わたしの今年の3大ニュース。
1 詩集を出したこと。
2 ずるずる付けていた若葉マークを取ったこと(すみませーん、でも違反じゃないんですよね.。付けていていいことはなかったような気がするなあ。なめられるだけだし。もっと早く取ればよかった)。
3 『雨期』が20年めに入り、40号が出せたこと。
今年は十数年ぶりに自宅でお正月を過ごすので、これからおせちを作らねば。
みなさま、当サイトをご覧いただき、ありがとうございました。来年も気合いを入れて書きますので、引き続きよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。
『詩学』1月号に、わたしの「すばらしい世界」という詩が載っている。うまくいったとはいえないのだが、ずっと考えていたことを詩のかたちにすることができたと思う。興味のある方はぜひ読んでください。
『雨期』40号ができあがる。今月中に何とか間に合ってよかった。発送は来週になります。みなさん、今しばらくお待ちください。
夕食は、ミートローフのマッシュポテト包みとカナッペ、チコリのサラダ。シャンパンとチーズケーキ。
ニューヨークの山本テオさんから、クリスマス・カードとポール・オースターのインタビューのコピーが届く。カードを開くと、小さな天使が3人ぱらりと落ちてきた。心憎い演出です。
新しいパソコンがきた。プリンターもひどい状態だったので、新しいものに代えた。で、環境が整うまでは、更新ができそうにない。実はとってもメカに弱いのである。
今週は、まとめて日曜日にアップする予定です。
支倉隆子さんが主宰されている「銀座詩話会403」へ。「レトロなビルの一室」というので、どんなところだろうと楽しみにしていた。石の階段を上っていく。石の廊下、共同トイレ。「アパルトマン」という雰囲気で、とてもすてき。
参加者が自作の詩を朗読し、みんなで感想を言い合う。緊張感が心地よく、学生時代を思い出した。
きょうのゲストは野村喜和夫さんとわたし。「ザクロ」と「夫の記憶」を読む。
野村さんは「スペクタクル」という長編詩。いただいたコピーを目で追いながら、ソフトなお声を聞く。「ありがとう、ありがとう猿、」で始まる、祝祭のように楽しい詩。
注に、「いわゆる9.11とは何の関係もないか、あるいはかすかに事後的な関係が認められるにすぎない」とあるので、もう一度それを頭において、読んでみた。すると、反祝祭の詩のようにも思えてくる。「注」があるので、二通りに読める。さすがです。
支倉さんは、ギターと歌をバックに、「浮島」を朗読。
<すすり泣き><寡婦><寒い>と
その島は呼ばれる 仮のよび名だ
冒頭から謎めいていて、引き込まれてしまう。すごいなあ。支倉さんの詩はどれも大好き。
フレンドリーで真剣なやりとりが3時間続いた。ギターの弾き語りとフルートの演奏もあり、ワインとシェリー酒もいただく。とても楽しいひとときでした。
ポール・オースターの『リヴァイアサン』(柴田元幸訳・新潮文庫)を買う。いつも指をくわえて見ていたのだが、やっと文庫になってうれしい。これは年末の楽しみにとっておこう。
夕方ニューヨークの山本テオさんからメール。古い雑誌にオースターのインタビュー記事が載っていたと教えてくれた。同じ時刻にオースターのことを考えていたと思うと、とても不思議。
財部鳥子さんの詩集『モノクロ・クロノス』(思潮社)を読む。文句なしにすばらしい。繊細にしてダイナミック。財部さんの詩を読むといつもそれを感じる。
輝くひかがみを持つ男があなたの骨の下にもぐり込み
きみの体にはおおきな瀧があるねといいざま
そこからあなたの水杉の樹にのぼっていく気配
くすぐったくて身をよじる (「水音の変奏」冒頭)
ちょっとエロチックな物語の予感。この男は、宇宙を背にのせた亀を追っているというのだ。
ないものをある あるかもしれない
憶測ーこの謙虚で小心な言葉は
人の世に
居すわっていていいのだった (「落魄」部分)
こどばは自由で、説得力がある。そして何よりも魅力的。中国生まれの財部さんの詩は、わたしたちを異境にさらってくれる。想像力のありったけを総動員して、読者はその世界を飛び回ればいいのだと思う。
『愛しのローズマリー』を観る。グィネス・パルトロウ主演。面食いの男が催眠術にかかって、性格のよい人がすてきに見えるようになるという話。パルトロウは実は136キロの社長令嬢役。かなり楽しめる映画でした。
いちばんすてきなのが、最後のクレジット。撮影中のスナップがどんどん映って、音楽はなつかしいエジソンライトハウスの「恋の炎」。60年代の大ヒット曲です。
昔のテレビ番組『モンキーズ』、最初のコカコーラのCMを思い出す。写真がパタパタ変わるだけで、画面に釘付けになったものだ。映像でなくても、動きが見えてくるように感じられるのですね。
監督は、ボビー&ピーター・ファレリー。『メリーに首ったけ』も彼らの作品だそうで、納得。
『雨期』40号の入稿を済ませる。一年に二回の幸福な日です。
ホームページを開いたことで、書きたいという欲求がかなり満たされるようになった。でも詩誌は別もの。どんなにゆっくりのペースでも、作り続けたいと思っている。
といい気持ちになっていたら、印刷所から電話。印刷がよくないので、、版下には使えないとのこと。
昨日プリントアウトしていたら、紙が詰まって、取り出すのに1時間もかかったのだ。プリンターがだめになったんですね。ショック。結局原稿はメールで送ることで落着する。
俊さんのHPでは、お正月まで百人一首でカウントダウンをしている。俊さんのHPはここ。取り札が木札である。北海道ではごくふつうとのこと。
わたしも欲しいと「めしさん」のHPに書いたら、俊さんがいろいろ調べてくれれた。先日北海道の玩具店に注文した品が届いた。薄い木の皮を想像していたのだけれど、厚さ6ミリの板である。感激。家宝にしようと思います。
誰も踏んでいない雪の上を歩く。キシキシという感じが好き。砂利や神社境内の石の上を歩くのも気持ちいい。
ずいぶん前のことだが、つわりがひどくて、お酒はもちろん食べるのもつらかったとき、お風呂だけが楽しみだった。入浴剤を入れ、溶ける前に入る。ざらざらした粒を足裏に感じるのが、最高に気持ちよかった。
『ハリー・ポッター』を観る。前作に感じられた冗長さがなくて、よかったと思う。ただ、クモのシーンは少し手抜きのような気が。
コエーリョの『アルケミスト』を読んでいる。羊飼いの少年の話。シンプルだけれど、なかなか奥が深い。若い人たちに読んでもらいたい本だと思う。
冷たい雨の日。ミッドナイトプレスの忘年会へ。去年のスピーチで、詩集を出しますと言ったのだった。この一年は早かったなあ。
根本明さんの司会で、楽しい時を過ごす。スタッフの方にお会いできるのも、うれしい。この温かさから『詩の雑誌』が生まれるんですね。生ガキがおいしかった。
帰宅して、さらにワイン。久々にMが作った「あんきも」を食す。珍味です。
きょう発売の『詩の雑誌』(ミッドナイトプレス)18号に、わたしの「特別な一日」という詩が載っている。
物足りないと思う方もいると思うけれど、新たにスタートする気持ちをこめて書いた。わたしの性格と詩の書き方がわかると思う。朝の支度についても。興味がある方は、ぜひ読んでくださいね。
また、福間健二さんが「詩は生きている」で、『至上の愛』についてたくさん書いてくださった。福間さんは、わたしが秘かに師と仰ぐ詩人なので、とてもうれしい。
昨夜遅く、「うろこシティ」の清水哲男さんの書き込みで、吉原幸子さんがお亡くなりになったことを知った。
13年前に、大久保にある吉原さんの「水族館」で初めてお会いした。確か「全国の同人誌」の集まりで、征矢泰子さんや國峰照子さん、小池昌代さんもいらしていた。初夏だったと思う。
吉原さんは美しい少年のような方で、「詩のサロンを作りたい」とおっしゃったことを覚えている。わたしはそれを聞いて、ちょっとびっくりしたのでした。まだ無名だったわたしの詩集のタイトルをご存じだったので、感激したことも。
『ラメール』の会員ではなかったのだけれど、何度か書かせていただいた。吉原さんの詩は大学時代に熱心に読んだけれど、その頃はあまりいい読者ではなかった。今なら、ちがう読み方ができるかもしれない。これから吉原さんの詩集をひらいてみようと思う。
心からご冥福をお祈りいたします。
きょう発売の『現代詩年鑑』に、わたしの「かきまぜられた場所」が掲載されている。「今年度の収穫」に挙げてくださったみなさんに深く感謝します。
この一年、他の詩人の作品をあまり読んでこなかったことを反省。ずっと気になっていた方の詩を読むことができるし、新しい住所もチェックできる。
この号を見ると、12月が来るのだなと思います。思潮社の方々、ありがとうございます。
きょうは会議も何もないので、詩集のお礼状を書こうと決めた。朝からがんばって、2冊がやっとだった。
北爪満喜さんの『ARROW HOTEL』(書肆山田)と金井雄二さんの『今、ぼくが死んだら』(思潮社)。
北爪さんの夢のような空間をそっとのぞき、金井さんの翻訳短篇小説のような楽しい詩を読んだ。
パウロ・コエーリョの『アルケミスト』(角川文庫)を読み始める。書店で買おうかどうしようか、いつも迷っていたのだけれど、山本テオさんが「いいですよ」と言っていたのを思い出した。
『雨期』の編集作業のまっただなか。何とか詩を書いて、毎日手を入れている。その続きを夢で見た。出てきた人の声も服の色もリアルだった。でも作品はそのままにしておこう。
「スパイダーマン」を観る。何かすかっとしない。女の子は演歌歌手みたいだし、コスチュームは安っぽい。中途半端なハッピーエンドもわたしはちょっと不満。
なんであんなに話題になったのか、とても不思議。子どもには受けるかもしれません。
タゴールの『もっとほんとうのこと』(内山眞理子編訳・段段社)を読んでいる。魂というものに触れた、宝石のような10の物語。子どもや本を読まない人にも勧めたいと思うような本。タゴールはアジアで初めてノーベル文学賞を受賞したインドの詩人。
段段社の坂井正子さんを知ったのは十数年前。新聞にアジアの本を翻訳して出している小さな出版社の記事が載っていて、早速本を注文した。これからはアジアだと思ったのだ。
家がすぐ近くということがわかって、お会いすることができ、それから段段社の本を読むようになった。アジア諸国で、ふつうの人々に読まれている作家の作品を知ることができます。
雑誌に「60分でわかるハングル」という特集があったので、それを読みながら自分の名前を書いてみる。「g」と「k」の書き分けがよくわからない。
寝る前に昨夜もやってみのだが、パズルみたいで、なかなか楽しい。本気で勉強してみようかなという気持ちになってくる。
夕食には、下の娘(12)が粉をこねてパンを焼き、スープとサラダを作ってくれた。極楽です。
今週は『雨期』の原稿を仕上げるつもりで、朝からパソコンに向かう。「読書日記」を書くために、また本を読み返したりするので、時間がいくらあっても足りない。
ジェイン・アン・フィリップスの「レイミー」(『ファスト・レーンズ』篠目清美訳・白水社)を読む。もう何度読んだことか。大好きな短篇である。今のところわたしのベスト1です。
Mがいないので、夕食は簡単に済ませ、お酒もあまり飲まず、夜は早く眠る。
Mは明日からシカゴ出張なので、夕食は肉じゃが、カキのみそ鍋、お赤飯。
八木幹夫さんの『夏空、そこへ着くまで』(思潮社)は、すばらしい詩集である。「家族の愛の物語」と呼んでもいいのではないかと思う。お嬢さんの一人がアメリカで結婚し、新しい暮らしを始めたことを心配しつつ、深い愛情を持って見守る父親の姿に、胸が熱くなった。
また、詩人がお盆に両親のことを思い出している詩もとてもいい。
井戸水を汲む音
祭りの太鼓
西瓜が台所で割れる音
一升瓶からお酒が徳利に注がれる音
父さんがもらってきた寿司折の包み紙を開く音がします
(「帰宅」部分)
