7月29日(水)

2週間ほど前にロングアイランドに住む友人にSAL便で送った本が届いたというメール。SAL便は船便より速く、航空便より安い。10年ほど前に福間健二さんに教えてもらってから、海外へ冊子を送るときはいつもSAL便にしている。メールの終わりに「Best regards」とあって、これが結語であることを知った。


7月27日(月)

『ためらいの倫理学』のなかで内田樹はティム・オブライエンの『本当の戦争の話をしよう』(村上春樹訳・文藝春秋社)を紹介している。ベトナム戦争での兵士の死を淡々とリアルに描いたことを「鎮魂の儀礼」と評価する。戦争や死者を美化するのではなく、ただ語ること。それが「真の鎮魂」であり「謝罪」「告発」であると書いている。このひとはオブライエンまで読んでいるのか。

わたしたちの世代は戦争について語るべきことばを持たないけれど、知らないとか関係ないとは言いたくないと思っている。わたしの父は吉本隆明と同じ年であるが、戦争について話すのを聞いたことがないし(おそらく何も考えていないのだろう)、母は防空壕や食べ物の話しかしなかった。一般庶民にとって戦争とは非常事態というだけだったのだろうか。当時すでに成人していたはずの叔父たちも戦争には行っていない。義父のほか誰も戦争の経験がないのは不思議なことのように思われる。


7月25日(土)

埼玉県立近代美術館で「長澤英俊ーオーロラの向かう所」を観た。長澤は1940年生まれのイタリアで活躍する彫刻家。何も知らずに出かけたのだけれど、とてもよかった。こじんまりとした空間に15のオブジェがしっくりおさまって、カジュアルな展覧会という雰囲気。

石や木材、鉄などを使ったダイナミックなもの、シルクの垂れ下がる繊細なもの。「詩人の家」「バグダッドの葡萄の木」「空の井戸」など魅力的なタイトルを持つ作品には美とぬくもりがある。「彫刻とはもうひとつの自然をつくること」ということばが作品のすべてを語っていると思った。


7月21日(火)

内田樹の『ためらいの倫理学』(角川文庫)を読んでいる。最近は内田さんがブログに書いたものを編集者がピックアップしてまとめるという本の作り方をしていて、語り口は柔らかだけれど、これはそうではない。2001年のデビュー作。文章がまだ硬く、「なぜ私は戦争について語らないか」「なぜ私は性について語らないか」という重いテーマを扱っている。「アメリカという病」ではスーザン・ソンタグを批判していて、興味深い。


7月17日(金)

この4月から英語で日記を書いている。といっても中学生レベルの英文で、和英辞書を引いている時間のほうが長いのだけれど、毎日つけるようにはなった。ためると後が大変だから。少しは英語的な思考ができるようになるのではないかと期待していたけれど、それはまったくなし。ただ食材は何度も引くので、いくつは覚えることができた。「eel」とか「Chinese yam」「leek」等々。記憶で書いた単語はスペルミスが多く、つい塗りつぶしてしまうため紙面が汚い。来年読み返すことはないんじゃないかと思う。


7月14日(火)

篠原憲二さんの『沖の音』(水仁舎)を読む。21年ぶりの詩集とのこと。暮らしのなかのふとした瞬間にあらわれる喪失感や悲しみ、希望の光などをやさしいことばと上質の抒情で描いた36編。久しぶりに余白を味わう詩集を読んだ気がする。同時代の感性を感じます。お元気そうでよかった。

最近、古い友人から次々と本やメールがとどく。何だか不思議です。


7月11日(土)

東京ドームのサイモン&ガーファンクルのコンサートへ。外野席でほとんど見えず、音響がかなり悪い。それぞれのソロ曲や十代のときに作った曲など、初めて聴くものもあった。今年68歳のサイモンはずんぐりしてしまったけれど、声質はあまり変わらない。ガーファンクルはあのときのまま、サイモンはずっとギターを弾きながら、骨太の音楽を聴かせてくれた。「アメリカ」「アイ・アム・ア・ロック」「スカボローフェア」、ラストは「セシリア」。中高年の観客はおとなしく聴いていたけれど、最後でやっと総立ちになり盛り上がる。アンコールもたっぷり。帰宅してCDを聴く。彼らの音楽はわたしの青春です。


7月8日(水)

先日ジャクリーヌ・デュプレのCDを購入したが、音が飛ぶので店に持っていった。店頭のプレーヤーに入れると何ともない。相性が悪いのでしょうと言われる。新しいものに換えてもらったけれど、やはり途中で音が切れた。うちのステレオコンポは2か月前に買ったものだから、それが壊れるまでは聴くことができないことになる。それまではフルニエとカザルスを聴きます。

鹿島 茂『吉本隆明1968』(平凡社新書)を読んでいる。おもしろい


7月4日(土)

アメリカに移住した友人からメールがとどく。独立記念日で休みなのでネットサーフィンをして、このHPを見つけたのだそう。続けていてよかった。18年も会っていないので話したいことがたくさんあり、何度もメールのやりとりをする。彼女のご主人はイランのひと。団地の同じ棟に住んでいて知り合った。イラン料理をごちそうになったり猫を預かってもらったり子どもを見ていてくれたり、ずいぶんお世話になった。日本に来たお姑さんのことを詩に書いたこともある。彼女も健在とのこと。二人のお嬢さんの写真も添えられていた。もうすっかり大人の女性だけれど、子どものころの面影があって懐かしかった。みんな元気でよかった。


7月2日(木)

『1Q84』読了。登場人物のすべてが重い役割が振り分けられている。彼らは深く思考し選択をし、行動する。悪人は出てこない。ドン・デリーロやポール・オースターの小説世界に共通するもの、世界の優れた文学作品(例えばドストエフスキー)に見られる成熟を感じた。オウム真理教がモデルと思われる新興宗教のリーダーに自らの特殊な能力と苦悩を語らせ、新興宗教は狂信的な人間の集まりではないとする村上春樹の解釈に半ば驚きながら、宗教の持つちからを考え直したほうがいいのかもしれないと思った。まだうまく全貌をつかむことができていないのだが、不幸な境遇にあった10歳の少年と少女の間に起こったことが、その後の彼らを支え続けたという設定は納得できるものだった。


6月30日(火)

『1Q84』上巻。農業を中心にしたコンミューンやカルト集団、その闇に分け入ろうとするところで上巻は終わる。愚かな親に奴隷のように振り回され身体を損傷し、表情をなくした子どもが幾人も登場する。主人公の二人もそうした過去を持ち、消したいと思いつつ、ものを考えるときも選択を迫られているときも、心はそこに戻ってしまう。謎が多すぎるという批評も多く、半分を読んだ時点ではまだ何ともいえないけれど、現代日本の暗部と純愛を絡ませて進んでゆく物語に圧倒されるばかりです。


6月27日(土)

ほぼ半年ぶりの外出。神楽坂のセッションハウスで小沢恵美子さんのソロ・パフォーマンスを観る。小沢さんはフィリア・プロジェクトのメンバー。ショスターコヴィッチの交響曲15番を身体で表現する試みで、設計は二瓶龍彦さん。コンクリート打ちっ放しの空間に、重力を感じさせないような歩き方で登場した小沢さんは80分間、静かに踊り続けた。15番は初めて聴いた。美しい旋律はすぐに不吉な音楽に掻き消され、死の気配がしのびよる。当時のロシアの街とショスターコヴィッチのことばがスクリーンに映し出され、全体主義のなかで新しい音楽を生み出す音楽家の苦悩が浮き彫りになってゆく。

白いシャツにゆったりした黒いパンツ姿。震えて小刻みに歩く、腕や足に付着したらしいものを神経質に払い落とすなどの動きで、人間が壊れていくプロセスを表現していた。「わたしの交響曲のほとんどは墓碑銘である」というラストのことば。ショスターコヴィッチの音楽は個人の死を表すとともに、ロシアという国に対する命を賭けた抗議であったかもしれないと思った。


6月26日(金)

村上春樹『1Q84』(新潮社)読み始める。おもしろい。冒頭の青豆のシーンはアメリカ映画を観ているようだし、天吾が出てくるシーンは邦画風。最初から謎だらけ。新聞で特集が組まれたのを読んでしまったけれど、それらを気にせずに集中して読もうと思う。


6月23日(火)

以前、連句でご一緒させてもらった中西誠さんより句集『わが浄土』(文學の森)をいただく。「花を恋う花の憂いは持ち込まず」、こういう句にわたしは弱い。いいですね。付箋を用意して読んでいる。

『墜ちてゆく男』を再読。やはりとても魅力的な小説だと思う。デリーロのクールな文体は好みです。前作『ボディ・アーティスト』の世界と通じるものがあるような気がするので、そちらも近々読み返そうと思う。


6月21日(日)

O市にて義母の納骨。早朝にはどしゃ降りだった雨が小止みになってよかった。車中で木田元の『なにもかも小林秀雄に教わった』(文春新書)。タイトルに惹かれて読んでみたけれど、内容は著者の読書遍歴。何だか騙されような気がしてならない。こういうタイトルは付けないでくださいと言いたい。

『墜ちてゆく男』を再読。主人公の妻リアンと一時的に恋愛関係に陥るフローレンスがはっきり書き分けられていないように思える箇所がある。わたしの読み方が悪いのだろうか。


6月17日(水)

途中になっていた水村美苗『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を読んでいる。わたしたちが何気なく使っている「国語」ということばについて、「〈国語〉とは、もとは〈現地語〉でしかなかった言葉が、翻訳という行為を通じ、〈普遍語〉と同じレベルで機能するようになったものである」とある。たとえばヨーロッパではギリシャ語やラテン語が普遍語であり、学者は普遍語で本を書いた。それを現地語に翻訳したものを一般の人々は読んでいたのだが、次第に現地語のレベルが上がって普遍語と同等になり、ことばは〈国民国家〉の誕生という歴史に絡んで、〈国民国家〉の国民のことばになった。それが〈国語〉だというのである。なるほど。日本では漢文が普遍語で、それを読む下すためにカタカナやひらがなが生み出されて、日本語ができあがっていったということ。

その流れのなかで本居宣長は重要な位置を占めている。小林秀雄と水村美苗の著作が自分のなかでつながった。普遍語から国語へ至ることばの歴史を思う。

水村さんは「くり返すが」と述べて、重要な部分を何度も書いてくれている。ヤマはここですと教えてくれる。それにしても粘着気質のひとだと思う。粘着気質でなければ小説家になれないのでしょうね。


6月14日(日)

先日の補足。芸術家は不幸なのではなく、幸福になれない。なぜなら創作する「私」は前日の「私」でも翌日の「私」でもないから。内田樹によるレヴィナスの説を借りれば、「私」とは「他者」である。芸術家の仕事は、彼らにとって永遠に「他者」の作品なのではないだろうか。だから完成したものに満足することなくさらに新しい作品を生み出すために苦悶する。おそらくストイックな生活のなかで、他人にも厳しく、人間関係はうまくいかず、世間的な評価はさほど高くない。ラフマニノフに限っていえば、そのようである。


6月13日(土)

先日の文章はちょっと雑だったので書き直し。レヴィナスのことばには、悲惨な境遇にあるひとの苦悩を軽減するちからがあるような気がする。


『ラフマニノフ ある愛の調べ』というDVDを観る。2008年のロシア映画。ロシア革命を機にアメリカに亡命したピアニストで作曲家のラフマニノフ。チャイコフスキー、マーラー、モーツァルトなど音楽家を描いた映画はほとんど芸術家は不幸であるという結末になっていると思う。ラフマニノフも両親の不仲、作曲などやめろという恩師、初めて書いた協奏曲の演奏会で大失敗に終わったこと、亡命生活を支えるための、いつ終わるともしれない演奏旅行、望郷の念と疲労が重なって作曲ができない焦りなど、才能ゆえに苦しむ音楽家の姿が描かれる。

彼を愛する3人の女性。時間が前後するので話の流れがよくつかめなかったのだが、ロシア生まれの妻が1920年代に流行った服を着ているのに興味を持った。フィッツジェラルドの妻ゼルダのようなボブヘア、ローウェストのワンピース。そのままチャールストンを踊りそうなファッション。窮地を幾度も救うことになる教え子は筋金入りのマルキスト。時代を感じます。

主人公を演じる俳優はラフマニノフに似ていたけれど、やや小柄。実際は2メートル近い長身で、手も並はずれて大きかったらしいです。


6月12日(金)

内田樹の『こんな日本でよかったね-構造主義的日本論』を読む。「制度の起源に向かって」、「ニッポン精神分析」、「生き延びる力」、「日本辺境論」から成る。内田樹がほぼ毎日書いているブログを編集者が切り貼りして作った本。文章がわかりやすく柔らかい。

このひとはレヴィナスの研究家なので、引用が多いのもうれしい。たとえば「未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは、他者なのだ」(『時間と他者』)などという文章を読むと、よくわからないながらも、なるほどと思ってしまう。レヴィナスは難解であるけれど、そのことばにはこの世界の悲惨を救うちからがある、ということはわかるような気がする。


6月9日(火)

ギャラガーにはかなりがっかり。ストーリーも訳も雑で、ささくれたように感じられる。で、カズオ・イシグロの『充たされざる者』(古賀駿幸訳・早川書房)を読み始める。ヨーロッパの古いホテルにピアニストのライダーがやってきたところから始まる。クラシックなホテルの内部、生真面目なポーター、重要な催しであるらしい「木曜の夕べ」。ライダーはそこで演奏をすることになっているのだが、詳細は何も知らされていない。ていねいでゆったりした訳文が心地よい。期待できそう。


6月8日(月)

テス・ギャラガーの短篇集『ふくろう女の美容室』(橋本博美訳・新潮クレストブックス)。著者は詩人で、故レイモンド・カーヴァー夫人。そのなかの「キャンプファイヤーに降る雨」がカーヴァーの「大聖堂」と対をなすというので読んでみた。お客の盲人と一夜を過ごす夫婦の話。先に発表したカーヴァーに挑戦するような「本当に起きたことはこうだ」という文章を見て、書かないほうがよかったのではないかと思う。ギャラガー作は、庭で夜空を見上げる盲人の傍らに妻が裸で立つというラスト。ちょっとどうかな?

表題作や「祈る女」にはアメリカの田舎町の雰囲気はよく出ていると思う。でも訳にも好感を持つことができなくて、久々の外れかも。この後はカズオ・イシグロの『充たされざる者』を読む予定です。


6月1日(月)

『墜ちてゆく男』読了。ラストはワールド・トレード・センターが倒れるシーン。タワー内にいて階段を下り脱出する人々。その一人が主人公のキースで、親友を見かけ助けようとするが、既に死んでいる。そこから最初のシーンにつながる。顔に硝子の破片が刺さり灰まみれになってタワーを出るキース。

救いはない。キースは立ち直ることができず、家庭は崩壊する。このようなかたちでしか9・11を描くことはできないのだろうと納得した。タワーに突っ込む航空機を操縦した男ハマドを主人公にした短い章もいくつかある。攻撃を阻止するためにイラク軍に向かって走っていく自殺部隊がイランにあるという。少年たちが勝利の声をあげながら、倒れた仲間を飛び越えて走る。そういう国で育ち、テロリストになっていったハマド。

デリーロは『リブラ 時の秤』のなかでも、ケネディ暗殺犯のオズワルドだけでなく、登場するすべての人物を暮らしの細部までていねいに描いていた。それらは冗長なものではなく、洗練された描写で、この作家の知性を感じさせるものだった。知性とセンスと誠実さ。ドン・デリーロはすばらしい作家です。


5月30日(土)

O市へ。車中で井上荒野の『ヌルイコイ』(光文社)読了。テレビドラマのような恋愛小説。最初から最後までありえないと思いながら読んだ。主人公なつ恵はほとんど流されるままに生きているのだが、突然それを壊すような行動をする。『墜ちてゆく男』に出てくる妻リアンは不倫をしているし、その発言には不安定なところがある。最近読む小説に登場するのは怖い女性ばかりだ。

窓の外には水田。苔色の関東平野はなかなか美しい。


5月26日(火)

『墜ちてゆく男』を読む。9・11以後、人々はどのようにして事態を受け止め、回復していったのかということが描かれている。ニュースで見た、介護犬や消防士の話もある。また、地域でひらかれる事件を語り合う会、逆さの宙吊りパフォーマンスをする男、壊れた家族の再会など、ニューヨークで起こったさまざまなことを知ることができる。同じ体験をした者同士が恋に落ち、心の離れた夫婦が支え合う。苦しみと悲しみのなかで求め合う愛のかたち。

数行読む毎に悲痛な気持ちになる。あのときニューヨークに住んでいたすべての人々が何らかのショックを受け、今も抱えているのだということを思う。


5月24日(日)

ドン・デリーロ『墜ちてゆく男』(上岡伸雄訳・新潮社)を読み始める。9・11とその後を描いたと大きな話題を呼んだ長篇小説。2001年9月11日、妻が塵芥にまみれた夫の帰宅に驚くシーンからはじまる。別居中の夫はなぜ戻って来たのか。断片的な会話、現在と過去を交錯させながら、少しずつ明かされていく二人の関係。数ページ読んだだけで、すごい作品だとわかります。


5月22日(金)

ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』(御輿哲也訳・岩波文庫)読了。三部から成る長篇小説。読み終わってみると三幕の芝居を観ていたような気がする。哲学者ラムジー氏の屋敷が第一幕の舞台、二幕めは誰もいなくなった屋敷、最後は船の上。ヒロインともいえるラムジー夫人の死の詳細は隠され、二幕では無人の屋敷をまもる二人の老女が狂言回しのような役を担い、三幕めは生き残った者たちが灯台へ向かう。登場人物それぞれの意識の流れを書きこんでいくウルフは、きっと小説家特有の粘着気質が強いひとだったのだと思う。

三部ではウルフの母がモデルと思われる自我を持った美貌の夫人の思い出を、ウルフの分身と思われる想像力ゆたかな画家志望の女性が語る。他の人物は脇役といってもいいと思う。短い二部に不思議な味わいがあります。


5月17日(日)

週末に義母の通夜と告別式があった。一族が近くに住んでいるので、一連のことが速やかに進んだ。納棺の儀式というのを初めて見た。そのセレモニーホールでは5年前からやっているということだけれど、儀式というよりパフォーマンス。納棺師の演技を客席で見ている感じ。所作も声もきれいな、女優さんのように美しい納棺師さんである。化粧をほどこされた母は生前よりもずっと若く見えた。大変な技である。

家族のためにひたすら尽くしたひとだった。ほんとうの娘のようによくしてもらった。ひっそりと生きた母なので特別な思い出はないけれど、一緒にいる時間はいつも、受け入れられていると感じることのできる穏やかなものだった。お母さんお疲れさまでした。


5月14日(木)

古内美也子さんに電話。『現代詩手帖』に渡辺玄英さんの評が載っていることを伝える。

身内に不幸がありましたので、しばらく留守にします。見てくださっている方、申し訳ありません。


5月10日(日)

暇があると歩くようにしているのだけれど、日々の生活のなかでは買い物のために隣の駅まで往復する程度で、1時間歩いても7000歩くらい。それも寂れたアーケードの商店街を抜けるだけなので、あまり楽しみはない。きょうは阿佐ヶ谷の住宅街を歩いて馬橋公園へ。小さな公園ながら、子どもたちが水遊びができる場所や野球場があり、リトルリーグを見物する。家々の玄関も庭も、通り過ぎるひとの目を楽しまるように手入れされていて、いいなあと思う。

昔入ったことのあるお蕎麦屋で昼食。お年寄りの一人客が多く、狭い店なのに店員さんを呼ぶのに手をたたく老人がいたのには驚いた。偉いひとなのだろうか。

車内でヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読む。古風なところや大げさな比喩にも慣れて、おもしろく思えるようになってきた。8人の子を持つ美貌のラムジー夫人。学者の夫と暮らす彼女と、滞在する客たちの日々の意識が細かく描かれる。ラムジー夫人は自我をもった、女性として知的な人間として書かれている。二つの大戦の間に執筆されたことを考れば、新しい文学の可能性を探りつつ執筆された優れた作品だということがよくわかる。


5月8日(金)

『死の海を泳いで』読了。二度の癌から生還し、さらに白血病を患ったソンタグは生き延びるために、どんなに低い確率の治療であっても受けることを選ぶが、確率に打ち勝てると信じた骨髄移植が失敗に終わり死を迎えることになる。そうした日々を、息子であるディヴィッド・リーフは感傷を一切排して回想する。病を宣告され2004年から9か月後の死に至るまで。ジャーナリストであったからこそ一冊の本にまとめることができた奇跡のような本。

ソンタグは死が近くなっても諦らめず生きるために闘ったのだが、生きることに対する愛と執着はもちろん、無神論者であったことも、死から生還できると信じる力につながっていたと思う。乳癌の化学療法を受けているときの日記には「明るく振る舞おう、ストイックになろう、冷静になろう」と書かれ、さらに「悲しみの谷では、翼を広げよう」と付け加えられていたという。最期まで知的好奇心を失うことなく、全身で癌に立ち向かったソンタグ。ひとは生きてきたように死ぬ。
スーザン・ソンタグもまた。


5月6日(水)

GWは家の修理と掃除で終わる。毎年この時期に大掃除をすることにしようと思う。気候もいいし、年末は大掃除の後にゴミが出ても収集が終わってしまっているので。収納家具を購入し、早めの衣更えをする。雑用の合間にディヴィッド・リーフの『死の海を泳いで』と湯浅誠の『反貧困』を読む。


5月1日(金)

錦糸町のすみだトリフォニーホールでピリス&新日本フィルの演奏を聴く。ベートーヴェンの協奏曲2番と4番。ピリスは草色のブラウスに薄墨色のスカート。音楽に詳しくないわたしにも、ふつうのピアニストではないことがわかる。抑制された、みずみずしいピアノ。ストイックでありながら喜びにあふれた演奏。独奏がオーケストラと一体になるとき、ていねいに渡される和音。ピアノの蓋に映る手首が見えるだけの席だったけれど、上を向くピリスの顔を何度か見ることができた。アンコールはなし。それも潔くていいと思った。

間にゴムツィアコフがシューマンのチェロ協奏曲を演奏した。少し不吉な物語を思わせるが、シューマン自身は「朗らかな曲」と説明していたとプログラムにある。何度も繰り返されるフレーズが記憶に刷り込まれていくような気がした。


4月30日(木)

O市へ。車中で『いま哲学とは何か』(岩田靖夫・岩波新書)の続きを読む。ホロコーストを体験したユダヤ人の作家エリ・ヴィーゼルの『夜』のなかに、こんな話があるという。倉庫に瀕死者と一緒に積み重ねられたヴィーゼルの耳に、突然ベートーヴェンの協奏曲の一節が鳴り響く。闇のなかでどこの狂人がヴァイオリンを弾いているのか、幻聴か。あれほど美しい響きは生涯聴いたことがない、と作家は書く。翌朝、息絶えた死者と押しつぶされたヴァイオリンの破片が床に散乱していたという。

すぐに聴きたいと思い、池袋でCD(演奏はヘンリク・シェリング)を購入。ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は1つしかないのだそう。聴いたことがある曲だった。若いときに聴いたものはしっかり記憶しているが、年とってからはかすかに覚えているという程度になってしまった。ヴィーゼルの聴いたヴァイオリンのようではなくても、いつか身体が動かなくなったとき、記憶の音が耳に響いてくればいいなあと思う。


4月28日(火)

1週間前に歯茎を切開する手術を受けた。といっても少し切って縫うだけのもの。30分ほどで終わる。「少し腫れますよ」と言われた通り、次の日には片方の頬が2倍に腫れ、おさまると殴られたような青あざに。今は黄色い絵の具を塗ったみたいになっている。顔が変形して変色した7日間。そろそろ元通りになるだろう。

ピアニストのマリア・ジョアン・ピリスが来日している。ぜひ生で聴きたくて、インターネットで購入し、コンビニでチケットを受け取る。昔は新宿のプレイガイドまで買いに行ったのに、便利になったものです。


4月27日(月)

『びーぐる』編集部にお礼状を書いて投函する。『死の海を泳いで』を読む。想像していたものとずいぶん違う。ソンタグの生い立ちなどを知ることができるのはうれしいことだが、母親の偉大さに敬意を表し過ぎているように思える。意志の強さや医学の知識、癌に立ち向かう姿勢についてなど。もっと距離をもって淡々と書いてくれたら、と思ってもしかたないのだけれど。


4月24日(金)

『びーぐる 詩の海へ』3号が届いた。表紙の写真は四元康祐さん。シックですてきです。特集の「海外現代詩」では、わたしの知らない新しい詩人たちが紹介されていて、読むのが楽しみ。「わたしの好きな外国の詩」というアンケートがあり、自分なら何を選ぶだろうと考える。ジョン・アシュベリーかパウル・ツェランかな。わたしも「伝言」という詩を書いています。


4月23日(木)

『詩論へ』の感想を書いて投函する。的外れなことを書いたのではないかと、ちょっと心配。

『死の海を泳いで』読み始める。癌を告知されたソンタグは、克服できると信じていたという。わたしの母は心の準備もなく末期癌を告知されたが、死に対する想像力に欠けていたため、まったく動じなかった。仕事柄かあまりにも事細かに書いていて、気が滅入ってくる。どうしても母のことを思い出してしまうのである。


4月21日(火)

『詩論へ』のなかで、瀬尾育生さんが天沢退二郎さんの「血の日曜日」という詩を解読している。描かれた風景の在処を探っていく文章がスリリングですばらしい。〈エテロトピー〉(混在郷)ということばを初めて知った。天沢さんの現代詩文庫を取り出して、読んでみる。

ディヴィッド・リーフの『死の海を泳いで』(上岡伸雄訳・岩波書店)を買う。著者はジャーナリストでスーザン・ソンタグの子息。ソンタグ最期の日々を回想したもの。批評家であり小説家であったソンタグがどのように死を受け入れ、闘ったのか、ぜひ知りたいと思う。


4月18日(土)

昭和記念公園へ。毎年この時期に行くのが恒例になっている。手入れの行き届いた広大な公園。フラワーフェスティバルということで、ポピーや菜の花、ネモフィラなどが花盛り。昭和天皇記念館のある緑のゾーンが新しくできてJR立川駅からすぐに行けるようになった。銀杏の若芽をのぞきながら歩く。気温もほどよい散歩日和の一日だった。

『ヴァージニア・ウルフ短篇集』を読んでいる。「意識の流れ」の手法をもって小説に革新をもたらした作家。とはいっても、おさめられた17の短篇には玉石混淆の感があるのは否めないと思う。今ここからのまなざしではなく、その時代に降りていって読まなければならないのだろうし、研究者ではないのでえらそうなことは言えないが、ウルフの作品には小説というより詩に近いものを感じる。何を書くかではなく、どう書くかということに力が注がれているように思える。数年前に買ったことを忘れて、また購入してしまった。


4月17日(金)

「短篇通信」更新しました。まだ整理不足で読みにくいかと思いますが、お時間のある方はのぞいてみてください。『雨期』38号〜43号に掲載したものです。


4月16日(木)

家族が借りたDVD『ペネロピ』を観る。タイトルが妙だし、豚の鼻をした女の子の話と聞いて、子ども向けかと思ったのだが、大人の観賞にもたえるおもしろさだった。名門ウィルハーン家の5代目の娘ペネロピは呪いをかけられて豚の耳と鼻をもって生まれ、屋敷から出たことがない。同じような家柄の男がありのままのペネロピを愛したとき呪いがとけるというので、毎日のようにお見合いをさせられて7年、やっと一人の男が現れる。

けれど彼はペネロピの写真を撮るために雇われたギャンブル狂いで、名門の子息ではない。賢く心優しいペネロピに惹かれ、事情を理解しながら、求愛を受けることができずに去ってしまう。失望したペネロピは初めて外の世界に飛び込み、一人で暮らし始めて・・・。イギリスが舞台のため建物や室内が重厚で、全体に暗い色調なのがヨーロッパ映画風。ちょっと『シザーズ・ハンド』と似た雰囲気がある。主演はクリスチーナ・リッチ。監督は
マーク・パランスキー。


4月14日(火)

首都大学東京 ・現代詩センターの機関誌『詩論へ』1号をいただく。執筆者は北川透さん、藤井貞和さん、福間健二さん、瀬尾育生さん。藤井さんの「詩学のために」に本居宣長のことが書かれている。どこまで理解できるかわからないけれど、味津々で読み始めた。

北川さんの「〈私〉と〈他者〉と〈現在〉」、福間さんの「詩について語る」、瀬尾さんの「聖戦遂行型戦争機械について」。いずれも長篇の評論。190ページという厚さで、一学年度に二冊のペースで発行とのこと。


4月12日(日)

上野の文化会館へ。フジコ・ヘミングとリトアニア室内管弦楽団のコンサート。洗練された管弦楽団の演奏と骨太のフジコのピアノ。モーツァルトというのもちょっと意外。チケットをもらって、初めてピアノ協奏曲を聴く。

紫色の羽織みたいな上着に白いブラウス、朱色のリボンを帯のように結んだ独特のファッション。没落貴族ということばが浮かぶ。下はレギンスに平たい靴。火消しのお兄さんのようだが、それがまたカッコいい。フジコのいつもの(CDで聴いている)スタイルと速度でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番を弾いていた。

演奏中に雑念が入ったり、ミスを引きずったり、先の難所のことを考えたりすることはないのだろうか、といつも思う。集中力を切らさずに弾ききるピアニストってすごい。才能と練習。それがすべてだろう。アンコールバッハの「主よ人の望みの喜びよ」とリストの「ラ・カンパネラ」。この曲を生で聴くことができるとは思わなかった。涙が出る。何度もアンコールに応えてくれた管弦楽団の最後の曲は、ヴァイオリンの弦を指で弾く小品。タイトルはわからない。

上野公園の桜は終わりだが花見客はいっぱい。ここは日本なのだろうかと目を疑うような、ちょっと異様な風景。モーツァルトの余韻も醒める。
湯島を通って本郷三丁目から丸の内線に乗る。


4月10日(金)

たまたまつけたテレビで、マリア・ジョアン・ピレシュというピアニストのワークショップをやっていて、釘付けになる。ピレシュは日焼けした小柄な女性。白い木綿のワンピースに、すてきなカットのベリーショート。生徒は11歳のオランダの少年で、曲はシューマンのアラベスク(初めて聴いた)。「光を感じて」「願いを外に向けるように」というような指導をする。年嵩の生徒たちに囲まれて何度もやり直しをする少年がちょっと気の毒になる。でも相当な技術を持っていることはわかる。

ピレシュは1944年リスボン生まれ、ブラジル在住。最後に「ピレシュの至芸」と題して、コンサートでの連弾が映された。ごつい腕時計をつけ、片方の手首にはタトゥのようなものが。手が小さいのに、ダイナミックに弾きこなす。今までわたしが持っていたピアニストのイメージをあっさり覆すカッコよい女性。来週も見なくちゃ。


4月8日(水)

『本居宣長補記U』まで読了。小林秀雄は古人の心に添って『古事記』を読むべきであって、学者のように解釈してはならないと何度も書く。神話が生と暮らしを支えていた、文字のなかった時代の人々の心に降りよ、と。

うまく全体が掴めないので、橋本治の『小林秀雄の恵み』(新潮社)を読み始める。おもしろい。本居宣長は歌を詠んだが、師である賀茂真淵からやめろと言われる。真淵は「万葉ぶり」しか認めなかったのだが、宣長の歌は「今風」であった。

『源氏物語』の作中人物には『源氏物語』という「自分の生きる世界」があって、その世界は、作中人物の彼や彼女に「生の声」を発せさせてくれる「土壌」となる。しかし、本居宣長にはその「土壌」がない。(中略)『源氏物語』以後にその「土壌」はない。その「土壌」はどこへ行ったのか?(中略)その謎を求めて、本居宣長は「『源氏物語』に於いて生の声を発せさせる≠可能にした土壌」のルーツ探しを始める。宣長はかくして『古事記』へと向かうのである。

そういうことなのか。あまりにも長い本なので前半の内容を忘れてしまった。何かズルしているような気もするけれど、橋本治さんにおしえてもらうつもりで読んでいこうと思います。


4月5日(日)

ヴァージニア・ウルフの『灯台へ』(御輿哲也訳・岩波文庫)を購入。一緒に『ヴァージニア・ウルフ短篇集』(西崎憲訳・ちくま文庫)も。小池昌代さんが薦めてくれたので、最も新しい池澤夏樹訳のものを買おうと思ったけれど、ジーン・リースの『サルガッソーの広い海』(未読です)も入った二本立て。やっぱりウルフだけのほうがいい。

数年前にウルフの文庫を読んだのだが、見当たらないしタイトルも覚えていない。そのときは退屈と思ったのだろう。今度は最後まで読もうと思う。冒頭から重たくて、イギリスという土壌ゆえか、シルヴィア・プラスの世界に共通するものを感じる。


4月2日(木)

札幌で発行されている同人誌『グッフォー』51号に、堀川正美さんの詩「休息の半島」が引用されていた。いいなあと思い、現代詩文庫を読み返している。その一部を引く。

この火葬のくらい谷をくだると
合歓の花が咲き
こいびとたちは青くもえながら待っている
生と死に裏切られ讃歌もなくゆらめいて

また丘で
きみは、一本の削られた櫂である
女たちはみな一枚の葉となる
信頼にたかなるためではなく
不吉な色のひとふりの
ふるびた剱をなおもかぎりなく燻すため
年の終りごとにあつめられるのだ

叙事詩のようなスケールの詩である。


3月31日(火)

三井喬子さんの個人詩誌『部分』39号を読む。三井さんの「早く目覚めて」は力作。「戦争」ということばを反語的に使って、身体と思考の流れを作品にしている。最終連がいい。「わたし」は「世界は滅びよ!」と言い放つのだが、それは「美しく さびしい朝に。/早く目覚めて /なすべき仕事すらもない と思う朝に。」というのである。

もう一つの詩、時里二郎さんの「通訳」に圧倒される。丸木舟の上で通訳と「ことば」についての問答をするという内容。「舟はことばを運ぶもの」。島人のことばに対する信仰が「わたし」を戸惑わせる。「島嶼論より」と最後にあるから、連作なのだろう。ことばの発生について考察された、すばらしい詩であると思った。


3月27日(金)

久々に都心へ。帰宅後、顔の皮膚がちくちくする。最近は長い時間戸外にいると花粉の症状が肌に出る。まだらに赤くなり痛痒い。今年は軽いと思っていたけれど、やはりそんなことはなさそう。

内田樹の『こんな日本でよかったね』(バジリコ)を読み始める。内田樹のブログからコピペしたテクストという体裁になっている。第一章「制度の起源に向かって」の最初の文章は「「言いたいこと」は「言葉のあとに存在し始める」。「発話主体がまず存在して、それが何かを発語するわけではない。発話主体は発話という行為の事後的効果なのである」。それが構造主義言語学の常識であると書かれていて、目から鱗でした。


3月24日(火)

WBCを観る。9回に心臓がバクバクし始め、10回の裏は観ていられず、テレビを消す。すばらしい試合だった。岩隈と中島にMVPをあげたいです。杉内にも。

礼状を2通書き、校正をする。一行がうまくいかず悶々とする。明日になると別の一行が不満になるのだろう。


3月22日(日)

池袋で『ボン書店の幻』(内堀弘・ちくま文庫)を買う。詩人の中村剛彦さんからおしえてもらい、読みたいと思っていた本。O市を往復する電車のなかで読了。1930年代にあらわれたモダニズム詩の出版社、ボン書店。鳥羽茂という青年がひとりで活字を組み、好きな詩集を造っていた。詩人の卵でもあった鳥羽茂の評伝。印刷の仕事で得た収入のほとんどをつぎこみ、瀟洒な装丁の詩集を次々と世に出したが、結核のために仕事が立ちゆかなくなる。東京を去り、故郷の九州に戻って死去。享年28。

一人で出版と印刷をこなし、モダニズム詩の時代を拓こうとした鳥羽茂という一出版人の足跡を追った著者は、古書店の店主とのこと。中原中也のようなモダンな服装をした姿やボン書店が手掛けた詩集の写真が多数が挿まれていて、詩集出版の原点を知ることができ、おもし
ろく読んだ。                                  


3月18日(水)

段々社の坂井正子さんより、ラスキン・ボンドの短篇集『ヒマラヤの風にのって』をいただく。ヤングアダルト小説。最初の「ぬれた紙幣」を読んで驚いた。さわやかである。スリの少年がインドの街なかで見かけたアルンという男の下で働くことになる。アルンは料理の仕方や名前の書き方をおしえてくれたが、悪癖が抜けない少年は金を盗み逃げようとする。駅で列車に乗ろうとしたところで、こう考える。きちんとした文章を書けるようになれば、100ルピー以上の大きな成功を手に入れることができるではないかと。文章の書き方を習いたいというのが少年の切なる願いだった。

悪人は出てこない。アルンは、ひとを疑うことを知らない若い男である。国民の意識を高めるための小説という読み方もできるだろうが、この物語はもっと風通しがよい。著者は1934年生まれ。イギリス人の両親を持ち、インドで育った。この爽快感はどこから来るのか?

二番目の「アストリーさんはいつ帰る?」も読んでみた。旅に出た主人の帰りを待って、屋敷をまもる黒人の老人の話。主人と爺やの対等な関係。互いを認め合い、大切にする。二つの短篇に共通しているのは、インドの人たちの他者との関わり方が一貫しているということ。年齢も人種も貧富の差も関係なく、人間として尊重し合う。素朴な物語のちからを持った短篇である。


3月17日(火)

『本居宣長』の最後近くに、死について書かれた箇所がある。そこだけトーンが違うので、気になって何度も読んだ。引いてみます。

本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。己れの死を見る者はいないが、日常、他人の死を、己れの眼で確かめていない人はないのであり、死の予感は、其処に、しっかりと根を下ろしているからである。

小林秀雄はここで自らの最期を見据えたのだと思う。


3月15日(日)

N響アワー「ベストコンサート2008」を見る。ソロの第一位はレイフ・オヴェ・アンスネスという30代の男性ピアニスト。ラフマニノフ第二番の二楽章を聴く。俳優のような顔、苦悩の表情。演奏には気品があった。きっと女性ファンが多いだろう。先日、中国の天才ピアニスト、ランランの演奏をテレビで見た。超絶技法と派手なパフォーマンスに驚いたが、小太りで漫画のような顔をしているのにちょっと興醒め。ピアニストにはストイックな容貌と雰囲気があってほしい。ランランは28歳。年を取れば枯れてくるかもしれません。


3月13日(金)

小林秀雄『本居宣長』読了。でも上巻の内容はかなり忘れてしまったし、理解できたか心許ない。今わかったといえるのは、宣長は『古事記』を、学者のように解釈するのではなく、古人の心に入り、その時代を生きる者として読んだということ。そしてたった一人、信じる学問の道を拓いていったということ。師である賀茂真淵との訣別や上田秋成との論争など、孤独な闘いを強いられることもあったが、学ぶよろこびに満たされた生涯だった。

長い「補記」は後にして、巻末にある江藤淳との対談を読むことにする。要点をチェックできると思う。何か受験生みたいだけれど。


3月10日(火)

娘の卒業式。この学年(平成2年〜3年3月生まれ)はみんなおっとりしていて、いい意味で幼さが残っているように思える。この地域だけかもしれない。小学校・中学校の卒業式のときも、先生たちがそのようなことを言っていた。悪ぶっている子がいない。茶髪も腰パンもドレッドもいない。畑に囲まれ、古戦場の近くという環境も関係しているのだと思う。卒業証書授与のときにパフォーマンスをやる子が数人いたけれど、それも微苦笑を誘われるというほどの無邪気なものだった。最後に、先生方に感謝の呼びかけ(小学校でよくやる、あれ)をして、花束を贈呈していた。涙ぐむ先生も。あたたかな、いい卒業式だった。


3月7日(土)

郊外へ出かけ、帰宅したら顔がかゆくなる。花粉だろう。数年前に高尾山に行ったときも、杉花粉で朦朧とした状態になった。突然眠気がやってきて、まっすぐ歩けなかった。11月に寒冷蕁麻疹で皮膚科に行ったときにもらった薬を塗る。数時間で治りました。

WBCを観る。中島はいい選手ですね。きょうのMBPは断然中島だと思います。松坂のピッチングもすごい。球種はよくわからないのだけれど、すごいことはわかる、という程度の野球ファンです。


3月3日(火)

内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)のなかで、名文について書かれている箇所があったので引用します。

名文には名文にしかないパワーがある。それに直接触れるだけで読み手の中の言語的な深層構造が揺り動かされ、震え、熱してくる。そして、論理的思考も、美的感動も、対話も、独創的なアイディアも、この震えるような言語感覚ぬきには存立しえないのである。(中略)創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る言葉を聴くというしかたで経験される(「自分が何を」以下傍点)。


夕方スーパーに行ったら、菜の花も絹さやも五目寿司の素も売り切れ。一から作るしかないようです。


2月27日(金)

モーツァルトは長調よりも短調のピアノ曲がいいと聞いた。ソナタ第8番を聴いて、確かにそうだと思った。形式美と転調のみごとさ。世のなかにはモーツァルト好きのひとがあまりにも多いので、長いあいだそんなにいいかなあと思っていたのだが、確かにすばらしい。エッシェンバッハのCDをくりかえし聴いている。難解ではないけれど、ミスなく弾きこなすのは至難のわざだと思う。

クララ・ハスキルというピアニストは、ピアノが弾けなくなったら掃除婦になると言ったらしい(曖昧な記憶ですが)。1曲を最初から最後までピアニシモで弾いたという伝説もある。CDの写真は白髪頭の老婦人。ピアニストってすごい。


2月25日(水)

『雨期』52号ができあがる。萌葱色の表紙にしたかったのだが、安いウグイス餅のように明るい色になって、ちょっとがっかり。色校正をすればよかった。一度もしたことはないのだけれど。詩作品は古内美也子・原口哲也・荻 悦子・山岸光人・渡辺 洋・北野英昭と須永。アンケートは「名文とは?」で、荻・原口・渡辺・北野・須永が回答しています。


2月20日(金)

教育テレビ「芸術劇場」を見る。「南米ベネズエラの音楽教育『エル・システマ』が生んだ奇跡の響き」と題された、28歳の天才指揮者グスターボ・ドゥダメルがチャイコフスキーの第五番を振る「シモン・ボリバール・ユース・オーケストラ・オブ・ベネズエラ」の演奏会。エル・システマは社会政策の一環として全国的に展開されている音楽教育。ベネズエラでは、子どもたちを犯罪と貧困から救うために、無料で音楽教育を受けることができる場所がたくさんあるという。昨年末に新聞で知り、ぜひ聞きたいと思っていた。

若い団員たちで舞台はぎゅうぎゅう詰めという感じ。南米らしく肌を露出し過ぎのドレスや片耳ピアスなど、思い思いの格好で、楽しくてしかたがないというように全身で演奏するのに圧倒された。ドゥダメルもすばらしい。団員と一体になって、ていねいな指示を出す姿に、目が離せなかった。アンコールではバーンスタインの「マンボ」をやって、このときは全員の顔が輝いていた。オーケストラの演奏に感動するというのは初めてのことかもしれない。見てよかったと思った。


2月18日(水)

短い詩の草稿を書く。『雨期』に載せるものは長いあいだ苦しんだのに、すんなりできた。もちろんこれから徹底的に推敲するのだけれど。何か掴めたのであればいいなあ。

アニー・ディラードの『本を書く』(柳沢由実子訳・パピルス)をamazonで買う。ずいぶん前に図書館で借りてよかったので、やはり手許に置きたいと思った。どこで書くか、どんなふうに主題を思いつくか、どのように仕上げるかなど、書くことについてのエッセイ。書斎の様子、日課と食事。書くことを本業としているひとの生活をのぞきみることができる。無作為にひらいたページを少し読むだけで、何だか書きたい気持ちになってきます。


2月16日(月)

『雨期』52号の入稿。今回も苦しむ。これでやっと次の仕事に入ることができます。

財部鳥子さん発行の『鶺鴒通信』冬号を読む。シンプルで美しい詩誌。小説家の加藤幸子さんや入沢康夫さん自筆の短詩、財部さんの詩とエッセイなど読み応えがあります。財部さんとお会いする機会はあまりないのだが、時おり厳しい感想をくださる。そのときは納得できなかったりするが、必ず後で効いてくる。ありがたいことです。


2月14日(土)

散歩日和なので、石神井公園へ。25から30までの間、この街に住んでいた。駅から徒歩20分のマンションとは名ばかりのアパート。精神的にも経済的にもいちばん苦しい時期だった。

ボート池は絶好の散歩コース。昔とまったく変わっていない。三宝寺池は人の手が入らない自然の沼沢地。緑の季節にはまだ早いのが残念だけれど、バンやカモ、オシドリなどの自然の生態が眺められる。井の頭公園を小さくしたような感じ。

