2012
5月27日(日)
twitter連詩「北へ行く」を宮尾さんがまとめてくださいました。ぜひお立ち寄りください。
1周目は「風の丘」です。
5月24日(木)
夏目漱石『彼岸過迄』読み終わる。短編を数本集めて長編になった作品。
自意識の強い須永も高等遊民の叔父松本も漱石の分身と考えてよいのだろう。
天真爛漫ないとこの千代子、好奇心にあふれた友人敬太郎。個性的な人物を
登場させ、読者を飽きさせない。
『草枕』の美那もそうだが、千代子もはっきりものを言う活発な女性である。漱石の
妻もそのようなひとであったらしい。打てば響くような異性が好みだったのだろうか。
5月22日(火)
アキ・カウリスマキ監督の『記憶のない男』を観る。フィンランドの失業率が
高かった時代を背景にした映画。2002年。
暴漢に殴られて重傷を負った中年男が主人公。病院に搬送されるが、
医師が見放した後に、突然起きあがり、装置を引きちぎる。
このシーンで、リアリズムの映画ではないことがわかる。記憶をなくした
男はさまざまな困難に遭遇するが、どこでも救いの手がさしのべられる。
どこかお伽話みたいで、ジョークのようなシーンもある。列車内で男が
食べるのは何と寿司。日本酒も供され、日本の演歌が流れている。
ストーリーとはまったく関係がない。何でしょうね。
コンテナに暮らす人々、救世軍で働く人たち、闇で金儲けをする男。
市井に生きるひとたちを元気づけるように、そのつながりがささやかな幸福を
生み出すことを信じて、カウリスマキはこの映画を作ったのだと思った。
5月18日(金)
財部鳥子さんより中国の詩誌『詩探索』2012年度版をいただく。
「日本の新しい詩人」ということで財部さんが選んだ3人の詩を
中国の方が翻訳したものが載っている。
渡辺めぐみさん、高木敏次さんとわたしのそれぞれ5首(篇)。
突然のことで驚いた。ポップな装幀で、なかなかおしゃれな冊子です。
5月14日(月)
ヘルマン・ヘッセの『知と愛』(高橋健二訳・新潮文庫)を買う。
原題は『ナルチスとゴルトムント』。
中学の時に、中央公論社の世界の文学(だったか?)に入っていたこの一冊を、
悪いことをしているような後ろめたさを感じながら読んだのである。
どういう物語だったか、再読してみようと思う。
5月11日(金
知人のお通夜。無宗教の葬儀で、お経も音楽もなかった。
喪主の方の話がよく聞こえなくて残念だった。そのひとの最期について
何もわからないまま、お焼香をして帰って来た。
5月9日(水)
宮尾節子さんに誘っていただき、twitter上で連詩を始めました。金子彰子さんと3人、
30日間、順番に書きます。
twitterなので140字。最初の10日間は「風の丘」がタイトル。前のひとの詩を受けて、
翌日にはアップしなくてはならず、まだ一回書いただけですが、とてもスリリングです。
この機会に毎日書くということをしていきたいと思っています。
SNS上で書くことにためらいもありましたが、直の反応も期待できるし、トレーニングにも
なるだろうと参加することにしました。一か月、詩三昧の生活をしようと思います。
5月8日(火)
M企画印刷の前澤奈津子さんの訃報がとどいた。『雨期』創刊号からお世話になった。
詩集も4冊作ってもらった。転居してからは神保町に行くこともなくなり、ときどき賀状をいただく
だけになった。
いつも笑顔の、温かくて優しいひとでした。心よりご冥福をお祈りいたします。
5月2日(水)
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』読了。村上春樹さんは小説家の身体、
敬愛するレイモンド・カーヴァーについて、短編小説の書き方など、実にたくさんのことを
語っている。あとがきも長い。
小説家と詩人とはちがうし、たくさん書けばいいというものでもないと思うけれど、とにかく
書いて発信するということをやり続けなくてはだめなのだろうと思う。
それが全然できていないことを恥ずかしく思います。
5月1日(火)
『路上のソリスト』(2009年、監督ジョー・ライト)を観る。コラムニストが書いた実話を映画化したもの。
ロサンゼルスの路上で弦が2本しかないヴァイオリンを弾くホームレスと、その音色に惹かれ経歴を
知ったコラムニストとの交流を描く。
ホームレスの男をジェイミ-・フォックス、コラムニストをロバート・ダウニー・Jrが演じている。
フォックスの名演で、ロスのホームレス事情と支援センターのシーンが現実のようにみえてくる。
優れたチェロの才能がありながら統合失調症のために路上生活者にならざるをえなかったナサニエル。
彼に慕われて、精神の異常を知りつつ、強引にサクセス・ストーリーを仕立てようとするコラムニスト。
演奏シーンが少なかったのが残念。監督はイギリス人。ていねいに作られていて悪くないのだけれど、
今ひとつナサニエルの音楽への愛に説得力がなかったような気がする。
4月28日(土)
秩父へ。初めて秩父鉄道に乗る。堅い紙の切符である。終点は「三峰口」。SLの「転車台」があり、
たくさんの人が「機回し」を見ていた。
帰りはSL「パレオエクスプレス」に乗ることができた。昭和40年代まで東北を走っていた車輌だという。
客車は品のよいマホガニー色。ボックスシートで、窓側に小さなテーブルが付いている。
小さな頃、千葉で汽車に乗ったことがあるが、細かいことは何も記憶していない。
丘の上を汽笛を鳴らして走る車輌。天空を行くような気分でした。
4月25日(水)
買ったままになっていた村上春樹インタビュー集『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』
(文藝春秋社)を読んでいる。
1997年から2009年まで日本と海外メディアからの質問に答えたもの。
村上さんの勤勉な執筆生活に刺激をもらいたいなあと思いながら、535ページの半分まで来ました。
4月19日(木)
上井草のちひろ美術館で香月泰男さんの絵を観た。「母のまなざし、父のまなざし」という展示。
観たいと思っていた「青の太陽」はなく、点数は少なかったが、抑留地から家族に送った絵手紙や
ココア色の地に描かれた母と子の絵には胸が締めつけられるような思いがした。
作品には香月さんの文章も添えられている。気持ちのこもった名文である。
『シベリア画文集』を購入。2004年に中国新聞社から発行されたもの。復員後、黒を基調にした
様式を獲得するまでに、十年ほどかかったという。山口美術館の学芸員さんによる解説文は
香月さんの芸術のよき理解者であることがわかり、本格的な評にもなっていると思った。
苦悶の末にたどりついた抽象画。フォートリエの絵に通じるものを感じた。
夜、河津聖恵さんの詩集『青の太陽』を再読しました。
4月17日(火)
1月に録画した『イタリアへ・須賀敦子 静かなる魂の旅・第二話アッシジのほとりに』を観た。
アッシジの聖人といわれる聖フランチェスコの話が中心だった。小鳥に説教をしたことで有名な、
映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』の主人公である。
教会の壁にあたる夕日が消えるまで尼僧が祈る場面など、全体にゆっくりとした展開。
須賀さんのエッセイを原田知世さんが読んでいるが、ちょっと早口。もう少し年配の
女優さんのほうがよかったかもしれない。
ていねいに作られているけれど、今ひとつ須賀敦子さんの仕事が伝わってこなくて残念だった。
4月13日(金)
喜田進次さんの句集『進次』、詩集『死の床より』(金雀枝舎)を読む。
喜田さんは1952年に生まれ、2008年、55歳で亡くなられた俳人。
句集には散文が挿まれていて、日記の一部を読み、喜田進次という人間に
触れることで、たくさんの破調の句を自然に受けとめることができた。
日没や家のどこかに李がある
いま言はねば山椒魚になつてしまふ
夏至の日のその全身を僕といふ
秋の靴地球の果てに出てしまふ
先生が最後に触つたのは朱の柱
奥様の秦鈴絵さんの後記がすばらしい。文章のすべてが丈高く、愛情にあふれている。
全文を紹介したいところだが、一部だけ。
「今、句集はやわらかな現実として私の手にあります。これを日本という風音高い空間に
祈りと共に置かせていただきます」
4月8日(日)
『続・井坂洋子詩集』(思潮社)を読み返している。
この半年間に二度お会いする機会があり、井坂さんのことばに励まされた。
詩集『地に墜ちれば済む』から現れてくる凄み。死の世界に半身が入っているような
奥の深さ感じる。
第一詩集『朝礼』からずっと読んできて、こんな詩を書いてみたいと思ったこともあるけれど、
まったくできなかった。なぜなのだろう。
新井豊美さんの論考「反物語から詩物語へ」を読んで納得した。
「文脈の執拗な切断」と「主体の入れ替わり」ということ。それゆえ持続的な文体が
完結せず、読者は「反物語としての物語」を読むことになると書かれている。
そして詩集『箱入豹』を「地に墜ちたさまざまな人間の苦悩する姿で織りなされた
バロック世界」であるという。
ひじょうに優れた作品論であると思います。
4月3日(火)
草野信子さんからいただいた柴田三吉さんの『小説Ⅰ』(ジャンクション・ハーベスト)を
読んだ。中編が3つ。501ページの分厚い文庫である。
詩人である柴田さんは小説においても濃密な世界を作りあげている。
古書店を経営する順平が日本と韓国での生活を交互に語る「東山旅館」、
翻訳家である息子が老母を介護する「風の道/海の道」、日本人の中年
男がラオスの街で若いフランス人女性に振り回される「凡庸な時間」。
シチュエイションも作風も違うように思われるのがおもしろい。すごい才能だと思います。
3月29日(木)
いろいろなところで、高校の時、歌人で現代国語の先生だった中島直子さんが鈴木志郎康さんの
現代詩文庫を薦めてくれたことを書いているが、先生の歌を読んだことがないことに気づいた。
恩師と呼びながら、何とひどい生徒でしょう。