「トクトク」「カサカサ」などの懐かしい音が聞こえてくるよう。祖母の家には井戸があった。水の出る口は手ぬぐいで覆ってあり、そこがふくらむのがおもしろくて、いつまでも見ていたなあ。
「至上の愛」というタイトルの作品もある。これは、コルトレーンの「ア・ラヴ・シュプリーム」のほうだけれど、八木さんが電話でそのことを話してくれたときには驚いた。お嬢さんの義理の父にあたる人がかけてくれたレコードが、「至上の愛」だったという。
生きていると、悲しいことが次から次へとやってくるけれど、八木さんは、それを受けとめて大切にしている、大事な思い出にしようと心を砕いている。詩っていいものだなあと思わせてくれる詩集です。
銀座のスルガ台画廊へ。宮崎真弓さんの個展を観る。宮崎さんは小学校の同級生で、抽象画の画家。
すべての絵が海をテーマにしたもので、大きな色のピースを組み合わせるようにして描かれている。大胆な構図だが、作品は繊細。
数年前からスキューバダイビングにのめりこみ、ずっと海の絵を描いているという。泳げないわたしには想像もつかない世界だ。
ざっくりした、あるいはざらついた質感がある。絵の具に砂を混ぜているのだそう。思わず触わりたくなる。青を基調に、赤がさまざまなニュアンスを加えて、吸い込まれるような海の魅力を展開している。絵を文章で説明するのはむずかしい、というより、わたしがその絵を理解できているか心許ないのだけれど。
数年前の春、版画家の古内美也子さんと上野の美術館でピカソを見た。そのあと館内の喫茶室でお茶を飲んだのだが、大きな窓の外の樹木を眺めながら古内さんは、「どんな絵もあの木にはかなわないわ」と言った。
そのことばは、まっすぐわたしの胸にささった。自然の圧倒的な美しさと力。それを知っているひとが芸術家だと思った。もしかしたら、芸術の世界においては定説なのかもしれないけれど、身近なひとが言ったので、ことばの意味を実感することができたのだと思う。
宮崎さんの絵の前で、そのことばをもう一度受けとった気がした。
ちょっと先の話ですが、12月22日(日)、支倉隆子さんが主宰なさっている「銀座詩話会403」にお邪魔することになりました。
3時から5時まで。場所は「銀座一丁目のレトロなビルの一室」、参加の方は、10分以内の詩またはスピーチと500円を用意してきてくださいとのこと。興味のある方はぜひお出かけください。
支倉さんの詩は、とても好き。ちょっと呪術的なところがいいんです。
川越へ。長いふがしを2本持っている中年夫婦を何組か見かける。昨日、『アド街ック天国』で川越の特集をしていて、ふがしを買うと、100円分の駄菓子をおまけに.つけるという宣伝をしていたのだ。
きょうは菓子屋横町(いいとこだけど、いつも人がいっぱい)には行かず、商店街を歩く。ここもすごい人。ショッピングは久しぶり。中国茶とアイビーの小さな鉢を2つ買う。それからお肉屋さんのコロッケ。
車中では、須賀敦子さんの『地図のない道』(新潮文庫)。須賀さんの作品はほとんど読んでいる。深い知性と美しい日本語。手垢のつかない、でも独りよがりではないことばをていねいに綴っていて、ほんとうにすばらしい。日本の宝といってもいい作家だと思う。
藤本和子さんの『リチャード・ブローティガン』(新潮社)を読んでいたら、「ブローティガンが生きのびたのは想像力のおかげだった」という一行があって、とてもうれしくなった。
ブローティガンは愛されることなく育った。『未発表作品集』の「トムの魂」(わたしは未読)について、藤本さんは書いている。「トムの恐れおののく孤独な魂が望んでいたのは愛だけだった。暗闇の記憶がすべて消えてなくなるまで、腕をまわし抱いてくれて、接吻してなでてくれる一人の女性がいてくれたらという望みだった」
わたしが大人になって、今こうしているのも、想像力のおかげだと思う。人の道を外れずにいるのも、想像力のおかげだと思っている。
八木幹夫さんの詩集『夏空、そこへ着くまで』(思潮社)を読む。すばらしい詩集である。読み終わって今、静かな感動がやってきている。もう一度読んでから、感想を書きたいと思う。
寒くなってきたので、猫のルドルフはすぐに膝にのってくる。そして眠ってしまう。9キロもあって重い。むっちりした猫である。
膝の上に横にのっていたのが、縦に位置を変えると、危険信号。わたしのTシャツを吸う。チュパチュパ吸いながら、前足で布をつかんだり放したりする。爪を立てているときは、穴があいてしまう。
おっぱいを吸った記憶があるのだろうか。これはタオルやタオルケットでもやる。当然びちょびちょになり、わたしは困る。でもお母さんを思いだしていると思うと、かわいそうで取り上げることができない。洗えばいいんだものね。
ルドを拾った次の朝、子どもがいた場所を母猫が探しに来ていた。4階の窓から見ていたけれど、どうすることもできなかった。
この季節になると、猫はわたしのふとんの上で眠る。なかなかうれしい。
ブローティガンの詩を一つ紹介。
彼の髪にさわる彼女の手のことを
思っただけで
ぼくは吐きたくなるのさ。
「ぼくらのすることはみんな関係があるのだ(『突然訪れた天使の日に』・中上哲夫訳・思潮社)」全行
ほとんどの詩がこんなふうである。ウィットに富んでいる、といえばいえる。でも、どうなんだろう。これでは汗を流していないではないかとわたしは思う。
中上哲夫さんのあとがきは、ブローティガンをよく説明してくれている。この文章がなかったら、読み捨てていたかもしれません。
きょうは久しぶりに「会議」(学校の役員をやっていて、これにかなり時間が割かれる)のない一日だった。
メールを3通、短い手紙を2通書く。『雨期』の校正ゲラ(原稿用紙29枚分。数日かかって仕上げた)をさっと読んでから、執筆者の一人に送る。その間にコーヒーを2杯(と決めている)飲み、洗濯と皿洗い、掃除と買い物をする。
朝は洋風と和風2種類の朝食を作る。おみそ汁のだしは鰹節を削って取る。子どもの頃は、祖父の使い古したカンナを使った。「鰹節けずり」と違って、カンナには台というか枠がないので、斜めになっている状態で削るのが大変だった。「鰹節削り」を見たときは、こんなに便利なものがあるのかと思いましたね。
わたしは朝は絶対トースト。朝食は儀式のようなものであるから、それは崩せないのです。紅茶にハムかチーズ、卵など。それに自家製ヨーグルト。毎日同じものを食べても飽きないタイプ。家族がいなかったら、料理しない人間になっていたでしょう。
ブローティガンの詩集を読む。軽いつぶやきのような詩。ブローティガンは、自分の書きたいこと、自分の詩はこれだと信じて書いたのだろうか。あるいは、周囲が彼に要求していることに応えるように、書いたのだろうか。どちらも外れではないと思うのですが。
それにしても、自殺して1ヶ月後に発見されるなんて、ひどく悲しい話である。
今週は、めしさんがチェックしてくれるので(ありがとう)、毎日書きます。よろしく。
「雨」のお香を買う。甘い雨の匂い。雨が降って、ほこりっぽい空気が湿っていく匂いを嗅ぐと、なぜか切ない気持ちになってくる。
ステックに火を付ける瞬間が好きである。香りよりも、火を付けたくて、お香を買っているみたいなもの。ちょっとヤバイかも。
最近は、「風」とか「月」の匂いがするというキャンドルも売っている。で、「雪」を買ってみた。短くて太いろうそくが、和紙でおひねりのように包まれている。
いいことがあったときに、付けようと思う。ささやかな贅沢です。
所沢の古書市へ。オーデン、ブローティガン、飯島耕一さんの詩集を買う。欲しかった本ばかり。
ブローティガン『突然訪れた天使の日に』の訳をしているのは、中上哲夫さん。オーデンの解説を書いているのは、福間健二さん(訳は中桐正夫さん)。
藤本和子『リチャード・ブローティガン』(新潮社)を読んでいる。先日『芝生の復讐』を読もうとしたのだが、まったく歯が立たなかった。というより理解しようという気持ちになれなかった。
でも『愛のゆくえ』は、風変わりな図書館が舞台の、なかなかよい小説だったので、他の作品も読んでみようと思った。
手がかりに、ブローティガンのほとんどの作品を翻訳している藤本さんの解説書(といってもいいだろう)を読むことにした。
49歳で自殺したブローティガンの一生を追っていくと、悲しい気持ちになってくる。実の父を知らず、母親に愛されることのなかった幼少年時代。半端ではない貧困。
プロローグで、ジュリア・クリステヴァのことばが引用されている。「母親を離れる者は異邦人になる」。なるほど。そしてものを書くようになるのだろうと思った。
この一週間に観た映画『バニラ・スカイ』『ナチュラル』『オーシャンズ11』。なかでは、『バニラ・スカイ』がよくできていると思った。テンポが速いし、トム・クルーズ、キャメロン・ディアス、ペネロペ・クルスという豪華なキャスト。
でも、種明かしが最後の最後。「そういうことだったの」という感じで、何だか拍子抜け。途中で伏線がいくつかあればよかったんじゃないかと思う(わたしが気がつかなかっただけかも)。
ところで、トム・クルーズの顔、わたしはどうしてもモンキーズのデイビー・ジョーンズと重なってしまう。クルーズファンのみなさん、すみません。
ザクロを買う。アメリカ産。1個298円というのは高いのか安いのか、よくわからない。一度だけ、庭になったのをもらったことがある。皮が裂けているワイルドな実だった。酸っぱくて、不思議な食べ物だと思った。
アメリカ産は、大きくて甘い。一粒一粒が紅色で透き通っている。
ギリシャ神話にザクロが出てくる。冥界の王ポセイドーンに地下界に連れ去られたペルセフォネは、ザクロを食べさせられたために、完全な地上復帰が不可能になったという話。一年の3分の1を地下界で、残りを地上で過ごすことになってしまう。
古来より、ザクロは冥府の食べ物といわれていたそうである。拙詩集『至上の愛』にも「ザクロ」という詩があります。
内田樹の『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)を読んでいる。タイトルからわかるように入門書で、かなり話題の本らしい。
わかりやすく、おもしろい。内田教授は1950年生まれ。えらそうな文章でないところがとてもいい。
今まで「構造主義」と聞いただけで、ちょっと退いていたのだけれど、もうだいじょうぶと言えるようになりたいです。
お香が好きで、毎日スティックに火をつける。お線香でもいいが、うちには仏壇がない。で、某M印で買ったものを、うずまき貝型のスタンドに立てている。
ヒノキとかラベンダーが落ちつきますね。雨の匂いのお香というのがあるらしいので、近々試してみようと思います。
リチャード・ブローティガンの『芝生の復讐』(藤本和子訳・晶文社)をやっと図書館で見つけた。でも読んでみてがっかりした。薬をやっていたとしても、このでたらめさはどういうことだろう。
ここには文学のようなものがあるだけで、掬いとれるものは何もないと思った。単なる小銭稼ぎの仕事としか思えない。
今週は詩を二つ書かなくてはならない。1か月前からがんばっているのだけれど、うまくいかない。で、習作ファイル(ファイル名は「10時」。一通りの家事が終わって、パソコンの前に座るのが10時なのです)から、幾つかピックアップして、それに同時に手を入れていくということをやってみた。
何とか作品に仕上げられそうです。
ずっと拉致被害の方のニュースを見ていて感動したのが、浜本富貴恵さんの「朝鮮語を勉強して、生きてやろうと思った」(正確ではないかもしれません)ということば。一年間泣いた後、浜本さんはそう決意したという。
人間は、どんな環境におかれても本能的に生きようとする動物だが、実際に精神的などん底からはい上がってきたひとのことばは、重く深い。
朝日新聞の朝刊に、『海辺のカフカ』は傑作かというタイトルの記事が載っていた。加藤典洋、宮台真司、坪内祐三が批評を書いている。
「村上さんあなたもしょせんは全共闘世代ですかと毒づきたくなる」という坪内さんの文章は、解せない。そのように書かれてはいないと思うだが。