『星影のワルツ』を観る。若木信吾という気鋭の写真家が監督の映画。祖父へのオマージュといっていいと思う。大らかで陽気な祖父を喜味こいしが演じる。漫才コンビ「喜味こいし・夢路いとし」の一人。テレビに出ていたとき(40年ほど前か?)は押しの強そうな風貌だったけれど、80歳の今は味わいのある渋さ。東京で写真の仕事をしている孫のノブが実家で過ごした数日を映像にした作品。ノブは祖父の写真を撮り、とりとめのない話を聞く。絵を描き、畑仕事をし、一人で居酒屋に出かけ、兄が自殺した後、海辺で形見のヴァイオリンを弾く。ストーリーはほとんどなく、ただ祖父の行動を追っている。

うーん、ちょっと退屈と思って観ていたのだが、クレジットの後におまけのように実際の祖父の映像が流された。三つ揃いにソフト帽をかぶった姿、畑に座り込んで苗を植える姿。喜味こいしはそれを再現するように演じていたのだとわかった。そこにショパンのノクターンが流れて、なかなか心憎い映画でした。


2月9日(月)

O市へ。月に2回のペースで通うことになった。あれこれ悩むこともなく、ほとんど機械的に一泊分の荷物を詰める。車中で、どうしてもうまくいかない詩を推敲する。これが終わらないと次が書けない。母を見舞う。個室から大部屋に移ったが、みんな眠っていて不気味なほど静かだった。

『4分間のピアニスト』に、手錠をかけられたまま後ろ向きでピアノを弾くシーンがあった。そんなことが可能なのだろうか。ロック系の短い曲だった。


2月7日(土)

『4分間のピアニスト』を観る。ドイツの映画。女性刑務所のピアノ教師である80歳のトラウデ・クリューガーが、囚人の一人で元天才ピアニストのジェニーをコンクールに出場させるまでを描いたもの。トラウデはナチス刑務所の看護士で、同性の恋人を処刑された過去を持つ。ジェニーは無実の罪で捕えられた暴力的な少女。トラウデは昔風の厳しい教師。ピアノを愛し、ジェニーの才能を開花させようと奮闘する。二人の間に信頼関係ができかけるが、すんなりといかないところがアメリカ映画と違うところ。安易なヒューマニズムに持ち込まないのがよいと思った。

ピアノの演奏もすばらしい。ラスト4分のジェニーの前衛的な演奏がすごい。椅子を蹴り、立ち上がって、弦に指をすべらせたり蓋をたたいたり。観客は首をかしげるが、最後には大喝采する。シューマンの曲が現代音楽風にアレンジされたものだそう。


2月4日(水)

Yahooメールにログインできなくなる。なぜかわからないが、IDを打ち込んでも間違っているという文字が。毎回パスワードを変更しなければならず、時間がかかってしまう。この作業で一日が終わったような感じ。

『昭和のエートス』を読む。夜は『本居宣長』を眠くなるまでひらくことにした。朝日新聞夕刊の橋本治さんのコラム「人生の贈りもの」がおもしろく、買ったままになっている『小林秀雄の恵み』を早く読みたいと思う。『本居宣長』について書かれた本です。


2月1日(日)

『雨期』52号の編集作業。この3か月、書いた詩を推敲しているのだが、まだ納得できるような出来ではない。毎日少しずつ訂正している。締めきりがなければ、何年も一つの作品に関わっているだろう。季刊の詩誌『びーぐる』2号、栗原澪子さんの詩集『洗髪祀り』(北冬舎)、『左庭』12号を読む。


1月28日(水)

多和田葉子の「隅田川の皺男」を読む。多和田さんにしてはめずらしく東京が舞台になっている。主人公マユコはOL。ヒロインが物書きや無職という設定が多いのに、これは違う。と思ったら、やはり奇妙な短篇だった。男娼をしている浪人生のウメワカ、目医者の乱暴な女医。ふつうの人間は出てこない。唯一リアルに感じたのは、見知らぬ女が植物園の話をしているのを小耳にはさんで、どこにあるのかと尋ねたところ、その女に引きずられるように植物園に行くことになってしまうという箇所。こういう邦画があったような気がするけれど、何だったか。

多和田葉子の小説はどこをとっても自然ではない。その力業に引きこまれる。室井光広さんの解説がおもしろい。柳田国男の『妹の力』を引用して「あやしのアルキミコ」というタイトルの論考になっている。アルキミコは「歩行巫女」と書くそうです。


1月24日(土)

老親の住む街へ。途中、湘南ライナーが急停車し、蕨駅付近で人身事故があったというアナウンスがあったが、13分後に運転が再開された。駅の手前、隣の線路にリュックサックが置かれていて、停車車両の下にひとの背中らしいものが見えた。レスキュ-隊員が救急箱を持って走っている他は事故の形跡も気配もなかった。無事だったと思いたい。

車中で多和田葉子の「無精卵」を読む。気味の悪い短篇。でも続きが読みたくなる。物書きの女が住む家に浮浪児の少女が侵入してきて、一緒に暮らす話。すべては女の妄想なのだろう。女は野生児のような少女を洗ってやり、いきなり噛みついてくる少女の頬を打ち、縛られて動けなくなり、食べ物を請い、糞尿を垂れ流し、その姿をのぞき見られ通報され、誘拐の罪で逮捕される。ほとんどしゃべることのできない少女がただひとつ夢中でやることは、女の書いた原稿を写すこと。女が連れ去られた後、少女は写した原稿を持って逃げる。

少女は〈作品〉であり、物を書くというのは想像力の産物を人目に晒す恥ずかしい行為。そのように読むことができると思った。


1月21日(水)

オバマ新大統領の演説を聞く。確固としたビジョンがあり、人々に希望を与えることのできる指導者と同時代に生きていること、この日に立ち合えたことに感謝したい。単純に過ぎるかもしれないが、「大統領についていく」という一般庶民のことばを聞いたときに既に胸にせまるものがあった。迷走するアメリカ、混迷のなかにある世界を今よりはよい方向に導いていってくれるに違いない。「今求められているのは、新たな責任の時代だ」、わたしたちはこういうことばを待っていたのだと思います。


1月19日(月)

ポール・オースター『幻影の書』読了。後半の意外な展開に驚く。複雑ないくつかの話が絡み合って物語は進む。映画に取り憑かれ壊れた人間を描いた小説といったらいいだろうか。顔にあざのある美女アルマの悲痛な最期。7年をかけ世界を飛び回って書いた原稿が灰にされているのを見て、衝動的に突き飛ばした相手が死んでしまう。多くの読者はここに至るまでの伏線の数々を思い出すことになるだろう。

先月テレビの料理番組で見て、よく作る真鱈とあさりの鍋。土鍋にこんぶを敷き、あさりと鱈をのせて酒蒸しする。それからだしを注ぎ、具を入れる。鱈がふっくらおいしく食べられます。生揚げやセリが合うようです。


1月18日(日)

「N響アワー」を観る。きょうは大好きなラフマニノフのピアノ協奏曲第2番、ピアノはレイフ・オヴェ・アンスネス。すばらしい演奏だった。男性ピアニストは軽々と淡々と弾くので安心して聴いていられる。でも男性はほとんどがスーツ姿なので、腕が見えないのが残念でならない。女性は露出の高い衣装を着ていて腕がむきだしであるから、肘から手首までの肉のつきかたを見ることができる。単にその部分に興味があって、太かったりがっしりしているとうれしくなる。男性も腕を見せるような衣装で弾いてくれるようになればいいと思います。


1月17日(土)

池袋の書店で倉橋由美子の『暗い旅』(河出文庫)を買う。むかし愛読していたものが変色してしまったので。車中でめくって気恥ずかしくなる。スノブの世界。二人称で書かれる主人公の、背伸びした高校時代の挿話。男性は読まないだろうなあ。もう一冊、多和田葉子の『ゴットハルト鉄道』(講談社学芸文庫)を購入。

老親の家へ。入院した母を見舞う。大量のゴミを捨て掃除をし、買い物と食事作り。


1月12日(日)

この一週間、身辺でさまざまなことが起こった。わたしにできることはなく、ただどっしり構えているしかなさそうだ。次の一週間はどうなるのだろう。

ポール・オースターの『幻影の書』、なぞの女性が登場して運命的な恋に落ち、車で空港に向かう。こう書くとありきたりな話だけれど、その数ページだけでロードムービーになるようなスピード感のあるシーンが続く。車をぶつけて軽い怪我をし、いらいらするジンマーの前に現れた顔にあざのある美女。怒りと脅迫と涙。これを読めただけで、もう満足。


1月4日(日)

Yahooメールで送られてきたファイルが開けないことがある。今まで原稿などは別の方法で送ってもらっていたが、家族に転送して、それを開けばいいことがわかった。データが重いからだろうと思っていたのだけれど、Yahooメールに問題があったらしい。

きょうの『題名のない音楽会』はアンコール特集。山下洋輔さんがバッハのチェロ無伴奏曲をジャズにアレンジしたものを弾いていた。すばらしかった。『N響アワー』では中村紘子さんがラフマニノフのピアノ協奏曲第1番。有名な2番を連想させるフレーズがいくつかあった。こんな難曲を弾きこなすピアニストってやはりすごい人たちだと思った。

そのあと吉本隆明さんの講演を観る。まだうまく整理できないのだけれど、吉本さんの芸術について、自己表出についての話は一つ一つ腑に落ちるものでした。


1月2日(金)

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願い申しあげます。

31日に老親の家へ行き大掃除。結露で泥のような匂いがする壁を拭き、大量のゴミを捨てる。1日はお寺へお金をとどけ、神社で初詣。昨年のお札やお守りをおさめ、新しいものを買う。お昼には兄の家族と食卓を囲む。作る暇がないので、おせちは市販。夜に帰宅。車中で『いま哲学とはなにか』(岩田靖夫・岩波新書)を読む。

今年はじっくり書く年にしたいと思います。発表する場所があまりないのは淋しいことですが、今こそ個人誌・同人誌の時代といえるのかもしれません。一つ一つ全身全霊で書いていくだけです。がんばりましょう。


12月30日(火)

きのう年賀状を投函し、きょうは買い出しと洗車。ちっともうまくならないけれど、車をぶつけることがなくてよかった。秋には仲間と連詩を始めて3年目の記念に朗読会とトークをやり、連句の会で朗読をする機会をいただいた。最近は今までに発表したものを書き直すという作業をしている。来年は何とか詩集を出そうと思っています。

読んでくださった皆さま、ありがとうございます。来年は2日からスタートします。よいお年をお迎えくだ
さい。


12月27日(土)

恒例の忘年会。還暦を過ぎた先輩はまったく枯れる気配がない。昨年よりパワーアップして、病気の話で盛り上がる。歯医者と皮膚科くらいしかお世話になったことのないわたしはもっぱら聞き役。口をはさむ隙がない。家中の酒がなくなったところでようやくお開きになる。無事に帰宅できたかどうか。

二日酔いにならないように、水を飲み『幻影の書』を数ページ読んでから眠る。大学教授である主人公は妻子を事故で亡くし、たまたまテレビで観た昔の喜劇映画に興味を持つ。トーキー映画のストーリーが紹介されるが、それがとてもよくできている。実在したフィルムとしか思えない程見事。喜劇なのにメロドラマやサスペンスの要素も盛り込まれていて、改めてオースターは稀代のストーリーテーラなのだと思った。


12月24日(木)

ポール・オースターの『幻影の書』(柴田元幸訳・新潮社)を読み始める。数冊が読みさしになっているけれど、寝る前はこの本をひらくことにする。amazonからオースターの『ナショナル・ストーリー・プロジェクト1』のお薦めメールがとどく。多作な作家ですね。

夕食はローストビーフ。cookpadにあったケリードール子さんのレシピ。コブサラダ(海老・アボカド・ゆで卵・インゲン・カリフラワー・プチトマト・黄色のパプリカ)、じゃがいものグラタンとシャンパン、フルーツタルト。


12月21日(日)

ミューズ(市民ホール)で、交響曲第9番 ニ短調 作品125「合唱付き」を聴く。第1楽章は流れるようなソナタ。2階席なのでよく見えないこともあって、猛烈に眠くなる。困った。第3楽章が始まるころにソロの4人が登場。女性歌手のドレスがまぶしくて目が覚める。やっぱり第4楽章が圧巻。ダイナミックな佐渡裕の指揮によって、怒濤のように歓喜が押しよせてきました。

いつまでも拍手は止まなかったけれど、アンコールはなし。そういうことになっているのだろうか。


12月19日(金)

内田樹『昭和のエートス』(バジリコ)を買う。「昭和人」とは何かというテーマから始まる。これはかなりおもしろそうです。

今月は老親の家へ行く他は何も予定がない。一つだけ、21日に市民ホールでの「第九」のコンサートへ。佐渡裕指揮、東京フィルハーモニー交響楽団。今年はクラシックのCDをたくさん聴いたので、締めにベートーベン。楽しみです。家ではフルトヴェングラー指揮、バイロイト祝祭管弦楽団のCDを聴いている。


12月15日(月)

毎晩猫がふとんに入ってくるので温かい。こんなことは初めて。死期が近いのではないかと、ちょっと心配。ふとんをかけ直すときなどに手を噛まれることもあるけれど、まあいいか。猫に好かれるのはいいものです。

『日本語が亡びるとき』のなかに「よく耕された精神をした顔」という表現があった。そういう顔になりたいと思う。硬質な文章がたいへんよい。
十年ぶりかで竹西寛子さんの『往還の記』(中公文庫)を開いたら、『日本文学が亡びるとき』と呼びたいような内容。水村さんの本にも出てきたドナルド・キーンさんの功績をたたえ、本居宣長の仕事に言及している。「松坂の一夜」「あがたゐのうし」など、春に読みかけになっていた小林秀雄の『本居宣長』にも出てきた事柄を見つけて、うれしくなる。読書の楽しみですね。


12月11日(木)

水島英己さんの詩集『楽府』(思潮社)と眞神博さんの詩集『修室』(ダニエル社)を読み、礼状を書く。フィリア・プロジェクトのメールマガジンを読み、感想を送る。13日の午後に神山睦美さんのレクチャーがある。ご案内をいただいたけれど、土曜日は老親の家へ行くことになっている。神山さんとはなかなかお会いする機会がなくて残念。


12月8日(月)

水村美苗の『日本語が亡びるとき』(筑摩書房)を読み始める。外国で長く暮らしたひと特有のストレートでシニカルな文章が小気味よい。一章では、アイオワで大学生活を送りながら自分の仕事をするというIWP(International Writing Program)に参加したときのことを書いている。体調が悪くプライドの高い水村さんは、世界の作家たちとの交流を最小限にしようと決めてキャンパスに入るのだが、恵まれた環境にない国からやってきた作家や特殊な言語で書く作家と知り合い、理解を深めていくことになる。クールに書かれているが、そのプロセスには感動的なものがある。


12月5日(金)

オルハン・パムクの『わたしの名は紅』(和久井路子訳・藤原書店)、夏に買ったのにまだ読み終わっていない。617ページの長篇。舞台はペルシア時代のトルコ。細密画の絵師の死をめぐって、登場人物が一章ずつ語るスタイルになっている。うまく入ってしまえばいいのだけれど、まるでアラビアンナイトの世界なので、なかなか難しい。149ページまで読んだが、なぜノーベル文学賞なのか、今の時点ではまったくわからない。


12月2日(火)

リン・ディンの『血液と石鹸』(柴田元幸訳・早川書房)を読み終える。プロットだけでできているような短篇。玉石混淆の37篇のなかで、「非常階段」と「自殺か他殺か?」がよかった。マンハッタン周辺を舞台に、都市で暮らすベトナム人の滑稽な姿が描かれている。情緒的な記述は排されていて、アジアンを戯画化する、やや自虐的な視点が新しいのではないかと思った。

昼の料理番組でやっていた「鱈の長ネギあんかけ」を作る。とてもおいしかった。鱈をぱりっと焼いて、豚バラ肉の細切りを少しと長ネギを炒めたソース(オイスターソース・しょうゆ・酒・かたくり粉を混ぜる)をかけたもの。寒い夜にはあんかけ料理がいいですね。


11月30日(日)

武蔵村山のモールへ。グッドウィルドーム、貯水池のあたりの紅葉が美しい。箱根に負けないくらい。おいしい店やロープウェイや美術館があれば、ちょっとした観光地になるのに。ユネスコ村も恐竜館もなくなり、残っているのは醜悪な山口観音と狭山不動尊。建立したひとのセンスと信仰心が疑われる代物。昔ユネスコ村と狭山湖は遠足の定番コースでした。


11月26日(水)

東中野ポレポレで福間健二さん監督の映画『岡山の娘』を観る。とてもおもしろかった。福間さんの詩の世界が映像になっているのを身体で感じることができたし、これからの詩について考える時間をもらったと思う。

大学、川、商店街。岡山の街がロードムービーのように描かれている。ヒロインのみずきを演じるのはごくふつうに見える若い女性だが、だんだん俳優の顔になって台詞にも凄みが出ているのに驚く。顔も知らない父と急死した母。父からの突然の手紙と自己破産の危機。友人と電話でけんかをして、切れたみずきは「わたしは面倒くさい女なんよ」と言う。この台詞に胸を衝かれた。

やわらかい岡山弁がいい感じ。現代詩が随所に使われている。わたしはみずきの親の世代であるので、彼ら(父、詩人、喫茶店の女主人)の物語も観てみたいと思った。

先着の岡山土産をいただき、福間恵子さんともお会いできてよかったです。


11月24日(月)

三木聡監督の『転々』を観る。借金の取立屋(三浦友和)が相手(オダギリジョー)と東京を歩きまわる話。井の頭公園、新宿御苑、蒲田のアーケード、六郷土手、千鳥ヶ淵。取立屋は妻を殺したので霞が関へ自首をしに行こうとして、借金をチャラにするからとオダギリと長い散歩に出る。

第二の妻(小泉今日子)の家で、息子のふりをして食事をするシーン。取立屋が入所する前に食べるのはカレーと決めているのを知って涙を見せるオダギリ。知らない者同士が家族のように過ごす時間に、孤児同然で育った彼は過剰に反応してしまう。ドラマ『時効警察』の監督なので、コメディなのだが、ちょっと泣ける話になっている。出演は他にふせえり、岸部一徳、岩松了、石井苗子。


11月20日(木)

池袋で二人の詩人と会う。3時間ほど詩や音楽の話をする。SNSやメールのやりとりで、お互いにどんなことをしているか、だいたいわかっているので、ついこのあいだ会ったばかりのような気がする。だらだら飲みながら静かに話をした。

太原千佳子さんの詩集『日を摘む』(砂子屋書房)を読む。太原さんとお会いしたのは、永塚幸司さんのH氏賞を祝う会でのこと。確か受付をなさっていたのではなかったかしら。井坂洋子さんやねじめ正一さんもいらしていた。他に中本道代さん、河津聖恵さん、阿賀隈さん・・・。ずいぶん昔のことです。


11月17日(月)

知人がやっている絵絣の展示会に行く。西武池袋線の秋津から、武蔵野線の新秋津までは徒歩5分。2つの駅を小さな商店街がつないでいる。毎日利用するひとは不便に感じているだろう。アーケードにするとか歩く舗道にするとか、何かできないものかと思う。

あまり乗ることがないこともあって、武蔵野線という名称にはノスタルジックなものを感じる。関東の校歌のほとんどに「武蔵野」ということばが入っているのではないだろうか。武蔵野新秋津から北朝霞までは山里のような風景が続く。府中本町と西船橋を結ぶ線。当初は貨物専用線だったという。週末になると赤鉛筆を持ったおじさんたちがたくさん利用するので、ギャンブル線とも呼ばれています。

絵絣は知人のコレクション。120点が並んでいた。藍で木綿を染め、ふとん地や着尺に使われたもので、七福神や鶴亀、牡丹などの柄が織り込まれている。使うひとの長寿や幸福を祈る女たちの手で作られた絵絣。文明開化後には汽船や洋傘、日清・日露戦争のころには軍艦や大砲が柄になったという。最終日でした。


11月14日(金)

県民の日で学校が休みの娘と吉祥寺へ。井の頭公園近くの雑貨屋でモデルさんを見かける。ずいぶん長身の女性だなと思って顔を見たら、『ピープルツリー』のHIKARUさん。雑誌に出ているときと同じノーメークで透明感のあるひとでした。エスニックの雑貨屋の多い通りです。

車中で堀江敏幸の『子午線を求めて』。パリの郊外には移民が多く住んでいて荒涼としていると随所に書かれていて、日本では郊外イコールのどかなところなのに、ずいぶん違うのだと思った。「哀れなパリ郊外、みなが靴底をぬぐい、唾をはき、通りすぎていくだけの、都市の前に置かれた玄関マット、いったい誰がこの哀れな郊外を思ってくれるのか。」1944年に発表されたセリーヌのエッセイの一部だが、本書には郊外を舞台にした現代の小説が多く紹介されている。セリーヌの他は初めて聞く作家ばかり。読んでみたいと思う。


11月11日(火)

寝る前に、スチュアート・ダイベックの『それ自身のインクで書かれた街』(柴田元幸訳・白水社)を読んでいる。シカゴ在住のダイベックはポーランド系。シカゴの片隅には東欧の人々が多く住んでいて、アメリカの明るさとはちがう旧世界の空気が漂っているらしい。ショパン、バブーシュカ、ポーランドのことわざ。故国での暮らしを大切にする家で育った少年の目を通して描かれるシカゴの街。明るい淋しさのようなものが全体を覆っている。いい詩集です。他に連作短篇集『シカゴ育ち』『僕はマゼランと旅した』があり、どちらもお薦めです。

結局覚えているのは 自由の
気分。僕はそういうふうに終わりたいと思う、
そうして僕は立ち去り、
変色した記憶の紋章にではなく
夢に対して忠誠が誓われる
現在の終章に入っていく。
(「自伝」9部分)


11月9日(日)

車で市内を移動。道路沿いの店がいくつも潰れている。ガソリンスタンド、中古車販売店、レストラン。立地の悪い場所にできたレストランはいつのまにか消えて、別の店になっている。きっとお客はつかないだろう。車が停めにくかったり、特別美味しいとかサービスがよいというわけではなく、リピーターが呼び込めなかったり、いろいろ理由はあると思う。「管理地」の看板が立っている。ここで働いていたひとたちはどうしたのだろうと思う。

このあたりではモールがどんどん建設されているが、一時苦戦を強いられていた激安スーパー「ジャパンホームセンター」ががんばっているみたいだ。そこはカード払いはNO。不景気だから現金払いがよいのだと思います。

埼玉西武が優勝。全力でプレーする若い選手と彼らのちからを信じる渡辺監督、大久保コーチ。いいチームです。西武ドームはすぐ近く。球団が所沢に本拠を移して30年。23日には初めてパレードをやるということです。


11月5日(水)

田中庸介さんの詩集『スウィートな群青の夢』(未知谷)を読む。ポップで饒舌、叙情的、ユーモラス、ちょっと自虐的。とにかくうまい。詩人のいくつも顔が見える。ついこの間、詩の集まりでお会いした。そのときのしゃべる速度と頭の回転の速さを思い出す。疾走感。「当代最高の詩のスピリット!」と帯にある。戦略的なところもこの詩人らしい。散文詩「京都」と、自身の離婚とその後の日々を書いた「武蔵野」がいい。新聞紙と一緒に洗濯機で洗ってしまったTシャツに付いた「悔恨のわたぼこり」。腹立たしくて目にするとつらい、わかるなあ。全10行の「光の谷」にも惹かれるものを感じた。シンプルで何の気負いもない。田中庸介さんの知性とセンスが詰まった、きらきらした詩集です。


11月3日(日)

ホームセンターへ行った帰りに、気になっていたうどん屋へ。落ちついた風情のある佇まい。極楽うどんというのを食べる。コシのある麺。挽き肉入りのあんかけ風汁で美味。久々に満足しました。


11月2日(日)

1日、O市の老親の家へ。ゴミを大量に捨て、掃除をする。父は89、母は87。2日、湘南ライナーで帰宅。目をつむって詩のことを考えようとするが、うまくいかない。お昼は賞味期限の近いカップヌードルをおそるおそる食べる。池袋のWAVEで買ったディヌ・リパッティのCDを聴く。1950年に33歳で病死したルーマニアの伝説的ピアニスト。録音はよくないけれど、昔レコードを持っていたので、懐かしい。


10月31日(金)

友人の個展を観るため銀座へ。曇り空のせいか、いつもの華やかさが感じられない。不景気だからか。すれ違う人の多くが中国語をしゃべっている。銀座は年に数回しか行かないし、買い物をすることもない。きれいな街だけれど、どうも落ちつかない。

車中で堀江敏幸の『子午線を求めて』。フランスの文学をめぐるエッセイ集。読んだことのない本ばかりだが、感想だけでなく、アーティストとの交流や実際にパリの街を歩いた時間などが書かれている。喩の多い複雑な文章。初めはだめかと思ったけれど、読み進むうちにおもしろくなってきた。


10月28日(火)

清水哲男さんの「ZouX」の購読料を振り込む。欠員が出たということで、ようやく会員になることができました。

倉田比羽子さんの詩集『種まく人の譬えのある風景』(書肆山田)を読んでいる。美しい詩集。倉田さんの詩は難解であるが、このところ哲学書を読んでいたので、比較的すんなり入ることができた。少しずつ倉田さんの書こうとしていることがわかってきたと思う。現代詩の可能性を提示する、すばらしい詩集であることはまちがいない。


10月26日(日)

『浮世の画家』読了。戦時中に日本精神を鼓舞する画風で有名になった小野益次の、終戦後の日々を描く。娘の縁談が壊れたのは自分のせいなのかと悩み、過去を回想する。登場人物は話の核心を避けつつ、やんわりとことばを交わす。『東京物語』の世界ですね。戦時中の著名画家を主人公にするという大胆な試みは、日本と距離があるからこそ可能だったのだと思う。小野の古傷である弟子や仲間との訣別は読者の興味を惹くところなのだが、曖昧に書かれている。全体に靄がかかっているようなのがイシグロの作風である。現在の日本では決して生まれない類の小説といっていいと思った。


10月24日(金)

朗読会の後のディスカッションで聞いた若い詩人たちの熱いことばに圧倒されて、この一週間ぼうっと過ごしていたのだけれど、そろそろしゃきっとしなくては。佐藤恵さんからいただいた『SOOHA』4号をひらく。「古賀忠昭、その遺文の問うもの」という追悼特集。娘さんである古賀繭さんのインタビューと、鍋島幹夫さん、山本源太さん、中尾太一さん、稲川方人さん、同人のみなさん(佐藤恵・谷合吉重・陶原 葵・野木京子・日吉千咲・八潮れん)の論考。これは腰を据えて読まなければならないと思った。


10月22日(水)

カズオ・イシグロ『浮世の画家』(飛田茂雄訳・早川epi文庫)を読み始める。戦後間もない地方都市が舞台。主人公は引退した画家で、その二人の娘の名は節子と紀子。わたしの妹も節子という。不思議だ。端正な文章で描かれる小津安二郎のような物語に浸っていると、時間の感覚がなくなって、永遠の黄昏のなかに自分が居るように感じられる。


10月20日(月)

荻窪から阿佐ヶ谷まで歩く。善福寺川に沿い、かなり遠回りして阿佐ヶ谷パールセンターへ。何だかさびれた感じ。昔あった店はいくつか残っている(乾物屋、ねじめ民芸店、和菓子の「鉢の木」、サンジェルマンなど)が、携帯ショップがそこらじゅうにできて、全体としては活気がなくなっているように見えた。30年前のパールセンターは歩くのが楽しいおしゃれな商店街だったのに。

サンジェルマンでエクセルブランを買って帰る。高校時代に初めて食べて感動したイギリスパン。阿佐ヶ谷に来ると必ず買います。


10月19日(日)

池袋マダム・シルクで朗読会。岡田幸文さん、中村剛彦さんと連詩を始めて3年、6篇の詩ができたので、朗読会を兼ねてトークとディスカッションをする。詩のなかの「私」とは誰か、「自然」とは何か。親密な時間を共有することができたと思います。参加してくださったみなさん、ありがとうございました。


10月18日(土)

家族が買った茂木健一郎『すべては音楽から生まれる』(PHP新書)を読む。最近クラシック音楽をよく聴くようになったので、タイトルに吸い寄せられてしまう。サブタイトルは「脳とシューベルト」。けれど今ひとつ物足りないのはなぜだろうと思ったら、茂木健一郎が書いた文章ではなく、編集者がまとめたものだった。文章に個性がない。著者の声が聞こえない。不思議なほど記憶に残らない本。もう一度読めば少しは聞こえてくるだろうか。


10月13日(月)

先週末、ジョン・アッシュベリーの「四月のガリオン船」が急に読みたくなり、この一編をくりかえし読んでいる。『ジョン・アッシュベリー詩集』(大岡信・飯野友幸訳・思潮社)におさめられている。難解であるし一部を引用しても全体の魅力をうまく説明できそうにないのだけれど、書き写してみます。

冷たく曲がりくねった都市の名前に向かって、
ただしその都市はありそうに響いたがその実
どこにも存在しないのだ。私には平底船が見えた、
それは歓喜の大海原を指している爪やすりのようで、
私のために停まってくれた、君と私は傾いたデッキがどんなに
がたつくかためしたあと、いつか戻っていく、宵の口に引き裂かれた
オレンジ色のとばりをぬけて。そこでは私たちの名は
違う発音でのみ通っているだろう・・・

ラストはわたしの大好きな「若い王子と王女」を思い出させる。

彩色された都市で霧がどのように湧き出たか、病めるものたちはどの方角へ
去ってこの眼差し、なじみ愛の眼差しを避けたか、という話を。


10月10日(金)

池袋で二人の詩人と話をする。ビールとバーボンを1杯ずつ。帰宅後、いつもの量を飲む。最近、毎日のように書いたものを読み直して推敲しているのだが、これはどうにもならないというものもある。潔く捨てようと思う。でも次の日になると、やっぱり何とかなるかもしれないと思ったりする。我ながら未練たらしい。でもきっと今がいちばんいい時間なのだろう。


10月7日(火)

リン・ディンの『血液と石鹸』(早川書房)を読んでいる。ラストはオチといってもいい、やや古風なスタイル。アメリカとベトナムを舞台にした掌編が37。ことば(英語)をテーマにした作品が多い。ディンはサイゴン生まれの詩人でもある。

段々社の『タゴールの歌』(神戸朋子・編訳)を買う。「自然と人生をみつめなおす歌詩60選」というサブタイトルがある。CD(ベンガル語と日本語)がついているので驚く。すごいなあ、坂井さん。彼女はアジアの文学を紹介するべく、たくさんの翻訳書を出版している。20年ほど前に新聞で段々社の本の存在を知り、「これからはアジアの文学だ」と思った。注文したら、近所にお住まいだとわかって、直接受け取ることになったのだった。『雨期』の読者でもある。とてもタフな女性です。


10月5日(日)

飯能へ。車で1時間。苗とプランターを買う。再生紙で作ったものなので軽い。手入れの行き届いたハーブ園に来ると、ガーデニング気分になってくる。その気が失せないうちに、帰宅してすぐに庭仕事。といっても苗を植えかえただけなのですが。

midnightpressのサイトで、「EXTRA2008夏」がアップされました。「いま、詩はどこにあるか?」12人の詩人が書いています。ぜひ読んでください。


10月2日(木)

近藤弘文さんの詩集『夜鷹公園』(midnightpress)を読む。上手い。新しい現代詩である。感想をまとめながら、自分の詩を古いと感じるはなぜなのか考える。

リン・ディンの短篇集『血液と石鹸』(柴田元幸訳)を買う。amazonのおすすめ本。著者は1963年生まれのベトナム系作家。「牢獄で一人、何語かさえ不明な言語の解読に励む男の姿を描く「囚人と辞書」」という紹介文があったので、1クリックで注文。サルトルの『嘔吐』に出てくる独学者など、修行者のように読書をするキャラクターに惹かれます。


9月29日(月)

小池昌代さんの短篇集『ことば汁』(中央公論新社)を一気に読んだ。幻想的な6つの短篇。小池さんのホラー風小説はいつもおもしろい。女性らしい小道具と独特のシチュエイション。殊に「すずめ」は力作。これから読むひとのためにこれ以上は書きませんが、読んでいるうちにじわじわ怖さが増してきます。それにとにかくうまい。脱帽です。


9月25日(木)

花森こまさんの句集『銀河の恋人』と句誌『逸』を読む。誌は同人制ではないとのこと。『雨期』と同じなりたちなのがうれしい。世界とのかかわりかたにも共感するところ大。惹かれた句をいくつか。

   全体は一部分なり虫の闇

   刃こぼれの男を宿す後の月
 

   台風が来てやはらかな骨になる

   一月十七日花びらを飲み干す

   雛祭父はカフカとなる準備


2年前に松本邦吉さんにいただいた「河口付近」という詩のコピーをくりかえし読んでいる。いいなあと思う。冒頭を引きます。

舌先に
湧きあがる日を溜めて
わたしは書き写す

「あなたの仕事は棺とひとつの憩家」


9月22日(月)

夕食は鶏もも肉のみぞれ炒め。大好きでよく作る。材料はもも肉、セロリ、長ネギ、大根。一口大に切った肉に塩こしょうし、両面に色がつくまで焼く。そこに斜め薄切りにしたセロリとネギを入れ、しんなりしたら酒とみりんを加える。蒸発したら大根おろしを汁ごと入れ、醤油で味付け。特別なものは入っていないけれど、手の掛かった料理のよう。大根のちからはすごい。分量は適当でもだいじょうぶと思います。

オルハン・パムクの『わたしの名は紅』(和久井路子訳・藤原書店)を読み始める。


9月19日(金)

昨年買ったままになっていた内田樹の『村上春樹にご用心』(ARTES)を読んだ。この哲学者の文章はとても魅力的。結論への導きかたがドラマチックにうまい。殊におもしろかったのが、批評家vs村上春樹についての7つの文章。「「激しく欠けているもの」について」が圧巻。1982年に『羊をめぐる冒険』が出版された直後に、加藤典洋は村上春樹論を書いて、「そこにはたしかに何かが激しく欠けている」と指摘した。「激しく欠けていたものとは何か」。内田樹によれば、それは「わたしたちが共に欠いているもの」だという。

生者が生者にかかわる仕方は世界中で違う。けれども死者が「存在するとは別の仕方で」生者にかかわる仕方は世界のどこでも同じである。

「存在するとは別の仕方で」は哲学者エマニュエル・レヴィナスの著作タイトル。

村上春樹は死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。

うーん、すごい。「スピリチュアルな世界」などと安易なことばでごまかさない。哲学者はすばらしい。

『風の歌を聴け』を『群像』誌上で見たとき、同時代を感じた。わたしは二十代半ばだった。当時は月刊文芸誌の発売日に、虎ノ門(仕事場)の書店でチェックするのが習慣になっていた。同世代ではないけれど、そういう感じを持ったのは初めてだった。それから村上春樹の作品はほとんど読んできた。

先日『レヴィナス入門』を読み終えたけれど、やっぱり著作を読まなければだめだとわかった。


9月18日(木)

この3年間に書いた詩をプリントアウトしてみた。途中でスタイルが変わったので、全体的に見るとまとまりが悪い。書き直すことを考える。かなり大変な作業になりそうだけれど、今年の残りの日々は自分の詩を考えることに費やしたいと思う。

オルハン・パムクの『イスタンブール 思い出とこの町』(藤原書店)を読む。モノクロの写真がたくさん入ったエッセイ集。この作家が抱え込む憂愁(ヒュズン)が町を覆っているものでもあることがわかる。


9月14日(日)

府中市美術館へ。「パリ・ニューヨーク20世紀絵画の流れ」という企画展。HPを見ていたらマーク・ロスコの名前があったのでどうしても見たくなった。ロスコの深い朱色と緑。オキーフのシャープな花、ジャコメッティの線が描く男。それからムンクの風景画「サン・クルのセーヌ川」に惹かれるものを感じた。ブルーグレイの橋と夕闇と水。船の灯りが川に落ちて、それを眺める画家の孤独を思った。他にポロックやピカソ、ホッパーなど多数。

美術館は気持ちのよい緑の広がる公園の隅にあります。


9月9日(火)

江古田を散歩。こじんまりとした学生街で、ごくふつうの商店街のなかにカフェや雑貨屋など、ちょっとおしゃれな店があったりする。宝探しみたいです。

『雪』のことを考えている。貧しく後れている国トルコ。ドイツに亡命した詩人を主人公にすることで、自国をはじめとするイスラムの国だけでなく世界に通用する小説になったということ。一般に人々は隣国の文学についてあまり知ろうとしない。文化的に後れていると思う場合は殊に。ある意味で自分たちの過去を見ることに興味がないのだと思う。パムク自身は3年間ニューヨークで暮らしている。トルコの現実をそのまま作品にしても、多くの読者を得ることはできないと考えたのだと思う。この小説はイスタンブールの街カルスで起きたイスラム原理主義と欧化主義の衝突がメインになっている。だから主人公の位置、設定は卓抜というほかない。

Kaが残したはずの詩のノートを探す小説家オルハン。彼によってドイツでのKaの暮らしぶりと詩人としての力量が読者の前にさらされることになる。カルスでは良くも悪くも注目を浴び、美女イペッキと愛し合い、ドイツでの新しい生活を夢見たKaの真の姿が最後に明かされるのである
おそらくパムクは2人の人物に自身を投影させているのだろう。


9月7日(日)

『雪』読了。トルコの現実に圧倒される。2002年に発表され、「9・11」以降のイスラム過激派をめぐる情勢を予見したとして世界的なベストセラーになった理由がよくわかった。主人公である詩人Kaは著者のパムク自身がモデルだと思って読んでいたら、後半になってKaの友人として登場する。構成もすばらしい。訳がよかったら日本でももっと話題になるだろう。世界の文学のレベルは高いのだと思った。

発送作業。


9月5日(金)

『雨期』51号ができました。詩は古内美也子・山岸光人・渡辺 洋・原口哲也・北野英昭・須永。アンケートは「鞄の中身」と須永の「短篇通信」。今号は詩作品をたくさん掲載することができて、とてもうれしい。創刊号を出したときのような気持ちです。荻さんは残念ながらお休みですが、ファンの方、次号をお楽しみに。

金曜日はワインの日。チリかスペインの赤がいいかな。特にこだわりはないけれど、素朴な渋みのあるものが好きです。


9月3日(水)

『雨期』51号ができたのだが、表紙にミスがあり刷り直すことに。がっかりするが気を取り直して、送付先に添える一筆を書く。いただいた詩誌にはできるだけ感想を書こうと思うので、時間がかかる。でも書きはじめてしまえば苦にならない。何ごともはじめるまでが大変なのだ。きょうは夜まで書き続けるつもり。


8月30日(土)

『ダブリンの街角で』を観る。アメリカで2館の公開から口コミで動員数を増やし、140館で上映された話題の映画。とにかく音楽がいい。主人公は路上で歌うミュージシャン。音楽の才能のあるチェコ移民の女性と知り合い、彼の曲に彼女のコーラスとピアノが加わる。女性は夫と別居中で、娘と母と暮らしている。お互いに惹かれるものを感じても、二人のあいだには何も起こらない。

仲間を集めて録音したCDの出来がよく、男はロンドンでの成功を夢見るが、女は自分の家庭を取り戻すことを選ぶ。どこか淋しげなダブリンの街、掃除機の修理屋を営む父親(泣けます)、昼休みに女性がピアノを演奏することをゆるしてくれる楽器店、酒と音楽を愛するアイルランドの人々。すべてが温かく清潔な気持ちのよい映画です。主演はアイルランドの実力派バンド、ザ・フレイムスのグレン・ハンサード。監督は同バンドの元ベーシスト、ジョン・カーニー。


8月28日(木)

NHKの『趣味の園芸』を見る。大原に住む英国人女性ベニシアさんの庭。赤と白の花を集めたワイン・ガーデン、赤と黄色のスパニッシュ・ガーデン、北向きのフォレスト・ガーデン、ジャパニーズ・ガーデン。ハーブや樹木の美しさはもちろん、ベニシアさんの動きからも目が離せない。堆肥を作るのも土を掬うのもすべて素手。ハーブを摘むときは「お茶を飲みたいのですが、切ってもいいですか?」と語りかける。貴族の家に生まれたが、愛情に恵まれず、19でインドの旅へ。その後日本に来たのだそう。

除草や水やりを面倒に思ってしまう自分を反省。この雨でオリーブが横倒しになっている。猫の額よりも狭い庭に、最初からおまけのように植えられていたオリーブの木。明日、支えをしなくては。


8月27日(水)

『月と花と恋と』は「全国の連句人から募集した恋と月と花の句、三千句の本」(はしがき)。編著は『十七季』編集部(丹下博之・佛渕健悟)。先日名前を知った方の句もたくさん入っている。連句の流れから取り出した句たちはどれも詩のよう。

日曜日に作った句で、どう考えてもよくない、前に進んでいないと思われるものがあり、迷った末に捌きの先生に訂正をお願いする。ルール違反だから拒否されるかもしれないと思ったが了解してくださった。ありがたいことです。この連句は後日公開したいと思っています。


8月25日(月)

『雨期』51号を入稿する。ぎりぎりまで推敲していたが、もうこれまでかと諦めた。我ながら往生際が悪いと思う。とにかくこれでゆっくり、一昨日とどいた『平成連句抄 月と花と恋と』(三省堂)を読むことができる。


8月24日(日)

町田の「市民文学館 ことばらんど」へ。渡辺元彦さんによる「山本陽子さんの詩について」の講演の後、朗読をする。「ワタル」を読んだら、息子さんがワタルという名だという方が、拙詩集を買ってくれた。荻悦子さんがいらしてくださり、20年ぶりの再会になった。司会は佛渕健悟さん。

昼食をはさんで連句大会。12の卓で、各地からいらした捌きの先生を中心に歌仙を巻く。付けるのに時間がかかるわたしを捌きの先生が忍耐強く待ってくださる。が、ちっとも上達していないことを痛感。「転じる」ということがまだ掴めない。かろうじて前句に「付いている」感じ。顔から何度も火が出る。3時間ほどで半歌仙(十八句)を巻く。今日も冷や汗。でもたくさんの人と知り合い話すことができて、刺激を受けた。町田までは約2時間。遠かった。


8月22日(金)

宛先が旧住所になっていて、転送されてくる詩誌や詩集があります。住所録の書き換えをお願いします。11月には送り主に返送されてしまいます。

『雨期』51号の編集作業が終わる。入稿は月曜日になる。最後まであがきます。



8月18日(月)

青梅へ。何があるというわけでもないのだけれど、名前に惹かれて今までに何度か来た。青梅には博物館や美術館がたくさんあるが、月曜日は休館。で、釜の淵公園へ。多摩川に取り囲まれた公園。園内を歩き、川の流れをぼんやり眺める。お土産に生蕎麦や茸を買う。ちょっと遠出した気分。

24日の連句大会に備えて、連句の本を読む。少しでも予習していかないと、一人だけプールに突き落とされたような事態になってしまうのです。


8月17日(日)

13日(水)来客あり、15日(金)お盆のため帰省。夕食に精進揚げを作る。16日(土)朝、提灯を提げてお寺へ〈送り〉に行く。田舎ではお盆の〈迎え〉と〈送り〉は大切な行事。東京生まれのわたしはまだそのしきたりが身に付かず、言われるままに動くだけ。

車中で『レヴィナス入門』を読む。「愛撫」とか「道具」、「手」「衣装」など、哲学用語とは思えないタームが次から次へと出てきて驚く。オリンピックの野球を楽しみに見る。25番新井のファンです。


8月11日(月)

『雪』は訳に難があり、読みにくい。主人公のKaを「あなた」と呼んでいた青年が、次には「あんた」と呼んで、全体にぞんざいな口調になったりするので、とまどってしまう。さらに「○○分後には殺されることになる」というような文章が一度ならず出てきて、興を削ぐ。何とかならないかなあ。

貧しい人々が娯楽をもとめてやってきた国民劇場で起こる惨劇。舞台の上の芝居がそのままクーデターにつながってゆく。観客は事態を把握できない。日本では考えられない緊張感のなかに在る国が世界にはいくつもあるのだ。


8月7日(木)

原稿がほぼ集まったので、『雨期』51号の編集作業を始める。途中になっていた「短篇通信」の続きを書く。時間ができるとオルハン・パムク『雪』(和久井路子訳・藤原書店)を広げる。トルコ(イスタンブール)の複雑な政情。12年ぶりに亡命先のドイツから故国へ戻った詩人のKaは、友人から少女たちの連続自殺事件の取材を頼まれる。わかりにく訳にも慣れた。宗教と政治の渦のなか、無神論者の詩人はどのように事件を解明していくのか。推理小説でも政治小説でもない新しい文学の世界に入っていくよろこびを感じます。


8月3日(日)

お知らせです。8月24日(日)、町田市民文学館で、詩人の渡辺元彦さんによる山本陽子さんの詩についての講演があります。渡辺さんは難解といわれる山本陽子さんの詩の解読作業を続けていらして、『〈するするながら詩〉のゆくえ』という著書もあります。その後、30分ほどわたしが朗読をすることになっています。午後は連句大会。参加ご希望の方は、須永までお知らせください。