検索したら、道浦母都子さんが中島直子さんの歌に触れた文章が掲載された雑誌について
書かれているブログを見つけた。感激である。早速2006年9月号の『短歌』(角川書店)を注文する。
お二人は全共闘世代を代表する歌人といわれているが、道浦さんは「中島直子さんが短歌を
続けていたら・・・」と書いていて、少なからずショックを受けた。やめてしまったのだろうか。
そんなはずはないと思う。まだ書いていると信じたい。
3月27日(火)
柏崎驍二さんの『百たびの雪』(柊書房)を読む。昨年、第26回詩歌文学館賞を受賞した歌集。
岩手県出身の歌人である。しっかりと地に根を張った重みのある作風。
短歌のことはよくわからないのだけれど、心惹かれた歌を引きたい。
谷に射す朝のひかりは猿梨の青くをさなきかたちを照らす
千人針・赤紙・五徳・七輪が死語となりゆくまでの歳月
をりをりに憶えひてあはれ作品はつひにその人を出ずといふこと
3月22日(木)
島尾敏雄さんの短編集『夢屑』(講談社文芸文庫)を読む。「マホを辿って」がよかった。
孫のマホさんの成長の過程を描いたもの。マホさんはことばを発しない叔母マヤさんに
なつく。マホさんの覚えることばも記され、記録魔の島尾敏雄さんらしい短編になっている。
家族が買った川上弘美さんの『パレード』を開いてみた。
『センセイの鞄』のセンセイとツキコさんが出てくる。夏の午さがり、そうめんを食べた後、
センセイが「昔の話をしてください」と言い、ツキコさんは子どものころの話をする。
ずっと気が晴れなかったのだけれど、少し元気になった。物語のちからである。
「悪かったですよ」というツキコさんの台詞がすてき。今度使ってみよう。
3月21日(水)
3月16日に吉本隆明さん、17日に有田忠郎さんの訃報を知った。
有田さんには思い立って2週間ほど前にお手紙をさしあげたのだが、
読んでくださっただろうか。
有田忠郎さんは『光は灰のように』(書肆山田)で2010年に詩歌文学館賞を
受賞されている。ご冥福をお祈りいたします。
3月16日(金)
高見順賞の贈賞式へ。第41回は金時鐘さんの『失くした季節』(藤原書店)、
第42回は辺見庸さんの『眼の海』(毎日新聞社)。
お二人のスピーチと鵜飼哲さん、高橋睦郎さんのお祝いのことばがとても
よかった。熱く厳しく、耳に痛くもあった。受賞者のお二人は自分の場所で、
詩人の群れの外で詩を書いてきた方。
評価されるべき詩人に栄誉が与えられたと思う。
3月15日(木)
辺見庸さんの『眼の海』読了。散文詩「赤い入江」に惹かれる。
「ナンチ」と呼ばれる場所での少年時代のできごとを書いたもの。
「ジョロヤ」があり、ひとが死に、家族に暴力をふるう父がいて、
流れ者がやってくる。
ちょっと中上健次の世界を思わせる混沌とした昭和の村。そこに暮らす
少年の目に映る人間の圧倒的な生のちからと哀しみ。
すごい詩だと思います。
3月12日(月)
遅ればせながら、金時鐘さんの『失くした季節』(藤原書店)と
辺見庸さんの『眼の海』(毎日新聞社)を購入する。
第41回、42回の高見順賞受賞詩集です。
少しずつ、重いものを受け取るように読んでいます。
3月8日(木)
「短編通信」、2009年8月に出した『雨期』58号掲載分をアップしました。
ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』、ヴァージニア・ウルフ『燈台へ』、
村上春樹『1Q84』、ラスキン・ボイド『ヒマラヤの風にのって』、
多和田葉子『ゴッドハルト鉄道』、テス・ギャラガー『ふくろう女の美容室』
3月5日(月)
先月行けなかった矢野静明さんの展覧会。写真を送ってくださったので、
毎日のように見ている。
深い色合いの抽象画。絵のことはよくわからないけれど、矢野さんの作品には
惹かれるものがあります。
公園で拾った小枝で作ったというベッドと椅子のオブジェも。
かわいらしくて温かみがあり、部屋に置きたくなります。
3月1日(木)
首都大学東京・現代詩センター発行の『詩論へ』4号を拝受。
執筆者は北川透さん、藤井貞和さん、福間健二さん、瀬尾育生さん。
ずっと小説ばかりだったので、今月は詩の評論を読もうと思う。
北川さんの論考「詩的断層十二、プラス一」、サブタイトルは
「〈60年代詩〉経験の解体・私論」。興味深く読んでいるところです。
2月27日(月)
古内美也子さんから西武美術館でアンゼルム・キーファー展を観たことがある
というお便り。
西武美術館がなくなったのはいつのことだったか。
そこでニコ・ピロスマニとルチオ・フォンタナを観た。ずいぶん昔のことだけれど。
2月23日(木)
今号の表紙は創刊号に似ている。
実は気に入っている「ぐい呑み」の色合いと同じにしたのです。
季刊詩誌『タルタ』20号(タルタの会発行)で、千木貢さんが
「夏の旅」をとりあげてくださった。
北島理恵子さんの「三崎口行き」(『三崎口行き』所収・2010年刊、
ジャンクション・ハーベスト)とともに「ヌーベルバーグの映画のよう」
であると書かれている。
物語につながる〈説明〉を避けるという手法がゴダールや
アントニオーニの映画のシーンのような感じを受けるという。
ヌーベルバーグの映画はすべてではないけれど、何本か観た
ことがあり、うれしく思った。
8歳の夏のことを書いた詩だが、わたしの詩のはじまりに触れたもので、
特別な思い入れがある。
2月20日(月)
『雨期』58号ができました。執筆者は古内美也子、原口哲也、青木津奈江、
渡辺 洋、唐作桂子、谷合吉重、小林泰子、北野英昭、須永紀子。
アンケートは「2011年 何でもベスト3」。須永の「短編通信」もあります。
やっと今年の活動が始まった気がします。今週は発送作業。
2月18日(土)
石神井公園から光が丘、成増まで歩く。公園側はそれなりに賑わっているけれど、
反対側はほとんど昔のまま。四半世紀前はその淋しい町に住んでいた。
その後、新しくできた光が丘団地に移った。経済的にも精神的にも苦しい時期だった。
建物は外装工事をしたらしく、きれいになっていたが、商業施設はお客も少なく、
活気がないように見えた。
遠くまで来たのだと思った。もっと遠くまで行くのだ。
車中、夏目漱石の『倫敦塔』を読む。
2月14日(火)
先日、八国山を歩いた帰りに東村山のスーパーでポールスタアの
「黒焼きそばソース」を買った。
東村山といえばこれ。前々から気になっていたのです。
ウスターソースをベースに、イカスミや魚介エキスなどが入っている。
焼きそばに使ったら、麺がダークグリーンに染まり、たいへん美味しい一皿になった。
パエリアやパスタにも合うそうなので、試してみようと思います。
バルサミコ酢以来の感動だ。
2月11日(土)
小川洋子さんの『偶然の祝福』(角川文庫)を読んでいる。
「盗作」には短編集『まぶた』に入っている「バックストローク」という
短編が出てくる。
水泳選手だった弟の片手が、泳ぐかたちのまま動かなくなる奇病に
かかる話。
これは別の幾つかの短編にも登場する。ジョルジョ・モランディが同じ壺や
瓶を描いたようなものかしらと思った。
2月8日(水)
『雨期』58号の原稿をすべてプリントアウトして素読み。
次から次へと訂正したいところが出てくる。
きりがないので、今日まで!と決める。
2月7日(火)
矢野静明さんの展覧会は今日が最終日。座間のギャラリーアニータ。
行きたいと思ってポストカードを毎日観ていたのだけれど、体調が悪くて遠出できそうになかった。
とても残念です。
2月3日(金)
辺見庸さんの『もの食う人びと』(1994年・角川文庫)を読んだ。
チェルノブイリやバングラデシュ、ウラジオストクなど過酷な地を旅し、
食を体験する渾身のルポルタージュ。
悲しみと貧しさを目の当たりにした記録である。
そうまでして食べるのかと思い、ごくふつうのことだと思う。
2月1日(水)
買い物に行く度に、非常用の食料を1つ買うことにしている。缶詰やレトルト食品など
温めなくても食べられるもの。シリアルやクッキー類、パックのご飯。他に3日分の水。
缶入り味噌汁も用意するとよいらしい。スーパーでは売っていないので駅の自販機で
買わなくては。
3月以来、お風呂の水は翌日までそのままにしている。
1月29日(日)
新井豊美さんの詩文集『シチリア幻想行』(2006年・思潮社)を読んでいる。
新井さんが撮られたモノクロの写真が挿まれていて、とてもすてきな本だ。
「シチリアの夏」にすばらしい4行を見つけた。
時は二つに裂ける
新しい箒はごみと古い箒を往来に掃き出すが
掃き出された箒とごみは舗道から
誰よりも先に戻ってくる
世界のありようを表現していると思う。続く2行は
熱狂的な時代が通過した後には岩山と
古い箒とごみがこうして残された
1月25日(水)
新井豊美さんの『いすろまにあ』(1984年・砂子屋書房)を読み返す。当時二十代だったわたしは
硬くて大きな哀しみを受けとめきれなかった。
詩集のタイトルは「島狂い」という意味。いつも凛としていた新井さんの抱いていたものを思う。
『半島を吹く風の歌』(1988年・花神社)。穏やかに凪いだ海の情景が広がっている。タイトルが
とてもよいと思う。
二冊とも栞は粟津則雄さん。
1月22日(日)
新井豊美さんの訃報を聞く。年頭に転居通知をいただき、寒中見舞いを出したばかり。
ご病気のことは知らなかった。拙作にいつも厳しく温かな感想をくださる方だった。
最後にお会いしたのは2005年の冬だったと思う。国立でひらかれた福間健二さんと
水島英己さん、新井さんの朗読会に行き、短い会話をした。『るしおる』に書いた
「囲繞地にて」をよかったと言ってくださった。うれしかった。
先日、書店で新井さんの『女性詩史再考』(思潮社)を見かけて、読もうと思ったところだった。
ご冥福をお祈りいたします。
1月18日(水)
池田康さん編集・発行の『洪水』9号がとどく。新企画「詩で描く新世紀地図」で川口晴美さんが、
旧作「ジェネシス」を選んでくださった。1995年発行の詩集『何かひとつ新しいこと』にいれたもの。
