中に身を縮めてきたフィリピン生まれのマリーという女は、この日本の寒さに耐えていけるだろうか、と彼は少し感傷的な気分になった。
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