「今時の15歳の少年がソーダ・クラッカーが好きなのも不自然」というのも、つまらない感想だと思った。
だいたい、15の少年を主人公にしたことに無理があって、ところどころに村上春樹自身が顔を出してしまうのはしかたないですよね。音楽や文学、服のセンスは15歳のものではないし、何だかずるいなあと思う。
言いたいことはいろいろあるけれど、これは傑作であり、「生きる力」を強くしてくれる小説だと思った。これまでの村上春樹の作品にはない明るさがある。未来に向かって開かれていると思う。
少年が1人で生きていこうとして、いろいろな窮地に陥るたびに、わたしも自分ならどのように考え、行動するだろうかと考えた。家出するときに何を持っていき、宿をどのように探し、世界一タフな15歳になるために何をすればよいか。
ただ、佐伯さんが少女になってあらわれる場面は、少年と佐伯さんの存在感も意識も希薄で、物足りないように思った。
「Urokocity」(清水鱗造さんのページ)で知り合った飯さんが、『至上の愛』について書いてくださっています。
若い女性はこんなふうに読んでくれているのだなあとうれしく、続きが楽しみ。ぜひご覧ください。飯さんのHP「Myau favorite site」はここ。
お弁当を持って、立川の昭和記念公園へ。コスモスが花盛り。コスモス畑の回りに人が群がっている。
コスモスは、草地にぽつんと咲いているのが似合うと思うなあ。20歳の頃、北海道の野付半島でコスモスを見た。草とコスモスの向こうに地平線があった。ちょっと忘れられない風景です。
園内はとても広いので、いつもはレンタサイクルで回るのだけれど、きょうは歩いて移動。
ハーブガーデンが新しくできていて、これは市民ボランティアが管理しているのだそう。
気持ちの一日だった。車中で、村上春樹の『風の歌を聴け』を読む。昔はさわやかな小説だと思い、開放感を感じたけれど、今読むと重い。「僕」と「鼠」の先をわたしが生きてしまったからだろうか。
Mと神田・お茶の水あたりを歩く。学生時代をお茶の水で過ごしたのに、聖橋やお茶の水橋を渡ることはほとんどなかった。で、初めて神田明神、湯島聖堂、湯島天神へ行く。
湯島聖堂は、寛政年間、諸藩の秀才が集まる最高学府だったところ。中国風の建築であるが、屋根の上、というよりも斜面に、一対のガーゴイルのようなものが置かれていて、とても気になった。
調べてみると、「鬼龍子(きりゅうし)」という、中国の狛犬のようなものであるらしい。亜鬼邪神が内部に入らないように見張っているのだそう。猫のようにも見えるが、龍が生んだ九匹の子のうちの一匹で、高くて危ないところが大好きなのだとか。
「やぶそば」でせいろ。テレビや新聞でよく紹介されている、格調ある佇まいの店。門から少し奥まったところにあり、店内から眺められる庭や古風な電灯には一見の価値があります。
それからニコライ堂のあたりをぶらぶら。昔、道路を隔ててこの向かいにあった「max」という喫茶店は、夕方になると窓にニコライ堂の明かりが映って、その時刻がとても好きだった。
お知らせするのが遅くなりましたが、関富士子さんが、拙詩集について書いてくださいました。関さんのサイト「rain tree」はここ。
同性ならではの深い、ていねいな読み。当たってるなあ。関さん、ありがとうございます。わたしの詩がむずかしいという方も、関さんの文章を読めば、すんなりわかってしまうと思います。
ぜひ読んでくださいね。
昨日は地区運動会だった。付近の住人なら誰でも参加できる。幼児からお年寄りまで、企画から後かたづけまで、すべて手作りの運動会である。
3時間ほど賞品を渡す手伝いをした。朝起きたら、背中が痛む。ただ立っていただけなのに。
姿勢が悪いのだろうか。そうだとしたら、長い時間立っているというのは以外とむずかしいことなのだと思う。ふだん身体を動かすことがほとんどないということもあり、ちょっと考えてしまった。
というわけで、きょうからストレッチをやることにした(毎年、涼しくなると始めるのだけど)。スクワットもやって、タフな○○歳の女になるのだ。
村上春樹の『海辺のカフカ』を読み終える。二つの物語が並行して進行するのだが、どちらもスリリングに展開し、すばらしくおもしろい。
昨日『マトリックス』を見ていて、もしかしたらこの映画がヒントになって書かれたのではないかと思ったのだが、それについてはもう少し考えたいと思う。
二つの話は関係があるようなのに、すべてが曖昧なまま閉じられてしまう。ナカタさんの身に起こったこと、先生の長い手紙、ジョニー・ウォーカーと彫刻家、カーネル・サンダース、さくらと佐伯さん、田村カフカのシャツについていた血等々。なぞはなぞのまま、正体はどれ一つ明らかにされない。
けれども物語は楽しんで読めばそれでいいのだろう。少年は、旅先で出会った人々から生きる力をもらう。これは、孤独な少年が生きる意味を見いだすまでの心の旅の話である。
関富士子さんが、『rain tree』の「閑月忙日」に、29日の集まりについて書いてくださった。写真もたくさん載せていただいたので、お時間のある方はぜひご覧ください。関さんのHPはこちら。
詩集を読んだ方から、「再婚したのですね」というおたよりをいただいた。ち、ちがいます。
先週の当HPの表紙に「林檎の木の下でまた明日逢いましょう」という歌のことを書いたら、桐田真輔さんが「林檎の木の下で」という曲で、歌は伊東ゆかりという情報をくれた。
でもCMで流れている声は、少しちがうような気がすると話していたら、昨日、倉田良成さんが『上海バンスキング』の挿入歌で、吉田日出子が歌っていると教えてくれた。
ありがとうございます。ぜひ聴いてみます。
関富士子さんが布村浩一さんとわたしの合同出版記念会を企画してくださり、西新宿のイタリア料理店に20名の方が来てくださった。
岡田幸文さん、山本かずこさん、福間健二さん、山本楡美子さん、小池昌代さん、寺西幹仁さん、清水鱗造さん、青木栄瞳さん、長尾高弘さん、駿河昌樹さん、桐田真輔さん、倉田良成さんと奥さま、水島英己さん、木村和史さん、金井雄二さん、井田ゆき子さん、お忙しいなか、ありがとうございました。
みなさんからスピーチをいただき、とてもうれしく楽しい夜でした。二次会の「ユニテ」で、足立和夫さんとtikiさんが合流(ユニテについては、清水さんのHPに詳しく書かれていますので、ご参照ください)。
帰宅して、ビールを1缶飲み、山本かずこさんからいただいた白いバラを花瓶に挿し、『海辺のカフカ』を少し読んでから眠りました。
明日から、また身を入れて詩を書きます。
カズオ・イシグロの『日の残り』(土屋政雄訳・早川書房)をやっと読み終える。イギリス貴族の屋敷で執事をしているスティーブンスが主人公。
主人に全身全霊で仕えるスティーブンスは、ジョークのセンスもなく、女性が苦手で、ひたすら生真面目である。その彼が、以前女中頭をしていたミス・ケントンに手紙をもらう。そこに彼女の不幸を感じたスティーブンスは、休暇を取って、ミス・ケントンに会いに行く。
1954年生まれのイシグロが、なぜこういう小説を書いたのか、ほんとうに不思議。
原文はどうなっているかわからないが、「〜ますまいか」という語尾が多用されているのが気になる。執事という仕事柄だろうが、何だか尊大な感じがして、読者がスティーブンスに好感を持てなくしているように思えてならない。
娘たちがとてもいいというので、江國香織の『流しの下の骨』を読む。
家族の話である。ちょっと変わった母親とふつうの父親と4人姉弟。少女小説という感じ。感じと好みと気分が描かれていると思った。
この人の作品は、『きらきら光る』と『香ばしい日々』を読んだけれど、どちらかというと苦手。
今の若い女の子たちは、こんなふうに夢心地で暮らしたいと思っているのだろうか。
三谷幸喜監督の『みんなの家』を見る。一組の夫婦が理想の家を建てるまでを描いたコメディー映画。設計を依頼したデザイナー(唐沢寿明)と、昔気質の大工(田中邦衛)の対立が中心になっている。
うーん、笑えるところはいくつもあるのだけれど、日本的な湿った笑いが出るだけなのが、惜しいなあ。スケールが小さいのである。実際に家を建てたのに、家の出番が少ないのも、もったいない。
前作『ラジオの時間』も見たけれど、この人はやはりテレビの人なのではないかと思った。
村上春樹『海辺のカフカ』を読み始める。孤独な15歳の少年が主人公。いくつかの物語が並行して展開する。
細部には、いつものように村上春樹独特のスノビズム(モノに対するこだわりといってもいいかな)が漂っている。そういうところも好きです。
幕張メッセで開催中の「恐竜博」へ。すごい人出。50分も並んでやっと入った会場も身動きができないくらい混んでいる。
恐竜の骨がたくさん展示されている。大腿骨や鎖骨の骨、身体の形に組み立てられた骨。ほとんどが骨である。
いちばんおもしろかったのが、ジュラ紀の森を再現した小さなスペース。本物のシダなどが持ち込まれて、古代の空気をほんの少しだけ感じることができた。
目で見るだけでなく、身体で感じる展示がもっとあれば、と思ったのだけれど、みなさんはいかがでしょうか?
昨夜、「0911・カメラはビルの中にいた」という番組を見た。全世界同時公開という。
見習い消防士を追いかけていた写真家のカメラが、偶然この事件に遭遇したというものなので、消防士たちが主役になっている。
ビルに駆けつけた消防士たちが、指示を待って、ロビーで右往左往している。情報が少なくて、対策が決まらないのが、その間にも、窓から脱出しようとした人が墜落する音が聞こえている。
消防士は、上の階に残っている人々を助けるために、階段を上っていく。危険だとわかっていても、そうしなければならない。
かなりカットされた場面があるのだろう。それでも、事件のすさまじさは充分伝わってくる。
昨日は、ラジオの特集番組で、サッチモの「すばらしき世界」が何度も流れていて、やっぱりアメリカだと思った。
アニー・ディラード『石に話すことを教える』(内田美恵・めるくまーる)を読んでいる。
ガラパゴス島で過ごした日々に書かれたエッセイ。訳は格調高く、ディラードの哲学的な思考は興味深い。禅に通じる、独特の物の見方をする作家であるように思う。
でもこういう知的な作家には、ガラパゴス島ではなく、都市で生活してほしい。人々の間で、世界の真ん中で、戦いつつ書いてもらいたい。危機に瀕している世界をどう見ているのか、それが知りたいと思う。9月11日が近づいている。
小津安二郎監督の『東京物語』を観る。1953年に作られた名作である。尾道に住む老夫婦が、東京で生活している子どもを訪ねる話。当時の人々の暮らしそのままに、ゆっくり流れているような映画である。
笠智衆と東山千恵子が、おだやかな愛情深い老親役。笠智衆はとてもハンサム。枯れかたもいいなあ。
開業医をしている長男が、山村聡。その妻は三宅邦子。美容院を経営する長女が杉村春子で、夫は中村伸郎。大阪に住む次男は大阪志郎。
戦死した三男の嫁が、原節子である。原節子は笑わないほうが美しいと思った。香川京子が、尾道で一緒に暮らす末娘である。
他に東野英治郎、十朱久雄など、懐かしい人たちがたくさん出ている。
実の子どもたちはそれぞれ忙しく、八年前に死んだ三男の嫁が、夫婦に東京案内をしてくれる。帰りに彼女のアパートに寄って、三人は実の親子のようなひとときを過ごす。嫁は紀子という名である。
わたしも紀子であるが、名前の由来を両親に尋ねると、そういう名のいい娘さんがいたからだという。けれども、「紀子」さんの話は、他には何も、また誰からも聞いたことがない。
妹は節子という。「紀元節」(今の建国記念日)からとったと親は言うが、二人とも二月生まれではない。
ということは、この映画が関係しているかもしれない。小津は他に二本、原節子を主役にした映画を撮っていて、「紀子三部作」と呼ばれているのだそうである。
矢口史靖監督の『ウォーターボーイズ』をテレビで見る。男子高校生が、文化祭でシンクロナイズド・スイミングを披露するまでを描いた青春映画。おもしろい!