今井義行さん「泣きながらめざめて」、柴田千晶さん「空室」、渡辺玄英さん「セカイが終わりに近づくと」、
小川三郎さん「名乗りそびれたものたちのこと」、ほしおさなえさん「遠くに世界が開けていました」、
野木京子さんの「雨」が掲載されている。おもしろい企画、タイトルもよいと思う。
川口さんの的確な解説と詩の未来についての論考に脱帽です。わたしも怠けていないで考えなくては
と気を引き締めました。
1月15日(日)
本を探しに阿佐ヶ谷の書原へ。奥行きのある店内には選び抜かれた本が並んでいる。
どんなひとがチョイスしているのだろう。手にとって開きたくなるものばかり。
地下鉄で荻窪に出て、ルミネと古書店を回るが収穫なし。歩いて阿佐ヶ谷に戻り、
辺見庸さんの『瓦礫の中から言葉を』(NHK出版新書)を買う。
南阿佐ヶ谷の、むかし住んでいたアパートの前を通る。
外装もそのまま、ベランダの鉄柱は錆びて、わびしい感じがただよっている。
あれからもう32年も経ったのだなあと思う。
1月12日(木)
吉田健一さんの『旅の時間』をぱらぱらと読んでいる。30年くらい前にその息の長い文章が
話題になって、読んだ時期があったが、本を探しても見つからない。
それで文庫を買った。懐かしい。
松浦寿輝さんの小説を読んで、吉田健一さんを思い出したのです。
1月8日(日)
中浦和から歩いてうらわ美術館へ。途中、「鹿手袋」という地名があった。
何と読むのだろう。
「アートとブックのコラボレーション展」を観る。この美術館は本をめぐるアートの収集を
柱にしていて、前回は2009年の「オブジェの方へー変貌する「本」の世界」だった。
今回は既成の本を焼いたオブジェがなくてよかった。真っ黒な本が床に並べられたもので、
メッセージ性は感じられても美ではないと思った。
今回は本の中身をくりぬいたものが展示されていたけれど、これも不快だった。既成の本を
素材にすることに抵抗があるのですね。
自分で一から作った本なら、どのように扱おうと構わないと思うのですが。
1月7日(土)
小池昌代さんの短編集『自虐布団』(本阿弥書店)を読んでいる。小説家志望の男、女優、
詩人などが主人公になっている。小池さんの苦しみが彼らに分け与えられているかのようだ。
ぎりぎりに踏みとどまり、やがて死のほうに吸い込まれてゆく人々。
太宰治のいくつかの短編を思い浮かべた。
1月4日(水)
深大寺へ。30年ぶりくらいか。すっかり観光地になっているのに驚く。小旅行に出た気分。
どこでお蕎麦を食べようか迷って、ひとがあまり並んでいない店に入ったら、外のテーブルに
案内された。
風情があるような気もするが、冷えました。調べてから行けばよかった。
1月2日(月)
初詣。近くの神社へ行く。二年前、不況が騒がれたときは、すごい人出だったけれど、
今日は少なめ。
十数年ぶりに自宅で過ごすお正月。鰊の昆布巻きと伊達巻き、煮しめ、ゆりねと海老と
椎茸の蒸し物など、がんばらないおせちを作る。
今年は何かまとまった仕事をしたいと思う。といっても今のところ何の予定もない。
2011
12月31日(土)
今年最後の買い出し。急カーブのつづく道を通ってイオンモールへ。さすがに大晦日は渋滞がなくてよかった。
一週間前はチキンの丸焼きがぎっしり並んでいた。しわのよった、色の悪い鶏肉はとても食べられるようには見えなかった。売り切れるはずがないと思った。その場所にきょうはかずのこが並べられていた。売れるのだろうか。
イエスと大審問官の対位の構図が歴史を進めているのではないかとふと思った。ドストエフスキー、天皇、夏目漱石、小林秀雄、折口信夫、吉本隆明、加藤典洋、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデンなどたくさんの人物が登場するのだが、彼らのなかにイエスの〈無言の接吻〉、共苦、無償の愛と救済の志向を見ることができるのではないかと思った。
これは単なるアバウトな仮説です。読み落としているところもたくさんあると思うので、新しい年の最初の読書は『大審問官の政治学』の再読になります。
さいたま文学館発行の『文芸埼玉』86号がとどいた。「丘陵の冬」という詩を載せてもらっている。今年は丘陵を舞台にした詩をいくつか書いた。
12月28日(水)
神山睦美さんの『大審問官の政治学』(響文社)読了。わたしには難解な論考だった。『カラマーゾフの兄弟』のなかで、イワンが弟に語る劇詩が大審問官の物語。大審問官とは、異端審問を行う裁判官のことであり、彼は民衆に奇蹟をおこなって捕らえられたイエスに、「おまえのしていることは愚かなことだ」と罵倒するのだが、イエスは無言で彼に接吻する。そこから二者の関係を探る神山さんの知の旅が始まる。
部分は理解できるけれど、全体がまだ見えない。でも刺激的な内容で、取りあげられている本を全部読みたいと思った。まず高見順の『昭和文学盛衰史』。
12月23日(金)
2か月前に注文した篆刻がとどいた。サイトで見て、ぜひここで作ってもらいたいと思った。「雨人」というお店。達筆の手紙と一緒に布張りの箱に入っている。ていねいな仕事がうれしい。
夏に揮毫したとき、篆刻があれば格好がつくと思ったけれど、間に合わなかった。正式に文字を書く機会など、これからほとんどないだろうが、手紙やはがきに捺したりして、日常的に使おうと思っている。
12月22日(木)
注文していた新しい雑誌『kototoi』(菊谷文庫)創刊号がとどく。和綴じ製本で、文字が大きく、待っていた時間も含めて、手渡されたという実感がある。これからゆっくり読みます。
新しく始めるというのはすばらしいことだと思う。器ができれば、書き手が集まって、ダイナミックな運動も起こってくるだろう。何かが生まれていくることを期待したい。
12月19日(月)
『まぶた』読み終わる。「詩人の卵巣」がとてもよかった。不眠症の女性が、不眠を直すために海外旅行に行き、詩人の記念館を訪れる。孫だという老女が管理していて、詩人は卵巣に毛髪が生える病気で亡くなったという。その夜、女性は久しぶりに熟睡し、目覚めると瞼の向こうにある森へ入っていく・・・。
村上春樹を思わせるような世界。童話のようでもあるが、思いがけない展開に「そう来たか」と唸った。
12月13日(火)
小川洋子さんの『まぶた』(新潮文庫)を読んでいる。堀江敏幸さんの書評集『本の音』のなかにある一冊。小川さんの著書は『完璧な病室』を読んだのみだった。処女作の「揚羽蝶が壊れる時」も入っている。
短編集である。現実のなかにメルヘンが入ってくるような作風。冒頭の「飛行機で眠るのは難しい」はとても魅力的な、「オーヘンリー短編賞」などを受賞させてあげたいような佳作である。
ウィーン行きの飛行機のなかで、取材に向かうライターが隣席の男から聞いた話。登場するオーストリア人の老女が何ともかわいらしく描かれている。ストーリーを書くと長くなるので、ぜひ書店で手にとってみてください。
「中国野菜の育て方」は野菜売りの老婆にもらった不思議な種に困惑する女性の話。ラストがとてもよい。本筋と関係のないシーンが加えられている。そこで物語もわたしたち読者も現実に戻る。はっとした。こういうふうに詩を書いたらどうだろう。ヒントをもらったような気がする。
12月12日(月)
夏目漱石の『草枕』を買う。先日、荻悦子さんから小説と評論の同人誌『カプリチオ』(二都ぶんがくの会)36号をいただいた。
「いまだからこそ再会したい夏目漱石」という特集に、荻さんが「オフェリアの気韻--実験小説としての『草枕』--」という評論を書いている。恥ずかしいことだが、「気韻」ということばを初めて知った。
『草枕』は既存の文芸作品に多くを借りているという指摘があり、ぜひ自分でも確かめてみようと思った。
また「漱石が望んだのは、世界文学として普遍性のある方法と内容を生み出すことだった」という文章を読み、漱石のめざしたものに興味を持った。
実力ある書き手が論考を載せている。「漱石文学MAP」もあり、漱石ゆかりの東京の街を歩きたくなった。
12月9日(金)
神山睦美さんの『大審問官の政治学』を読んでいるうちに、神山さんが言わんとすることが少し見えてきたような気がする。大審問官とは何者か。そういう疑問から世界における権力のあり方を探っていく。目眩がするような知の行程に思えます。
人々のホッブズの著書『リヴァイアサン』というのが『ヨブ記』に出てくる海獣のことであると初めて知った。
12月5日(月)
松浦寿輝さんの短編集『もののたはむれ』(新書館)読了。作品のなかをゆっくりと流れる時間にとりこまれてゆく感じを味わった。現実と幻の境目が溶けるあたりを主人公はさまよう。ほとんどは40代の独身男、インテリである。登場する女性は謎めいて幻惑的。松浦さんの作品に出てくる女性たちには生活感がない。女性に対する幻想があるのではないかと思う。
ここまで書いて「幻」という文字を3回も使ったことに気づく。それがキーワードだということだろう。村木道彦という歌人についての会話がある「黄のはなの」、うらぶれた茶の間のような喫茶店でぼんやりと時を過ごす男を描いた「並木」に惹かれた。
東京の地名がたくさん出てくるのも楽しい。
11月29日(火)
現代詩文学館より館報『詩歌の森』63号がとどく。贈賞式の記事も掲載されている。司会の方に促されて思いきり笑った写真。輪郭がこわれている。スピーチの要点をうまくまとめてくれて、うれしく思います。
11月28日(月)
神山睦美さんの『大審問官の政治学』(響文社)を読みはじめる。「16世紀スペイン・セビリアから、19世紀のペテルブルグを経て、21世紀のニューヨーク。そして、3.11以後の現在にいたる権力のあり方をめぐっての、根底的考察」と帯にある。
わたしには難解に過ぎるけれど、少しずつ読んでいる。年内いっぱいかかると思う。ところで神山さんは岩手県出身なのですね。
11月24日(木)
欠礼はがきを出す。久しぶりに万年筆を使ったが、味のない、つまらない字である。おおらかな空間の多い字を書きたいと思うのだけれど。
