久地の分量樋は、木製の樋(とい)によって水を配分するという装置である。
耕作面積に応じて4つの用水堀に分流され、水田稲作に利用されてきた。しかし
水利技術を駆使した水配分も、新田開発が盛んに行われるようになり、用水の利
用が高まると大小の紛争が各地で起こり始める。
二ヶ領用水史上で最大の事件となった「溝口水騒動」は、この久地分量樋で発
生した。文政4(1821)年7月6日早朝のことである。
川崎領の農民たちは、春からの日照りつづきで水不足に悩み、毎日の飲料水に
もこと欠く状態であり、公平な水配分を訴えて交渉が重ねられていた。ところが
川崎領へ流れる堰を不法に止め、水番人を追い払うという妨害事件が、溝口村の
名主と久地村の農民によって引き起こされた。
激高した川崎領の農民たちは、竹槍やとび口を持ち、村名の入ったノボリ旗を
押し立てて久地分量樋に殺到した。続いて溝口村の名主・七右衛門宅を急襲し、
居室と土蔵を打ち壊した。さらに隣家2軒も破壊して、江戸へ出張中の名主を追
いかけるという大事件となった。その後、江戸幕府によって厳しい処分が出され
水騒動は落着をみたが、分水をめぐる紛争は絶えなかった。
分量樋は、明治時代に入って花崗岩製に改修されたあと、昭和16(1941
)にコンクリート製の円筒分水装置に改築され、今日に至っている。
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