本番のプールでの演技は、組体操のような本格的なもの。最後におまけがある。25メートルも泳げなかった男の子たちが、大変な合宿の末に撮影を終え、抱き合って泣く舞台裏の映像には、胸が熱くなった。
主演の妻夫木聡が初々しく、冴えない男の子たちも、それぞれいい感じである。川越高校の水泳部が、文化祭限定で演じるシンクロのパフォーマンスをモデルにした話だというので、話題になった映画。川越高校はわたしの住む校区の名門校です。
桐田真輔さんが「リタ」のHPに、拙詩集の感想を書いてくださった。作品の一つ一つをていねいに読んで、解説してくれている。何だかくライナー・ノートみたいで、うれしくなる。昔はレコードに必ず付いていて、読むのが楽しみだったなあ。
わたしの気づかなかったことがいくつも指摘されている。桐田さん、ありがとうございます。リタのHPはこちら。みなさん、ぜひ読んでくださいね。
校庭の除草をする。60分間ひたすら草を抜く。こういう単純作業には、なぜか夢中になってしまうのだ。
うっとうしかった畑のあたりがすっきりして、いい感じになった。終わってから見ると、指が赤く腫れて、水ぶくれができていた。
読売新聞で詩の評をなさっている池井昌樹さんが、23日の夕刊で『至上の愛』について書いてくださった。入沢康夫さん、高橋睦郎さん、石垣りんさんの4冊の詩集が取り上げられている。拙詩集の部分を書き出してみます。
須永紀子『至上の愛』(ミッドナイト・プレス)では、恋人や妻という役割から解き放たれたい胸の内が明かされるが、それは詩を身籠もってしまう剥き身の魂の已むに已まれぬ疼き。その直中から一筋の進路が拓かれる。
「あなたの不在よりも/自分の身体が今ここにあるということに単純に感動し/そのことを少し哀しいとわたしは思うだろう」
詩という無上、そして奈落。そのような自らの生の過剰を「ゆっくりていねいに」進もうとする一人の女性に、性を超えた人間への畏怖を掻き立てられるのは私だけだろうか。
こんなにほめていただいて恐縮です。わたしという存在も詩集も、池井さんのことばで高みに押し上げられて、自分のものではないようにも思えてきます。池井さん、ありがとうございます。
長瀞を通って、秩父へ。町なかをSLが走っているのを見る。車体はぴかぴかで、一般乗客の他に、セメントを積んでいる。
子どもの頃、千葉でSLに乗ったことがある。確か、上総興津(かずさおきつ)から鯛の浦(小舟の上で手を叩くと、鯛が寄ってくるところ)へ行ったのだったと思う。よじのぼるように乗り込み、煙で顔が黒くなった記憶がある。
つげ義春の「ねじ式」に機関車の大きな絵があって、わたしは何となくそのページが好きである。
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川越を散歩。それからO食品でお豆腐を買う。ここは、『料理の哲人』でも使われた、おいしい豆腐を作っている店なのだ。
ちょっとそのへんにはない濃厚な味わいで、豆腐好きの人ならきっと唸るでしょう。値段はスーパーマーケット並み。改築のため、仮店舗で営業中です。
鈴木志郎康さんが、『至上の愛』の感想を書いてくださいました。同じくミッドナイトプレスから刊行された井上弘治さんの『約束』とあわせて論じてくださっています。お読みいただけると、うれしいです。鈴木志郎康さんのHPはこちら。
拙作を鋭く深く解明してくださっています。なぜこんなによくわかってしまうのでしょう。ほんとうに驚きました。志郎康さん、ありがとうございます。
Mの実家へ。ちょっと足を伸ばして、栃木市を散策する。「やすらぎの栃木市」というキャッチフレーズで、町おこしに力を入れているようだけれど、きょうは閉まっている店が多く、観光客らしい人の姿もない。
巴波(うずま)川に沿って蔵作りの建物があり、柳がゆれて、ちょっと倉敷のような風景。歴史を感じさせる、なかなかいい街だと思う。ことに市役所は、水色に塗られた木造の洋館で、大正ロマン風。周囲をめぐる堀には鯉が泳いでいて、のどかな絵のようである。
詩誌『きょうは詩人』が届く。小柳玲子さんの「北森彩子の思い出」という詩人論を、毎号楽しみに読んでいる。すばらしい作品を書きながら、自己中心的な言動で周囲の人間を困らせた女性であったらしい。
小柳さんの筆は容赦なく、また彼女のすぐれた作品もたくさん紹介してくれて、たいへんおもしろい。
しかし、詩人というか表現者には、ふつうの人間関係をやっていけない人がいるんですね。今もそういう人種が生息しているのだろうか。詩を書く人とあまりおつきあいをしていないから、よくわからないのですが。
東京新聞夕刊の「詩の月評」欄で、井坂洋子さんが『至上の愛』について書いてくださっている。夜7時頃、山本かずこさんから電話があり、FAXをいただいた。
拙詩集と鈴木東海子さんの『野の足音』が、今月の二冊として取り上げられている。井坂さん、ありがとうございます。
たとえ100人がわたしの詩集をけなしたとしても、胸を張っていられると思います。
田無(西東京市)の東大農場へ。あまりにも暑いので、農作業をする人が通りすぎるだけで、他に見学者はいない。
サイロやポプラがあって北海道に来たみたいだが、いちばん好きなのは砂利道。何だかとても懐かしい。農園内の道はすべて砂利道なのだけれど、特に惹かれる場所がある。何の変哲もない風景なのに、そこに立つと感動がやってくるのはなぜだろう。
炎天下、色鉛筆でスケッチをする。
プレステーションのゲームソフト「ぼくの夏休み2」を見る。この夏はどこにも行けないけど、これで海へ行った気分になれる。
「ぼくの夏休み1」は山が舞台だったが、これは海。「ボク」がひと夏を過ごすのは、伊豆半島のおじ夫婦が経営する民宿という設定。
懐かしくて、映像もきれいで、やさしい気持ちになれます。前に「教習所へ行こう」というソフトも買ったのだが、これは教習所通いのつらい日々を思い出して気分が悪くなり、二度と見たくないと思っている。
連日の発送作業。感想が少しずつ届きはじめた。
『至上の愛』は、この4年の間に発表した16編を収録した詩集。どんな批判も謙虚に受けとめようと思っています。
お読みになりたい方は、ミッドナイトプレスにご注文ください。(http://www.midnightpress.co.jp/publish/book/065.htm)
山本昌代『手紙』を読んでいる。「鷺」という短編は、痴呆の症状が出始めた母と暮らす娘の話。母親は、週に一度、特別養護老人ホームに通っている。そのなかに次のような文章があった。
私は芸能人やスポーツ界の人間のインタヴューを見たり聞いたりするのが苦手である。いつか新聞で読んだが、ある男優が初めての子の誕生を間近に控えて、「男がいいか女がいいか」の問いにこう答えていた。「五体満足ならどちらでもいい」と。五体が十分でないまま生まれてくる命はいくらでもある。
このような答え方をする人は多いし、わたしも今まで自然に聞き流してきたけれど、健康であっても障害を持っていても、生まれてきた子を育てるのが人の道である。「五体満足なら・・・」は、たいへん無責任なことばなのだなと思った。
詩集『至上の愛』(midnight press 1500円+税)ができあがる。装丁は山本かずこさん。白と赤のインパクトのある表紙です。詩集の制作は今年の2月にスタートしたのだけれど、この間ずっと自分も本造りに参加しているという意識を持ち続けることができて、うれしかった。岡田幸文さんと山本さんにはたいへんお世話になりました。
メール便で送る手配をする。『わたしにできること』の頃よりも肩の力が抜けて、落ちついた詩集になったと思う。
たくさんの人に読んでもらいたい。
眠っている間に、ウィルス・メールが12通も来ていた。アンチウィルスソフトを入れてあるので被害はないけれど、処理にはそれなりに時間がかかる。こんなことをするのに時間が取られるのは、何とも腹立たしいことです。
「警告」画面が出てくると、いつもぎょっとする。やたらに目立つ赤を見ると、あせってしまう。
ところで「新着メール」という表示が、いつも「新春」という文字に見えて、何となく楽しい気分になるのは、わたしだけでしょうか?
飯能のハーブ園へ。ローズマリーの苗を買う。名前はロマンチックだけれど、見た目は松葉に煮ていて、強い芳香がある。
初めてローズマリーを使った料理を食べたとき、ああこれは子どもの頃に近くにあった匂いだと思った。祖父の家のどこかに染みていたような匂い。
でもいまだに何なのかわからない。それを知りたくて、料理に何かと乾燥の葉を使い、お茶も飲むようになった。
山本昌代『手紙』(岩波書店)を読んでいる。この作家の作品は、好きなものと嫌いなものがある。時代物も書く人だが、なかには救いのないやりきれない内容のものがあるのだ。
『緑色の濁ったお茶あるいは幸福の散歩道』は三島由紀夫賞を受賞した、ほのぼのとしたいい作品。表題作の「手紙」は、何となく山川方夫を思わせるような短編である。
売れない小説家である主人公の上着に、ある日「I love you」と書かれたピンクの紙が入っていて、その日に殺人事件が起こる。知らない土地の知らない人が被害者なのだが、その後もピンクの紙が入っていると、どこかで人が殺される、という話。
用事があって、池袋へ。エスニックのレストランで昼食。
アジア料理の店は概して量が多い。レストランというより、定食屋という感じ。おしゃれなランチを期待したてきた人は、がっかりするかもしれない。
エスニック料理をよく作る。本場で食べたことはないので、レシピを見ながら、タイカレー、生春巻き、ナシゴレンなど。
沖縄料理も多い。ゴーヤチャンプルー、タコライス、ソーキそば。どれも好きです。沖縄でよく使うというスパムも、パンにはさむとおいしい。スパムのおにぎりは最高に美味という話を聞いたことがあるけど、どんなのかな?
家にあったユイスマンの『さかしま』(澁澤龍彦訳・河出文庫)を持って出てきたが、まったく読めない。世紀末デカダンス文学は苦手。旭屋書店で、カズオ・イシグロの『日の残り』(土屋政雄訳・早川文庫)を買う。
ゴードン・スティーヴンズの『カーラのゲーム』(藤倉秀彦訳・創元社文庫)読了。すばらしい小説である。
内戦下のボスニアで、夫と息子を失った女性カーラが主人公。カーラは生きるために、闇屋を経てテロリストになり、航空機をハイジャックし、世界に向かってボスニアを救ってほしいと要求する。
停戦工作のためにボスニアに送り込まれたSAS隊員フィンがもう一人の主人公。フィンの仲間をカーラが助けたことから、二人の間に友情が生まれ、フィンの言った「敢然と戦う者が勝つ」ということばが、カーラを何度も奮い立たせることになる。
ボスニアをめぐる世界情勢も把握できた。最後がハリウッド映画のような結末(書きませんが)なのは、賛否両論あると思うが、純文学の重厚さがあり、スパイ小説のようでもあって、ジョン・ル・カレを初めて読んだときのように興奮した。
何となく悲しかったり、元気が出ないときには詩集を読む。枕元に山積みになっている詩集を手に取る。
田村奈津子さんの『地図からこぼれた庭』(あざみ書房)。昨年若くして亡くなった詩人の、小さくて薄い詩集が、わたしを満ち足りた気持ちにしてくれる。
ケプラー通り37番地の階段を
地下室に向かってゆっくりと
深い呼吸で下りていく
(「地図からこぼれた庭」冒頭)
説明なんかない。それがとてもいい。田村さんの世界にまっすぐ落ちていく。そしてこの一行に出会うたびに、切なくて胸が痛む。
アナタトハ 音楽ニナリタカッタ
『エピソード2』を観る。『スターウォーズ』は、第1作から映画館で観ている。
前作よりも断然よかったけれど、次から次へと新しいものが出てくるので、驚いている暇がない。何だかもったいない気がした。
パドメとアナキンの恋は、説得力に欠けると思った。回想シーンを入れて、もっと盛り上げてほしかった。全体にストーリーが見えにくくなっているのが、残念。
ナタリー・ポートマンは毅然として、とても美しい。わたしが好きなのは、タトーウィンの砂漠のなかの家。半分が砂に埋まっていて、隠れ家という感じがいいなあ。
『むずかしい愛』のなかのウォルター・モズリィ「テレサへの手紙」。わたしにとっては、掘り出し物である。こういう楽しみがあるから、アンソロジーというのも悪くない。
独身の中年男ソクラテスは、インフルエンザで苦しんでいるとき、昔の恋人の夢を見る。
ソクラテスは27年を刑務所で過ごし、出所後まじめに働いて8年になる。彼は、35年間会っていない恋人に手紙を書く。
母親から手紙が来て、テレサが亡くなったことを知ったソクラテスは、彼女とその夫の墓へ駆けつけ、物思いにふける。
クリストン(テレサの夫)の葬儀のときだって自分はここに立っていただろう。テレサは気弱になっているだろうが、それにつけ込んだりはしない。慰めになるような話をしたり、金を差しだしたり、家のものを修理してあげたりするのだ。彼女の手を握って、君には子供が八人いるんだよ、それに、君に死なれたら困る古い友人が一人いるんだ、と言うのだ。
ソクラテスは、今はなきテレサとともに過ごすひとときを夢見る。
刑務所では欲望を持たずに生きることを学んだ。欲望を心に入り込ませてしまったいま、すべてのものがほしかった。
ソクラテスの孤独な生活と切ない願い。いい短編である。
柴田元幸編訳『むずかしい愛』(朝日新聞社)を読む。サブタイトルは「現代英米愛の小説集」。
一昨年『体の贈り物』というすばらしい本を出したレベッカ・ブラウンの短編「私たちがやったこと」が入っていて、どきどきしながら読んだ。
愛し合う男女が、一方の目をつぶし一方の耳を焼いて、二人だけの生活をするという話。閉ざされた愛の世界というと、ボリス・ヴィアンや谷崎潤一郎などを連想してしまう。
男はピアニストという設定。目が見えなくても、演奏に支障はさほどないのだが、耳の聞こえない女の話しかたは変化してきて、二人の間に溝ができていく。