11月19日(土)
BSで「宮沢賢治の音楽会」の再放送を観る。手嶋葵さん、大貫妙子さん、坂本龍一さん、細野晴臣さん、加藤和彦さん、中島みゆきさん、藤原真理さんたちが賢治の作った曲を歌ったり演奏したりしている。岩手の風景も映し出された。
加藤和彦さんの「11月3日雨ニモマケズ」がよかった。ギターの弾き語りだが、静かな歌唱には説得力があり、伴奏のギターはサイモン&ガーファンクルみたいで、聴き入ってしまった。
11月18日(金)
現代詩歌文学館から贈賞式のDVDと写真が送られてきた。年相応に老けている。高橋睦郎さんが「後は老いてゆくだけですよ」とおっしゃったことを思い出す。しっかり老いたいものですね。
11月17日(木)
鈴木志郎康さんの『結局、極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)読了。影響を受けたジョナス・メカスさんの映像作品のこと、つげ義春さんの漫画、木村伊兵衛さんの写真、小川紳介さんのドキュメンタリー映画、詩について。「詩の現前に向かって」では藤井貞和さんの詩集と拙詩集をとりあげて、どのように詩を読むかということが書かれている。
表現することの喜びをあらためておしえてもらったと思う。そのことを忘れて、多くの作品に勝手な感想を言ってきたことを反省した。あとがきに「極私的ラディカリズム」という詩が載っている。
言葉で時間を刻む。単語の数が生きている時間だ。
言葉を使うっていうこと、善し悪しは考えない。
言うってことを続ける。または書くことを続ける。
小さなことを言う。また小さなことを書く。
それが志郎康さんの執筆活動なのですね。わたしももっとたくさん書きたいと思う。沈黙せず、削除せずに書くということ。
11月11日(金)
『歴程』の贈賞式に行った。同人ではないが、福間健二さんにお祝いを言いたかった。司会は川口晴美さん。瀬尾育生さんが福間さんの仕事について話された。丸テーブルと椅子が用意されていて、ゆっくりスピーチを聞くことができたのがよかった。特別賞は『地球連詩』の毛利衛さんと山中勉さん。乾杯は鈴木志郎康さん。
2時間に及ぶスピーチが終わり、そそくさと退出。八木幹夫さん、福間恵子さんと話ができたが、同人の方にご挨拶をすることができなかった。申し訳なく思っている。
11月10日(木)
高橋睦郎さんの詩集『何処へ』(書肆山田)を読む。リボンの栞がついた瀟洒な詩集。詩集に入れなかった1978年から2010年までの作品から編まれたと「覚書」にある。タイトルは「クォ・ヴァディス」の邦訳で、「われら、何処へ」という思いをこめたという。
「泳ぐ母」がとてもいい。小学三年生の「ぼく」が初めてシュミーズで泳ぐ母を見るというもの。高橋さんが自我意識を持ったころの記憶だと思う。一般に7歳から9歳は自我意識を持つようになる時期といわれている。詩や小説にはこの年齢の思い出を扱ったものが多いように思われる。水練を覚えたばかりの「ぼく」が舷につかまっている傍らを泳いでいく少女のような母の姿。映画のシーンを見ているみたいだ。
「ベッド考」はベッドが分身あるいは身代わりになって、ヴェネツィアの水に浮かび漂うという、現代美術のような詩。「怖ろしいのは」は意外な展開が掌編風。バリー・ユアグローの短編世界を連想した。「肉体という都市」「眠れない」にも惹かれた。
11月8日(火)
日本現代詩歌文学館に『雨期』のバックナンバーを送る。先月、収蔵リストをもらい、欠号が多いことがわかった。そのうち5冊は余部がなかった。とても残念。
鈴木志郎康さんの表現論エッセイ集『結局、極私的ラディカリズムなんだ』(書肆山田)を読んでいる。ジョナス・メカスさんの映像作品について書かれた章。名前はよく耳にしていたけれど、どんな内容のものか知ることができた。ぜひ観たいと思う。
11月5日(土)
島尾敏雄さんの『死の棘』(新潮文庫)読了。妻が壊れはじめ、精神病院に入院するまでの日々を描いている。妻は夫に不実のすべてを告白せよと迫り暴れ、夫もまた荒れていく。快方に向かったかと思うと、ふりだしに戻る。幼い二人の子どもは狂ったような両親の許から逃れることはできない。家族四人が奈落の底を這うようなのだ(ちょっと島尾敏雄風)。
作家は自分の成したことの責めと、妻への愛と尊敬を抱きながら、世間的にも経済的にも地獄のような生活を記している。先日、島尾敏雄さんの12歳のときからの日記が発見されたという記事を読んだ。作家の業というのはすさまじいものだと思った。
10月29日(土)
市立所沢図書館で「秋の詩を読もう」と題した講演をする。詩とは何か、どのように書くのかを話し、後半は募集した「秋」の詩8篇を読む。漢詩あり歌あり。自作を朗読してくれるひとも。みんななかなかの出来。ほぼ満席で質問も次々に出る。
詩に興味をもっているひとがたくさんいるのだなあとうれしく思った。書き続けていってほしいですね。ハローウィーン色の花束をいただく。
10月22日(土)
『抒情文芸』の創刊35周年を祝う会へ。前半の司会の清水哲男さん、発行人の川瀬理香子さんとも5年前の30周年を祝う会でお会いして以来。全国から投稿者が集まり、賑やかな会だった。ここの出身ということでスピーチが回ってきた。井坂洋子さんもその一人だそう。
日本で唯一の季刊の投稿誌である。投稿していたのは1年間くらいだったか。安西均さんが選んでくださったことが、詩人としてのスタートになった。
詩人の方たちも多数いらしていて、お話ができ、楽しい夜だった。
10月20日(木)
「書肆山田の本と書肆山田」というきれいなリーフレットがとどく。装幀、造本は菊池信義さん。詩人や翻訳家など23人がメッセージを寄せている。わたしも書かせていただきました。
10月16日(日)
久しぶりに本の整理をしていたら、君野隆久さんの『(朝、廃区を、)』(彼方社)という詩集を見つけた。2010年1月に発行されたもの。とてもよい詩集である。
存在することの不安を抱く主体が生み出すことばは硬質な輝きを放っている。
(世界はことばではない
ことばは影ではない、それはかたちと
音がはらんだ
きらきらしい排泄
「詩法」部分
ことばはていねいに選ばれ、安易な展開を拒んでいる。話題になったことだろう。お礼状を送ろうと思ったが、住所がわからない。もっと早く読めばよかった。
10月12日(水)
『雨期』のバックナンバーを探しています。27、29、33、37、42号をお持ちの方、ゆずってください。よろしくお願いいたします。
10月11日(火)
先日は文学館の前で「鹿踊り」が迎えてくれた。和太鼓を打ちながら、面をつけた演じ手が勇壮に踊る伝統芸能。頭にはササラという白い棒を立て、衣装も重そうである。太鼓で踊るというと、インディアンとかタイの踊り、韓国の農楽などが思い浮かぶが、共通するものがあると思う。
またレセプションでは「鬼剣舞」を観た。念仏踊りであるらしい。鬼の面をつけた5人の演じ手が激しく踊る。こういう芸能を継承していくのは大変なことだろうと思った。
10月9日(日)
北上より戻る。詩歌文学館http://www.shiikabun.jp/で第26回詩歌文学館賞の贈賞式。温かなよい式だった。財部鳥子さんから選評をいただき、スピーチをし、小高賢さんの「老いとユーモア」という講演を聴く。料亭でレセプション。会場には畳敷きの大広間にテーブルと椅子が置かれていて、明治時代の気分。
選考委員の高橋睦郎さん、財部さん、堀場清子さんの他、安藤元雄さんと白石かずこさんがいらした。受賞者は篠弘館長や北上の市長さん、小高さんと同じテーブル。短歌や俳句、北上の名産などの話を聞く。
今日は宮沢賢治記念館http://www.city.hanamaki.iwate.jp/sightseeing/kenjimm/とイーハートーブ館へ。朝は濃い霧がたちこめていたが、10時頃にはすっかり晴れて、陽ざしも強い。
帰宅して、朝、部屋の前に届いていた岩手の二紙をひらいたら、式の記事が載っていて、その速さに驚いた。
10月7日(金)
明日は贈賞式。岩手の北上へ選考委員の先生方と行ってきます。荷物はまとめたし、後はスピーチの練習をするのみ。今日も明日も胃が痛くなったりしませんように。
10月6日(木)
小池昌代さんの短編集『黒蜜』(筑摩書房)を読んでいる。子どもが主人公。子どもの年齢に降りていって小説を書くのは、つらいことなのではないかと思う。わたしは自分の子ども時代を思い出したくない。そう書くことがすでに記憶を遡ることになっているのだけれど。
10月4日(火)
池澤夏樹さんの『虹の彼方に』読了。基地、原発、9・11など、2000年から20066年までのさまざまな問題を扱ったコラム集。「時代について書くことは、その先を予想することでもある」とあとがきで池澤さんは書き、予想が当たったものと外れたものを挙げて、最後に自身で検証をしている。誠実な作家だと思う。
9月29日(木)
イベントのご案内です。10月29日、30日に所沢市立図書館にて、第12回図書館まつりが開催されます。秋の詩を募集しています。https://lib.city.tokorozawa.saitama.jp/events/fes_12th.htm
9月27日(火)
贈賞式が近づいたので、少しずつ準備をしている。服や靴やスピーチなど。現代詩歌文学館での式の後、別の場所でレセプションがある。レセプションというと、白いドレスを着てティアラをつけた皇室の女性を連想してしまうのだけれど、どんな方がいらっしゃるのだろう。
9月24日(土)
3月以降、遠出をすることもなく、公園にも行かなかった。気候もよくなったので、彩の森公園へ。入間の自衛隊基地が返還されて作られた、ほどよく広い公園。先日の台風で根こそぎ倒れたポプラがそのままになっている。枝を折られた幹がむきだしになっていた。
忍者風の衣装を着た女の子たちがあちこちでカメラを構えて、異様な風景。銀色や赤の髪、悪者と姫のようにみえる設定でポーズを取ったりしている。こんなところで何なのだろう?