日時 8月24日(日) 午前10時〜午後5時

場所 町田市民文学館2F 大会議室

会費 1000円(午前のみは500円)


8月2日(土)

O市の老親の家へ。先月までテーブルの上にあふれていた食材がなくなっている。トマトも揚げ物も煎餅の袋もない。捨てるものが少ないのはうれしいけれど、食べることに興味がなくなってしまったのなら大変なことだ。夕食は牛挽き肉100%のメンチカツ。一度作ったら気に入ってもらえたので、当分作りつづけるつもり。他にキャベツの千切りと枝豆、よせ豆腐、お赤飯。戦争中の話。父にとっては青春時代そのものなので、つらいことも懐かしいようである。

車中で熊野純彦『レヴィナス入門』(ちくま新書)。シンプルで比較的読みやすい。次は著作を読もうと思っている。


7月31日(木)

原美術館へ。副都心線で渋谷まで行き、JRに乗り換える。大崎で降りて、緑の多い坂道を歩く。『アート・スコープ2007/2008』-存在を見つめてと題して、ドイツと日本の画家4人の作品が展示されている。人が少なくてゆっくり観ることができた。館内のレストランで昼食。ペリエがシャンパングラスで供される。ていねいに作られていて美味しい。ここは穴場。

車中で『本居宣長』。下巻に入ってから、あまり進まない。今年中に読めればいいかと思う。家人が『小林秀雄とウィトゲンシュタイン』(中村昇著・春風社)を買ってくる。レイアウトのすてきな、おもしろそうな本。


7月30日(水)

『私家版・ユダヤ文化論』で取りあげられていたエマニュエル・レヴィナスに興味を持った。収容所体験のある哲学者。彼に初めて会ったモーリス・ブランショは、とても深いものがあるのを見て取ったという。哲学を学んだO氏がおしえてくれた『レヴィナス入門』をamazonに注文。レヴィナスはとても難解だそうなので、まずは心の準備を。

O氏は二十年来の知り合い。いつも重要なポイントで的確なアドバイスをくださる。停滞しているときも見放さずに、幾つもチャンスを与えてくれたし、と夕食の支度をしていて突然、導いてもらっていることに気づいた。わたしが師と仰ぐ詩人に引き合わせてくれたのもO氏でした。


7月26日(土)

箱根の彫刻の森美術館へ。25年前に行ったときにはなかったピカソ館。やっぱりすごい。
1階正面に掛けられたタペスリー「ミノトーロマシー」はミノタウロスの残忍な行為を、
ランプを手にした少女たちが見ている絵。
その迫力と見事な構図。2階の張り出したカーブから眺めたら圧巻でした。

戸外に展示された巨大な彫刻たち。前衛的な作品が多いのだけれど、
オープン・エアだから圧迫感がなく楽しく眺めることができる。

箱根湯本から登山鉄道で5つめが彫刻の森駅。
スイッチバックが3回あるので、35分かかる。
箱根は山のなか。

車中で内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』読了。とてもおもしろかった。
古今東西の人々がユダヤ人に畏れを抱き続けているのは、
彼らの思考方法と、
ユダヤの神と彼らとの関係であると著者は書く。
もっと紹介したいけれど、もったいないので止めます。
わたしの知らなかった世界の謎が少し解けてちょっと興奮。
寝る前にもう一度終章を読む。


7月23日(水)

財部鳥子さんの新詩集『胡桃を割る人』(書肆山田)を読む。ほんとうにうまい。詩でしか表現できない世界を、輪郭のはっきりしたことばで一気に(そのように思えるような勢いがある)描いて、美しい。季節の移り変わりを鋭敏に感受する詩人が豊かなことばをもって、自然のものたちに新たな力を与えていると思う。二度読んだ。もう一度読んで、感想を送ろうと思っています。


7月22日(火)

19日(土)いつもは買い物に行くときしか車に乗らないが、今日は郊外まで出かける。ちょっと自信がついた。ガソリンの値上げで、車の数は確実に少なくなっている。20日(日)たまった本を売り、残りは束ねてゴミに出す。21日(月)クラビノーバが届く。引越しのときに処分したけれど、いつかまた買おうと思っていた。昔に較べるとずっと安くなっている。今日からは音楽のある生活。


7月17日(木)

amazonでパムクの『雪』と『イスタンブール-思い出とこの町』を注文。隣町の書店で『わたしの名は紅』を見つけたが、どうしても『雪』から読みたかった。amazonサイトのレビューを見たら、『イスタンブール・・・』の訳がよくないという意見が多い。どんなだろう。届くのが待ち遠しい。

パムクの本が置いてあった書店は、主に文庫とコミックを扱っている。いくつかの棚は、書店のひとが好みで選んだものを並べているらしいと聞いて出かけてみたのだった。確かに、こだわりのあるひとが選んだ書物ばかり。うれしくなる。ときどき見に行かなくては。


7月14日(月)

昨夜、NHK教育テレビ「ETV特集」を見た。ノーベル賞を受賞したトルコの作家オルハン・パムクの、イスタンブールから京都への旅。よかった。見ることをやめない作家の姿をカメラが追う。パムクもデジタルカメラを離さない。若々しい風貌と穏やかで明晰な語り口。石牟礼道子と大江健三郎も出演していたが、パムクの知性のほうが際立っていると思った(異論はあると思うけれど、スケールが違う)。作品を読もうと思う。


7月11日(金)

midnight pressのフリーペーパー「2008年夏、いま、詩はどこにあるか?」届く。執筆者は近藤弘文、清水あすか、chori、上田假奈代、タケイリエ、小林レント、柴田千晶、久谷雉、ヤリタミサコ、桑原滝弥、中村剛彦とわたし。熱い文章が並んでいる。7月13日(日)の東京ポエケットで配るとのこと。ぜひ手にとってみてください。

わたしはこれからどう書いていけばよいのか。『中空前夜』の後、やっとたどりついた答えを書いた。まだやるべきことをやっていないと思っています。

塚原敏雄さんから、お願いした『GATE21』のバックナンバーが届いた。うれしい。


7月8日(火)

今月に入ってようやく風が吹いてきたような気がする。だめなときはどうあがいても裏目に出るだけなので、そういうときはひたすらこもるのがいいと最近になってわかった。

猫がわたしの枕をベッドにしている。寝るときには枕の近くにいるが、朝起きると上で寝ている。ビーズの入った大きな枕である。猫と子どもは居心地のよいところにいくというけれど、ほんとうだ。わたしの周りを離れず、二の腕を狙っている。この間は本をめくったときに動いた力こぶを引っかかれた。カーブした爪は思ったよりも深く皮膚をえぐり、なかなか元に戻らない。


7月5日(土)

先日引用したのは「想像力と倫理について」の章。ここで内田樹は村上龍のエッセイを引用している。『恋愛の格差』(青春出版社)のなかで村上龍はこう書いている。

わたしたちは、状況が変化すればいつでもマイノリティにカテゴライズされてしまう可能性の中に生きている。だから常に想像力を巡らせ、マイノリティの人たちのことを考慮しなくてはならない

内田は「マイノリティの人たち」は「よくわからない人間」であり、「共感する」は、「よくわからない」けれど「私はあなたの権利を間も守ると言うこと」だと説明している。最後の一文は、この不安に満ちた社会に生きるわたしたちに大きな安心感を与えてくれるものだと思う。

私たちが共同体的に生きることができる人間というのは、私のことをすみずみまで理解し共感してくれる人間ではなく、私のことを理解もできないし、私の言動に共感もできないけれど、それでも「私はあなたの味方だよ」と言ってくれる人間のことなのである。

老親の世話をするために田舎へ。途中、池袋で昼食。空いていたので入ったTデパート上の沖縄料理店。ラフテーそばが不味くてがっかり。だし取ってないのではないかと思うような味。量も少ない。内田樹の『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)を買う。


7月2日(水)

内田樹の『街場の現代思想』読了。「負け犬の遠吠え」について、フリーターや結婚についてコンパクトに論じていて、とてもおもしろかった。殊に倫理についての章。「倫理にかなった生き方のことを「合理的」と呼ぶのである」、そういうとらえかたがあるのかと驚いた。倫理と合理性とは結びつかないもののように思いこんでいた。お薦めです。

竹内敏喜さんの詩集『任閑録』(水仁舎)を読む。主体が思考する、ということを書いた詩だと思った。


7月1日(火)

詩人の中村剛彦さんが貸してくれた『ピロスマニ』のビデオを観る。20世紀初頭のグルジアの天才画家。1969年ロシア映画。二十数年前に池袋にあったセゾン美術館で展覧会を観た。稚拙といってもいいくらい素朴な絵だった。荒野に立つ牛やキリン、ライオン。食卓を囲むグルジアの人々。ピロスマニという名も不思議な響きをもっているので、忘れずにいた。

商売に失敗し、店の壁絵や看板を描いて報酬を得るという生活。一時は画壇から注目されるが、彼の無欲と協調性のなさが災いして、不当に貶められてしまう。貧困と失意のうちに死ぬのだが、最後まで画家としての誇りを捨てなかった。荒涼としたグルジアの風景が胸にしみる。


6月27日(金)

二人の詩人と池袋で会う。ここ数年一つの場所で書きながら、詩の話をしている。詩は単独で書くものだけれど、わたしのやっていることを理解してくれる仲間がいて、それを確認する時間をもつというのはいいものだなと改めて思った。

花の金曜日というのに、西武池袋線は空いていた。なぜ?


6月26日(木)

内田樹の『街場の現代思想』(文春文庫)を読んでいる。軽い読み物。若いひとたちの行動がよくわかる。自分の好きな作家の本はよく読むが、他には目もくれないので、話が広がらないと書いてあった。なるほど、うちの娘たちにもそういうところはある。音楽も気に入ったアーティストしか聴かないので、他人との会話も成立しないとか。

先日テレビでフリーターの部屋を映していた。家具がほとんどないようだった。モノを床や畳の上に置く。当然足の踏み場がない。メイド喫茶で働いているアイドル志望の少女は、100円ショップで買ったらしいバケツを逆さにした上でコンビニ惣菜を食べていた。そこには暮らしというものがなかった。不気味だと思った。


6月23日(月)

小林秀雄『本居宣長』の上巻をようやく読み終える。小林秀雄は宣長の仕事を検証しながら、自身を語っている。『古事記』と『源氏物語』を読み解いた宣長を「優れた歴史家」と位置づけて、次のように書く。

・・・総じて生きられた過去を知るとは、現在の己れの生き方を知ることに他なるまい。それは、人間経験の多様性を、どこまで己れの内部に再生して、これを味うことが出来るか、その一つ一つについて、自分の能力を試してみるという事だろう。

井坂洋子さん、佐々木安美さん、高橋千尋さんの詩誌『一個』を読み、礼状を書く。


6月22日(日)

堀江敏幸の『河岸忘日抄』あと数ページを残すところまで、ギブアップ。疲れてしまった。寝ころんで読んでいると、すぐに眠くなる。格調高い文章なのだけれど、博学なのはわかるけれど、もっとシンプルに書いてくれれば読みやすいと思う。


6月18日(水)

先日お会いした画家の植垣歩子さんから、できたばかりの絵本
『すみれおばあちゃんのひみつ』がとどく。ほのぼのとしたかわいい話。
裁縫箱や仕事部屋など、すみずみまでていねいに描かれています。
書店や図書館で見かけたら、ぜひ手にとってみてください。



6月15日(日)

疲れがたまったので、緑を見に行く。小金井公園へ。こじんまりしていて、桜の季節でなければ、のんびり散歩できる。園内の江戸東京たてもの園には歴史的に価値のある建物が移築されている。一見の価値あり。何度も行っているので少し飽きたが、いくつかを見て、絵はがきを買う。重かった肩がほぐれたように感じられる。


堀江敏幸の『河岸忘日抄』を読んでいたら、ショスタコーヴィチの名が出てきた。この作曲家については何も知らない。PHILIA PROJECTの小沢恵美子さんが昨年からショスタコーヴィチを踊っている。案内をくださるのだが、タイミングが悪くて見に行けないでいる。ショスタコーヴィチについて調べてみよう。


6月12日(木)

先週ラフマニノフのCDを購入して、毎日聴いている。自作自演のもの。2週間ほど前にテレビで有名な日本人ピアニストがラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を弾いていた。あまり楽しそうではなかった。ポピュラーな曲である。確か映画『シャイン』で、主人公が弾いていたと思う。CDが欲しくて池袋のWAVEへ行った。たくさんあるなかから、本人が演奏しているものを選んだ。

1929年の録音なので、音はよくない。指揮はレオポルド・ストコフスキー。フィラデルフィア管弦楽団の演奏はロシアっぽい感じ。かなり重くて暗い。アシュケナージのにすればよかったかなと、ちょっと後悔。


6月9日(月)

娘が図書館で借りてきた吉本ばななの『ハゴロモ』(新潮社)を読む。文字で書かれた漫画のよう。スピリチュアルな世界の話。このひとの作品を読むといつも推敲すればもっとよくなるのにと思う。

短い手紙を4通、草稿を1つ書く。ひからびたムカデの死骸を発見。あやうく手でつまむところだった。落ちているものは、まず踏んでみることにしよう。


6月6日(金)

故田中佐知さんの絵本『木とわたし』(定価1000円)が、朱鳥社より刊行された。絵は植垣歩子さん。お祝いの食事会に関係者の一人として出席した。ご遺族と出版社の方、画家さんの8名。

「窓辺」「道」「木とわたし」「たとえば/一本の木が」の4編。詩ににふさわしい、心温まる絵がついています。子どもから大人まで楽しめる内容の絵本です。たくさんの方が手にとってくださることを願っています。

お母様の志津さんは91歳。『信濃川』など4冊の小説を書かれた現役の作家。『佐渡金山を彩った人々』という著作があり、佐渡に文学碑が建立されている。凛とした品格のある女性で、佐知さんやご自身のお仕事について話されることばは美しく、記憶は確か。これまでお写真を何度も拝見していたので、昔からの知り合いのような気がする。ご遺族は佐知さんの創作意思を伝えようとさまざまな活動をなさっていて、今日もお住まいのあるいわき市から上京された。


6月3日(火)

行定勲監督の『ロックンロールミシン』を観る。2002年製作の映画だが、70年代のような雰囲気。意図したのか、ただ古びただけなのか、わからないけれど、エアコンのないアパートの一室、ミシンの音、昔の女子大生みたいな主人公の恋人。4人の男女がデザイナーズ・ブランドを立ち上げようとする物語。もっと全体が軽いとよいのにと思った。加瀬亮・池内博之・りょう等が出演している。

山岸光人さんに礼状を書く。何度も読み返し、松下育男さんの詩集を読み、やっと感想をまとめた。


6月1日(日)

山岸さんの文章をコピーして知人に送り、読み返す。最後におかれた山岸さんの「雑司が谷墓地まで」という詩もいい。亡くなった小坂さんに語りかける詩。燃えるキリン、サバンナの石、うずくまってふるえる「きみ」。読むことができてよかったと思う。

パソコンの具合がよくないので、これまでに書いた詩をCDーROMに入れる。次の詩集を作るのはいつになるかわからないけれど、『わたしにできること』を出してから10年経ったので、そろそろ考えてもいいかなと思っている。


5月29日(木)

山岸光人さんから詩誌『たまたま』16号とどく。山岸さんが「懐かしのメロディー ー松下育男さんの詩集を読んだ頃ー」という文章を書いている。松下さんの詩誌『生き事』2号に、山岸さんの文章が転載されるに至った経緯から始まって、70年代終わり、学生運動、小坂さんという女性の存在、松下さんの詩集との出会い、小坂さんの死などが、当時の現代詩を引用しながら語られている。青春のほろ苦い日々と深い喪失感。いい文章である。

わたしより少し年長だと思う。学生運動にかかわったなかで考えたことを手放さず、自分の場所で書きつづけている詩人である。一昨年初めてお会いした。物静かな、青年らしさを残した方だった。山岸さんは2006年に『70-78』という小さな詩誌を出している。探して読み返す。わたしの詩について書いてくださっている。タイトルは「懐かしのメロディ」。


5月28日(水)

詩誌『雨期』に連載している「短篇通信」をアップしています。まずは2001年9月に書いたもの。ジム・クレイスの『死んでいる』はすごい小説です。クレイスはイギリスの作家。無神論者。死体が腐敗する様子を冷徹に描いています。他にジョン・チーヴァー、中上紀など。

堀江敏幸『河岸忘日抄』を読んでいる。このひとは上手すぎるのが難かもしれない。数ページ読んだだけで、うなってしまった。伝説の鮫と船長の話。この挿話は『アザーズ』に似た手法だと思った。表が裏に、裏が表になるのだ。興味を持った方はぜひ読んでみてください。


5月26日(月)

『人生ベストテン』読了。40に近い女性が主人公。彼女たちはゆるい日常を変えるために、一人旅をしたりマンションを探したりする。男に失望しこれまでの生活が色褪せて思えるのだ。表題作は、中学の同窓会で昔のボーイフレンドと会う話。二人はそのままホテルに行くのだが、後になって男はボーイフレンドではなかったことがわかる。若くない女たちのほろ苦い日々。騙されたり嫌な思いをしたりするが、主人公たちは「まあいいんじゃないの」と納得して終わる。そこが今風で、よいと思う。


5月22日(木)

角田光代の『人生ベストテン』(講談社文庫)を買う。エッセイ集かと思ったら短篇集だった。「床下の日常」を読む。クロス屋見習いの若い男が、マンションの水漏れ修理をする数時間のあいだに起こったできごとを話すスタイル。好奇心いっぱいの少年のような主人公がさわやか。

自分より若い人間の書いたものは読まないというひとの話を聞いたことがある。そんなもったいないことと思っていたけれど、最近は名前をよく見かけるのに、なかなか読む気になれない作家がいる。若くて売れっ子だったりすると、ちょっと引いてしまうところがあります。よくないなあ。


5月20日(火)

オースターの『最後の物たちの国で』を再読する。やっぱりおもしろい。暗くて気持ちが沈むような話だけれど、サバイバル物語のスリルが味わえる。

主人公のアンナは美しい風景を見ると記憶しておこうと思うのだが、後で再現しようとしてもできない、懸命に記憶しようと努力したことを思い出すだけだという箇所がある。レイモンド・カーヴァーのことばを思い出した。「ひとが墓まで持っていけるのはがんばったという記憶だけだ」というもの。オースターとカーヴァーが重なって、うれしくなった。


5月18日(日)

今週23、24日に小沢恵美子さんのソロ・パフォーマンス公演があります。お時間のある方はぜひ。わたしは地方に出かけてしまうので観に行けないのですが。

花粉症の第二弾がやってきた。早めに直そうと薬を飲んだ。一日中どんよりと眠い。薬は就寝前だけにしたほうがいいようです。


5月14日(水)

amazonで『本居宣長とは誰か』(子安宣邦・平凡社新書)を買う。帯文に「宣長は日本というアイデンティティを考察した最初の思想家」とある。納得。

昨日ムカデが玄関に入ってきた。動きが速い。強い。怖い。ムカデは布団のなかに入ってくることもあり、噛まれると痛いという。そんなおそろしい虫なのか。むかし読んだ『足長おじさん』を思い出す。ツタの這う寮の部屋にムカデが出て、虎のほうがマシだとジュディはおじさん宛の手紙に書いた。よくわかる。このあたり、昨夏にはタヌキが出たとのこと。ぜひ見てみたい。このあたり、昨夏にはタヌキが出たとのこと。ぜひ見てみたい。


5月11日(日)

早稲田の小野記念講堂で『みつつのうたでドドントカ』という公演を観る。作曲家の鶴見幸代さんと振付家の山田珠実さんが知的な障害をもつ人たちと音楽やダンスのワークショップを重ねてつくった舞台。知人の高橋あいさんに案内をもらって、すぐに観覧申込みをした。でも今朝になってためらうものがあることに気づいた。

スタッフと障害をもつ人が一緒に歌い、踊る。みんな楽しそうである。けれどもただ観ているだけでいいのだろうか。もちろん何もできないが、客席で彼らの動きを追い、声を聞いていることに後ろめたい気持ちが湧いた。演出家の二瓶龍彦さん、パーフォーマーの祥子さんと小沢恵美子さん、オータ・ナオさんにご挨拶。


5月7日(水)

連休初日から家族が寝込んでいるので、どこにも行かずに読書三昧の日々。レイ・ブラッドベリの『さよなら僕の夏』(北山克彦訳・早川書房)読了。55年を経て書かれた『たんぽぽのお酒』の第二部。主人公のダグラスは14歳になっている。少年たちはおもちゃのピストルで老人を驚かせ、郡庁舎の大時計に爆竹を仕掛ける。期待していたほど楽しめなかったのは、わたしは年を取ったからか。ダグはまだ幼さの残る少年だが、弟のトムは賢く、おじいちゃんはかなりの人格者。度の過ぎたいたずらも叱らずに、自分のやったことをよく考えるようにやんわりと話をもってゆく。こういうお年寄りが近くにいたらよかったのにと思う。

合間に『本居宣長』。今年は『源氏物語』が生まれて千年。この大ベストセラーを「物のあはれ」をキーワードに読み解いたのが本居宣長である。よい時に読んだと思う。とはいえ、まだ四分の一。先は長い。


5月4日(日)

山本楡美子さんが編集発行する『ぶりぜ』4号が届く。わたしも参加させていただいた。執筆者は香川紘子さん、新倉葉音さん、郷原宏さん、山本楡美子さん。

「星の下で」という詩を書いている。うまくいかなかったと思う。直喩を使わない、説明をしないことを考えながら書いた詩。失敗作かもしれないけれど、そのときはこれしかないという気持ちだった。お読みになりたい方はメールをください。


5月2日(金)

若い友人から、「みっつのうたでドドント力」の公演の案内。先月久しぶりに顔を合わせた。写真家の高橋あいさん。美術担当の彼女も出演するそうなので、行ってみようと思っている。


5月1日(木)

国分寺へ。駅ビルのなかにある武蔵野茶房でお弁当とコーヒー。
若布ご飯、肉じゃが、卵焼き、茄子の煮浸し、柴漬け、お味噌汁で1050円。
量もほどよく、ていねいに作ってあるのがうれしい。
コーヒーはちょっと高いけれど1.5杯分くらいの量。
いつも小さな花が一輪添えられています。
ウェイトレスさんの白いレトロなエプロンがかわいい。
店内は落ちついたマホガニー色。必ず立ち寄る店です。


4月29日(火)

新宿パークタワーホール『イメージフォーラム・フェスティバル2008』で、鈴木志郎康さんの作品『極私的コアの花たち』を観る。2006年に毎日庭の花を撮影した10時間分の映像を50分にまとめたものという。紫陽花、チューリップ、アマリリス、芍薬、クリスマスローズ、月見草。芽が出て花が咲き、枯れてゆく。庭は緑にあふれ、台風に見舞われ、冬が来る。また季節の移り変わりとともに、腰と足を痛め歩行困難になるという生活が語られる。観客であるわたしたちも、花々の変化に生を重ねるまなざしになっていく。ファンキーな音楽と志郎康さんの温かみのあるナレーションが楽しい。

北爪満喜さん、川口晴美さん、薦田愛さんがいらしていた。ご挨拶だけして、有楽町へ。小学校時代からの友人、宮崎真弓さんの絵を観る。宮崎さんは抽象画の画家で、コンスタントに個展をひらいているが、今回は大学の同窓生のグループ展。ステンドグラス、風景画、ヌードなどジャンルはいろいろ。メンバーのみなさんを紹介してもらう。同年齢というのは何だかうれしい。

さらに銀座三丁目へ。北爪さんからご案内をいただいたビルでの写真展示を観る。すでにサイト上で観たものもあったが、フレームに入っているのを観るとまたちがってみえる。川面にレジ袋が浮かんでいる写真に惹きつけられた。なぜかビニール袋というものが気になってしかたない。そういえば、先ほど倉庫で踊る女性の映像作品を観た。倉庫には花畑のように白い花が展示されている。レジ袋で作ったものだと最後の挨拶で作者が言っていた。女性とレジ袋の組み合わせに興味を持った


4月28日(月)

『わたしたちが孤児だったころ』(早川書房)読了。何とも複雑な物語。上海の租界で暮らしていたクリストファーは父母が失踪し、10歳で孤児になる。その後イギリスで教育を受け探偵になったクリストファーは両親を探すため、日中戦争が勃発した上海に戻る。

幸福な少年時代が回想される。階段の何段目で誰を見たか、どんな表情をしていたかというようなことが細かく描写される。舞台はさらにロンドンの社交界、戦時の上海へと移ってゆく。記憶を追う旅。そして知る両親の失踪の真実。1954年長崎生まれのイシグロは5歳で渡英し、イギリス国籍を取得している。その距離ゆえに日中戦争の時代を背景に小説を書くことができたのだと思う。

日本軍に助けられたクリストファーは司令部で手当を受け、日本人の大佐に言う。「あなたの国が中国を侵略したために大虐殺が起こって後悔しているでしょう」。イシグロは教養ある大佐に「もし日本がイギリスのような偉大な国になろうとしたら、これは必要なことなのだ」と答えさせている。日本の作家はこのように書くことはないだろうと思った。


4月27日(日

レッドアロー号で秩父へ。何があるわけでもないのに毎年のように出かけていく。いつもは人通りの少ない商店街で囃子大会をやっていて賑やか。観光地だけれど、すれていない大らかな山間の町である。SLが走っている。昼食は蕎麦豆腐と黒はんぺん(いわしのつみれ)、せいろのセット。武甲酒造で武甲正宗を買う。1753年創業の酒蔵。歴史を感じさせる重厚な店内、いつ来てもすばらしいと思う。緑の風をたくさん浴びて帰宅。

車中で『本居宣長』。やっと190頁ほど。


4月23日(水)

柴田千晶さんの詩集『セラフィタ氏』(思潮社)を読み、礼状を書く。今年の話題をさらう詩集になることは間違いない。都会に生きる派遣OLの「私」をめぐる連作詩篇。卓抜な展開と構成。サスペンスドラマを見ているように緊張しました。若い女性の抱える闇と生々しい痛みが伝わってきます。

『本居宣長とは誰か』(子安宣邦・平凡社新書)を買いに行くが、このあたりの書店には置いてない。それで語学講座のテキストを数冊購入。


4月20日(日)

時間があると小林秀雄『本居宣長』。漢文に四苦八苦しながらも、読み進むにつれて少しずつ目の前が開けてきた(と思う)。

心と行為との間のへだたりが、即ち意識と呼べるとさえ言えよう。

彼が、式部という妙手に見たのは、「物のあはれ」という王朝情趣の描写家ではなく、「物のあはれを知る道」を語った思想家であった。

このように優れた思想家と批評家の書物を手に取ることができる幸福を思う。今年中に最後まで読めるだろうか。


4月17日(木)

『読む力・考える力のレッスン』をもう一度読んだ。神山さんはご自身の経験を語りながら、よりよく生きるとはどういうことかを説くとともに、優れた本を紹介してくれてる。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』や大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』、高橋源一郎の『さよなら、ギャングたち』。わたしはこれをまだ読んでいない。絶版らしいのだが、何としても読まなくては。神山さんに礼状を書く。

amazonにカズオ・イシグロの『わたしたちが孤児だったころ』を注文する。


4月14日(月)

鈴木志郎康さんの『声の生地』読み終わる。感情を排して、子ども時代の光景や家について記録した「詩の書き出し」は圧巻。「ギューン、ギュルルン、ギュルルン、パッ。」という映像が切り替わる音が効いている。幻灯を見ているように、文字で書かれたことばが立ち上がってくる。戦争や疎開のことも記されている。わたしの両親は志郎康さんより上だけれど、戦争時代の話はほとんどしなかった。語るとか書くといったことと無縁な人たちだった。〈詩人〉というのはやはり特別な存在なのだと思う。こう書くと誤解を招くかもしれないが、書き記すという習慣はふつうのひとにはない。思い出すことが考えることになる。おそらくふつうの人は思い出すだけだろう。

話す口調、話すスピードで書かれた詩。「極私的ラディカリズム」「詩について」は詩を書くわたしたちに力を与えてくれる。

葉を使うってこと、善し悪しは考えない。
言うってことを続ける。または書くことを続ける。
小さなことを言う。また小さなことを書く。      (極私的ラディカリズム)


生きる自由だ、
詩は。
他人から遠く、
密かに、
元手も掛けずに、
言葉を社会から奪って、
世界を名付ける                     (詩について)


4月13日(日)

『サウスバウンド』を観る。原作は奥田英朗、森田芳光監督。上下巻の原作を2時間ほどに縮めてあるということで、主人公の上原一郎が過激派学生だったことについてはあまり描かれていない。「ナンセンス」とか「展開しろ」ということばが飛び交う程度。著者の年齢からしても、学生運動は過去のものだったはず。そのためか、明るく楽しい映画になっている。舞台は東京下町から一郎の生まれ故郷である西表島に移る。父の過激な行動に困惑していた子どもたちが、南の島に渡ってみるみるうちに元気になっていく。

天海祐希は毅然としていて、元学生運動家という雰囲気。自ら経営する喫茶店でも詩の朗読。何だか恥ずかしくなりました。豊川悦司も適役だと思うけれど、最近は話題作はほとんどこの人が演じているみたいな気がする。この年代の男性俳優は他にいないのだろうか。


4月9日(水)

『読む力・考える力のレッスン』読了。語り口はやわらかく、内容は深い。思春期に神山さんのように深い知識をそなえた大人が周囲にいたら、わたしはずいぶん救われただろうと思う。神山さんの著書はいつもわたしを励ましてくれる。もう一度読んでから感想を書こうと思う。

鈴木志郎康さんの『声の生地』(書肆山田)を読み始める。志郎康さんの映像作品を観ているみたい。いくつか拝見したことがある。映像作品にはご自身のナレーションが入っていて、その声が聞こえてくるようだ。


4月6日(日)

岩井俊二監督の『花とアリス』を観る。二人の女子高生、ハナ(鈴木杏)とアリス(蒼井優)の話。ハナは片思いの男子が自転車で転倒したのをいいことに、記憶喪失であると思いこませ、自分と付き合っていたことにしようとする。元カノということでアリスも片棒をかつぐのだが、彼はハナではなくアリスに惹かれていくのを不思議に思う。

モデル希望のアリスがオーディションでバレエを踊るシーンが圧巻。シューズの替わりに、紙コップをガムテープで巻き付けて踊る。その集中力、身体の底からあふれる喜びに輝く顔。いい女優さんだと思う。


4月4日(金)

八木幹夫さんに礼状を書く。昨夏にいただいたままになっていた山本博道さんの『ダチュラの花咲く頃』(書肆山田)と白鳥信也さんの『ウォーター、ウォーカー』(七月堂)を読み、礼状を書く。神山睦美さんの『読む力・考える力のレッスン』(東京書籍)を読み始める。「優れた作品の言葉を読み取りながら、思春期にぶつかる人生の問いを考えていく。よりよく生きる親と子のために」と帯にある。夏目漱石や村上春樹の小説が紹介されていて、たまたまめくって読んだ村上春樹の「ハナレイ・ベイ」についての考察の深さに驚く。わたしは特に考えることもなく読み流していたのだった。娘の一人はまだ思春期にある。心して読もうと思う。

アサリがおいしい季節。それでこの春は鯛のアクアパッツァをしょっちゅう作っている。鯛の切り身をアサリやトマトと一緒に蒸し煮するもの。鯛の皮は硬いので、フライパンで焼き目を付けてから蒸すのがいいと思う。水と白ワイン(日本酒)、黒オリーブを入れて蓋をして5分。最後にイタリアンパセリ(ふつうのパセリでも)を散らす。簡単なのに豪華にみえる。ぜひお試しください。


4月3日(木)

久しぶりに吉祥寺へ。東急デパートの横を歩いていて、昔このあたりの店に何度か行ったなあと考えていたら、かすかに記憶に残っていた建物が目の前にあるので驚く。25年ぶりだ。店の名は変わっていたが、その下に「旧バンビ」と書いてあった。小さな3階建てのビル。壁には織田廣喜の絵。「赤い帽子の少女」で有名な画家。狭い階段の壁にもテーブルの横の壁にも絵が掛けられていて、織田廣喜ギャラリーという感じ。

年配の客や家族連れが多い。きっと地元のひとに愛されているのだろう。サーヴィスも料理もよかったけれど、残念ながら味が濃すぎた。もう来ることはないと思う。


4月2日(水)

図書館の会議。その後、恒例のお花見。うずらの煮卵と蒟蒻の炒り煮を差し入れ。桜はまだ満開。

八木幹夫さんの『夜が来るので』(砂子屋書房)を読む。八木さんらしい厚みのある作品群。カズオ・イシグロの『わたしが孤児だったころ』を読み始める。


3月30日(日)

小金井公園へ。空が見えなくなるほどの白い満開の桜。怖いくらいに美しい。花見客の数もすごいが、寒いので今ひとつ盛り上がっていない様子。早々と帰宅。この春はお花見弁当を作らないで終わりそう。ちょっと淋しい。

佐藤恵さんと岬多可子さんに詩誌の礼状を出す。新しい詩を書きはじめる。発表する予定はないけれど。とりあえず「雨期51」というタイトルをつける。


3月25日(火)

隣町の書店でブラッドベリの『さよなら僕の夏』を買おうと思ったのだが、置いていないので、書棚に並んでいたポール・セローの『ワールズ・エンド』を買う。十数年前に読み、「世界の果て」というタイトルに惹かれて、同じ題名の詩を書いたことがある。今回読み返したら、ワールズ・エンドはロンドンの地名。アメリカからロンドンに移住した一家の話。幸福だとばかり思っていた夫は、幼い息子と妻のことばの端々から、家庭が崩壊しつつあることを知る。ちょっと怖い短篇小説。

『さよなら僕の夏』をamazonで注文する。その前に前編である『たんぽぽのお酒』を再読しようと思う。

久しぶりにチキン・カチャトーレを作る。鶏もも肉を焼いて、白ワインとアンチョビで煮たもの。他に白インゲン豆、黒オリーブ、インゲン、トマト、エキストラバージンオイル、にんにく。用意する食材が多く、玉葱を30分ほど炒めるという手間があるので、作るのは年に一度くらい。手間を惜しまなければ誰が作ってもおいしい料理だと思います。


3月23日(日)

瑞穂町のモールへ。東京都羽村市。山が近い。ここまで来るとドライブをした気分になる。最寄り駅はないのかも。車で来るしかない場所。

荻上直子監督の『めがね』を観る。南の島の民宿に集まる5人の物語。海と緑が美しい。清潔な民宿にゆっくり流れる時間。何といっても、もたいまさこさんがよい。ひとを寄せるちからを持つ、おじさんのようなおばさん。前作『かもめ食堂』と同じ匂いのする映画。


3月21日(金)

『空中ブランコ』読み終わる。プロ野球選手を扱った「ホットコーナー」がおもしろかった。入団十年目の三塁手が一塁に送球できなくなる話。怖さのあまり暴投してしまう。「イップス」ということばを初めて知った。自分の考えていることが体に伝わらなくなり、意に反した動きをしてしまうことだという。元々はピアニストの指が動かなくなることを言ったそう。

「女流作家」はトレンディドラマのような話。恋愛小説を量産する流行作家。書きはじめるうちに、この男女の組み合わせ(商社マンとキュレーターとか)はもう使ったのではないかと不安になり、嘔吐してしまう。若い後輩作家との対談には女の愚かさと醜さがこれでもかと盛ってあって、おかしい。著者はコピーライター、構成作家を経て作家になったひと。なるほどと思った。



3月19日(水)

奥田英朗の『空中ブランコ』を読んでいる。精神科医の伊良部を主人公とした連作短篇小説。一話完結のテレビドラマのよう。伊良部はつかみ所がない男だが、患者の生活に入っていって神経症を緩和させる力を持っている。100キロほどの巨体で怖いものなしの、子どものような男。

尖端恐怖症のヤクザが出てくる。男は包丁はもちろん、フォークも箸も見るだけで脂汗が出る。わたしは裁ちばさみがだめである。抽出をあけてそれが目に入ると、ジョキーンという音が聞こえ背筋が寒くなる。どうしても何かを断ち切るところを想像してしまう。心底怖い。小さなものはだいじょうぶである。ついでにフードプロセッサーもだめだ。食材を粉砕する音を聞くのが苦痛である。これは小さいころに病院でギプスを取るときに感じた恐怖とつながっている。


3月15日(土)

六本木でオータ・ナオさんのパフォーマンスを観る。少し遅れて行ったら、水の入ったボールをそっと運んでいるところだった。水がときどきあふれて、ナオさんの手を濡らすシーンだった。これまで観たいくつかの公演は激しい動きのものだったけれど、今回は静か。それがだんだん激しくなってくる。12歳の少年fを演じるナオさんが何度も床に倒れ、両手で胸や腹を叩く。死を体現したパフォーマンス。そのあと激しい動きで踊り、呼吸が荒くなる。呼吸が静まってゆくのを、観客であるわたしたちは見まもる。再び、水の入ったボールを手に取り、静かに運ぶ。今度は飲むという行為が加わる。ガラスのボールに明かりが映って、祈りのように見えた。

終わってからオータ・ナオさんと話すことができた。いらしていた稲川方人さんとPHILIA PROJECTのみなさんにご挨拶して帰宅。

親しい友人の息子さんが数年前に自死した。14だった。物忘れがひどくなっていくのを悩んでいたけれど、友人はたいしたことではないと思っていたという。若年性のアルツハイマーだったかもしれない。家から数分ほど離れた団地に行き、飛び降りたそうである。友人とわたしが一緒に子どもを育てた団地だ。数か月経ってお焼香に行った。無宗教ということで仏壇はなく、その年は桜がとても早く咲いたのだと友人は唐突に話し始めた。息子の死を、例年と違う桜の開花に結びつけたかったのだと思う。そんなことがあったので、12で自死した岡真史さんの詩集を出版したご両親の気持ちが少しわかるような気がする。


3月14日(金)

今日(19時30分〜)と明日(15時〜・18時〜)、六本木ルーテル教会にて、オータ・ナオさんのパフォーマンス公演「降ル群青、落チタ空ニ身ヲ投ゲタ児ラハー岡真史に」があります。お時間のある方はぜひ足をお運びください。設計は二瓶龍彦さん。

高見順賞の受賞パーティへ。北川透さんと稲川方人さん、おめでとうございます。昨年はこういう集まりに行かなかったので、みなさんにお会いできてよかった。稲川さん、司会の井坂洋子さん、選考委員の新井豊美さんとたくさんのお話をした。岡田幸文さん、祥子さん、手塚敦史さんと受付で会って安心する。他に中尾太一さん、鈴木東海子さん、福間健二さん、八木忠栄さん、添田馨さん、中本道代さん、財部鳥子さん、岡島弘子さん、一色真理さん、鈴木一民さん、宗近真一郎さん、倉田比羽子さん、上久保正敏さん。手紙のやりとりだけだった岬多可子さん、野木京子さん、佐藤恵さんとお目にかかれたのもうれしいことでした。出不精だしパーティはとても苦手なのだけれど、出かけてよかった。


3月13日(木)

小林秀雄の『本居宣長』を車中で読む。漢文の引用も外だと集中して読むことができる。江戸前期の儒学者である中江藤樹についての文章につよく惹かれた。

「藤樹という人は、この、事の自然の成り行きに適応した人々の無意識性から、決定的に離れた人だ。彼は時の勢を拒否もしなかったし、これに呑まれもしなかった。ただ眼を内側に向ける事によって、きわめて自然に孤立した。その有様が、「藤樹先生年譜」に、よく現れている」

「この、事の自然な成り行き」とは、戦国の時代、下克上の世の中にあって、支配者がめまぐるしく変わっていくことだといっていいと思う。庶民の意識も生活も多大な影響を受けたであろう。そのなかで学者としての姿勢を貫
いた藤樹という人間を語る小林秀雄の文章は、今読んでも新しい。


3月12日(水)

いただいたままになっていた詩集を読む。五月女素夫『月は金色の星を釣り』、中村不二夫『コラール』、嵯峨恵子『悠々と急げ』、後藤美和子『大地の黄身』。礼状を書く。こんなふうに詩に向かうことができるのをうれしく思う。

温かくなったので、できるだけ歩くようにしている。きょうも遠くまで買い物に行き、往復1時間ほど歩く。家しかない街。小さな川、梅の木、丘陵が見える。


3月9日(日)

ゴダールの『勝手にしやがれ』を観る。わたしにとってゴダールは百科事典に載っていた映画の監督なのだけれど、今観てもちっとも古くない。若き日のジャン・ポール・ベルモンドはチャーミングだし、ジーン・セバーグはとても美しい。自動車泥棒をくりかえすミシェルがパリに行き、アメリカ娘パトリシアの部屋に転がり込む数日間のできごと。

トリュフォー脚本の台詞がいい。ひとは生活するなかでどうでもいいことばかりしゃべっているものなのだとわかる。


3月7日(金)

大事なメールが届かないことがある。どういうわけか迷惑メールにふり分けられてしまう。迷惑メールは一日に100通くらい来るのでチェックしない。それで二人の詩人からの原稿を受け取ることができなかった。締めきりや約束があるときは確認するべきだった。わたしの手落ちである。

『ミシシッピは月まで狂っている』の続き。旅の途中で出会った他国の頭のおかしな青年が「ファ・・・」を連発するという話があまりにも長いので、うんざりする。本筋とはまったく関係ないでしょう?


3月3日(月)

雛祭りは五目寿司と蛤のお吸い物と決めている。国産のハマグリは高すぎて買えない。中国産の4倍くらいの値段。あきらめることにした。乾物も中国産が多いので注意しなくては。

家の前の藪が伐採された。クレーン車やフォークリフト、チェンソーを使う数日がかりの作業。近隣住民には何も知らされていない。竹藪が消え、大きな木が2本残るだけになった。向こうの駐車場と家々が見える。この後どうなるのだろう。また竹がぐんぐん伸びるのか、駐車場が広くなるか。マンションが建つということありうる。でも今週は何の進展もない。なぜ?