ターナーの展覧会に行って、女が絵を説明するシーンは悲しい。女は自分の感動をそのまま伝えることができず、男はいらだち、互いの欠けた部分をより大きく感じることになる。
男は死を選び、それを発見した女は緊急番号に電話をする。「「もしもし」と女は繰り返す。
なぜなら私にはわからなかったからだ、いつ誰が電話に出てくれるのかも、理解してもらうのにどれくらいかかるのかも、そもそもいつかはわかってもらえるのかどうかも、何があったのかを私がなぜうまくいえないのかも、私たちがやったことを私がなぜ言えないのかも。
すごいエンディングだと思う。ブラウンは、この頃は「幻想レズビアン小説作家」とでも呼ぶべき作風といわれていたのだという。
「一対一」の人間関係を描くのがうまい人であるかもしれない。『体の贈り物』も、エイズ患者とケアする女性との心の触れ合いを淡いタッチでていねいに書いた連作小説集だった。
フライングディスクの講習会へ。私の住んでいる町は、地域の活動が盛んで、毎週のようにさまざまな行事が開かれる。
フリスビーをループのなかに投げたり、数字のボードに当てて、チームでポイントを競うゲーム。お正月番組なんかで、野球選手が硬球でやってますよね。ボールをフリスビーに代えたものといえばいいか。
久々に汗をかいて、楽しかった。
ゴードン・スティーヴンズ『カーラのゲーム』(藤倉秀彦訳・創元社文庫)が佳境に入る。戦時下のボスニアで、夫と息子を失ったカーラは、3日間歩き続けて祖母の家にたどりつくが、祖母の姿はない。カーラは避難所で眠り、配給を受けて何とか生き延びる。
このままではだめになると気づいた彼女は、闇市で物資を仕入れることを思いつく。小麦粉や砂糖と引き替えに、防水のコートやブーツ、アパートや荷物を運ぶ乳母車を手に入れる。何としても生きなければならないのだ。
すべての希望を断たれたとき、人間はどう生きるのだろう。自分がカーラだったらと考えながら読んでいる。ほんとうにすごい小説だと思う。
詩集の色校正が届く。いよいよできるのだという実感が湧いてくる。
ジャメイカ・キンケイド『アニー・ジョン』(風呂本あつこ訳・學藝書林)を読んでいる。1949年、イギリス植民地だったカリブ海のアンティグワン島生まれ。
ある意味で豊かだけれど、生も死も日常生活に組み込まれ、閉鎖的な島の暮らし。一卵性双生児のような母への愛と憎しみ、そして少女期の終わり。
それらが生々しくも詩的に綴られている。キンケイドの『川底に』もとてもよかった。
萩原健次郎さんの『冬白』(彼方社)を読む。豪奢な詩集である。現代のことばで描かれた日本画の趣。
伊藤若沖や長谷川等伯などの作品を見たところから生まれた作品であるという。
ことばはマテリアルでありながら、古典的な抒情を切り裂く強度を持っているように思った。萩原さん独自の詩の世界である。
時間の塊のような気がする
打ち捨てられた白い小山
手で叩くと手の形が残る
身なら身の、
(「冬白」部分)
池袋の東急ハンズへ。文房具を見る。
この間読んだ詩集について書きたい、小林泰子さんの『ウォーターカラーズ』(ミッドナイトプレス)。子どもを育てるなかで、詩を書き続ける小林さんの詩は、わたしにはとても親しく感じられる。
わたしは子育てが苦しかったが、小林さんは、今このときを心から大切にしていて、わたしたちにその楽しさや家族へのあふれるような愛情がストレートに伝わってくる。
けれど、ところどころに気持ちの揺らぎが見えて、わたしはそこに惹かれた。一個の女性としてのかすかな焦りのようなもの。
こんなところにいたくはないのだが/午後のにごった光の中へ入って いく
本当は駆け出したいのだ/土のついた根を引きずりながら/もっと別の場所/どこかへと
いずれも「植樹」という詩の部分である。詩人は家族と公園で遊んでいる。幸福な図である。それを見ている、もう一人の「わたし」がいる。
もう一つ、すてきな詩を引用したい。
今
いい詩人は旅に出ている
冷房のききすぎたオフィスで肩を冷やしている
電車に乗って窓の外を見ている
開いたばかりの飲み屋でビールを飲んでいる
ぱりんと乾いた洗濯物を取りこんでいる
私はただ心をからっぽにして
過ぎゆく夏の夕日ですすぎたい
(「小さな海」部分)
「いい詩人」って誰のことだろう。従来の詩にとらわれない大らかさが気持ちいいと思います。
しばらく詩から離れていたが、そろそろ書きたい気持ちになってきた。
支倉隆子さんの『身空x』(思潮社)を読む。支倉さんの詩には、いつも霊気漂うような魅力を感じて、ぞくぞくする。
首都よ
秋葉原から青梅まで
夜の大通りは青く光る信号をならべてゆき
指さきに小さなクリーニング店を灯している
じんるいのシャツが雪柳のようにふるえている
(「夜の草」部分)
浮塵子(ウンカ)という虫がいるのを初めて知る。日本史を勉強した人はみんな知っているらしい。「ウンカのごとくっていうじゃない?」と言われて、目が点になった。この年になって、知らないことばがあるということに愕然とした。
アラン・ライトマンの『アインシュタインの夢』(浅倉久志訳・早川書房)を読み始める。ライトマンは現役の理論天文物理学者。
1905年、26歳のアインシュタインは、スイスのベルン特許局に勤務しながら、物理学理論の研究に打ち込んでいたが、夜ごと奇妙な夢に悩まされていた、という設定のもとに書かれた30のショート・ストーリー。さまざまな時間に関する夢の話である。
わたしはまったく科学とは縁がないが、夢にはとても興味があるのです。
BOOK OFFで『ハリー・ポッター』のビデオを買う。
映画館で観たときも思ったが、カットしたほうがいいような安っぽいキャラクターがいくつかある(トロール、フラッフィー、ケンタウロスなど)。観た人のほとんどが、原作に忠実過ぎるという感想を持つようだ。
でも映像的にはとてもよくできている。ダイアゴン横町の重厚な町並みは必見です。
『ミスター・ヴァーティゴ』かなりの長編。斜め読みしたいところだけれど、おもしろいので、飛ばせない。
パルコのくじびきで、レジャー用のバッグが当たって、びっくり。くじで当たったことなんてほとんどない。小学生の頃、商店街の福引きで、しょうゆを一缶もらったくらい。大きな缶だったから、3リットルは入っていたかもしれない。鐘が鳴ったのだから、大当たりだったはず。昔はそんなものが賞品だったんですね。
電話でmidnight pressの山本さんと、詩集の表紙の話をする。すべてお任せしているが、やっぱり気になって、どんな感じになるか教えてもらう。
最初の3冊の詩集は、自分で装丁をした。素人なので、イメージはあっても、技術が追いつかない。で、やはり装丁はプロにお願いするのがいいと、遅まきながら悟ったのだった。
色校正が届くのが待ち遠しい。
1週間ほどかかりきりになっていた広報紙ができあがる。パソコンでプリントアウトした記事を台紙に貼り付け、カットや飾りケイを入れるという手作りのもので、発行部数は600。
小学校の頃は、新聞部で壁新聞を作っていた。高校では印刷所へ行って図書新聞を、大学時代はガリ版でサークルの機関誌をせっせと作っていた。
学校で役員をやるときも、いつも広報担当。他に何もできないし、編集とか印刷という作業がやっぱり好きなんですね。
梅をたくさんもらったので、梅シロップを作る。ここ数年、梅酒でなく、これを作っている。
ひとつずつ皮をむき、梅の半量くらいの砂糖と一緒に瓶に入れる。次の日には梅から水が出て、それが「シロップ」。水や炭酸で割って飲むと、とてもおいしい。アルコールが苦手な方はぜひ作ってみてください。
ポール・オースター『ミスター・ヴァーティゴ』(柴田元幸訳・新潮社)を読んでいる。少年が修業の末に空を飛ぶ「おとぎばなし」ということだけれど、児童文学ではない。
9歳の悪ガキウォルトが、師匠に根性を叩き直されるところから物語は始まる。ハンガリー人の不思議な力を持つ師匠、おそろしく頭の良い黒人の少年イソップ、温かいインディアンの老婆。自分が愛されていることを知って、心を開いていくウォルト。
最初の40ページを読んだだけで、感動の波がやってきた。
『荒野からうた声が聞こえる』(渡辺信二・朝文社)を図書館で借りる。「アメリカ詩学の本質と変貌」というサブタイトル。ジョン・アッシュベリー小論が載っている。
力作だが、彼の詩が難解なためか、かなりわかりにくい。2回読んだけれど、理解できたとはとてもいえない。けれども、アッシュベリーの詩に改めて惹かれるものを感じている。たとえば次のような詩。
わたしは 算定されない欠陥と気後れに溢れているが しかし男らしく この20年間を諦めて
フルートの音が奏でるように わたしたちの幾人かが 涙を流せるような小作地や境界を想像しよう
そこには 他の人たちも 同意を頷きながらやってきて それから自分たちの道に 行かねばならないだろう
『フロー・チャート』部分(Flow Chart:1991 渡辺信二訳)
リチャード・ブローティガン『アメリカの鱒釣り』(藤本和子訳・晶文社)を池袋リブロで見つける。
20年くらい前、ブローティガンは時代の寵児だった。『西瓜糖の日々』『』東京モンタナ急行』『芝生の逆襲』『ソンブレロ落下す』などなど。
それなのに、『愛の行方』しか持っていないことに最近気づいて、彼の本を探していたところだった。
雑誌で拾い読みをしただけだったのかもしれない、と思うと、愕然とする。村上春樹が『スクラップ』で、ブローティガンの自殺について短い文章を書いていて、それは彼の文学がすでに過去のものになってしまったことを確認する内容だった。
本が売れなくなって、失意のうちに亡くなったのは、ほんとうに悲しいことである。
トラン・アン・ユン監督の『夏至』を観る。前作『青いパパイヤの香り』のような抒情性は薄いけれど、映像を流れる時間がゆったりと心地よい。
古都ハノイが舞台。母の命日に集まった三姉妹の、秘密を抱えた恋愛が描かれる。三女は『青いパパイヤ』のムイを演じた女優さんで、監督夫人。
「光、音、台詞、女性の肌と髪。すべて自然のままの美しさを大事にした」と監督は語っている。
ベトナムでは、社会的には女性は男性の影に隠れているけれど、恋愛においてはそんなことはないのだろう。この映画のなかの女性たちは、自由奔放に恋愛を楽しんでいる。
三女が妊娠したと思いこみ、みんなの前で告白するシーンがあるが、実際にベトナム女性の性に関する知識は、幼稚なものであるとのこと。
所沢市内のこども相撲大会があった。わたしも実行委員の一人で、3月から準備に入った。
すもうをやろうという子なんているのだろうかと思ったけれど、これがいるんですね。わたしが担当する小学校からは男女合わせて44人が参加。市内27校の計470人の子どもが出場した。太っている子はわずか。ほとんどがごくふつうか華奢な身体をしている。
初めはさらしのまわしを締めるのも、取り組みも恥ずかしそうだったけれど、4回の練習で、みるみる上達して、負けるとくやし泣きをする子も。
青年会議所の若い人たちが毎年運営してくれる行事の一つである。イベントには周到な準備と膨大な時間とたくさんの協力が必要なのだなあと今さらながら思った一日でした。
スーザン・ソンタグの『火山に恋して』(富山太佳夫訳・みすず書房)を読み始める。批評家であるソンタグが書いた小説って、どんなだろう、という好奇心から。
舞台は18世紀末のナポリ。英国公使で蒐集家のカヴァリエーレとその美しい妻、英雄ネルソン提督の三角関係が、絢爛豪華に描かれている(らしい)。
「飢えた目をどうしていいのか分からないときには、書物という、もうひとつのつねに隣接する内空間がある」文章もやっぱりソンタグです。
詩集の再校が終わる。作品はすでに過去のものだから、未熟だなあと思う箇所がたくさん出てきて、困ってしまう。でも、書いたときの気持ちを大事にしようと決めて、迷いを振り切る。タイトルは勢いで付けたけれど、それでよかったのか、と今も不安。
7月に出る詩集の宣伝でした。
『彼女を見ればわかること』を観る。ハリウッドの女優の多くが出演したがったというので話題になった映画。
監督はロドリゴ・ガルシア。ノーベル賞作家のガルシア・マルケスの息子で、これがデビュー作。
キャメロン・ディアス、グレン・クローズ、ホリー・ハンターなどが主演。不幸な女の見本帳みたいである。
老母を介護しながら、年下の男の電話をひたすら待つ女、次々と男を変えるキャリアガールなど、わたしのほうがまだ幸福だわと思うような女性が描かれる。男性にはおもしろくないかもしれません。
メイ・サートン『一日一日が旅だから』(武田尚子訳・みすず書房)を読む。500篇を超えるサートンの作品の一部がおさめられている。
一日一日が旅だから
家はわたしの奥の細道
上がり下がりの坂があり
遠回りする小道もある
(「新しい地形」部分)
定型の叙情詩人と呼ばれたことから、詩もそのように訳されている。どうなんでしょう、とわたしなどは思ってしまうのだけれど。
この詩は、「夕食のテーブルはおごそかに 儀式のようにしつらえて 花には水を欠かさない」と続く。
生のリアリティをなくさないでいるために、努力しているサートンの姿は痛々しく、美しい。わたしにとってはまだまだ未知の領域である「老い」の世界が見えてくる。
スーザン・ソンタグの『この時代に想う テロへの眼差し』(木幡和枝・NTT出版)を読んでいる。
9・11についての文章の他に、サラエヴォに滞在して芝居を演出したときの感想などが収録されている。
サラエヴォで戦争が始まってから、町なかでも家のなかでもいつスナイパー(狙撃手)が銃撃してくるかわからない状況で、劇場も映画館はすべて閉鎖されているという。
今読みかけの『カーラのゲーム』の世界そのものなので、熱い気持ちになる。内戦に揺れるボスニアが、ソンタグによって、文化の角度から描写されている。
一つだけ弦楽四重奏団が残っていて、毎朝リハーサルをし、ごくたまに小さなギャラリーで演奏会が開かれるという。