ここには噴水と池と小さな流れがある。水のある公園に行くと、なぜか元気が出てくる。
9月22日(木)
『猫柳祭』読み終わり、室生犀星詩集をひらいてみた。文語調の詩はこれまであまり読んでこなかった。犀星はなぜ哈爾浜詩集を編んだのか。もう一度財部さんの小説を読んでみなくては。
池澤夏樹さんのコラム集『虹の彼方に』を読みはじめる。風力発電に触れた文章がいくつか。そういえば風力発電をめぐる家族を描いた『すばらしい新世界』は途中までしか読んでいない。よい機会なので、続きを読もうと思う。
9月16日(金)
財部鳥子さんの『猫柳祭』(書肆山田)を読んでいる。室生犀星の後年の詩集『哈爾浜詩集』はどのようにして成ったのか。4月のハルピンへ旅した犀星を描く。ライバルでもあった萩原朔太郎も登場する。時を越えた小説です。
9月15日(木)
『雨期』57号の感想が少しずつとどいている。うれしいことです。たくさんのひとの励ましや批評に支えられて、書き続けることができているのだと思っています。
『宮沢賢治詩集』(中村稔編)を読みはじめる。
風邪薬から咳止めの薬に変える。よくなってはいるのだけれど、まだ抜けません。
9月13日(火)
松浦寿輝さんの『半島』を読み終える。まぎれもない純文学作品。読売文学賞を受賞したのもうなづける。架空の半島の地図が立ち上がってくる。寂れたようにみえる街の、怪しげ界隈、怪しげな人々。考え抜かれた展開と知的な会話。主人公迫村の、自分の影との対話。
3月に松浦さんが新聞に発表した「afterward」という詩がとてもよかったので、小説も読んでみようと思ったのだが、すごい才能だと思います。
9月12日(月)
先週木曜日あたりから喉が腫れて、週末にダウン。やっと咳もおさまった。夏風邪は長引くものですね。
9月7日(水)
一日発送作業。一筆を添えて14通送った。あと少し。
家の前に保育園が建つことになって、朝から騒がしい。でもうちの前は竹やぶのまま。なんで~?
9月6日(火)
図書館で、10月のイベントの打ち合わせ。思いつきで言った案が何とか通って、うれしいけれど、だめだったらどうしようと不安でもある。まあ、何とかなるでしょう。
今週は二つ詩を書いて送った。大震災後、発表する場所がなかったので、ずっと手元において推敲していたもの。
9月4日(日)
詩とはまったく関係のない用事が入って、発送作業が遅れています。申し訳ありません。車中で、洗車の待ち時間に、松浦寿輝さんの『半島』を読んでいる。
大学を辞めた中年の迫村が、半島にある町に滞在する日々を描いた長編小説。濃密な旅の時間が流れています。
8月29日(月)
『雨期』27号できあがりました。古内美也子・原口哲也・青木津奈江・渡辺 洋・唐作桂子・谷合吉重・小林泰子・須永の詩作品、アンケートは「わたしのとっての書物」北野英昭・原口哲也・須永紀子。須永の「短編通信」という内容です。
今号は力作揃いだと思います。わたしの「沼をはこぶ」は東北大震災後に初めて発表する詩です。お読みいただければうれしいです。
8月25日(木)
91歳の大往生だった。10日前に会ったとき、父は弱ってはいたけれど、機嫌よくジョークを連発していた。
男性の納棺師さんがヒゲを剃り、髪を整えてくれた。今まででいちばんの寝顔になった。気になったのは頭陀袋に入れる六文銭。紙に丸が印刷された、100円ショップで売っていそうな安っぽいもの。他は死に装束らしく立派にみえるのに、なぜこれだけ安直に作られているのか、とても不思議である。
葬儀のとき、骨を拾う箸が木と竹の組み合わせになっていて、箸渡しをせず一人ずつ拾った。これで手間取ることも少なくなったと思う。なぜもっと早くそうならなかったのだろう。
これから葬儀は簡略化されていくだろう。それはとてもよいことだと思う。
8月22日(月)
明日、明後日は身内の通夜と葬儀がありますので、更新はお休みします。
8月21日(日)
『マザーウォーター』(松本佳奈監督)を観た。京都が舞台なのだが、説明が足りないので、人間関係がよくわからない。悪くはないのけれど退屈だった。
ウィスキーしか出さないバーを構えるセツコ(小林聡美)、豆腐を作るハツミ(市川実日子)、コーヒー屋のタカコ(小泉今日子)。得体の知れないマコトを演じるもたいまさこさんが、ちょっといじわるなのがいつもと違う。
もしかしたら台本がないのではないかと思った。みんなとてもつまらないことをぼそぼそと言っているのだ。
どの店もおしゃれだけれど、暮らしの匂いが消されていて、何だか病院のように殺風景。フードスタイリストは『かもめ食堂』などを手がけた飯島奈美さんなので、食べ物はすべておいしそう。
8月20日(土)
山本かずこさんの『日日草』(北冬舎)を興味深く読んだ。自伝的エッセイ集。1996年に高知新聞に掲載されたとのこと。山本さんの詩をずっと読んできたけれど、このような実生活があって、生まれた作品なのだなあと納得した。
8月16日(火)
埼玉近代美術館で「エル・アナツイのアフリカ」を観る。アナツイは1944年ガーナ生まれ、ナイジェリア在住の現代美術家。たいへんよかった。
「あてどなき宿命の旅路」というタイトルをもつ木彫りの彫刻は、繊細でダイナミック。アフリカの祈りがこめられているように思った。アルコール飲料のボトルキャップで作られた「テキスタイル」は奇蹟のように美しい。工房で、20人ほどの助手たちが廃品のアルミを広げ繋ぎ、一枚のパーツにする。アナツイはそれを組み合わせて、タペストリーのような彫刻を作りあげるのだ。
紗のように、網のように展示される財宝のような作品。アフリカをもっと知りたくなってきた。
8月12日(金)
財部鳥子さん発行の『鶺鴒通信』春号を読む。タンザニアの切手が表紙のきれいな詩誌。財部さんの「葱嶺までーー中村稔詩集「立ち去る者に」に惹かれる。「葱嶺」はパミール高原のことだそう。魅力的な地名。そこを舞台に、財部さんの詩の発生、詩をめぐる思いがダイナミックに展開されている。その第一連。
葱嶺にあこがれていたころのわたしは若く
その嶺を黄金が領ずるところとゆめみていた
キルギス人たちは探検記の奥深く陥没し
探検の馬たちは不幸なクサビ形をしていた
加藤幸子さんの「鶫」のなかに「ポピリョン」という鳴き声が出てきた。ぜひ聞いてみたい。
8月9日(火)
國峰照子さんの詩集『ドン・キホーテ異聞』を「ナンセンス詩」と書いたけれど、それはちがうと思い直す。「諧謔の詩」といったらいいだろうか。
8月6日(土)
國峰照子さんの詩集『ドン・キホーテ異聞』(思潮社)を読む。女性にはめずらしいナンセンス詩。知的な遊び心のテンションは高く、かつ端正な作品が並ぶ。ドン・キホーテとサンチョ・パンサがうなぎを食べる詩、ジョークでできた蕎麦屋のお品書きなど、くすりと笑ってしまう。
惹かれたのが「パブリックな庭」。殊に二連
「養生中の芝生に、
空のバケツを提げたひとが行き来している。すれ違っても目も合わ
せない。この庭にどんな規律があるのか、何がはじまるのか、何か
がおわったのか、立ち止まりしかつめらしく腕時計を見るひと、水
っぽくほほえむ美人、それにチック症の老人もバケツを提げてゆく。」
数年前に見た國峰さんのアートを思い出した。わたしの想像力を激しく掻き立てる何かがあるのだ。藤富康男さんの挿画が飄々とした味わい。
8月3日(水)
6月5日にフィリア・プロジェクト主催で行われた東日本大震災チャリティーコンサートhttp://www.youtube.com/watch?v=DZbXDvFwNjIの映像がとどく。場所は代々木の能舞台。祥子さんの驚異のウォーキングをぜひご覧ください。
8月1日(月)
7月30日から前橋文学館で小池昌代展『川をさかのぼって--「水の町」から「コルカタ」へ』が開かれています。9月11日まで。みなさまぜひお出かけください。
その図録が今日はとどいた。わたしも「開かれたひと、あるいは永遠の姉」という文章を書いている。どこまで書いていいのか、何か足りないのではないかと不安だったけれど、小池さんが気に入ってくれたようでほっとしている。写真やインタビューがたくさん。寄稿者は他に池井昌樹さん、松下育男さん。
詩歌文学館賞贈賞式のチラシとポスターもとどきました。たくさんあります。
7月30日(土)
3月から書いていて、いつになっても完成しない3つの詩を何とか終わりまで仕上げる。今年はあまり詩を書いていない。これでいいのかと思うくらい。
詩を書かないひとにもわかるような「秋」の詩を探している。書棚の前で、これはと思う詩集を開くのは楽しい時間である。短いものをできるだけたくさん見つけようと思っている。
7月25日(月)
岬多可子さんの詩集『静かに、毀れている庭』(書肆山田)をくりかえし読んでいる。すばらしい詩集である。詩誌に掲載された表題作の一篇を読んだときに、こういう詩を書いてみたいと思った。「遠い庭」はそうして生まれた。
視えないものと、自身が抱える闇をつなげるようにして書かれていると思う。女性らしく繊細だけれど、核の部分は強い。岬さんの詩にはいつも刺激を受けている。
礼状を書いたが、ファンレターのようになってしまった。わたしがこれから書く詩が、感想になればいいと思う。とうてい及ばないだろう。
7月19日(火)
トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』を観た。映像は美しい。けれど主に性的なことにスポットを当てて話をつなげているので、痛々しさが全面にでてしまったように思う。原作とはまったくの別物であるといっていいだろう。
わたしのなかでは、緑は謎めいたところがなく陽気、緑の家のベランダでワタナベくんと話すシーンは重要なのだった。直子は硬い感じではかなげでなければならず、菊地凛子は生々しすぎた。レイコさんは白髪交じりのイメージだったのだが。
女性の監督が撮ったらどんなものになるだろうと思った。
7月16日(土)
「短編通信」を書くためにC・N・アディーチェさんの『アメリカにいる、きみ』(河出書房新社)を読み返す。表題作は何度読んでもすばらしい。若いナイジェリア女性の誇り高さ、溌剌さ、知性。恋に揺れる主人公の、何とチャーミングなこと。若い頃に感じた胸の高まりを思い出させてくれる短編です。