2月29日(金)

立川へ。久しぶりの買い物。立川にはルミネや伊勢丹、高島屋がある。駅のなかに新しくデュオというショッピングモールができていて、すごい人出。いろいろ見たけれど服は買わず、詩人の佐藤恵さんにおしえてもらった三上鰹節店で、亀節とゆず七味と芋がらを買う。乾物のいい匂いがする店。立川に行くときは必ず立ち寄ります。さらに富沢商店(伊勢丹の地下にある食材の店)で菩提樹のハチミツ(国産。スーパーにあるのはほとんどが中国産です)と沖縄の塩、昆布などを購入。

ベトナム料理の店でランチ。ベトナムコーヒーは100円。カップに練乳が入っていて、その上でコーヒーを抽出する。かき混ぜ方によって甘さが変わるというもの。

小池昌代さんの詩集『ババ、バサラ、サラバ』(本阿弥書店)を読む。現代詩の枠から抜け出して、伸び伸びと書かれた詩だと思った。


2月24日(日)

ゴダールの『気狂いピエロ』をビデオで観る。先日久しぶりにTUTAYAに行ったらゴダールのコーナーがあった。それでゴダール熱がやってきた。1967年の映画だけれど今でも新しく感じられる。倦怠の匂いがする深夜のパーティから始まる逃避行。ミュージカル、ロードムービー、サスペンス、サバイバル物などがコラージュ風になっていて、「ジェットコースター映画」の走りのようだと思った。破滅に向かって突き進むフェルディナン(ジャンポール・ベルモンド)と組織の女であるらしいマリアンヌ(アンナ・カリーナ)。フェルディナンは読書と書くことを愛する男である。ランボーの詩が引用される。マリアンヌは感情に生きる嘘つきの美女。おもしろかった。来週は何を借りようかな。


2月21日(木)

警察署に行き車庫証明の申請書を出す。何人も並んでいるのに係のひとがいない。奥では野村克也に似たおじさんが何をするでもなく退屈そうに机の前に座っている。暇なら窓口で応対してくださいと言いたくなる。それから車検場へ住所変更の書類をもらいに行く。牛沼というところ。近くには松郷という地名も。田舎だなあ。

『本居宣長』を読んでいるが出かけることが少ないのでなかなか進まない。寝る前には駒沢敏器の『ミシシッピは月まで狂っている』。これも一向に進まない。文章に何かひっかかるものを感じて、今夜はもういいやと思ってしまう。


2月17日(日)

「図書館まつり」2日目。チラシを配り、パネル(所沢ゆかりの作家、市内の文学碑)を見ているひとに説明したり、質問を受けたりする。昨日、同人誌を見てメモを取っているひとがいたので話しかける。俳句の冊子を発行しているとのこと。司書さんに紹介して雑誌コーナーに置くことになった。役に立ててよかった。

「集会室の窓から額縁に入れたような富士山がみえる」という、この図書館について書いた小説があるのだそう。来館者の方がおっしゃっているのを小耳にはさみ、検索してみたがわからない。高橋玄洋さんか天童荒太さん、奥泉光さん(いずれも市内在住)あたりかと思ったが、違うようだ。その窓から夕焼けの富士山を眺めて帰宅。


2月14日(木)

久谷雉さんにお願いして送ってもらった『ふたつの祝婚歌のあいだに書いた二十四の詩』を読み、礼状を書く。すばらしい上手さ。柔らかく温かみのあることばで作られた小宇宙と思った。

テレビで放映していたナタリー・ポートマンの『あなたのために』を観る。アメリカの田舎が舞台。ウォルマートに置き去りにされた妊婦が素朴な住民に救われる話。アシュレー・ジャッドが珍しく明るい子持ちの友人役で出ている。原作が古いのか、ちょっと間延びした感じ。


2月10日(日)

花粉の症状が出ている。立体マスクと眠くならない花粉症の薬「ハイガード」、「花粉ブロック」という塗り薬を買う。昨年は花粉が少なく、軽症だったので油断していたのがいけなかった。早めに予防すればよかったと反省。昨日、雪が積もったときのためにスコップとレインブーツ、手袋を購入。雪かきする気満々です。

執筆者への発送が終わる。表紙に名前を載せたので、今回は星図を入れなかった。ちょっと淋しいかったか。『地球を抱いて眠る』のなかの「ハワイの石の伝説」がおもしろかった。ハワイでは石は動かしてはならないのだそう。死んでいるのに命のちから(マナ)があるからだとか。何らかの不幸に見舞われた観光客はハワイで拾った石を送り返してくるという。アニー・ディラードの本に『石に話すことを教える』というエッセイ集があったことを思い出し、表題作を読み返す。それを試みているひとが実際にいるとのこと。気が遠くなるような行為ですね。


2月9日(土)

印刷所で機械のトラブルがあったということで遅れましたが、ようやく50号が出来上がりました。祝!昨日執筆者宛に添える手紙を書いておいたので、きょうは発送作業。しかしメール便のナンバー入りシールが見つからない。たくさんもらったのに、引越のどさくさに紛れて捨ててしまったのだろうか。そうだとしたら・・・。どうするかは明日考えることにします。

とにかくできたことに感謝。文字サイズを大きくしたので読みやすくなったと思います。アンケートは「わたしの転機」。たくさんの方に回答をいただきました。高木護・草野信子・竹内敏喜・山口眞理子・三井喬子・佛渕健悟・國峰照子・川口晴美・山本楡美子・タケイリエ・福間健二・北沢十一・布村浩一・小柳玲子・岩木誠一郎・岡島弘子・相沢正一郎・八木幹夫・神山睦美・鈴木志郎康・金井雄二・鈴木東海子・野沢啓・國中治・岡田幸文・中村剛彦・松本邦吉・北野英昭・荻悦子・原口哲也・須永紀子。詩作品は池井昌樹・古内美也子・荻悦子・原口哲也・須永紀子。


2月6日(水)

絶不調で一日寝ている。寒気がして泥のような眠りに落ちたまま。熱はない。夕方やっと起きあがり、印刷所に電話する。入稿してもう10日以上経っている。インクが乾かないという。そんなことがあるのだろうか。


2月5日(火)

日曜の夜から不調で、花粉かと思っていたのだけれど、きょうになって本格的な風邪の症状が出てきた。買い物にも行かないことに決めて、住所録の訂正、「英語づけ」を1時間、昨年いただいた三井喬子さんの詩集『紅の小箱』(思潮社)を読んで感想を書いた。今夜三井さんは都内で朗読をなさるはず。行けなくてすみません。

体調が悪いときは来し方行く末のことを考えてしまう。今までしてきた、ほめられないことの数々を思い出して反省したり、近い将来一人になってしまうのだと淋しく思ったり。

駒沢敏器の『地球を抱いて眠る』に慰められるものを感じつつ、何かがひっかかる。森のなかでの眠りや瞑想の体験について書かれたエッセイなのだが、一人の人間がそんなに幾つものスピリチュアルな体験ができるものなのかと思ってしまう。そういう世界を受け入れることのできる資質をもったひとなのだろう。スピリチュアルな世界にはかなり強く惹かれているが、だからこそちょっと怪しいなと思うのだ。


2月3日(日)

所沢のH会館で、「所沢図書館友の会」主催の講演を聴く。浅賀丁那さんによる「連句の楽しみ」。浅賀さんは「季語研究会」の編集発行人。「英語で奥の細道を読む会」・「英語で連句の会」を主宰されている。連句の先生である佛渕健悟さんもいらっしゃる。ルールは複雑。いまだに覚えきれない。新年会を兼ねていたので、お酒とお弁当をいただき、そのあとに実作。

参加者は初心者が多いけれど、みんな早い。何を書くにも時間がかかるわたしは句を作るのも遅い。既に使われたことばが入ってしまったり、長句と短句を間違えたり。顔から火が出そうになる。だめな生徒のために、先生が特別に枠をくれる。五七五の夏の句。うまくできない。遊びのつもりなのに本気になってしまう。格調高い句を作ろうなどと思うのは十年早いのでした。

帰宅して雪かき。夕食は太巻きと挽き肉だんごの鍋。この冬は鶏挽き肉に蛸(粗みじん切り)を入れたものをよく作っている。ぷちぷちした食感が楽しいです。


2月2日(土)

『ライフ・イズ・ベースボール』のDVDを観る。主演はマイケル・キートン、マイケル・ホフマン監督。1986年、ボストン・レッドソックスが68年ぶりのワールドチャンピオンに王手をかけてニューヨーク・メッツとの試合に臨んだ日の話。どこか文学的なのは脚本が伝説の小説家ドン・デリーロだからだろう。

その日に新作の初演をすることになっている脚本家のニックは、悪名高い批評家が見に来るというので落ちつかない。変人の批評家(ロバート・ダウニー・Jr..)はアンディ・ウォーホールの変装をしてやってくる。ニックの娘と事に及ぼうとしたところで鉢合わせした二人はレッドソックスのファンということで意気投合してしまう。

「これまでか」(This could be it)がキーワード。ニックの芝居の台詞であり、試合や彼の人生をあらわしてもいる。舞台はニューヨーク。キートンが『バットマン』とは違う顔を見せている。熱狂的な野球ファンが多いアメリカにはなかなか渋い野球映画がたくさん作られているが、これもその一つ。


2月1日(金)

毛糸の帽子を猫にかじられる。端がほどけてしまったので、捨てるしかない。この冬3つ目。帽子がないと寒い。買ったまましまっておいた真っ白な帽子をかぶる。頭だけ白鳥みたいで恥ずかしい。まあ、自分では見えないからいいけど。

駒沢敏器『地球を抱いて眠る』(NTT出版)。帯に「都市生活者の精神の旅」とある。最初のエッセイは「ヒプノセラピー」(年齢退行催眠)を受けた体験記。著者は6か月の胎児になって大泣きしたそう。セラピストは幼児期に肉親の虐待にあって、大人になって精神的に自立してからも原因不明の病気にかかり続けたという女性。わたしもそういうひとのセラピーを受けてみたい。そんなことをしなくても、自分のなかの深い闇、欠落した部分についてはわかっているつもりなのだけれど。


1月30日(水)

図書館の会議。2月16日に向けて細かい調整をする。配布物の準備。今回は落語の前に篠笛の演奏もある。利用者が楽しみにしている除籍本のリサイクルはなし。他に館内めぐりーや映画会、ミニ・コンサートなどの催しがある。リニューアルした館内での「図書館まつり」。お近くの方はぜひお立ち寄りください。

先日朝のテレビ番組でRADWIMPSというバンドを紹介していた。すごい人気なのだそう。聴いてみたいと言ったら娘がCDを貸してくれた。めちゃくちゃいい。バンプ・オブ・チキンにちょっと似ているが、もっと楽しくてもっと奥行きがある感じ。ヴォーカルの野田洋次郎は走るように歌う。詞もよい。ことばでもひととつながろうとしているように思う。全員22歳。若いひとの音楽をまだすごいと思えることがうれしい。


1月27日(日)

大阪国際女子マラソンを観る。福士加代子さんの最後の走りに思わず声をあげてしまう。大相撲初場所の決戦もすごかったですね。

栗原澪子さんの歌集『水盤の水』(北冬社)を読む。栗原さんは大好きな詩人。おだやかで控えめな栗原さんの「時々の記録」。果敢に誠実に生きている女性の姿が見えてくる。字余りの歌に「詩人」の気骨を感じた。

小林秀雄の『本居宣長』をamazonで購入する。


1月25日(金)

『雨期』50号の入稿。今回はかなり手間取ったので、無事終わってとてもうれしい。ここまで来ると作品の出来などどうでもよくなる。これしか書けなかったのだものと開き直ってしまう。今日は朝から何もせずに編集作業をやっていたのだが、こういうときに限ってプリンターの具合は悪いし、CD-ROMは取り出せなくなるしでちょっとしたパニックだった。


無条件に幸福です。今日これから何があってもだいじょうぶ。


1月19日(土)

『Radio On』をDVDで観る。デヴット・ボウイ主演、ヴィム・ヴェンダースが製作に関わっている1979年の映画。モノクロのロード・ムービーだが、舞台がイギリスなので、他のヴェンダース作品とはまったく違う風景が展開する。兄が自殺したという知らせを受けてボウイは兄の家に向かう。短いトレンチを着た無口なボウイは若き日のアラン・ドロンにちょっと似ている。

ストーリーはわかりにくい。兵役から戻ったスコットランド人や子持ちのドイツ女性を車に乗せることになるが、何も起こらない。スティングがミュージシャン希望の青年を演じている。なかなか味のあるギターと歌だと思ったら、スティングだったので驚いた。壊れかけた車を捨てて汽車に乗るところで終わるが、ここでやっと希望のかすかな光が見えた気がした。

映像は時代を感じさせないくらいスタイリッシュ。音楽は不思議なチョイスのブリティッシュ・ロックです。途中で眠くなったけれど、ヴェンダース映画を見逃してなるかと思って最後まで観ました


1月15日(水)

成人式を迎えた娘は、ばっちりメイクをして中学の同窓会に行き、朝刊のとどく時間に帰宅した。最近は「オール」の飲み会がふつうなのだろうか。起床は午後1時。人生もったいないなあと思う。すでに子どもが1歳という男子も数人いたという。そんなに急がなくてもと思うけど。

わたしの成人式は淋しいものだった。家を新築するのと着物とどちらがいいかと親に聞かれた。家と答えるしかない。当然成人式にも行かずに、スーツを着て写真を撮っただけ。1日だけ貸衣装のようなものを着るのはおかしなことだと思っていたし、成人式に行く気もまったくなかった。記念品も受け取りに行かなかった。ひねた20歳だった。


1月11日(金)

朝、皿をあらっているときに、突然「詩を書きたい」と思う。霧が晴れたように活力が湧いてきた。こんなことは十数年ぶり。どうかこのテンションが持続しますように。

午後は図書館の会議。リニューアルされた館内は明るく広くなっている。ゆかりの作家コーナーに拙詩集も展示されている。申し訳ないような気持ちです。来月は「図書館まつり」。そのために図書館に入り浸ることになります。うれしいです。


1月10日(木)

ピーター・キャメロンの『ママがプールを洗う日』(山際淳司訳)を読み返している。傑作ではない。でも悪くない。アメリカの田舎(メイン州など)に住むハイティーンの少年少女が退屈な生活を語るスタイルの短編小説集。ぼけたおばあちゃんの面倒を見たり、妹の結婚式に出たり、ガールフレンドと海へ行ったり。軽く明るい。気楽な日常のなかの倦怠感が全体に漂っている。

分厚い文庫本なので再読をためらっていたのだけれど、読んでよかった。当時の自分を振り返ることになったから。


1月6日(日)

『荒地の恋』読了。温厚な詩人と思っていた北村太郎さんの女性関係に驚き続ける。離れない女、包み込む女、恨む女。男と女というのはかくもどろどろした愛と欲にまみれて死にゆくものなのか。それを実感することができないわたしには何かが欠けているのかもしれないと思ってしまう。

鮎川信夫さんと最所フミさんが特別なひととして書かれている。鮎川ファンの一人としてうれしくなった。


1月1日(火)

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年末はO市へ。車中で小林秀雄の『モオツアルト』のなかの「西行」を読む。小林秀雄は西行という人間をとても深く理解している批評家だと思う。ただの歌人ではない。月や花ではなく、いかに生きるかという問いを三十一文字で語ることに一生を賭けた。真っ直ぐに生きた僧でもある。西行ファンのわたしにとってはこのエッセイが一冊のなかでいちばんわかりやすく、親しく感じられる。

O市から帰る途中、あまりにも疲れて眠ってしまい、電車を乗り過ごす。滅多にないことです。


12月26日(水)

ねじめ正一さんの『荒地の恋』を読んでいる。初めは詩人の私生活をのぞきみることを、どこか後ろめたさを感じながら、おもしろいと思っていた。けれども読んでいくうちに悲しい気持ちになってきた。北村太郎さんの名誉はどうなるのだろう。恋愛や生活に向かう心情は書かれているけれど、それ以上は踏み込んでいないので、詩人の苦悩がつまらないものに思えてくる。登場人物が小さくみえる。ねじめさんはそのように書こうとしたのだろうか。


まだ数十ページ読んだだけだが、そのうち詩人の内奥に深く入っていくことを期待しつつ読もうと思う。


12月24日(月)

22日池袋で友人と会う。バーボンをたくさん。23日アルコールが抜けずにふわふわと過ごす。アンケートの入力と郵送作業。夜はチキンのローズマリー焼き、コブサラダ(海老、アボカド、インゲン、トマト、パプリカなど)。黒オリーブで全体の色を締めようと思っていたのに、まちがえて黒豆を買ってしまった。ああ。ソース(オリーブオイル、酢、マヨネーズ、ケチャップ、ハチミツ)にエシャロットを刻んで入れた。これは成功。


12月17日(火)

国分寺へ。車中で小林秀雄の『モーツアルト』。
モーツアルトはピアノ曲と交響曲を少し聴いたことがある程度。
やっぱりオペラを聴かなくてはだめだとわかった。
母が死んだことを知らせるモーツアルトの手紙についての言及を興味深く読んだ。
母の死から数時間後に書いた手紙がシンフォニーのような構成になっているというのである。
まず郷里の家族を驚かさないように母の具合は快方に向かっていると書き、
日常の細々した報告をし、そして本題に入るというように。
やっぱり凡人と違うのですね。

武蔵野茶房でコーヒー。和の大きなカップに入ってくる。花も一輪。
ウェイトレスさんのエプロンがレトロでかわいい。


12月13日(木)

松竹に勤める姪がチケットをくれたので、日比谷で『チャングムの誓い』を観る。韓流ドラマにはまったく興味がないけれど、せっかくだからと出かけた。宮中の女官の物語。菊川怜主演。凛とした賢いヒロインははまり役だと思う。舞台装置がダイナミック。衣装の色合いも美しい。3時間半の長い舞台。まあまあ楽しめた。

劇場内にあるカフェで遅いお昼。おしゃれな店なのに窮屈で、値段のわりにコーヒーもバゲットサンドも不満な味だった。


12月10日(月)

茂木健一郎の『脳と仮想』(新潮社)を読む。小林秀雄の講演テープを聞いたことから始まる。小林秀雄や夏目漱石の仕事について、わたしの知りたいことが書かれている。この本を読み終わり、理解できれば、何かが変わるような気がする。少なくとも、この数か月のブランクは埋められるのではないかと思っている。

ところで小林秀雄の講演テープは手に入るものなのだろうか。どうしても聞いてみたい。


12月6日(木)

この一か月の間、いただいた冊子を積んだままにしていた。すみません。ようやく開封しました。毎朝、ものごとの優先順位をメモしていますが、見積もりや点検といった用事が入ったりして、すぐに日が暮れてしまいます。そんな日々ですが、多くの方にお願いしたアンケートの回答がぼつぼつ届いて、入力を始めました。誰よりも早く原稿を読める喜びに浸っていますみなさんにも早く読んでもらいたいと思いますが、それは来年2月になります。楽しみにしていてくださいね。

初めてロフトに上がる。高いところは苦手。見つからないものがあるのでしかたなく。
もう上がらないぞ。


12月2日(日)

引っ越して1か月。まだモノがおさまるべきところにおさまっていないけれど、スーパーマーケットへの近道を見つけて、桜の大木が黄色い葉をつけているのを見る楽しみもできた。落ち葉を掃くために大きなちりとりを買った。家の前の藪から絶え間なく枯れた葉が降ってくる。掃いても掃いてもきりがない。修行をしているみたいな気分。


村上春樹の『走ることについて語るときに僕の語ること』を読んでいる。フルマラソン、100キロマラソン、トライアスロン。レースに出るために毎日練習をし、体調をととのえる。作家の強靭な意志と持続するちからに圧倒される。きょうは福岡国際マラソンと韓国vs日本の野球をちらっと見た。


11月29日(木)

娘たちは銀色夏生のファンで、度々『ミタカくんと私』がおもしろいよと言う。たまには軽い読書もいいかと思って読んでみた。とてもとても軽かった。吉本ばなな風。おかしくて何度も笑う。「このごろパパをみないけど、どうしたの?」「ああ、離婚したのよ」一緒に住んでいる家族の会話である。年も男女も関係なく、みんなお友だちという温さ。素人っぽいかわいいイラスト、沖縄旅行記もある。若いひとに受けるわけだと思った。

しかしミタカくんは芯のある、なかなかすてきな少年。娘に続編『ヒョウタンから空』を借りた。


11月26日(月)

普通の生活はできるようになったけれど、快適というわけではない。まずゴミの問題。燃やすゴミが週2日、有害ゴミとビン・カンが隔週、プラスチックが週1日。裏口がないため小さな庭に置いておくしかないのだが、まだ庭まで手が回らない。塀も垣根もないので、ひとが通ると丸見え。前はキッチンに小さなベランダがついていて、ゴミはそこに積んでおくことができたのだった。

読みたい書きたいと思うのだが、まだその余裕がない。アンケートの回答がぼつぼつ届きはじめて、焦りを感じるこの頃です。


11月22日(木)

コンビニがあってファミレスはない。銀行はなくATMが二つ。うどん屋はあるけれどパスタ屋はない。肉屋と魚屋はなく八百屋が一つ。書店はない。さびれた街である。10分ほど歩いてスーパーマーケットに行く。踏切を2つ渡る。高い建物がないので、空がよく見える。少しずつ街の地図ができてきた。好きになれるといいと思う。


11月19日(月)

『雨期』50号の記念に、アンケートを詩人のみなさんにお願いしたのだが、第1便がとどいた。うれしいことです。締めきりまであと1か月。そろそろ書き始めなくては。家のこともようやく落ち着いた。まだ小さな工事などがあるけれど、あいだを縫って書いていけそうな状態になった。

昨日段ボールを開けたら、懐かしい本が出てきた。平出隆さんと稲川方人さんの『書記』7号「対話片24」。ボール紙のような厚紙でできた、24頁の詩誌。手造りのぬくもりがある。


11月14日(水)

埼玉県民の日。久しぶりに新宿に出る。半分紅葉した木々が美しい秋の街。中村屋のマ・シェズへ。マイシティがルミネになったことを知らなかった。驚き。ペペで買い物をして新所沢に戻り、図書館の会議に出る。熟年主婦の女性が多いためか、会議の進行が遅い。3時間で終わり、歩いて帰宅。途中で食料を購入したため、家まで60分もかかってしまう。土踏まずがひりひりする。


11月12日(月)

先日テレビで『普通の人々』を観た。1980年。ロバート・レッドフォード監督。ティモシー・ハットン主演。兄をヨットの事故でなくしたことで自分を責めるコンラッド、次男を愛せなくなった母、家族の再生に心を砕く父。ちっとも普通ではない家族の話。父を演じるサザーランドの湖のような目が印象に残った。冒頭で流れるパッヘルベルのカノンが最後まで響いているように思える。母親が出て行き、父と息子が抱き合うラストは意外だった。地味だけれど、家族のありかたを問う、いい映画だと思った。


11月7日(水)

引越の間、行方不明にならないように稲川方人さんの詩集をバッグに入れていた。まだ本の箱は1つも開いていないから、これは正解。『聖-歌唱』を毎晩少しずつ読んでいる。一昨年前から「死」を近しいものとして実感するようになった。そうした精神状態のなかで、楽しい詩や発見の詩は遠いものになり、思考をうながし世界を解き明かすような詩をもとめているような気がする。


11月2日(金)

引越。引越業者の若いひとがてきぱきと運んでくれる。昨夜は興奮した猫が暴れ回っていたので、寝不足でフラフラ。一人で立ち会い、うまくいかないことだらけで反省。次に引越するときはもう少しスムーズにできると思う。夜はビールとシャンパン、デパ地下の惣菜。

駅から徒歩5分、前は竹藪。乗降客は多いのに、駅前には銀行とコンビニしかない。駅の改札はひとつ。踏切を2つ渡り返さなければならない。早く開発されるといいのですが。


10月28日(日)

本の箱詰めを開始。部屋中ごった返す。たくさんの本を捨てる。昔のアルバムをめくったら、23年前の出版記念会の写真が出てきた。黒い髪の岡田幸文さん、辻征夫さん、一色真理さん、小長谷清実さん、文人のような諏訪優さん。そしてすらりとした氷見敦子さん。懐かしい。詩を書き始めて間もなかったわたしには今も名前がわからない若い詩人たちも映っている。

稲川方人さんの新詩集『聖─歌章』(思潮社)とどく。緊張のなかで封を切る。チャコールグレイの表紙、格調高い装丁の詩集。


10月25日(木)

風邪気味なのとストレスでセキが出て何度も吐きそうになる。体重は減っているし、ちょっと心配。クリーニング店からカーテン屋へ。できあがったカーテンを提げて30分ほど歩く。あまりの重さに目がチカチカしてきた。帰宅してダウン。情けないことに、基礎体力がない。

角田光代の『対岸の彼女』。とても暗い。どんよりとした気分になる。


10月20日(土)

昨日はアンケートの発送をする予定が、突然の内見者。子ども連れの若い女性とその母親。質問もせずにそそくさと帰っていった。反応のないひとは疲れる。不動産屋はジャンパーを着たおじさん。ウィークディに突然来たのだから、それなりの挨拶があってもいいと思うけれど。

今日は部屋の採寸をして、カーテンの店で布を選び、ホームセンターで照明器具を買う。建て売り住宅にはカーテンレールも照明も付いていない。午後、シティケーブルネットが説明に来る。入れかわりに引越の見積もりをしてもらう。忙しい一日。

来月初めに引越をします。慌ただしい毎日ですが、何とか読書生活は続けたいと思いますので読んでくださいね


10月18日(木)

ようやく『雨期』次号のアンケートを決める。50号なので多くの方にお願いしたいと思っている。原稿は12月20日締めきり、来年2月に発行の予定。

角田光代『対岸の彼女』を買う。『村上春樹にご用心』を作業の合間に読む。おもしろく、納得する点がたくさんある。


10月16日(火)

カーテンとじゅうたんの店で、カーテンの見積もりをしてもらう。店の名は「カーテン王国」。ううーん、王国というより「ストア」という感じ。布地のサンプルが大量に下がっているだけではイメージが湧かない。もっと見せる工夫をしたほうがいいのでは?少しは夢心地にさせてくれないかな。モデルハウスと提携するというのはどうだろう。既製品なら格安のものもあるけれど、だいたいにおいてカーテンは高い。ただの布なのにね。

椅子の張り替えを頼むため、座板をドライバーで外す。25年ほど前に買ったものを直しながら使っていたのだけれど、いい機会なので修理に出すことにした。45センチ四方の板を4枚。梱包は苦手。とてもとても不器用なのだ。

夕食は里芋と牛肉の肉じゃが。うちではリクエストの多い料理です。


10月13日(土)

煩瑣な雑務が終わった。心からうれしい。村上春樹の新作『走ることについて僕が語るときに僕の語ること』を購入。このタイトル、買わずにいられますか。そして内田樹の『村上春樹にご用心』。これから忙しくなるので、作業の合間にこの2冊を少しずつ読むことになると思う。

猫が足の上で眠り、寝苦しい。そのせいなのか、猫を料理しようとするおぞましい夢を見る。朝起きて猫に謝った。


10月9日(火)

市役所と郵便局へ。事務的な雑事を片づける。娘の残していった化粧品の中身を捨て、燃やせないゴミをまとめる。マニキュアの強烈な匂いがキッチンに充満する。わたしたちはほとんど必要のないたくさんのものに囲まれて暮らしている。人生も半分過ぎた(?)ので、これからはタイトな生活をしたいと思っている。


10月6日(土)

ポール・オースターの『最後の物たちの国で』読み終わる。オースター作品のなかでいちばんよくできていると思った。本国アメリカでは埋もれてしまっている一冊であるという。近未来が舞台のようだが、世界の断片を組み立てて作られた現在の物語。いつもの遊び心はまったく見られない。スリリングな展開と豊かな想像力。『わたしを離さないで』と同じく、最後になってようやく傑作であることがわかる小説。1987年に発表されているので、多くの作家に影響を与えたのではないだろうか。多和田葉子さんの不条理な世界を舞台にした小説のいくつかを思い出した。

オースターは現代のドストエフスキーだと思う。


10月4日(木)

『左庭』『たまたま』『スーハ!』『ことのは』。同人誌を読み、送ってくださった岬多可子さん、おのめぐみさん、佐藤恵さん、広岡曜子さんに手紙を書く。

ふとんをカットして捨てる。大きなゴミ袋3つ分になった。毎日大量のモノを捨てている。捨てるのはもったいないと思うものは、図書館まつりの資金調達のためにフリマに出す予定。本のほか、わたしの持ち物は少ない


10月3日(水)

29日の文章のなかの「ある状況」というのは「極限状況」ということ。モノのない貧しい街で、人々は奪い取ったものを売りながら暮らす。行方不明の兄をさがすために街に入ったアンナ・ブルームも、屑を漁って生きのびる。不運が次々とやってきて、出会うべきひとに出会い、苦境を切り抜け・・・。ラストはどうなるのか、ハラハラしながら読んでいる。オースターはやっぱりすごい作家である。


9月29日(日)

新高円寺へ。車中でポール・オースターの『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳・白水ブックス)の続きを久しぶりに読む。この世の果てのような場所を一人称で語るスタイル。ようやく語り手である主人公にかかわる人々が登場。俄然、話がおもしろくなってきた。オースターの小説には、ある状況に追いこまれた人間の意識をていねいに書いていくものが多い。そういう作品がわたしは好きだ。

夜7時に帰宅して、初鍋。豚バラ肉とほうれんそうの常夜鍋。日本酒をたくさん入れ、大根おろしと昆布ポン酢で。


9月28日(金)

駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生』読了。1961年生まれの著者は、サウスダコタやアーカンソー、ミシシッピ州など観光とは縁がないような小さな街に入って行く。寂れた土地、神に見捨てられたような場所、温かみのあるすばらしい街。短編映画のようでおもしろかった。ただ肩にちからが入った感じの文章で、知人の文体に似ているなあと思いながら読んだ。

文体といえば、幼女誘拐殺人犯のM・Tが女性を装って書いた脅迫状が、知り合いの詩人の文章に似ていて、もしかしてと疑ってしまったことを思い出した。そうでなくてよかった。


9月24日(月)

自動改札で引っかかった。磁気の故障という。特急券と乗車券を投入したのだが、きちんと入れたから問題はないはず。しかたなく窓口で特急券を渡し、乗車券をもって乗り換える。到着駅でまた引っかかる。またしても「磁気の故障」と出た。切符に何かあるのだろうか?改札を閉じられてしまうことがなぜかわたしは多い。磁気に何かの関わりがある体質なのだろうか。それとも、ただ「とろい」だけか。


9月22日(土)

市ヶ谷〜東京駅〜O市。いつもは大宮から新幹線に乗るところを、今日は東京駅から。都心はいいなあ。老親のマンションを掃除。めずらしく12時まで昔話を聞く。30年前のことはよく覚えているのに、23日前のことはほとんど忘れているので愕然とする。遠いけれど時々来てほしいと言うが、これから1か月は引越の準備に追われるため、当分行けないそうもない。

寝る前に、『語るに足る、ささやかな人生』。わたしだったら、こう書くだろうと思いながら読む。


9月17日(月)

隣の駅にある市民ホールで『椿姫』を観る。ウィーンのバーデン市立劇場の公演。一生に一度はオペラを聴きたいと思っていた。生のオーケストラ、歌手の肉声。華麗なセットは照明が落とされたなかで転換作業が進められる。舞台は奥行きのある大広間からパリ郊外の別荘へ、仮装舞踏会の会場からヴィオレッタの臥せる小さな部屋へ。それを観るのも楽しみの一つだということがわかった。

「享楽の小径を行くのです」高級娼婦ヴィオレッタは自分の人生を思い定めている。純情な青年アルフレッドの求愛を一度は拒否するが・・・。ストーリーはあまりにも有名なので省略。すばらしく贅沢な夜でした。


9月16日(日)

駒沢敏器『語るに足る、ささやかな人生』(小学館文庫)を読んでいる。著者はアメリカの小さな町を旅して、そこに住む人々の物語を書きとめる。好きなタイプのエッセイなのだけれど、なぜか先に進まない。文章にクセがあるように思える。たとえばコーラを買ったときの「最初のひと飲みで缶の中身はどこまで減るだろうか」。もっとあっさり書けばいいのにと思ってしまう。単に好みの問題ですね。


9月14日(金)

ラジオデイズオープン。おめでとうございます。みなさまぜひお出かけください。


9月11日(火)

國中治さんの短編小説集『風景画の窓』(れんが書房新社)を読んでいる。詩人が書いた小説はやはり小説家の作品とはちがう。ストーリーよりも一つの一つシーンにウェイトが置かれていると思う。そのため話の流れがつかめないということがあり、読み返すことになる。半分ほど読んだ。

空間をスライドさせた幻想的な短篇が多い。ていねいな描写とどこか古風な感じが、國中さんらしい。國中さんと初めて会ったのは20年ほど前のこと。『詩学』のパーティだった。まだ学生だった國中さんは、小さな詩誌に書いたわたしの作品に辛口のコメントをくれたのだった。


9月8日(土)

田中佐知さんのご遺族から、ていねいな手紙と著書が2冊とどく。エッセイ集『詩人の言霊』と遺稿詩集『樹詩林』。あとがきはともに実弟の田中佑季明さんが書かれている。ご遺族は佐知さんの作品を多くのひとに伝えようと、旺盛な活動をつづけられている。

近所の蕎麦屋へ。法事などに使われる大きな店。なぜか一角がコーヒー屋みたいなカウンターになっていて、本格的な用具と豆が並んでいる。テーブルがふさがっているため、そのカウンターで蕎麦を食べているひとが数人。何だか変な感じだ。


9月5日(水)

『雨期』49号の「旧市街」という詩は苦しんで書いたもの。6月のジュンク堂のトークで、瀬尾育生さんと稲川方人さんが、中尾太一さんの詩について「決して散文にいかないだろう」とおっしゃっていた。それで自分でも散文に流れない詩を書いてみようと思った。苦しんでいる間、あるアメリカの詩人の作品を思い浮かべていました。誰かは内緒。あざみ書房のHPで紹介していただきました。

今年7月に出た鈴木東海子さん編集・発行の詩誌『櫻尺』にも同じタイトルの作品を書いている。しばらくは「旧市街」をテーマに考えてみたいと思っています。

昨日郵便局で、窓口にあった「あさかの四季」という切手シートを買った。1200円は高いけれど、きっと50円切手も入っているのだろうと思った。帰宅してひらくと、80円切手10枚。これはフレーム切手シートというもので「写真部分を郵便物に貼って、ご利用いただけます」と書いてある。大きな道路の写真のまんなかには「あさかの四季」という、安っぽいお土産みたいな文字が。だれがこんなもの貼るか。これが400円なんて信じられない。

確認しなかった自分が悪いと思ったが、知人が詳細を調べて「局員がフレーム切手であると一言添えて販売することになっている」と教えてくれた。さらに郵政公社に掛けあって、メール係の方が善処してくださるという話をつけてくれた。

まず郵便局に電話をした。返品交換はできない、当日でないと対処できないという。それから郵政公社に電話。メール係につなぐことはできないというので、窓口のひとに説明し、納得できないと言うと、郵便局に伝えるとのこと。

すぐに郵便局から電話があり、シートを売った局長が申し訳なかったと謝罪した。けれど返品交換はしてはならないと上のほうからいわれているとのこと。なぜできないのか。そちらの不手際で400円も損をしたのに。しかしそれ以上は説明のことばを持っていないみたいだ。「ご不満ならわたしが買い取ります」。もう関わりを持ちたくない。

みなさんもフレーム切手シートには注意してくださいね。


9月3日(月)

くるりの「jubilee」がとてもいいと騒いでいたら、娘がアルバム『ワルツを踊れ』全曲をダウンロードしてくれた。CD買わなくていいの?古い人間であるわたしは後ろめたいような気持ち。やっぱり「jubilee」に感じるものがある。「ブレーメン」もいい。「薔薇の名前」がデビュー曲だったか?初めて聴いたときにはっとしたのだけれど、彼らのゆるさに今ひとつ同調できなかった。今も脱力系の音楽には何となく距離を置いてしまう。でも「jubilee」は別。


9月1日(土)

やっと秋。この涼しさがうれしい。今夜はお鍋でもいいくらい。

村上春樹の『海辺のカフカ』を再読。この小説も「どこであれそれが見つかりそうな場所で」とオーバーラップするところがある。僕と大島さんが「生き霊」について、強い憎悪がそうした現象を引き起こすという話をする箇所がある。時空を越えて起こる不思議な現象がたくさん出てくる。あの世とこの世が向かい合わせになっていて、そこを行き来することができるポイントのようなものがいくつかあるのだなと思いながら読み、下巻に入った。


8月30日(木)

『雨期』49号できました。モスグリーンの表紙です。今号のアンケートは「会ってみたい歴史上の人物」。執筆者は古内美也子・荻 悦子・原口哲也・皆川秀紀・北野英昭・須永。原口の『YORIAI』は最終回、わたしは『読書日記』の他に故田中佐知さんの詩集『砂の記憶』について書いています。お読みになりたい方はお気軽にメールをください。


8月26日(日)

駒沢敏器の『語るに足る、ささやかな人生』(小学館文庫)をamazonで買う。アメリカの小さな町を旅して綴った13のストーリー。ロードムービー風か。ずっと読みたいと思っていた。近くの書店になかったので、探す時間を節約。一緒に『俳句の作り方110のコツ』辻桃子&安部元気著(主婦の友社)を注文。俳句のハウツー本はかなり買っている。「添削だからよくわかる」というサブタイトルに惹かれた。

初心者が作ったと思われる句を添削したものと、「わたしならこうする」というプロの句が110。テキスト風のスタイルがなかなかおもしろい。連句があまりにも下手なので、自分なりに納得できるところまでやってみようと思っているのです。


8月23日(木)

本の整理をしていて、村上春樹の『スプートニクの恋人』を見つけ、再読。小学校のとき国語の教科書にスプートニクの説明文が載っていた。隣の席の男の子は「スープトニク」と読んだ。「スープと肉」。今回読み返して、それがロシア語で「旅の道連れ」を意味することを知った。「スープと肉」なるほど。

木の上にのぼった仔猫が降りられなくなり、姿を消してしまうという挿話があり、主人公のすみれもまたギリシアの島で行方不明になる。『東京奇譚集』の「どこであれそれが見つかりそうな場所で」を思い出した。姿を消したいという願望、あるいは意思が強いものであるならば、一時的に行方をくらますのはさほど難しいことではないのだろうか。二つの小説はともに消えた人間が戻ってくる。

さらにドッペルゲンガー現象。若く美しい女性が遊園地の観覧車に閉じこめられ、そこからもうひとりの自分に起こる事件を見てしまう。救出されたとき、ショックのために黒かった髪が真っ白になっている。こちら側とあちら側。村上春樹の文学のテーマは変わっていないのだと思った。


8月22日(水)

『雨期』49号の入稿。今回も苦しんだ。いつもなら打ち上げだけれど、食欲がない。困った。印刷所のおばさんたちが帰り際に「暑いから気をつけてね」と言ってくれて、うれしくなった。

印刷所は清瀬にある。駅の向こう側に叔母が住んでいた。この駅に降り立つ度にどこかでぱったり会うかもしれないと思った。もうそんなことはないのだ。唯一わたしを一人前に扱ってくれた叔母だった。


8月19日(日)

ポール・オースターの『最後の物たちの国で』(柴田元幸訳・白水uブックス)を読み始める。何年か前に買ってそのままになっていた。数行読むと眠くなってしまう。女性が語るスタイルで「です・ます調」の文章が、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を連想させるからか?何もない悪夢のような国が舞台だからか?もう少し我慢して読んでみよう。

昨日老親の家へ行き、掃除とゴミ捨てをして、今日の午後に帰宅した。疲れた。


8月15日(水)

市役所の広報車が「ただいまの気温は38.4℃です」と言っている。こんなことは初めて。最高気温なのだろう。歩くスピードも落ちるわけである。

『雨期』49号の原稿がそろった。ページ調整のためにもう少し『短篇通信』を書かなければ。今回は作品を発表する場所があまりなかったので、早く出したくてしかたない。

終戦記念日。数年前、某地方詩誌に「敗戦記念日」のことを書いたら、何の断りもなく削除された。二度と関わるまいと思った。


8月14日(火)

ペルセウス座流星群。午前0時30分から1時にかけて空を見る。肉眼で大小合わせて3つの流星を見ることができた。感激。


8月13日(月)

午後4時を過ぎても陽ざしは強い。近所まで買い物をするのに、日焼け止めを塗り帽子をかぶり日傘をさす。この夏初めて日焼け止めローションを買った。海に行くときだけ使うものだと思っていたが、最近では女子高生も赤ちゃんも塗るのという聞いて驚いた。

食欲もない。昼食は冷たい麺類か豆腐丼。ご飯の上にくずし豆腐、ゴマ、大葉、ミョウガ、海苔などをのせ、昆布ぽん酢をかけて食べる。チリメンジャコがあれば完璧です。

『孤独の発明』を読む。オースターはやっぱりいい。この作家は単なるストーリー・テラーではない。小説のなかで、思考のプロセスが語られるところがスリリング。


8月11日(土)

『間宮兄弟』をDVDで観る。江國香織原作・森田芳光監督。脱力系のほのぼのした映画。仲の良い兄弟を演じるのは佐々木蔵ノ介と塚地武雅、その母が中島みゆき。朝顔の色水作り好きが高じて、ビール工場に勤務する兄、オタクな校務員の弟。もてない二人はホームパーティをひらいて意中の女性を招待するが、うまくいかない。カレーパーティ、浴衣でゲーム・パーティ、おでんパーティ。

書棚に囲まれた部屋、弟のために兄が作る塩むすび、銭湯で飲むコーヒー牛乳、毎晩兄弟でする反省会。わたしたちの幸福というのはこういうささやかなものの集まりなのだと改めて思わせてくれる作品。緑のまぶしい川原の土手、アーケードの商店街など、蒲田のあたりか大宮かとロケ地を考えるのも楽しい。


8月8日(水)

明日、祥子さんの歌唱ライブがあります。お時間のある方はぜひお出かけください。わたしもぜひ聴きたいのですが、体調不良のため行けるかどうか微妙です。今回は伊藤悠子さんの詩が加わるとのこと。伊藤さんの『道を 小道を』(ふらんす堂)はすばらしい詩集です。昨日読み終えて、すぐに手紙を書きました。わたしの今年度No.1です。

先週トップページに書いた、ベッツィ&クリスの「夏よおまえは」の詞を渡辺洋さんがおしえてくださいました。「夏よ 浮気な夏よ」だそうです。2番は「つれない夏よ」。想像もつきませんでした。渡辺さんありがとうございます。


8月6日(月)

6月に相次いで祖母と叔母が亡くなった。百に近く、ここ数年寝たきりだった祖母が逝ったのは母の誕生日。もしかしたらこれは一族のいざこざに蓋がされたということかもしれない。そうであることを祈りたい。母方の実家とはもう関係がないと思っていたのだが、そうはいかないらしい。二人の葬儀にも出ることができなかったのに、書類が必要だと連絡があった。人間というのはほんとうに悲しいものだと思う。


8月4日(土)

小池昌代さんの短篇集『タタド』(新潮社)が届き、一気に読んだ。川端康成文学賞を受賞した表題作を含めた3篇。小説家としての確かな成熟がうかがえるが、小池さんは楽しんで書いていないのではないかと思った。登場人物は年齢に関係なく人生を半ば降りた人々。日々を生きるなかにあるピュアなものがあまりみえないような気がする。それは時代の空気をあらわしているのかもしれない。流されるまま、自分で人生を選択しない生き方。それはそれでいいのだろう。全体に倦怠感が流れているようで、ちょっと心配になった。


8月3日(金)

走り始めてすでに1ヶ月が過ぎた。贅肉が落ち、朝起きたときに顔がむくむこともなくなった。よれよれと10分ほど走るだけで結果が出るなんて何ともうれしいことである。走ったあとに飲む水もおいしい。食べるものにも気を遣うようになった。豚肉ならヒレ、鶏肉ならササミ。旬のよいものがあれば魚料理。お酒はウィスキーから芋焼酎に切り替えた。これで長生きするつもり。


8月2日(木)

お悔やみの手紙を2通書く。子どものような字なので恥ずかしい。『えんぴつでなぞる奥の細道』をやっているのにあまり効果がない。何枚も書き損じてしまう。詩集の礼状は絵はがきを使うが失敗して捨てることも多く、詩の草稿は何度もプリントアウトする。ずいぶん紙の無駄遣いをしていると思う。そのうちばちがあたってもしかたない。

とりあえず気の重い作業が終わった。今月は何が何でも『雨期』49号を出します。


7月31日(火)

奥成達さんから『gui』81号が届く。國峰照子さんの「森原智子さんを改めて読む」という論考を一息に読んだ。よき理解者が、彼女の詩について書いてくれるのを待っていた。國峰さんは森原智子の詩人としてのスタートから作品を丹念に追う。未読だった初期の作品も紹介されていて興味深い。とてもシャープな感性を持った詩人だった。森原さんの詩を読むと、いつもダリの絵を連想する。なぜだろう。そのあたりから書いてみたいと思っていたのだけれど、どうしても進まない。モダニズムの詩を評することばをわたしが持っていないからだと思う。書くことができない言い訳ですが。


7月30日(月)

昨日は投票に行き、夜遅くまで選挙番組を見た。今朝はテレビで若い女性当選者のインタビューを聞いたが、政治にそれほど興味がないらしい発言内容だったので驚いた。選挙に勝つことが目的だったのだろうか。埼玉のある候補者は、芸能人のいとこ(某グループのダンサー)に応援演説をさせた。何を考えているのだろうと思ったが、当選してしまった。怒。政治を担う人々はもっと危機感をもって欲しい。きれいごとはもういい。

『兄 小林秀雄』を読み終える。身びいきはかなりのものだった。高見澤さんは心から兄を尊敬し愛していて、文章の端々にそれが出ている。13も年上の岡本かのこが涙ながらに愛を告白したというエピソードにびっくり。いい男だったのでしょう。


7月28日(土)

甥の結婚式へ。披露宴に出席するのは四半世紀ぶり、親族としては初めて。新しいウェディングホールでプロデュースされた式は、まるごとテレビドラマの世界だった。ガラス張りのチャペル、外人の神父(長身でハリソン・フォード似。きっとタレント)、ゴスペルの聖歌隊。

テラスでのシャンパン、ブーケ投げ、ケーキカットとお互いの口にケーキを運ぶ瞬間(!)の撮影タイム。セミプロの司会者が盛りあげようとがんばって、かなり浮いていた。ゆっくり食べる暇もなく終わる。新郎新婦が幸福そうでよかった。出会って十数年、やっと仕事が安定してこの日を迎えた甥は満面の笑顔。我が子のことのようにうれしく、もらい泣きをした。

学生結婚、教会で3万円コースの挙式をしたわたしたちには別世界のような1日でした。


7月27日(金)

ポール・オースターの「見えない人間の肖像」を読む。偏屈な父親を描いた短篇。このひとの作品には実在の人物が実名で出てきて、エッセイか短篇か分かちがたい感じがある。ほとんどの作品がオースターの実体験をベースにしているため、内容が重なっているように思う。

不幸な境遇と家族の固い結束ゆえに、どこかが壊れたような父親の姿を追う作家の冷徹なまなざし。呆けはじめたわたしの二人の父を思い出し、ちょっと胸が痛んだ。


7月24日(火)

数週間前にテレビで吉田秀和の番組を見てから、わたしの周囲は静かな小林秀雄ブームになっている。本や同人誌の整理をしていて、有名な評論「モーツァルト」について書かれたエッセイを見かけた。モーツァルトの音楽は「疾走するかなしみ」というのは誤訳で、ほんとうは「溌剌としたかなしみ」であるという一文があったのだけれど、著者は誰だろう。