映画『タイタニック』を思い出した。船が沈みかけても、人々のために賛美歌を演奏し続けたのも、弦楽四重奏団ではなかったか。
懐かしいシルヴィー・バルタンの、ベストアルバムが近々出るらしい。お茶のCMで「あなたのとりこ」がリバイバルヒットになったからだそうである。
ラジオで何曲か紹介していたが、そのなかに、中島みゆきの「悪女」が入っていた。「悪女」はどう考えても演歌である。フランス語で歌う「悪女」は気持ちが悪かった。
そこまで日本のファンに媚びることもないのに。声には昔のような張りはない。でもベストアルバムであるなら、プライドを持って選曲してほしい。
「フラッシュダンス」も入っているということだが、そういう曲をカバーしなくてもいいのではないかと思ったのでした。
スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』(木幡和枝訳・NTT出版)を読みはじめる。
十数年前に『隠喩としての病』に出会ったとき、同時代の思想家として、いろいろな意味で指標になるような存在だと思い、どのくらい理解しているか自信はないけれど、とにかく目を通すようにしてきた。
この世界の今について考えるためのテキスト、として読もうと思う。
神山睦美さんにいただいた『実践国語文章講座』(Yuzu企画)を読んだ。受験のための国語参考書。
予備校ではこんなにレベルの高い授業をしているのだなあというのが率直な感想である。第5講は「自殺したSへ」。課題文を読んで、若い人たちが書いた手紙が紹介されている。
手紙を書くことによって、文章力も考える力も確実にアップすることは間違いないだろう。最近の入試のことはよくわからないのだけれど、試験に手紙を書かせる大学というのはあるのだろうか。採点が難しいと思うが、総合的な力がかなりわかるのではないか。
そんなことを考えながら、自分の国語力を試されるようで、緊張して読んだのだった。
ラッセル・バンクス『この世を離れて』(大谷豪見訳・早川書房)読み終える。ニューヨーク州の小さな町でスクールバスが転落し、14人の子どもの命が失われる。その後の4人の心情が綴られる形になっている。
運転手ドロレス・ドリスコル、双子を奪われたビリー、自己の責任を州や町に求めて訴訟を起こそうとする弁護士、助かったけれども歩けない身体になった美少女ニコル。
それぞれが事情を抱えて生きている。そこに降ってきた大惨事に、人々はどう対応するか。
やりきれない話である。障害者の伴侶を養っている中年女性ドロレス、最愛の妻を亡くして、友人の妻と密会を重ねるビリー、麻薬漬けの娘に金を無心され続ける弁護士、父親が強いる性的な交渉を断ち切りたいニコル。
昨年、13歳の息子さんを亡くした友人のことを思いながら読んだ。
高野文子の『黄色い本』を読む。このページを読んでくれているYさんが、「いいですよ」と教えてくれたコミック。
女子高生ミチコは、図書館で借りた『チボー家の人々』を読んでいる。おそらく昭和30年代(お釜や寝巻き、だるまストーブなどが出てくるので、それとわかる)の地方都市が舞台である。
ミチコはチボー家の世界にのめりこみ、物語と現実がごちゃ混ぜになるのを楽しんでいる。ジャックと対話するのが日常のようになっている。昔の田舎の暮らしがていねいに描かれていて、それと書物の世界との対比がおもしろい。
ミチコの父はふつうのおじさんであるが、娘が編み機を自在に扱うのを見て「おまえが将来どこに勤めるかわからないけれど、おまえでなければ編めないようなセーターを編む人になればいいと思う」と言う。
またミチコが『チボー家の人々』を5巻続けて読んでいるのを見て、注文するよう勧める。「好きな本を一生持っているのもいいもんだ」と。すばらしい父親だなあ。高野文子さんはそういうおとうさんの背中を見ながら育ったのだろうか。
つげ義春の影響を受けているのではないかと思うような、ちょっとブラックで妙にリアルな絵である。
『ココニイルコト』(長澤雅彦監督)を見る。昨年、真中瞳の初主演映画というので話題になった。自然な演技で好感度の高い映画になっていると思う。
この監督は田中麗奈主演の『はつ恋』の脚本を書いた人で、中山美穂が主演した『Love Letter』のプロデュースもしている。
最相葉月の短編から生まれたストーリー。タイトルはスガシカオの曲名から。「ぼくらが瞬間に放つ光は たとえ届かない距離でも あなたを目指す」という詞のある曲。
社内不倫がばれて東京から大阪に転勤になった相葉志乃。仕事も生活も半ば自棄でこなしていた彼女が、同僚の前野くんや先輩女子社員に力をもらって、自分を取り戻していくという話。
堺正人演じる前野くんのキャラクターがキュートです。
秩父へ。車で2時間。「加藤近代美術館」でアンドリュー・ワイエスの絵を見たかったのだが、昨年閉館したという。蔵を改造した隠れ家のような美術館だったのに、残念。
秩父札所23番の音楽寺に行く。明治17年に起きた秩父事件の際、秩父困民党の人々が、ここの鐘を合図に市内に乱入したといわれている。こんな山間の土地で農民の暴動が起きたなんて、不思議である。
武甲酒造に寄り、「武甲正宗」と「源作印ワイン」の赤を買う。都心の店で買うよりも格段においしいような気がする。
木造の古い店で、ここに来るのはいつも楽しみ。店内は一見の価値があります。
「やまとあーとみゅーじあむ」へ。奥まったところにある美術館まで小径が続いていて、秩父の街も見下ろせる。
棟方志功の版画が中心。魚や草を白黒で刷った版画に惹かれた。こじんまりとした別荘という感じの館内には、ビュッフェの絵も展示されていた。
浅草へ行く。上野から歩いて仲見世へ。吾妻橋のアサヒビアホールで昼食。
昔は天井の高い広いホールで、入り口で食券を買うのだった。ポテトチップが袋ごと出てきて、初めて行ったときは驚いた。それがこじんまりしたおしゃれな店になってしまって残念。でも料理はおいしかった。
水上バスで日の出桟橋へ。船がゆっくり走るので、眠くなって困った。日の出桟橋で乗り換えてお台場へ。アクアシティをちょっとのぞき、ゆりかもめで新橋に出て、銀座まで歩く。
ラッセル・バンクス『この世を離れて』(大谷豪見訳・早川書房)を読み始める。スクールバスの運転手をしている女性が語り手。女性の生活が細々と書かれていて、展開はスロー。
スティーヴン・ソダーバーグ監督の『トラフィック』を観る。2001年のアカデミー賞作品賞に輝いた映画。「トラフィック」というのは、アメリカとメキシコにまたがる巨大麻薬コネクションのこと。
麻薬撲滅運動を展開する政治家夫妻、ドラッグに溺れるその娘、麻薬組織の殺し屋と、彼を追う警察官。画面が次々に切り替わって、細切れな感じがあるのはしかたないか。
警察官役のペニチオ・デル・トロの存在感が光っている。プエルトリコ出身の俳優。ワイルドでストイックな雰囲気(古谷一行に似てます)があって、マイケル・ダグラスがかすんで見えるようないい役。主演男優賞がもらえなかったのが不思議なくらいだ。
用があって神保町へ行く。お茶の水通りは学生たちでいっぱい。懐かしい匂いがする。たぶん若いひとが発する匂いだ。大学の中庭もこんな匂いがした。
お茶の水橋から聖橋を眺める。濁った水と萌える緑と石造りの橋。いつ見ても美しいと思う。
車中で。ゴードン・スティーヴンズの『カーラのゲーム』(藤倉秀彦訳・創元社文庫)を読む。舞台は戦火のボスニア。若い母であるカーラが、橋の向こうにある配給所に行くシーンから話は始まる。
スナイパー(狙撃手)がいつ撃ってくるかわからない緊迫した状況のなかで、幼い息子を片手に、もう一方の手でブリキの鍋を抱えて、カーラは走る。
昔のベルリンの壁みたいだと思う。人々は監視の目を盗んで壁を越え、見つかると容赦なく撃たれた。ジョン・ル・カレのスパイ小説で読んだ、あの壁が壊されて、ほんとうによかった。
田口ランディの『コンセント』(幻冬社文庫)読了。ひきこもりと心理学とシャーマニズムとセックス。現在社会の現象と病巣が、凝縮されていて、おもしろく読んだ。
兄の自殺の真相を知るために奔走する朝倉ユキ。そうとうな力作なのだが、作者の意図している(であろう)カタルシスが、今ひとつ伝わってこない。
おそらくわたしが、心を閉ざすとかひきこもるということを遠い世界のできごとだと思っているからだろう。そういう弱さに寄り添う余裕が、今のわたしにはない。上のほうから、「そんなところにいないで、早く出ておいでよ」と声をかけることしかできないような気がする。
シャーマンを研究する友人が、沖縄のユタについて話す部分があって、興味を持った。簡単にまとめると、日本ではふつう錯乱状態になった人間は精神病院に入れられ薬漬けにされるが、沖縄では神様の仕事をする特別な存在として受け入れる。そこを通過して「ユタ」になる、というのである。
なるほど。もしかしたら急性錯乱状態に陥った人々のなかに、シャーマンの資質を持ちながら、廃人にされたケースもあるかもしれない。
恵比寿で『ドリアンドリアン』を観る。フルーツ・チャン監督の香港映画。舞台は香港の路地裏。一家でやってきて、皿洗いの仕事をする少女フェンと娼婦のイェンの暮らしが交互に描かれる。
イェンは、ジャンクフードをかきこみながら、部屋と客の待つホテルを往復する生活をしている。若くて美しいイェンは不平も言わずにたくさんの客を取る。
母と幼い妹とフェンは、店の外で皿を洗っている。イェンの用心棒の少年が、後ろからドリアンで頭を殴られるという事件が起き、それをきっかけにイェンとフェンはことばを交わすようになる。
ビザが切れたイェンは故郷に帰る。冬は川が凍って、その上を車が走るようなところである。両親は娘の帰郷を喜び、たくさんの親類を招いてもてなす。みんなイェンは香港で成功したと思っている。どんなにつらくても、明るくたくましく生きるイェンがいい。
香港の美容院のシーンで、パーマをかけるときに新聞紙を使っていて、驚いた。京劇学校出身の男たちが店でショーをやるのだが、メインに「インターナショナル」を歌うのが、おかしかった。「ヤングマン」でも歌うみたいに、盛り上がるのだ。
映像も美しく、音楽もよい。新しいアジア映画の誕生だと思った。
近くにあるパルコに行ったら、エジソンライトハウスの『恋の炎』がかかっていた。
懐かしい。高校生のころ、よくラジオから流れてきた軽いノリの曲である。何週かポップスのベストテンに入っていたような記憶がある。
名曲ではないけれど、時代を語っているようなB級ソング(などといっていいのだろうか)だと思う。「ザ・モンキーズ」や「1910フルーツガムカンパニー」など、数えたらきりがないけれど、ちょっといとしいような音楽がたくさんある。
チャンネ・リーの『最後の場所で』(高橋茅香子・新潮社)を読み始める。長編大作だが大味ではなく、文章には静かで確かな手触りがある。
主人公は在日朝鮮人として生まれ、「日系アメリカ人」となったドク・ハタ。仕事を引退し、ニューヨーク郊外の小さな町のこぎれいな家に一人で住んでいる。人々に尊敬される彼の過去へと物語は進んでいく。
著者は、1963年ソウル生まれのコリアン・アメリカン作家。この若い作家が老年の日系アメリカ人を主人公に選んだのはなぜだろう。展開が楽しみだ。
カルロス・デ・オリヴェイラの『雨の中の蜜蜂』(弥永史郎訳・彩流社)。ポルトガルが舞台になっているというので、飛びついた。
オリヴェイラは1921年ブラジル生まれ。ポルトガル人の両親とともに祖父の住むポルトガルに引き揚げた。
没落貴族と成り上がり、神父など、ちょっと古風な話で、先が見えないな、と思いながら読んでいる。
『ひょうたん』17号が届く。相沢正一郎さん、相沢育男さん、岡島弘子さん、水野るり子さん、阿蘇豊さんらが集まる詩誌。
ここに、わたしも岡島さんの詩集(『つゆ玉になる前のことについて』評を書かせてもらった。グレーのインクがきれい。シンプルで、センスのよい詩誌です。
『あの頃ペニーレインと』(キャメロン・クロウ監督)を観る。厳格な教師の母に育てられた少年の成長物語。15歳で高校を卒業したウィリアムは、地元の音楽雑誌に寄せた記事が認められ、ブレイク寸前のバンドのツァーに動行することになる。
そこでグルーピーのリーダーでチャーミングなペニーレイン(ケイト・ハドソン)に会い、惹かれていくのだが、彼女はツァーの間中バンドの人気ギタリストから離れない。
70年代のロックバンドと音楽ジャーナリスト、グルーピーの生態が描かれている。ドラッグとセックス、人気と嫉妬。実際はもっとどろどろしていたのだろうが、そのあたりはクールに処理されている。
ペニーレインもバンドもグルーピーも虚の世界に生きる存在だが、ウィリアムには母や学校という錘があった。「おまえは本物だ」という台詞が何度か出てくる。ギタリストや先輩のロックジャーナリストが、ウィリアムにそう言うのだ。
キャメロン・クロウの自伝的な映画ということである。
『雨期』39号ができてくる。執筆者は古内美也子・原口哲也・荻悦子・後藤正士・北野英昭・渡辺洋・松本邦吉・須永紀子。アンケートは「小さな幸福」です。
発送作業は月曜日に始めます。いつも読んでくださっているみなさま、待っていてくださいね。
タブッキの『遠い水平線』(須賀敦子訳・白水ブックス)をやっと読み終える。救急病院に運び込まれて死亡した男の身元がわからない、というところから話は始まる。
推理小説のようだけれど、結局何も起こらない。でもしみじみよかった。主人公スピーノの静かな日常が、なぜかじわじわ身体に染みてくるのだ。たとえばこんなふうに。
夕食は、ずっと冷蔵庫に入れっぱばしになっていたサケのかんづめと、ポートワインをふりかけたパイナップルで、手ばやくすませた。夜になったので、ラジオをつけたが、明りはつけないで、港のひかりを見ながら、暗いなかでたばこを吸っていた。時間がすぎていくのを待っていた。彼は、暗闇でラジオを聴くのがすきだった。遠い感じがするからだ。
グィネス・パルトロウ主演の『デュエット』を見る。監督は彼女の実父のブルース・パルトロウ。何となく素人っぽい展開。それが魅力といえば魅力かもしれない。