7月11日(月)
服部葵さんの第一詩集『ぜんぶ耳のせい』(ふらんす堂)を読む。うまいし、とてもおもしろい。ユーモアのセンスや力の抜きかたなど、今まで知らなかった服部さんの表情をいくつも発見した。
2年前に国立公民館の福間健二さんの塾にお邪魔したとき出会った。井坂洋子さんと福間さんが栞を書いている。特に惹かれたのが「みんな合わせて泣くの」。冒頭がいい。
映画を観て
泣きそうになる
泣きたいことがほかにもあって
みんな合わせて泣くの
表題作、「力について」「朝の知らせ」など楽しい詩がたくさん。ぜひ買って読んでみてください。1200円です。
7月7日(木)
ここ1か月、筆ペンの練習をしている。実は書道をやったことがない。それで不自由を感じたことはないけれど、故あって色紙に書かねばならなくなった。わたしの字は貧相である。恥ずかしくて、とても人に見せられるようなものではない。ぎりぎりまでがんばってみようと思っているのだけれど、上達の極意などないでしょうか。
7月3日(日)
楊逸の『時が滲む朝』を読み終える。日本語の巧さには感嘆した(明らかにまちがった語法もいくつか)し、著者にとっては大切な仕事だったと思う。けれども、中国の民主化運動について知りたいと思っていたわたしには、挫折した大学生の、その後の描かれかたがちょっと不満。
7月2日(土)
西武ドームで西武対日ハムの試合を観る。涌井投手は調子がよくないし、打線もつながらない。うーん。
今日は周囲にヤジを飛ばすひとがひとがいなくて残念。野球を知っているひとのヤジはおもしろいのだ。
周囲のひとの食べているものを観察するのも楽しみのひとつ。ほとんど見えないのだけれども。市販のお弁当を食べたひとはデザートも飲み物も買いに行く。カップルで来ているのだから、どちらかに任せればいいと思うけれど、二人で席を立つ。カロリーオーバーだよと言いたくなる。
隣に座った若い男性がダルビッシュに似ていて、気になる。もみあげと鼻の形、体型がそっくり。サングラスをかけていたが、目立つので周囲の視線を浴びていた。弟が二人いて、一人は拘留中だから、もう一人かもしれない。ライオンズの応援席にいたけれど。
6月28日(火)
練馬美術館へ。日大芸術学部OBによる「N+N展2011」のテーマは「生命を見つめる」。友人の海の絵にわたしの詩が添えられている。
「うす羽の幻想」と題する鏑木昌弥展も観た。何度か大きく画風が変わっていて、同じひとの絵とはおもえないくらい。羽のあるひとを描いた繊細なシリーズがよかった。
母の誕生日なので、隣駅まで足を伸ばしてお墓参り。炎天下で誰もいない。花を売る店がなくなったことを忘れていた。水を掛け、手を合わせる。
6月27日(月)
ジョギングを始めて3か月。外出した日と雨の日は走りません。元気がないときも。ちょっと休むと、お肉はすぐついてしまうのです。
6月26日(日)
『タウン通信』がポストに入っていた。チラシと一緒でよかったのに、単品(?)である。恥ずかしい。
ボラーニョの『通話』の第二部は「刑事たち」。そのなかの「芋虫」、なかなか作品の世界に入って行けなくて、しかたなく、という感じで読んでいたら、目が覚めるような文章に出会った。
村には、六十に満たない家々と、酒場が二軒と食料品店が一軒あるだけだという。家はどれも日干し煉瓦でできていて、中庭がコンクリートで固められている家もある。中庭からはたいてい悪臭が漂い、これがときには耐えがたいほどだ。心があっても心がなくても、感覚さえなくても耐えがたいそうだ。だから中庭をコンクリートで固めるのだと彼は言った。
白い服に煙草をくわえた姿が「芋虫」のように見える男が、メキシコの砂漠にある暗殺者の村について語る部分。学生の「僕」が、熱を出した「芋虫」を介抱しているときに聞く話。映画のような、魅力のある短編です。
6月24日(金)
インタビュー記事が載った23日付けの『タウン通信』を22日にとどけてもらったが、昨日も今日も新聞の折り込みには入っていない。まあいいか。近所のひとに職業を知られないほうが楽かもしれないと思う。
前号は『はだしのゲン』の原作者で漫画家の中沢啓治さんで、それは配布されたのだった。
6月22日(水)
読書家のOさんの薦めで、ロベルト・ボラーニョの『通話』(松本健二訳・白水社)を読んでいる。ボラーニョは1953年チリに生まれ2003年に没した作家。三部に分かれ、第一部は詩人や小説家を主人公にした、やや自虐的な短編が続くが、表題作は奇妙な味わいの傑作だと思う。
昔の恋人に一度だけかけた無言電話が引きおこした悲劇。といっても何が起こったのかという説明は省かれている。何か消化不良気味なので、三度も読んだ。タブッキとカズオ・イシグロを混ぜ合わせたような独特の時間が作品のなかを流れていると思った。
6月18日(土)
堀江敏幸さんの『未見坂』読了。小さな架空の町を舞台にした連作短編集。生まれた土地で暮らす純朴なひとびとをていねいに愛情をこめて描いている。
何か事件が起こるわけではない。それぞれの暮らしのなかで小骨のように感じられているできごとや記憶がそっと解きほぐされていく。ひっそりとした佇まいの9つの短編。
6月15日(水)
所沢の「カフェ・ラ・ペルレイ」(「彼女のために」という意味の、すてきなお店でした)で、タウン誌のインタビューを受ける。若い記者さんのお父様は詩人だそう。現代詩の世界をかなりご存じのようなので、うれしくてたくさんしゃべる。うまくまとめてくださいね。
6月14日(火)
銀座で用事を済ませ、京橋のブリヂストン美術館で「アンフォルメルとは何か?」を観る。「アンフォルメル」は「不定形なるもの」という意味。第二次世界大戦末期のパリで、ジャン・フォートリエ、ヴォルス、ジャン・デュビュッフェを先駆として生まれた芸術運動。パブロ・ピカソ、アンリ・ミショー、サム・フランシスなど影響を受けた画家の作品も。
フォートリエの絵にはたっぷりした質感があり、悲痛なほど美しい。地獄を見た孤独な魂の、苦悩がみえるような気がする。ずっと観ていたいと思った。
6月8日(水)
鈴木正枝さんの『キャベツのくに』、山鹿なみ子さんの『メオト詩篇』(ともにふらんす堂)を読んでお礼状を書く。日曜日の会でお会いして、詩集をいただいたままになっていることを思い出したのだった。
この詩集で横浜詩人会賞を受賞した鈴木さんはなかなかのストーリーテラー。「風の日」がとてもよかった。山鹿さんの短い詩行は亡き夫を想う気持ちをストレートに伝えてくる。
手塚敦史さんの『トンボ消息』(ふらんす堂)を読む。二回目だけれど、まだ読み解けない。簡単にわからないところがよいのである。
6月5日(日)
青木津奈江さんの詩集『星降る夜の叙景』(ふらんす堂)の出版記念会が新宿であった。青木さんの詩の先生である吉田文憲さん、この本の装幀もしている稲川方人さん、ふらんす堂の山岡喜美子さんと詩の教室の方たち。司会は谷合吉重さんで、『スーハ!』の野木京子さん、佐藤恵さん、陶原葵さんともお話することができた。あたたかな、よい会だった。
青木さんの詩はつつましやかだけれど、確固としたスタイルを持っている。説明をしないところがとてもよく、まっすぐにことばがとどいてくる。おめでとうございます。
6月1日(水)
渋谷で福間健二監督『わたしたちの夏』の試写を観る。世界と夏と詩が詰まったすてきな映画。8月下旬に東中野ポレポレでレイトショーとのこと。ぜひ観てくださいね。
渋谷は久しぶり。母の死のあと区役所で手続きをして、仏壇を買った。それ以来か。Bunkamuraに行ったのはもっと前になる。
5月29日(日)
雨のなか川越までパスポートを取りに行く。海外に行く予定はまったくないのだが、いつ必要になるかわからないので。初めて10年有効のものにした。
車中で山田順『出版大崩壊』(文春新書)。サブタイトルは『電子書籍の罠」。デジタル化した本が電子書籍ではないのだとやっとわかった。
5月28日(土)
小池昌代詩集(現代詩文庫・思潮社)を読む。詩文庫を隅から隅まで読んだのは初めてのことかもしれない。『水の町から歩きだして』と『青果祭』は未読でした。いやあすごい才能ですね。今もうまいけれど、原石の輝きというのか、とてもかなわないようなちからを感じます。遅すぎますが・・・ということを文章にする予定です。
5月25日(水)
廿楽順治さんの『化車』(思潮社)、手塚敦史さんの『トンボ消息』(ふらんす堂)を読んでいる。まだ読み解けていないけれど、この二冊には自分の詩に足りないものがあると思う。ひじょうに刺激を受けています。
5月20日(金)
髪を切り、パスポートの申請をし、夜には西武ドームでライオンズとドラゴンズの交流戦を観る。牧田投手のピッチングはすばらしく、完封かと思ったけれど、続くピッチャーが次々とフォアボールを出して逆転負け。
球場での楽しみは、野球経験のあるらしいひと、あるいはよく知っているひとのヤジを聞くこと。「何でこのボールに手出すかねえ?」などと大声で言うので、詳しくないわたしはそうなのかと思ったりする。
3塁外野席はみんな熱烈な西武ファンのようで、応援歌や各選手のテーマ曲をまちがえることなく歌っている。片岡選手の「ウルトラ・ソウル」、中島選手の「キセキ」あたりはいいとして、栗山選手はクレージーケンバンドの「あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ」。ちょっとかわいそう。誰が選んだのでしょうね。
5月19日(木)
東直子さんの『とりつくしま』(ちくま文庫)を読む。とてもよかった。死んでから未練を残したひとが、何かにとりついてこの世に戻るという10の短編。
母が息子の「ロージンバッグ」に、妻が夫の愛用するカップに、祖母が孫の中古カメラにとりついたりするが、いずれもすぐに終わりが来てしまう。
主人公によって語り方ががらっと変わるのが楽しい。殊に「白檀」「名前」「レンズ」が好きです。わたしだったら何にとりつくだろう。
5月14日(土)
映画館の前を通りがかったら今日が公開日だというので『はやぶさ』を観た。
