高津の地名探訪


「久末(ひさすえ)」



祇王山龍頭院妙法寺
「久末義民地蔵尊」の
             安置堂
農民たちに
語り継がれてきた
悲しむべき由来が
あった。
市バス 妙法寺下

丘陵台地を刻むように谷戸が広がる「久末」
  丘陵台地を刻むように谷戸が広がる「久末」は、南の境を横浜市港北区高田町
と接しており、北の境には中原街道に沿って矢上川が流れている。台地を刻む谷
戸の地形からは「城法谷」「小貝谷」「御堂谷」「芋の谷」「後ろ谷」「大谷」
「籠場谷」など7つの小名がみられる。『新編武蔵風土記稿』によれば、「村の
土地高低ありて小山多く、近隣の村よりもことに高き所にあり、西南より中央ま
ではすべて山なり」とあるように、「久末」の地名は山の頂きを意味する地形語
の「末」から名づけられたものである。「久」は縁起のよい佳字や好字として、
字名などを二字化したときに用いられている。
中原街道沿いにある「祇王山龍頭院妙法寺」
  中原街道沿いにある祇王山龍頭院妙法寺は、鎌倉時代の末期に建立されたとい
天台宗の寺院である。その妙法寺の境内に「久末義民地蔵尊」の安置堂がある。
等身大の地蔵尊は、いまから250年前の延享3(1746)年に、中原街道沿
いの「後ろ谷」に建立されている。徳川吉宗が長男の家重に征夷大将軍の職を譲
った翌年のことである。それから43年後の寛政元年には、供養塔として天華地
蔵尊が建立されている。この二体の地蔵尊が妙法寺の境内に遷座したのは、昭和
56(1981)年のことである。
久末地蔵尊の農民たちに語り継がれてきた悲しむべき由来
  この久末地蔵尊には、農民たちに語り継がれてきた悲しむべき由来があった。
徳川幕府の全盛期にあたる元禄6(1692)年のことである。将軍綱吉は、一
万石以下の諸大名と旗本・御家人らに住居の造営、華美の禁止、遊郭で遊ぶこと
を自粛するよう通達を出した。ところが稲毛領の久末村を治めていた佐橋内蔵之
助佳純は、華美遊興にふけり、家臣にそそのかされて悪政をしき、農具や什器に
いたるまで賦課を加えた。このため他村へ逃亡する者も出る始末であった。そこ
へ白髪の老僧が托鉢に訪れ、観音堂に一夜の宿を求めた。村人は老僧に餓死寸前
の窮状を訴え、苦境を抜け出す道を尋ねた。それに対して老僧は、妙案はないが
最後の手段として門訴の決行をほのめかしたのである。
村人は、速やかに門訴の決行を協議し、まず一番手として三人の代表が江戸の 四谷大番町にある佐橋佳純の上屋敷を訪ね、炎暑の中を門前にひれ伏して訴願し たのである。しかし、三人はそれっきり消息が絶え、二番手に六人を送り込んだ が、再び生死不明となった。それでも最後の望みを託し、老若男女を合わせて二 十人を送り出したのである。しかし、門訴は聞き入れられず、逆に門内に村人を 引き入れて牢舎に投じ、毒殺した。そのうち一人が生還し十九人の死亡が確認さ れた。この尊い犠牲も報われないのかと悲嘆にくれていた村人に、さすがの佐橋 佳純も自らの非を悔いて年貢の減免を村人に伝えてきた。その後、佐橋佳純は悶 死した村人十九人の魂に悩まされ、苦しみながら死んだという。
街道に立つ「義民地蔵」
  時代は下って久末村の名主が発起人となり、村人十九人の霊を慰めるとともに
義挙を永遠に顕彰しようと石地蔵尊を建立したのである。この街道に立つ石地蔵
尊を、誰いうともなく「義民地蔵」と呼ぶようになったのである。


ノンフィクション作家  前川清治氏の「地名探訪」より

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