押入から『兄 小林秀雄』を出して読み始める。実妹の高見澤潤子さんによる追想記。1985年発行。20数年ほど前にもらったままになっていた。一般に家族の思い出を書いたものは身びいきが過ぎたものになるけれど、この本は違う。表紙にはルオーのピエロの絵。


7月21日(土)

横浜へ。池袋から湘南ライナーの快速に乗って36分。みなとみらいの海上レストランで友人たちと食事。ビールを少し飲み、きょうはまわるのが早いなと思ったら、店が揺れているのだった。シーバスで山下公園へ向かう。ベイブリッジや倉庫群、赤レンガなどを眺める。海はいいなあ。横浜は20数年ぶり。みなとのみえる丘公園、外人墓地、ホテルのバー(ボーイさんの完璧なサーヴィスに驚く)、中華街、ジャズバー。

ずっと詩について話す。詩を書くひとと詩の話をするのはほんとうに久しぶり。今年後半のスタートを切ったような気持ちになる。車中でポール・オースターの『孤独の発明』を再読。


7月18日(水)

聖書はちょっとお休み。堀江敏幸『めぐらし屋』(毎日新聞社)を読む。文章のうまい作家だけれど、できごとやモノがすべてつながっていて意味を持っているのが窮屈に感じられる。新聞に連載した小説ということなので、いつもよりそれが密になっているように思える。せっかくちょっと抜けた女性を主人公にしているのだから、もっと風通しをよくすればいいのにと思ってしまう。頭のよいひとなのだろう。

走り始めて3週間になる。体重は2.5キロ減り、ウエストの肉が落ちた。これはもう続けるしかないかな。


7月16日(月)

外で走れない日はステッパーの上でジョギング。これはきつい。路上を走るほうがまだ楽。ステッパーは、その上を踏むと歩数とカロリー消費量が表示される運動マシン(?)。

家のなかを聖書を持って移動し、少しでも時間があると読んでいる。結婚したときに教会でもらった英和対照の新約聖書。学校では旧約も入っている分厚いものを使っていた。聖書ではイエス・キリストの容貌にはまったく触れていない。でも映画や絵本では必ず長身で長髪、面長である。ストイックさを全面に出すとそうなるのだろう。

『マルコによる福音書』と『マタイによる福音書』を読む。これと『ルカによる福音書』は内容がほぼ同じ。『ヨハネによる福音書』だけが少し後に書かれたためか、ちょっと違う。他の3つでは突然のように出てくる挿話について、きちんと説明されている。3つの福音書は「共観福音書」と呼ばれていると聖書の時間に教わったことを思い出す。昔よりは「譬え」の意味するものが理解できるような気がする。


7月13日(金)

最近届いた詩集を3冊読む。詩の世界へ戻るリハビリをしているような気分。詩も文章も毎日書いているけれど、締めきりがないから、どんどん長くなっていく。方向は見えている。でもすごい迂回をしていると思う。

『雨期』49号を8月中に出す予定。「ひたすら書いている」と書きたいところだが、資料を読む時間のほうが長い。キリストに関する本があるかと書棚を探すが、ゼロ。しかたなく聖書をひらく。


7月11日(水)

8日の続き。自殺未遂を起こして退院した叔父を迎える夕食は、Kのフライドチキンとサラダを紙皿で。飲み物はスプライト。壊れた家庭らしいメニューである。ちょっと前はアメリカといえば温めるだけのテレビ・ディナーだった。最近は映画に出てこないけれど、最近はどうなのだろう。数年前に見たアメリカの食生活の映像番組によると、夕食がピザだけという共働きの家は珍しくないらしい。それでは栄養的にも満たされず、気持ちが荒れてしまうと思う。

確か、アン・タイラーの『夢見た旅』という小説のなかに、自分を誘拐した若い男がポテトチップスとコーラか何かでお腹を満たしているのを見た中年女が、「そんなのだめ」というようなシーンがあったと思う。日頃からどこか遠くへ行きたいと思っているヒロインが、ある日人質として犯人と逃避行をすることになるというロードムービーみたいな小説だった。結構よかったな。


7月8日(日)

『リトル・ミス・サンシャイン』をDVDで観る。美少女コンテストに出場が決まった娘のために、家族がワゴン車で会場に向かうロードムービー。こう書くと楽しい映画のようだけれど、そうではない。家族はばらばらである。人生成功論の本を出すことに夢中の父、ヘロイン常習者の祖父、パイロットになるまで無言でいることを決めた長男、プルースト研究者で自殺未遂したゲイの叔父。

1200キロの旅の間に、それぞれに不幸なできごとが起こり、壊れた家族が少しずつ変わり始める。痛烈なミスコン批判にもなっている。平凡な母親を演じるトニ・コレットがいい。アリゾナの砂漠を走る黄色い小型バス。でも、どこかアメリカ映画らしくないところがある。佳作。


7月6日(金)

先週聞いたトークについて考えている。ことばの断片は記憶しているが、まだ文章にできそうもない。それで『詩の雑誌midnightpress』を押入から引っ張り出して、稲川方人さんと瀬尾育生さんの対談を読み始める。17号から30号まで。掲載中はあまり熱心な読者ではなかったので、初めて目にするような緊張感をもって読む。バックナンバーを読めば、二人の詩人の話が立ち上がってくるかもしれないと思った。

その合間に「短篇通信」を書くため、、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』とチャンネ・リーの『最後の場所で』を再読。


7月4日(水)

毎日午後5時半になると、町内に「地域のみなさんで子どもを守りましょう」という放送が流れる。聞くたびに嫌な気分になる。そんなことを言われなくても、まともな大人であれば困っている子どもをそのままにはしておかないだろう。「放送を流せば、子どもたちの安全のためにやるべきことはやった」と考えるお役所の考え方に不快を感じる。

こんなことを外で言ったら、要注意人物にされてしまうのでしょうね。昔のことになりますが、小学校の保護者会などで発言して、冷たい視線を感じることがよくありました。中島義道の気持ちがわかります。


7月1日(日)

スーパーマーケットで戻さず使える生春巻きの皮を見つける(モランボン)。うれしいなあ。これでいつでもベトナム気分が味わえます。家族の誕生日には生春巻きやトルティーヤにすることが多い。本場の味は知らないので適当にタレを作り、具はエビ、肉、春雨、サンチュ、大葉、細葱、キュウリ。エスニック料理好きです。


6月30日(土)

JR大崎で降りて、品川の原美術館へ。大崎には高校時代の友人が住んでいて、20年ほど前に来たことがある。駅前に巨大な駅ビルができているので驚く。たっぷりした空間。外国のよう。急な坂を上って美術館へ。ここも十数年ぶり。こじんまりした建物が隠れ家みたいだ。ヘンリーダーガー展「少女たちの戦いの物語-夢の楽園」。裸の少女たち、同じ服を着た少女たちが、遊び、いたぶられ、首を絞められている。絵画というよりイラストに近い。不幸な幼少年期を過ごしたダーガーの歪んだ時間が、少女たちの絵になっている。不気味です。

蒲田の知人宅を訪問。19時から池袋ジュンク堂で稲川方人さん、瀬尾育生さん、中尾太一さんによる詩のトークイベントを聞く。第一詩集を出した中尾さんの朗読から始まる。一行を息継ぎなしで読むというスタイル。その一行がとても長い。詩集はできたばかりで、これから発送されるそう。硬質なことばでガラスの片のようなフレーズを作り、それを変奏させることによって一編の詩が成り立っていることがわかった。

トークの内容については、まだまとまっていない。意味が壊れたところから、それを自覚しつつ書いている中尾さんの、詩に向かう姿勢と完成度の高い作品を稲川さんと瀬尾さんは評価なさっている。意味の解体を負って書かれた詩。中尾さんは自作についても、おそらくは今書かれているほとんどの詩に対しても悲観的であるように思える。多くの浮かれたところのある、自己陶酔が透けてみえるような現代の詩に警鐘を鳴らしているとも考えられる。このイベントについてはまた改めて書こうと思います。


6月29日(金)

『櫻尺』30号とどく。鈴木東海子さん編集。執筆者は粕谷栄市・新井豊美・岩佐なを・國峰照子・時里二郎・太原千佳子・神尾和寿・嵯峨恵子・山口眞理子・小笠原鳥類・中村不二夫・井坂洋子・高貝弘也・鈴木東海子。わたしも「旧市街」という詩を載せてもらいました。連作にする予定で、まんなかから書いたもの。お読みになりたい方はメールくださいね。

ジョギングは続けています。まだ身体が重いけれど、少しずつ距離を伸ばしていければと思います。


6月26日(火)

ジョギングを始める。最近身体が重くなって、やばいなと思っていた。夕食の支度をしてから近くの公園へ。ちょっとしたジョギングコースがある。走り始めるときと終わった後の気持ちよさは何ともいえない。夜のメニューは鶏肉と根菜の煮物(ゴボウ、冬瓜、こんにゃく、エリンギ、大根、生揚げ)、鯛のカルパッチョ、冷奴、茄子の煮浸し。ヘルシーです。

土曜日に池袋ジュンク堂で19時からイベントがある。中尾太一さんの第一詩集出版記念ということで、稲川方人さんと瀬尾育生さんとのトーク「現代の詩を負う」。ぜひ行きたいと思っているのですが。要予約。飲み物付き1000円だそうです。


6月24日(日)

DVDで『キャッチボール屋』を観る。大森南朋主演・大崎章監督。舞台は都心の公園。ひょんなことから10分100円でキャッチボールの相手をする仕事を任されたタカシ。会社をリストラされ、酔った勢いで東京に出て来た30男である。大森南朋はテレビよりも映画のほうが合っていると思う。茫洋とした、どこか煮え切らないところがいい。前任者の部屋で生活しながら、わけありのお客たちとキャッチボールをする。売店のおばちゃん役の内田春菊が、ちょっとダサく色っぽくて存在感があった。

映画としては盛り上がりに欠ける。でもアーチのある公園やアパート、コインランドリーなど街の映像がよく、キャッチボール屋という発想もユニークで、わりと楽しめた。アドバイス付きなら10分1000円でもいいと思います。


6月23日(土)

『鰐組』222号に高橋馨さんが「ナジャ論」を書いている。20代のころに読んで、とてもおもしろいと思ったのだが、その後読み返すことがなかった。で、書棚の奥からアンドレ・ブルトンの『ナジャ』を引っ張り出す。訳は栗田勇・峰尾雅彦(1976年・現代思潮社)。霊能力のある若い女ナジャ。実在の作家たちが登場し、図版(写真や絵)が多数入っていて、素人作家が書いたような(失礼な表現ではありますが)奇妙な小説なのだが、読み始めたら止まらなくなってしまった。新しい詩のヒントが見つかりそうだと期待しつつ、今日中に最後まで読もうと思う。


6月20日(水)

テレビで『電話で抱きしめて』を観る。甘いタイトルとはまったく違う、呆けた父と娘の物語。メグ・ライアン主演、ダイアン・キートン監督。ウォルター・マッソー演じるわがままで偏屈な父が、病院からイヴにしょっちゅう電話をかけてくる。ルームサービスがない、中華料理が食べたい・・・。メグ・ライアン演じるイヴはその度に姉(雑誌のカリスマ編集長)と妹(テレビドラマの女優)に連絡をし、一人で病院へかけつける。母に捨てられただめな父であるけれど、幼いころに愛された記憶があるから放っておけない。酔っぱらって孫のパーティをぶち壊し、イヴが生まれたときに母が「いらない」と言ったことを暴露するような最低の男である。

携帯電話でヒステリックに叫ぶシーンが多くて閉口した。でも今の自分にとって他人事ではないので、メグ・ライアンの魅力に引きずられて最後まで観た。


6月18日(月)

スーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』を読み終える。報道写真を歴史的に検証して1冊の本を書いてしまうところがすごい。ソンタグは作家で批評家。

現代社会においてはニュースで流れる映像や『ニューズ・ウィーク』などの雑誌に掲載される写真を通して、世界で起きている悲惨事を知ることができる。大量の映像が送られることによって、残虐な行為に対する人々の感覚は麻痺していく。報道写真は、そんなわたしたちを立ち止まらせ、思考をうながしてくれるものである。

神山睦美さんの著書で「共苦-共感(コンパッション)」ということばを知り、とてもいいことばだと思ったのだが、報道写真を見ることは「共苦」の時間を得ることではないだろうかと思う。戦争、病、貧困、地球の温暖化。悲惨な写真を見ることには苦痛が伴う。それでも見ることを拒否したら、今のこの世界について考える契機を失ってしまうような気がする。きっかけがあれば何でも見たいし知りたい。そう思っています。


6月15日(金)

一生に一度はオペラを観たいと思っていた。市民ホールで9月にヴェルディの『椿姫』があるというので、思いきってチケットを購入する。ウィーンの森バーデン市立劇場の公演。市民ホールはドラマ『のだめカンタービレ』の撮影にも使われた、パイプオルガンのある大きな建物。オペラといえばドレス(?)。『プリティ・ウーマン』でジュリア・ロバーツが真っ赤なドレスを着て観劇するシーンはよかったなあ。市民ホールにはよく行くけれど、椅子がふかふかでなくカジュアルだけれど、やはり正装したほうがいいのだろうか。

近所の奥さんが、酒を飲まないご主人の趣味がオペラで、お金がかかるとこぼしていたのを思い出す。チケットが2万円と言っていた。有名歌手が出る特別な公演なのかもしれない。オペラってそんなによいものなのかと思ったのでした。


6月11日(月)

小池昌代さんの『裁縫師』(角川書店)を読み終える。小池さんには太古の女性のような骨太なところがあって、「女神」はそれがよく出ている短篇だと思った。魅力的な薬局の女性に骨抜きにされる男たちの話で、民話の趣がある。「野ばら」はどんな境遇に陥っても動じず、どっしりかまえる少女が主人公。この少女も旺盛な食欲と生活力を持っていて、とてもたくましい。芳醇な文章が描き出す妖しい世界を楽しみました。


6月10日(日)

昨日、写真展を見に行ってから、ずっと報道写真について考えている。イラクの今、戦後のチェチェン、フィリピンの少年刑務所、小児癌の少年、人身売買で娼婦にされた女性、バングラデッシュの働く子どもたち。わたしたちの目には「悲惨」と映る人々の姿に、人間の強さを見る思いがした。人間は与えられた運命を生きなければならない。どんなに過酷な環境にあっても生き延びる力をわたしたちは持っているのだと思った。

報道写真は、世界の真実を伝える。ニュースの映像はほとんどが記憶に残らないけれど、写真はある瞬間が切り取られ固定化され、何度も見ることによってわたしたちの記憶にくみこまれてゆく。

PHILIA PROJECTのパフォーマンスを観る。広河隆一さんの映像が流れ(チェノブイリの村)、祥子さんが村人の名を次々に読みあげる。悲痛な声で叫ぶように。戦争で亡くなったひとたちの名前。静かにはじまった小沢恵美子さんのダンスがだんだん激しくなり、最後に救いを求めるように手を伸ばした。白い衣装に村の映像が映る。小沢さんの顔が涙で濡れていた。悲しみと祈りを表現するパフォーマンスだと思った。


6月8日(金)

明日、新宿のコニカミノルタプラザ(高野フルーツビル4F)で開かれているDAYS JAPANフォトジャーナリズム写真展に行く予定で、観客の感想などを見ていたら「目をそらさない勇気が必要」というコメントがあった。そうか心しておく必要があるのだなと思い、買ったままになっていたスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』(北條文緒訳・みすず書房)を読み始める。

帯に「写真は戦争やテロに対して抑止効果をもつのか?」と書かれている。心の準備をしておけば、動揺しないで済むと思うのだけれど、「号泣した」という感想もありました。


6月6日(水)

神山睦美さんにお礼状を書く。やはり感想はメールではなくハガキや手紙で送りたい。さらに小柳玲子さんの詩集『夜の小さな標』(花神社)を読み、お礼状を書いた。早く書かなければと思うのだが、最近とみに筆不精になっている。

小池昌代さんの短篇集『裁縫師』(角川書店)が届いて、すぐに表題作と「女神」を読んだ。「裁縫師」はマルグリット・デュラスの世界を連想させる官能的な作品。「女神」は若い男が語るスタイルで、昔話のようなホラーのような不思議な話。


6月3日(日)

車で老親の住む街へ。家で不要になった掃除機を持っていく。入居して12年の間掃除機をかけていないという。最近は泊まると皮膚がかぶれる。埃のせいだろう。大量に発生したカビを取り、使っていない家電や食器、期限切れの食材をまとめて捨てた。80を過ぎた老親には、いつ何が起こっても不思議はない。

それにしても第三セクターの作った建物はひどい。住居のまんなかに洗濯機置き場があるというのがどうにも解せない。洗面所と風呂場から離れているのだ。どの部屋も壁紙が剥がれかけ、管理人の姿はなく、全体の4分の1くらいしか入居していないという状態。土曜日の地震でエレベーターが止まり、普段は絶対に使わない急階段を上った。手すりもない。設計者は年寄りのことなど考えてもいないのだろう。

佐藤亜紀の『雲雀』を買ってみた。第一次世界大戦中の特殊工作員を主人公にした連作短篇集。暗い気持ちになって、読むのをやめた。


6月1日(金)

『夏目漱石・・・』を閉じて、今まで理解できたことを反芻してみる。漱石は43歳のときに30分間の〈死〉を体験した。そのことが契機になって、存在について考えたことが、作品にあらわれる。漱石はまず世界を俯瞰する位置を設定するために、主人公を社会から追放する。いわゆる「高等遊民」という設定。彼らの悩みは自己の内面で展開する。実体のない嫉妬や疑念に向き合い、存在の意味を自問しつづける。

漱石は苦悩する主人公の内面、その思考の変化をていねいに書いていく。それまでの日本のリアリズム小説にはなかったスタイルであり、世界を見渡して優れた文学や新しい哲学を取り入れつつ、生み出したものといえる。

というところまでは把握できたと思う。この本を読んでいる間ずっと知ることの喜びを感じていた。とても幸福な気持ちだった。


5月31日(木)

神山睦美さんの『夏目漱石は思想家である』(思潮社)読了。漱石といえば文豪、今読んでも新しさを感じる、すぐれて現代的な文章を書いた明治の作家。そんなものではないということが、この本を読んでわかった。世界文学最高峰のドストエフスキーやトルストイと同等のレベルに達した小説家であること、存在論への興味と思考が作品に取り込まれていることなどを知った。感想がまだまとまらないので、時間をおかずに読み返すことにする。

今週末6月2、9、10日にPhilia Projectのダンスと映像パフォーマンス「沈黙の未来」があります。映像は広河隆一さん、演出は二瓶龍彦さん。場所は新宿の高野ビル4階。無料。お時間のある方はぜひ。わたしも9日に見に行く予定です。


5月28日(月)

『新潮』6月号を買う。月刊文芸誌を買うのは2年ぶりくらい。小池昌代さんの短編小説「タタド」を読む。「スワッピング」という、やや古くさいことばが評にあるが、一組の夫婦と、友人である客の男女4人が海辺の別荘で一夜を過ごす話。全員五十代という設定で、それぞれに病や不安を抱えている。ふっくらした潤いのある文章と性や身体に対する大らかな表現。会話がとても自然で、うまいなあと思う。

川端康成賞にふさわしい、官能的で幻想味のある小説。詩人のまなざしが随所に織り込まれている。小池さん、おめでとうございます。


5月26日(土)

入院している義父が一時帰宅をするので、新幹線で北関東の実家へ。掃除と洗濯をし、ゴミを捨てる。車中で長嶋有の『猛スピードで母は』(文春文庫)を読む。久しぶりの軽い読書。壊れているのにどこか明るい家族の話が二つ。2001年に文學界新人賞を受賞した「サイドカーに犬」は、母親が出て行って、中古車販売をやっている遊び人風の父と暮らす少女、薫が主人公。食事を作りに通ってくる洋子という女との間に友情が芽生える。洋子は父の愛人らしいのだが、意志が強く行動力のある若い女性。

表題作は2002年に芥川賞を受賞している。母子家庭の話。好き勝手に生きる母と学校でいじめに遭っているの息子。母は一人前の大人を相手にするように息子に接する。強い母である。この明るさは著者が1972年生まれの男性だからか。家庭の崩壊が文学のテーマであった時代が終わり、変則的な家族形態がめずらしくない社会になったから生まれ得た小説だと思う。


5月24日(木)

神山睦美さんの評論『夏目漱石は思想家である』の六章は、クレーの「新しい天使」の絵をベンヤミンが「歴史の天使」と呼んだという話から始まる。そういう記事をスクラップしておいたことを思い出して、読んでみた。細見和之さんの「瓦礫の蓄積としての歴史-ベンヤミンがクレーの天使に託したもの」(2003年5月5日・朝日新聞夕刊)。アメリカが国連の承認を得ないまま開始した対イラク戦争が終結して二週間たった時点で書かれたエッセイである。

数日前に届いた桐田真輔さんの『断簡風信』221を開くと、『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明著・世界思想社)という本が紹介されている。ベンヤミンの研究書だそう。読んでみたい。読書の楽しみの一つは、読むべきものがこんなふうにつながっていくことだろう。


5月22日(火)

夏目漱石の『彼岸過ぎ迄』には須永市蔵という男が登場する。漱石らしくない名のつけかただと思う。音も字もかなり重い。須永という名字は群馬県に多いらしい。

「須」も「永」も自然の事物をあらわす漢字ではない。「紀」も同じ。名前はヒトの運命に何らかの影響を及ぼすのだろうか。


5月19日(土)

車で都心へ。初めてナビを使う。わたしは助手席で道路地図をチェック。所沢街道から青梅街道、環八。都内は車線が複雑だなあ。怖ろしい。こんなところは走りたくないと思う。芦花公園、多摩美などを通過。帰りは五日市街道を通って、吉祥寺を抜けて行った。武蔵野市役所周辺の桜並木(?)がとてもきれい。電車では見ることのできない街道沿いの風景を楽しんだ。


5月18日(金)

この1か月、外出もままならない状態だったのだけれど、それも一段落。と思ったら、義父がまた入院したという電話が来た。検査のために何度も胃カメラを飲まされているらしいが、声が明るいので少しは安心。川柳が入選したといっては図書カードを送ってくれる。呆けた義母のためにも1日でも長く生きてほしいと思う。

家では『夏目漱石は・・・』、病院ではハイデガーを読んでいる。「もっとも自己的な究極の可能性はおのれの死」。何だかいつも「死」について考えているような気がする。


5月13日(月)

神山睦美さんより『夏目漱石は思想家である』(思潮社)とどく。こういう本が読みたかった。「人間いかに生きるべきかという素朴な問いを考え尽くした夏目漱石」に迫る長篇論考。最近なかなか詩集を読むモードに入れず、先延ばしにしている。この本を読んでからまとめて詩集を読む予定です。送ってくださったみなさん、ちょっと待っていただけますか。


漱石の研究者といえば弟子の小宮豊隆。中学・高校のクラスメートに小宮豊隆の孫娘がいた。とても頭のいいひとだったことを思い出した。


5月10日(木)

母の三回忌。いろいろな事情があって、一人でお墓参りに行く。この二年のあいだに何度もお寺に行った。お花やお線香を売っていた腰の曲がったおばあさんの姿は見られなくなり、小さかった黒猫が少しだけ大きくなった。ひとは生きているときと同じように死んでいく。母が死んでわかったことである。何も思い出のないことが悲しく不思議なことに思える。

車中で木田元(編著)「ハイデガー『存在と時間』の構築」。難しくて何度も同じページを読む。最近は哲学の本を読んでいるときだけ余計なことを考えずにいられる。


5月8日(火)

10日(木)から12日(土)まで、神田岩本町のギャラリー「サージ」で、麻生アユミさんのダンス・ソロ「和解のとき」第1部「不在者の場所から」があります。二瓶龍彦さん設計の公演です。お時間のある方はぜひお出かけください。

中島義道の『哲学者というならず者がいる』(新潮社)をとてもおもしろく読んだ。哲学を研究するだけではなく、つねに丸ごと哲学者として生活するとはどういうことか。それについて書いている。ひとに嫌われ、狂人扱いされ、長い不遇時代を耐えて哲学者になったひとの文章にはやはりちからがある。


5月4日(金)

北浦和の埼玉近代美術館へ。「澁澤龍彦-幻想美術館」を観る。没後20年を記念して、澁澤が称賛した美術家の作品を展示している。埼玉の名家に生まれ、恵まれた少年時代を過ごした作家。批評家で仏文学者でもある。7つの部屋のすべてに解説のパネルが置かれ、年譜と活動がよくわかるようになっている。

ブリューゲル、ピラネージ、モロー、ルドン、ゾンネンシュターン、バルテジュス、ダリ、伊藤若沖、池田満寿夫、横尾忠則、四谷シモン、合田佐和子、野中ユリなどの膨大な作品を見て、「少年時代」と「玩具」が澁澤を解くキーワードではないかと考えた。奇形の人形や緊縛された女性の裸体、カトリーヌ・ドヌーヴ。壊れたもの、壊したもの。女には理解できない世界なのかもしれないと思う。

近くにあるチェーン・レストランMへ。ここはセットメニューの豚汁が美味しい。上質の味噌を使っているのだろう。とても上品。肉料理ももたれず、ファミレスと全然違います。


5月3日(木)

某HPの連句に参加しようと思った。前回は投稿を控えて(そんなレベルではないので)、投稿句とコメントを毎日チェックして、少しは学んだつもりになっていた。でも何時間考えてもまともな句は出てこない。そこの主宰者であり捌きをなさる先生に、俳号を変えて参加してみたらどうかと勧められたので意気込んでいたのだけれど、まだ早いみたい。

この間に清水哲男さんの『打つや太鼓』、吉本和子さん(吉本隆明夫人)の『寒冷前線』、辻征夫さんの『貨物船句集』などを読んだ。もっと読んで、下手でもどんどん作ること。ノートを用意したのだが、書いては破るを繰り返している。


4月29日(日)

苦しんで仕上げた詩を投函し、さわやかな気分。GWの恒例になった所沢市民吹奏楽団の定期演奏会に行く。ほぼ満席で、指揮者のみえる3階席へ。2部は団員である知人のYさんが指揮をする。Yさんは毎年演奏会の案内を送ってくださる。「仁義なき戦いのテーマ」「男はつらいよ」「チャップリン・メドレー」「パイレーツ・オブ・カリビアン」。みんなが楽しめるプログラムになっていて、団員さんの踊りやコントもある。

3部に棒を振ったのは家田厚志さん。劇団四季のミュージカル「オペラ座の怪人」の日本初演を指揮して劇的な成功を収めたひと。登場すると会場がどよめいた。黒に赤や黄の図形が描かれたサイケなシャツを着ている。派手である。繊細にして大胆な指揮に目が離せなくなった。『日本むかしばなし』の常田富士男に似た愛嬌のある顔の表情がくるくる変わる。曲はバーンスタインの「キャンディード」とJ・ウィリアムスの「スター・ウォーズ・トリロジー」。アンコールは「卒業写真」と「宇宙戦艦ヤマト」。この選曲、同世代を感じます。

全身で音楽を表現する家田さんの姿に感動。目がウルウルになって困った。


4月27日(金)

地域の情報紙を見ていたら、尾崎翠の小説が映画化されたという紹介記事があった。見たいなあ。松戸出身の若い女優さんが主演、監督は浜野佐知さんというひと。『こほろぎ嬢』『歩行』『地下室アントンの一夜』を一本のストーリーとした恋物語だそう。5月5日(土)〜18日(金)、シネマアートン下北沢で上映とのこと。シネマアートンはかわいらしい小さな劇場です。うーん迷うなあ。


4月25日(水)

ウィリアム・トレヴァー『聖母の贈り物』(栩木伸明訳・国書刊行会)読了。短編小説集というより中篇小説集という趣。どの作品もずっしりとした手応えがある。家族のつながりを描いたものが多いのはアイルランドという土地柄だろうか。今朝の朝日新聞で加藤典洋さんが絶賛していたので驚いた。厚い本で、実は二作品は途中でギブアップしたのでした。

ところで「ポンコツ車」として「トヨタ」の名前が出ていた。こんなに高齢な作家にとってもトヨタは身近な車であるというのがすごい。


4月23日(月)

病院や郵便局の待ち時間に『ハイデガー「存在と時間」の構築』(木田元編著・岩波現代文庫)を読んでいる。ハイデガーと同年生まれのウィトゲンシュタインが、直接ハイデガーに言及して言ったことが書かれていて、とてもすばらしいと思ったので写してみます。

私はハイデガーが存在と不安について考えていることを、十分に考えることができる。人間には、言語の限界へ向かって突進しようという衝動がある。たとえば、なにかが存在するという驚きを考えてみるがいい。この驚きは、問いの形で表現することはできないし、また答えなど存在しない。われわれがたとえなにかを言ったとしても、それはすべてアプリオリに無意味でしかない。それにもかかわらず、われわれは言語の限界へ向かって突進するのだ。(1929年、シュリック家での談話、「ハイデガーについて」)。


4月19日(木)

『無灯艦隊』という西川徹郎さんの句集をいただく。未知の方である。「天才と呼ばれた少年詩人の〈十七音の銀河系〉」、西川徹郎文學館記念出版と帯にある。昨年あたりから句集や歌集がよく送られてくるようになった。なぜだかわからない。俳句も短歌も好きである。けれどもあまり読んでいないので知識がなく、何を読んでも「ほう」と感心してしまう。だからお会いしたこともない方が送ってくださっても、うまく反応できなくて心から申し訳なく思う。

などと言っている暇に読めばいいのですよね。読んでみます。


4月17日(水)

家族の付き添いで病院へ。待合室で佐藤正午の『小説の読み書き』をたっぷり読む。最後に自作『取り扱い注意』について書いているが、これはつまらなかった。わたしがその小説を読んでいないためでもあるだろう。何だか言い訳みたいだ。一読者としての距離を持てていないと思う。


最近のヒッはベーコンと納豆のチャーハン。よく炒めると納豆のねばりが消えて意外な美味しさです。ベーコンは細かく、味付けは納豆のたれ。もう一つは空豆とタコ。にんにくと塩、胡椒で味付け。ちょっとごちそうです。


4月14日(土)

『ジョゼと虎と魚たち』をビデオで観る。妻夫木聡&池脇千鶴。犬童一心監督。原作である田辺聖子の短篇を二十代のころ読んだ。つまり古い小説を映画化したということになる。体が不自由で隔離されたような生活をしている若い女くみこ。大学生の恒夫は偶然知り合った風変わりなくみこに惹かれる。ここが今ひとつわからない。くみこは口が悪い。育ててくれている祖母とそっくりの声で同じような話し方をする。料理がうまく、学校教育は受けていないが、たくさん本を読んでいる。恒夫は麻雀屋でバイトをしている女たらし。基本的にヒトが好きで、ヒトを惹きつけるものを持っている。

今どきの若者である恒夫はくみこについていけなくなる。別れた後、恒夫は道の真ん中で号泣するが、くみこは一人で新しい生活を始めるというラストはよいと思った。大阪弁と妻夫木くんの自然な演技がこの作品を温かなものにしている。オダギリジョーと妻夫木くんには甘くなってしまいますが。


4月12日(木)

よこしおんクラブの掲示板で、『スーハ!』の同人である佐藤恵さんが、好きな詩集として稲川方人さんの『君の時代の貴重な作家が死んだ朝に君が書いた幼い詩の復習』(1997年・書肆山田)を挙げているのを見て、全詩集を読み返している。こういう詩が書きたいと思う。どういう詩かきちんと説明はできないのだけれど、行き詰まっている今、必要なのはこのような詩集だと思った。ちょっと古い言い回しになるが、「ことばが屹立している」。時に意味を断ち切り、遠くへ飛ばしながらも体温を感じさせる詩のことば。


4月11日(水)

佐藤正午『小説の読み書き』(岩波新書)。樋口一葉の『たけくらべ』の章がとてもよい。恥ずかしいことに、わたしは一葉を読んでいない。森鴎外も未読。文語体の小説は敬遠してきた。不勉強を反省。『たけくらべ』の各章は動詞で始まり、最後は台詞で締めくくられていると書かれていた。大変に驚いた。何と新しいスタイル。やはり一葉は天才だと思う。

また、この作家は国語の教科書に載っていた井伏鱒二の『山椒魚』を読んで退屈したという。わたしもそうだった。教科書に載っっている文学作品に感動したことはほとんどない。モーパッサンの短篇『ジュール叔父さん』と小林秀雄のエッセイ『当麻』くらい。佐藤正午は1955年生まれ。同時代を感じて、うれしくなる。


4月7日(土)

先輩たちと恒例のお花見。山菜おこわ、菜の花のからし和え、空豆の塩ゆで、煮物、卵焼きを作る。桜の花が散って吹雪のように寄せてくるのもまたいいものです。ただフェスティバルをやっているらしく、バンドやカラオケ、ダンスなどいろいろな音楽が聞こえてくるのが興醒め。山奥にでも行かなくては本当のお花見はできないのかもしれない。

桜といえば西行。「吉野山 こずゑの花を見し日より 心は身にも添はずなりにき」。だんだんこういう境地がわかるようになってきた気がします。


4月5日(木)

図書館の方たちとお花見をする。イベントの記録集が完成したことと司書さんのお別れ会を兼ねて航空公園に集合し、ランタンの下で飲み会。寒いので焼酎のお湯割り。

『メゾン・ド・ヒミコ』をビデオで観る。柴咲コウ主演、監督は犬童一心。ゲイの老人ホーム「メゾン・ド・ヒミコ」が舞台。柴咲演じるサオリはひと夏そこでアルバイトをする。サオリと母を捨てたゲイの父ヒミコがオーナーで、父の恋人である春彦(オダギリジョー)が運営している。日曜日の持ち寄りブランチ、ゲイの青年たちを招いての流し素麺、お盆の準備(提灯を吊るし、皆でおはぎを作り、持っている親族の写真をすべて飾る。キュウリとナスで作った馬と牛がベランダいっぱいに並べられているシーン)など遊び心にあふれている。

柴咲コウの他オダギリジョーがよかった。サオリに惹かれて抱こうとするのだが、どうしてもできない。そのせつない気持ちと緊張がまっすぐ伝わってきた。ヒミコは末期ガン、入居者のルビーが脳卒中で倒れて、平穏な日々の土台が崩れていく。死が確実に近づいてきたことで、本人も入居者たちも今まで見ないようにしてきたものと直面しなければならなくなる。前半おもしろく見ていたけれど、死の準備ということを考えさせてくれる映画だった。

「母のためにあんたが許せない」と父をなじるサオリに、ヒミコは「わたしにもひとこと言わせて。あなたが好きよ」と言う。思いがけない台詞に泣きそうになりました。


4月2日(月)

先日、林心平さんより『札幌はなぜ、日本人が住みたい街No.1なのか』(柏艪舎)をいただいた。林さんが初めて出された本である。東京生まれで札幌住まい16年になる林さんが、その文化や自然、農業などについてアンケートやデータを盛り込みながら、温かみのある文章で札幌の魅力を紹介している。わたしは3回札幌に行ったけれど、いずれも8月。「サッポロ・ジューン」と呼びたいくらい6月がすばらしく美しいと林さんは書いている。

林心平さんは数年前にアニー・ディラードの『本を書く』を検索中に、このページに立ち寄ってくださった方。それから冊子やメールのやりとりが始まった。『本のすすめ』という手作りの冊子に拙詩集を紹介してくださったり、詩誌『雨期』にも寄稿していただいた。農業が専門で、家族と料理と本をこよなく愛する優しいお父さん。3人のお子さんは自宅出産。彼のHPでその記録を読むことができる。お会いしたことはないけれど、ほのぼのとした林さんのお人柄が伝わってくるサイト。

著者紹介を見て、林さんが立松和平さんのご子息であることを知った。本の出版を機に執筆生活に入られるそうである。これからどんなものを書かれるのか楽しみです。


4月1日(日)

ずっと行きたいと思っていた八高線の金子駅の桜を見に行く。映画のロケにも使われたと何かに書いてあったので、松たかこ主演の映画『四月物語』の風景を想像していた。けれどもずいぶん違った。駅舎は小さくて、待合室には素朴な木のベンチが2つあり、なかなか絵になる。桜の木は道の片側に数メートルあるだけ。駅を背にして立つと真っ白な桜並木が続いているのだろうと思っていたので、ちょっとがっかり。地元のひとが桜まつりをやっているのをのぞいてみた。広場に屋台がびっしり並んで、人々が列を作り身動きが取れない。

せっかく評判のよい駅舎があるのだから、観光客を呼び込むことを町ぐるみで考えればよいと思う。住民は線路際にシートを敷いてお花見。売店のような店が一軒あるだけで、土産物屋も蕎麦屋もない。まつり用と覚しきテントではハッピ姿の男たちがおしゃべりをしている。



帰りの電車を待っていたら、広場からバンドの演奏が聞こえてきた。加山雄三とザ・ベンチャーズの曲。真夏のビアガーデン風。何か日本映画みたいだ。地元では人気者の青年が町の催しでエレキギターを弾いて喝采を浴びているシーンが浮かんだ。ルックスも悪くないし女の子にもてる。でも・・・と彼は思う。ちがう、こんなんじゃない・・・と考えていたら楽しくなってきた。


3月31日(土)

佐藤正午の『小説の読み書き』(岩波新書)を買う。amazonで「お薦め本」に入っていたから。「○○さんへのお薦め本があります」と書いてあると何だかうれしい。この作家は未読だった。若いひとかと思っていたら、一つ上。いわゆる文章読本で、文章が柔らかく、同時代であることを感じる。

それから中島義道の『哲学者というならず者がいる』(新潮社)。今いちばん哲学というものに興味がある。ハイデガーの入門書を読んで、今からでも遅くないと思った。この人は毒舌だし、ちょっと胡散臭いところがあるけれど、正直なところが信頼できると思う。


3月27日(火)

図書館関係の人と市内の文学碑を見に行った。5月に行われる文学散歩の下見。西武球場前駅に隣接する狭山不動尊に寄る。全国の寺からお堂や灯篭を集めて造った不思議なところ。そういうの、あり?誰か反対しなかったのだろうか。丘の上に建てられているので眺めはよいし、それなりに立派ではある。でも何だか胡散臭い。

その隣が悪名高い山口観音。けばけばしい朱色の塔で、周囲にはネパールや中国から移築したお堂が異国情緒たっぷりというより妖しげな雰囲気。塀の上に這う緑の竜やコロシアムみたいな水子霊園。悪趣味だ。ジョークなのだろうか。

文学碑はその奥にひっそりとあった。所沢ゆかりの打木村治、高橋玄洋、檜紀代、儘田司水(水道局長だったということで、碑は貯水池に面している)など。そこから下山口駅で降り30分ほど歩いて北野天神へ。長い参道の古い寺。前田利家が植えたという「天神梅」がある。ほんとかなあ。昔旅芝居をやったという舞台小屋(?)が境内にあった。古びていて、使われている様子はないのだけれど、なぜか惹かれる


3月26日(月)

佐藤恵さんより『スーハ!』創刊号をいただいた。表紙の写真がすばらしく、レイアウトもセンスよく、若い詩人たちの力を感じる。同人は大澤武、香村あん、佐藤恵、中島悦子、野木京子、八潮れん。圧倒されています。


3月25日(日)

『聖母の贈り物』のなかの「ミス・エルヴィラ・トレムレット、享年十八歳」がすばらしくよかった。アイルランドに住む家族の話。「神様が面倒見てくださるだようよ」と両親が心配する末っ子が主人公。修理工場を営む父と叔父、母と5人兄弟の暮らしの描写がセピア色の映像になって現れてくるようだ。薄暗い食堂兼居間、立ち釘に刺した請求書の束、壁紙のあせた男の子たちの寝室、パブとドッグレースと母親の怒り、夕食の揚げパンと玉子焼き。

少年時代の日々が、主人公の後の悲劇を際立たせるものになっている。スチュアート・ダイベックの連作短篇集『シカゴ育ち』や『僕はマゼランと旅した』に通じるものがあると思う。


3月23日(金)

小池昌代さんが薦めてくれた短篇集『聖母の贈り物』(国書刊行会)を読んでいる。著者のウィリアム・トレヴァーは1928年アイルランド生まれ。ていねいに年を重ねたひとならではの手堅い作風。やや古風な恋物語「イエスタディの恋人たち」にはビートルズの曲が出てくるので驚く。、同時代の作家なのだ。また「こわれた家庭」は一人暮らしの老女が主人公。ロンドンが舞台のつましい生活描写にカポーティの名作「ミリアム」を連想し、調べてみたらカポーティは1924年生まれだった。こちらはニューヨークの話で、やはり一人暮らしの老女が主人公である。ひそかに「やった!」と思う。

「こわれた家庭」のミセス・モールビーは「昔から、みんなで陽気に楽しみましょうみたいなのがとにかく大嫌い」。わたしもこういう偏屈なお婆さんになるのだわ。


3月22日(木)

朝目が覚めて「わたしたちのために たった一つの この歌のために」という曲が浮かんできた。何だっただろうと考えたら、祥子さんが歌っていた曲だった。守中高明さんの詩「世界、終わりなき傷」のラスト。音楽のちからはすごい。

詩誌『一個』創刊号を読む。同人は井坂洋子・佐々木安美・高橋千尋。井坂さんの後記代わりの「ごあいさつ」に、新たに詩誌を始める清々しい姿勢がみえて、わたしも背筋を伸ばさなければと思った。しかしうまいなあ。井坂さん、佐々木さんの完成度の高い作品を読んでいると、自分がいわゆる〈現代詩〉から逸れていることに気づかされる。ここ数日いろいろ考えこんでいる。


3月20日(火)

イラク開戦から4年。PHILIA projectの公演はこの日に行われた。「知ること、記憶すること、祈ること。わたしたちにできることはそういうことではないでしょうか」と祥子さんは言った。彼女の熱唱の間に、二瓶さんの軽妙なギターがいい感じに入る。これで4回聴いたけれど、毎回アレンジが変わり、今回は新しい曲も加わった。

現代詩を歌うというのは難しいことだと改めて思った。ことばが重いので、聴く側は意味を追いかけることになる。音楽を楽しむよりも、ことばを受け取ろうと真剣に耳を傾ける。そして自分の思いに沈んでゆく。歌と現代詩の〈距離〉を感じることがこのライブの醍醐味であるかもしれないと思った。

ミニヨンはクラシックな雰囲気の心地よい空間。瀬尾育生さんと中尾太一さんがいらしていた。飲みたいのを我慢して帰宅。


3月18日(日)

来週20日(火)に荻窪の喫茶店ミニヨンで祥子さんのライブ『悲劇の恋/歌』があります。19時開場、19時30分開演。お時間のある方はぜひ。ギターは二瓶龍彦さん。昨年の12月に聴きましたが、キーボードとはまたちがった魅力がありました。わたしも行きたいと思っています。荻窪は久しぶり。といっても通過するときに関西風うどんの店に寄るか、古書店を回るくらいのもの。阿佐ヶ谷に住んでいたころは、よく荻窪で飲みました。

『ハイデガー〜存在の謎について考える』(北川東子・NHK出版)を読み終える。学生時代、哲学にはまったく興味がなかった。ハイデガーの研究者だった教授が熱く語っていた授業を思い出し、書棚にあったこの本を開いた。わたしが今もとめていることばが書かれていると思った。自分に引きつけて納得したのは、「一般性と現状に甘んじてしまうと、自分が自分であるという生き方をすることはできない」ということ。


3月14日(水)

今朝起きたら、顔がかぶれてまだらに赤くなっていた。昨日ふとんを干して、花粉を払わずに寝たからだ。花粉のちからは怖ろしい。これではデートにも行けない(?)。肌がむずむずする。かゆい。で、障子の桟や書棚の拭き掃除をした。日頃取りだすことのない全集物や古い本に埃が積もっている。これでは身体がおかしくなるのは当然だ。雑巾で一冊ずつ拭いていく。

蔵書の多い方はどうしているのだろう。やっぱり年に一度くらいは出して埃を払うのか。エリナー・ファージョンの『ムギと王様』のまえがき(記憶が曖昧)に、家中の本を開いて広げる一日のことが書かれていた。そのとき金色の埃が宙を舞うのだ。高校生のころ、ファージョンの童話がとても好きだった。


3月12日(月)

『UDON』をビデオで観る。監督は本広克行。『サマー・タイムマシーン・ブルース』もなかなかよかった。昨年派手に宣伝していた映画。とにかく香川の風景が美しい。本物のうどん屋のおばちゃんがゆっくり麺を茹でるシーンがよかった。

90年に村上春樹が「讃岐・超ディープうどん紀行」(『辺境・近境』・新潮文庫)を書いている。十数年たってやっと全国的なブームになったということになるだろうか。関東には讃岐うどんの店は少ない。関西風のうどんの店もなかなか見つからない。出汁のきいたつゆとコシの強い麺。毎日でもいいな。


3月9日(金)