小惑星探査機「はやぶさ」の7年を追ったドキュメンタリー映画。ニュースでときどき見ていた「はやぶさ」と「イトカワ」の関係がやっと理解できた。
イトカワは小石のような形のかわいい小惑星。「はやぶさ」は何度も失敗して消息不明になりながらもイトカワに戻り、その「かけら」を持ち帰ったということ。
「宇宙科学ロマン・ドキュメント」です。
5月12日(木)
フィリア・プロジェクト主催の東日本大震災チャリティー・コンサーが6月5日(日)と11日(土)にあります。お時間のある方はぜひ。
5月10日(火)
『すばる』掲載の小説を読む。すばる文学賞受賞第一作という米田夕歌里さんの「群魚のすみか」。空気の読めない女子大生篠原エミはクラスメートの水野くんの家に自分の場所を見つける。気に入ったひとたちを集めて食卓を囲むサロンのような家。
作者は80年生まれ。今の若いひとたちはほんとうにこのような、心地よさだけを求めた生活を望んでいるのだろうかと思ってしまった。サロンを追われた形になった水野くんの恋人をエミは放っておくことができない。スーパーでバイト中に彼女を見かけ、一緒に理想の場所を作ろうと声をかける。存在感の薄い主人公が突然まくし立てるシーンはかなり怖い。激高して去っていく女を見送り、笑顔を作るラストも。
5月7日(土)
『すばる』6月号がとどく。第26回詩歌文学館賞の発表。受賞のことばと財部鳥子さんの評、財部さんが選んでくださった5篇が載っている。真摯に受け止めたいと思う。
5月5日(木)
楊逸(ヤンイー)さんの『時が滲む朝』(文春文庫)を読んでいる。中国の民主化を志す大学生の日々を描いた小説。民主化をめざす中国の若い世代について知りたかったし、日本語を母語としないひとが書く日本語の小説というものに興味もあった。
巧みな日本語だが、かなりの頻度でにひっかかるものを感じてしまう。そこまで求めるのは酷だと思うけれど、スムーズに流れていかない。新聞でエッセイを読んだとき、ごつごつした文章だなと思った。この作家の資質と思考がこのような文体を選んだのだと思う。
5月1日(日)
法事のためO市へ。車中で岡田温司さんの『ジョルジョ・モランディ--人と芸術』(平凡社新書)を読む。モランディは同じような静物画を描きつづけたイタリアの画家。ドン・デリーロの小説『墜ちてゆく男』(上岡伸雄訳・新潮社)に出てきたので、気になっていた。
母の家に飾られたモランディの絵を主人公のリアンは好ましく思っている。母はモランディの研究家という設定になっている。
ボトルと水差しとビスケットの缶を配置しただけのものだが、その筆づかいには何かがあった。名状しがたい神秘。あるいは、花瓶や壺の不規則な輪郭に、何か内へ内へと探索していくものがあった。人間的で、漠然としていて、絵のもつ光と色からかけ離れたものが。
派手なエピソードのない修道僧のような一生。何の変哲もない壜や壺ばかりを描いたのはなぜなのか。孤高であること、自分の芸術を追究するという点で、ジャコメッティに通じるものがあると思う。
モランディの絵を日本で観ることはできるのだろうか。
4月26日(火)
岩木誠一郎さんの詩集『流れる雲の速さで』(思潮社)を読む。透明なまなざしが日々の暮らしのなかで移りゆくものを掬いあげ、何でもない風景が特別なものになる。矢野静明さんの挿画もすてきな、心温まる詩集です。
4月21日(木)
古内一絵さんの『快晴フライング』(ポプラ社)を買う。第5回小説大賞特別賞を受賞した作品。そのときのタイトルは『銀色のマーメイド』だったか。
中学の水泳部員が部の存続をかけて奮闘する話。読者をぐいぐい引きこむ魅力と筆力がある。ダメ部員たちの生き生きした会話がいい。謎の美少女やアフリカからの留学生、芸人志望の大阪弁など個性的な少年少女が登場する。爽快なスポーツ小説。最後は涙ぼろぼろでした。
4月19日(火)
2つのSNSを脱会した。メッセージを気にしたり書き込みに時間を割くことが重荷になってきたからである。詩を書くことに集中しようと思う。
「『一握の砂』から100年--啄木の現在」(現代詩歌文学館)を読む。昨年行われたシンポジウムを冊子にしたもの。啄木の
「へなぶり」についての発言、最近読んだ本のなかでも触れられていたのだが、どの本だったか。啄木の詩集は未読。書棚を探して「呼子と口笛」をひらく。
4月15日(金)
誕生月には詩を書きたくなる。で、草稿をひとつ。
住所録ファイルを作成。「筆ぐるめ」というソフトを使っているが、どういうわけかデータを送ることができない。コピーもできないのである。いろいろ試してみたけれど、だめなので、入力し直す。ひたすら打ち込む作業も悪くない。
たけのこを煮る。若竹煮と筍ご飯。年に一、二度のことなので、本と首っ引き。もったいなくて、えぐみのある部分まで使ってしまう。舌がしびれるのがわかっていても食べる。
4月11日(月)
チママンダ・ンゴズィ・アディーチェの『アメリカにいる、きみ』(くぼたのぞみ訳・河出書房新社)を読んでいる。ナイジェリア出身の1977年生まれの女性作家。表題作がすばらしい。ラゴスからアメリカに移ってきた溌剌とした若い女性を描いたもの。
「半分のぼった黄色い太陽」もよかった。ナイジェリア国内で起きたビアフラ戦争。裕福な暮らしから一転して難民生活を余儀なくされる家族の話。いくつもの悲劇に見舞われながら、たくましく生きる人々。希望がみえるラストに力をもらったような気持ちになった。
4月10日(日)
小手指周辺をウォーキング。桜を眺めながら10キロほど歩く。桜通り、椿峰ニュータウン、古戦場、砂川堀沿い。所沢にはまだまだ空き地がある。桜は美しいけれど、この時期の桑の木はすごい。ごつごつした幹が苦悩のようにねじれている。ゴッホの世界である。
4月9日(土)
二人の友人と新宿でお茶。詩人に会うのは今年初めて。とにかく力を尽くして詩を書かなくてはと思う。
4月5日(火)
『スーハ!』7号を読む。谷合吉重さんの「キクチの家」に惹かれた。八王子で旧友の家を探すという詩。ちょっとロードムービーのよう。陶原葵さんの「宙空温泉」は中原中也の弟さんに市内を案内してもらった若い日の思い出を書いたもの。長い月日をかけて熟成された名エッセイだと思う。
野木京子さんの「Zの記号」は発想も展開もおもしろい詩。大きなヒントをもらったような気がする。佐藤恵さんの「シモーヌ・ヴェイユ、柳田國男、黒田喜夫」は力のこもった論考。自分の勉強不足を恥ずかしく思う。八潮れんさんの「おもてなしは終わらない」はスーパーのレジ係の言動について書かれていて、そうだそうだと思った。いつからか両手を組み合わせて、ていねいにお辞儀をするようになったのを不思議に思っていた。
ゲストは中尾太一さん。「青梅市河辺町エッセイ部」はこの詩誌のありかたを評価しながら、外部者として率直な感想を寄せている。レベルの高さに圧倒されました。
4月1日(金)
今週は訳あって某所に3度出かけた。詩とはまったく関係のない数日を過ごす。車中で首都大学東京の現代詩センターが出している『詩論へ』3。北川透さんの「シュルレアリスムを超えるもの」を読む。鮎川信夫、大岡信、飯島耕一、埴谷雄高、ドストエフスキー、サルトル、ブルトン、ブランショが取りあげられている。
合間に福間健二さんの「ノンジャンル・トップテン」(2005年5月~2006年8月)。
3月27日(日)
高橋睦郎さんの『よむ、詠む、読む—古典と仲よく』(新潮社)。古典については勉強不足だが、折に触れて接する機会があるので、6つのエッセイをおもしろく読んだ。殊に「『源氏物語』の現在形」。わたしは最初の数巻をひらいただけの読者だけれど、かくも深い世界なのかと思った。登場人物たちの相関関係、因果応報の展開、男に翻弄された女に残された生き方などなど、紫式部の並外れた才能を再認識する。藤壺と六条の御息女が一つの人格であるという説に、そうだったのかと目が覚める思いがした。
また、「二人のスター」として在原業平と西行を論じていらして、西行ファンとしてはとてもうれしい。卒論は西行だったのだけれど、今ならちがうとらえ方ができるかもしれない。読み直してみようかと思っている。
3月25日(金)
友人が贈ってくれた大きなベゴニアの鉢。赤い花が殺風景なわが家を明るくしてくれる。朝のテレビで、ベゴニアの花言葉は「親切」「幸福な日々」であることを知った。つつましくてよいですね。雨に濡れたベゴニアもきれいです。
3月21日(月)
川越へ。観光客は少ない。新しい店がたくさんできたけれど、寄るのはいつも同じところ。沖縄の物産を扱う店とか。
3月19日(土)
お墓参り。実家の菩提寺は、豊島園にある「十一ヶ寺」と呼ばれる浄土宗の寺の一つ。関東大震災で被災した浅草在の寺が移転してきたのだという。
数年前までは、敷地内に高齢の女性の自宅があり、お花とお線香を売っていたけれど、その家が取り壊されて、葬儀関係の会社の社員らしいひとが仮テントの下で販売していた。痩せた小さな猫はどうしただろう。
3月18日(金)
今週はずっとリディア・デイヴィスの『話の終わり』(岸本佐知子訳・作品社)。おもしろい、というかデイヴィスの好きなひとにはたまらない魅力のある作品だ。若い男との恋を小説に書く女性の物語といったらいいだろうか。彼女は知的でシニカルであり、単なる恋愛小説ではない。内省的な作家の文章は、生真面目さがおかしさを生むことにもなっていると思う。
ときどきこの小説に、過去の自分、そして現在の自分まで試されているような気がすることがある。・・・当時の自分にじゅうぶん善があったなら、じゅうぶんな深みや複雑さがあったなら、努力しさえすればきっといい小説になる、ときどきそんな風に思ったりする。そしてもし私が人間として底が浅かったり心が邪だったりすれば、何をどうしようときっとうまくいかないだろう、と。
3月15日(火)
東北に知人がいるわけでもないのだが、胸がざわざわして落ちつかず、一つのことに集中できない。スーパーへ。品切れなのは牛乳や卵、大豆製品。冷凍してあった食材と乾物で、数日はだいじょうぶだろう。夕方からの停電に備えていたけれど、この地域は対象に入っていなかった。申し訳ないような気がする。
