「富士見台(ふじみだい)」 |
子母口富士見台古墳
古事記の記述と
橘樹神社の社伝から
日本武尊の后
弟橘媛の御陵と
されてきた。
たちばなの散歩道
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日本武尊の后・弟橘媛の御陵とされてきた「子母口富士見台古墳」 |
子母口と千年に挟まれた細長い台地上にある「子母口富士見台」は、昭和30
(1955)年の宅地造成後に生まれた町名であり、富士山がよく見える地形か
ら名づけられている。その宅地造成された中央部の一番高い位置にある公園内に
『古事記』に登場する日本武尊の后・弟橘媛の御陵とされてきた「子母口富士見
台古墳」がある。古墳の直径は一七・五メートル、高さ三・七メートルの円墳で
あるが、道路に面したところは削り取られている。
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| 郷土誌『橘』には「このあたりのむらのかしらの墓」として紹介 |
この古墳は、六世紀ごろ(一六〇〇年前)のものといわれ、郷土誌『橘』には
「このあたりのむらのかしらの墓」として紹介されている。
<このころ、かしらは、力の強さをしらせるために、多くの人たちを集めて土
や大きな石を運ばせ、それをもり上げて大きな墓をつくらせました。かしらの墓
が丸い丘の一番上につくられたのは、死んだかしらを天にもっとも近いところに
おき、いつでもよみがえってくるという考えからきています。また、むらにだい
じなことがおこり、むらの人びとが相談しなければならない時は、この丘に集ま
って相談し、かしらのきめたことに従ったといわれています。ときには古墳から
はにわや刀、まが玉などがでてくるときもありますが、富士見台古墳は、昔から
あらされていて、残念ながら、今ではなにも残っていないようです。>
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| 『ふるさとかわさきめぐり』では |
川崎市教育委員会が編集した『ふるさとかわさきめぐり』では、「真偽のほど
はともかく」として次のように書かれている。
<橘樹神社の社伝と、古事記の「かれ七日ありて後に、其の后(弟橘媛)の御
櫛海辺によりたりき。すなわち、其の櫛を取りて御陵を作りて治め置きき」と結
びつき、その陵とされてきたのが、富士見台の高台に築かれた子母口富士見台古
墳です。>
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| 『武蔵の極・影向寺史』では |
これを裏づけるように、影向寺を中心とする郷土史の研究をまとめた『武蔵の
極・影向寺史』(亀ケ谷利男著)では、こう書きこまれている。
『古事記』によれば、日本武尊は「古代日本統一のために、西は九州から北は
東北まで、若年の身を女装に包み東奔西走した。東征の海難では、最愛の弟橘媛
を身代わりに失った。……古代の物語は、お伽噺か小説めいているため、架空と
考えられがちである。……いずれにせよ媛の遺骸を生家の地に埋葬して塚をつく
られた。それが現存の高津区子母口に位置する富士見台古墳と考えられる。また
この時代は、高貴の人の陵地は庶人不入の地として隔絶する習慣があり、墳墓地
の付近に拝殿を設け崇敬の場とした。それが橘樹神社と推定される」という。
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この三つの刊行物に書
かれている「富士見台古
墳」のルーツは、さらに
史実を深く掘り下げてい
く大きな手掛かりになる
ことは間違いない。
古代のロマンを伝える
橘樹(たちばな)神社
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