『グレート・ギャツビー』読み終える。物語の語り手であるニックはギャツビーの隣人であり、ギャツビーの恋い焦がれるデイジーの遠い親戚。贅沢で怠惰な暮らしに慣れた人々と一線を画したニックが村上春樹と重なってくる。ギャツビーはデイジーに接近するために対岸の屋敷に住み、毎夜贅を極めたパーティを催す。デイジーを一途に愛し、尋常でない生涯をたどるギャツビーの哀しさ。

長いあとがきに、フィッツジェラルドの天才ぶりが説明されている。デコラティブな訳文から、時代の寵児であった作家独特の文学世界がうかがえる。登場人物の意識の流れが会話によって表現され、ストーリー展開も推理小説のように巧みだと思った。


3月5日(月)

ポエトリージャパンのトップページに「旅の時間」という詩を書きました。小さな詩です。ぜひ飛んでみてください。

長谷川櫂『一億人の俳句入門』を読んでいる。授業のように繰りかえし基本を教えてくれるのが、初心者にはありがたい。「一物仕立て」(一つの素材を詠む・散文的)と取り合わせ(二つの素材を組み合わせる・俳句的)が俳句の二つの鋳型であるということを初めて知った。自分の句が下手でつまらないのは、「一物仕立て」ばかりで、変形させることもしていないからだとわかった。お薦めです。


3月2日(金)

フィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』(中央公論社)を読み始める。村上春樹訳。ロバート・レッドフォードとミア・ファーローの写真が表紙の『華麗なるギャッツビー』を読んだのはずいぶん昔のことである。

村上春樹が訳してもシンプルとはいえない、複雑な屈折のある文章。冒頭から静かな悲劇の匂いがしている。


2月28日(水)

NHKの『あの歌が聞こえる』を見た。視聴者からとどいた青春の思い出を、当時の曲とからめて漫画家が描く番組。きょうは中村雅俊の「ふれあい」で、漫画はわたなべまさこ。驚いた。かなりの高齢なはずだけれど、華奢な少女の絵はむかしと変わらない。40年ほど前に週刊『マーガレット』で連載をもち、人気のあった漫画家である。

ミジンコという生物がいることをこのひとの「ミミとナナ」という漫画で知った。双子の父親がミジンコの研究者という設定だった。懐かしかった。


2月23日(金)

演出家の二瓶龍彦さんが「フラスコの宇宙」に『中空前夜』の感想を書いてくださいました。ありがとうございます。

『雨期』48号ができあがる。アンケートは「人類がつくった愚かなもの」。執筆者は古内美也子、荻悦子、原口哲也、北野英昭、須永。表紙はプラムレッド。今回も書けなくて苦しんだ。いつも、もうだめだと思いながら、何とか一篇の詩を書く。誰かにとどきますようにという願いをこめて。


2月22日(木)

家族の薦めで、あさのあつこ『バッテリー』(角川文庫)を読んでいる。天才ピッチャー少年の話。映画公開も近い話題作である。おもしろい。中学入学前という設定だが、主人公も他の少年たちも強烈な個性を持つ大人のように描かれている。舞台は岡山県。すごい才能があって気むずかしい主人公の巧、バッテリーを組むことになる大らかな豪、ひとを惹きつける力を持つ巧の弟、青波。岡山弁がやわらかく心地よく思える。

児童文学書ではない。ヤングアダルト小説ということになるだろうか。毎週土曜日に放映しているアニメ『メジャー』の世界に近い。


2月20日(火)

書棚の奥からフェルナンド・ペソアの『不穏の書、断章』(澤田 直訳・思潮社)を引っ張り出し、あとがきを読んでいて、ヴィム・ヴェンダースの名前を見つけた。調べてみたらヴェンダースは1995年に『リスボン物語』という映画を撮っている。知らなかった。ビデオ店で見かけたことがない。評価は分かれるようだけれど、何とか探して観たいと思う。

歯科衛生士さんに、歯がすり減るから、食いしばる癖を直すようにと注意される。上の歯と下の歯を合わせることも「食いしばる」というのだそうだ。上下の歯の間をあけておくのがふつうの状態らしい。初めて聞いた。


2月18日(日)

週末は北関東の義父母の家へ行った。買い物の途中に義父が狭心症の発作を起こしてパニックになる。会うたびに義母の痴呆が進んでいる。二人とも耳が遠いので、何かあったときに対処できるかとても心配である。

車中で茂木健一郎の『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)を読む。若き日(33歳)の著作。「脳内現象である人間の心とは何か」についてわかりやすく書かれている。最近はこういう本に興味がある。あらゆるジャンルに天才と呼ばれるひとがいるが、宗教的天才は出にくいという話がおもしろかった。宗教的天才は人類に最大の寄与をするという。イエスとブッダ。これからもっと偉大な天才が出てくるのだろうか。


2月15日(木)

所沢図書館の『今月の図書館』という冊子に、「特別な一日」の一部が引用される。駅前の女神像のことを書いているのを図書館の方が調べてくださった。新所沢駅は1959年、女神像のある噴水は翌年建設されたとのこと。タイトルは「歓び」。写真も入っ
いる。こんなふうに読んでもらえて、とてもうれしい。


2月14日(水)

『最後の場所で』読了。戦争中に医務士官だったドク・ハタは同胞の慰安婦を愛するが、彼女は酷い最期を遂げる。罪の意識が彼を苦しめ、他人と距離を必要以上にとるという生き方を選ぶことになる。「礼節を重んじる」その態度が周囲のひとを遠ざけることにもなってしまう。それでもひととのつながりを求めずにはいられないハタの孤独。

慰安婦と兵士の愛。ありえないもののように思えるが、リーの静謐な文章は、若い二人のあいだに芽生えたものを誠実に描き、悲劇的な結末を運命としかいいようがないと納得させてくれる。ラストは死の方向かと思ったが、そうではなく希望が用意されていて、若い作家らしいと思った。


2月11日(日)

田中佐知さんの詩集『砂の記憶』(思潮社)について書いている。2004年に癌のため59歳で亡くなった詩人。翌年弟さんが図書館のイベントにいらして、佐知さんの存在を知ったのだった。発表する予定は今のところない。闘病生活をしながら書き続けたという砂をめぐる詩篇。亡くなられた年に発行された代表作といえる詩集である。女性らしい感性と平易なことば。十分に美しい詩であるけれど、もう少しで観念の世界を突き破ることができたのではないかと思えてならない。詩に関するエッセイが一つ収められていて、この詩人が現代詩に対していかに真摯に向き合おうとしていたのかがわかる。

地域の情報誌を見て、おいしいと評判の蕎麦屋に行く。まだ新しい小さな店。「店主はそば通の間では知らない人はいない高橋邦宏氏に師事して三年間修行した」と書いてあった。まずそば茶とお盆に載った薬味が出てきて、かなり待たされたけれど、それだけの価値がある麺だった。冬季限定の牡蠣そばを頼んだら、こぶりな牡蠣の揚げ物が7つほど入っていて、すばらしい美味しさでした。幸せ。


2月10日(土)

アイロン掛けの途中と寝る前にチャンネ・リーの『最後の場所で』(新潮社)を読んでいる。著者は1963年韓国生まれ。3歳からアメリカ在住という。この若い作家が書くのは日系二世の老人ドク・ハタの人生。ニューヨークの郊外を舞台に、住人の尊敬を集める紳士の生活が綴られる。感情を抑えた静かな文章。長篇である。

養女サニーが男と住む家を覗きに行くシーンにハラハラ。こういう映画があったなあ。高校生の男女がたくさん集まって馬鹿騒ぎをしている。寝室に消えるカップルもある。シビル・シェパード主演だったか。『ラスト・ショー』のような気もするけれど、記憶が曖昧。


2月8日(木)

『雨期』の入稿。印刷所は仕事がたてこんでいて、できあがるのは奥付に記した日より少し遅れるという。

三崎亜記の『となり町戦争』(集英社文庫)をおもしろく読んだ。となり町との戦争が共同事業として行われるという発想がユニーク。町役場から偵察業務の任命書がとどき、「僕」は好奇心から従事することになる。役場の「香西さん」との偽装結婚。一般のひとには見えないところで行われるが、死者も出る不思議な戦争。よくできた小説である。


2月7日(水)

昨夜は2回目なので、さほど緊張することなく読み終えた。ただ途中で意識が遠のくような感じになり、ああどうしようと思った。すぐに元に戻ったけれど、60分はほんとうにきつい。『中空前夜』1冊すべて読んでも45分。15分余る。それで作品についてしゃべってしまう。

聴いてくださったのは、ずっとお会いしたいと思っていた木津直人さん、図書館関係の方が二人、連句の先生、若い女性が二人、薦田愛さん。田川紀久雄さんと坂井のぶこさんがビデオを撮ってくださる。終わって薦田さんと天童さんからアドバイスをいただく。この会場、ギャラリー・アート・ポイントは声がよく響く。猫もいるし、久里洋二さんの絵が飾られている。それで気持ちがずいぶん楽だった。


2月5日(月)

『雨期』48号の編集が終わる。めでたい。明日は朗読なので、入稿は明後日になる。これでもう2月は終わったようなもの。それも淋しいけど、ほんとうに今月は予定が入っていない。逃げる2月を追いかけます。

三崎亜紀の『隣町戦争』を読んでいる。役場の香西さんがいい。『ダンス・ダンス・ダンス』のユミヨシさんに似た雰囲気。


2月3日(土)

昨秋行った図書館のイベントの記録集を入力。同時に『雨期』48号の原稿を仕上げる。やっと編集作業にかかれるところまでこぎつけた。とてもうれしい。朗読の日が近づいているので胃が痛い。緊張感を持たなくなったらおしまいだと思うけれど、早く7日の朝を迎えたいです


『ハチミツとクローバー』をビデオで観る。監督は高田雅博。原作の弾けるようなスピードとパワーはないけれど、キャラクターの雰囲気はそれなりに出ていたと思う。はぐみ役の蒼井優とあゆ役の関めぐみはぴったり。アパートやその界隈の風景がいい感じです。全体にとてもさわやか。若いってすばらしい。


1月31日(水)

銀座のギャラリー・アートポイントで薦田愛さんの朗読を聴く。薦田さんは詩集『流離縁起』のはじめに置かれた清音の詩から読み始める。そういう書き方があることを初めて知った。わたしも書いてみようかな。

古風なことばが随所に光る妖しい詩の世界。ことばがクリアで心地よく耳に入ってきた。よい朗読でした。近々ここで朗読予定の坂井信子さん、田川紀久雄さん、田中庸介さん、山口眞理子さんもいらしていて、少しお話。薦田さんとは初対面だけれど、始まる前にたくさんおしゃべりをした。チャーミングな若い詩人。

来週2月6日(火)はわたしが朗読します。19時開場、19時30分〜20時30分。『中空前夜』の作品をできれば全部読みたいと思っています。ぜひいらしてください。


1月29日(月)

ポエトリージャパン
のトップページに「黄金時代」という詩を書きました。ずっと書きかけになっていたものをようやく形にすることができて、ほっとしています。ぜひ読んでください。

『やわらかい生活』をビデオで観る。寺島しのぶ主演、廣木隆一監督。35歳無職の優子に近寄ってくる「だめ」な男たち。合意の痴漢行為が趣味の中年男(田口トモロヲ)、気弱なヤクザ(妻夫木聡)、EDのマザコン都議(松岡俊介)、離婚寸前で優子のアパートに転がり込む従兄(豊川悦司)。

みんなそれなりにいい奴で、躁と鬱の状態を行ったり来たりする優子に優しく接する。なんでー?蒲田の街がいい。東急プラザ屋上の観覧車、銭湯、駅前広場、タイヤ公園、六郷土手。ぜひ行ってみたい。原作は絲山秋子。


1月27日(土)

『恋する2000マイル』をビデオで観る。久々の駄作。ロードムービーというので楽しみにしていたのだけれど、麻薬の話と恋愛と親子の再会がごちゃまぜになっている。タイトルが内容とまったく違う。舞台になっているオーストラリアの風景がもっと見たかった。『マトリックス』でサングラスのスミスを演じたヒューゴ・ウィービングが出ているのが目玉。

つい最近、『ビック・リバー』というロードムービーを観た。これはかなりよかった。舩橋淳監督で舞台はアリゾナの砂漠。主演はオダギリジョー。バックパッカーの哲平が車の故障で困っていたパキスタン人アリを助けて同乗させてもらい、再度故障したところをアメリカ人の若い女性サラが拾ってくれる。砂漠を走り、モーテルに泊まる4日間。説明が足りない部分もあるけれど、気持ちのよい映画だった。

『恋する・・・』は真面目に作っているのはわかるのだけれど、全体が商業映画のレベルに達していないと思った。


1月23日(火)

『旅をする裸の眼』読了。とてもおもしろかった。主人公はパスポートを持っていないので、旅というより逃亡の物語といったほうがいいかもしれない。人体実験のアルバイト、学生演劇への参加、流産など怒濤のようにやってくる事態に直面する異国での6年間。そのなかでつねに主人公は映画を観ている。

各章の扉に書かれているのはカトリーヌ・ドヌーヴの出演した映画のタイトル。ドヌーヴは60〜70年代のヨーロッパ映画を支えた女優さんだと思う。凄みがあって近づきがたい雰囲気。彼女に匹敵するような女優さんは現在いないかもしれない。

まだ感想がまとまらないのだけれど、多和田葉子の小説は中毒になる。何か書こうとするとちょっと多和田葉子風の文章になってしまう。

お知らせ。2月6日のギャラリー・アートポイントでの朗読は、19時開場、19時30分開演になります。お帰りが遅くなりますが、よろしくお願いいたします。


1月20日(土)

多和田葉子の『旅をする裸の眼』(講談社)の続きを読んでいる。最初の章が奇妙で難物だったけれど、ベトナム生まれの主人公がパリへ行ったあたりからおもしろくなってきた。同郷の愛雲(フランス人のかなり年上の夫と暮らす)や施鈴(外科医)が登場して、アジア色が濃くなり、物語に温かい血が入ってきた感じ。各章ごとにヨーロッパ映画が出てくる。『Repulsion』『哀しみのトリスターナ』『インドシナ』など。どれも観ていない。観なくては。


1月17日(水)

送信したはずのメールが届いていなかったということがあるようです。アドレスを変えてから何件か。もし返事がないとお思いでしたら、ご連絡ください。

途中になっていたチャンネ・リーの『最後の場所で』(高橋茅香子訳・新潮社)を再び読みはじめる。カズオ・イシグロの『日の名残り』以来の傑作と評判になった長篇小説だけれど、スローな展開にギブアップしたのだった。短い詩を1つ、『雨期』48号の原稿を書く。


1月12日(金)

『わたしを離さないで』読了。最後になって真相が明らかになり、あっと驚いた。未読の方のためにあらすじは書かない。行きつ戻りつする独特の文体に付き合っていくうちに、読むことが快感になっていった。古典文学の趣をたたえた近未来小説。時間のある方はぜひ読んでみてください。すごい傑作です。映画化されることがあったら、微妙な空気感が表現できないかもしれないと、余計なことを考えた。

人間の想像力の上質な実り。そんなことを思って、しばらく茫然としました。


1月11日(木)

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を読んでいる。この作家は登場人物の表情、仕草の一つ一つをていねいに書く。前後して語られる、あらすじとはあまり関係がないように思われる些細なできごと。じれったいと思いながら読み、終わりに近くなってやっと文体に慣れた。バーバラ・ピムの『秋の四重奏』も、日常の些末なことがらの描写がていねいに過ぎて、慣れるのに時間がかかった。イギリスという国、その風土と関係があるのだろうか。

「提供者」「介護人」「ヘールシャム」という特殊な施設。そこでほんとうの兄妹のように暮らし、施設を出てからも運命共同体のように離れることのなかったキャスとルース、トミー。キャスは介護人になり、2人は提供者になって長い入院生活を強いられている。彼らはどうなってしまうのか。


1月7日(日)

朝は七草がゆ。大きな土鍋に1カップの米と5カップの水を入れて炊く。それにチーズ入りの玉子焼き。

新宿で佛渕健悟さんと、山本陽子の詩の研究者である渡辺元彦さんから話を聞く。山本陽子は1943年生まれ、41歳で肝硬変のため亡くなった。5年前に青木栄瞳さん企画のシンポジウムに参加したときに、初めてこの詩人を知った。それまでの詩のかたちを壊し、ことばの音を並べかえて新しいことばを作り、「宣言」ともいえる作品を書いた、といっていいだろう。

渡辺元彦さんは「山本陽子は疾走した詩人です」とおっしゃった。止まらない、つねに流れる詩を書くために「韻」に彼女はこだわった。メタファは読む側に視覚的なものを呼び起こすため、作品はスタティックになってしまうけれど、音としてのことばはちがう。どんどん繰り出していくことができる。だから音を入れかえた造語をピースのように用意して、彼女は詩を書いたのだという。

掃除婦として働きながら、ウイスキーを呷り推理小説を読み、緩慢な自殺というような最期を迎えたという。けれども病を得る前の山本陽子は自分にしか書けない新しい詩をつくるために孤独を選び、同時代の評価などとは無関係に生きた。今まで誰も踏み込んだことのない新しい世界の詩。それは一文学者として健全な生き方かもしれない。彼女の詩の不思議な明るさは、そこから来ているのではないかと思った。


1月5日(金)

『旅をする裸の眼』、直喩の洪水にギブアップ。多和田さんの鋭敏な感受性にはついていけそうもない。読みかけだったカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』を手に取る。少女たちの学校生活がちょっと異様なほど細かくていねいに描かれていて、スローな展開になっている。この作家はどうも苦手。

清水哲男さんの詩集『黄燐と投げ縄』の「ひとりぐらし」がとてもいい。「私」が昔飼っていた猫に話しかける。

いっしょに食ったっけね 天麩羅
あとで いっしょにまた食おう
醤油差しはきみが倒して割れちゃったけど
乾いた心に醤油は毒だ
そのまんまの匂いでいいやね
火鉢でちょっと焙ってさ
ほどよく焦げ目がついたところで
いっしょに食おう
そしてね
天麩羅の匂いがしみついたまんまで
きみといっしょに眠るんだ

なぜかニンジンとインゲンの天ぷらを思い浮かべる。カラリとしたころもではなく、厚くしなっとしたやつ。優しい心を失わずにいる、少年のような大人の男のひとってすてきだなあと思います。


1月2日(火)

あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年内に間に合わなくて今になって年賀状を書いている。早々とくださったみなさん、すみません。しばらくお待ちください。今年は詩のほかに、亡くなった幾人かの詩人のことを書きたいと思っています。2月の朗読会の後は特に予定がありません。ずっと流れに逆らわないように動いてきて、何やっているんだとブーイングを浴びながらも、自分のちから以上のことはできないと割り切ってきました。結果としてはそれでよかったのではないかと思っています。全力を尽くして書く。それだけです。

いつもの場所で過ごす夜はいいものですね。旅先やよその家で眠るのは苦手です。


12月30日(土)

詩集は基本的に贈られてくるものを読むので精一杯(週1冊くらいの割合)なのですが、今年は詩集を3冊注文しました。『稲川方人全詩集』、清水哲男『黄燐と投げ縄』、望月遊馬『海の大公園』。どれもすばらしいものでした.。いずれきちんとした形で感想を書きたいと思っています。

本年も詩誌『雨期』とこのページをご愛読くださいましてありがとうございます。感想をお寄せくださったみなさまに感謝いたします。来年は2日からの更新になります。よろしくお願いたします。よいお年を!


12月26日(火)

岩本町のギャラリー・サージで二瓶龍彦さん率いるPhilia Projectのパーティ&ライブ。パフォーマーの女性たちが作った料理とお酒で、アットホームな雰囲気。2回ほど公演を観て、やっと役者さんたちの顔と名前が一致した。

チャリさんの朗読とSHOKOさんの歌「悲劇の恋」。二瓶さんのギター伴奏で、稲川方人さんの詩(「靴、泣き濡れた国に」)になる新曲も加わり、三年前に聴いたときとはとはまた違った感じ。詩のことばを追いながら、SHOKOさんの声に聴き入る。中尾太一さんがいらしていて、詩と映画の話をする。批評のことばを持った詩人だと思った。


12月25日(月)

ポエトリージャパンのトップページに「聖夜」という詩を載せてもらいました。きょうだけ読むことができます。

昨夜のメニューはローストビーフ、海老と帆立の香草パン粉焼き、シーザーサラダ、カナッペ(アボカド・ディップ、スモークサーモン、トマト、生ハム、モッツァレラチーズ、黒オリーブ)、苺のケーキ、それにシャンパン。


12月23日(土)

『CUBA FELIZ』をビデオで観る。ヴェンダースの『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』と同じく、キューバの音楽家を追いかけるロードムービー。主役はストリート・ミュージシャンのエル・ガジョ。タンクトップにカウボーイハット、サングラスをかけた小柄な老人がギターをかき鳴らし、絞り出すような熱い声で歌う。行く先々に音楽を愛する人々がいて、ガジョの演奏に応えて歌い出す。

この貧しい国では唯一の楽しみは音楽とダンスであるようだ。安ホテルで眠るガジョをトランペット(ミュート付き)で「音楽やろうぜ」と起こす若者。久しぶりの再会に、まず歌を聴かせる友人。挨拶の代わりに音楽。音楽がことばでもある。寒い冬にキューバ音楽。いいです。


12月20日(水)

仲山清さんのHP『鰐組』で、「水の夜・夜の水」を掲載してくださいました。未読の方はぜひ。「番外詩篇」のコーナーにあります。

来年2月6日(火)に銀座のギャラリー・アート・ポイントで朗読をすることになりました。19時から20時まで。今度は詩をたくさん読もうと思いますので、どうぞいらしてください。


12月19日(火)

新井豊美さんの『シチリア幻想行』(思潮社)を読んでいる。詩と散文から成る旅行記といった趣。一歩一歩踏みしめるように記していく、そのことばの確かさ。これはすごい詩集です。最初に置かれた詩「シチリアの夏」がすべてを決定していると思う。3日の朗読会で聴いた詩。そのときに驚き、早く読みたいと思った。冒頭部分を引いてみたい。

八月のたましいは岩山から下りてくる
八月のたましいは舌を垂らしている
モンテ・ペレグリノの岩山の
巨大な忘却の岩塊の
えぐれた斜面を駆け下りて
街外れのカテドラーレの門をくぐってくる

このスピード感。詩人はゲーテの『イタリア紀行』に導かれ、深く思考しながら旅をする。それを読むわたしたちはシチリアへと思いを馳せる。贅沢な時間。


12月17日(日)

布村浩一さんが朗読会の感想を書いてくださいました。ボディブローをありがとうございます。

『村上春樹イエローページ2』を読み終える。加藤典洋チームの解読も優れているが、内田樹の解説がまたすばらしい。「村上春樹はその小説も最初から最後まで、死者が欠性的な仕方で生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。それ以外の主題を選んだことがないという過剰なまでの節度(というものがあるのだ)が村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している」。

わたしは『風の歌を聴け』を『群像』誌上で読んだときからのファンだけれど、そんなことなど考えたこともなかった。なるほど。


12月15日(金)

図書館へ。清水哲男さんの句集『打つや太鼓』(書肆山田)を借りる。思わずうなってしまう名句の数々。なかでも「河童忌や胸を圧えて人は寝る」に惹かれる。「河童忌」は7月24日、芥川龍之介の忌日。「匙なめる癖の生涯ふゆいちご」は幼少のころがうかがえて、ほほえましい句だと思う。俳句の読みにはまったく自信がないので、これから少し句集を読んで勉強しようと思います。


12月13日(水)

朗読はうまくいかなかった。緊張して、話がしどろもどろ。最初にしゃべったのが失敗だった。朗読から始めればいいのだとわかった。のどが渇いても水を飲む余裕がない。1時間は長い。y山口眞理子さんが合いの手を入れてくださり、とても助かる。演出家の二瓶龍彦さんとパフォーマーの2人の女性、図書館関係の3人の方、詩人の布村浩一さんと山岸光人さん、近々朗読をする中村透子さん。雨のなか、10人の方が来てくださった。ありがとうございます。

終わってから、布村さん、山岸さんとお茶を飲む。椅子に沈み込んでずっとしゃべっていたかった。へとへとで11時に帰宅。このリーディングをプロデュースしている天童大人さん、ストライプハウスの塚原さんにたくさんのアドバイスをいただく。たぶんまたやると思いますので、懲りずにいらしてください。


12月12日(火)

最後の宣伝です。明日13日、午後7時から六本木ストライプハウスで朗読をやります。お時間のある方はぜひいらしてくださいね。そして声をかけてください。

わたしの詩はすべて5分ほどで読み終えてしまう短いもの。伊藤さんの28分はすごい。今度長い詩を書いてみよう。読みにくいことばが入らないもの。このところずっと明け方胃がしくしく痛む。プレッシャーか。明日が終わればクリスマス気分になれるだろう。きょうはひたすら朗読の練習をして、話すことをメモする。


12月9日(土)

チリメンジャコのトーストを食べる。これが美味しくてびっくり。パンにマーガリンとマヨネーズを塗り、ジャコと海苔をちぎったもの、とけるチーズをのせて焼く。すばらしくいい匂い。磯くさいかと思ったけれど、そんなことは全然ない。だまされたと思って作ってみてください。


12月8日(金)

池袋へ。ジュンク堂で齋藤史さんの歌集と佐藤りえさんの歌集『フラジャイル』を立ち読み。最近は何かと短歌に縁があるみたいだ。その近くのコーヒー店で京都からいらした佐々木浩さんと詩の話をする。お元気になられたようでよかった。

車中で、加藤典洋さんの『村上春樹イエローページ2』(幻冬舎文庫)を読む。62ぺーじに引用された『ノルウェーの森』のレイコさんの台詞に目をとめる。「あなたがもし直子の死に対して何か痛みのようなものを感じるのなら、あなたはその痛みを残りの人生をとおしてずっと感じつづけなさい」。「直子の死」と「痛み」を、自分にとって切実なことばに置き換えることができると思った。あるできごとに対する「怒り」や「絶望」というふうに。そういうものを手放さずに考え続け、自分なりの答えを探しながら生きていくこと。村上春樹の誠実さが伝わる文章だと思う。


12月6日(水)

13日のリーディングで「中空」について話そうと思い、資料を探す。このところ毎日1時間ほど歩きながら、あれこれ考えている。話すのは得意ではない。でも『中空前夜』を出した後、詩を書くひとにあまり会わなくて、タイトルや内容について話す機会がないことを残念に思っていた。自分の詩を説明するなんて野暮なことかもしれない。でも誰かに、できれば複数の人に話しておきたいと思う。

で、王朝時代の歌の本を読んでいる。


12月3日(日)

国立で、新井豊美さん、水島英己さん、福間健二さんの朗読を聴く。ちょっと遅れていったらすでに満員。福間さんの隣の席に座らせてもらう。それぞれの作品を20分ずつ、、fFARMの連詩「光」を順に、それから新井さんが新詩集『シチリヤ幻想行』から詩とエッセイを朗読する。とてもよかった。実は詩集はまだできていないそう。手にするのが待ち遠しい。

新井さん、水島さんは素読と呼んでいいような素直な読み。集中して詩のことばを追うことができた。福間さんの朗読はときどき語尾を上げて遠くへ飛ばす感じ。昔のアジテーションに似ているようにも思える。静かなアジテーション風の朗読だと思った。

休憩時間に新井さん、手塚敦史さんと詩の話をすることができた。渡辺めぐみさん、森川雅美さんもいらしていた。打ち上げには出られず残念。


12月1日(金)

昨日の伊藤さんの朗読はとてもおもしろかった。「とげぬき地蔵」という長篇詩。オグリさんと車で中原中也記念館へ行くという作品を、途中で水を飲みペンでチェックを入れながら早口で読む。それがとても自然で、詩人の部屋をのぞき見しているような気分になった。トークもうまい。家族のこと、英語のこと。「詩人は日本語を捨ててはいけない」ということばに、哲学者の森岡正博さんが、「哲学と詩は母国語でなければできない」とおっしゃっていたことを思い出した。

平田俊子さんの「ブラック・ジャム」を読んでいる。とても暗い話。


11月30日(木)

遅くなりましたが、11月12日のイベントについて桐田真輔さんがコメントを書いてくださいました。桐田さんありがとうございます。写真もありますので怖いものが見たい方(?)はぜひ。きょうは六本木で伊藤比呂美さんのリーディングを聴いてきます。先日、朗読会を主催する方に、どうすれば噛まないようになるかお聞きしたら、「古典的だけど、アエイウエオアオ・・・を3年間毎日練習すること」だそう。で、キッチンで毎日やっている。

平田俊子さんの『ピアノ・サンド』(講談社文庫)を読む。離婚した女性のひりひりとした心情が伝わってくる。うまいなあ。小池昌代さんの『井戸の底に落ちた星』(みすず書房)を読んでいる。書き下ろしの「海の本」はホラー風の短篇。最後までどきどきしながら読んだ。うまいなあ。


11月27日(月)

三井喬子さんの個人誌『部分』32号に「孤島」という詩を書いた。布村浩一さんが感想を書いてくれました。ありがとうございます。謙虚に受けとめたいと思います。

ポエトリージャパンのトップページに「別れ」という詩を載せてもらいました。よかったら見てください。手紙書きとコピーと発送の日々。きょうは和合亮一さんの『入道雲入道雲入道雲』(思潮社)をとてもおもしろく読んだ。「ハイウェイを濡らす僕の死後の雨」という一行と、それをめぐるイメージの変奏。次々と映像が喚起され、読む者の発語をうながすスピードとパワーに圧倒される。長篇詩を書きたくなった。


11月23日(木)

キューバつながりで、ヴィム・ヴェンダースの『ビエナ・ビスタ・ソシアルクラブ』を観る。キューバの老音楽家たちの活動を追いかけたドキュメンタリー風の映画。貧困にあえぐ国で、音楽を天職とする男たちは八十を越えても熱くてクール。ライ・クーダーのギターもカッコいいけれど(ハンサムな中年です)、わたしはルベーン・ゴンザレスのピアノに惹きつけられた。楽譜は一切なし。人生のほとんどを淡々とピアノを弾いて生きてきたルベーン。

最後はニューヨークのカーネギー・ホールでの演奏。その前にエンパイア・ステートビルでの展望シーンがあり、自由の女神とツイン・タワーが眺められる。歌手のイブライム・フェレールが「ニューヨークに憧れていた」と夜の街を歩くシーンもいい。苦労をたっぷり染みこませた日本人のような顔をしている。音楽が何よりも好きで、女がたまらなく好きな男たち。キューバの音楽がいつまでも耳に残ります。


11月20日(月)

『モーターサイクル・ダイアリーズ』をビデオで観る。ゲバラの青春時代を描いた映画。監督はウォルター・サレス。友人とバイクで南米大陸を縦断するロードムービー。ぜんそくの持病に苦しみながら旅を続けるエルネスト・ゲバラは、銅山で過酷な労働をする夫婦に出会い、ハンセン病の施設で働くなかで、革命を夢みるようになっていく。ただの美青年が強い意志をたたえた革命家の顔に変わっていく。南米の風景が美しい。家族に愛されて育ったゲバラは、社会の隅にいる人、病をもつ人の心情に自然に寄り添うという類まれな資質をそなえていた。愛と怒りと情熱。この旅が「チェ・ゲバラ」の誕生につながったのだとわかる。身体が静かに熱くなった。お薦めです。

一緒に旅をする先輩アルベルトを演じた俳優は、ゲバラの実のはとこだそう。戸井十月の『チェ・ゲバラの遙かな旅』(集英社文庫)を読み始める。


11月19日(日)

所沢図書館まつりの2日目。雨なので来館者が少ない。昨日は落語と講談の会があって盛況だった。初めて生で講談を聞く。『ローマの休日』や『アズカバンの囚人』の映画会も。また、故田中佐知さんの弟さんが福島からいらして、たくさんお話をした。写真や資料を貸してくださって、田中佐知さんの展示ができたのだった。佐知さんは精力的に朗読をなさっていたようだし、詩やエッセイをたくさん書かれたけれど、まだ正当な評価を受けていないと思う。一人でも多くのひとにこの詩人の存在を知ってほしい。

市内の作家や冊子の展示に一部屋を使うことができた。話しかけてくれる方、質問なさる方などの対応をした。その合間に所沢にゆかりのある作家の著書をめくる。高橋玄洋さん(放送作家)、長谷川摂子さん(児童文学)、天童荒太さん(小説)、奥泉光さん(小説)、深見けん二さん(俳句)、田島みるくさん(漫画)、山本萌さん(書)等々。


11月14日(火)

図書館で調べものをしていて、何となく『埼玉詩集』という古い本が目にとまり、めくって驚いた。森原智子さんの初期の詩が二篇載っていたのである。昭和41年に発行されたもので、執筆者の住所を見ると秋田県になっている。埼玉に縁があったという話は聞いたことがない。

一昨日イベントの打ち上げの席で、久谷さんから森原さんの名前が出た。わたしの知らないいくつかのエピソードを聞きながら、彼女によくしてもらったのに気づかないでいたことを思い出した。口の悪いひとで会えばお説教だったけれど、今考えてみればいつも笑顔混じりだった。『わたしにできること』を出したとき「鉱脈を見つけたわね」と言ってくれた。彼女の詩について書こうとして中断したままになっている。

そこに森原さんの詩が突然現れたのだった。他の詩人は縦書きなのに、ひとり横書きになっている。「煙についてのバラード」「公園」という短い詩を書き写して来た。すでにこのとき独自のスタイルをもっていたことに驚かされる。輪郭のはっきりしたモダニズムの詩である。


11月12日(日)

所沢図書館で『はじまりの詩、詩のはじまり』のイベント。松本邦吉さん、久谷雉さんと一緒に朗読とトーク。これを読んで詩を書こうと思った詩や転機になった詩をそれぞれ5篇あげて、それについて話す。

松本さんが中原中也「汚れつちまつた悲しみに・・・」、田村隆一「帰途」、嵯峨信之「詩はどこを・・・」、西脇順三郎「二人は歩いた」、ジュゼッペ・ウンガレッティ「時は沈黙した」。久谷さんは吉野弘「眼・空・恋」、伊藤比呂美「雪」、大木淳夫「風・光・木の葉」、望月遊馬「汽船とやぐら」、菅原克己「朝の手紙」。わたしはポール・ヴェルレーヌ「空は屋根の彼方で」、西脇順三郎「秋」、萩原朔太郎「新前橋駅」、鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」、福間健二「急にたどりついてしまう」。

それから教科書で読んだ詩や俳句のことなど。質問も出て予定を30分オーバー。地域の方のほかに詩人の高田昭子さん、桐田真輔さん、田中庸介さん、手塚敦史さん、本多明さんが来てくださる。しどろもどろの話を聞いてくださって、ありがとうございます。


11月10日(金)

先月観た個展の写真をアップしようと何度も試みたのだけれどなぜかうまくいかないので、写真抜きで書いてみる。絵について文章を書くのはむずかしいことだと思うけれど。

宮崎眞弓さんの「海響」と題した展覧会。海を愛して横須賀に転居した画家は、海をモチーフにした抽象画を描きつづけている。たとえば「龍宮の庭で」は、海の夜をあらわす青、朝夕の光りを思わせる赤の二枚から成る。水のうねりが光の粒になって輝く幻想的な美しさをもった作品である。宮崎さんはスキューバダイビングが趣味という。海中の美がわたしたちの眼前に広がっている。

カンヴァスに油絵の具。ザラついた質感を出すために、ストーンマチエール(方解石)とネオマチエール(砂粒状のもの)を用い、ツヤ消しのオイルを使ってマットに仕上げているとのこと。わたしはルオーやフォートリエのような厚塗りの絵が好きである。彼らの絵に通じる確かな質感があると思った。

小さいころから海が怖かった。叔父の一人が波にさらわれて遺体も見つからなかったという話を聞いたときから恐怖になった。祖母は新興宗教に走り、それ以後一族の結束が異様に堅いものになったらしい。海の底に足をつけるのは気味悪いことだったし、波をかぶると苦しかった。何度か千葉に住む親戚の家に行った。海はいいものだとは誰も言わなかった。今でもただ眺めるのがいいと思っている。

宮崎さんは海に呼ばれたひとである。小学校のときからの友人だが、スケールの大きさが級友たちとはまったく違った。一人で浦賀に移り住み、5年ごとに個展をひらいている。彼女の海はその身体から生み出され、温かく呼吸しているようにみえた。


11月9日(木)

12日(日)に所沢図書館でイベント『はじまりの詩、詩のはじまり』があります。出演は松本邦吉、久谷雉、須永。14時〜16時。まだ空きがありますので、ぜひいらしてください。

それから12月13日(水)に、六本木のストライプハウスでリーディングをやります。19時〜20時。一人でやるのは初めてです。忘年会の予定を入れないで、足を運んでくださいね。


11月7日(火)

『ランド・オブ・プレンティ』をもう一度観た。途中でうとうとして見逃した部分がやっと最後につながった。ベトナム帰還兵のポールは、アメリカを守ろうと街を監視している。車に機材を積み、トランシーバーで仲間と連絡を取る。あきらかにどこか狂っている。

中東のホームレスが銃殺され、テロリストの仕業だと思いこむ。男は怪しげな段ボールを運んでいたから、それが関係しているに違いないと思う。遺体を家族に届けるついでに男の周辺を調べ、段ボールが積まれた家に突入するが、寝たきりの老女がいるだけだった。遺族から中身は絨毯の洗剤だと聞き、行きずりの不良少年による犯行だとわかって、ポールは目が覚める。俺のしてきたことは何だったのかと。それから二人はニューヨークに向かい、ビルの谷間に広がるグラウンド・ゼロを眺めるのだ。ポールが愛し、守ろうとした誇り高いアメリカという国。グラウンド・ゼロの光景は、昨年わたしが見たときの状態に近い。何も知らなければ工事現場にみえる。

書棚から『天使のまなざし ヴィム・ヴェンダース、映画を語る』(フィルムアート社)を取り出して読む。


11月4日(土)

ヴィム・ヴェンダース監督の『ランド・オブ・プレンティ』をビデオで観る。亡き母の手紙を叔父に届けるため、10年ぶりにテルアビブからアメリカにやってきた20歳のラナ。黒い髪と黒い瞳の『アメリ』のオドレィ・トトゥに似たミシェル・ウィリアムズという女優さんが演じている。ラナはロサンジェルスの伝導所でホームレスの支援活動をしながら叔父をさがす。叔父ポールはベトナム戦争のトラウマを抱える愛国者。このシチュエイションにドイツ人であるヴェンダースのクールなまなざしを感じた。

アラブ系のホームレスが殺された現場に居合わせた二人はやっと再会し、ホームレスの遺体を家族にとどけるためにアメリカ横断の旅に出る。ここからロードムービーが始まる。砂漠をひたすら走る車。16日という短期間にハンディカメラで撮影したという作品である。映像はクリアでとても美しい。最後に二人はニューヨークでビルの上からグラウンド・ゼロを見る。「もっと迫ってくるかと思った」とポールが言う。このときグラウンド・ゼロは遠景になっている。

「僕は声をあげて祈る この豊かな国の光が いつの日か真実を照らし出しますように」。随所で流れるレナード・コーエンの「ランド・オブ・プレンティ」は、ヴェンダースのアメリカへの思いのようである。


11月3日(金)

所沢出身の詩人、田中佐知さんについて資料をお持ちの方がいらしたら、お知らせください。2004年に癌のため亡くなられたとのことです。詩誌『ハリー』に所属。詩集『見つめることは愛』『MIRAGE』『砂の記憶』『詩人の言霊』『樹詩林』。先月、新所沢で佐知さんの詩の朗読会が催されました。よろしくお願いいたします。


10月30日(月)

先週の土曜日、図書館でイベントの打ち合わせがあった。松本邦吉さん、久谷雉さん、司書の方二人も詩をよく読まれていて、詩の話で盛り上がる。好きな詩について話すのは何て幸せなことだろうと思いながら、初めて聞く俳人、詩人の名前をひそかにチェック。ポエトリージャパンに望月遊馬さんの詩集『海の大公園』を注文した。

金曜日は池袋で二人の詩人と会った。もちろん詩の話をしたのだった。そんなわけでテンションが上がり、きょうは朝からずっと詩を書いている。


10月26日(木)

渋谷のLEDECOで鈴木志郎康さんと石井茂さんの写真展を観る。志郎康さんの「近所」、石井さんの「遠方」。近所の魚眼写真を見て、自分が実際にそこに立っているような感覚に陥った。「桜のある家」の横に路地があり、それが奥に続いていく風景にとても惹かれた。街なかを歩くとき、わたしは家と家、建物と建物のあいだをよくのぞく。飛び石があったり、長靴や傘が干してあったり、苔むしていたりするのを見るのは楽しい。「すだれのある家」は木造の、昭和30年代を思い出させてくれる懐かしい家屋。不思議な場所、二つの道が鋭角に交わるところに建っているようにみえた。

志郎康さんに代々木上原のお家のことを伺って、東京は丘陵だったという話に驚く。そういえば小学校のときに教わったようなおぼろげな記憶がある。また代々木上原のお家、写真や詩の話をした。たくさんの刺激を受けて帰宅する。


10月24日(火)

FMチャッピーのパーソナリティ安田佳代さんがご自身のブログに11月12日(土)に行われる「はじまりの詩、詩のはじまり」(所沢市立図書館まつりプレイベント)の詳細について書いてくださいました。ラジオは初めての経験。やっぱり緊張しました。安田さんが『雨期』47号に書いた「時の扉」の感想を言ってくださったのがうれしかったです。

銀座へ。友人の個展を観てから嵐のなか京橋まで歩き、ギャラリー東京ユマニテで白石かずこさんの朗読会。抒情文芸の30周年記念会で初めて個人的にお話をした。高校のころの宝物の一つが白石さんの『1セントの花びら』という本。おしゃれな装丁で、黒人の男の子やゲイの中年などが出てくる、ちょっと危険な匂いのする童話集だった。そのことを伝えて、朗読会のことをおしえてもらった。

ギャラリーのまっ白な空間。床に座って聞く。白石さんは赤いコート姿。ベネズエラの詩フェスティバル、ネルーダの家、三島由紀夫などのことを熱っぽく楽しげに話され、巻紙に書いた詩を読まれた。ときどき八木忠栄さんに呼びかけをなさって、アットホームな雰囲気だった。今苦しんで書いている詩があるのだけれど、何とかうまくいくだろうという気がしてきた。


10月23日(月)

FMチャッピーのインタビュー番組に出ます。77.7MHz、埼玉西部地域と東京多摩北部地域の
コミュニティ放送ですので、一部の方しか聞くことができないと思いますが、
もし車中などでキャッチすることができましたらわたしの話を聞いてくださいね。
午後6時からの「キーウーマン」という番組です。

「アスター(洋菊)」の花。藤色の花束のなかに薄い色のものが
混じっていることがあり、野の花のように可憐である。
週に一度花を買う。白いトルコ桔梗とアスターが多い。


10月21日(土)

神楽坂で『抒情文芸』30周年記念会。川瀬理香子さんは20代でこの雑誌を創刊されたと聞いて驚く。30年の間にたくさんの卒業生を世に出した功績は大きいと思う。おめでとうございます。35周年も楽しみにしています。

白石かずこさん、中上哲夫さん、清水哲男さん、金井雄二さん、海埜今日子さん、川口晴美さん、田之倉康一さん、片岡直子さん、望月苑巳さん、高木秋尾さん、高貝弘也さん、『詩学』で作品を見ていた中村英俊さん、うにまるさんと話をすることができた。いい会でした。


10月20日(金)

うまく詩が書けなくて胃がきりきりしている。そういうときにはどうするか。ひたすら書くしかない。きっと光が見えてくると信じること。

里芋入りのクリームシチューを作る。冷蔵庫にあった白いアスパラガスも入れた。まっ白なシチューもおいしいものです。

明日は『抒情文芸』の30周年記念パーティに行く予定。『抒情文芸』は季刊の文芸投稿誌で、編集発行人の川瀬理香子さんは優しい校長先生のような方。ここを卒業した多くの詩人・俳人が全国から集まって、いつもアットホームな雰囲気です。見かけたら声をかけてくださいね。


10月17日(火)

来週、地元のFMチャッピィというラジオ局のインタビュー番組に出ることになった。地域で活動する女性に話を聞くという番組。一度聞いてみようと思った。けれど何ということか電波が入らない。隣町に住むひとに聞いても入らないという。うーん。

中島義道の『カイン』読了。他人と歩調を合わせることができず、生きにくいと感じているひとにお薦めです。わたしも少し元気が出て来ました。


10月14日(土)

ジム・ジャームッシュの『コーヒー&シガレッツ』をビデオで観る。楽しみにしていたのだけれど、ちょっと退屈だった。モノクロの掌編集といった内容。ジャームッシュ映画の常連であるロベルト・ベニーニやトム・ウェイツ、他にビル・マーレイなどが出ていて豪華キャスト。どの話にもあまりストーリーがなく盛り上がらない。みんなあまりおいしそうにコーヒーを飲んでいないようにみえる。そこがわたしには不満だった。


10月12日(木)