街には人の姿が少ないが、西武池袋線が動きはじめたので、明日は通常通りの運行になるだろう。
3月13日(日)
11日は新宿にいて、4時間タクシー待ちをし、10時30分頃に運転が再開されたと聞いて、電車で12時にようやく帰宅した。寒い夜だった。混乱もなく、人々は落ちついていて、駅員さんは的確に質問に答え、誘導してくれた。車内も混雑というほどのこともなく、静かだった。大人の街だと思った。
翌日ニュースを見て、東北の被害状況を知った。地震の怖ろしさを今まで知らなかった。二度とこのような地震が起きませんようにと祈るばかりです。
3月10日(木)
第26回詩歌文学館賞をいただきました。拙詩集を読んでくださった皆さま、ありがとうございます。思いがけないことで、ほんとうに驚きました。選考委員は高橋睦郎さん、財部鳥子さん、堀場清子さん。深く感謝いたします。
八木幹夫さんがお祝いの電話をくださいました。昨日は高橋睦郎さんと電話でお話をしました。たくさんの方がずっと見ていてくださったことを思い、気持ちを引きしめて書いていこうと考えています。皆さま、これからもよろしくお願いいたします。
3月7日(月)
立川へ。目的地になかなかたどりつけない。プリントアウトした地図を持ってきたのに。さんざん歩いて、駅の近くにあるのを見つける。徒歩9分と書いてあったけど、5分ではないか。
首都大学現代詩センターの『詩論へ』3。福間健二さんは2005年の月間ベストテンを載せている。『中空前夜』のタイトルを見つけて喜ぶ。
読みさしになっていたリディア・ディビスの『話の終わり』。面倒な恋の物語。面倒なのは女性の意識です。
3月3日(木)
小池さんの『弦と響』をおもしろく読み終える。群像劇といえばいいのだろうか。一章ごとに語り手が変わる、弦楽四重奏団の物語。メンデルスゾーンやベートーヴェンの曲が出てきて、聴いてみたくなった。演奏会やホールのことなど素人にはわからない裏方の話も挿まれていて、ヴィオラを弾かれる小池さんならではの小説だと思う。どことなく古風な語り口が解散コンサートを迎えるカルテットをくっきりと描き出している。
夕食は五目寿司とはまぐりのお吸い物、蓮根と鶏肉の蒸しもの、菜の花の辛子和え、ベビーリーフのサラダ。
2月26日(土)
『雨期』56号を執筆者に送る。ほっと一息。小池昌代さんの小説『弦と響』(光文社)がとどき、早速読みはじめる。
花粉、来ています。まだいつもより軽いけれど、これからゴールデンウィークまで続くのだろう。
2月24日(木)
中上健次の『岬』を読んだ。若い頃、読書会に誘われたが、作品の世界に入ることができなかったので断った。なぜだめだったのだろう。今回はすんなり入っていくことができた。とてもよかった。
無駄のない、歯切れのよい文章で自分の血を呪う青年をぐいぐいと描いている。血族がかたまって暮らす地。そこでは男の欲望がすべてを決め、女と子どもが犠牲になる。主人公の秋幸と三度の結婚をした母の存在が精彩を放っていると思った。
2月22日(火)
『小林秀雄の昭和』読了。ずいぶん時間がかかってしまった。読んでいるときはわかったつもりでいるのだが、それをひとに話そうとすると、断片的にしか伝えることができない。時間が経てば小林秀雄の全貌が立ち上がってくるだろうか。やっぱりもう一度メモを取りながら読もうと思う。
2月20日(日)
八国山緑地を歩く。ひとが少ないので少し走った。気持ちがよい。帰宅して横浜国際女子マラソンを見る。2時間走り続けるなんて信じられない。1キロ走ることができればそれでいいかなと思う。
神山睦美さんの『小林秀雄の昭和』。『本居宣長』を読んでおいてよかった。
2月16日(水)
朝吹亮二さんの『まばゆいばかりの』(思潮社)を読み始める。最初におかれた二つの「贈りもの」にみえる透明な哀しみのようなものに強く惹かれた。こういう詩を書いてみたいと思う。
朝吹さんは第一詩集『ショランダーは金髪だった』に感想をくださり、『空の庭、時の径』にも感想を寄せてくださった。『麒麟』はとてもまぶしい同人誌でした。
わたしの古い詩集を読みたいという方があり、できればさしあげたいと思ったのだが、残部がない。それで帯もなく少し汚れた自分のものを送った。うれしくありがたいことです。
2月11日(金)
朝吹真理子さんの『きことわ』(新潮社)。過去と現在と夢がごく自然に綯われていて、引きこまれ、一気に読んだ。あらすじを書くと何だか少女漫画のようになってしまいそうだけれど、甘さはない。貴子と永遠子は33歳と40歳という年齢で、互いに25年前を思い出している。端正な文章に造語めいたことばが混ざっているのもおもしろい。まだ感想がまとまらないのだが、才能のあるひとだということはよくわかった。『流跡』も読んでみようと思う。
2月10日(木)
『雨期』56号の入稿。印刷所は仕事が詰まっていて、できあがるのは2週間とのこと。差し替えようか悩んでしまいそうだ。
2月7日(月)
5日に高尾山に向かう途中、赤信号で停車していて追突された。交通安全のおまもりを買いに行くところだったのだが、もうすぐというところでの事故。交番の前で、おまわりさんが目撃していたこともあり、スムーズに片がついた。不幸中の幸いだった。後ろのバンパーが破壊されたので、そのまま修理に出した。
同乗者は首を痛めたが、わたしは何ともなかった。まあとにかく無事でよかった。
で、6日は電車で高尾山へ行き、おまもりを買った。これで安心。寒かった。こんな季節に行くものではないですね。でも数年前に来たときよりも観光地っぽくなっていた。冬そばキャンペーン中で、19の蕎麦屋が名物のとろろそばをPRしている。とろろそばを食べて帰ってきた。
2月2日(水)
速達で原稿がとどく。編集作業はほぼ終わっているけれど、追加は大歓迎。急いで入力する。あと少しというところでフリーズしてしまい、打ち直し。速達で校正原稿を送る。『雨期』56号には詩作品がたくさん並ぶことになる。ほくほく。
1月30日(日)
サッカーを見てから布団に入ったのだが、なかなか寝付けなかった。興奮していたのだろうか。いつもは横になれば数秒で眠れるのに。こんなことは年に何回かしかない。ほんとうにすばらしい試合だった。
起きてからからダイジェスト番組を見た。解説の福田正博さんが長谷部誠選手について「サッカーが男を大人にした」と言っていたけれど、夜に香川真司選手を追う番組を見て、なるほどと思った。自分の意志で外国のチームに入り、ドイツ語の習得に苦労しながら、プレーをしている。21歳なのに何て大人なのだろう。何かをやり続けることはひとを成長させる。過酷な環境であれば、なお一層。あたりまえのことだけれど、努力しつづけることができない若いひとをずいぶん見てきたので、彼らがとてもまぶしい。
1月28日(金)
『びーぐる 詩の海へ』10号がとどく。46人へのアンケート「心に残る歌」を読む。わたしも答えているので、まずは自分の書いたものをチェック。俳句や近代詩を挙げている詩人が多い。わたしも迷って、たくさんの詩集を読み返した。萩原朔太郎、パウル・ツェラン、ジョン・アッシュベリー、吉本隆明等々。で、選んだのが鮎川信夫の「兵士の歌」です。
1月23日(日)
青梅を通り抜けて、日の出町まで行った。今までで一番の遠出。昨日は武蔵村山のモールまで街中を走った。少しは自信がついた。もっともっと遠くへ行こうと思う。
1月20日(木)
藤原安紀子さんの『フォ ト ン』(思潮社)を読む。とてもおもしろい。きっとすでに多くのひとが指摘していると思うけれど、山本陽子さんの詩に近いものがある。ことばの音を大事にしながら、詩を書くことへの切実な欲望が表現されていると思う。
1月17日(月)
ぱくきょんみさんの『ねこがねこ子をくわえてやってくる』(2006年・書肆山田)を読む。柔らかな日本語、豊かな歌心と遊び心が楽しい詩集。それから『midnightpress』26号(2004年)に掲載された、ぱくさんがゲストの谷川俊太郎さんと正津勉さんの対談を読んだ。年末にお話したときにもことばに対する関心の深さを感じたけれど、あらためてことばや詩への思いを知ることができた。
1月16日(日)
毛呂山町にある鎌北湖へ。前に行ったときは秋で、人が多かったけれど、この季節は数人が釣りをしているだけで、周辺の店も閉まっている。窓ガラスが割れて無人にみえる建物も。ただただ寒く、湖を半周して帰る。湖ではなく貯水池だが、ひっそりとした佇まいがよく、ちょっとした観光地である。
1月14日(金)
小柳玲子さんのエッセイ集『詩の旅 絵の旅』(書肆クリシェ)を読む。西日本新聞に連載したエッセイをまとめたもので、写真や絵がたくさん入った美しい本。
「『詩学』の終焉」、ベルギーのちょっといい美術館、戦時中の食べ物の話、中原中也の恋人だった小林泰子さんが、小柳さんの画廊を訪れた話(「魔法使いのおばあさん」というタイトル)など、興味深い話がたくさん。小柳さんのちょっとシニカルな口調がすてきです。
1月10日(月)
『真鶴』読了。失踪した夫が残した日記に書かれていた「真鶴」。真鶴行きと、妻子ある恋人との逢瀬をくりかえす京。彼女についてくる女の〈気配〉。むずかしい年ごろの娘と京を案じる母親。おもしろいと一口にいうことはできない。川上弘美さんの苦闘を見ているような気がする。長編小説を書くことの苦闘。
1月6日(木)
年末に聞いた某氏の「川上弘美の最高峰は『真鶴』だ」ということばに、早速読み始めた。短編はほのぼのと楽しい作品が多いが、これは違う。〈矯め〉が効いた文章。主人公である京の、娘を眺めるまなざしの冷徹さ。川上弘美さんは詩人だと思う。
1月4日(火)
青梅へ。風が冷たい。釜の淵公園を散策する。小さな郷土博物館や重要文化財の「旧宮崎家住宅」がある。長い橋の下を川が流れている。冬らしい寒さが心地よい。何があるというわけでもないのだが、先月にも青梅に行った。山と川に吸い寄せられるように、郊外に出かけてしまう。
1月3日(月)
1日は父の新居へ。2日は来客があり、ようやく初詣。昨年はすごい人出だったけれど、参道の屋台も少なく、ひっそりしている。