パルトロウの美声が聞ける。ブラット・ピットと恋仲だった頃、二人の主演を考えて作られた映画だそう。もちろんブラピは出てません。
井川博年さんからHP開設のお知らせをいただいたので、早速のぞいてみた。俳誌「ににん」の敷地を借りているとのこと。http://www12.u-page.so-net.ne.jp/fk9/owl1023/ni-nin/yohaku-oldstation.html(清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」のリンク集から入ると早いそう)。
「余白句会会館」に入り、「OLD STATION」へ。「余白句会とOLD STATIONの人々」 はとてもおもしろい。句会の成り立ちからメンバー紹介、俳号の由来など、まるで井川さんの話すスピードで書かれているみたいだ。
無粋なわたしも句会に参加しているような気分になりました。
『道のまん中のウェディングケーキ』(柴田元幸他訳・白水社)を読んでいる。このイメージが組みこまれた短編小説のアンソロジー。スチュアート・ダイベックやチャールズ・バクスターなど23人の作家が書いている。
ケーキを冒頭に登場させるという芸のない短編がいくつかあって、それらは例外なく奥行きのない内容のものだった。たいだいこのイメージは特殊なものだし、広がりは期待できないなあと思いながら読み進む。
そのなかでこれは収穫だと思ったのがベヴァリー・グッドラムの「凍った電線」(小梨直訳)。
妻のある男と不倫をしている若い女性の話、と言ってしまうと身も蓋もないけど、関係を終わらせたいと思っている女性のいらだちや迷いが、映像的に伝わってくる。
雪の降る郊外の町。男は妻の叔母の葬式に行こうとしている。車のうしろにクリーニングから戻ってきた黒いスーツがある。二人で出かけようと約束していた週末。怒った女がドアをバタンと閉め、スーツを包む黄色いビニールがはさまってしまう。
グッドラムは編者ジョージ・ギャレットのクラスメートで、この短編からアンソロジーはスタートしたという。
ラッセ・ハルストレム監督の『ショコラ』を見る。昔のヨーロッパ映画の雰囲気。
不思議な力のあるチョコレート職人をジュリエット・ピノシュが演じている。ミスキャストではないけど、わたしはアンディ・マクダウェルなんかが適役かなと思った。
ジョニー・ディップの出番が少なくて、残念。『ギルバート・グレイプ』以来気になっている。『シザーズ・ハンド』と『アリゾナ・ドリーム』を見ただけだが、好んで奇妙な役をやりたがる俳優のよう。
航空公園で恒例のお花見。風が強くて花見日和とはいえないけど、毎年やっていればこういう年もある。確か12年前は、夏のような暑さのなかでお花見をしたのだった。
午前中かかってお弁当を作り、ビールと日本酒を少しずつ飲みながら、さらに家で二次会。結局いつも半日飲み続けることになってしまう。
「ねがはくは花のもとにて春死なむ そのきさらぎの望月のころ」。西行の歌が少しずつ親しく感じられるようになってきた。ずっと昔の話ですが、卒業論文は西行でした。
初めての免許更新。○○歳を過ぎての教習所通いは考えていた以上にたいへんだったので、卒業検定試験に合格したときは、涙が出るほどうれしかった。
今まで生きてきて一番うれしかったのが、初めて自分の作品が活字になったとき。次が子どもを産んだとき。その次が教習所を卒業したとき、です。
このページを読んでくださっている伊藤さんが「少年ケニヤ」の情報を寄せてくださった。この話には大蛇ダーナのほかに象のナンターが登場し、この二匹がワタルの危機を救うという。伊藤さん、ありがとうございます。
「少年ケニヤ」はわたしたちの父の世代が読んでいた物語であるらしい。わたしは上空からジャングルを映したシーンやワタルと長老(?)が話している場面しか記憶にないのです。
Mと「少年ケニヤ」の話をする。テレビがまだ白黒の頃、わたしは小学生にもなっていなかったんじゃないかと思うが、「少年ケニヤ」という番組が大好きだった。
主人公のワタルを演じた少年がなかなかすてきだった。長髪で白いひげのおじいさんも出てきた。内容はまったく覚えていない。
一つ年上のMは「大蛇のダーナ」の歌を記憶しているという。原作は山川惣治。わたしの記憶は、どうも「狼少年ケン」とまぜこぜになっているような気がする。
ご存じの方、情報をお寄せください。
千石英世の評論集『アイロンをかける青年』(1991年発行・彩流社)を読んでいる。先日、福間健二さんにアシュベリーの話をうかがったとき、千石さんの名前が出て、次の日図書館で、この本を見つけた。
「アメリカの批評とアメリカの詩」という論考で、アシュベリーについてかなりのページがさかれている。アシュベリーのことを何でもいいから知りたいと思っていたので、とてもうれしかった。
難解なアシュベリーの詩は、熱狂的な人気を得て、次々と賞を受けている。けれども一方で「アシュベリーは文学に関する書き手であって、生きることにかかわる書き手ではない」という批判的な意見もあるという。
全部を理解できなくても、アシュベリーの詩に強い魅力を感じる人がたくさんいるのを知って、自分のことのようにうれしくなった。
浦沢直樹の『二十世紀少年』、たまたま発売中だった8巻を買ったのだった。家族には馬鹿にされたけど、これがおもしろかったら、1巻から買えばいいのだと自分を慰めた。
科学冒険漫画ということだけど、怖い。2000年に「血の大晦日」という事件が起こって、世界を救おうとした少年たちが悪の巨大組織によって凶悪犯にされてしまう。
残虐シーンなんかないのに、この怖ろしさはなんだろう。きっと近未来という設定で、今現実に起こってもおかしくないような話が展開されているからだと思う。
漫画を読んで怖いと思ったのは、梅図かずおの『猫目の少女』(古い!)以来です。
ウディ・アレン監督の『ギター弾きの恋』を見る。監督自らが狂言回しの一人になっているのだけれども、出てこないほうがいいんじゃないと思った。
天才ギタリストエメットを演じるのは、ショーン・ペン。どうしても『デッドマン・ウォーキング』の囚人のイメージと重なってしまう。天才の哀しみや自負など、人間としての厚みがあまりみえないのが難。やっぱりいい男に演じてもらいたいなあ。
口のきけない恋人ナッテイがよかった。可憐な顔立ちで、男の言いなりにはならないたくましさがある。ちょっとミア・ファーローに雰囲気が似ています。
先週の『誰でもピカソ』に、フジ子・ヘミングが出演していた。とても驚いたけれど、楽しみに見た。
1999年2月にNHKで放映された「フジコ・ピアニストの軌跡」という番組をたまたま見た。すごい衝撃だった。身体からあふれ出るようなピアノ。太い指が力に満ちた繊細な音を奏でる。ミスタッチも多い。でもそれも含めていつまでも聴いていたいと思うようなピアニストである。
それから『奇蹟のカンパネラ』というCDをずっと聴いている。ショパンとリストの曲ばかりである。温かみがあって、力がこもっている。
20年ほど前に、クラシックギターの巨匠アンドレス・セゴビアの演奏を聴いたことがある。80歳に近いセゴビアは、いくつかの箇所でつっかえ、その度に弾き直すのだった。そのまま流してしまえばわからないのに、何度もやり直す姿には人を感動させるものがあった。
音楽家としての誠実とプライド。わたしたちは正確無比な演奏を聴きたいわけではないのだと思う。
先日大学生の方からもらったメールに、浦沢直樹の『二十世紀少年』という漫画がおもしろいと書いてあった。真理子さん、情報ありがとう。
漫画はほとんど読まないのだけれど、たまたま新聞に大きく広告が載っていたので、買ってみた。何といってもタイトルがいい。「少年」と「二十世紀」。どちらにも興味あります。
『オール・アバウト・マイ・マザー』をビデオで見る。2000年のアカデミー賞最優秀外国映画賞に輝く映画。フランスとスペインの合作で、ペネロペ・クルスが出ていることもあって話題になったもの。
ひとことでいうと女性賛歌の映画。シチュエイションなどかなり無理がある、というか滅茶苦茶なのに、大まじめなところが何ともおかしい。
監督のペドロ・アルモドバルは「女であるために女を演じるすべての女たちへ」捧げるといっているが、まともな男は一人も出てこない。ほんとにとっても変だけど、ヨーロッパ映画の未来を感じさせる作品だと思う。
古内美也子さんからミモザの花が届く。ご自宅の庭に咲いたとのこと。昨日、清水鱗造さんの「うろこ新聞」でミモザの写真を見たばかり。
木に咲いているのは見たことがあるけれど、近くで見るのは初めて。元気の出る鮮やかな黄色の花で、「ミモザ」は通称、正式名はアカシア。
ミモザサラダをときどき作るのだが、やっと本物を家族に見せることができた。ゆでたまごの黄身をこし、白身はみじん切りにしてレタスの上にのせたサラダです。
テレビでアラン・ドロンの『サムライ』を見る。高校生のとき以来。
最近読んだ堀江敏幸の『郊外へ』(白水ブックス)のなかに、ドロンに触れた短編があって、『サムライ』についてもファンならではの感想が書きこまれている。
ドロン演じる殺し屋がカナリアを飼っていて、孤独な彼の唯一の慰めかというとそうではなく、カナリアは他人が室内に入るとエサを食べずに、暴れて羽が散らばるのだ。
また彼は、帽子とトレンチコートを愛用していて、部屋に戻るときちんと入り口に掛ける。行動の一切を儀式化することに喜びを感じる殺し屋である。
ドロンは『ル・ジタン』のあたりがすてきだと思う。中年になって、柔和な雰囲気が加わったような気がする。
朝起きたら、腕と足が腫れあがっている。皮膚科に行くと、花粉の接触蕁麻疹ではないかとのこと。高尾山はスギだらけだった。アレルギー体質なので、春は毎年何かと大変である。
インターネットで、沖縄の古書店に注文した本が届く。アニー・ディラードの『石に話すことを教える』(内田美恵訳・めるくまーる)とガートルード・スタインの『三人の女』(落石八月月訳・マガジンハウス)。
どちらもきれいな本である。古書店にとっても本を探す側にとっても、インターネット通販というのはいい方法だと思う。
Mと高尾山へ。ドライバーのメッカといわれる高幡不動で、車に貼る交通安全のお守りシールを買おうと思ったのだが、売っていなかった。で、急遽高尾山へ。
街なかで、赤いもみじ形のシールをつけた車をよく見かける。まんなかに高尾山と書いてあって、ぜひ欲しいと思っていたのである。
駅前は疎水沿いに渋い土産物店が並んで、風情がある。ここに来るのは二十数年ぶり。二人乗りのリフトで山頂へ。ウィークディなので人が少ない。めでたくシールをゲットしお土産も買って、とんぼ返り。多摩モノレールにも初めて乗った。
今日も元気に花粉が飛んでいる。一日中頭が痛かった。
車中では海野弘の『プルーストの部屋』(中公文庫)。プルーストは昔から気になっている作家の一人。
瀬尾育生さんや福間健二さんたちが出している『GENIUS』のコピー版『GIP』が届いた。作成中の原稿を開示して、読者の反応を取り込んでいくという新しい試みの詩誌である。
めくっていたら、わたしの名前が出ているので驚く。横木徳久さんが毎号ポルトガル詩の訳をなさっているのだが、原文も載せてほしいと生意気に書いてしまい、そのことが付記してあった。
ポルトガル語を勉強しようと思っていて、原文があったらファイルし、いつか自分でも訳してみたいと思った。それだけなのですが。
ステファン・エリオット監督の『氷の接吻』を見る。この邦題はよくないなあ。
アシュレイ・ジャッドが殺人犯を演じている。『ダブル・ジョパティー』でもハードな役をやっていた。ヒロインのジョアナはアメリカ大陸を移動しながら次々と男を殺していく。それを英国の諜報部員「EYE」(ユアン・マクレガー)がたまたま目撃し、仕事を放り出して彼女を追跡する。
ジョアナがなぜ男を殺害するのか、EYEがなぜ彼女に惹かれてしまうのか、説明がないのだけれども、なくてもいいかなとも思う。アシュレイは薄幸の美女役がぴったり。
『ブラス!』で初めてマクレガーを見たとき、顔が大きくてイモっぽいと思ったけれど、この映画では眼鏡をかけて白いシャツをきちんと着て、なかなかすてき。なのに「どこにでもいるような男」という役柄になっている。ちょっとかわいそう。
それからジュヌビエーヴ・ビジョルドが渋い脇役で出ている。女子服役囚の指導官。つねにかつらをかぶり、コニャックとジタンを好む。それを教え子であるジョアナは、そっくりまねする。
ビジョルドは、『ニキータ』のジャンヌ・モローを思い出させる雰囲気。はじめは誰だかわからなかった。確か『1000日のアン』で主役を演じた女優さん。
国立市公民館の「図書室のつどい」へ。福間健二さんと小池昌代さんの朗読とトーク。無料である。わたしが一度だけお金を払って聞いたのは、このお二人と宮尾節子さんの朗読会だった。子どもを産むと女性はきれいになるというけれど、小池さんは今まで見たなかで、いちばん美しかった。声もいつものように艶やかできれいだった。
福間さんは「侵略的少女」その他、小池さんは鳥と木の詩を朗読。トークは「おねしょ」の話が中心で、聞いている人はどんな展開になるのか興味津々だったと思う。福間さんはちょっと困っているようにみえた。
打ち上げの席では、朗読会をめぐって熱い意見が交わされて、とても楽しかった。瀬尾育生さん、桐田真輔さん、評論家の方、映画関係の方、タウン誌を見て来たという若い女性と同じテーブルで、吉田文憲さんとは席が離れていたので、ご挨拶しただけでお話ができず、残念だった。
福間さんの声はとても若い。そう言ったら、雨矢ふみえさんが「ハンサムな声ね」とおっしゃった。なるほど。
『ウンベルト・サバ詩集』(須賀敦子訳・みすず書房)を読む。最近なぜか小説ではないものを読みたいと思う。
須賀敦子の訳がいいので、サバの詩に好感を持った。シンプルな叙情詩である。イタリアを代表する二大詩人の一人という。