問題は何も解決していないけれど、ようやく気持ちがふっきれて、顔を上げて歩くことができるようになった。中島義道の『カイン』(新潮文庫)を読んでいる。「自分の弱さに悩むきみへ」というサブタイトルに惹かれて。いかに生きるかという内容のものには例外なく吸い寄せられてしまう。自分の選択や行動にいまだに自信が持てない。

午後1時から4時まで図書館の会議。イベントまであと1か月。夕食にジェノベーゼ・ペーストを作る。バジルの葉、松の実、ニンニクとオリーブオイル摺って粉チーズを加えるだけ。濃厚なおいしいソース。最近よく作る。ポイントをためてもらったブレンダーを使えばすぐにできるのだけれど、あの音が苦手。時間がかかっても擂り鉢のほうが断然いい。

昔、コーヒーを注文すると松の実がついてくる喫茶店がありました。


10月9日(月)

石関善治郎さんの『吉本隆明の東京』(作品社)を読み始める。「住居が語る生活者の原像!」と帯にあるように、吉本さんが住んだ家とその界隈をくまなく歩いて、著書と照らし合わせてくれる。ファンにはたまらない。ちょっとの暇を見つけて開いています。

もう一冊、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳・早川書房)を読んでいるところ。ミステリアスです。介護人キャシーが、ヘールシャムという施設で過ごした過去を語るというかたちをとっている。どんな施設であるのか、なかなか明かされない。この作家独特のていねいな文章、スローな展開。どきどきしながら読んでいる。


10月8日(日)

埼玉県立近代美術館へ。「美術館は白亜紀の夢を見る」という企画展を観る。博物館と美術館の境目が曖昧になっているということで、化石や歴史資料、生活用具に混じって絵画が展示されているのだが、コンセプトがよくわからない。実用のために作られたモノのほうが絵よりも美しくみえる。

そのなかで草間弥生の「T2」はすごい磁力を発していた。黒く塗られたカンバスに白い丸があり、鹿の子のような模様が描かれている。その色彩感覚、計算された構図に釘付けになった。また常設展の母袋俊也のいくつかの作品には同時代を感じるものがあった。窓がキーワードの画家らしく、風通しのよさを思わせる大きな絵である。


10月7日(土)

改めてお知らせです。11月12日(日)、午後2時から所沢市立図書館で「はじまりの詩、詩のはじまり」と題した朗読とトークセッションがあります。出演は松本邦吉・久谷 雉・須永紀子。所沢在住の3人の詩人が、どんな詩を読んで詩を書こうと思ったか、詩人になろうと考えたかについてトークをします。ぜひ足をお運びください。

定員60名。無料。申込みは所沢図書館・微笑(04-2995-6311)まで。これは11月18日(土)・19日(日)にひらかれる「図書館まつり」のプレイベントです。

図書館のある航空公園内には航空発祥記念館があり、セスナ機や軍用ヘリコプターが展示されている。ジャンボジェット機とヘリコプターのフライト・シュミレーターもできます。ショップには宇宙食や模型飛行機、機内食用の食器など飛行機関係のグッズがたくさん。


10月6日(金)

この夏に連句の先生である佛渕健悟さんから『十七季』(東 明雅・丹下博之・佛渕健悟編著・三省堂)をいただいた。歳時記や連句の本を何冊も買ったけれど、この本があれば他はいらないと思った。これから俳句や連句を始めようという方に超おすすめです。横長のハンディなサイズで、季語の分類表と五十音順季語事典。連句概説も載っている。

連句の掲示板に投稿してみたいのだけれど、まだそのレベルではない。一年もやっているのに下手である。これはもう数を作るしかない。掲示板から発句を借りて、一人で連句をやってみようと思い立った。無謀ですよね。


10月4日(水)

昨年から悲しいことが次々と起こって一向に止まず、精神的に参っている。ふだんの表情が暗いと家族に言われ、自分でもそう思う。おめでたくできているわたしも人生は苦であるということがやっとわかった。楽しみは猫を撫でたり(耳の後ろに特別な毛並みの部分があって気持ちがいい)、コーヒーを飲むわずかな時間。ああ暗いなあ。

吉本隆明の『甦るヴェイユ』(洋泉社)を読み始める。


10月2日(月)

ポエトリージャパンのトップページに「橋の上で」という詩を書きました。読んでくださるとうれしいです。


10月1日(日)

光が丘の熱帯植物園へ行く。510uの小さな温室で、手入れが行き届いている。天井まで伸びたマンゴーやタビビトノキ、ドリアンやパパイヤ、バナナの明るい緑。南国風の四阿と小さな流れもある。本物のジャングルに行きたいとは思わないけれど、熱帯植物園は好きです。

青いパパイヤを買った。スライサーがないのでふつうに千切りにする。サラダにするには青臭くて堅い。で、むきえびや長ネギと一緒に炒めて塩胡椒、ナンプラーで味つけをした。クセがなくほのかな甘みがあって、ジャガイモみたい。


9月30日(土)

『罪と罰』読了。やはりすごい傑作でした。ラスコーリニコフの心理の変化、ペテルブルグの街の様子、娼婦にして聖女ソーニャのひたむきな愛、予審判事ポルフィーリイとの犯罪を巡る議論、謎の男スヴィドリガイロフ。ポール・オースターはこれを読んで、小説家になろうと決めたのだという。確かにこの作品には、小説のほとんどすべての要素が含まれているのだろう。若いときに読んでもわからなかったかもしれない。この年になったから理解できたのだと思う。次は『カラマーゾフの兄弟』です。


9月28日(木)

某料理サイトに出ていた「鶏手羽の煮物」を作ってみたら、久々のヒット。鶏手羽は先でも元でもいいけれど、中(スペアリブと表示してある)がいちばん扱いやすいし食べやすいと思う。これに小麦粉をうっすらふりかけて、フライパンで焼く。ここに潰したニンニクと酢、しょうゆ、水、砂糖をほんの少し入れて、ゆで卵と一緒に煮るだけ。簡単で美味しい。分量を知りたい方はメールください。


9月27日(水)

『生き事』2号(阿部恭久・松下育男)と手塚敦史さんの詩集『数奇な木立ち』(思潮社)を読む。松下さんの「国語」は日本語をじっくり考察して書かれた詩。わたしなど詩も生きかたもまだまだ甘いと思い知らされた。

手塚さんの詩は初めて読んだ。日本の戦後詩以降の詩をしっかり学習しつつ(きっと)、軽々とそれらを解体し、新しい詩の世界を構築していると思った。優れた言語感覚と構成力。ちょっと興奮しました。


9月25日(月)

パソコンの調子が悪い。いつのまにか設定が解除されてしまって、「英文大文字」が固定になったままだし、会員制の掲示板に入ることができない。IDとパスワードを再発行したのだけれど、何度やっても認証されない。メカに弱いわたしも、こちらの問題ではないとわかる。どうしたものか。閉め出されたみたいで淋しい夜です。


9月24日(日)

これからフリマで売り子をやる。場所は航空公園。図書館まつりの費用を捻出するため。前回は隣が若いグループで、アパレルメーカーの在庫品のようにきれいなものを並べていて、繁盛するのを横目で見ていた。靴には布のシューズキーパーが入っていたし、Tシャツはたたんでショップのようにディスプレイされていたのだった。そんなことがないように、とりあえず売れ残りがないといいなあ。

天気がよいので人出があり、9時から1時半までにほとんどのものが売れた。今回は犬小屋やペット用キャリーバッグなども出したが、それらも完売。思いのほか本が人気。他に扱うところがないからだろう。3万円ほどの売り上げになった。


9月19日(水)

メールアドレスが変わった。迷惑メールが毎日100通を越えるようになったので変更しました。

『罪と罰』は継続して読んでいる。アイロンが熱くなるまでの短い時間や寝る前。全編が山場といってもいい緊張感があるので、まとめて読むと毒気に当てられたみたいになる。女性は天使か因業婆の二種類しかいないように書かれているのが面白いと思う。


9月18日(月)

先週買ったカーネーションの色が変わった。
ちょっと地味なクリーム色だったのが、いくつかは黄緑色に他は肌色になった。
とても不思議。でも黄緑の花はきれいです。


9月14日(木)

グレイス・ペイリー『最後の瞬間のすごく大きな変化』を読み終える。輪郭のはっきりした小説といったらいいだろうか。最初の「必要な物」の他は歯が立たないという感じ。ユダヤ的な文化や生活を知らないからだろうかと思った。フェイスという中年女性が出てくる作品がいくつかあるけれど、家族のつながりかたが独特で、よく理解できない。「リトル・ガール」はレイプ事件を扱ったもの。容赦なく残酷で悲惨である。女性作家が書いたとは思えない。フェミニストにして社会運動家のペイリーならではの短篇だと思う。

最近読んだ吉本ばななの『デッドエンドの思い出』(文春文庫)も違う意味で小説らしくない短編小説集だった。しっとりした描写というものがなくストーリーだけ。好きな作家だけれど、このひとは推敲というものをしているのかなあといつも思う。


9月12日(火)

ポエトリージャパンのトップページに「あなたを待つあいだ」という詩を書いています。『交野が原』61号に山口眞理子さんの『深川』の詩集評を書きました。


9月11日(月)

早朝、先週からかかっている歯科医院から電話があって、先生が亡くなったので他で治療してくださいというので驚く。金曜日にはお元気だった。五十半ばくらいで、ちょっと詩人の長尾高広さんに似ている。冗談まじりに「神の手だったらすぐに治せるんですけどね」とおっしゃったけれど、歯の状態と治療法をきちんと説明してくれるので、安心してお任せすることができた。明日3回目の治療をする予定だったのに、信じられない。

テレビで9・11追悼式典のニュースを見る。この5年で世界は大きく変わってしまった。今夜は特別番組を見る予定。布村浩一さんが薦めてくれた『ユナイテッド93』もぜひ観たいと思っている。


9月9日(土)

ずっと観たいと思っていたヴィム・ヴェンダースの初期の作品『都会のアリス』をビデオで観る。1973年制作のモノクロ映画。ドイツ人のジャーナリスト、フィリップはアメリカを旅してレポートを書こうとしているがうまくいかない。車で移動しモーテルに泊まって1ヶ月、彼はドイツに帰る決意をする。

フィリップはアメリカに幻滅し、自分に愛想を尽かしている。ヴェンダースはドイツ人である。ヨーロッパの監督が撮るアメリカはアメリカの大らかさや明るさがなく、哀愁を帯びてみえるのはなぜだろう。

フィリップは空港でオランダ人の母娘と知り合いになり、なりゆきで9歳のアリスをアムステルダムに連れて行くことになる。アリスは31歳独身のフィリップを頼り、父娘のような恋人のような親密な感情が二人の間に芽生える。アムステルダムでもまた、祖母の家を車で探す旅が始まる。何かを探しもとめるというのがヴェンダース映画のテーマだと思う。フィリップは自分自身を、夢が現実になるのを、アリスは家族を。

親の事情に振りまわされて年よりも大人びたアリスとの時間がフィリップに生きる意欲をもたらす。希望のみえるラスト、アメリカの砂漠、ニューヨーク、アムステルダム、あてどない車の旅。やっぱりヴェンダースはいい。

9月6日(水)

『雨期』47号の発送がほぼ終わる。お読みになりたい方はお気軽にメールください。

グレイス・ペイリーの『最後の瞬間のすごく大きな変化』(村上春樹訳・文春文庫)を再読している。前にはしっくりこなかったけれど、今回はうまく入っていけそうな気がする。読みやすいとはいえない。凡庸な表現を嫌う作家である。各短篇の主人公はひねくれたところのある中年女性。わたしみたいだ。

最初の「必要な物」は27年暮らして別れた夫と偶然会って、立話をするという短篇。「私」は18年間借りっぱなしだった本を返しに図書館に行くところ。苦いシチュエイションですね。

ペイリーは1922年ブロンクス生まれで、両親はユダヤ系の移民。ブロンクス出身の小説家、それだけでも興味津々です。


9月2日(土)

ヴェンダースの『パリ・テキサス』をビデオで観る。1984年の作品。十数年前に観たときは冗長な映画だと思った。今回はそういうことを感じなかった。テンポは悪くない。ただ、トラヴィス(ハリー・ディーン・スタントン)がミラールーム(客には女の姿が見えて、鏡越しに話ができるようになっている個室)で元妻のジェーン(ナスターシャ・キンスキー)に向かって、昔のことを話すシーンは説明が過ぎると思った。

でもテキサスの砂漠と無機質なヒューストンの街が今回も目に焼き付いた。罪を償うように線路の上を歩くトラヴィス。『バグダッド・カフェ』とよく似た風景が広がっている。ライ・クーダーの音楽も耳から離れない。物悲しいアコースティック・ギターです。


8月31日(木)

『雨期』47号ができました。執筆者は古内美也子、荻悦子、原口哲也、佳運、北野英昭、須永。アンケートは「わたしの昭和」です。年代が近いので内容が重なるところもありますが、結構楽しめるのではと思います。

昭和記念公園へ。夏の終わりなので人が少なく店もしまっていて淋しい。「サギソウまつり」の最終日で、白鷺に似た可憐な花を見ることができた。明日にはすべて抜いてしまうのだそう。セミやカナヘビ、バッタとセミの抜け殻も見た。


8月28日(月)

ヴィム・ヴェンダース監督の『アメリカ、家族のいる風景』をビデオで観る。ヴェンダースはやっぱりいいなあと思う。テンポや抑制のきいた台詞など、馴染んだもののようにすんなり入ってきた。

脚本と主演はサム・シェパード。渋いです。映画スターだった男ハワードが、30年ぶりでネバダ州の故郷に帰り、自分に子どもがいることを知らされて子どもを捜す旅に出る。砂漠のなかの道路を疾走する一台の車。こういうシーンがたまりません。『パリ・テキサス』もそうだった。やはりシェパードの脚本でした。

心当たりがあってモンタナでウェイトレスをしているドリーン(ジェシカ・ラング)と再会し、その息子アルに父であることを告白するが拒絶される。もう一人、彼の娘と名のる若い女スカイがいる。母のものらしい青い骨壺を抱え、娘は付かず離れずハワードの後についてくる。アルとスカイは異母姉弟ということらしいが、そのあたりは曖昧なままで、それが救いでもある。スカイは『ベルリン、天使の詩』の天使のような存在だと思った。モンタナの閑散とした町並みはホッパーの絵に似ている。


8月27日(日)

ふじみ野にある「リズム」に行く。日本初のアウトレットモールというのに人が少ない。全長220mのプロムナードのある開放的な空間。アメリカ風のモールで、ニューヨークのシ-ポートに似ている。食料品売り場は閑散としていた。40店舗プラス期間限定ショップはなかなかの品揃えでしかも安い。でもこの地域はモールとまではいかないショッピングセンターがやたらと多い。スーパーマーケットとホームセンター、ドラッグストア、ビデオ店などが集まったものが、半径1キロの間に3つも4つもあって、どこも客足は今ひとつという感じなのである。

『罪と罰』(工藤精一郎訳・新潮文庫)。退屈なところが一つもない。夏休みの読書にぴったり。寝食を忘れてしまうくらいおもしろい。先の展開が読めないのもすごい。きっとわたしの想像力が足りないのだと思うけれど。

8月23日(水)

『雨期』47号の入稿を終えた。何とか今月中にできあがりそうでほっとする。昨日は図書館の会議。その前はテレビで高校野球。すばらしい試合でした。観てよかった。涙、涙です。

このところ寝る前に読んでいるのは『罪と罰』。ラスコーリニコフの意識と行動の克明な描写にどきどきしている。


8月19日(土)

図書館の会議。11月に開催される図書館まつりのプレイベントとして、1週間前に詩の朗読とトークをする企画を立てた。所沢在住の詩人である松本邦吉さんと久谷雉さんにお願いすることにして、きょうは初打ち合わせ。わたしは司会進行を担当するつもりだったのだけれど、お二人の話に加わることになりました。

所沢市のひとだけでなく、文学に興味のあるひとにたくさん来てもらいたいと計画しています。11月12日(日)午後2時より所沢市立図書館にて。西武新宿線の航空公園下車3分。興味のある方は今から予定に入れておいてくださいね。もちろん無料です。

天童荒太の『包帯クラブ』読了。高校生たちが、それぞれの心の傷を和らげようと、悲しい思いをした場所やモノに包帯を巻くアクションを起こすという話。高校時代はもう遠い昔だから今ひとつ寄り添えないところがあるのだけれど、現役の中高生たちにぜひ読んでもらいたいと思う。


8月16日(水)

竹橋で『モダン・パラダイス展』を観る。東京国立近代美術館と大原美術館の名作コレクションが5つのセクションに分けて100点ほど展示されている。フォートリエの「雨」。パレット・ナイフで厚塗りされているのがよくわかる。下地は石膏だそう。繊細な島の緑色。ナイフの先で引っかいた銀色の雨。本物を観ることができて感激。大好きなルオーやロスコの絵もあった。表面が盛り上がったような厚塗りの絵が好きである。

お盆なので電車も美術館も空いていた。ところで竹橋の駅の地下にある飲食店街はとてもレトロ。ども店も昭和の雰囲気が濃厚で、昭和のサラリーマンがたむろしているようにみえた。


8月13日(日)

85になる義父が川柳を始めた。透析を受けているあいだ暇なので作ってみる気になったそう。腎臓病患者の冊子に載るという。呆けないための読み書きドリルもやっているらしい。呆けつつある義母に代わって家事一切をこなす。よく食べよくしゃべり頭も今のところしっかりしている。

スケッチブックに几帳面に書かれた川柳は、大好きな野球と透析の苦しさ、年をとって人の善意が心にしみるという内容のものが多かった。病を抱えた身体で新しいことを始める気力があれば、まだまだだいじょうぶだろう。

車中でドストエフスキーの『罪と罰』。夏休みの宿題のようにせっせと読んでいる。


8月11日(金)

小手指まで歩く。30分炎天下を歩くと身体が絞られたよう。近場の買い物は、自転車にも車にも乗らないで歩くようにしている。考え事をするのによいのだが、さすがに暑いときは頭が働きませんね。

8月15日から竹橋の国立近代美術館で「モダン・パラダイス展」が開催されるという。大原美術館と共催で、フォートリエの絵も入っているそうで、今からわくわくしています。「雨」(きっとこれ)の前でぼうっとしてしまうだろう。

お盆なので明日は北関東の街へ行きます。


8月8日(火)

世界をどう見るかということに興味がある。瀬尾育生さんの詩集は、瀬尾さんが世界をどう見ているかということが書かれていると思う。世界を読み解く方法を知りたい。どんな視点、どんな位置で世界を眺めればいいのか。『アンユナイテッド・ネイションズ』はそのためのヒントを教えてくれるような気がしている。


8月6日(日)

瀬尾育生さんの詩集『アンユナイテッド・ネイションズ』(思潮社)を読んでいる。一行読むごとに思考することをうながしてくれる。散文詩と思想の散文。今までにない新しいスタイルで書かれた詩集だと思う。

とうもろこしは電子レンジを使えばおいしく食べられると聞いてやってみた。葉が付いたまま3分ほどチンする。かすかに緑の香が残って、鍋でゆでるよりもおいしかった。お試しください。


8月4日(金)

書きかけの詩がうまくいかなくて毎日堂々巡りをしている。中島義道の『哲学の道場』を再読しながら書いては消している。できあがったら『雨期』47号の編集作業にかかる予定。

最近車中で読んでいるのは天童荒太の『包帯クラブ』。詩誌『junction』で草野信子さんと柴田三吉さんが書いていらした。天童さんは所沢在住の作家。


8月1日(火)

少し涼しいので図書館まで30分ほど歩いたら目眩がしてきた。それでもめげずに歩いて帰り、倒れるように眠ってしまう。身体というのは柔なものだと思う。わたしのが特に柔なのか。

先月読んでメモしておこうと思ったのに忘れてしまった文章を図書館で確かめる。『柴田元幸と9人の作家たち』(アルク)で村上春樹が語っていたこと。「戦争後に生まれたから戦争のことは知らないというのではなく、わたしたちの集合的記憶にチャンネルを通してつながって、それなりの責任を引き受けなければならない」

そのとおりだと思う。村上春樹の書くものが支持されるのは、こういう姿勢を崩さないからに違いない。


7月30日(日)

先日清澄庭園の涼亭で行った歌仙「笹舟の」をアップしました。ご用とお急ぎでない方は見ていってください。ちなみに由旬がわたしです。ひどい句で恥ずかしいのですが、全体の流れを楽しんでいただければ幸いです。


7月26日(水)

きょうはハガキを書くと決めて、礼状を2通と短い手紙を2通書く。それから短い詩を1つ。その後スーザン・ソンタグ『良心の領界』(NTT出版)を読む。2002年に東京で開かれたしんぽじうむ「この時代に想うー共感と相克」。

司会は浅田彰、パネリストは磯崎新、姜尚中、木幡和枝、田中康夫。ソンタグはたくさんの重要な発言をしている。なかでも印象に残ったのは、彼女がしょうちゅう外国に行くのは「外側からアメリカ合衆国がどういう姿に見えるか、その姿を自分に叩き込むため」ということば、そして「孤独は連帯を制限する。連帯は孤独を堕落させる」。

ソンタグは行動する知識人である。ボスニア・ヘルツェゴビナの内戦が続いていた1993年にサラエヴォに行き、『ゴドーを待ちながら』を演出する。最初は封鎖されたサラエヴォで何かを教えたり病院の仕事を手伝いたいと考えていたのだが、現地の知り合いは芝居を演出してほしいと言う

「我々はたんなる動物ではない。水の配給やパンを求めて長い列に並び、銃撃され、地下に隠れ、殺され・・・それだけじゃないんだ。ここにも何らかの芸術活動があるべきだ、それが自分たちの尊厳を支えてくれる」。

いい話だ。芸術は精神世界を希望で満たしてくれる。どんなに現実生活が悲惨であっても。


7月23日(日)

バーバラ・ピムの『秋の四重奏』(小野寺健訳・みすず書房)を毎日少しずつ読んでいる。古風でシニカルな訳にだんだん慣れてきた。四人の男女が主人公。同じ会社の同僚で定年が近く、そろって一人暮らし。趣味も特別な魅力もないひとたちの日常を淡々と描いていて、不思議な味わいがある。

年を取るというのはこういうことなのかと思う。1977年の作品。30年も前に六十台を主人公にした小説を書いていたなんて先見の明があったと思う。現在では老人と呼ぶには早すぎるけれど、老いが大きな関心事になる世代であることは間違いないだろう。


7月21日(金)

『るしおる』(書肆山田)61号に「囲繞地にて」という詩を書いています。書店にはまだ並んでいないかもしれませんが、見かけたら手に取ってみてください。

拙詩集『中空前夜』(書肆山田)は在庫切れ返品待ちだそうですが、ポエトリージャパンで買うことができます。読んでみたいと思われる方はぜひそちらにご注文ください。


7月18日(火)

清澄庭園の涼亭(りょうてい)へ。池に突き出した数寄屋造りの家屋。雨に濡れた日本庭園は何とも風雅。そこで「座」を設けて歌仙を巻くというので、末席に加えてもらった。その場で句をつけるのはまだ到底無理である。

固辞したのだが、二句も付ける羽目に。捌きの健悟さんにアドバイスをいただいて何とか句らしいものになった。短冊に書いて出した複数の句から、捌きが一つを選ぶ。文音で連句をしていた方々に初めてお会いすることができた。

持ち寄ったワインや紹興酒を飲み雑談をしながら、5時間かかって巻き終えた。とても楽しかった。こういっていいのかどうかわからないけれど、わたしにとっては真剣な遊びです。一巻は後日公開したいと思います。


7月16日(土)

神奈川県立美術館へ。ジャコメッティの展覧会を観る。逗子までは2時間半。ちょっとした旅行気分。バスの窓から海がみえた。波、岩場、海岸線。小さいころに見た外房の海に似ていると思った。

正面を向いたひとの上半身のスケッチが多い。どれも同じ表情で塗りつぶされているものもある。彫刻もまた胸像が多く、長い顔と細長い首をしている。全身像は例外なく手足が長い。そしてすべてが未完成のままに残された作品。ひとつの形を追求して、うまくいかず絶望し、それでも作ることをやめなかった画家の姿勢に胸を衝かれる思いがした。


7月14日(金)

図書館へ。日曜日にフリーマーケットに参加するため、持ち寄った不用品の値付けをする。11月に開催される「図書館まつり」の費用を捻出しようというのである。このイベントは元々は図書館側の要請によるものだけれど、「実行委員会」という組織を別に作って、企画運営している。目玉はクラシックのLPレコード。午前中に売り切ってしまいたいと思っている。

帰りにスーザン・ソンタグの『良心の領界』(NTT出版)を借りてくる。2002年に東京で行われたシンポジウムの記録のほか、講演やインタビューが収められている。ソンタグが世界をどう見ていたか、とても興味がある。9・11後に出したコメント(アメリカ中の非難を浴びた)や文学の自由と翻訳について、自分のことばで誠実に語っている。


7月12日(水)

テレビで『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』(1994年)を観る。ブラッド・ピット、トム・クルーズ主演。監督はニール・ジョーダン。原作&脚本はホラー作家アン・ライス。奇妙な映画。昼間からずるずる観てしまった。

ジャーナリストのマロイ(クリスチャン・スレーター)がニューヨークで見かけてインタビューを申し込んだ美青年ルイ(ピット)はヴァンパイアだった。ルイは自分がなぜヴァンパイアになったか語りはじめ、マロイはその話にのめり込んでいく。ルイをヴァンパイアにしたレスタト(クルーズ)が薄気味悪い。人間を殺せず、動物の血を吸うルイのために仲間に加えた少女クラウデイアも不気味。『スパイダーマン』の恋人役のキルスティン・ダンストが演じている。ホラー映画にぴったりかも。他にアントニオ・ヴァンデラス。豪華キャストです。

妻を亡くして自棄になった24のルイは、ヴァンパイアになってもピュアな人間らしい心を失わずに少女を護ろうとする。きらびやかな貴族風の衣装、1914年のニューオリンズ、パリ。ピットの美しさを見るために作られたような映画だと思います。


7月11日(火)

これから書くべき詩が見えてきたような気がしている。今まで自分の詩がどこにも属していないのではないかという心許なさがあった。やっと迷いが消えたと思う。『雨期』47号を8月に発行して、その後に何をするか考えなければ。

『僕はマゼランと旅した』の「ケ・キエレス」がよい。行き当たりばったりに生きるミックの話。「ケ・キエレス」は「お前、何の用だ?」という意味のブラジル語(だと思う)。各短篇の主人公はみんなどこかで繋がっている。ダイベックならではの凝った構成。ていねいにきっちり書く作家なので、短篇という感じがしない。

このタイトルいいなあ。夏休みだから、またポルトガル語の勉強をしようと思っています。


7月8日(土)

両国のシアターχで、二瓶龍彦さん演出のPfilia Projectの公演『HUMAN BABY』を観る。はっきりしたストーリーはない。6人の役者さんが踊り動き、ときに声を発するパフォーマンス。昨年は従軍慰安婦がテーマだった。今回は「広島・長崎、水俣、そしてイラクまで、生み出されつづける生命の形に、そっと身体を重ねる」というもの。

はじめは片手に巻いている包帯を、目隠しにすることで傷や人質が表現される。たとえば立って身体を倒し、起きあがるという動きを何度も何度も繰り返すことで、身体の苦痛が伝わってくる。水俣病の患者を演じる女優さんは、ずっと口を開け指を曲げ目を剥いている。身体を反らし倒れそうになったところに、男優さんが走ってきて支える。身体と表現を考える時間をもらったと思う。

音楽もよかった。宗教曲のコーラス、中東のエキゾチックなもの、女性ヴォーカルのシャンソン。祥子さんが、一昨年のミッドナイトプレス主催の公演で歌った稲川さん作詞の「裁きをわたしに」をいくつかのシーンで熱唱した。

帰宅して、パンフレットに載っていた桑原史成氏(報道写真家)のインタビューを読む。水俣の患者さんを撮り続けているひと。わたしは詩だけ書いていていいのだろうかと考えてしまう。


7月6日(木)

フォートリエという画家の絵が好きである。「雨」の絵はがきをもらって一目惚れをした。上空から見た島に雨が降っている絵。苔色の島と斜めに走る線が美しく、長い間ボードに貼り付けていた。

その後品川の原美術館で、フォートリエを観たことがある。白に紫の線で描かれた絵だが、タイトルはわからない。アンフォルメル(不定形)の画家。絵はがきは大原美術館のものだった。どなたかフォートリエを常設している美術館をご存じでしたら、おしえてください。


7月5日(水)

小池昌代さんが薦めてくれたバーバラ・ピムの『秋の四重奏』(小野寺健訳・みすず書房)を買う。amazonのギフト券があったので注文したら、すぐに届いた。

ピムは1913年英国生まれ。「過小評価されている作家」のアンケートで著名な文学者二人が彼女の名を挙げ、この小説で復活したのだそう。

ロンドンの同じ会社に勤めている男女の日々を描いたもの。全員60代で一人暮らし。老いと向き合う普通の人々の暮らしをのぞき見ているよう


7月2日(日)

ビデオで『向田邦子の恋文』を観る。一昨年テレビで放映したもの。最近「昭和」に興味を持っていて、ちょうど昭和のまんなかあたりを描いているのが向田邦子だと思い、小説やビデオを観ている。

放送作家として軌道に乗り始めた邦子の秘めた恋。主演は山口智子。向田邦子に少し似ている。相手役は大口広司。テンプターズのドラマーだった人。昔も個性的な顔だったけれど、今は伊藤雄之介みたい。といってももう誰も知らないでしょうねえ。昔ドラマで「ヤツメウナギ」が好きな男の役をやっていた。強面の渋い俳優さん。なぜかこのひとと望月優子(またまた古い)が出ると、ドラマが暗くなるのが気になりました。

愚痴を言わない、骨身を惜しみまない、恋の相手に何も求めない。向田邦子さんはほんとにいい女だったのですね。


7月1日(土)

ポエトリージャパンのトップページに「タイトな日々」という詩を書いています。ぜひ読んでください。

Philia Projectの公演のお知らせです。来週7・8・9日、両国のシアターχ(カイ)にて。二瓶龍彦さん演出のパフォーマンスは、広島・長崎、水俣、イラクで今も生み出されつづける生命の形がテーマとのことです。お時間のある方はぜひ足をお運びください。わたしは8日の午後に行く予定です。


6月27日(火)

『僕はマゼランと旅した』は11の短篇からなる連作短編小説である。「ロヨラアームズの昼食」が出色。これは昨年白水社のHPで公開されたときに読んでいたが、今回もあらためていいなあと思った。こんなふうに始まる。

になることにはテーブルと椅子も手に入れていたが、九月末にはまだ、越してきたときのままのがらんとした感じが気に入っていて、僕は台所の白い窓台に昼食を広げ、窓の下に見える通りを眺めながら食べることで満足していた。

ロヨラアームズは、昔ホテルだった古いアパート。「僕」は窓台で立ったままビールを飲み、ライ麦パンやピクルス、ポテトサラダを食べる。ポールオースターの『ムーン・パレス』みたいだ。生真面目でシャイな「僕」の青春の一時期。社会主義系の書店〈ニューワールド〉で知り合ったガールフレンドのメロディ、ほうきの柄で天井を叩く階下の老婆、アルバニア人の管理人などが、強烈なキャラクターとして登場する。シカゴの街を東欧に変えるダイベックの筆は魔法のようである。


6月24日(土)

『阿修羅のごとく』をビデオで観る。森田芳光監督。向田邦子原作のテレビドラマをリメイクしたもの。2003年の作品だが、もっと古い感じ。昭和54年の設定なのに昭和30年代を彷彿とさせるようなファッションや家の造りが気になった。

70になる父に愛人と子どもがいるらしいことがわかって、姉妹四人が右往左往するという話。大竹しのぶ、黒木瞳、深津絵里、深田恭子が姉妹を演じる。やっぱり大竹しのぶがすごい。夫をなくした生け花の先生役。遣り手の長女をうまく演じていた。料亭の主人(板東三五郎)と恋仲で何度も修羅場があり、妻役の桃井かおりとも小競り合いをするシーンがある。和服だとちょっともみあうシーンでも倒れたりして大事になり、それが笑いを誘う。

姉妹の母は八千草薫。しっとりとひかえめな演技。すばらしい存在感です。最後に黒木瞳の夫役の小林薫が「女って怖い」と言うのだが、ほんとうにそれをうんざりするほど見せつけられる映画。


6月22日(木)

鰐組のHPが開設しました。おめでとうございます。仲山清さん率いるリトルマガジン『鰐組』は隔月刊の詩誌で、四半世紀を迎えられたとのことです。みなさんぜひお出かけください。下村康臣さんの詩集を何冊か注文したのがご縁でお世話になっています。『中空前夜』に入っている「夜の水・水の夜」は『鰐組』に掲載していただいたもの。原稿を送った後に気に入らなくて差し替えをお願いしたところ、元のほうがよいと言ってくださいました。感謝しています。


6月20日(火)

このごろよく作る海老と空豆と豆腐の炒め物。
片栗粉でとろみをつけると何でもごちそうにみえてしまう。
塩味です。枝豆でもいいですね。でもやっぱり空豆の勝ちかな。


6月19日(月)

医院の待合室で『人は見た目が9割』(竹内一郎・新潮新書)を読んだ。特に収穫はなかったが、「クイ」ということばを初めて知った。ロックの演奏の途中で、わざと無音の状態を作ることだという。その後に演奏を再開したりジャンプして音を出したりして締める。なるほど。

最近は根三つ葉をよく買う。焼いた肉やハンバーグの上にミョウガやシソなどと一緒にのせる。食欲がないときによいものです。わかめと根三つ葉をさっとゆで、おろし生姜とポン酢をかける食べ方が袋に書いてあったので、作ってみた。とてもおいしかった。


6月16日(金)

風邪をひいたと思ったら、そのまま花粉症に移行して薬を飲んでいる。昨年の今ごろもそうだった。ブタクサやカヤなど夏の雑草の花粉症。アレルギーの薬は眠くなる。一日中半分朦朧としている。

家族が向田邦子を読んでいるので、置いてあった『あ・うん』(文春文庫)を読んだ。うまい作家である。放送作家でもあったひとで、テレビ・ドラマのようなメリハリがある。舞台は昭和12年。第二次世界大戦が始まる頃。水田と門倉、男の友情の物語。水田はつましい月給取り、角倉は軍需景気で儲かっている金属会社の社長。戦友である。水田一家が東京に転勤になったことで、家族ぐるみのつきあいが始まる。

門倉は水田の妻たみに恋情を抱いている。いい女である。夫を立て身持ちは堅く邪気がない。門倉の想いを知っていて、つねに自然にふるまう。門倉のまなざしが39歳のたみをいい女にしている。ついでにビデオを観た。

門倉は高倉健、水田が板東英二、たみを演じるのは富司純子。二人の立ち居振る舞いも美しく、昭和の香りがする。しっとりしたいい映画です。監督は降旗康男。


6月13日(火)

詩集『ことばがさきにいくんだ』の池田俊晴さんに礼状を出し、ハガキをもらった。そのなかにブログをやっているとあったので探して出して読み、『フットスタンプ』という詩誌の同人であることを知った。いつも送ってもらい気になっている詩誌だけれど、感想を書いたことはない。

こういうふうにつながっていくのはうれしいことですね。都内のアパートらしいモノクロの写真が郷愁をそそる12号。読んでみます。


6月10日(土)

『柴田元幸と9人の作家たち』(アルク)を図書館で借りる。シリ・ハストヴェット、スチュワート・ダイベック、カズオ・イシグロ、ポール・オースター、レベッカ・ブラウン、村上春樹らのインタビュー。CD付き。ダイベックとオースターの声を聞くのはちょっと怖かったけれど、感じのよい温かみのある声で安心した。ダイベックの写真を初めて見る。少年ぽさを残した、飄々としたおじさんである。

村上春樹のインタビューの註に、『風の歌を聴け』のタイトルは、トルーマン・カポーティの短篇集『夜の樹』に入っている「Shut a Final Door」の最後の文章「何も思うまい。ただ風にだけ心を向けよう」からとっているとあったので、読んでみた。よかった。傲慢な青年が愛も信頼も失って一人になってしまう。傷心の旅、ニューオリンズの安モーテルの夜の孤独と恐怖のなかで主人公がつぶやく台詞である。


6月8日(木)

人に薦められて、奥田英朗の『東京物語』(集英社文庫)を読んでいる。1978年に名古屋から上京してきた18歳の久雄が主人公の連作短編小説集。ジョン・レノンの死やキャンディーズの解散といった時代のトピックを織り込みながら、久雄の青春の日々が描かれている。

どの短編でも、次から次へと小さな事件が起きて久雄はなかなか食事にありつけない。読んでいるわたしもお腹が空いてくる。著者は1959年生まれ。久雄はお茶の水にある大学に通っているという設定。C大学だろう。自身がモデルなら同じ時期にキャンパスにいたことになる。わたしは「移転反対」を叫んだ一人です。


6月6日(火)

『稲川方人全詩集』を読み終える。「希求」ということを考えた。希求する詩。詩のことばが作りあげる屹立した詩の世界。どの詩がいいとか好きとかいうことなどできない圧倒的な詩のちから。

詩はよろこべ。
俺は救急車の担架に固定されて東京の切れ端を走る。
雨の降る赤坂プリンスを右に折れた。
やみくもな都市の真髄をよろこべ。
やみくもな昭和の詩だったろう。
「かつてここは海の底で」とか、
そんな話が腐っているのだ。
(「スタンダード・サイズ」・未刊詩集『形式は反動の階級に属している』1987-2001)


うまく全体を掴むことができなくてもどかしいのだけれど、数年前に倉田比羽子さんの詩集『カーニバル』を読んだとき、いつかこういう詩を書きたい、きっと書くのだろうと思ったことがある。そのときと同じように、書き続けていけばいつかは稲川さんの詩に近いところへ行き着くのかもしれないと思ったのだった。怖ろしく大それたことを言っていますね。


6月4日(日)

『抒情文芸』119号が届く。わたしも「夏の旅」という詩を書いています。もし見かけたら手にとってみてください。この雑誌はわたしが投稿していた唯一の季刊誌。他に俳句、短歌、小説の投稿欄も。選者は詩が清水哲男さん、俳句は坪内稔典さん、河野裕子さんが短歌、小説は伊藤桂一さん。阿川佐和子さんのインタビュー、三田誠広さんのエッセイなど盛りだくさん。書かせてもらえて、ほんとうにうれしい。今号は稲川方人さんの詩「靴、泣き濡れた国に」も掲載されている。不思議な偶然である。

今年30周年とのこと。おめでとうございます。


6月3日(土)

『稲川方人全詩集』を毎日少しずつ読んでいる。稲川さんの詩は音楽でいえばバッハに似ていると思う。隠喩を多用する詩法に秘密があるような気がしている。直喩はほとんど使われず、一行は短い。だから一語のインパクトが強い。リズムによるところが大きいと思うが、バッハの音楽には人々の宗教心に訴えるものがある。

稲川さんの喩法は意味のずらし、意味の解体、大胆な飛躍といった複雑で高度なレベルのものであると思う。もしかしたらまったく見当違いなことをいっているのかもしれないけれど、とりあえずの感想です。


6月1日(木)

ポエトリージャパン
のトップページに「天使が通る」という詩を書きました。クリックしてみてください。

一人暮らしをしている娘が引っ越すことになり、家に残していったものを片付ける。膨大な量のコピーやハウツー本、細々した文房具や雑貨の類。昨年の今ごろ母の残したものを処分したことを思い出す。切なくて目眩がするような作業。


5月31日(水)

スチュアート・ダイベックの短編小説集『僕はマゼランと旅した』(柴田元幸訳・白水社)を買う。気分が晴れないので服を買おうかと思ったけれど、やっぱり本のほうがいい。ダイベックは大好きな作家。シカゴの街を舞台に、そこで暮らす東欧系の人々をていねいに描く。

11の短篇。最初の「歌」を読む。音楽好きだが才能がなさそうな少年の話。


5月29日(月)

稲川方人さんの詩を少しずつ読んでいる。全詩集は524ページ。「地蔵和讃」が浮かび、頭を離れない。寺山修司の『田園に死す』の扉にあったのを20のとき暗記するほど読んだ。「これはこの世のことならず 死出の山路の裾野なる さいの河原の物語」で始まる。稲川さんの詩は和讃のようなものがベースになっているのではないかという仮説を立て、コンテクストを越える詩語ということを考えながら読む。

そんなわけで、書きあげた詩を読み返して、締めきりだというのに、これではだめだ何とかしなくちゃと思っている午前11時です。


5月26日(金)

料理の投稿サイトをよく見る。そのなかのレシピで作ることも多い。うちの夕食はほとんど鶏肉か豚肉がメインで、調理法や味つけを少し変えるだけである(モーパッサンの『ジュール叔父さん』の世界。大好きな短篇です)。

昨夜は家族二人だったので鶏ささみのサラダを作っておしまい。蒸したささみを割いて、摺った黒ごまに酢、マヨネーズ、しょうゆ、サラダ油を混ぜたもので和え、きゅうりとセロリ、パプリカをせんぎりにして入れた。とてもおいしかった。定番にしよう。投稿してくれた方に感謝。

短い詩を2つと長い詩を1つ仕上げる。長いものは3週間くらいかかった。まだ納得できる出来ではないのだけれど、もはやこれまでと思った。書きたいことを書いた。それでよしとしなければ。


5月25日(木)

『稲川方人全詩集』(思潮社)を図書館で借りる。締めきりが迫っているのだが、どうしても読みたくなった。稲川さんの詩は『新鋭詩人シリーズ』(1979年発行・思潮社)の他はまとめて読まずにきてしまった。

『インディアナ、インディアナ』はあと半分。寝る前には『ジョン・アシュベリー詩集』(思潮社)をぱらぱらめくる。詩三昧の日々。これらが仕上げの段階で効いてくれるといいなあなどと虫のいいことを考えている。


5月23日(火)

レアード・ハントの『インディアナ、インディアナ』(柴田元幸訳・朝日新聞社)を読んでいる。「柴田元幸が「これだ」と惚れ込み、ポール・オースターが「ずば抜けた才能」と絶賛した」と帯にある。

奇妙な小説。まずたくさんのひとが登場するが、関係が説明されない。読んでいくうちに明らかになってくる。主人公のノアは知能に少し問題がある老人。特別な能力があり、その妻である女性は療養所に入っている。思い出のシーンや妻からの意味不明な手紙がコラージュ風に入ってきて、お伽噺のよう。全体にうっすらとした哀しみのようなものが漂っている。

この先どんな展開になるのか、まったくわからないところがおもしろい。3分の1ほど読んだところ。


5月20日(土)

テレビで「ローリング・ストーンズ・ハイドパーク69」を見た。25万人を集めた野外コンサート。若き日のミック・ジャガーにはやはりすごいオーラがある。真っ白な王子様ルックが似合わないのがまたすてき。コンサートの二日前にメンバーのブライアン・ジョーンズが自宅のプールで死体で見つかり、急遽ブライアン追悼コンサートになったという。

「サティスファクション」「哀しみのアンジー」「ホンキートンク・ウィメン」「悪魔を憐れむ歌」など録音はよくないけれど臨場感が伝わってくる。「テル・ミー」を聴いて以来のファンです。


5月16日(火

送られてきた詩集の整理をしていて、池田俊晴さんの『ことばがさきにいくんだ』(七月堂)に出会った。美しいフランス装の、小さな判型だけれど156ページの厚さ。5つのパートに分かれていて、表題作を含むUがいい。冒頭部分を書き写してみる。

ことばがさきに行くんだ
くっきりと真夏の庭に落ちる樹木のかたちの影に沿って
ことばがゆっくりと大きく旋回する
おまえが焼け爛れて枯れたひまわりの首を
いくつもいくつも丹念にもぎながら発する声よりも
ことばが昨日の夢の切れ端を載せて歪んだ列で
さきに行こうとするんだ


「おくたまの旅」「夢のテキサス」もとても魅力的な詩だ。素直で清潔でスピードがある。どんな方だろう。


5月15日(月)

スーパーマーケットで見かけて買ってみた。クリーパーというタイ産の野菜。
花のつぼみのよう。バラバラにして春雨とドレッシングで和える。
さっとゆでるだけで食感が楽しく色もきれい。
クセがなく、ブロッコリーを大きくした感じか。






5月14日(日)

市民吹奏楽団の演奏会に行く。今年で30周年とのこと。3部構成になっていて、1部は昨年逝去した吹奏楽の巨匠アルフレッド・リードの特集。2部はちょっと息抜き。チンドン屋の登場で盛り上がる。今回は「青春forever」と題して「ウルトラマンの歌」「バック・ドラフト」「ウォーターボーイズのテーマ」などなど。若い団員の踊りやコントもある。知り合いのY・Kさんが指揮をしている。フルート奏者だけれどお笑い芸人としても才能があり、文章も書けるひと。

目玉はラヴェルの「ボレロ」。生で聴けて感激する。これは2つの旋律でできていて、小太鼓が最初から最後までリズムを刻み、フルートから始まってすべての楽器が順番にソロを吹く。ラストは大きなうねりのようなものになる。個性的な曲であるのに何度聴いても飽きない。

市民ホールは満員で、アンコールの拍手がいつまでも鳴りやまなかった。よかったなー。



5月12日(金)

胸がきりきりするほど悲しいことがあったときにどうするか。寝るのが一番だと思う。目が覚めたら少しは気分が変わっているだろう、と思って眠ろうとしたけれど眠れない。それで詩を書くことにした。悲しいということを書くのではない。もっと生産的な行為、新しい詩の世界を模索するもの。書いていれば、それに熱中して他のことを忘れられる。詩はいいものですね。

吉本隆明の『日々を味わう贅沢』(青春出版社)を読む。表紙の吉本フランシス子ちゃんの足形が愛らしく、装丁も本文の紙も温かみがあって、ずっと手にしていたいような本。

「精養軒のビア・ガーデン」、「上野の夏で一番好きで印象深い風景」は、そこでビールを飲みながら眺める不忍池の夕ぐれだと吉本さんは書く。ぜひ行ってみたいものです。



5月10日(水)

5月2日にパソコンがクラッシュして、修理に出した。その間ノートで更新をしていたのだけれど、手違いで消えてしまった。思い出して書いてみます。

2日は新宿パークタワーで鈴木志郎康さんの映像作品『極私的なる多摩王の感傷』を観た。16年間の多摩美での日々が35分にまとめられている。入学式、学生たちのたくさんの顔、キャンパスの銀杏、合宿、書斎、研究室、卒業公演、赤いマントの多摩王姿などなど。卒業式で学生さんたちが合唱するシーンで涙があふれて困った。自分も学生の一人になりきって観ていたためだろう。

4日は飯能のハーブ園へ。いつになく混んでいた。ゴールデンウィークはどこへ行ってもおばさんのグループがいて、大声で談笑している。やれやれ。世のなかのおじさんはどこに行っているのだろう。

『シンデレラ・マン』をビデオで観る。ラッセル・クロウ&レネー・ゼルウィガー主演。監督は『ビューティフル・マインド』のロン・ハワード。1920年代に実在した伝説のボクサー、ジム・プラドックの話である。怪我で運に見放されたジムは、日雇いの仕事にもなかなかありつけない。アメリカは大恐慌の時代で、3人の子どもと妻。食べ物も底を尽き電気も止められるような暮らし。ジムは家族のために一夜だけリングに上がる。その姿は人びとに希望を与え、ジムは家族のために闘い続ける。

ボクシングの映画は観るのがつらい。単なる殴り合いのようにしかみえないから。『ミリオンダラー・ベイビー』も酷い映画だった。プライドのために尊厳死を願う女性ボクサー。彼女の意志を汲んで延命装置のスイッチを切るコーチ(クリント・イーストウッド)。愛と死、人間の尊厳とプライド、宗教。いろいろなことを考えさせる映画だったと思う。

5日は知人宅で昼食をご馳走になった。鯛の潮汁、アサリのパエリア、バジルと玉葱のサラダ、ニンジンとひじきの煮物、ビールと白ワイン。3匹の猫と3人の友人。そして詩の話。楽しい午後でした。



4月30日(日)

昭和記念公園へ。新緑の季節には郊外の公園へ行きたくなる。木の下でおにぎりを食べ、緑の風を浴びながら歩く。最近はいろいろ気になることが多くちょっと参っているので、気分転換が必要だった。カリンの盆栽を買う。盆栽というより観葉植物。小さいけれど一人前の木になっている。健気な感じがよく、600円は安いと思った。

車中で中島義道の『哲学の道場』(ちくま新書)。帰宅して吉本隆明の『家族のゆくえ』(光文社)。amazonで注文したシルヴィア・プラスの『Ariel』が届く。


4月27日(木)

飯島耕一さんの『白紵歌』(ミッドナイトプレス)を読んでいる。主人公は飯島さんがモデルと思われる西野鶴吉という老人。柳沢吉保に興味を持っている。周辺の漢詩人、荻生徂徠、三島由紀夫などが登場し、鶴吉はそのなかを自在に歩きまわる。不思議な味わいの小説で、妖しい世界に引きこまれていくのを感じる。

・・・満員のため吊り革にぶら下がっていたのだが、すぐ左に何か悩ましい物体のごときものを感じた。そっと窺い見るとその悩ましさを発散する源は七十歳を過ぎたはずの杉村春子そのひとだった

おもしろい。


4月25日(火)

桐田真輔さんが「リタ」に『中空前夜』の書評を書いてくださった。ありがとうございます。桐田さんがご指摘のように、詩集のなかにはよく似た詩がいくつかある。発表した作品をすべて収めたため。愛着があって捨てることができず、まったく同じ内容というわけではないので良しとした。

「夢みるちから」と「夜の水・水の夜」では同じフレーズを使っている。「わたしの朝」と「特別な一日」は住んでいる街の風景を描いたもので、前詩集『至上の愛』の「ザクロ」にも重なっている。


4月22日(土)

渋谷のルデコへ。小指値の『ツェラーシュバルカッツ』という芝居を観る。鈴木志郎康さんが贔屓にしている劇団。60分のコンパクトな舞台。脚本がよくできていて台詞にスピードがあった。

鉄骨で組まれたジャングルジムと階段がある公園。パンツ会社の営業をやっている若い女が、携帯を帽子に巻き付けて弾丸のようにしゃべる。今風の若いひとのしゃべりかた。屋上やスーパーマーケットで人が生活している姿を見て安心するというようなことを言う。相手が携帯を切りそうになると「切らないで」と懇願する。

猫、ハト、ハエ、小学生、石がそれぞれ自分の世界や願いを語る。ハエがよかった。「頼まれたら受け入れる女神のような女になりたいの!」と叫ぶ。きらきら光る目をした女優さんで、猫に潰されそうになると「に、逃げねば」と這うのがコミック風でおかしかった。小学生の役者さんも声がよく、メリハリがあって光っていた。

雄猫と石を演じる役者さんは前貼りをつけているが全裸。お手入れが大変だろうなあと思った。できれば服を着て欲しい。石は皆に「動けないくせに大きなことを言うな」となじられ、必死で動こうとする。最後に立ち上がり告白する「好きなひとと好きなひとの好きなところへ行きたい。でも今はそう願わないから、わたしはここにいる」。切なくて強いことば。

全員が横に並んで踊るシーンがよかった。真っ直ぐに客席を見て切れのよい動き。彼らのメッセージが直に伝わってくるような芝居だった。たくさん笑った。わたしはヒトであり、石であると思った。


4月21日(金)

堀江敏幸の『いつか王子駅で』読了。翻訳や講師をして生活する「私」。荒川線沿線の居酒屋と古書店、銭湯に鉄工所。島村利正と瀧井孝作の小説、名馬の物語などを絡めて「私」の思いと町の人々との交流がていねいに描かれている。

すべての辻褄を合わせるような終わり方にはちょっと不満を持ったけれど、よい小説だと思う。息の長い文章には芳醇な味わいがある。居酒屋の女将が粋で、何ともいい女に描かれている。入れ墨をした印章彫りの正吉がまた魅力的。「変わらないでいたことが結果としてえらく前向きだったと後からわかってくるような暮らしを送るのが難しい」ということばには重みがあり、この一文に出会えたことを感謝したいような気持ちになった。


4月19日(水)

夕方のまだ水色の空をじっと眺めていると、白い光の粒がびゅんびゅん飛ぶのがみえる。目の錯覚かと思ったが、いつまでも消えない。空のあちこちで流れ星のように動いている。自然の現象なのだろうか。

毎日ベランダ越しにプラタナスの木を眺める。少し前は赤ちゃんの手みたいに小さな葉だったのが、今ではいたずらっ子の立ち姿にみえる。両手を広げ髪を逆立てて風に向かう男の子のよう。

矢崎藍の『おしゃべり連句講座』(NHK出版)を斜め読み。つい詩を書くような付句をして、しまったと思うことが多い。前の句の説明だったり同じシーンを詠んだり。転じなければいけないところを足踏みしてしまう。それでハウツー本を一気に読んだ。連句は一人でもできる、と著者は連句の祖である松尾芭蕉の句に付けてみることを薦める。目から鱗です。

4月17日(月)

『いつか王子駅で』には、競馬の話が出てくる。主人公の「私」は幼い頃から競馬に親しんでいたという設定で、名馬の記録や勇姿などが紹介されている。それで思い出したのだけれど、小学校一年の遠足でわたしは競馬場へ行った。府中競馬場。雨の日だったから、屋根のあるところということで急遽目的地が変更になったのかもしれない。もちろん馬はいない。競馬がどんなものかも知らない。雨に濡れる芝生を見ただけである。

当時の渋谷区の小学生はみんな競馬場へ行ったのだろうか。

4月14日(金)

昨日、書肆山田の『るしおる』60号が届いた。鈴木志郎康さんと稲川方人さんが『中空前夜』の書評を書いてくださっている。感激した。もう何度も読んだ。お二人とも「読み解く」というスタンスで、上からの批評などではなく、ご自分の詩論を語られている。

稲川さんの「天文と中空ーわれわれの詩を誰が書くか」は冒頭で片岡直子の例の問題に触れていて、同感!と叫びたくなった。興味のある方はぜひ『るしおる』をご覧ください。

堀江敏幸の『いつか王子駅で』(新潮社)を読んでいる。昭和の匂い。

4月12日(水)

短い詩を二つ書く。今週はもう一つ仕上げなければならない。詩三昧の幸せ。でも詩ばかり書いていていいのかとも思う。それではだめなのではないか。おそらくだめだろう。まあ来週考えることにします。

そらまめを莢ごとオーブントースターで焼いたら、美味でした。ほくほくして、塩なしで食べられます。所要時間15分。莢が真っ黒になってちょっと焦げ臭いけど、茹でるのとは違ったおいしさが楽しめます。

4月10日(月)

西武池袋線の小手指へ。家から歩いて25分ほどで駅に着く。きょうは用があってその先へ行く。線路沿いに小手指河原がある。新田義貞が鎌倉幕府群と衝突したところ。義貞が源氏の白旗を立てた白旗塚、。おそらくそのままの形をとどめていると思われる古戦場跡である。

平坦な原のまんなかに用水路が流れ、木々のまだやわらかな緑がほわっと霞み、黄色や白の花が点々としている。山里のような風景。ここで戦が繰り広げられたと思うと不思議な気分にとらわれる。近くには義貞が倒幕の誓いを立てたという誓詞ヶ橋。

きょうは1時間ほど歩く。夜は解毒食。お酒はやめて日本茶。小松菜、ブロッコリー、葱、キャベツを茹で、粉ふきいもを作り、オリーブオイルをかけて食べる。しょうゆを入れない納豆も。


4月8日(土)

小池昌代さんの新詩集『地上を渡る声』(書肆山田)を読む。行分けの詩と散文詩が半々くらい。このスタイルはとてもいいと思う。125ページという量を感じさせることなく、一気に読ませる魅力をもった詩集。小池さんの小説の部分と重なる詩もあって、それを見つけるのも楽しい。

タイトルはなく、数字を付された34の詩から成る。なかでも24は『アザーズ』のようなホラー仕立てで怖ろしく、小池さんのこういう詩のわたしはファンである。


4月6日(木)

明治神宮内の会館へ。娘の学校の入学式。明治神宮は子どものころから何百回も行っているけれど、ここに入ったのは初めて。さらに参集殿で説明を聞く。レトロな美しい建物。

昔は大学の卒業式に親が行くなんて幼稚園みたいといわれたものだけれど、昨今はそうではないらしい。きょうは保護者会を兼ねた説明会だという。

新宿へ出て、中村屋マ・シェーズで昼食。小さいころから新宿でご飯を食べるときは中村屋だった。いい匂いのする、何を食べても美味しい店。

車中で中島義道の『哲学の道場』(ちくま新書)。

4月5日(水)

歌仙「あかときの」をアップしました。1月から3月にかけて巻いたものです。ご笑覧くださいませ。

八王子の詩人山岸光人さんが『70-78』(ナナマルナナハチ)という個人誌を発行された。第1号は「懐かしのメロディ」ということで、わたしの第一詩集『ショランダーは金髪だった』や『雨期』の創刊号について書いてくださっている。

同世代の山岸さんの論考をシンパシーを持って読んだ。ご自身の詩に対する考えをクリアなことばで語っていて、腑に落ちるところが多い。表紙には樹村みのりさんの漫画「贈り物」が見ひらきで載っている。これがまたすてきなのだ。A3二つ折りで、本の表紙のコピーと拙作3篇が資料としてついている。

山岸さんは『雨期』の定期購読者でもある。ほんとうにありがとうございます。昨日届いて、もう何度も読み返した。  


4月3日(月)

中島義道の『孤独について』(文春新書)を読んでいる。先日『生きにくい・・・』(角川文庫)を読み、著者はどういう人物なのか興味を持った。哲学者で、世間に対して不満をたくさん持っているひと、という印象。

『孤独について』のサブタイトルは「生きるのが困難な人々へ」。飛びつきました。自身の人生がいかにうまくいかなかったかについて、若き日に三文文士になりたかったという著者は饒舌に語る。

運動が苦手で、学校ではトイレに行けず、給食の肉が食べられず、休み時間に遊ぶこともできない子どもだったという。さらに優秀で互いに虚栄を張り合う一族が著者をじわじわ苦しめる。それゆえ中島義道は幼いころから孤独であり孤独を愛し孤独のうちに死にたいと願う。共感するところ大の痛快な本です。


4月1日(土)

ポエトリージャパンがリニューアルされました。詩の好きなひとのためのスタイリッシュでアットホームなサイトです。詩ネマ、ポエム・バーなどすてきな詩の数々に触れることができます。巻頭詩を書いていますので、皆さんぜひクリックしてみてください。木村ユウさん、スタッフの方々おめでとうございます。

航空公園でお花見。朝からお弁当を作る。メニューは中華おこわ、フライドチキン、菜の花の芥子和え、枝豆、だし巻卵。オクラの味噌マヨネーズ。4時を過ぎると急激に寒くなる。2時から8時までビール、ワイン、日本酒。


3月31日(金)

『続続・辻征夫詩集』(思潮社)を読んでいる。詩集『天使・蝶・白い雲などいくつかの瞑想』以後の作品と未完詩篇、未完散文作品。辻さんは1982年以後、精力的に執筆活動を始められたということだけれど、膨大な数の作品に今さらながら驚く。それらを読むことができるのはとても幸福なことだと思う。辻郁子さん、ありがとうございます。

あたたかなまなざしとひかえめなユーモア。辻さんはつらいことをつらいと書かない詩人ではないだろうか。1997年に『雨期』30号でアンケートをお願いしたことがある。その回答に、いつもの辻さんとちょっと違う、何か悲しいことがあったのだろうかと思った。「これがなくては生きていけない3つのものは?」というアンケートである。

須永さん、アンケートのこと、いつのまにか忘れていました。「それがなくては生きて行けないもの、三つ」。茶化さないで、また、空気とか水、食物などといわないで、まともに考えようと思っていたのですが、そうすると、何ということでしょう、何ひとつ、思い浮かばないのです。
 詩?かつて少年時代には、それがなければ生きて行けないかどうか、ほんきで考えてごらんなさいというリルケの問に、「然り」と答えてこの道に入ったのでしたが、四十年あまりこころを砕いてきて、いまは詩の世界から離れることばかりを考えています。しかしこの詩の世界は、冷静に思いをこらすと、詩を書く人たちが作っている世界で、ぼくの身についてしまっているもの、こちらの方はどうなるのかわかりません。これをもし詩と呼べば、それとぼくは不可分で、ぼくプラス詩ではなく、ここにただぼくが立っているだけです。
 おこたえになっていないと思いますが、しかたがありません。



辻さんは前年に『俳諧辻詩集』で花椿賞と萩原朔太郎賞を受賞し、すでに誰もが認める大詩人であった。「こころを砕いてきた」、このことばに胸を衝かれたことを思い出した。

3月27日(月)

睡眠不足の日は夕方になるとつらくなってくる。しゃべるのも億劫。というのも話せば長いのだがおつきあいください。日曜日は家族がいなかった。それでいつもと違うことをやろうと思い、夕食を「デトックス」メニューにした。デトックスとは解毒のこと。本格的にではなくプチ体験。ゆでるか電子レンジにかけた野菜にオリーブオイルをかけて食べる。お酒は抜くというもの。

菜の花には特に解毒作用があるそうだが、高かったので彩りに少しだけ。他に冷蔵庫にあったキャベツと長ネギをゆでた。それに前日の残りの粒じゃがいもを蒸したもの。納豆と日本茶。塩をかけずに素材そのものを味わう。野菜の甘みがうれしい。納豆もそのまま。

満腹になったし、疲れてもいたのにその夜はまったく眠れなかった。午前四時に起きて猫にかつおぶしをやり、牛乳を温めて飲んだ。それでも眠れず明け方親しいひとが死んでしまう夢を見た。わたしもその死に関わっているという夢。目が覚めてからパソコンを開いてそのひとの無事を確認。というわけでほとんど眠っていなかったのである。

3月25日(土)

新宿で買い物をしてから、九段下へ。ギャラリー柵で高橋睦郎さんの「那須賛歌」展を観る。千鳥ヶ淵の桜は五分咲きで、お濠沿いの遊歩道はかなりの人出。

ギャラリーはお濠に面していて一方は全面が窓、反対は書棚になっている。自筆原稿が添えられた果物や植物の鉛筆画。「夕食はいつも大事件」「デザートをどうぞ」など楽しいタイトルが付いている。ミヤコワスレに似た野の花があちこちにさりげなく置かれていて、アットホームな雰囲気。とても居心地のよい空間です。高橋睦郎さんの絵は温もりがあって楽しく、観る者を幸福な気分にしてくれる。

絵を描きたくなった。年に何度かそう思うことがあって、スケッチブックやパステルなど買ってあるのだけれど。

3月22日(水)

お墓参り。ご住職は留守で、大黒さまと話す。同世代のきさくな方。戸田恵子にちょっと似ている。母が今週2回も夢に出て来たと言ったら「しゃべりましたか?」と聞かれた。「わたしがわかる?」「うん、うん」と夢のなかで母は顔を輝かせていた。

佐藤愛子の『私の遺言』(新潮文庫)を読み終える。『こんなふうに死にたい』の続編。わたしが両親や親戚とうまくいかないのは彼らとの間に何か因縁のようなものがあるからではないかと思う。手がかりが欲しくてこの類の本を読んでいる。でも実家にも生まれ育った町にも帰ることはできない(に等しい)のだから、先祖の話など聞くこともできない。永遠にわからないかもしれない。母の一周忌のことを考えると気が重い。

3月21日(火)

金曜日の続き。自分で自分のことを「おばさん」というのは結構気持ちのよいものである。実はそれほどでもないと思っているし(きっと)、誰かが否定してくれるのをちょっぴり期待してもいる。でも他人から言われるのは嫌なものである。伊藤さんと中沢けいさんは初めて会ったとき互いに「おばさん度が同じだと思った」そう。お二人とも才能と自信に満ちあふれているところも共通していますね。

山本文緒の『みんないってしまう』(角川文庫)を読んだ。『月刊カドカワ』に連載された短篇を集めたもの。ほとんど30代の女性が主人公の軽い作品。おしゃれ狂いの女、だらしない女、見栄っ張りな女。うまくいっていたはずの仕事や恋が破綻した女性たちが描かれている。

WBCもちろん観ました。すばらしい。キューバに勝つとは思ってもいなかった。日頃パリーグの試合を見ることが少ないので、選手たちの優れたプレーに驚く。日本のプロ野球の弛緩したゲームと較べものにならない緊迫した試合だった。おめでとう!


3月17日(金)

高見順賞のパーティ。伊藤比呂美さんとは7年ぶり。伊藤さんは貫禄あるチャーミングな「おばさん」になってました。太陽みたいなひと。スピーチは受賞の喜びをよどみなく語って、とてもおもしろかった。司会は料理家の枝元なほみさん。選考経過報告は佐々木幹郎さん、祝辞は平田俊子さんの栃木さん(金関寿夫さんのお弟子さんで早大助教授)。乾杯は中沢けいさん。菊地信義さんと町田康さんのスピーチもあって賑やか。

川口晴美さん、鈴木一民さん、杉本真維子さん、岩崎迪子さんと初めて会う。伊藤さんとお話できて、うれしかった。佐々木幹郎さん、田中庸介さんとも7年ぶり。平田さん、佐々木さん、新井豊美さん、財部鳥子さん、八木忠栄さん、一色真理さん、中上哲夫さん、川瀬理香子さん、高貝弘也さん、中本道代さん、高橋睦郎さん、瀬尾育生さん、渡辺めぐみさんと歓談。

伊藤さんのこれまでのお仕事はほんとうにすばらしいものだと思います。読書家ですごい勉強家でもあります。おめでとうございます。

帰宅してビールとワイン。27回目の結婚記念日でした。

3月15日(水)

きょうは卒業式・誕生日・結婚記念日・就職などまとめてお祝いのトルティーヤ・パーティ。全粒粉で作ったトルティーヤに牛ステーキの細切りやレタス、トマトのサルサ、ポークビーンズ、ワカモーレを包んで食べる。ワカモーレはアボカドと塩、レモン汁をビニール袋に入れてめん棒でたたくだけの簡単なもの。これが味のポイントです。それにシャンパンとジンジャーエール。ピントがグラスに合ってしまいました。これは『わたしにできること』という詩集を出したときに福間健二夫妻からいただいたもの。



トルティーヤは基本的には小麦粉と水をかき混ぜてフライパンで焼くだけ。作るのが面倒なら、市販のタコチップスでもいいですね。カテージチーズ、サワークリームなども合います。

中学校の卒業式が2時間半もかかって、参りました。

3月12日(日)

『リンダリンダリンダ』をビデオで観る。香椎由宇主演・山下敦弘監督。学園祭でブルーハーツのコピーバンドをやる女子高生4人の話。テンポがあまりにもスローで、「ここは省けるでしょ」「早く進めてよ」などと思いながら観ていた。韓国から来たソンを演じるペ・ドゥナが光っている。突然ボーカルをやらされることになって、とまどいつつも声をかけられたことを喜ぶソン役。いろいろなトラブルをクリアして、4人は当日すばらしい演奏をする。このラストのために、それまでの時間をゆるく描いたのかと思ってしまった。

文化祭担当の冴えない教師を演じているのは、甲本雅裕。ブルーハーツのボーカル甲本ヒロトの弟さんだそう。練習シーンにあった「終わらない歌」「僕の右手」も最後まで演奏してくれるともっとよかった。若い監督の作る日本映画はおもしろい。


3月11日(土)

『クオリア降臨』読了。この本を読む楽しみで満たされた2週間だった。何度か、また最後にも夏目漱石が出てきて、漱石はいかにすばらしい作家であるかを書いた本といってもいいような気がしている。

漱石こそ、もっとも反生命的な危険な精神の狂気の気配を漂わせつつ、しかしあくまでも生活の現場に踏みとどまろうとした、類い稀なる文学者であったように、私には思えるのだ。


この一文に興味を持った方はぜひ読んでみてください。文学、芸術になぜわたしたちは感動するのか。すぐれた文学、芸術とはいかなるものかが書かれていて、名作の引用も多く、退屈することはないと思います。

先日お寿司の出前を頼んだら、小さなホタルイカが3匹載っているのがあった。見た目は悪くない。でも寿司ネタとしてはちょっと。その日は県立高校の発表日だったので、注文が殺到してネタ切れになったのかもしれないと思った。以前ヤング巻きというのをもらったことがある。中身が鶏の唐揚げの太巻き。まずくはないけれど、巻かなくてもよいのにと思ったことを思いだした。


3月9日(木)

お知らせ。佐々木浩さんのパソコンが故障したそうです。3週間ほどHPの更新ができなくなるけれど、ご心配なくとのこと。早く直るとよいですね。

2月にポルトガルに移住された横木徳久さんから日記が届いた。量が多いので少しずつ読んでいる。異国に腰を据えるのは大変だということが伝わってくる。奥様と二人だから心強いと思うけれど。「つるの恩返し」をポルトガル語で説明するというくだりに驚く。


3月8日(水)

『詩の雑誌mignightpress』31号が届く。まず鈴木志郎康さんの論考『書き言葉を生きる』を読み、山本小月さんと福本順次さんの「魂をたずねる旅」と題した対談、稲川方人さんのエッセイ「東京インフラ」を読む。知り合いの書いたものからということですね。詩の雑誌をていねいに読むのは久しぶり。休刊になるからということもある。

志郎康さんの文章は、印刷された詩は「詩の抜け殻」であるというところから始まる。なるほどと思う。最近未知の方から送られてくる詩集を読むのがつらくなってきた。それはたぶん書いたひとを知らないから。つまりただの抜け殻にしか見えないから。どんな出自でどんな声でどんな姿で何をしているひとか、まったく情報がないからである。作品だけ読めばいいだろうと言われればそれまでなのだけれど、こと詩に関しては、読むという行為にかなりのエネルギーが要る。疲れることもある。「抜け殻」から本体を探っていく、そのひとの暮らしや思想や人生といったものを読み取る、そうしなければ感想が書けない。

というわけで、いい詩集だと思っても「詩の実質」がわたしのなかの何かとコミットしなければ、一行もその詩集について書くことができない。そういうことがあるので読むのが苦痛なのだと思う。


3月6日(月)

『クオリア降臨』にこういう文章があった。心にしっかり留めておこうと思う。

人間がどんな状況に追い込まれても、そこから逃げることなく、部分問題を解くのではなく全てを引き受けて意味の海深く潜って真珠を採って来るのが、文学の存在理由である。

ビデオで『NANA』を観る。評判はいまひとつのようだけれど、わたしはよかったと思う。中島美嘉が深い孤独の相を見せて圧倒的な存在感がある。相手役の松田龍平も同類の孤独を発していると思った。二人ともアニメのような容貌。浴槽に入っているシーンもいやらしさがない。孤独な魂がふたつ並んでいるようにみえた。漫画が原作なのでストーリーにリアリティはないが、全然悪くない。


3月5日(日)

昨日の朝、岡田幸文さんから『詩の雑誌midnightpress』が31号で休刊するという知らせをもらった。とても驚いた。創刊号に「少年ケニヤ」とういう詩を載せていただき、それから何度もお世話になった。若い詩人や抒情詩人をもあたたかく迎えてくれた、商業詩誌としては希有な存在だったと思う。

岡田さん、山本さん、ミッドナイト・ワーカーズのみなさん、すてきな詩誌を作ってくださり、よい詩をたくさん読ませてくださってありがとうございます。『詩の雑誌』を通じてたくさんのひと、すばらしい詩人たちと出会うことができました。感謝いたします。長い間お疲れさまでした。


3月2日(木)

昨日は久々に新宿へ出て買い物をした。自分のものではないからか疲れました。で、今日はいつもの生活。朝食は和と洋、2つのバージョンを用意し、平行してお弁当を作る。作り続けて26年。前日の食材を取り分けておくこと、特別なものを作ろうとしないことがコツでしょうか。

家族を送り出し、コーヒーを淹れてパソコンに向かう。メールの返事を書き、いくつかのサイトをチェック。1日のほとんどパソコンの前にいて、合間に家事をする感じ。昼食後に近くに買い物に出るほかは何かしら入力している。コーヒーは1日2杯と決めている。規則正しいことがわりと好きです。

きょうは短い詩を2つ仕上げた。以前書いたものに手を入れたもの。週に1篇書こうと決めた。


2月28日(火)

茂木健一郎の『クオリア降臨』を少しずつ読むのが日々の楽しみになっている。おもしろい。夏目漱石や小林秀雄をはじめ、たくさんの名文が引用されているのもうれしい。つい小林秀雄の本を出してきて、そちらに夢中になったりしてしまう。

高校の現代国語の教科書に小林秀雄の「無情という事」が載っていた。よくわからないながら、すばらしいと思った。冒頭に一言芳談抄の文がおかれていて、音楽のようだと思った。こういう文章である。

「或云(あるひといはく)、比叡の御社に、いつはりてかんなぎのまねしたるなま女房の、十禅師の御前にて、夜うち深け、人しづまりて後、ていとうていとうと、つづみをうちて、心すましたる声にて、とてもかくても候、なうなうとうたひけり。其心を人にし問はれて云、生死無常の有様を思ふに、此世のことはとてもかくても候。なう後世(ごせ)をたすけ給へと申すなり、云々」


2月24日(金)

池袋のぽえむぱろうるへ『雨期』46号を持っていく。車中で藤原正彦のエッセイ集『祖国とは国語』(新潮文庫)を読む。ひとつひとつ、そうだそうだと思う。たとえばゆとり教育。これが導入されたために基礎的な学習をする時間が減って、be動詞や動詞の活用形を知らない中学生が増えたのだと思う。昔は暗記せよに言われたものは必死で覚えたものだ。ほんとに役人の考えていることってわからない。

リブロで佐藤愛子の『こんなふうに死にたい』(新潮文庫)を買う。山本小月さんの本のなかで紹介されていたもの。一気に読んだ。父である佐藤紅緑の死で始まり、北海道に土地を買って建てた家が霊の住処で、そこから霊媒体質になっていくプロセスがシンプルな文章で書かれている。霊能力があるという美輪明宏に助けを求め、南無阿弥陀仏を唱えて切り抜けたり、旅先で霊に取り憑かれて憔悴したり。著者の前世はアイヌの酋長の妻だという。わたしは信じます。


2月21日(火)

保坂和志さんはパスすることにした。数冊開いて読んでみたけれど、だめだった。翻訳の文章ばかり読んでいるからだろうか。

で、遅ればせながら茂木健一郎の『クオリア降臨』(文藝春秋)を読み始める。おもしろい。著者は脳科学者。文章は読みやすいとはいえないのだけれど、大切なことを解き明かそうとしていることはわかる。たとえば、ひとは青年期のある時、世界全体を引き受けてみたいという欲望を持つものだが、「世界全体を引き受けるとは、正確に言えば、世界全体を見渡し、理解し、味わった上で、自ら何かを表現したいと望むことである」という。ああ、そうだよね、そうなんだとうれしくなる。

また、ピカソの『ゲルニカ』や長谷川等伯の『松林図屏風』を見たり、小林秀雄の批評を読んで感動した著者は言う。「文学を初めとして、あらゆる芸術ジャンルにおける傑作を特徴づけるのは、その作品を体験することの中に潜むクオリアのピュアさであり、強度であり、熱であり、深さである。人間が生きるということの核への関わりである」。

クオリアとは「質感」のこと。こういう文章を読むと力が湧いてくる。死ぬまでに傑作というものを書いてみたいと大それたことを思ったりする。


2月17日(金)

山本小月さんの『魂は死なない、という考え方』(ミッドナイトプレス)を開いたら、おもしろくて途中でやめられなくなった。山本さんは佐藤愛子さんの本からスタートして江原啓之さんに会い、前世や祖先を探りながら旅をする。山形県、京都、沖縄、インドネシア。読書案内にもなっていて一章が短く、どんどん読めてしまう。スピリチュアルな世界に分け入っていくなかで「この世に偶然はない」ことを著者は確信する。自分のことのように興奮してしまった。

以前わたしは祖母が霊媒師だったという友人の不思議なちからを見たことがある。「ラップ音」(実際にひとがたてる音ではないもの?)を聞いたことが何度かある。「虫の知らせ」というものも体験した。わたしは霊の世界を信じている。


2月15日(水)

飯能へ。ポエトリージャパンの木村ユウさんと会う。たくさん詩の話をする。事務所には2匹の賢そうな猫がいて、まったく人見知りをしないのに驚く。おいしいお蕎麦をご馳走になった。飯能にはお蕎麦屋さんが多い。仕舞た屋や打ちっ放しコンクリートのモダンな店、中庭が日本庭園になっている店。土蔵が多く残るのどかな街で、河原もある。昔バーベキューをしたことを思い出す。

車中で保坂和志の『プレーンソング』を読む。同い年である。この作家の文体はなぜかぬるく感じられる。うまいのだけれど、文章がややスローでソフトだと思う。


2月13日(月)

『雨期』46号ができあがる。明るいオレンジ色の表紙。今回のアンケートは「好きなスポーツ・嫌いなスポーツ」。詩人とスポーツ。なかなかおもしろい読み物になっていると思う。執筆者は古内美也子・荻悦子・原口哲也・北野英昭・中村剛彦とわたし。北野英昭が数年ぶりに詩を書いている。原口哲也の『饗宴』翻訳は『YORIAI』と改題して続行中。

スーパーマーケットに黄ニラがあったので迷わず買う。浅い黄緑色が春らしい。ウーシャンジースー(鶏肉と黄ニラ、もやし炒め)。五香粉を使う。太田胃散みたいな匂いがする。太田胃散大好き。


2月11日(土)

ビデオで『亀は意外と速く泳ぐ』を観る。上野樹里主演、監督は三木聡。「脱力系奥様スパイ」の話。「ゆるくて可愛い、何か変」がキャッチフレーズで、これは言えてると思う。あまりにも退屈な生活に飽きて、スパイになる片倉スズメ。でもミッションは平凡に暮らすことで、街には他にも平凡に暮らすスパイがいる。

楽しいのはカラフルな色。スズメの家や服、カメが鮮やか。ほんとうはすごい腕を持っているのに、そこそこのラーメンを作り続けるラーメン屋という設定がおもしろい。つらいことだろうね。キャストもなかなか豪華だし、一応コメディなのだが、あまり笑えなかった。監督は『笑う犬の生活』や『トリビアの泉』を手掛けたひとだそう。


2月9日(木)

昨日の東京新聞夕刊で井坂洋子さんが拙詩集を採りあげてくださった。渡辺洋さんがFAXを送ってくださったので、すぐに読むことができた。ありがたいことです。掲載紙が今朝届く。一緒に論じられているのは北爪満喜さんの詩集『青い影 緑の光』(ふらんす堂)。デジタルカメラで撮った写真が美しく、「ワタシ」という表記が不思議な存在感を醸している。北爪さんとは同い年である。

井坂さんは50歳は折り返し点であるとおっしゃっている。ほとんど詩を書かなかった10年をわたしはいつも差し引いて考えることにしているから、あと10年はだいじょうぶだと思う。紹介されていた道浦母都子さんの歌が胸の底にずしりと落ちた。「生きるとは夢を断つことおもむろにぽつりぽつりと折る傘の骨」。


2月7日(火)

一人のときはお弁当の残りや納豆で済ませてしまう昼ごはん。家族がいるときはそうもいかない。きょうはメキシカン・ライス。これはマジおいしいです。古い雑誌に載っていたもの。お時間のある方はぜひ試してみてください。

材料はむきえび、玉葱、ミックスベジタブル、卵。玉葱のみじん切りを炒め、むきえびを入れて色が変わるまで炒める。そこに水とコンソメ、ケチャップ、タバスコを入れる。水は一人分で100ccくらい。あとは適当。そこにご飯を入れてさっと混ぜ、卵を割り入れて蓋をする。水分がなくなればできあがり。グリンピースが嫌いな方はピーマンでも。ピラフとリゾットの中間みたいなスパイシーなご飯です。

昨年末に届いた小池昌代さんと四元康祐さんの対詩集『詩と生活』(思潮社)を読む。大変なお仕事だったに違いないと思う。


2月6日(月)

『国家の品格』読み終わる。とてもよかった。著者は世界を救うのは日本人であるという。
自然を愛し、自然に跪く心。それは情緒を育み、形を重んじる独自の文化を生み出した。
古来より日本の芸術文化は比類のないものであり、その心性は高貴であった。
だから植民地にされることなく、明治時代までは世界から尊敬のまなざしを浴びていた。

コンパクトにまとめることはとてもできない。上記の文章に興味を持った方はぜひ手にとっていただきたい。
おそらく高度成長期以後、わたしたちは大切なものを忘れてしまい、今もなお迷走しているのだと思う。


月に2回はムサカを作る。合い挽き肉とナス、タマネギとトマト缶。
シナモンの香りがギリシア風かな。


2月3日(金)

話題の藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)を読んでいる。著者は数学者。現代の日本人のありかたに警鐘を鳴らしている。「最も重要なことは論理では説明できない」「重要なことは押しつけよ」。

最近はいじめが多いからと、学校にカウンセラーを置いたりしているけれど、それよりも「卑怯」を教えよと著者は言う。卑怯なことをしてはいけない、人を殺してはいけない。理屈なんてない。問答無用と教えよ。そうだそうだ。


1月31日(火)

『雨期』の編集が終わる。朝からパソコンに向かって夕方やっとプリントアウトも終了した。

パトリシア・コーンウェル『神の手』読了。今回もスカーペッタがあまり輝いていない。検屍官はやっぱりモルグでメスを持っていなくちゃ。マリーノがたくさん出て来たのでまあいいか。でも釈然としないラストでした。続編があるということなのだろう。


1月30日(月)

『ドルチェ』は次の日(28日)に更新されたので、27日号をお読みになった方は少ないかもしれません。22日付けの日経新聞で小池昌代さんが拙詩集を取りあげてくださった。土曜日に『抒情文芸』の川瀬理香子さんからお手紙をいただいてそのことを知り、今朝書肆山田の大泉さんにお知らせしたら、FAXを送ってくださったのだった。ありがたいことである。

小池さんからもったいないような批評をいただいて恐縮している。書き続けてよかった。心からそう思う。


1月27日(金)

ポエトリージャパン
で『中空前夜』を購入することができます。興味のある方はぜひ。木村ユウさんの『メルマガ・ドルチェ』の文章に共感しました。いい文章です。ぜひお読みください。


1月25日(水)

ようやく『雨期』の原稿を書き終わり、編集作業に入る。いつもそうなのだけれど、詩集を出したあとはしばらくのあいだ詩を書くことができない。空っぽになった状態がずっと続く。ほんとに苦しい。何はともあれ、ここまで来ればだいじょうぶ。

夕食はチキン。時間がなかったので、塩胡椒をすりこみ、オリーブオイルをかけて10分ほどおいたもの(あればハーブも)を、平たい鍋のふたで押しつけながら焼いた。付け合わせに、じゃがいもをラップして電子レンジにかけたものをフライパンの周囲に入れる。カリカリでおいしい。それに超簡単。ふたの力はすごい。。


1月23日(月)

渡辺洋さんがご自身のHPで『中空前夜』の感想を書いてくださいました。ありがとうございます。これからわたしの詩がどこに行くのか、まったくわかりませんが、渡辺さんが予想してくださった二つのコースの、後者を選ぶことになるだろうと思います。

布村浩一さんが拙詩集の批評を連載してくださるとのこと。どんな批評も謙虚に受けとめるつもりでおります。


1月21日(土)

『雪沼とその周辺』読み終える。やはり最初の短篇がよかった。全体に作りすぎている印象。伏線がいくつかあって、最後に解き明かされるというパターンのものは特に、うまさだけが際立ってみえてしまう。

「イラクサの庭」という作品がそれ。「小留知先生」と「イラクサ」の種明かしは前半で、「氷砂糖」と「コリザ」はラストで。すばらしい作品なのに、何だかいらだちながら読んでいることに気づいた。

『デイアフター・トゥモロー』をビデオで観る。監督は『インデペンデス・デイ』のローランド・エメリッヒ。地球温暖化の影響で世界が氷河期に入り、パニックになったニューヨークを描く。人々は赤道めざして進み、凍死してしまう。残ることを選んだ者は公立図書館にこもり、本を燃やす。

アメリカでなくては作れないパニック映画だと思うが、ロシアでは−31℃というニュースを見て、絵空事ではないと思った。


1月19日(木)

堀江敏幸の短篇集『雪沼とその周辺』(新潮社)を読んでいる。端正な文章を書く作家である。「スタンス・ドット」はボーリング場のオーナーの話。その日で営業をやめるという地方の小さなボーリング場。オーナーは妻に先立たれ補聴器をつけて、経営を続けてきた。そこに若い男女がトイレを借りにやってきて、彼らのゲームを見ながら昔のことを思い出すという短篇。

午前十一時から営業をはじめているのに、客はひとりもあらわれなかった。木曜日はいつもこんな調子だからべつに驚きはしなかったが、夜の九時をまわったところで見切りをつけて、壁面照明の電源をすべて落とした。


冒頭部分。さりげなく無駄がない。いい作品であるということがわかる。1964年生まれの作家が人生の幕を引こうとしている男を描いて、みごとに成功していると思う。


1月15日(日)



ちょっとごちそう。食べている途中に撮ったので、崩れてますが。
エビとブロッコリーの炒め物。レシピにはコンデンスミルクを入れるとあったけれど、
コーヒー用のミルクで代用した。マイルドな味です。エビ大好き。
あとはスモークサーモン(紫タマネギとケッパー添え)。
スティック野菜(アンチョビ・ソース添え)。

山本文緒の『プラナリア』を読み終える。なかなかよかった。
角田光代と共通する世界を描いているが、このひとのほうが地に足が着いている感じ。
最後の「あいあるあした」はわけありの居酒屋店主の話。『居酒屋女房』みたい。
登場人物も魅力的だし、悪くない。ドラマにするならと、配役を考えてみた。
無口な店主には寺島進。「交渉人・真下正義」などに出ている、
ちょっと堅気じゃない雰囲気の俳優さん。最近売れてるようですね。
そこにふらっとやってきて居ついてしまう女。
うーん、イメージは若いときの田中裕子なんだけど。


1月13日(金)

残りの発送を終え、『雨期』46号の校正ゲラを執筆者に送る。今週はずっと「短篇通信」を書いていて、そのために本を読み返している。『ほとんど記憶のない女』と『ルーガ』、『一人の男が飛行機から飛び降りる』。

反応が少しずつ来ている。ハガキは観念してすぐに読むけれど、封筒はあけるのが怖い。まあ、よくないと思ったひとは手紙などくれないけれど。お礼だけというのも淋しい。やっぱりだめということなのでしょうね。

鈴木志郎康さん、林心平さん、田口三舩さんが『中空前夜』の感想を書いてくださいました。ありがとうございます。

札幌在住の林さんがヤーコンはたいてい砂糖抜きできんぴらにすると教えてくれた。早速作ってみる。箸休めにちょうどいい一皿になりました。


1月8日(日)

『宇宙戦争』をビデオで観る。監督はスティ−ヴン・スピルバーグ。トム・クルーズとダコタ・ファニングが逃げる演技は迫真ものだと思う。でも異星人と地中に埋まっていた「3本足の物体」がオモチャみたい。ほとんど『スターウォーズ』。高度な文明を持っているという設定なのにリアリティに欠ける。

ヤーコンという野菜を食べる。某料理番組で紹介していた。見た目はサツマイモ、食感はナガイモ、味は梨。甘いです。皮を剥いて生で食べるのかよいと思う。


1月7日(土)

昨日ラジオから流れる「ハッピーバースディ」という曲にはっとして「現在のオンエア曲」を調べたら、歌っているのはゴーイング・アンダーグラウンドというグループだった。埼玉県桶川市出身の5人組。

以前にも車のなかで聴いて「これは!」と思った。パチパチと弾けるような明るいサウンド。BUMP OF CHICKENの音楽が影としたら、彼らは光。青春の甘酸っぱさがあふれている。

青臭いといえばそうかもしれない。でもわたしはこういうのに弱い。音楽の好みに関しては高校生の頃と変わっていないみたいだ。スーパーマーケットに1枚だけあったシングルCD「スタンド・バイ・ミー」を買い、やっぱり好きだわと思った。


1月4日(水)

戸籍謄本を取るために杉並区役所のある阿佐谷へ。荻窪で食事をして吉祥寺で買い物。モノを見るのは疲れる。買い物は苦手。車中でコーンウェルの『神の手』上巻を読み終える。

やっと詩集を発送する。1便は30冊。ずいぶん遅くなってしまった。何度も読み返した。まだまだ力が足りないと思う。


1月3日(火)

テレビで「南総里見八犬伝」を見る。昔、NHKの番組に「新八犬伝」という人形劇があって、毎日楽しみだった。調べてみたら1973年から75年に放送されたというから、当時わたしは高校生である。

辻村ジュサブローの人形が美しく、坂本九の語りが楽しく、何よりもストーリーがよかった。ただ放送時間が短いので大筋がわからないまま、「玉梓が怨霊〜」とか「さもしい浪人、網乾左母二郎(あぼしさもじろう)」が登場する度にはらはらしていただけのような気がする。

今回のドラマでやっと全体が理解できた。ワダエミさんが衣装を担当しているためか『グリーン・ディスティニー』を思わせるシーンが多かったと思う。遊女船虫を演じるともさかりえは声のよい女優さんだと思った。


1月2日(月)

本年もよろしくお願い申しあげます。今年もたくさんの本に出会えることを願っています。みなさんからの情報をお待ちしています。

昨日田舎から帰宅した。やはり自分の家でのいつもの生活がいちばんよいです。車中でパトリシア・コーンウェルの『神の手』(相原真理子訳)を読む。