何によっても埋めることのできない深い孤独が、おおらかな作品に陰影をつけている。
市川準監督の『東京マリーゴールド』を見る。主演は田中麗奈。
一年の期限付きで恋人同士になる男女の話。エリコ(田中)は合コンで知り合ったタムラに惹かれるが、彼にはアメリカに留学中の彼女がいて、二人の女性の間で揺れることになる。
タムラを演じるのは小澤征悦。小澤征爾の息子だけど母親似。おかあさんは元モデルの入江美樹。とても美しい、華と品のある女性だった。エイズで亡くなったモデルのティナ・ラッツに少し似ている。ウィーンフィルのニューイヤーコンサートでは、客席の小澤一家が映っていました。
田中麗奈が出ている映画はどれも安心して見られる。清潔などこにでもいる女の子という容貌とキャラクターは貴重。監督もそれを大切にしているように思える。
エリコがバイトで出たCM。これがとてもいい。野球用品のCMで、サラリーマンや銭湯帰りの芸妓がキャッチボールをするというもの。一人がボールを投げると、画面がまったく変わり、最後に「野球をしませんか」。
井の頭公園やお台場、浅草など、東京の街を見る楽しみもあって、おすすめ。
ドリス・グランバックの『静けさと沈黙のなかで』(東江一紀訳・角川書店)を読んでいる。グランバックは74歳の小説家。
彼女は極寒のメイン州で通信手段を断ち、一人で過ごす。50日の間に書かれたのが本書。メイ・サートンの『一人独の日記』を連想してしまうが、詩人と小説家の資質はこんなにちがうのだなあと思った。
グランバックの孤独は「期限付き」なので、俗世間とのつながりを断ち切ったわけではない。孤独ではあっても「孤高」ではない、ということだろうか。
国分寺の古本屋で、ジャン・グルニエの『孤島』を買う。図書館で読んでから、ずっと欲しいと思っていた。古本屋は久しぶり。
三原光尋監督の『あしたはきっと』を見る。女子高生のひと夏を描いた映画。片思いと不思議な出会い。主演の吹石一恵が浮いてしまっている。大きくて元気すぎ。
好きな男の子に告白して振られ、時間が戻ってしまう。もう一度振られることになるという、わりとありきたりなストーリー。でも、作り方によってはもっとすてき作品になったのではないかと思う。ブドウ畑の美しさだけが◎。
三原光尋は、『ヒロイン ナニワボンバーズ』(室井滋主演)や『燃えよピンポン』(中川安奈主演)も作っている。二つともお笑い系でした。
レベッカ・ブラウンの『体の贈り物』(マガジン・ハウス)は、すばらしい本である。エイズ患者の介護をしている女性が語る11の物語。
「私」は、淡々と患者の哀しみや歓びを描写する。悲惨な場面はひとつもない。相手のプライバシーに立ち入らないように、しかしフレンドリーに手助けをする「私」。
これを読んで、介護という仕事に興味を持つ人がふえるのではないかと思う。人間としての尊厳を失うことがないように、愛され必要とされているという幸福な気持ちを最後まで持ち続けるように、「私」はさりげなく心をくだく。
いつかこういう仕事をしてみたいとわたしも思った。
辻征夫さんのエッセイ集『ゴーシュの肖像』(書肆山田)を奥さまからいただいた。辻さんが詩について書かれた文章が昔から好きで、この本にもたくさん収録されている。
むずかしいことばを一切使わない、楽しい文章が、心の深いところにずっと残る。詩を書き始めた頃に、辻さんが投稿作品の批評をなさっていた。わたしは投稿なんてとんでもないというレベルのものを書いていたのだけれど、「書きっぱなしはだめだと思う」という一文にいたく感激したのだった。
以来このことばを忘れたことはない。「と思う」がいかにも辻さんらしい。怒ったりもったいぶったり、偉そうにお説教したりしなかった辻さん。でも詩に関しては、甘くなかった。拙詩集に「まだまだ不満です」というおはがきをいただいたこともある。
二年前の1月14日、不思議なことが二つあった。待っていたバスが来なかった。1時間に1本の便で、3分前から時計を気にしながら書店にいたのだが、バスは現れなかった。単なるわたしの不注意かもしれないけれど、普段はないことである。
もう一つ、その帰りに車中で文庫本を読んでいて、降りようとしたときに緑色のねっとりしたものがカバー一面に付いていた。周囲に人はいなかったし、わたしは両手で本を持っていたのだから、誰かが何かを塗ったり、上から落ちてきたりということはありえない。ぞっとした。確かめるのも怖ろしくて、すぐにカバーを丸めて捨てた。
それまでそういう経験をしたことはないけれども、奇妙なことが続くと、日頃ぼんやりしているわたしでも、何かあったに違いないと思った。
その日辻さんが亡くなったことを、翌日知った。初めて虫の知らせというのを経験した。2カ月前に辻さんとお話したばかりだった。
『小説家を見つけたら』(ガス・ヴァン・サント監督)を観る。主演はショーン・コネリー。
小説を一冊出したきり、外に出ない老小説家と黒人少年の友情を描いた、さわやかな佳品。小説家フォレスターを演じるショーン・コネリーがいい味を出している。少年も真面目でピュアな雰囲気で、思わずがんばれと声をかけたくなった。
16歳の少年には文学の才能があって、偶然知り合った小説家はそれを伸ばそうと手を貸す。文学作品の一節がたくさん出てくる。小説家はサリンジャーがモデルとか。
少年はバスケットの花形選手でもある。試合シーンも楽しめます。彼に心を寄せる少女を演じているのは、『ピアノレッスン』の女の子。
「虹の彼方に」と「ワンダフル・ワールド」をつなげた歌がエンディングに流れて、クレジットを眺めながら最後まで聞き入ってしまいました。
用があって目黒に出かけたついでに、都庭園美術館に寄る。1933(昭和8)年に竣工された旧朝香宮邸がそのまま美術館になっている。複数のフランス人デザイナーが内装を手がけた、アール・デコ様式のすばらしい洋館。特に照明は必見です。
前に来たときはガラスの展覧会をやっていて、押すな押すなという感じだったけれど、きょうは人がまばら。企画展もないので、ゆっくり館内を見ることができた。
豪華だけれど居間や寝室など、庶民的な広さなのがほほえましい。ここに来ると貴婦人の気分になれます。ほんと。
ひばりヶ丘のカフェ・ドゥ・モンドでベニエを食べる。「ベニエ」はパウダーシュガーがかかった揚げ菓子。ニューオリンズでこれを食べたMが、向こうではもっと甘かったと言う。
それにチコリコーヒー。野菜のチコリが入っているのかと思ったけどそうではなく、エンダイブの根とコーヒー豆をブレンドしたもの。ちょっと酸味があり、エスプレッソみたいなコーヒーがマグカップにたっぷり。アメリカ南部ではこういうものを飲んでいるんですね。
マルグリット・ユルスナールの『黒の過程』(岩崎力・白水社)を読んでいる。とてもいいから、と昨秋ある人が送ってくれたのをやっと開いた。古代ギリシアの哲学者ゼノンの一生を描いた小説。冒頭から「世界史」の世界で、とまどったけれど、何とか入っていけそう。
夜、教育テレビの「芸術劇場」でオペラの映画を見る。ヴェルディの『トラヴィアータ〜椿姫』。昨年のイタリア賞とエミー賞を受賞した2時間10分の長編。指揮はズービン・メータ。『椿姫』は好きで、一日中かけていることもある。
35台のカメラを使い、パリの歴史的建造物を舞台にして、歌手が歌い演技した「実写」映画。ヒロインを演じた歌手は新人だそうだけれど、華があって美しく声にも深みがあった。ヴィオレッタは高級娼婦なんですね。知らなかったなあ。
素人もオペラの魅力を満喫できる、うれしい映画だった。満足。「トラヴィアータ」は「道を踏み外した者」という意味だそう。
チャン・イーモウ監督の『初恋のきた道』を観る。
主演のチャン・ツィイー演じるティがとてもかわいい。町からやってきた先生に恋をして、彼のために料理を作る、健気な少女の初恋。学校の近くの井戸まで水を汲みに行くティ。町へ帰っていく先生の馬車を追ってひたすら走るティ。一本道に立って彼を待つティ。
中国の山間の村がとても美しい。白樺の林や若草の萌える頃。初恋と家族の愛、人間愛。心の深いところにいつまでも残る映画だと思った。
暮れに買っておいた田口ランディの『コンセント』を読み始めるが、断念。辻仁成の『ピアニッシモ』を読んだときにおぼえた違和感と似たものを感じた。
時代のムードと病巣をめいっぱい取りこんでいて、週刊誌の連載小説のようでもある。そういうのはどうも苦手。田口ランディは昨年J-WAVEに一週間ゲストで出ていて、気負いのない感じのいい人だと思ったのだけれど。
一緒に買った須賀敦子の『本に読まれて』で口直しをする。
ディヴィッド・アーモンドの『闇の底のシルキー』(山田順子訳・東京創元社)を読む。『肩胛骨は翼のなごり』で話題になった作家である。
主人公のキットが元炭坑夫の祖父や少年坑夫の霊、アル中の父親に虐待されるアスキューや女優志望のアリーと心を通わせていくというファンタジー。
イギリスの炭坑が舞台になっていて、さびれた町の描写がすばらしい。長すぎて冗長という気もするけれど、上質のヤングアダルト小説だと思った。
西荻から上石神井までMと歩く。中央線の阿佐ヶ谷に住んでいたことがあるので、何となくその周辺に出かけてしまう。
西荻には吉田加南子さんがお住まいである。確か白石かずこさんも。アケタの店の前を通る。二十数年前にここで浅川マキを聴いた。つい昨日のことのよう。
70年代、わたしの周囲の男性たちはみんな浅川マキが好きだった。気怠くて達観したようなひとだと思った。コンサートの後、阿佐ヶ谷のNで飲んだ。安くて料理がおいしい小さな店。マスターは見かけは強面だけど、つねに細やかな気配りを忘れない人で、今は荻窪で寿司屋をやっている。ずいぶんご無沙汰してるけど、マスターお元気ですか?
東京女子大学の先が善福寺川公園。大きな池があって、きょうは営業していないがボート小屋もある。人間を怖がらない野良猫と犬を散歩させる人、ベビーカーを押す母親たち。
井荻のあたりまで来ると、家並みが庶民的になってくる。何だかほっとする。お茶も飲まずにひたすら歩いた。
鈴木志郎康さんと阿部日奈子さんの詩集が高見順賞に決まったという新聞記事。おめでとうございます。すばらしいことです。清水鱗造さんの掲示板には祝福の書き込みがいっぱい。わたしは出遅れてしまった。
高見順賞はあまり縁がないので、毎年どなたが受賞するか楽しみにしている。お二人に心からお祝いのことばをお伝えしたいと思います。
志郎康さんには、昨年「うろこシティ」の掲示板で拙作に感想やアドバイスをいただき、とてもとても感謝しています。これから身辺が気ぜわしくなることと思いますが、お身体に気をつけてくださいね。
『朗読者』読了。思いがけない展開に驚きながら、引きこまれるように読んだ。
21も年上のハンナとミヒャエルの生涯にわたる恋愛。二人は歴史の渦に巻き込まれながら、自分に誠実に真摯に生きている。
ミヒャエルが過去を回想する形をとっていて、抑制された文章は美しく、全体が深い喪失感を帯びている。すべてが一つのところに収斂していくような、やや図式的なストーリーが気になるといえばなるのだが、すばらしい小説だった。
ユダヤ人迫害の一連の事件が、現代に生きる人々の運命を左右してしまうということ。それが小説の背景にあることに、ヨーロッパの歴史と文化の厚みを感じた、
朝食は七草粥。お米からお粥を炊くのは、一年に一度。一合の米を5人で食べる(小さく切った餅もいくつか入れる)。草の青い匂いに身体が引き締まるよう。
七草のなかにハコベが入っている。小学生の頃、飼っている小鳥のために、よその軒下に生えているハコベを摘み、見つかるとどなられた。雑草なのになんでそんなに怒るのだろうと思った。
その家は凧屋と呼ばれていた。老夫婦で凧を作っているのだった。窓からのぞくと、一つしかない部屋が丸見えで、冬の間だけ子どもたちが出入りして賑やかだった。夏の間は何をしていたのだろう。わたしの家から30歩と離れていないのに、何の噂も聞いたことがない。子どもだったので、そんなことには興味がなかったのかもしれない。
三十数年前の渋谷の話である。ハコベは花も葉も小さくて可憐である。毎年この日になると、凧屋さんのことを思い出す。
プレイステーションを購入。『ぼくの夏休み』と『グラン・ツーリスモ』のソフトも。
ゲームはどちらかというと苦手なのだが、これはおもしろい。『夏休み』は、昭和30年代に子ども時代を過ごした人や田舎で育った人には懐かしく、うれしいものだと思う。
『ツーリスモ』、実際に運転しているような気分を味わえる。人気があるというのもうなずけます。
川越へ。沖縄の物産を売る店で、沖縄そばとマングローブの種を買う。種はオクラを長くしたような形で、かなり大きい。280円。
説明書によると、「マングローブの種」は実はオヒルギという植物。マングローブは、「海水と淡水の混じり合った河口域に生える植物の総称」だそうである。あまり大きくならないとお店の人は言っていたけれど、どんなふうになるのか楽しみ。
車中で『女性署長ハマー』を読む。うーん、出だしは快調という感じではないようです。ハマーってどんな女性だったっけ?ケイ・スカーペッタには強烈な存在感があるけれど、ハマーのシリーズはまだ3冊目。今ひとつ印象が薄い。
新年おめでとうございます。みなさま本年もよろしくお願いいたします。
毎年Mの実家でお正月を迎える。北関東の一都市である。育った家には仏壇も神棚もなかったが、田舎の家には両方あって、神仏にかかわるしきたりがきちんと守られている。このことにはいつも新鮮な驚きを感じる。
また、お飾りの一日飾りはよくないとか、元旦は掃除をしないとか、いくつか新年の決まりごとがある。暮らしにメリハリがついていいなあと思う。
『朗読者』を少しずつ読んでいる。15歳のミヒャエルと36のハンナの愛の日々が美しい。ていねいに書かれているので、味わうように読んでいる。抑制された知的な文章。裁判のシーンに息が苦しくなってくる。